歴史の世界

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺② エラムまたはイラン(その2)トランス・エラム文明

前回の記事の第三節「スーサと原エラム文明の考古学」で前27世紀頃に原(プロト)エラム文明が崩壊したことを紹介した。

今回はその後継というべきイランの地の交易ネットワーク「トランス・エラム文明」について書く。

トランス・エラム文明

トランス・エラム文明については後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書/2015)の第二章「イラン高原の「ラピスラズリの道」――前三千年紀の交易ネットワーク」に書いてある。

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出典:後藤氏/p113

「トランス・エラム」とは字義通りにはメソポタミアから見て隣接のエラム(スーサ中心の地域)の向こう側(東方)を意味する。そして原エラム文明に代わるイランの地の交易ネットワークを考古学では「トランス・エラム文明」と呼んでいる(p77)。その中心都市はアラッタ。後藤氏はアラッタを現在のイラン国ケルマーン州ジャハダードに比定している(p76)。

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出典:後藤氏/p66

アラッタについて

メソポタミアとインダスのあいだ』では、まず最初にアラッタについて詳しく紹介している。

アラッタについては 記事「初期王朝時代④ シュメール王名表」第二章「ウルク第1王朝」第一項「エンメルカルとルガルバンダと都市アラッタ」でも紹介した。

メソポタミアの伝説の中で『エンメルカルとアラッタの主(しゅ)』と『ルガルバンダ叙事詩』でアラッタについて語られている(詳しくは「エンメルカル<wikipedia」「ルガルバンダ<wikipedia」参照)。

「ルガルバンダ<wikipedia」には以下のような記述がある。

補足:アラッタではウルクにはない瑠璃などの宝玉、貴金属に恵まれ、それらを細工する技術と職人も持ち、それらの製品交易によって経済力も確かなものだったと思われる。エンメルカルはしばしばアラッタの君主と対決してきたが、今回の遠征目的はそんなアラッタの貴金属とその加工技術、そして貿易路の確保と導入によってウルクの発展に貢献することであった。

出典:ルガルバンダ<wikipedia

物語からはそう読み取れるが、後藤氏によれば、アラッタは他地域から以上の物を集め、消費地メソポタミアに輸出しただけだった。アラッタは鉱物に恵まれ技術者も揃えていたから重要な都市だったのではなく、イランの地の交易ネットワークの中心都市だったから重要だったのだ。

主力輸出品、ラピスラズリと「古式」クロライト製品

ラピスラズリ

上の引用で瑠璃というのはラピスラズリの和名。ラピスラズリの語源は「ラピスラズリwikipedia」によれば、「ラピス」が「石」を表し「ラズリ」はアフガニスタンにある鉱山の地名とのこと。ラピスラズリアフガニスタンからイランを経由してメソポタミアに輸入された。

シュメール人はこの貴石を特に珍重したらしい。この石は「霊力に満ちたものと考えていたようだ」(後藤氏/p77)。

「古式」クロライト製品

クロライト=緑泥石は鉱物の一種だが、鉱物をそのまま輸出したのではなくあらゆる製品を作成した。これらの製品を「古式」クロライト製品という(別の時代の「新式」と区別するため)。その多くは容器だが、飾板や分銅などもある。

主たる工房はテペ・ヤヒヤにあった(近傍に露頭で得られる原石があった)。

器表の装飾は浮彫表現で複雑な図文を描いたもので、具象的な図像と幾何学的な地文、それらの中間的な文様もある。具象的なものとして、人物(に似た神)、動物(龍、ライオン、禿鷹、魚、ライオン頭の鳥「アンズー」、サソリ、牡牛など)、棗椰子の木、「神殿文」などがある。浮彫には、赤、緑、黒などの顔料の塗布、貴石の象嵌が遺されている例もある。主文の背景となる地文として、山形、三角形、「筵(むしろ)の目」、煉瓦の目地などに似たものなどがある。これらの主文と地文の組み合わせによって器表に表現された図像は、宗教的意味をもつ非日常的モチーフによるもので、こうした容器が日曜雑器の類とは大きく異なる聖なる器物であったことを示している。

出典:後藤氏/p78-79


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左:テペ・ヤヒヤ出土のクロライト製飾り板(Lamberg-Karlovsky & Tosi 1973, Fig. 136) 右:バハレーン島サール古墳群出土のクロライト製容器(バハレーン国情報相発行のCalendar 1993による)

出典:後藤氏/p84

日本語のウェブサイトだとこの時代のクロライト製品は見つけにくいが、google画像検索で「chlorite vessel」で検索するといろいろ出てくる。

入念に加工された古式のクロライト製容器は、ケルマーン初、トランス・エラム文明のいわば「国際的ヒット商品」で、西はシリア、東はインダス河流域までの広い範囲に流通した「宝器」といえる。それは、一流の都市とその住民だけが持つことのできた宗教的器物であり、そこに描かれた精神世界は、トランス・エラム文明に共通の観念であると同時に、それらが出土するイランの域外、特に自前の神々の体系をもつメソポタミアにおいても、好ましいものとして受容すべき対象であった。精神世界においても、メソポタミアとイランの文明は、互いに影響を及ぼしあいながら発展した隣人であった。

出典:後藤氏/p85-86

トランス・エラム人がインダス文明を作った

トランス・エラム文明とインダス文明の関係については記事「インダス文明 後編(インダス文明とイラン・ペルシア湾岸の関係)」で書いた。

ここでは、『メソポタミアとインダスのあいだ』からの引用を再掲する。

トランス・エラム文明の都市には、日照りによる飢饉が起こりやすいという泣き所があった。食料事情を自らの顧客でもあるメソポタミアに握られていることは、この文明最大の急所であった。そこで彼らはメソポタミア以外の土地で穀倉と成る所はないかとあちこち調査したのだろう。インダス河流域の平原は最高の場所だった。そこにはまださしたる政治権力も芽生えてはおらず、豊かな先史農耕文化が広がっていた。その西側、バルーチスターンの山地に住むハラッパー文化の人びとと、トランス・エラム文明のネットワークはリンクした。彼らは低地に降りていった。

旧世界において、前2600年より早い時期から都市文明が存在したのは、エジプト、メソポタミア、そしてイラン高原の三カ所であった。都市というものに精通し、それまで都市というものを見たこともないスィンド地方の人びとに、完成度の高い都市の設計図を提示することができたのは、イランの都市住民であった可能性が最も高い。熟考された都市計画による、整然たる都市モヘンジョ・ダロの建設は、熟練の都市設計者の指導のもので行われたことが明らかで[ある]。

出典:後藤氏/p87

トランス・エラム文明の終焉

メソポタミアとインダスのあいだ』には、その終焉が書いていなかった(見落としているのかもしれない)。

前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1によれば、アッカド王朝の初代サルゴン王からイラン方面への遠征を繰り返し行い、三代目マニシュトゥシュはアンシャンまでをも征服した(p206-209)。

上に引用した年表によれば、トランス・エラム文明はアッカド王朝時代に終わっているので、アッカド王朝の歴代の王たちの遠征によって崩壊させられたのかもしれない。



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インダス文明 後編(インダス文明とイラン・ペルシア湾岸の関係)


*1:早稲田大学出版部/2017

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺① エラムまたはイラン(その1)原(プロト)エラム文明

シュメール地方の西方にはエラムがあった。エラムは東方からシュメールまでの物流ネットワークの要地であった。エラムはその近さからシュメール文明の影響を多大に受けながらも独自の文化文明を築いた。

今回はその初めの文明「原(プロト)エラム文明」について書く。

エラムの地理

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出典:エラムwikipedia*1

エラムの地はザグロス山脈ペルシア湾に挟まれた地域を指す。この地域の中心都市はスーサ(スサ)と言い、「スーサとその周辺」を意味する「スシアナ」はエラムと同義に使われることがある。

このエラムの地は現在はイラン国のフーゼスターン州(の一部)である(スーサの現代名はシューシュShush)。

フーザスターン州は基本的に平野部と山岳地帯に二分される。平野部は南西方面に広がり、カールーン川、キャルヘ川、ジャラーヒー川によって灌漑されている。山岳地帯は北西方面で、ザーグロス山脈の南嶺をなす。

常流する大河が州内を貫流する自然環境は、その豊かさにおいてイラン国内で追随を許さない。

出典:フーザスターン州<wikipedia

この州の気候は地中海性気候とステップ気候のどちらかだが、スーサ(シューシュ)は河川のおかげで農耕が可能な地域であっただろう。しかし私が読んだ参考図書にはスーサの農耕についての言及は無かった。少なくともシュメール地方のように肥沃な土壌は持っていなかったのだろう。

エラムの範囲の変化について

エラムの地」と言えば上記のような地域を指すのが一般的だが、時に、エラム人が実効支配した地域を指したり、彼らが築いたネットワーク圏を指したりすることがある。

エラムの中心都市スーサと南メソポタミア(特にシュメール地方)の関係

シュメール地方は肥沃な土地を有しているが、木材はあまり(ほとんど?)育たず、鉱物などは無かった。つまり食糧以外の必要物資はほとんど輸入に頼った。

いっぽう、エラムの中心都市スーサに繋がるイラン高原は乾燥地帯で農耕はほとんどできない地域だが、鉱物など物資はそこそこあった。この地の人々は原材料を加工してシュメール地方に売り込むこともした。

エラムの中心都市スーサはイラン高原からザグロス山脈を横断してシュメールに入るルートの西側に位置していた。

スーサの最初期は独自の文化を持っていたが、上記のような位置関係から交易の要地として発達し、基本的にはイラン高原を含む(シュメールから見て)東方の人びとの交易の拠点の役割を果たした。しかしシュメール人の支配を受けることも数度あった。

スーサと原エラム文明の考古学

時代区分(編年)は後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書/2015/p38-)による。


スーサⅠ期 前五千年紀末~前3500年頃
スーサⅡ期 前3500年~前3100年頃
スーサⅢA期 前3100~前2900年頃
スーサⅢB期 前2900~前2750年?
スーサⅢC期 前2750年?~?
前27世紀 原エラム文明の終わり


Ⅰ期メソポタミアはウバイド期の頃だがほとんど無関係で独自に発達した。

Ⅰ期の集落は全貌を知ることができないが、「単なる民家を超える規模」の建物、巨大な多葬墓が発見されている。Ⅰ期の後半では、多数のスタンプ印章が出土しており、その型式も変化に富んでいるので、前四千年紀前半のスーサには、他地域との交流のあるエラムの中心的都市が存在したことがわかる。

出典:後藤氏/p39

Ⅱ期メソポタミアウルク期と並行する。この時期の都市ウルクの人びとは各地に物資を求めて交易ネットワークを築いた。いわゆるウルクネットワークシステムだ*2

このネットワーク網にスーサも組み込まれる。この時期の遺物からは土着のイラン的要素が消えてウルクからの文化に変化した(メソポタミア化した。後藤氏/p39-40)。

ⅢA期メソポタミア期のジェムデト・ナスル期と並行する。前3100年頃にウルクネットワークシステムが崩壊し、スーサは再び独自の文化を蘇らせた。

「原(プロト)エラム文字」(絵文字)はこの時期に初現し、この文字で書かれた「原エラム文書」はイラン高原やスーサの東南方面からも出土している。これはウルクネットワークに代わるものが築かれたことを意味する。後藤氏はこれを「エラム文明」と書いている。

イランの地からは「スーサから配布された、あるいはスーサから来た書記によって書かれた原エラム文書や、非メソポタミア的な印章やその捺痕など」(p47)が出土しており、スーサがこのネットワークを主導している表している。

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エラム文明の物流ネットーワーク

出典:後藤氏/p43

ⅢB期メソポタミアの初期王朝時代Ⅰ期に並行する。この時代になると、再び「メソポタミア化」が進む。すなわち「初期王朝時代Ⅰ期の土器が主体を占めるようになり、原エラム文書は減少する。このことは原エラム文明の衰退と理解してよいだろう」(p42)。

ⅢC期メソポタミアの初期王朝時代Ⅱ期に並行するとされているが、わずかな史料しか得られていないので詳細は不明(p42)。

この時代のあいだに、シュメールの有力都市のキシュ市の王エンメバラゲスィ(エンメバラゲシ)がエラムを侵略したという説があることは、記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」第三節「シュメールの「王名表」から」で紹介した。

なぜエンメバラゲシ王はスーサを攻撃したのか?後藤氏は以下の「シナリオ」を書いている。

メソポタミアの支配者たちが首都スーサに対して行った軍事的侵略によって、原エラム文明は遅くとも前27世紀に終わりの日を迎えた。スーサ以外の都市に対する攻撃は知られていないので、それはネットワーク全体に対する攻撃ではなく、メソポタミアと直接交渉関係にある中心都市スーサ、あるいはそれを含むエラム地方の一部に対する局地的侵略と支配であったと思われる。しかし前2700年頃から前2000年頃までのスーサでは、「王の町」とアクロポリス丘で連続的住居が営まれており、外部からの攻撃で都市機能が壊滅し、廃墟化したわけではなかったことを物語っている。この種の攻撃は、都市の破壊を目的とするものではなく、武力を使って強引に行われる、自らに非常に有利な商取引の一形態だからである。足元を見られて高い買い物をさせられているという、売り手に対する消費者としての憤激から、メソポタミアの支配者たちは「悪徳商人スーサ」の懲罰に赴き、抑え込んでタダで商品を買ったというわけである。

出典:後藤氏/p68(太字強調は引用者による)

エラム文明はこれで終焉を迎えるが、スーサやエラム勢力は存続し続け、シュメール人たちが遺した文書にはエラムやスーサのことが度々言及されている。

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出典:後藤氏/p66

アンシャン(ファールス地方)の中心都市、タル=イ・マルヤーン

ファールス地方はアケメネス朝やサーサーン朝のペルシア人の故地として有名だが、ここではペルシア人(アーリア系)がここに住み着く以前の話をする。

ファールス地方は前三千年紀ではアンシャンと呼ばれていた。狭義のエラム(≒スーサの周辺、スシアナ)とは区別されるが、普通はエラムの一部とされる。

中心都市はタル=イ・マルヤーン(Tall-i Malyan)。原エラム文明の有力都市であり、スーサに次ぐ都市である可能性がある(p46)。

メソポタミアとインダスのあいだ』(p45-46)には、W・サムナー氏の主張を紹介して、タル=イ・マルヤーンの変遷を書いている。

タル=イ・マルヤーンは前六千年紀に定着農耕民が住み着き、前五千年紀末にその人口は頂点に達したが、前四千年紀前半から中盤にかけて急速に減少した。

すなわち定着農耕民の遊牧民化という現象が起こる。その原因は、当初は成功していた河川による灌漑の失敗、土壌の疲弊(塩害の発生)などによるもの[だ]。[中略] 定住農耕村落の解体が、一方ではテントを携えた移動生活への転換、そして他方では農耕に携わらない都市生活の確立という結果をもたらしたものであり、ここではメソポタミアにおけるような農耕社会の成熟・発達とはまさに正反対の理由で、最古の都市社会が誕生したことになる。

出典:後藤氏/p45

この遊牧民の都市の人口は4000人、という数字を紹介している。遊牧民化した人びとは原エラム文明のネットワークの中に組み込まれた。この都市はスーサとは無関係に発生し、メソポタミアとの関係も無かったが、原エラム文明の一部になってから、メソポタミアと断続的に関係を持った。

ここでは営業規模のパン焼き竈や銅製品の生産、専業工人による石器、ビーズ類、象嵌用貝殻片の製作など、多彩な工芸品の生産活動を物語る工房址が明らかにされている。明らかに遠隔地から搬入された素材として、黒曜石、金、ラピスラズリトルコ石、紅玉髄(カーネリアン)などの成品、未成品がある。工芸品に彫刻された図像にメソポタミア的要素は見られず、いずれも原エラム文明に特徴的なものと指摘されている。

出典:後藤氏/p46

このようにして、メソポタミアに原材料(一次産品)を売るだけでなく、加工して付加価値を付けたもの(二次産品)を売ってメソポタミア穀物を得ていた。

タル=イ・マルヤーンは原エラム文明の終焉と同じ時期に人口が極端に減少した(歴史の舞台から消えた)。

エラム文明の実像と諸都市群

上のタル=イ・マルヤーンの変遷は他の原エラム文明の諸都市群も辿った道ではないか、と後藤氏は推測する。とくにイラン高原は乾燥地帯でシュメール地方のように農耕社会からの都市誕生など考えられなかった。これらの都市は大量の商品を買ってくれるシュメール地方が有って初めて成り立つ都市だった。そしてこれを誕生させたのは上位都市(スーサ?)によって始められたのではないだろうか、と。

イラン高原に広く分布する原エラム都市群はメソポタミアウルク文化が示した拡散現象とは異なる性質のものである。ウルク国家は、かつてメソポタミア南部の低地に発し、北部、シリアなどへ植民政策を実施した。したがって、先に述べたそれらの都市では、中心地の文化がいわばパッケージとして移植されたものと捉えることができる。これに対して、原エラム都市群では、考古学的遺物の主体を占める土器にしろ、特殊なもの(遠隔地からの搬入品)を除き、基本的に土着の先史土器の伝統によるもので、各都市に共通の内容をもつものではなかった。スーサはメソポタミアの都市であるかのような土器群をもっていたが、他の都市はそうではなかった。これらの都市に共通しているのは、おそらくスーサから配布された、あるいはスーサから来た書記によって書かれた原エラム文書や、非メソポタミア的な印章やその捺痕などであり、イラン高原の先史諸文化の伝統をもつ地方的文化に、それらが付加されているのが特徴である。

出典:後藤氏/p47

このようにエラムが諸都市群をゆるやかにコントロールして各地から集めた商品をメソポタミアに売りつけた。「原エラム文明とは、総体としてこうしたメソポタミアの必要物資供給を行うための陸上ネットワークであり、メソポタミアの農耕文明とは相互補完の関係にある、非農耕文明であった」(p48)。

メソポタミア文明:ウル第三王朝④ シュルギの後の王たち/滅亡まで

ウル第三王朝は約100年続くが、そのうち48年間はシュルギの治世だった。

前回のシュルギの記事でも書いたが、ウル第三王朝の事柄はシュルギの治世中にできてしまったので、彼より後の王たちについては書くことがあまりない。この王朝はシュルギの後に三代続くが、これをまとめて書いてしまおう。

三代目アマルシンと四代目シュシン

アマルシンは「シン神の仔牛」の意味、シュシンは「シン神の人」の意味。シン神はウルの都市神のナンナのこと(それぞれ「アマル・シン<wikipedia」「シュ・シン<wikipedia」参照)。治世期間はどちらも9年。

シュシン王誕生の異なる2つの説

シュルギは48年という長い治世ののちに死ぬ。息子のひとりアマル・スエン(あるいはアマル・シン)が王位を継ぐが(前2046-38)、彼と兄弟(親子という説もある)シュ・シンとの争いがしだいに深刻になった。おそくともアマル・スエンの治世第6年までには、シュ・シンはみずからを王と呼ばせていたらしい。王朝表〔シュメール王名表のこと-引用者注〕はアマル・スエンの治世を9年と数えているが、じっさいには、8年にはすでに死亡していた。首都では政変があり、しかもそれがシュメール各地をまきこんだことは確実で、アマル・スエンの死亡前後に、ウンマ、ギルス、プズリシュ・ダガンでおおくの高級官僚たちが交替させられている。

出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年(上記は前川和也氏の筆)/p195

上の引用の後もクーデター説の傍証となる事項を挙げている。

もう一つの説。

アビシムティは、夫のアマルシン治世と同様に、息子シュシンが党位したからも、実弟ババティの協力を得て宮廷内に隠然たる勢力を持った。

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p157

前田氏はクーデターに関してはそれを示す明白な史料は今のところ無いとしている(p167)。

「アマル・シン<wikipedia」は前者のクーデター説で書かれており、アマル・シンの王妃アビシムティはシュシンに寝返ったとしている。

どちらが正しいかは分からないが、シュシンの治世になってもアビシムティが相当の権力を持っていたことは確実だ。

アビシムティの国家祭儀の創設

祭儀に関して、アビシムティは、イナンナ女神を重視して、新規に、イナンナ神のためのウナアの祭、イナンナの巡幸、それに聖婚儀礼を行うようになった。

新設された祭の一つ、ウナア「(月が)臥(ふ)す日」とは、新月前の朔(さく)、月がまったく見えないときのことである(前田1992b、前田2010a)。当時の暦は、月が見え始める新月を第1日とするので、ウナアとは前月の最後の日になる。ウナアの祭は、アマルシン4年から確認され、アマルシン治世と次のシュシン治世ではアビシムティが主宰し、イッビシン治世ではイッビシンの王妃ゲメエンリルが主宰した。[中略]

ウナアの祭が注目されるのは、月齢の祭であるにもかかわらず、月の神ナンナでなく、イナンナ神のためであり、それもシュメール古来の戦闘の神イナンナでなく、豊饒の神としてのイナンナのためであるという点にある。イナンナ神に捧げられたウナアの祭とは、新月前の朔のとき、宇宙の循環が正常に繰り返されることを保証する豊饒儀礼である。イナンナ神は、当然豊穣神であることが期待された。

アビシムティは、息子シュシンが王位に就いた頃から、イナンナ神を都市神とするシュメール都市ウルク、バドティビラ、それに、ウンマの一市区になっているザバラムを巡幸し、イナンナのための奉納儀礼を行うようになった。イナンナ神を祭る聖地の巡礼、それが第二の革新である。アビシムティが諸都市においてイナンナ神を祭ったのは、それぞれの都市における都市神としてのイナンナ神でなく、国家祭儀の一つとして、ウル第三王朝の領域全体の豊饒と安寧を祈願するためである。

第三の革新として、アビシムティの手動のもとにシュシン治世に始まったのが、豊穣神イナンナの聖婚儀礼である。聖婚儀式とは、新年になったときに行われる祭りである。ドゥムジの役を果たす王とイナンナ神との婚礼儀式の形式を採り、豊饒・多産を祈り、豊かな国土と平安な日々を保証するものである。

出典:初期メソポタミア史の研究/p157-158

  • 新月前の朔(さく)」について。ここでは「みそか」を意味する。「新月」「朔」ともに複数の意味がある。辞書で引用文に関連のあるものを挙げると、①「新月=朔=見えない月」。②「朔=太陰暦で、月の第1日。ついたち」。辞書では新月は「見えない月」と書いてあるが、「(見えない月から再び)見え始めた月」として使用している場合もあるようだ。引用文もその一つ。「新月=第1日。ついたち」という使い方も辞書にはないが使用例はあるようだ。

聖婚儀礼はおそらくウルク期末期から行われている。このことは記事「ウルクの大杯に学ぶ④(聖婚儀礼・王)」第一節「聖婚儀礼」で書いた。シュシン王が行った聖婚儀礼も古来からの伝統に倣ったものと思われる。

ウルク期の聖婚儀礼ウルク市の豊饒を祈願するものだったが、アビシムティとシュシン王が行った聖婚儀礼は国家儀礼だった。

外からの圧力

シュ・シン(前2037-29年)は、たしかにシュメール・アッカド地方の行政の再建につくしている。けれども、ウル王朝の外部から加わる圧力は、彼の時代にきわめて強くなった。[中略]

アムル人はアッカド語とはわずかに異なるセム語を話したが、アッカド人がはやくから南部メソポタミア地方の北部に住みつき、都市的な生活様式を採用したのにたいして、かなりの数のアムル人が、ユーフラテス河上・中流地方で、部族的紐帯を保ちながら牧民として生活していた。ウル第三王朝時代には、シュメール・アッカド地方に入り込んできたのである。

彼らの流入を防ぐために、すでにシュルギ王は治世37年に「国土の防壁」を建設しているが、シュ・シン治世4年になってさらに長大な防壁が作られる。この年は、「ウル王、神たるシュ・シンがムリク・ティドニム(という名)の西方防壁を作った年」とよばれた。ちなみにシュメール語でいう「西」は、アムル人の住む地域と同義であり、またアッカド語ムリク・ティドニムは、アムル人の一部族ディドヌムを撃退することを意味する。防壁建設を命じられた辺境の軍事司令官は、シュ・シンに手紙を書いて、アムル人たちが近くまで住みついていること、長城を建設するための労働者の数がたりないことなどを訴えた。

イラン高原エラムでも、ザブシャリ国が中心となり、おそらくウルミア湖あたりから南部までの広大な地域が、いっせいに反乱した。結局シュ・シンは大反乱を鎮圧しているが、次王イビ・シンのときエラム人はふたたび南部メソポタミアに侵入して、ついにウル王朝を滅亡させる。

出典:世界の歴史1(上記は前川和也氏の筆)/p196-197

西のアムル人、東のエラム人の他に北のフリ人も反乱を起こしたが、東西の脅威のほうが遥かに大きかった。

五代目イビシンと滅亡

「イビ・シン<wikipedia」によれば、その名の意味は「シン神(ナンナ神)に呼ばれたる人」。治世は24年。しかし彼の治世のあいだに王朝の支配領域は断続的に減少して滅亡に向かった。

滅亡については記事「ウル第三王朝① 概要」第六節「ウルの滅亡」で書いてしまった。詳しくはそちらを参照。

イビシンの2年にはすでに、シュメール地方北部にある家畜群の集積管理センタープズリシュダガンが機能しなくなった。治世17年(前2017年)にはシュメール地方中西部のイシン市が自立する(イシン第一王朝成立)。前2004年、王朝の滅亡はエラム人がウル市に侵入し王を連れ去るという惨劇で幕を閉じる。


メソポタミア文明:ウル第三王朝③ 二代目シュルギ

ウル第三王朝の特徴として挙げられるもののほとんどはシュルギの治世に創設・整備された制度である。諸制度の創設・整備と同時並行して、シュルギは外征を繰り返して最大版図を築きあげた。つまりウル第三王朝の代表的な版図もシュルギの時代のものだ。

諸制度の創設・整備

ウル第三王朝第二代のシュルギ王は有能な王であった。彼の48年にわたる長い治世は「年名」からたどることができ、治世20年頃に諸改革をおこなっている。出土した行政経済文書の多数は治世20年代の後半以降に書かれ、中央、地方を問わず行政組織が整えられた。各都市の文書の形式、用語も統一され、度量衡も統一された。

治世20年の「年名」に「ウル市の市民が槍兵として徴兵された年」があって、この年に常備軍が作られたようだ。20年以降に外征についての「年名」が増え、なかでもフリ人征伐に力を注いでいる。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p201

シュルギの治世に創設・整備された制度を幾つか箇条書きにしてみる。(上の『シュメル』と前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1(p138-139)を参照)

  • 文書による行政。
  • 文書の形式、用語の統一。
  • 度量衡の統一。
  • 貢納制。
  • 統一的会計システム。

ウルナンム法典もシュルギの治世にできたと主張する学者もいるそうだ。ちなみに裁判制度については何時出来上がったのかは分からないが、中央集権的なものではなく、各都市で整備され、専門の裁判官を任命した(前掲書/p180)。

版図と支配体系

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出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p140

上の図は前田氏とシュタインケラー氏の考える2つの案である。シュタインケラー氏の案(steinkeller 1987)は、前田氏によれば通説化しているという(ちなみに「Third Dynasty of Ur<wikipedia英語版」にこの図が載っていた)。

前田氏の案は、まず大きく中心地域と周辺地域に分けて、周辺地域を朝貢国地域と軍政地域に分けている。

いっぽう、シュタインケラー氏の方は、CORE(中心地域)とPERIPHERY(周辺地域)とVASSAL STATES(半独立的な臣従国)の3区分を採用している。

上の本では、シュタインケラー氏の主張と対比させながら前田氏が持論を展開している(p139-152)。

中心地域

まず、中心地域とは、シュメール・アッカド地方のことだ。この地域はアッカド王朝以前の都市国家の体制を維持しながら、彼らに「バル義務」を課した。バル義務とは、主要な都市の支配者に輪番で月ごとにニップルにおいて最高神エンリルをはじめとする神々に奉仕すること(前掲書/p142)。

これに対して、前川和也氏は、「シュメールやアッカド地方の諸都市は、交替でウル王権にたいして穀物などの貢納を負担した」と手短かに書いてある。これはおそらく「Bala taxation<wiki英語版」と対応しており、通説に近いかもしれない。Bala taxationはようするに徴税システムのことだ。ただ、前田氏のバル義務はこれとは別の義務なのかもしれないが、よく分からない。

前田氏の挙げるバル義務を課された主要な都市は、その多くは初期王朝時代から続く都市だが、興味深いのはイシンやスサもこの義務に加わっている。イシン(シュメール地方の北部の都市)とはウル第三王朝末期に独立したイシン第一王朝が興った都市だ。スサは中心地域ですらないが、エラム地方の中心都市ということでバル義務を課された(ただし一度だけ)。

シュルギ治世から最後の王イッビシンまでを通して見ると、バル義務を課された都市は、アッカド地方ではバビロンなど10都市を数えシュメール地方のその数を遥かに凌駕する。シュメール地方よりもアッカド地方の優位性が際立っている。ウル第三王朝時代よりも前からシュメール地方は塩化に悩まされ続けていたが、他地域より際立って肥沃な大地だったシュメール地方はついにその優位性を失ったようだ。

王朝は都市から軍事権を取り上げることには成功した(p150)。そして王朝は各地で神殿を建設したが、祭儀権までは取り上げられなかった。都市国家の伝統を受け継ぐ有力都市は従来の祭りを行うとともに暦についても従来のごとく独自のものを使用した。王朝はこれらに介入を試みたが、従来の形態を壊すことはなかった(p169~)。

王朝と有力都市の関係は連邦制国家に近い。有力都市には支配者(エンシ)がいて内政を支配していた。

ちなみにこの記事の最初の方で「ウル市の市民が槍兵として徴兵された年」という徴兵についての「年名」を引用したが、諸都市に対しての徴兵はできなかった。ウルの王は「王直属の軍事組織を創設し、フリ系などの異民族出身者などを将軍とした」(p160)。

朝貢国地域

前田氏の主張では朝貢国地域は周辺地域にの下に置かれる。

朝貢国地域は西は地中海東岸から東はエラム地方のアンシャン、南はペルシア湾地域のマガンまで広範に亘る。各地より定期的もしくは臨時に朝貢が為されるが、家畜以外にあらゆる物資が中央へ送られた。この貢納をグナ貢納という(p145)。

興味深い貢物の一つとしてシリア地方エブラからはレバノン杉が送られる。レバノン杉は建材や船材として良質で歴史を通じてオリエントで使われていた。

東西の朝貢国地域の差

同じ朝貢国地域であっても、西と東の地域では様相が異なる。朝貢国地域の西半分、マリの上流部とティグリス川を遡り東地中海岸に至る地域では、そこから派遣されてきた使節たちにウルの王は贈り物を与え優遇した。加えて、臨時のグナ貢納あったとしても、マリを含めてシリア地方の都市からの恒常的な貢納持参の記録がない。ウル第三王朝の直接支配を受けないで、むしろ両者は独立王国間の外交的関係で結ばれていた。

出典:初期メソポタミア史の研究/p146

これに対して東のエラム地方は王朝成立時の敵であり、頻繁に遠征を実施された常時要警戒の地域だった。王朝は、年単位の貢納・降嫁そして遠征を駆使してエラム地方の諸勢力の分断・孤立化政策をとった(p147-148)。この頃から既に分断統治(Divide and rule / Divide and conquer)が行われていた(分断統治については「分断統治wikipedia」参照)。

軍政地域

上の地図(上図)にあるように軍政地域はメソポタミア(≒イラク)の北東にある。ここはエラムからのメソポタミア侵入口の一つで、特に防備を厚くしなければならない地域だった。

軍政地域は「周辺地域」の一部ではあるが、朝貢国地域とは軍事面と貢納により違いが生じている。軍事面では中央から将軍(シャギナ)が率いる軍隊が駐留した。民政は在地勢力が行うが将軍が軍民両政を握ることもあった(p149)。この地域の貢納は「重要な地点に駐屯する軍隊に課せられた税」(軍隊の経費に充てられた?)であり、服従・恭順を示すグナ貢納とは違う、というのが前田氏の主張。この貢納はシュシン治世3年にグナ・マダ貢納と名称変更された。これに対してシュタインケラー氏はグナ貢納とグナ・マダ貢納の区別をせず、両方とも「重要な地点に駐屯する軍隊に課せられた税」と捉えた。

  *   *   *

以上が中心地域と周辺地域の支配の模様となる。「ウルの王が、支配領域の全域・全十味人に対する収奪、土地台帳を基礎にした地税と、戸籍をもとにして人頭税を課すという一円支配を目指すことはなかった」(p152)。

四方世界の王

「四方世界の王」という王号はアッカド王朝の絶頂期を築いたナラムシンが使用したものだ*2。ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」を名乗ったが、シュルギは治世20年、外征を始める前にこれを名乗った。当時のシュルギは、ナラムシンに憧れて彼と同等の最大版図を築き上げようという大志を表明したのかもしれない。

ナラムシンの後継はこの王号を受け継がなかったが、シュルギの後継は継承した。(p138)

王の神格化

これもナラムシンがやったこと*3。ナラムシンがなった神はアッカド市の守護神(アッカド市の都市神イラバ神の配下の将軍の地位)だったが、シュルギがなったのも大いなる神々の下位における支配領域の安寧を保証する守護神という地位だった。王の神格化も継承された(p154-155)。



メソポタミア文明:ウル第三王朝② 初代ウルナンム

即位まで

アッカド王朝末期については 記事「アッカド王朝時代⑥ 六代目以降の没落から滅亡まで/都市国家分立期」で書いた。

  • 王朝が滅亡する過程の中でラガシュ、ウルクグティの勢力が台頭した。ウルナンムはウルク王ウトゥヘガル配下の将軍だった。

  • 将軍ウルナンムはウトゥヘガル王にウルに派遣されたが、そこで独立して「ウルの王」となった。これが いちおうウル第三王朝誕生の瞬間。

  • その後、「ウルの王、シュメールとアッカドの王」を名乗った。

支配状況

私が入手した参考文献の中で、ウルナンムがどのようにシュメール・アッカド地方を攻略したか について書かれているものはほとんど無い。

小林登志子著『シュメル』*1(p252)によれば、「ウルナンムはグティ人の侵入で混乱したシュメル・アッカドの地を再統一すると・・・」とさらっと書くのみである。

「ウル・ナンム<wikipedia」には「彼は独立状態にあった他のシュメール都市国家を次々と打ち破り統合していったが、その具体的な過程は殆ど知られていない」とある。

入手できたものので唯一詳細にかかれている図書は前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*2だけだ。以下はこの本に頼って書く。

シュメール地方

『初期メソポタミア史の研究』(p126-128)によれば、「ウルの王、シュメールとアッカドの王」を名乗った後、ウルナンムは勢力拡大のための活動を開始した。諸都市に各都市の都市神の神殿を建設し、ニップルに城壁を築き運河を開削した。こうしてウルナンムは都市国家の上級支配権を獲得した。上級支配権という言葉がよく分からないが、おそらく江戸幕府における外様大名に対する中央政府の命令権(支配権)のようなものだと思われる。

上記の本では「ラガシュを例外として、ほぼシュメール地方を掌中した」(p128)とあるが、ウルナンムはラガシュの権益であるペルシア湾の交易とグエディンナの一部を奪取し、且つ、ラガシュ王ナムハニ(ナンマハニ。ラガシュの王名表では第2王朝の最後の王)を破ったので、ウルナンムの治世中にラガシュを陥落出来なかった(または安定した支配が出来なかった)としても、それは時間の問題だったと思われる。

ちなみに「Lagash<wikipedia英語版」によれば、ウル第三王朝以降、古バビロニア時代に言及される文書が少し遺っている以外に見当たらなくなる。ラガシュが初期王朝時代およびアッカド王朝末期に持っていた重要な地位はその後 回復することはなかった。

アッカド地方

ウルナンムがシュメール地方を掌握しようとしていた頃、アッカド地方はエラムの王プズルインシュシナクが支配していた(前掲書/p128/p216-218)。

アッカド地方をエラムが支配したことについては、『ウルナンム法典』に「そのとき、ウンマ(=アクシャク)、マラダ、ギリカル、カザルとその村落、そしてウザルムがアンシャンの故に奴隷状態にあったが、私(ウルナンム)の主ナンナ神の力によって、その自由を回復した」(RIME 3/2、48)とあり、プズルインシュシナクは、スサを本拠に、アンシャンまでのイラン高原全域を支配下においていた。

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出典:初期メソポタミア史の研究/p218(地図はp217)

ウルナンムはエラム勢力をアッカド地方から奪取した。

開放されたカザル、アパアク、マラダは、ウル第三王朝時代を通じて、ほかの都市とは異なる支配形態を取るようになる。ウル支配下の有力都市は、通常、在地勢力の有力者がなるエンシの支配であるが、カザルなどは、将軍がエンシを兼ね、軍民両政を担った。ウルナンム以後も、ウルの王はこの地域が軍事な要地であるという認識を持っていたのである。

出典:初期メソポタミア史の研究/p129

上のような地域が「軍政地域」となることは記事「ウル第三王朝① 概要」第2節「文書行政システムと二元支配体制」で触れた(地図も参照)。この軍政地域はエラムまたは東方の勢力がディアラ川流域から中心地域(アッカド・シュメール地方)への侵入を防ぐために必要だと考えたからだろう。

『初期メソポタミア史の研究』では小林氏の『シュメル』に書いてある「グティ人の侵入」に触れないのは、著者前田氏がグティ人がシュメール・アッカド地方を支配したという(以前の?)通説を否定しているからだろう。

ウルナンム法典と社会正義

ウルナンム法典は現存するもので最古の法典と言われている。これとともに重要なのは、社会正義が王の責務に加わったことだ。

『シュメル』(p160-162)では法典の幾つかの条文を載せているが、どのような内容かは「ウルナンム法典<wikipedia」に書いてある。

ここでは見出しのとおり、ウルナンム法典と社会正義を合わせて書いてみよう。

 アッカド時代までの王の責務

「正義」は、シュメール語で「ニグシサ」、アッカド語で「ミーシャルム」と言いますが、どちらも文献上に最初に現れるのは、アッカド時代の終わりころです。そして、次のウル第三王朝時代になると、前田徹氏が指摘するように、「正義」を維持することが王の重要な責務の一つになります。

シュメール都市国家時代以来、都市国家の防衛、および豊饒と平安の確立の確保が、王にとっての2つの重要な責務であると考えられてきました。

都市国家の防衛とは、都市に周壁を築いて外からの攻撃に備え、万一攻められたときには、軍隊を率いて外敵と戦うことです。豊饒と平安とは豊かな収穫と不安のない生活の確保のことで、それらを保障してくれる神々の神殿の建設や修復、また農耕に欠かせない運河の開削や浚渫を意味しました。

 ウル第三王朝以降の王の責務

ウル第三王朝時代になると、バビロニア全土とその周辺地域を支配する統一国家が完成します。

この時期に、国家の防衛と豊饒・平安の確保に加えて、新に「正義」の維持が王の責務に加わりました。[中略]

ここでいう「正義」とは社会正義のことです。孤児や寡婦に代表される社会的に弱い立場にある人たちを、強い立場にある人たちの搾取や抑圧から守り、弱い立場にある人たちの正義が蹂躙されたときには、その正義を回復することが、王の責務となったのです。

 ウルナンム法典

正義の維持者としての王の責務が具体的な形をとったのが、王による「法典」の作成です。最も有名なのはハンムラビ法典ですが、メソポタミア最古の法典は、ウル第三王朝初代の王ウルナンム(在位前2112-2095年)が作らせたウルナンム法典です。ウルナンム法典はシュメール語で書かれています。現在残っているのは、粘土板に書き写された断片的な写本数点のみですが、その前書きの最後に、「わたしは、憎しみ、暴虐、そして正義を求める叫び声(の原因)を取り除いた。わたしは、国土に正義を確立した」と述べており、ウルナンムが正義の維持に強い関心を持っていたことをよく示しています。

出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p106-108

前書き(前文)にはウルナンムが最高神エンリルより王権を賦与されたことが書かれ(初期メソポタミア史の研究/p137)、そして前文の最後にあるように王としての役割である社会正義の実現を高らかに宣誓している。

正義(ニグシサ)が用語として確定する以前の初期王朝時代では、社会の不公正や社会階層の分解による不安定さを是正するために、「寡婦、孤児を力有る者のもとに置かない」と宣言する弱者救済や、債務奴隷から自由民に戻す「自由を与える」ことを、都市支配者は宣言した。社会正義とは、個々の施策である債務奴隷からの解放や弱者救済を包含し総称する概念と捉えることができる。ただし、社会の公正さと平安を意図することは同じであっても、「自由を与える」ことと、法典における「社会正義」の擁護とは相違するところがある。

出典:初期メソポタミア史の研究/p132

まず「自由を与える」という言葉は、初期王朝時代ⅢB期のラガシュ王エンメテナとウルイニムギナ(ウルカギナ)が使用している*3。彼らは債務奴隷などを解放して「自由を与えた」。

『シュメル』(p152)によれば、「自由」のシュメール語は「アマギ」と言い、《アマギは字義通りには「母」アマに子を「戻す」ギであることから、本来あるべき姿に戻すことを意味するので、「自由」と翻訳されている》。

ただし、債務奴隷などの解放を何度も行ったら逆に社会が乱れるだろう。債務奴隷は非合法に奴隷に落とされたわけではないのだから。王は即位や神殿の落成などの慶事の機会を用いて「勅令」と言う形で奴隷解放を命じた。いわば恩赦だ。

それに対して、法典に示された条文は、「正義の定め」としての普遍的な規則、神が定めた守るべき秩序や準則を例示するものであって、ときに言われるような立法権を行使して王が定めた方ではない。ウルナンム以下の3法典は、あくまでもその条文に示された社会正義を実行するように人びとを導くことにあった。王は決して立法者ではない。

出典:初期メソポタミア史の研究/p132

ウルナンム法典は「正義の定め」を知らしめるために作られたが、その条文の罰則はかなり具体的なものだ(シュメル/p160-162)。これらが実際の裁判で適応された証拠は無く、裁判と法典は無関係だと見ることが多いということだが、著者の前田氏は「筆者もそのように捉えてきたが、ウル第三王朝時代に、「法典」の編纂と裁判制度の整備が同時並行的に行われているので、無関係と切り捨てることはできないと考えるようになった」と言って、「法典」が裁判において定期王された例を示している(p135)。



*1:中公新書/2005

*2:早稲田大学出版部/2017

*3:初期メソポタミア史の研究/p131

メソポタミア文明:ウル第三王朝① 概要

これから幾つかの記事に亘ってウル第三王朝について書くが、最初に概要を書いておこう。

年表

前2112年 ウルナンムがウルで独立し、ウル第三王朝成立。
前2094年 二代目シュルギ即位。
前2074年 王朝の最盛期。
前2028年 五代目そして最後の王イビ・シン即位。即位して間もなく目に見える形で王朝の崩壊が始まる。
前2017年 イシュビ・エラがイシンで独立(イシン第一王朝)。
前2004年 エラム人が最後のイビ・シンをアンシャンに連行。王朝滅亡。*1

文書行政システムと二元支配体制

おそらく前21世紀の末、ウルにおいてウル・ナンムが即位して、ウル第三王朝がはじまった。王は5人、彼らの治世期間はあわせて100年程度にすぎないが、この時期は前3000年にわたるメソポタミアの歴史のなかでもきわだっている。この時期に公的機関の文書行政システムが極端なまでに整えられ、驚くほど精密な記録が大量に作成されたからである。[中略]

ウル第三王朝時代の繁栄は、二代王シュルギ治世の後半で頂点に達した。彼は外征をくりかえし、メソポタミア周辺の諸国家にウル王朝への臣従、朝貢を誓わせ、いっぽうメソポタミア中心部(シュメール・アッカド地域)の都市には知事を派遣して直接支配を行った。中心地域の都市には、シュメールの最高神エンリルの神殿での輪番奉仕を義務づけ、いっぽう中心地域の北方、ディヤラ川から上・下ザブ川地域にかけては軍団による軍事支配を実現した。

ウル第三王朝の支配は中核と周辺という二分法にもとづいていた。王権は、中心地域では伝統的な都市組織を利用しつつ、灌漑にもとづく農業生産を行わせて、その余剰を吸いあげた。いっぽう周辺地域からは、大量の家畜を中心地域に運びこませたのである。

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前田徹「メソポタミアの王・神・世界観」(2003年)より転載。前田は、ウル王朝が、ディヤラ流域地方を軍事力によって統治したことを強調している。

出典:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p42-43

  • ディヤラ川流域は東方からアッカド地方への侵入点の一つ。

ウル第三王朝は東地中海沿岸からイラン高原にいたる広い地域を支配下に組み込んだが、その支配は均一ではなかった。

中核となるのはシュメル・アッカドの地であった。だがウル市の王朝にしたがうとはいえ、各都市の独立志向は根強かった。最高神エンリルを祀ることでなんとか統一を維持していたが、すでに第2章で紹介したようにニップル市など諸都市はウル市とはちがう月名を使用していた。

シュメル・アッカドの外側には貢物を持って来る服属国があり、西方ではマリやエブラ、東方ではマルハシやアンシャンなどが朝貢にやって来ていた。

さらにその外側の、グティ人の侵入経路であったティグリス河東岸地域、ディヤラ河および大小ザブ河流域は軍事的に重要視された地域であった。

ウル第三王朝は約100年と短期間であったが、第二代シュルギ王治世後半以降に膨大な数の行政経済文書が記録された。各地から出土していて、丸剤約四万枚が公刊されているが、まだ多数の文書が未解読のままである。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p252-253

ウルのジッグラト

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ウルのジッグラト復元図。三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所があった。基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていた。

出典:ジッグラト<wikipedia*2

  • 「ジッグラト」については 記事「テル(遺丘)とジッグラト」の第二節「ジッグラト」に書いた。

ウル遺跡に残るジグラトは、すでに初期王朝時代に建立されていたが、ウル第三王朝初代ウルナンム王が修復、拡大した。このジグラトはエテメンニグル(「畏怖をもたらす基礎の家」の意味)と名づけられていた。

出典:シュメル/p253-254

ウルナンムによる修復/拡大は二代目シュルギ治世に完了する。

このジッグラトはイラン・フーゼスターン州にあるチョガ・ザンビールのジッグラトに次いで最も保存状態が良いもの。

ジッグラトの中でおそらく最も参照され、最も著名なものである(チョガ・ザンビールのほうはシュメール人ではなく、エラム人により建築されたから参照されないのかもしれない)。

以下は「Ziggurat of Ur<wikipedia英語版」と「エ・テメン・ニグル<wikipedia(日本語版)」に依る*3

  • ウルのジッグラトは元々ウルの都市神ナンナ(月神男神最高神エンリルの長子*4によると、三層より成るジッグラトだったが、最下層はウル第三王朝時代で、2-3層は紀元前6世紀(ナボニドゥス王治世)の建築だった。

  • サダム・フセイン治世に、最下層のファサード、階段が改築

上述のチョガ・ザンビールは1979年に、ユネスコ世界遺産に登録されたが、ウルのジッグラトはされていない。上記のように後から手が加えられたからかもしれない。

ウル・ナンム法典

ウル・ナンム法典(ウル・ナンムほうてん)は、メソポタミア文明のウル第三王朝・初代王ウル・ナンムによって発布された法典。 紀元前1750年頃のものとされるハンムラビ法典よりおよそ350年程度古く、影響を与えたと考えられる、(現存する)世界最古の法典とされる。[中略]

後世のハンムラビ法典の特徴が「目には目を、歯に歯を」の一節で知られる同害復讐法であるのとは異なり、ウル・ナンム法典では損害賠償に重点が置かれている。殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについての刑罰が規定されており、特に、殺人・強盗・強姦・姦通は極刑に値する罪と見なされた。

シュメルには鋳造貨幣(コイン)はなかったため、損害賠償は銀の秤量貨幣によって行われた。[後略]

出典:ウル・ナンム法典<wikipedia*5

ウル第三王朝版「万里の長城

ウル第三王朝の滅亡は早かった。ジグラトどころではなくなり、代わって城壁を造らざるをえなくなった。シュメル版「万里の長城」の建造である。[中略]

マルトゥ、つまりアモリ人の侵入が勢いを増し、現代のバグダード北方80キロメートルの所にユーフラテス河からティグリス河へと、防御のための城壁を築いて侵入を阻止しなければならなくなった。これがシュメル版「万里の長城」である。

城壁建設は第ニ代シュルギ王(前2094-2047年頃)の治世に始まっていて、前で話したように治世37年の「年名」は「国の城壁が建てられた年」であった。[中略]

また、第四代シュ・シン王(前2037-2029年頃)の治世4年の「年名」も城壁建造であったことはすでに第6章で紹介した。

出典:シュメル/p263-265

王朝最後の王、第五代イッビ・シン王に至っては治世6年の年名は「ニップルとウルの大いなる城壁を造った年」*6。もはやメソポタミア中心部(シュメール・アッカド地域)の統治も出来ない状況が示されている。

ウルの滅亡

周辺地域およびアッカド地方の統治機能の崩壊

ニップル市(アッカド・シュメール両地域の境界あたりの都市)の近くに、第ニ代プズリシュ・ダガン王はプズリシュ・ダガンという街を建設した。ここは周辺地域からの家畜群の集積管理センターだった。この重要な場所がイッビ・シン王治世2年末に早くも機能しなくなった。ウンマ市の最後の行政・経済文書は治世5年、ギルス(ラガシュ)市は6年で途絶える。(世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p197-198(前川和也氏の執筆部分) )

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Map of the main cities of Lower Mesopotamia during the Akkad and Ur III periods (c. 2300-2000 BC), with the approximate course of the rivers and the ancient shoreline of the Gulf.

出典:Bala taxation<wikipedia英語版*7

シュメール地方の統治機能崩壊

ウル第三王朝時代にはシュメル地方では土壌の塩化が進み、大麦の収量倍率が激減していた。初期王朝時代末期(前24世紀中頃)にはラガシュ市において76.1倍であったものが、前21世紀のウル第三王朝の属州ギルス(以前のラガシュ市)では30倍に減少していた。この数字はシュメル地方のほかの地域でもそうちがわなかったと考えられる。

第五代イッビ・シン王(前2028-2004年頃)の治世になると、東方からはエラム人、西方からはマルトゥ人(アモリ人)と外敵の脅威が増し、しかも同王の治世6年にウル市で発生した飢饉は数年続いて、穀物価格が60倍にも高騰した。

出典:シュメル/p265-266

  • アモリ人とはアムル人のこと。

イシン市の独立

イシン市はニップルの西南にある都市。

上述の危機的な食糧不足の状況で、イッビ・シン王は、マリ市出身のアムル人イシュビ・エラ将軍をイシン市へ派遣した。しかし、この将軍は滅びゆく王朝を見限りイシン市で独立した(前2017年)。イシン第1王朝の誕生である。ウル第三王朝滅亡の前にイシン・ラルサ時代が始まっていた。(イビ・シン<wikipedia

エラムの侵攻(王朝滅亡)

ウル第三王朝を滅ぼしたのはエラムだった。エラム人はウル市に侵入してイッビ・シン王を捕らえてアンシャンへ連れ去った(前2004年)。イッビ・シン王がその後どうなったのかは誰も知らない。

シュメール文明の終わりと継承

シュメル人の統一王朝にして最後のウル第三王朝(前2112-2004年頃)は前2004年頃にエラムの侵入によって滅亡したが、シュメル人はその後も行き続けていた。だが、シュメル人は古くから共生していたアッカド人に加えて、アモリ人(マルトゥ人)が侵入したことによってセム語族の圧倒的文化のなかに埋没せざるをえなかった。

出典:シュメル/p274

ウル第三王朝の後継を自認したイシンのイシュビ・エラ王はシュメール語による王碑文を遺したが、日常の言語はシュメール語からアッカド語に変わった。

ただし、シュメールの文化がここで途絶えたわけではない。特にシュメール人が作り上げた神々と神話はメソポタミア神話に受け継がれ、メソポタミアを越えて古代オリエントと地中海(ギリシア、ローマ)へと伝わった。

シュメール文明について『シュメル』のはしがきでは「シュメル社会は現代社会の原点である。当時すでに文明社会の諸制度がほぼ整備されていた」とあり、あとがきでは「起きるべきほどのことはすでにシュメル社会では起きていた」と書いてある。

名称

この王朝の名称は「ウル第三王朝」だが、古代メソポタミアまたは西アジアの年表には「第一」や「第ニ」は出てこない。

「ウル第三王朝」の名称は、シュメール王名表に依る。シュメール王名表については記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」の第3節「シュメールの「王名表」から」と記事「初期王朝時代④ シュメール王名表」で書いた。

シュメール王名表は史実とフィクションが入り混じっていて正確ではない。「ウル第一王朝」には実在する王が書かれているが、そうだとしても「一都市国家の王」でしかない。「ウル第ニ王朝」に載っている王の名は遺物などで確認できないし、年代的はウルクの王に支配されている時期だ(初期メソポタミア史の研究/p125)。このようにこの名称は史実に基づかないが、慣例によりこの名称は使い続けられている。



ウル第三王朝はシュメール文明の最後の王朝にしてシュメール文明の集大成というべき王朝だと思うが、世界史関連の本やサイトでは注目されていない。

次回から、個々の事象について書いていく。

*1:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p547-548(第1巻関連年表)

*2:作者:wikiwikiyarou(パブリック・ドメイン)、ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88#/media/File:Ziggurat_of_ur.jpg

*3:日本語版は英語版をまとめたもの

*4:前田徹著『初期メソポタミア史の研究』(早稲田大学出版部/2017/p126)によれば、ナンナ神の系譜を最高神エンリルの長子にしたのは創始者ウルナンムである)) )のためのもの。

  • 紀元前6世紀、新バビロニア帝国最後の王ナボニドゥスにより改修された。

  • 1939年のレオナード・ウーリーの発掘レポート((Woolley, C. Leonard (1939). The Ziggurat and its Surroundings. Ur Excavations. 5.

    *5:この記事は『シュメル』(p158-162)に依っている

    *6:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p189

    *7:著作者:Zunkir、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Basse_Mesopotamie_Akkad-Ur3.png#/media/File:Basse_Mesopotamie_Akkad-Ur3.png

  • メソポタミア文明:アッカド王朝時代⑥ 六代目以降の没落から滅亡まで/都市国家分立期

    この記事では、王朝の滅亡までと、ウル第三王朝までの都市国家分立期を書く。都市国家分立期は一般的には、便宜的にアッカド王朝時代の中に含まれる。

    王朝滅亡まで

    シュメール王名表によれば、シャルカリシャリの後に「誰が王で誰が王でなかったか」と書かれて、次に「たった3年のうちに4人の王が立った」とある(Sumerian King List<wikipedia)。

    この次にドゥドゥという者が王に立ったが、この王がサルゴンの血統を継ぐものかどうかは分からない。ドゥドゥの碑文や印章がシュメールとアッカド両地方から出土しているから両地方の支配はまだ続いていたと思われる。次にドゥドゥの子のシュトゥルルが王を継ぐが彼の支配を示す出土品はシュメールからは見つかっていない。そしてシュトゥルルがアッカド王朝最後の王とされる。滅亡の詳細は分かっていない。(前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p113-115)

    王朝の年代

    アッカド王朝の年表は複数提案されているが、ここでは現在よく使われている中年代説(Brinkman 1977)*1と前田氏の私案を載せよう。

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    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p116
    および Akkadian empire<wikipedia英語版

    上によるとアッカド王朝は両方とも180年間つづいたことになる。

    都市国家分立期

    アッカド王朝滅亡からウル第三王朝までの間は中年代説が42年間、前田氏私案が16年間になる。

    ただし滅亡前においてアッカド王朝の支配力が落ちていくと、シュメール地方の各都市は自立か他の勢力への従属を迫られた。

    このような状況で大勢力を張ったのは、ウルク、ラガシュ、グティだった。

    ウルク

    ウルクは、シャルカリシャリ治世に反乱を企てて、鎮圧されたのち、『シュメールの王名表』ではウルク第四王朝とされるウルニギンとその子ウルギギルなど5代の王が自立して統治する時代になる。ウルクはシュメール都市のなかで最も早くに独立した一つであり、周辺に勢力を伸ばした。

    ウルニギンとウルギギルは、同時代史料から確認される。[中略]

    『シュメールの王名表』はウルギギルのあとになお3人の王の名を記すが、彼らについては同時代史料から確認できない。

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p119

    • 上の本(p117)によると、 ウルニギンはアッカド王ドゥドゥと同時代の人物。

    このあと、王名表にはウルク第五王朝にウトゥヘガルが唯一の王として載っている。第四王朝との系譜関係は不明。ウトゥヘガルも実在が確認されている。彼は のちにウル第三王朝を建てるウルナンムをウルに将軍として派遣した王である。

    ラガシュ

    ラガシュは、ウルクと同時期にアッカド王朝から離反する動きを見せた。プズルママは王号をエンシ(都市支配者)からルガル(王)に変更し、アッカドの支配からの離脱を目指した。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p120

    • プズルママは、上の本(p117)によると、 ウルニギンとアッカド王ドゥドゥと同時代の人物。

    ラガシュは初期王朝時代より主要な都市国家だったが、なぜかシュメール王名表に全く名が無い。後世にラガシュの王名表を作ったものがいたが、初期王朝時代の王朝を第1王朝、アッカド王朝末期からウル第三王朝までを第2王朝と呼ぶことがある*2。しかし第2王朝は複数の見解がある*3

    『初期メソポタミア史の研究』ではp121に王統が載っている。ただしこの本では、第2王朝と呼ぶ代わりに「グデアの時代」という用語を利用している(後述)。

    この王朝の中で、最盛期はウルバウとグデアだ。

    ウルバウはウルのナンナ神の祭主に自らの娘を送った。この祭主は代々アッカド王朝の娘が送り込まれていたのだが、それが出来ないほど王朝の力が衰えていたのだろう。いっぽう、ウルバウはこれを行ったことでシュメールの王になることを考えていたように思える。グデアはペルシア湾航路を掌握した後、東方アンシャンにまで遠征し、戦利品を都市神ニンギルスに奉納した。(初期メソポタミア史の研究/p122)

    しかし、ウルバウもグデアもルガルを名乗らずエンシを名乗った*4。彼らの碑文の中で最も多く語られたのは戦勝の記念碑ではなく、神殿建設者としての王である*5。上述のルガルを名乗ったプズルママさえもラガシュの伝統的な(復古的な)碑文を残している。

    このようにラガシュの王はシュメールを統一する王(ルガル)を目指すよりも、神に仕える民の代表者(支配者=エンシ)としての役割を全うすることを考えていた、とするほうがいいかもしれない。このようなラガシュの王の伝統的な態度が「シュメール王名表」にラガシュの王が載らない原因なのかもしれない。

    グデアの祈願像と円筒印章と円筒碑文

    グデア王の名は有名らしく、私が利用した参考図書にほとんど名前が載っていた。ラガシュ市はメソポタミア史研究の中でも最も古くより研究され史料も多いが、グデア王に関する遺物は特に多く遺っている。

    中でもグデア王の像は多く出土され、ルーブル美術館にはこれらが集められた部屋があるという。衣服には端正なシュメル語が刻まれている。内容は像の素材の輸入先とかグデアが像に命令を与えて神殿に奉献したなどと書かれている*6

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    出典:Gudea<wikipedia英語版*7

    印章で有名なものが以下の円筒印章がある。印章そのものはなく印影だけが遺っている(これもルーブル美術館所蔵)。

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    出典:Gudea: A good Sumerian king<Sumerian Shakespeare

    • 左上の楔形文字は「グデア、ラガシュのエンシ」と書かれている。

    これについて小林登志子著『シュメル』に解説が載っている(p107)。

    一人剃髪の人物がグデア王である。グデア王の腕を握っているのがニンギシュジダ、グデア王の個人神(特定の個人を守護する神)。グデア王の左は「誰でも守護してくれる、慈悲深いラマ神」。左端の獣はニンギシュジダの随獣(ムシュフシュ<wikipedia参照)。右端は学者によって意見が分かれるところだが、小林氏はラガシュ市の都市神であるニンギルス神としている(他にエンキ神説やエンリル神説がある)。

    この図像はグデア王が個人神を通してニンギルス神に謁見する場面で「紹介の場面」と呼ばれる。円筒印章は はんことして使用されるが、「紹介の場面」の円筒印章は護符としての機能も持つ。

    もう一つ、グデアの円筒碑文というものが有名だ。

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    出典:Gudea cylinders<wikipedia英語版*8

    この円筒碑文には、「なぜグデアが神殿建立を決意するにいたったか、そして建設の過程、建立された神殿への神の招請、祝祭が流麗に語られ、のちのシュメール文学の文体におおきな影響を与え続けた」(図説メソポタミア文明/p41-42)。

    グティ

    グティについては、『初期メソポタミア史の研究』の「第8章 グティ」に詳細に語られている。

    この本ではグティは小規模の君主(豪族)の連合体だと書かれている(p319)。個人的には、匈奴に代表される中央ユーラシアの遊牧民と同種と考えていいと思う。

    アッカド王朝の五代目シャルカリシャリ治世にはグティはシュメール地方の家畜を略奪する程度の勢力だったが、その後 王を戴く大勢力になり、シュメール地方の都市を支配するようになった。シュメール王名表に名前が載っている第18代ヤルラガンと第19代シウがウンマを支配した。ウンマには支配者がいたがグティの王たちはその上の権力者だった(p306-308)。グティは税の一部を上納させていた(言い換えれば みかじめ料をぶんどった)と思われる。これが武力をもつ遊牧民の最も楽な統治形態である。

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    An inscription dated c. 2130 BCE. “Lugalanatum prince of Umma … built the E.GIDRU [Sceptre] Temple at Umma, buried his foundation deposit [and] regulated the orders. At that time, Siium was king of Gutum [or Qutum].” (Collection of the Louvre Museum.)

    出典:Gutian people<wikipedia英語版*9

    また、ウンマの他にアダブも支配した。というかこちらが本拠地だったようだ。ウル第三王朝版『シュメールの王名表』(Steinkeller 2003)によれば、最後のグティ王ティリガンはアダブで滅ぼされた、とある。(p315-317)

    まとめ

    以上により、アッカド王朝末期からウル第三王朝までの期間はウルク、ラガシュ、グティウンマ、アダブ)が分立していた様子が分かる。他の大都市であるキシュとシュルッパクについては詳細は分からない。『初期メソポタミア史の研究/p124-125)

    *1:私が参考図書としてよく利用している前川和也氏編著『図説メソポタミア文明』と小林登志子著『シュメル』もこの編年を採用している。

    *2:Lagash<wikipedia英語版

    *3:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p41

    *4:初期メソポタミア史の研究/p122

    *5:図説メソポタミア文明/p41

    *6:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p225

    *7:著作者:Marie-Lan Nguyen、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Gudea_of_Lagash_Girsu.jpg#/media/File:Gudea_of_Lagash_Girsu.jpg

    *8:著作者:Ramessos、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:GudeaZylinder.jpg#/media/File:GudeaZylinder.jpg

    *9:著作者:Rama、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Gutian_inscription_AO4783_mp3h9060.jpg#/media/File:Gutian_inscription_AO4783_mp3h9060.jpg