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メソポタミア文明:アッカド王朝時代⑥ 六代目以降の没落から滅亡まで/都市国家分立期

この記事では、王朝の滅亡までと、ウル第三王朝までの都市国家分立期を書く。都市国家分立期は一般的には、便宜的にアッカド王朝時代の中に含まれる。

王朝滅亡まで

シュメール王名表によれば、シャルカリシャリの後に「誰が王で誰が王でなかったか」と書かれて、次に「たった3年のうちに4人の王が立った」とある(Sumerian King List<wikipedia)。

この次にドゥドゥという者が王に立ったが、この王がサルゴンの血統を継ぐものかどうかは分からない。ドゥドゥの碑文や印章がシュメールとアッカド両地方から出土しているから両地方の支配はまだ続いていたと思われる。次にドゥドゥの子のシュトゥルルが王を継ぐが彼の支配を示す出土品はシュメールからは見つかっていない。そしてシュトゥルルがアッカド王朝最後の王とされる。滅亡の詳細は分かっていない。(前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p113-115)

王朝の年代

アッカド王朝の年表は複数提案されているが、ここでは現在よく使われている中年代説(Brinkman 1977)*1と前田氏の私案を載せよう。

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出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p116
および Akkadian empire<wikipedia英語版

上によるとアッカド王朝は両方とも180年間つづいたことになる。

都市国家分立期

アッカド王朝滅亡からウル第三王朝までの間は中年代説が42年間、前田氏私案が16年間になる。

ただし滅亡前においてアッカド王朝の支配力が落ちていくと、シュメール地方の各都市は自立か他の勢力への従属を迫られた。

このような状況で大勢力を張ったのは、ウルク、ラガシュ、グティだった。

ウルク

ウルクは、シャルカリシャリ治世に反乱を企てて、鎮圧されたのち、『シュメールの王名表』ではウルク第四王朝とされるウルニギンとその子ウルギギルなど5代の王が自立して統治する時代になる。ウルクはシュメール都市のなかで最も早くに独立した一つであり、周辺に勢力を伸ばした。

ウルニギンとウルギギルは、同時代史料から確認される。[中略]

『シュメールの王名表』はウルギギルのあとになお3人の王の名を記すが、彼らについては同時代史料から確認できない。

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p119

  • 上の本(p117)によると、 ウルニギンはアッカド王ドゥドゥと同時代の人物。

このあと、王名表にはウルク第五王朝にウトゥヘガルが唯一の王として載っている。第四王朝との系譜関係は不明。ウトゥヘガルも実在が確認されている。彼は のちにウル第三王朝を建てるウルナンムをウルに将軍として派遣した王である。

ラガシュ

ラガシュは、ウルクと同時期にアッカド王朝から離反する動きを見せた。プズルママは王号をエンシ(都市支配者)からルガル(王)に変更し、アッカドの支配からの離脱を目指した。

出典:初期メソポタミア史の研究/p120

  • プズルママは、上の本(p117)によると、 ウルニギンとアッカド王ドゥドゥと同時代の人物。

ラガシュは初期王朝時代より主要な都市国家だったが、なぜかシュメール王名表に全く名が無い。後世にラガシュの王名表を作ったものがいたが、初期王朝時代の王朝を第1王朝、アッカド王朝末期からウル第三王朝までを第2王朝と呼ぶことがある*2。しかし第2王朝は複数の見解がある*3

『初期メソポタミア史の研究』ではp121に王統が載っている。ただしこの本では、第2王朝と呼ぶ代わりに「グデアの時代」という用語を利用している(後述)。

この王朝の中で、最盛期はウルバウとグデアだ。

ウルバウはウルのナンナ神の祭主に自らの娘を送った。この祭主は代々アッカド王朝の娘が送り込まれていたのだが、それが出来ないほど王朝の力が衰えていたのだろう。いっぽう、ウルバウはこれを行ったことでシュメールの王になることを考えていたように思える。グデアはペルシア湾航路を掌握した後、東方アンシャンにまで遠征し、戦利品を都市神ニンギルスに奉納した。(初期メソポタミア史の研究/p122)

しかし、ウルバウもグデアもルガルを名乗らずエンシを名乗った*4。彼らの碑文の中で最も多く語られたのは戦勝の記念碑ではなく、神殿建設者としての王である*5。上述のルガルを名乗ったプズルママさえもラガシュの伝統的な(復古的な)碑文を残している。

このようにラガシュの王はシュメールを統一する王(ルガル)を目指すよりも、神に仕える民の代表者(支配者=エンシ)としての役割を全うすることを考えていた、とするほうがいいかもしれない。このようなラガシュの王の伝統的な態度が「シュメール王名表」にラガシュの王が載らない原因なのかもしれない。

グデアの祈願像と円筒印章と円筒碑文

グデア王の名は有名らしく、私が利用した参考図書にほとんど名前が載っていた。ラガシュ市はメソポタミア史研究の中でも最も古くより研究され史料も多いが、グデア王に関する遺物は特に多く遺っている。

中でもグデア王の像は多く出土され、ルーブル美術館にはこれらが集められた部屋があるという。衣服には端正なシュメル語が刻まれている。内容は像の素材の輸入先とかグデアが像に命令を与えて神殿に奉献したなどと書かれている*6

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出典:Gudea<wikipedia英語版*7

印章で有名なものが以下の円筒印章がある。印章そのものはなく印影だけが遺っている(これもルーブル美術館所蔵)。

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出典:Gudea: A good Sumerian king<Sumerian Shakespeare

  • 左上の楔形文字は「グデア、ラガシュのエンシ」と書かれている。

これについて小林登志子著『シュメル』に解説が載っている(p107)。

一人剃髪の人物がグデア王である。グデア王の腕を握っているのがニンギシュジダ、グデア王の個人神(特定の個人を守護する神)。グデア王の左は「誰でも守護してくれる、慈悲深いラマ神」。左端の獣はニンギシュジダの随獣(ムシュフシュ<wikipedia参照)。右端は学者によって意見が分かれるところだが、小林氏はラガシュ市の都市神であるニンギルス神としている(他にエンキ神説やエンリル神説がある)。

この図像はグデア王が個人神を通してニンギルス神に謁見する場面で「紹介の場面」と呼ばれる。円筒印章は はんことして使用されるが、「紹介の場面」の円筒印章は護符としての機能も持つ。

もう一つ、グデアの円筒碑文というものが有名だ。

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出典:Gudea cylinders<wikipedia英語版*8

この円筒碑文には、「なぜグデアが神殿建立を決意するにいたったか、そして建設の過程、建立された神殿への神の招請、祝祭が流麗に語られ、のちのシュメール文学の文体におおきな影響を与え続けた」(図説メソポタミア文明/p41-42)。

グティ

グティについては、『初期メソポタミア史の研究』の「第8章 グティ」に詳細に語られている。

この本ではグティは小規模の君主(豪族)の連合体だと書かれている(p319)。個人的には、匈奴に代表される中央ユーラシアの遊牧民と同種と考えていいと思う。

アッカド王朝の五代目シャルカリシャリ治世にはグティはシュメール地方の家畜を略奪する程度の勢力だったが、その後 王を戴く大勢力になり、シュメール地方の都市を支配するようになった。シュメール王名表に名前が載っている第18代ヤルラガンと第19代シウがウンマを支配した。ウンマには支配者がいたがグティの王たちはその上の権力者だった(p306-308)。グティは税の一部を上納させていた(言い換えれば みかじめ料をぶんどった)と思われる。これが武力をもつ遊牧民の最も楽な統治形態である。

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An inscription dated c. 2130 BCE. “Lugalanatum prince of Umma … built the E.GIDRU [Sceptre] Temple at Umma, buried his foundation deposit [and] regulated the orders. At that time, Siium was king of Gutum [or Qutum].” (Collection of the Louvre Museum.)

出典:Gutian people<wikipedia英語版*9

また、ウンマの他にアダブも支配した。というかこちらが本拠地だったようだ。ウル第三王朝版『シュメールの王名表』(Steinkeller 2003)によれば、最後のグティ王ティリガンはアダブで滅ぼされた、とある。(p315-317)

まとめ

以上により、アッカド王朝末期からウル第三王朝までの期間はウルク、ラガシュ、グティウンマ、アダブ)が分立していた様子が分かる。他の大都市であるキシュとシュルッパクについては詳細は分からない。『初期メソポタミア史の研究/p124-125)

*1:私が参考図書としてよく利用している前川和也氏編著『図説メソポタミア文明』と小林登志子著『シュメル』もこの編年を採用している。

*2:Lagash<wikipedia英語版

*3:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p41

*4:初期メソポタミア史の研究/p122

*5:図説メソポタミア文明/p41

*6:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p225

*7:著作者:Marie-Lan Nguyen、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Gudea_of_Lagash_Girsu.jpg#/media/File:Gudea_of_Lagash_Girsu.jpg

*8:著作者:Ramessos、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:GudeaZylinder.jpg#/media/File:GudeaZylinder.jpg

*9:著作者:Rama、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Gutian_inscription_AO4783_mp3h9060.jpg#/media/File:Gutian_inscription_AO4783_mp3h9060.jpg