歴史の世界

メソポタミア文明:初期王朝時代⑤ 第ⅢB期(その1)領邦都市国家の成立

「領邦都市国家」という用語は前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1に載っているもので、おそらく独自のものだろう。

点在する都市国家群から勢力を伸張させ諸勢力が相争う時代を経て、第ⅢB期には南メソポタミアは8つの都市に分割される時代となる。

「領邦都市国家

領邦都市国家とは、都市国家の一類型型であり、近隣の都市を服属させることで、地域統合を果たした有力な都市国家を指す。領邦都市国家に数えられるのは北から、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマウルク、ウルの八つであり、成立過程は不明ながら、前2500年頃(初期王朝時代第3期b)には成立していたと考えられる。分権的な都市国家的伝統を体現する領邦都市国家の出現は、王権の展開に大きな影響を持つようになる(前田2009a)。

前の時代の集合都市印章に並立して記された都市国家のなかで、ニップル、アダブ、ウルクウルクなどは領邦都市国家に上昇した。その一方で領邦都市国家に従属する地位に甘んじる都市国家もあった。下位の都市国家として、アダブに服属するケシュ、ウンマに服属するザバラム、ウルクに服属するラルサなどを挙げることができる。

出典:初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p39

  • 第2パラグラフでウルクが二つ並んでいるが、一つはウルの誤植だろう。

参考文献の「前田2009a」の題名は「シュメールにおける地域国家の成立」だが、ネットから(PDF)を入手できる。

この論文では、前2500年頃に画期を置いた原因について、王碑文を挙げている。都市国家間の競争の中で富国強兵と王権の強化が求められ、王自らの権威を誇示するために「王のイニシアティブで行っていることを王碑文で示し始めた」としている(詳しくは本文で)。

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出典:前田徹/シュメールにおける地域国家の成立/2009

まとめ

  • 楔形文字の体系が整うのが前2500年、つまり第ⅢB期が始まる頃。そして王碑文が出始めるのもこの頃。これは偶然ではないだろう。体系が出来たから王碑文が出始めたのではなく、その逆である可能性がある。

  • 王碑文は、王権の正統化であり、富国強兵の一部である。

  • メソポタミアは8つの「領邦都市国家」に分割された。



*1:早稲田大学出版部/2017

メソポタミア文明:初期王朝時代④ シュメール王名表

王名表については、記事「メソポタミア文明:初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」の節「シュメールの「王名表」から」で紹介したが、それからの続き。

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出典:Sumerian King List<wikipedia*1

(以下の参考文献:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/p165-181(前川和也氏の筆)ただし前川氏は「王名表」とはではなく「王朝表」と書いている )

「王権が天より降りきたったとき、王権はエリドゥにあった」

王名表によれば、シュメールに王権が現れた一番最初は、シュメール最南部の都市エリドゥだった。王権は二王が計6万4800年も治めた後、王権はバド・ティビラ市、ララク市、ジムビル市、シュルパク市へと変遷した。それぞれ万年単位という治世の長さだ。

シュルパク王治世1万8600年にシュメールを大洪水が襲う。これによりシュルパク王の治世は終わる。

「洪水が襲った。洪水が襲ったのち王権が天より降りきたった。王権はキシュにあった」

この大洪水はシュメール神話にもなっていて、聖書の「ノアの方舟」のネタ元だ。実際に大洪水が当時の全シュメールを一掃したわけではないらしいが、なにかしらの厄災があって、それを洪水になぞらえたのかもしれない。王権を手にしたキシュは南メソポタミアの北部(のちにアッカド(地方)と呼ばれる)の都市だから南部(シュメール地方)にだけ厄災が起こったのかもしれない。

王名表の中からキシュ第1王朝とウルク第1王朝を取り上げよう。ウル第1王朝については別の記事記事「メソポタミア文明:初期王朝時代③ 第ⅢA期/ウル王墓/ウルのスタンダード」で取り上げた。

キシュ第1王朝

キシュ王はその後 世襲するが、この王朝をキシュ第一王朝と呼ぶ。キシュはセム人(シュメール語とは別系統のセム語系言語を話す人々)が古くから住みついていた。「Kish<wikipedia英語版」によれば、前3100年ころから初期王朝時代にかけて強大な影響力を持っていた。

王名の前半はアッカド語の動物名を当てているので、実際の創始者は第13代にあたるエタナという説がある。ただし考古学資料で確証されているわけではない(エタナの在位は1560年)。

王名表の中で実在が確定されている最初の人物はエンメバラゲシ。エンメバラゲシとその息子で後継者のアッガについては記事「初期王朝時代②」で書いた。

ウルク第1王朝

王名表によれば、王権がキシュ第1王朝からウルク第1王朝へ移ったとする。しかしこれが史実だという証拠はない。

この王朝で比較的名の知られている王は2、3、5代の王すなわちエンメルカル、ルガルバンダ、ギルガメシュで、彼らは英雄叙事詩の物語に現れる。

エンメルカルとルガルバンダと都市アラッタ

エンメルカルとルガルバンダにはエラム(≒イランまたはイラン南部)の1都市アラッタにまつわる物語がある(「エンメルカル<wikipedia」「ルガルバンダ<wikipedia」参照)。これらの物語について書いてみる(この物語がどの程度史実に関係があるのかは分からない)。

アラッタという都市(国家?)はシュメール(南メソポタミア)から遠く離れた東方にあった。ここはラピスラズリに代表される鉱物の供給地としてシュメール諸国としては重要な取引相手だった。

補足:アラッタではウルクにはない瑠璃などの宝玉、貴金属に恵まれ、それらを細工する技術と職人も持ち、それらの製品交易によって経済力も確かなものだったと思われる。エンメルカルはしばしばアラッタの君主と対決してきたが、今回の遠征目的はそんなアラッタの貴金属とそ加工技術、そして貿易路の確保と導入によってウルクの発展に貢献することであった。

出典:ルガルバンダ<wikipedia

メソポタミアとインダスのあいだ』*2によれば、エンメルカルがアラッタの君主と対決する前に、キシュ第1王朝のエンメバラゲシがエラムの首都スーサを崩壊させた。当時はスーサが(シュメールから見た)東方からの物資が集中する供給拠点で首都の役割も持っていた。

スーサ陥落の後、エラムの司令塔(首都)はアラッタに移った。アラッタとの対決・交渉する王もキシュ王からウルク王に移った。

物語は両者の和解が成立しシュメールへの物資供給が正常化し めでたしめでたしで終わる。物語中のシュメール側の攻撃姿勢にもかかわらず、両者の関係は対等だったようだ。

エンメルカル、ルガルバンダ両王の実在性の確証はない。

ギルガメシュ

ギルガメシュは『ギルガメシュ叙事詩』の主人公として王名表の中でも、初期王朝時代の人物でも最も有名な王だ。ただし、彼の実在性を確証するものが出土していない。

英雄譚の中で、史実に関係がありそうなものの一つとして、『ギルガメシュとアッガ』という物語がある(これは『ギルガメシュ叙事詩』には含まれない)。

ここに登場するアッガはキシュ第1王朝の最後の王アッガだ。物語では、アッガ王がウルクを屈服させようとするが、ウルクギルガメシュは屈服することを良しとせずに立ち向かい、ウルクを包囲していたアッガ王を捕らえることに成功した。しかしギルガメシュはアッガを解放しキシュに返した。

ギルガメシュ叙事詩<<wikipedia」では「ギルガメシュがアッガに戦勝したことでウルクに王権が移ったと伝えられている。この背景を踏まえて物語を振り返ってみると、『ギルガメシュとアッガ』が史料的・歴史的事実の反映を伝えているのは明らかである」と書いているが、これを史実とすると、上のエンメルカル、ルガルバンダ両王がシュメールの盟主だという仮説が怪しくなる。ギルガメシュの王権奪取説も仮説だが。



キシュ王エンメバラゲシ、エンメルカル、ルガルバンダとアラッタの対決・交渉をみると、この3王はシュメールの盟主(宗主国の王)となって、東方の王と対峙した、と考えることができるだろう。古代で言えばギリシアアテナイ、現代でいえばアメリカの元首とおなじ役割を担っていたのだろう。

上の仮説が仮に当っているとすれば、おそらく初期王朝時代の第Ⅱ期の時代だろう。

*1:パブリック・ドメイン、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sumeriankinglist.jpg#/media/File:Sumeriankinglist.jpg

*2:後藤健/筑摩選書/2015/p42-43

メソポタミア文明:初期王朝時代③ 第ⅢA期/ウル王墓/ウルのスタンダード

記事「メソポタミア文明:初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」の第2節「政治史的動向」に第Ⅱ期は「点在していた都市国家や中小村落が統合されて一つの領域を形成していく過渡期の時代」と書いたが、第ⅢA期もその過渡期は続いていた。

この記事では南メソポタミアの一角を占める有力な都市国家でありウルの様子を書いてみる。

ウル「王墓」

(参考文献:小林登志子著『シュメル』(p115-116)*1前川和也編著『図説メソポタミア文明』(p29-31)*2

大英博物館ペンシルベニア大学の共同調査の下で、ウルでの発掘が行われた。この調査は1922年に開始されたが、初期王朝時代の遺跡が発掘されたのは1927年のことである。

この発掘を指揮したレオナード・ウーリーはこれを「王墓」と主張し、「王墓」は16あるとした(異説あり)。

時期と王族

(参考文献:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p172-175(前川和也氏の筆) )

時期は前2600年頃から使用されていた。

出土した短剣や円筒印章には「王」メスカラムドゥ・「王」アカラムドゥなどの名が記されてあったが、このうちメスカラムドゥは、ユーフラテス川中流域のセム人の都市マリの遺跡で発見された奉納碑文に、「キシュ王メスカラムドゥの息子たるウル王メスアンネパダ」と読める箇所があることから、メスカラムドゥ王は実在したと推定されている(「キシュ王」とはキシュの王を意味するのではなく、北方にまで支配権を及ぼそうとした諸都市王が、好んで用いた称号。メスアンネパダは「王名表」にウル第1王朝の創始者として名が載っている。メスカラムドゥ・アカラムドゥは載っていない)。

ウル王墓から離れるが、ウルの近くのアル・ウバイド遺跡からメスアンネパダののちに息子アアンネパダがウル王となったことを示す碑文も発見されている(アアンネパダの名は「王名表」に載っていない)。

メスアンネパダ王以降の時期から王碑文が各地で出土するのでメソポタミアの政治史がかなりよくわかるようになるらしい。

副葬品

副葬品には金、銀、青銅、ラピスラズリ、紅玉などがふんだんに使われたアクセサリ、像、楽器などがあり、多数の殉死者までいた。当時の権力の強さがうかがわれる。文字資料は極めて少ない。

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黄金の短剣 長さ37センチ。ラピスラズリのつかと黄金の短身をもつ。イラク博物館蔵
出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p173

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牡山羊の像 2体1対のオス山羊の像。大英博物館
出典:牡山羊の像<<wikipedia*3

そして遺物の中で最も重要なものが、以下の「ウルのスタンダード」と呼ばれるものだ。

「ウルのスタンダード」

高さ21.6cm、幅49.5cm、奥行4.5cmの横長の箱で、前後左右それぞの面にラピスラズリ、赤色石灰岩、貝殻などを瀝青(ビチューメン)で固着したモザイクが施されている。大きな面の一方には戦車(チャリオット)と歩兵を従えたウルの王が敵を打ち負かす「戦争の場面」、その反対側の面には山羊や羊、穀物の袋などの貢納品が運ばれ王と家臣が宴会を楽しむ「平和の場面」(「饗宴の場面」)が描かれている。大英博物館に所蔵されているシュメールの代表的な美術工芸品である。

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出典:ウルのスタンダード<wikipedia*4

これを所蔵している大英博物館は前2500年のものとしている。

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「戦争の場面」

「戦争の場面」の下段には、4頭立ての戦車(チャリオット)が4両あるが、左から右にいくにしたがって前足があがっており、一台の戦車が次第に速度を増していく様子を描いているとも解釈できる[4]。この戦車を牽いているのは馬ではなく、オナガー(アジアノロバ)とする説が有力であり[4]、その足元には敵の死骸も描かれている。戦車には弓兵の姿は見られず、槍を構えた兵が描かれているが、これは当時弓兵がいなかったことを示すものではなく、都市間戦争が一般に接近戦であったため弓が不向きであったことなどが理由として考えられる[5]。中段左には冑をかぶりマントを身に着け手斧をもった8人のウル兵士が、中央には敵を捕らえた兵士、そして右側には胸や頭を負傷し敵兵の姿が描かれている。上段中央は王であるが、モザイクが欠損しているためその表情や服装は不明である。王の左には3人の高官が、右には連行されてきた敵兵の姿がみえる。

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「饗宴の場面」「平和の場面」

「平和の場面」の中段から下段は王に牡牛、山羊、羊、魚、穀物をいれた袋などさまざまな地域からの献上品を運ぶ列で、いずれも胸の前で手を組む恭順の仕草を示した人物に率いられている[6]。上段左から3人目の人物は、ひときわ大きくまた腰に巻いたカウナケス(Kaunakes、羊皮の腰巻)も細かく描写されていることから、ウルの王であることが伺える[7]。また上段右から二人目の楽師が手にする牡牛の竪琴と同じ形の竪琴がウル王墓から出土している。また楽師の背後の人物は一見髪が長く女性のようであるが、上半身裸という男性の服装で(当時の女性は片方の肩だけを露出する服装であった)実際は去勢された男性歌手(カストラート)であると考えられている[8][9]。このことからウルのスタンダードには女性が一人も描かれていないことになるが、こうした王妃も王女も描かれない図柄は他のシュメール初期王朝時代の飾り板などにもみられ、古代メソポタミア都市国家ラガシュの王グデアの碑文にも女性は不浄であるため神殿工事からは除外することが記されており、こうした考えからスタンダードにも女性が描かれなかったものと考えられる[9]。 ウルのスタンダードは、都市国家に豊穣をもたらすことと戦争に勝利することという、王の果たすべき二つの大切な役目を美しいモザイクで表したものであり、シュメールの洗練された文化を示すものである[10]。

出典:ウルのスタンダード<wikipedia*5  (この文章はほとんど『シュメル』(p120-124)に頼っている)

『シュメル』(p124)によれば、馬は前3000年末には南メソポタミアに登場している。



*1:中公新書/2005

*2:河出書房新社(ふくろうの本)/2011

*3:写真の著作者:Jack1956/ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Raminathicket2.jpg#/media/File:Raminathicket2.jpg

*4:写真の著作者:Denis Bourez/ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Denis_Bourez-British_Museum,London(8747049029)(2).jpg#/media/File:Denis_Bourez-British_Museum,London(8747049029)(2).jpg

*5:「戦争の場面」 「饗宴の場面」の写真:パブリック・ドメイン/ダウンロード先:「戦争の場面」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Standard_of_Ur-War.jpg#/media/File:Standard_of_Ur-War.jpg 「饗宴の場面」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Standard_of_Ur-peace_side.jpg#/media/File:Standard_of_Ur-peace_side.jpg

メソポタミア文明:初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期

前回、時代区分のところで書いたが、第Ⅰ期・Ⅱ期などの時代区分は考古学の研究成果によるもの(編年)で、政治史としてこの時代区分を使用するのは、便宜的に使用しているだけだ。言い換えれば、政治史としての区分でなく、考古学の区分に政治史を当てはめているだけだ。

上のことを留意しながら、第Ⅰ期・Ⅱ期について書いていこう。

第Ⅰ期・Ⅱ期は、まだ楔形文字の文字体系が確立しておらず文字史料がほとんどない。

考古学より

西アジアの考古学』によれば、考古学資料が少ないことを指摘した上で、以下のように書いてある。

そのような考古学資料の中で、たとえば円筒印章は闘争図柄の初出(EDⅡ)、銘文の出現(EDⅢ)など著しい様式の変遷をたどることができるといわれている。また、交易品と考えられるラピス・ラズリや石製容器のEDⅢ期における増大、あるいは金属器がEDⅡ期以後に著しい発達をみせることなどが指摘されている(Mallowan 1971)。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p148

また、ディヤラ川流域で出土した「ディヤラ式彩文土器」または「緋色土器(スカーレット・ウェア)」はEDⅠ期の指標となっている*1国士舘大学イラク古代文化研究所のハムリン地域を紹介するページで彩文土器を紹介している。写真あり)。

政治史的動向

小林登志子著『シュメル』から

前2900年頃に始まる初期王朝時代は、シュメルの都市国家間で覇権をめぐり、あるいは交易路や領土問題などから争いが絶えない戦国時代であった。

初期王朝時代は第Ⅰ期(前2900-2750年頃)には都市国家間の戦争が頻繁にあったことから城壁の内側に人々が住むようになり、第Ⅱ期(前2750-2600年頃)も戦争状態は変わらなかった。第ⅢA期(前2600-2500年頃)には、ラガシュ、ウンマ両市間の争いをキシュ市のメシリム王が調停するほどの勢力を示していた。第Ⅲ期(前2500-2335年頃)になると、ラガシュ、ウンマ両市の約100年にわたる戦争がラガシュの王碑文に詳細に書かれ、これは戦争についての最古の歴史的記録になる。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p113(文字修飾は引用者)


ウルク期のウルクに成立した都市国家は、ジェムデトナスル期と初期王朝時代第1期の期間にはその数があまり増えない。急速に規模と数を増し、両川下流域全体に拡大したのは第2期・第3期である。第2期からが都市国家が地域連携型の中小村落を圧倒して林立する時代であり、都市国家分立の名に相応しい時代の到来である。

出典:初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p39

  • 上の本で言うところの「地域連携型の中小村落」とは「運河や川に沿って分布し、街を結節点として地域的に連携する中小村落」のことで、ウルクのような都市国家と対比的な言葉として使っている。(p22)

記事「メソポタミア文明:ウルク期からジェムデト・ナスル期へ」の「シュメール文化圏の形成」で書いたが、ジェムデト・ナスル期には複数の都市とそれに準ずる集落(「地域連携型の中小村落」?)が形成され、一つの文化圏を形成していた。

初期王朝時代の第Ⅰ期はジェムデト・ナスル期とそれほど変化はなかった。*2

「第2期からが都市国家が地域連携型の中小村落を圧倒して林立する時代」と書いてあるが、これは『シュメル』が主張する戦争の結果だろう。点在していた都市国家や中小村落が統合されて一つの領域を形成していく過渡期の時代だ。

シュメールの「王名表」から

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出典:Sumerian King List<wikipedia*3

シュメール王名表は焼成粘土製の角柱形(高さ20cm)の古文書で*4、ウル第三王朝時代(前21世紀)に成立したらしい*5

テキストには、各時期に南部メソポタミアでもっとも力をもった諸王朝、諸王の年数が羅列されている。ひとつの時期にひとつの都市が南部メソポタミアを支配していたという前提があって、じっさいには並びたっていた複数の王朝も、あたかも継起したかのように叙述されているのである。いっぽうで、有力な都市王朝がすべて言及されてはいないし、王朝の順番も、テキストによって、ときにくいちがいがある。また初期の王たちには、異様に長い治世年数が与えられている。けれども、注意ぶかく用いるならば、この作品から初期メソポタミアの政治史について基礎的な情報を得ることができる。

出典:大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮著/世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/p165-166(前川氏の筆)

王名表は『日本書紀』のように神話と史実が入り混じっているようだ。『西アジアの考古学』(p146)によれば、シュメールを統一したサルゴン王より前の王名は「実際的」ではないらしい。それでも、考古学に照らし合わせると、実在性をうかがわせる名があるという。

初期王朝時代のものでは、キシュ第1王朝のエンメバラゲシ(Enmebaragesi)は「シュメール王名表に記載されている王の中で考古学的に実在が確認されている最古の王」*6として一番有名らしい。エンメバラゲシは物語『ギルガメシュとアッガ』に出てくるアッガ王(キシュ王)の父なのでギルガメシュウルク王)とアッガも実在したと考えられている。

エンメバラゲシがどの時代に生きていたのかは諸説あるが、ここでは「前27世紀」という後藤健氏の主張を採用しておこう。後藤氏によれば、王名表に「キシュのエンメバラゲスィ、エラムを撃つ」という文句があり、スーサ(エラム)の考古学研究の成果から前27世紀のメソポタミアの支配者(キシュ市の王エンメバラゲシ)によるスーサ侵略があり、その後スーサの繁栄は終わった、とする(後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p42-44)。

ギルガメシュとアッガは前27世紀か前26世紀となるだろう。

ほかにはウル第1王朝の創始者メスアンネパダが挙げられる。「メスアンネパダ<wikipedia」によれば、ギルガメシュと同時代の人物だとのこと。

(キシュ王エンメバラゲシとスーサについては、記事「シュメール文明の周辺① エラムまたはイラン(その1)原(プロト)エラム文明」第三節「エラムの考古学」も参照のこと。)



ギルガメシュとアッガ」の物語は、『史記』を読んでいるようで面白い。「ギルガメシュ叙事詩wikipedia」に簡単に書いてある。前川和也氏によれば、この物語より、ウルクがキシュに臣従していた、としている。キシュ王アッガに勝利したウルクギルガメシュは、Ⅲ期には既に神格化されていたという*7

*1: 小口裕通「メソポタミア考古学研究の近年の歩み」(PDF )(西アジア考古学 第9号/2008/p19-25/©日本西アジア考古学会)

*2:『初期メソポタミア史の研究』p21では参考にしたアダムズ氏の主張に従ってジェムデト期と初期王朝時代第Ⅰ期を合わせて一時代としている。

*3:パブリック・ドメイン、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sumeriankinglist.jpg#/media/File:Sumeriankinglist.jpg

*4:西アジアの考古学/p142

*5:大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮著/世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/p165(前川氏の筆)

*6:エンメバラゲシ<wikipedia

*7:世界の歴史1/p171

メソポタミア文明:初期王朝時代① 時代区分/範囲/民族および言語

これから数個の記事に亘って初期王朝時代のことを書いていく。

初期王朝時代を簡単に言ってしまえば、「(都市)国家分立時代」となる。同様の時代は古代ギリシアや中国の春秋戦国時代などがある。

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Map showing the extent of the Early Dynastic Period (Mesopotamia)

出典:Early Dynastic Period<wikipedia英語版*1

時代区分

初期王朝時代(Early Dynastic Period、前2900-紀元前2350年)は考古学の時代区分で、シュメール文明の3番目の時代に当たる。

  • ウルク期(前3500-3100年)
  • ジェムデト・ナスル期(前3100-2900年)
  • 初期王朝時代(前2900-紀元前2335年)

初期王朝時代にはさらに以下のように分かれる

  • 第Ⅰ期(前2900-2750年)
  • 第Ⅱ期(前2750-2600年)
  • 第ⅢA期(前2600-2500年)
  • 第ⅢB期(前2500-2335年)

上の時代区分については小林登志子著『シュメル』*2による。

さて、上の時代区分は考古学の研究成果による区分であることは要注意だ。

この考古学における時代区分(編年)については、小口裕通「メソポタミア考古学研究の近年の歩み」(PDF)(西アジア考古学 第9号/2008/p19-25/©日本西アジア考古学会)に書いてあったので抜粋する。

《初期王朝時代についての編年は、バグダードの北東のディヤラ川流域にあるテル・アスマル(Tell Asmar)及びカファジェ(Khafaje)の発掘調査からの層位的証拠を基盤にして樹立されたものであることは周知のことがらであろう。》

《南メソポタミアでも、そのような時期細分を採用し、ディヤラ地域との遺物の比較によってそれぞれの遺跡の層位の時期決定を行うようになっていった。》

  • ディヤラ(Diyala)川は上の地図参照。

なぜディヤラ川流域の発掘調査に頼らなければならないのかというと、『西アジアの考古学』*3によれば、遺物による考古学的復元が比較的可能になるのがこの地帯に限定して頼らざるをえないとのことだ。

この編年を南メソポタミアに当てる問題として小口氏は、《第Ⅱ期の指標となる土器(2 タイプのみ)が出土しない》ということを挙げている。

さらに、《初期王朝時代第Ⅲb期の土器のタイプのほとんどが所謂アッカド王朝時代に入っても継続して製作され、使われ続けていたのではないか》という「疑問」を呈している。この「疑問」が正しければ、《史的観点からなされる政治史的区分と考古学的観点から行われる物の編年が》一致しないという。

考古学の編年は土器などの遺物から物質文化の変容によって算出されるのだから、考古学の編年と政治史における時代区分が一致しなくても全く不思議ではない。

考古学学界学会その他で使用されている編年は、だいたいが数十年前に提示され普及されたものが、その後の研究により実態に合わなくなったにも関わらず学界の多くが納得する新たな編年が生まれないために、昔の実態に合わない編年を「便宜的に」使用している場合が多い。

初期王朝時代はさらに考古学編年と政治史時代区分のズレがあるので、さらに実態に合っていない。そういうわけで上の時代区分も便宜的なものに過ぎない。

範囲(舞台)

上の地図で分かるように南メソポタミアに限定されている。

下は初期王朝時代最末期にルガルザゲシが南メソポタミアをほぼ統一した時の勢力図。この後に彼はアッカドサルゴンによって滅ぼされ、初期王朝時代は終わり、アッカド王国時代が始まる。

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Lugal-Zage-Si’s domains (red), c. 2350 BC

出典:Lugal-Zage-Si<wikipedia英語版*4

ちなみに、北メソポタミアではニネヴェ5期という考古学編年の時期。

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/巻頭ⅵページ

民族および言語

メソポタミアで発掘された文書により言語と民族の構成について分かることがある。

言語は主としてシュメール語であるが、南メソポタミアの北部(のちにアッカド地方と呼ばれる)ではOld Akkadianというセム語族の言語の人名が含まれていることから、セム系の人々(のちのアッカド人?)がいたことが分かる(南部つまりシュメール地方はシュメール人が住んでいた)。



*1:著作者:Zunkir/ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Dynastic_Period_(Mesopotamia)#/media/File:Basse_Mesopotamie_DA.PNG

*2:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/巻頭の本書関連年表より

*3:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p148

*4:著作者:Zunkir、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Lugal-zage-si

メソポタミア文明:ウルク・ネットワークの広がり(物流網/文化の拡散/都市文明の拡散)

メソポタミアは、このブログで何度も触れているように、資源というものがほとんど無い。都市と市民の生活の維持に必要な物資は他の地域から輸入しなければならない。

ウルク期の前の時代、ウバイド期の後半に南メソポタミアと他の地域をつなぐ物流網は既に出来上がっていた(記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」参照)。ウルク期はこれを引き継ぎ、さらに拡大していった。

ウルクの文化・文明はこの物流網に乗って拡散したが、場所によって濃淡がある。この記事ではこの濃淡の部分も焦点の一つだ。

物流網

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p131

ウバイド文化の広がりよりも拡大している(ウバイド文化の広がりは「ウバイド文化の拡大」参照)。

物流拠点への移民

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Map of the Middle East during the last centuries of the 4th millennium BC: archaeological sites of the “urukean expansion”

出典:Uruk expansion<wikipedia英語版*1

移民でいちばん有名な場所は、シリアのハブーバ・カビーラ南(Habuba Kabira)で、ここはウルクに次ぐ二番目の都市だ。

「Uruk expansion<wikipedia英語版」によれば、ハブーバ・カビーラ南のほか、アナトリア(トルコ)のArslantepe、西イランのGodin Tepe、北西イランのTepe Gawraなどが挙げられている。上の地図には出ていないが、およそ前3600年には、コーカサス山脈黒海カスピ海のあいだを走る山脈)の北にまでウルクのネットワークは伸びている。

物流網の範囲

物流網はウルクの人びとだけが動いていたという意味ではなく、ウルク流入してくる主要な資源が通る経路くらいを意味している。

北方:上にあるように、北コーカサスにまで伸びている。

西方:シリア・トルコまで。『メソポタミアとインダスのあいだ』(後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p36)によればエジプトにもウルク文化が流入していたようなので、ウルクとは地中海経由で間接的に繋がっていたかもしれない。

南方:ウバイド期はウバイド人がアラビア半島の北東の海岸沿いにおそらく真珠の最終を目的に訪れていたが、ウルク期はこのネットワークが途絶えた。真珠の需要がなくなったのかもしれない。

東方:ウバイド期に比べて、飛躍的に拡大した。ネットワークはアフガニスタンを越えてインダス川にまで達したが、このネットワークはインダス文明誕生に関わっている(カテゴリー「インダス文明」参照)。

イランより東はおそらくエラム人たちが担っていただろう(エラムはいらん西南の山地部)*2。スーサ(Suse)を集積拠点として東方の物資を南メソポタミアに運んだ。

ロバの家畜化と車輪の発明

ウルク期中期(前3400-3300年)まではネットワークは主に河川(船)を利用していたが、この時期以降、荷車を使用した運搬も加わるようになった。

[車輪と荷車の開発と]同時に、野生ロバが家畜化され、橇(そり)や荷車の牽引に利用されはじめる。中部メソポタミアのテル・ルベイデ(ウルク中期)や、ハブーバ・カビーラ南(ウルク後期)などでは、家畜化されたロバの骨が検出されている。また、パレスティナ地方の墓からは、籠を背中に積んだロバ形模型が出土して、ロバが荷物の運搬に利用されていたことを示す。さらに、ロバの引く荷車の車輪らしき土製品がウルでも見つかり、荷車はロバの家畜化とともにウルク期後半の発明とされる。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p158

文化の拡散

物流もに比べると文化の広がりはそれほど大きくない。

文化の広がりは遺物によって証明される。『西アジアの考古学』(p127-132)によれば、ベベルト・リム・ボウル(碗)というウルク文化を代表する土器セットの一部が西アジア各地で出土している。日常的に使われた食器のたぐいのようだ。

もう一つは、物流に伴う遺物だ。記事「文字の誕生 前編(ウルク古拙文字)」で触れたブッラや粘土板は、取引の伝票や簿記の役割を果たしていたが、これらもまた広範囲に渡って出土している(ユーフラテス河中流域からイラン高原中央部まで)。

ただし、上に書いた2つの証拠はウルク後期のもので、さらに言うならば、この範囲の人々が、それまで持ち続けていた文化を投げ捨ててウルク文化を受け入れたわけではもちろん無い。そんなことは日本史を振り返れば分かることだろう。ハブーバ・カビーラ南のようにウルク文化の土器セットがそろっているところもあれば、独自の文化を保ちつつウルク文化を受容したところもある。

都市文明の拡散

都市文明の広がりはもっと狭い。都市文明は南メソポタミアにしか広がらなかった。これは初期王朝時代は、南メソポタミアだけで展開していたことを考えれば分かることだろう。

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Map showing the extent of the Early Dynastic Period (Mesopotamia)

出典:Early Dynastic Period<wikipedia英語版*3

ウルクワールドシステム」

メソポタミア南部に発したウルク期の文化は、メソポタミア全域とその周辺諸地域に急速に広がり、南メソポタミア型の都市、・集落群が広範囲に形成された。これは「ウルク文化の大拡張」として知られる。ギレルモ・アルガセの「ウルク・ワールド・システム論」は、メソポタミア文明の起源論に刺激的な一石を投じだ。同論では、ウルクが遠隔地産物資獲得のための水陸のルートを支配するために、自らの拠点を各地に設置(植民)し、これをネットワーク化したというのだ。ウルク・ワールド・システムは以下の四つの段階を経て完成したとされる。

最初ウルクは (A)メソポタミアの東に隣接するエラム地方に植民を行ない、東方に広がるイラン高原からの物資輸送ルートの確保を図った。次の段階で、ウルクは (B)ティグリス、ユーフラテス両河の上流に植民を開始し、小規模な拠点を設置した。さらにウルクは (C)特にユーフラテス河上流の開発を続け、シリア、アナトリアにおいて、ウルク文化をもつ大規模植民都市を設置した。最後の段階で、ウルクは (D)北メソポタミアや西南イランに拠点を設置し、そこを経由する輸送ルートの確保を図った。

ウルク文化がアルガゼの主張の通りに展開したかどうかについては議論があるが、それが急速に広がったという事実は、各地の都市集落で出土する同文化に特有の土器群によって跡づけられている。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p33

「(近代)世界システム論」といえばウォーラステイン氏を思い浮かべるが、この理論は1970年代からあったようで*4、アルガゼ氏はこの理論をウルク期に当てはめようとした(ウォーラステイン氏の理論をそのまま当てはめようとしたのかどうかは分からない)。

しかし「(近代)世界システム論」が批判にさらされているように、上の理論も批判されている。

ウルクワールドシステムの提唱後、南東アナトリアや北シリアなどにおけるさらなる調査結果の蓄積により、南メソポタミアウルク文化が北方へ拡大していった様子が次第に明らかにされていった。結論として、北方諸地域におけるウルク文化の拡大は、ウルク中期後半に初現していて、すでに北方の在地社会の一部は複雑化していたことが明らかにされてきている。

こうした新資料に立脚して、南方の「中心」に対して北方の「周辺」社会は、けっして後進地域ではなく、独自の交易網を整備していたことも指摘されている。つまり、ウルクワールドシステムの根幹を成していた、先進の南メソポタミアウルク文化と後進の北方の在地諸文化という構図、あるいは「中心」が「周辺」を支配しつづけていたという不平等な関係だけでは説明しきれなくなっている。それほどまでに、ウルク期のメソポタミア周辺地域は複雑化していたのである。

ウルクワールドシステムへの反動として、同じ考古学的な事象が異なる視点で再検討されていった。「中心」と「周辺」の関係は、南方ウルク文化と在地文化に置き換えられて、両地域間の非対称な経済的関係は多様性の一つとして再解釈されていった。南方ウルク文化の一元的な支配に代わって、在地文化の地域的な機能や役割が注目されて、南方ウルク文化と在地諸文化の関係が競合や模倣などの対等な関係で捕らえ直されていった。かつて、周辺地域がウルク文化の植民地と呼ばれることもあったが、今ではほぼ死語になっている。

出典:都市の起源/p161

「世界システム論」のような近代ヨーロッパ中心主義的な歴史観は、特に21世紀に入ってから現在まで批判され、再検討されている。ウルクワールドシステムも同類に批判されているようだ。ただし、このような理論がまるまる捨て去られているわけではなく、取捨選択して利用しようとしているようにみえる。

ウルクネットワークの崩壊

ウルク期は前3100年に終わるが、ウルクの植民地群のネットワークもこの頃に崩壊した*5。それまで「メソポタミア化」していたイランのスーサは、崩壊後にはイランの文化に帰っていった*6

ウルクネットワークの崩壊については分からない。「Uruk period<wikipedia英語版」の節 End of the Uruk period に2つの説が書いてあるが、通説にはなっていないようだ。



*1:著作者:Zunkir /ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Uruk_period#/media/File:Uruk_expansion.svg

*2:メソポタミアとインダスのあいだ』(p37~)参照

*3:著作者:Zunkir/ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Dynastic_Period_(Mesopotamia)#/media/File:Basse_Mesopotamie_DA.PNG

*4:World-systems theory<wikipedia英語版

*5:メソポタミアとインダスのあいだ/p34

*6:同/p39-40

メソポタミア文明:戦争のはじまり/「国家」の誕生

戦争
現在では,国家を含む政治的権力集団間で,軍事・政治・経済・思想等の総合力を手段として行われる抗争(内乱も含む)をいう。従来は,狭く国家間において,主として武力を行使して行われる闘争のみが戦争と定義されていた。

出典:百科事典マイペディア<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

「戦争」と言えば、国家どうしの戦いのことを指すのが普通だが、この記事では、国家形成以前に戦争がはじまった、としている。

しかし、「戦争」が本格化していくのは、複数の有力な都市国家が現れて覇権争いを繰り返す初期王朝時代に入ってからになるだろう。

実は この「戦争」と《「国家」の誕生》は関係がある。

戦争のはじまり

さかのぼれば新石器時代にはすでに戦争は北部メソポタミアで起こっていた。ハッスーナ文化期(前6000-5000年頃)後期にテル・エス・サワン遺跡は全体が周濠に囲まれ、後期になると城壁で囲まれていた。チョガ・マミ遺跡では城壁と灌漑用水路らしき溝がともに発見されている。周濠や城壁は敵の来週に備えた防備のための設備であって、当時すでに灌漑農耕社会における土地争いが起きていたことを示している。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p112


6000年前ころから、社会的緊張の高まりがメソポタミアとその近隣地域に波及して、あちこちで防衛用の壁や施設が構築されていった。それに併せて自衛のための武器も開発されていく。ウル胃液では、ウバイド終末期の段階で、銅製の槍先や磨斧、棍棒頭などが副葬されていて、集落を護る軍人の職能が生じていた。武器類の出現は先行期には見られなかった新しい一面である。「ならず者」が特定の集落に侵入してきた際、自衛のために使われたと推定される。

ただ、いずれも小型の規格であり、これだけでは当時の社会に戦争が起きていたことにはならない。その[(戦争が起きていたことの)]証明には、戦闘用の各種武器をはじめ、戦争を起こす国家的な権力、戦時に街を護る堅固な城壁、戦後処理としての捕虜・奴隷の収容施設など、さまざまな事象がそろってこなければならない。[中略]

ウルク中期後半になると、交易や市場の活性化により、良からぬ「ならず者」との接触がいっそう増えて、簡易な防衛施設だけで都市敵集落を護ることが難しくなる。自衛対策だけでは集落の防御施設だけで都市的集落*1を護ることが難しくなる。自衛対策だけでは集落の防御は不足となり、長距離の交易ルートも必要となって、本格的な城壁の建造とともに武器の開発が進行していく。城壁や武器によって護るのは住民や余剰食糧だけでなく、遠隔地から運んできた貴重な資源や、それを原料として生産された製品も含む。

そして、ウルク後期には社会的緊張が極度に高まり、都市的集落の人や資源などの富を護るために、「ならず者」やその予備軍的な存在を先に叩く攻撃的な側面も付加されていく。権力をもつ支配者によって、武器の開発とともに攻撃力を備えた軍隊組織が形成されていき、敵の攻撃を想定した堅固な城壁が建設されていく。戦争により生じる捕虜は連行され、勝者の奴隷となる。戦争を示唆する一連の証拠はウルク後期にそろってきていることから、西アジアでは約5300年前に本格的な戦争が起き始めたといえる。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p119-204(太字強調は引用者による)

ウルク後期はウルク市で都市が誕生したばかりの時期で、ほかの都市は、小泉氏によれば、北シリアのハブーバ・カビーラ南だけだがこの都市はウルクが鉱物などの資源を調達するための植民都市だった。

このように考えれば、戦争のはじまりは、「都市ウルク」vs「ならず者」ということになるのだろう。ここでいうところの「ならず者」は都市ウルクからの視点によるもので、ウルク周辺の発展途上の集落も含むのだろう。

そして小泉氏のいう「都市的集落」(都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落)の幾つかが、都市としてウルクに対抗できる存在になった時、初期王朝時代へと向かっていくことになる。

捕虜奴隷

戦争に敗北したために奴隷にされた「捕虜奴隷」がいた。現代は、戦争があっても捕虜の人権に一定の配慮がなされている。だが、近代以前の社会にあっては戦争で負ければ、過酷な運命が待っていた。戦争捕虜の男性は反乱を起こすことを恐れて殺され、女性たちは捕虜として敵国に連れて行かれたが、彼女たちに男の子がいた場合には問題であったことを「アマルク(ド)」という言葉が表している。

第二章でも話したようにシュメルでは農民も家畜を飼い、また周辺の荒野には遊牧民がいて、家畜の去勢は古くからおこなわれていた。その技術が人間の去勢へと展開したようだ。アマルク(ド)という語は本来「去勢された若い牛(若い大型動物)を意味したが、ウル第三王朝時代のラガシュ市から出土した文書では、若い成人男性や少年にもアマルク(ド)の語が使用されていて、「去勢された若者」を意味した。戦争捕虜として連れて来られ、羊毛紡ぎ(つむぎ)などをさせられた女性たちの息子が将来反乱を起こしたり、逃亡したりすることを前もって防ぐために去勢されたようだ。

出典:シュメル/p151-152

上のような話は、オリエント世界や古代ローマの歴史の本にも出てきた。中国・明帝国鄭和は たしか「アマルク(ド)」だったはずだ。著者は「現代は、戦争があっても捕虜の人権に一定の配慮がなされている」と書いてるが、国際社会を気にも留めない勢力は現代にもいると思うがどうだろう。

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ウルク遺跡で見つかった円筒印章の陰影

出典:都市の起源/p203

《「国家」の誕生》あるいは《「国家」の形成》

小泉龍人著『都市の起源』では《「都市」の誕生》と《「国家」の誕生》を区別している。

自説として、古代西アジアでは都市と国家は同時に登場しなかった。都市が誕生した後、その都市を軸として国家的な仕組みが構築されていき、実効支配領域をともなう都市国家が出現することになる。

つまり、国家とは、複雑に発展していった都市社会がたどり着いた到達点であり、国家なしに都市は存在しうるが、都市の存在しない国家は西アジアでは考えにくい。

ウルク後期、シュメール地方にはウルクの街しかなかったため、ひとり勝ち状態の「都市」には国家的な権力は未熟な状態であった。まもなくして、ライバルの都市が多数出現することで、互いに競合するようになり、本格的な権力をともなう「都市国家」へと発展したのである。

出典:都市の起源/p197

「国家的な仕組み」=「国家」とすれば、まず「戦争」がはじまる前に未熟な状態の「国家」が形成され、複数の国家が「戦争」を含む「競合」をするようになり、より合理的な政治・行政の構築を迫られ、その結果、《本格的な権力をともなう「都市国家」》が完成した。



*1:「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。――引用者注