歴史の世界

「春秋戦国時代/東周」シリーズを書く

これから春秋戦国時代/東周シリーズを書く。「中国_春秋戦国時代/東周」カテゴリーに保存する。

春秋戦国時代/東周とは

春秋戦国時代」とは中国史における「西周」の時代の後、「秦代」の前を指す。春秋戦国時代は「春秋時代」と「戦国時代」に大きく分けられる。「春秋」は諸侯国の一つ魯国の年次の記録書*1から取り、。「戦国」は戦国時代に遊説の士たちが各国の諸侯・王に説いた献策を集めたもの*2から取られている。

内容や時代区分については別の記事で書こう。

この時代には まだ周王朝は存続していたが、もはや かつての支配領域を治める力は皆無の状態で なんとか生き延びていた状態だった。この時代の周王朝の王都は洛邑(洛陽)にあり、西周の王都・鎬京の東にあるため、「東周」と呼ばれるようになった。これと区別するために、その前の周王朝を「西周」と呼ぶ。中国史における時代区分として「東周」を使用することはほとんど無い。

このカテゴリーで書くこと

  • 群雄割拠。歴史を動かした国や傑物について。彼らを中心にして歴史の流れを書く。

  • 周王朝。上から比べれば些末なことだが、いちおう書いてみようか。

  • 諸子百家孔子孫子老子韓非子などに触れたい。中国史の中でいちばん貴重なのは実はこの部分かもしれない、と個人的には思っている。

(追記:諸子百家は「諸子百家」というカテゴリーを作ってそちらに保管している。)

春秋戦国 (歴史新書)

春秋戦国 (歴史新書)



*1:史書と言われるが、年表のようなもの

*2:これも歴史書と言われることもあるが、断片的なものだ

【はてなブログ】markdownモードで、画像にリンクを貼る いちばん簡単な方法

「画像にリンクを貼る」とは「画像をクリックすればジャンプさせたいリンク先にジャンプするように設定する」ということ。いちおう書いておく。

「画像にリンクを貼る」のはmarkdownモードだったら、markdown記法で書くのが当然だろうと思うだろうが、我らド素人には面倒くさいシロモノだ。htmlはもっと面倒くさい。

これらに比べて、これから紹介する方法はド素人が見ても単純明快だ。

markdownやらhtmlやら、一個の記法に縛られずに、より簡単な方法を選択してストレスフリーのライティングにしたい。

ライティングの玄人に以下の方法を鼻で笑われるかもしれないが、素人の言ってることなので勘弁してください。

参考にしたウェブページ

hatebu-memo.scriptlife.jp

hatenadiary.g.hatena.ne.jp

材料

  • 画像のurl
  • リンク先のurl

やり方

以下は はてなブログmarkdownモードの話。他は知らない。

画像のurlの取得

はてなブログで画像を貼り付ける場合、ブログ記事編集画面のサイドバーの「写真を投稿」の機能を使ってアップロードして、そこからブログ記事に貼り付ける。

そうすると《 [f:id:~] 》のような表記が現れるが、この文字列を使ってリンクを貼り付けることは どうやってもできない。

結局のところ、投稿した画像のurlが必要になる。

そのurlを取得する いちばん簡単な方法は以下の通り。

  • まず、記事編集テキストエリアに《 [f:id:~] 》を表記させる(いつものように画像を貼り付ける作業をする)。
  • 次に、編集画面からプレビュー画面に移動する。すると投稿した画像が表示されている。これを右クリックすると画像のurlが取得できる。
  • 最後に、《 [f:id:~] 》の表記は不必要になるので、画像にリンクが ちゃんと貼られていることを確認できたら削除する。

画像にリンクを貼り付けるやり方

  • まず、画像のurlをコピーする。

  • 次に、コピーしたurlを記事編集画面に直接 貼り付ける(ペーストする。右クリックで「貼り付け」でも何でもいい)。

  • すると以下のような文字列が表記される。

[(画像のurl):image=(画像のurl)]

(これは はてな記法の中のhttp記法というものらしいが、名前は覚える必要は無い。)

「[](半角)」の中に2つのurl(2つは同じもの)と、その間に「:(半角)image=」を挿入する。

(この説明で分かる人は少ないと思うが、実際にやってみてば分かると思う。コピーしたurlを直接ペースト。)

  • この1つ目のurlをリンク先のurlに差し替える。以下のような感じ。
[(リンク先のurl):image=(画像のurl)]
  • プレビュー画面で意図したように作動するか確認する。

  • 最後に、サイドバーから貼り付けた《 [f:id:~] 》の表記は不必要になるので、画像にリンクが ちゃんと貼られていることを確認できたら削除する。

  • これで終わり。

一例

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/r/rekisi2100/20170522/20170522154451.jpg

上はただ貼り付けただけ。リンク先は画像の元url。

https://rekishinosekai.hatenablog.com/archive

上は画像に「歴史の世界の記事一覧のページ」のリンクを貼り付けたもの。




「中国文明」カテゴリーの主要な参考図書およびウェブサイト(西周王朝まで)

中国文明」の下限が何時までなのか知らないが、ここでは(あくまで便宜的に)西周までとする。

次からのカテゴリーは「春秋戦国時代/東周」とする。

さて、本題に入ろう。

十数年前の本ばかりだが、あまり需要がないのだろう。

いっぽう、中国の先史/古代史は現代の中国共産党政府が専門家を動員して歴史研究をさせていて、発掘も進んでいる。後述する佐藤信弥氏の『中国古代史研究の最前線』の類書がいくつも出てもいいようなものだが、売れないのだろうか。

参考文献の古さはどうしようもない。中文をGoogle翻訳してみたが、理解できなかった。日本人研究者の数年前の論文(?)が幾つかPDFでアップされているのは有難かった。

世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003

中国史〈1〉先史~後漢 (世界歴史大系)

中国史〈1〉先史~後漢 (世界歴史大系)

一貫して利用できた参考図書。

有名な研究者が書いているので安心できる。

中国の考古学/同成社/1999

中国の考古学 (世界の考古学)

中国の考古学 (世界の考古学)

土器の話が多め。考古学なので当たり前だが。

土器の話だけでは眠くなってしまう私のような人は、別の参考図書と読み比べて理解するのが吉。

参考にはなると思う。

宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005

神話から歴史へ(神話時代 夏王朝)

神話から歴史へ(神話時代 夏王朝)

先史の本なのに土器の話を延々とするような本ではなくて本当に助かった。

ちょっとマルクス史観(?)ぽい記述があったが、そこらへんはスルーした(つもり。だいたいマルクス史観自体がよくわかっていない)。

落合淳思/殷/中公新書/2015

殷 - 中国史最古の王朝 (中公新書)

殷 - 中国史最古の王朝 (中公新書)

上の参考図書たちと比べるとかなり新しい本。

甲骨文字の資料を中心にして、『史記』のような伝世文献を批判的に扱って歴史を組み立てる方法をとっている。

著者独自の見解もあるので、素人として彼の説明を信じて良いものかどうか迷うところだが、とりあえず自分のカンと理解力で判断するしかない。

伝世文献よりは同時代資料である甲骨文字のほうが信頼が置けると思うので、必読の書だとは思う。

佐藤信弥/周/中公新書/2016

上の本が甲骨文字ならこちらは「金文」。ただし、伝世資料の信頼性が殷代よりも上がっているようで、より詳しい歴史が描かれている。

個人的に納得いかない部分があったので、他の参考図書やネット上のPDF文献で補った。

上の落合氏の紹介でこの本ができたらしい。

谷秀樹/西周代陝東戦略考(pdf

魅力的な文献だが、佐藤氏の本をベースに歴史の流れを書いていたため、この文献の利用は少ない。

谷氏の西周に関する本が出たら読んでみたい。

佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社新書/2018

去年出たばかりの「新」書。

中国の古代研究を紹介することが主目的の本だが、中国の研究が伝世文献をバイブルのように信じ込んでいる癖があることをふまえて書いているので、信頼していいと思う。



中国文明:西周王朝⑨ 後半期Ⅱ その2 衰退から滅亡へ

宣王の時代

金文によれば、宣王は南方の勢力に貢納を要求したという(これは先々代の夷王の頃から要求していた。前回の記事参照)。そしてこれは蛮夷の反乱を引き起こした。また、この時代の後半には犬戎が再び反乱を頻発するようになる*1

王の親征に対しては佐藤氏は以下のように書いている。

厲王・宣王は前節までに見たように親征を行っていたわけであるが、その親征も先の〈晋侯蘇鐘〉で晋侯が厲王に従って出征していたように、晋侯のような諸侯や、武公のような権臣の軍事力をあてこんだものであったかもしれない。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/p134

前回の記事で、周直属軍が反乱軍に破れて弱体化を露わにしたことを書いたが、宣王は直属軍を強化したというような事実は無いようだ。

宣王は西周を中興したと言われているが、『史記』などの伝世文献には王の暴虐あるいは暗愚な所業が書かれているという。実態はどうだったのか?

結局のところ、宣王は讃えられるような英主とは言えないようだ。どうしても「中興の主」と言いたいのなら、断続的に起こる戦乱の中で在位46年を過ごし天寿を全うできたことを称えるべきだろうか。ただしこれも他力本願だったように思われるが。

権臣とは

権臣とは「権勢・権力をもった臣下。」(権臣(けんしん)の意味 - デジタル大辞泉(小学館)/goo国語辞書

厲王は王畿の外の臣下を重用してクーデターを招いたが、宣王は王畿の臣下を重用した。さらに後半期の前半にあった「執政団」が宣王の頃には存在が確認されなくなった。佐藤氏はこの現象を「西周前半期の体制への回帰と見ることができる」としているが(p123)、おそらく単純に王の権勢が微々たるものになってしまったというのが実態だろう。次代の王(幽王)で周王朝は滅びるのだから。

異民族について

周の領域の外には、周王朝に服さない勢力と貢納をして形式上は従属している勢力があった。これらを周側は夷とか狄などと呼んでいる。私は蛮夷という言葉を使っている。

しかしこれらの勢力は周王国と共通の文化・レベルに属しているとのことだ。金文によれば、彼らの軍の構成は周側と同じような戦車(チャリオット)を主体として、戦術も変わりはなかったという。

だから周側が異民族を野蛮未開と決めつけてもそれを鵜呑みにしてはいけない、と竹内康浩氏は書いている(世界歴史大系 中国史1/山川出版社/2003/p191)。

また領域外とは別に、内側の山岳や叢沢に犬戎が居住していたことは前回書いた。

幽王と西周滅亡

幽王は西周王朝最後の王となった。

西周王朝が滅亡した原因は、幽王に起因するものとしないものに分かれる。

起因しないものとしては、周の直属軍の弱体化と畿内の大貴族と諸侯国の増長がある。幽王以前からの断続的な戦乱の中で周王室は大貴族と諸侯国に頼らなければならなかった。そして周王室の権威権力はますます先細りして滅亡の一途をたどった。

起因するものとしては、幽王の後継者騒動だ。『史記』周本紀にある「傾国の美女・褒姒」のストーリーは作り話のようだが、後継者騒動は史実とされている。

以前に立てた太子を廃して伯盤(伯服)を立てた。廃太子された宜臼は母・申后(同じく廃后された)の実家の申国へ亡命した。

史記』周本紀によれば、申侯が怒って犬戎と繒国と組んで幽王らを攻め滅ぼした。清華大学蔵『繋年』によれば、申侯との対立とは別に、幽王らは犬戎に攻め滅ぼされた。

いずれにしろ、幽王は攻め滅ぼされた。この時点で、一般的には、西周が滅亡したということになっている。そして、『史記』周本紀の作り話にあるような理由で軍勢が集まらなかったのではなく、周王室の直属軍が犬戎に一蹴されるほどの勢力でしかなかったということだろう。

さらに、西周から東周へ代わる時期には、貴族や諸侯国が違う王を擁立して戦闘を繰り返していた。西周王朝のエネルギーは全て彼らに吸い取られていることが分かるだろう。

西周・東周交代期の話は別の機会に書こう。

「理想化された古代王朝」

「理想化された古代王朝」は佐藤信弥『周』の副題だが、以下は竹内氏が書いたものだ。

後世、周は、「文」とか「礼」とかで憧憬の対象となるけれども、むしろ周が得意であったのは実は「武」の面であった。殷を倒しえたのも、その後に敵対勢力と戦いつづけえたのも、周の「武」の優秀性のゆえであった。しかし「武」によっては支配を貫徹することはできなかった。『史記』周本紀は、儒家によってすでに理想化された西周像のみを描こうと努め、こうした周の「武」の面を極力捨象してしまった。その結果、創業と滅亡の際以外には記事の乏しい、およそ存在感の薄い歴史だけが西周王朝像として残されることとなったのである。

出典:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p198(竹内康浩氏の筆)

西周が理想化されたがゆえにその歴史が薄っぺらいものになってしまったというのは なんとも皮肉な話だ。

しかし竹内氏は《「武」によっては支配を貫徹することはできなかった》と書いているが、西周も祭祀儀礼に力を入れていたことは証明されている。西周滅亡以降、東周が弱肉強食の世界で細々と生きながらえることができたのは「祭祀王」としての権威が幾らか残っていたためだろう。



*1:「宣王30年代に入ると再び玁狁の蠢動が活発化する」谷秀樹/西周代陝東戦略考(pdf参照

中国文明:西周王朝⑧ 後半期Ⅱ その1 厲王の時代/「共和」の時代

今回も佐藤信弥『周』(中公新書/2016)を中心にして書いていく。

今回は厲王と「共和」について。

厲王の時代

厲王は、『史記』などの伝世文献では、殷の紂王と並ぶ暴君とされている。

wikipediaに『史記』周本紀の「厲王像」が簡単にまとめられているので引用しよう。

厲王の在位期間は佞臣の栄夷公を重用し、賢臣であった周公や召公らの諫言を退けて暴政を行ったとされ、民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる。これにより周の国勢は凋落し、朝政は腐敗を極めた。[中略]

民衆の不満が募り、紀元前842年には民衆が王宮に侵入し、厲王を殺害しようとする国人暴動が発生した。事件に際して厲王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れた。

出典:レイ王 (周) - Wikipedia

佐藤信弥氏の見立て

厲王についての佐藤信弥氏の見立てを以下に引用する。

第2章で述べたように、第五代穆王以後の諸王は自ら出生することはなくなっていたが、厲王は親征を繰り返すことで、軍事王としての性質を取り戻そうとしたのである。また、第3章で触れたように、ファルケンハウゼンによれば、厲王は「西周後期礼制改革」を決定づけた王でもあった。周王としては例外的に長銘の金文を残している天と合わせて考えると、おそらくは軍事王としてのみならず、祭祀王としての性質も取り戻そうとしていた。

伝世文献に伝えられる暴虐に加え、軍事面と祭祀面、すなわち「戎」と「祀」の両面で西周後半期の諸王とは大いに異なる姿勢を示したことが、臣下の不安と反発を招いたのである。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p114

この記述には個人的に やや疑問が残る。

「軍事王としての性質を取り戻そうとしたのである」の根拠の親征は南国服子と夙夷だけしか示しておらず、その他にも親征したのかどうかも語っていない。2例だけでそのようなことが言えるのだろうか? 

佐藤氏は親政の件数ではなく、厲王が遺した銘文に軍事王になる意思を感じ取ったのだろう。厲王は南国服子の乱を鎮圧した後に宗周鐘という青銅器(㝬鐘または胡鐘とも呼ばれる*1 )には「上帝や数多の神霊が私めを守ってくれているので、我が謀(はかりごと)は成功を収めて敵うものがないのである」と書いている。ただしこのような銘文の例はこれだけだ。

度重なる戦闘も、厲王が仕掛けたのではなく、反乱と犬戎の侵攻にたいする防衛なので、厲王が西周初期の「軍事王」としての威厳を取り戻そうとした、という佐藤氏の見立ては無理があると思う(西周初期の王は領土拡大のための軍事行動だった)。

また、「第五代穆王以後の諸王は自ら出生することはなくなっていた」とあるが、先王の夷王が南夷(淮夷)征伐を行っていることを谷秀樹氏が紹介している(無㠱簋の金文に「王征南夷」と書いてある)*2(これを親征とするのが間違いなのだろうか?)。

祭祀王についても「西周後期礼制改革」を決定づけた王としているが、第3章で触れられているファルケンハウゼンは「西周後期礼制改革」第五王の穆王の頃から始まり、厲王の時代に完成したとしている(p83-84)。つまり厲王は歴代王の改革路線を継承し完成させたのであって、「諸王とは大いに異なる姿勢を示した」ことにはならない。

「伝世文献に伝えられる暴虐に加え」と書いているように、佐藤氏は上のwikipediaの引用にあるような厲王像を史実と考えている。これは、「厲王」という名前(諡・おくりな)を根拠としているのだろう。「厲」の字は「ひどい」を意味する。こんな諡をつけられたからには厲王はひどい王だったのだろう、と佐藤氏は考えているのかもしれない。

谷秀樹氏の見立て

一番注目しているのは、谷秀樹氏の見立てだ。(谷秀樹/西周代陝東戦略考(pdf) )

まず、諸侯国と周領域外の蛮夷が序列関係を持っていて(江戸期の薩摩藩琉球王国のようなものか)、それを前提に中央政府は夷王の代から諸侯国に貢納を要求した。つまり諸侯国に蛮夷から貢納の徴収の義務を課した。

これに対しての反発として、厲王の初年に南国服子の反乱があった。服子(諸侯国)は「南夷」、「東夷」の26邦を従えていた。また、晩期には鄂侯馭方が「南淮夷」と「東夷」を従えて反乱を起こした。これに対して厲王は、周直属軍の「西六師」と「殷八師」を派遣したが、あえなく敗退してしまった。そして今度は《王畿内の諸侯大族の井武公の属臣である禹を主帥とする一軍を派遣し、これに「西六師」と「殷八師」を統帥させる事によって、漸く鄂侯反乱を鎮定したのである》。

これによって、周直属軍の弱体化と王畿内の諸侯大族の強大化が露わとなり、クーデターの下地となった。

クーデタに関わるところを引用しよう。

王は陝東出自者を重用して恩倖的主従関係の形成を進める一方、井氏の所領転賜の事例に見られるように内諸侯大族に対しては冷遇的措置をとっていたようであり、他方征伐時には南淮夷や鄂侯反乱の鎮定時に見られる ように、内諸侯大族の軍事力に依拠していた。おそらくは、このような王朝内人事面における不満や軍事的負担の昂進が厲王に対する敵意の温床となっていたものであろう。そうして、鄂侯反乱時に王朝直轄軍が露呈した脆弱さがクーデタ決起の契機になったものと思われる。

出典:谷氏

「内諸侯大族」にしてみれば、厲王が部外者を重用していることに快く思うはずがなく、さらには戦争という重労働を自分たちに押し付けられてクーデタ決行に至った、というのが谷氏の見立てだ。

仮にこれが史実だとすると「厲王」の諡は内諸侯大族を忖度して名付けられたのだろう。

その他の研究者の見立て

竹内康浩氏(世界歴史大系 中国史1/山川出版社/2003/p190-192)は、『史記』周本紀のストーリーに加えて、厲王代に戦争が多かったことが厲王追放の原因とした。

吉本道雅氏(中国史 上/昭和堂/2016/p39)は、谷氏に近い*3

竹内・吉本両氏が共通して原因の一部として名前を出した集団が犬戎だ。金文では玁狁(けんいん)などと呼ばれている勢力。

厲王期には、玁狁(犬戎)の侵攻も見えはじめる。戎や狄は春秋期に至るまで、中国内地の山岳や叢沢に居住しており、周人がこうした地域に開発を進めたため、衝突が発生したのであろう。

出典:吉本氏

竹内氏は犬戎の侵攻の動機は周の弱体化にあるとしている。

犬戎については、周滅亡の話をする時に もっと詳しく書こう。

「共和」の時代

「共和」の時代については、wikipediaに簡単にまとめられているので、これを貼り付けよう。

共和(きょうわ)は、周の厲王が逃亡してから宣王が即位するまでの期間を指す。この共和元年から『史記』の十二諸侯年表が始まっている(すなわち、史記の中では最古の年代の記述となる)。西暦では紀元前841年から紀元前828年までとされている。

史記』周本紀によれば、周の厲王が国人の暴動により出奔を余儀なくされて王が不在となったとき、周定公(中国語版)、召穆公(中国語版)の二人が政務を執り、「共和」と称したという。また『竹書紀年』によると、厲王の亡命後に「共伯和」(共を封地或いは諡号とし伯の爵位を持つ和という名前の人物)が政務を執ったともいう。金文には「伯龢父」「師龢父」の呼称で共伯和の存在が見えるものがあり[1]、周公・召公の共和よりも共伯和の共和のほうが実態に近いと考えられている。共伯和については、時期から推測して衛の武公であるとする説もある。

この時期には、王がおらず、諸侯の合議で国政が運営されたため、近世に入り、日本人はこの語『共和』を、同様に王がおらず、貴族・議員等の有力者の合議で国政を運営する欧州の「res publica」を指す語としても使用した。こうして意味が拡張された『共和』という語は、漢字文化圏全体に広まり一般化し、現在では更に意味が拡張・普遍化され、地域や時代を問わず、世襲権力者がいない政体を指して共和制と呼ぶ。

[1] 「元年師兌簋」「三年師兌簋」など

出典:共和 (周) - Wikipedia

共伯和が王位を簒奪したという説もあるが、厲王が亡くなった後に王太子に王位を継がせたことを考えれば、それは考えがたい。

この王太子が宣王だが、宣王の話は次回に書こう。



*1:㝬は厲王の名前で胡は㝬の代用

*2:谷秀樹/西周代陝東戦略考(pdf

*3:同ページで「厲王初年には、鄂侯御方が東夷・南夷をひきいて反乱し…」と書いてあるが、これは上の南国服子の乱の間違いのようだ

中国文明:西周王朝⑦ 後半期Ⅰ その2 貴族から奴隷まで/影の薄い王たち

前回に貴族制社会のことに触れたので、ここでは、西周後半期の身分/階級について書いていこう。

身分/階級:貴族から奴隷まで

当時の社会の構成については、王とその一族を除けば、(1)統治階級に属する貴族、(2)郷に住む国人、(3)田を耕す庶民、(4)各種の任務に使役される隷属民、のだいたい4階級に分けられるであろう。この(1)から(3)までおよび王族については、おそらくは氏族と称される集団を単位としていたものと考えられる。嫡長子制を基本として、大宗と小宗とに分かれつつも共通の祖先に発する一族としての団結を保つ宗法制が、西周時代の王室・諸侯のあり方の基本理念であった。「族」という語は金文にも現れ、たとえば「なんじの族を以(ひき)ゐて父の征に従へ」(班簋)の例では、族とはまさに一族郎党というに近い内容とみられる。それは生活上の基盤でもあれば、有事の際には軍の単位でもあった。その氏族の中に多くの家族をかかえていたということになる。

出典:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p204-205(竹内康浩氏の筆)

(1)から(3)までおよび王族は氏族の単位で行動していた。中国の氏族は「宗族」と呼ばれ、評論家の石平氏によれば、現在も個人に対する宗族の影響は大きいそうだ。

(2)の国人は西周後期になってから出来た集団らしい。別の本から引用する。

西周後期より、内紛や相互の紛争に陥っていた中原諸国は、混乱に対処するために都城を強化し、兵役負担者を集住させた。[中略] 都城に軍事力が集中した結果、春秋期には「國」は都城の意味となり、都城に住み特権的に兵役を担う人々は「国人」と称された。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p41

上の本によれば、春秋期の国人は庶人・工商の上の「大夫下層・士に相当する」とある。春秋期には大夫・士のような階層は無かったようだが*1おそらく国人は貴族の傍系(貴族階級からあぶれてしまった人々)によって構成されたのだろう。

(3)は「田を耕す庶民」と書いてあるが、「工商」の人々も庶民だろう。

さて、(4)の話。引用の続き。

(4)の隷属民についてだけは、つねに氏族を単位としていたとは考えがたい。当時、奴隷に当たるかと思われるものは鬲(れき)(人鬲・じんれき)である。功績をあげた臣下にたいして君主がそれらを与えている例が、金文にはめずらしくない。大盂鼎という器の銘文には、王から盂への賜与のなかに「人鬲の馭より庶人に至る」までの者659夫(人)が含まれており、すべてをいっしょにして夫(人)で数えている。なお、この銘文によれば、人鬲と称されるなかにもいくつかの種類があるらしい。この鬲(人鬲)以外にも、隷属民として王から賜与される人間には、臣、妾、工(百工)、僕などがある。そのうち臣については、「臣五家」(不𡢁簋)、「臣十家」(令簋)のように「家」を単位とする事が多く、臣は個人を単位とせず、「家」ぐるみで取り扱われたのであろう。[中略] これらの人々がどのように供給されたのかはよくわからないながら、戦争捕虜の場合もあれば、代々身分的に固定していた場合もあったであろう。[中略] 工(百工)がおそらく職工であろうと推されるほかは、具体的にどれがどういう職務をこなしていたのかは不明である。[中略] こうした奴隷たちは、周王が所有していただけではなく、貴族もまた所有し、さらに貴族に仕える臣下たちも所有していた。

出典:竹内氏/p205-206

  • 同ページには「大夫、士という階層は金文では確認されない」とある。

殷代では戦争捕虜は祭祀の犠牲にするか王族・貴族の家内奴隷にするしか「使いみち」がなかったが*2西周代より各種の活用が見られるようになった。これは貴族制社会(あるいは封建制社会)が出現したためなのだろう。つまり、貴族制社会になって奴隷の需要が増えたのだと思われる。

影の薄い王たち

「後半期Ⅰ」という時代は佐藤信弥『周』(中公新書/2016)の時代区分だが、この時期の王は共王・懿王・孝王・夷王の4人の王となる。『史記』などの伝世文献ではこの諸王の記述が少なく、金文でも共王以外は実在が確認できる程度の頻出度だ。

佐藤氏は、「冊命儀礼」(前回の記事参照)などの統治システムによって、この時期は安定していたと書いている。

しかし、冊命儀礼は、前回書いた通り、周王室が王畿内諸侯たちに権力を切り売りすることである。当然のこととして、周王室の権力は無くなり、王畿内諸侯たちの権力が強まる。

この時期の王たちに対する言及の少なさは、伝世文献であれ金文であれ、周王室の権力の無さが原因であると言うことができる。



*1:竹内氏によれば、金文では、大夫・士のような階層は確認されていない

*2:落合淳思/殷/中公新書/2015/p105

中国文明:西周王朝⑥ 後半期Ⅰ その1 貴族制社会の出現/冊命儀礼

この記事から後半に入る。引き続き佐藤信弥『周』(中公新書/2016)に頼って書いていく。

統治体制の大転換/貴族制社会の出現

前回書いたように、昭王の南征失敗を機に、昭王の次代の穆王は領土拡張政策は放棄した。

高島敏夫は、……穆王はそれまで周王が有していた軍事王としての性質を放棄し、……祭祀儀礼をさかんに催すことで祭祀王としての性格を強め、宗教的な権威の強化によって統治体制の立て直しをはかったとする。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p79

別の引用。

多くの研究者が指摘するように、西周後半期に入ると、それまでの周公・召公ら特定の重臣が政務や指導する体制にかわり、邦君や諸官の長が執政団を形成し、集団で指導する体制となる。

出典:佐藤氏/p97

  • 邦君とは王畿に所領を持つ諸侯のこと。

前半期は、王族と、呂氏などの限られた重臣で政務を仕切っていた。これが後半期に入ると、邦君や諸官の長にそれらの権限を移譲した。執政団とは つまりは官僚組織のことだ。

執政団は王畿の諸侯(邦君)から採用されたようだが、若い頃から一定のキャリアを積む必要があったと推測される(p91-94、p104-106)。

これら執政団の中に多数の「姓」が見られるようになるのは、前半期とは対象的だ。多数の氏族が政権に関わるようになっていった。ただし、姓は違えど祖先は周公だということもあるらしい(つまり分家)。

執政団に入れる資格を持つ邦君たちが おそらく貴族と呼ばれる人たちだ。こうして支配体制は「王族経営」から「貴族制」へと転換された。貴族制社会の出現だ*1

ということで「貴族制社会」は おそらく王畿で出現し、地方へ広まった(つまり地方の諸侯国がそれを真似した)。

冊命儀礼

「冊命儀礼(さくめいぎれい)」は 後半期にとって重要な事柄のようだ。

「冊命儀礼」をごく簡単に説明すると「王が臣下に職務を任命する儀礼」なのだが、これがものすごく仰々しい。任命する場所は過去の周王を祀る廟宮を使うというのも手が込んでいる。

まず王が儀礼の行われる宮廟の一室に移動し、ついで介添え役となる右者(ゆうしゃ)が任命の対象となる受命者を所定の位置に着かせる。そして王の書記官にあたる史官が任命の次第を記した冊書(竹簡に書かれた書)を王に手渡し、更に王が別の史官に任命書を宣読させる。[中略] そして官職や職務の任命と、その官職・職務の象徴となる物品の賜与が行われる。最後に受命者が王に拝礼を行い、任命書を受け取って退出し、その際に、おそらく前回の任命で授けられたであろう玉器の返納が行われる。

出典:佐藤氏/p86-87(一部改変)

この儀礼自体とともに重要なのが、引用にもあるように、「官職や職務の任命と、その官職・職務の象徴となる物品の賜与」だ。任命される側にとっては儀礼よりもこちらのほうが重要だ。

以下の引用では、佐藤氏が吉本道雅氏の検討について紹介している。

職務については、……王畿や都邑の統治、あるいは周王の財産管理に関するものが中心で、冊命儀礼とは、周王が臣下に王朝の統治に関わる権限や周王室の権益を細切れに分与・委託することを指すと言い換えることもできる。

賜与品にも変化があり、「会同型儀礼」[前半期の王主催の儀礼―引用者]ではしばしば参加者への賜与品として用いられた宝貝などにかわり、<頌鼎>[という名の青銅器の銘文]に見える「刺繍で縁を飾った赤黒色の衣・赤色の蔽膝(へいしつ)*2・朱色の佩玉(はいぎょく)*3・鑾鈴(らんれい)*4付きの旗・銅飾を施した轡」のように、官服や車馬具が受命者への賜与品として用いられるようになる。これらは受命者の職務や身分の象徴となるもので、身分や職務内容によって賜与される品目や組み合わせが異なったのではないかと考えられている。[中略]

宝貝などは、……儀礼の参加記念品としての性質があり、「会同型儀礼」の参加者と主催者である周王とのつながりを示すものでもあった。しかし南征の挫折以後、結局周王の宗教的な権威も低下を避けられず、宝貝などよりも、王朝の統治に関わる権限のような、もっと実利的なものを与えなければ、臣下の求心力を保つことが難しくなったのだろう。

出典:佐藤氏/p89-90

周王が「武闘派」だった時代は、宝貝を持っている者はそれを他人に見せて「俺は親分とつながりがあるんだぜ」と スゴむことができたが、武闘派ではない周王ではそれは叶わない。

代わりに、王族が持っていた権益を「細切れに」分け与えることによってなんとか平和を保つことができた。そして権益を分与された官僚たちは身分・職位を服などで表すことによって、周囲から一目で敬意を集めることができ、それに伴って賄賂などの諸々のメリットがついてくるだろう。

さらに、佐藤氏によれば、おそらく周王は王畿内の土地を細分して貴族に領地として与えていたとのことだ(p100)。前半期は征服した土地を与えることができたが、後半期は限られたパイの中から子分どもに所領を与えなければならなくなった。

王としては「俺の分のパイをくれてやるんだから、有り難く思え」なんて思っていたのかもしれないが、それを言ったら返って有り難く思われないので、冊命儀礼のような仰々しいことを行うことで子分たちに有難がらせようとしたのだろう。

冊命儀礼とはそんなものだった。しかし軍事力が全く無くなった東周でさえ あれだけ存続したのだから、「祭祀王」への専念は間違いではなかった、と言えるかもしれない。



*1:「貴族制社会の出現」は、落合淳思『殷』(中公新書/2015/p237)に書いてあった

*2:膝をおおうもの。ひざかけ、まえかけの類。蔽膝(へいしつ)とは - 精選版 日本国語大辞典/コトバンク

*3:古代中国で、天子・貴人が腰に帯びた軟玉製の装身具。佩玉(はいぎょく)とは - デジタル大辞泉/小学館/コトバンク

*4:鈴の類。"鑾鈴" - Google 検索 参照。