今回も佐藤信弥『周』(中公新書/2016)を中心にして書いていく。
今回は厲王と「共和」について。
厲王の時代
厲王は、『史記』などの伝世文献では、殷の紂王と並ぶ暴君とされている。
wikipediaに『史記』周本紀の「厲王像」が簡単にまとめられているので引用しよう。
厲王の在位期間は佞臣の栄夷公を重用し、賢臣であった周公や召公らの諫言を退けて暴政を行ったとされ、民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる。これにより周の国勢は凋落し、朝政は腐敗を極めた。[中略]
民衆の不満が募り、紀元前842年には民衆が王宮に侵入し、厲王を殺害しようとする国人暴動が発生した。事件に際して厲王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れた。
出典:レイ王 (周) - Wikipedia
厲王についての佐藤信弥氏の見立てを以下に引用する。
第2章で述べたように、第五代穆王以後の諸王は自ら出生することはなくなっていたが、厲王は親征を繰り返すことで、軍事王としての性質を取り戻そうとしたのである。また、第3章で触れたように、ファルケンハウゼンによれば、厲王は「西周後期礼制改革」を決定づけた王でもあった。周王としては例外的に長銘の金文を残している天と合わせて考えると、おそらくは軍事王としてのみならず、祭祀王としての性質も取り戻そうとしていた。
伝世文献に伝えられる暴虐に加え、軍事面と祭祀面、すなわち「戎」と「祀」の両面で西周後半期の諸王とは大いに異なる姿勢を示したことが、臣下の不安と反発を招いたのである。
出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p114
この記述には個人的に やや疑問が残る。
「軍事王としての性質を取り戻そうとしたのである」の根拠の親征は南国服子と夙夷だけしか示しておらず、その他にも親征したのかどうかも語っていない。2例だけでそのようなことが言えるのだろうか?
佐藤氏は親政の件数ではなく、厲王が遺した銘文に軍事王になる意思を感じ取ったのだろう。厲王は南国服子の乱を鎮圧した後に宗周鐘という青銅器(㝬鐘または胡鐘とも呼ばれる*1 )には「上帝や数多の神霊が私めを守ってくれているので、我が謀(はかりごと)は成功を収めて敵うものがないのである」と書いている。ただしこのような銘文の例はこれだけだ。
度重なる戦闘も、厲王が仕掛けたのではなく、反乱と犬戎の侵攻にたいする防衛なので、厲王が西周初期の「軍事王」としての威厳を取り戻そうとした、という佐藤氏の見立ては無理があると思う(西周初期の王は領土拡大のための軍事行動だった)。
また、「第五代穆王以後の諸王は自ら出生することはなくなっていた」とあるが、先王の夷王が南夷(淮夷)征伐を行っていることを谷秀樹氏が紹介している(無㠱簋の金文に「王征南夷」と書いてある)*2(これを親征とするのが間違いなのだろうか?)。
祭祀王についても「西周後期礼制改革」を決定づけた王としているが、第3章で触れられているファルケンハウゼンは「西周後期礼制改革」第五王の穆王の頃から始まり、厲王の時代に完成したとしている(p83-84)。つまり厲王は歴代王の改革路線を継承し完成させたのであって、「諸王とは大いに異なる姿勢を示した」ことにはならない。
「伝世文献に伝えられる暴虐に加え」と書いているように、佐藤氏は上のwikipediaの引用にあるような厲王像を史実と考えている。これは、「厲王」という名前(諡・おくりな)を根拠としているのだろう。「厲」の字は「ひどい」を意味する。こんな諡をつけられたからには厲王はひどい王だったのだろう、と佐藤氏は考えているのかもしれない。
谷秀樹氏の見立て
一番注目しているのは、谷秀樹氏の見立てだ。(谷秀樹/西周代陝東戦略考(pdf) )
まず、諸侯国と周領域外の蛮夷が序列関係を持っていて(江戸期の薩摩藩と琉球王国のようなものか)、それを前提に中央政府は夷王の代から諸侯国に貢納を要求した。つまり諸侯国に蛮夷から貢納の徴収の義務を課した。
これに対しての反発として、厲王の初年に南国服子の反乱があった。服子(諸侯国)は「南夷」、「東夷」の26邦を従えていた。また、晩期には鄂侯馭方が「南淮夷」と「東夷」を従えて反乱を起こした。これに対して厲王は、周直属軍の「西六師」と「殷八師」を派遣したが、あえなく敗退してしまった。そして今度は《王畿内の諸侯大族の井武公の属臣である禹を主帥とする一軍を派遣し、これに「西六師」と「殷八師」を統帥させる事によって、漸く鄂侯反乱を鎮定したのである》。
これによって、周直属軍の弱体化と王畿内の諸侯大族の強大化が露わとなり、クーデターの下地となった。
クーデタに関わるところを引用しよう。
王は陝東出自者を重用して恩倖的主従関係の形成を進める一方、井氏の所領転賜の事例に見られるように内諸侯大族に対しては冷遇的措置をとっていたようであり、他方征伐時には南淮夷や鄂侯反乱の鎮定時に見られる
ように、内諸侯大族の軍事力に依拠していた。おそらくは、このような王朝内人事面における不満や軍事的負担の昂進が厲王に対する敵意の温床となっていたものであろう。そうして、鄂侯反乱時に王朝直轄軍が露呈した脆弱さがクーデタ決起の契機になったものと思われる。
出典:谷氏
「内諸侯大族」にしてみれば、厲王が部外者を重用していることに快く思うはずがなく、さらには戦争という重労働を自分たちに押し付けられてクーデタ決行に至った、というのが谷氏の見立てだ。
仮にこれが史実だとすると「厲王」の諡は内諸侯大族を忖度して名付けられたのだろう。
その他の研究者の見立て
竹内康浩氏(世界歴史大系 中国史1/山川出版社/2003/p190-192)は、『史記』周本紀のストーリーに加えて、厲王代に戦争が多かったことが厲王追放の原因とした。
吉本道雅氏(中国史 上/昭和堂/2016/p39)は、谷氏に近い*3。
竹内・吉本両氏が共通して原因の一部として名前を出した集団が犬戎だ。金文では玁狁(けんいん)などと呼ばれている勢力。
厲王期には、玁狁(犬戎)の侵攻も見えはじめる。戎や狄は春秋期に至るまで、中国内地の山岳や叢沢に居住しており、周人がこうした地域に開発を進めたため、衝突が発生したのであろう。
出典:吉本氏
竹内氏は犬戎の侵攻の動機は周の弱体化にあるとしている。
犬戎については、周滅亡の話をする時に もっと詳しく書こう。
「共和」の時代
「共和」の時代については、wikipediaに簡単にまとめられているので、これを貼り付けよう。
共和(きょうわ)は、周の厲王が逃亡してから宣王が即位するまでの期間を指す。この共和元年から『史記』の十二諸侯年表が始まっている(すなわち、史記の中では最古の年代の記述となる)。西暦では紀元前841年から紀元前828年までとされている。
『史記』周本紀によれば、周の厲王が国人の暴動により出奔を余儀なくされて王が不在となったとき、周定公(中国語版)、召穆公(中国語版)の二人が政務を執り、「共和」と称したという。また『竹書紀年』によると、厲王の亡命後に「共伯和」(共を封地或いは諡号とし伯の爵位を持つ和という名前の人物)が政務を執ったともいう。金文には「伯龢父」「師龢父」の呼称で共伯和の存在が見えるものがあり[1]、周公・召公の共和よりも共伯和の共和のほうが実態に近いと考えられている。共伯和については、時期から推測して衛の武公であるとする説もある。
この時期には、王がおらず、諸侯の合議で国政が運営されたため、近世に入り、日本人はこの語『共和』を、同様に王がおらず、貴族・議員等の有力者の合議で国政を運営する欧州の「res publica」を指す語としても使用した。こうして意味が拡張された『共和』という語は、漢字文化圏全体に広まり一般化し、現在では更に意味が拡張・普遍化され、地域や時代を問わず、世襲権力者がいない政体を指して共和制と呼ぶ。
[1] 「元年師兌簋」「三年師兌簋」など
出典:共和 (周) - Wikipedia
- この記事の参考文献は、 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝』(中公新書,2016年)と落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書,2009年)。
共伯和が王位を簒奪したという説もあるが、厲王が亡くなった後に王太子に王位を継がせたことを考えれば、それは考えがたい。
この王太子が宣王だが、宣王の話は次回に書こう。