南メソポタミアは、このブログで何度も触れているように、資源というものがほとんど無い。都市と市民の生活の維持に必要な物資は他の地域から輸入しなければならない。
ウルク期の前の時代、ウバイド期の後半に南メソポタミアと他の地域をつなぐ物流網は既に出来上がっていた(記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」参照)。ウルク期はこれを引き継ぎ、さらに拡大していった。
ウルクの文化・文明はこの物流網に乗って拡散したが、場所によって濃淡がある。この記事ではこの濃淡の部分も焦点の一つだ。
物流網
出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p131
ウバイド文化の広がりよりも拡大している(ウバイド文化の広がりは「ウバイド文化の拡大」参照)。
物流拠点への移民
Map of the Middle East during the last centuries of the 4th millennium BC: archaeological sites of the “urukean expansion”
出典:Uruk expansion<wikipedia英語版*1
移民でいちばん有名な場所は、シリアのハブーバ・カビーラ南(Habuba Kabira)で、ここはウルクに次ぐ二番目の都市だ。
「Uruk expansion<wikipedia英語版」によれば、ハブーバ・カビーラ南のほか、アナトリア(トルコ)のArslantepe、西イランのGodin Tepe、北西イランのTepe Gawraなどが挙げられている。上の地図には出ていないが、およそ前3600年には、コーカサス山脈(黒海とカスピ海のあいだを走る山脈)の北にまでウルクのネットワークは伸びている。
物流網の範囲
物流網はウルクの人びとだけが動いていたという意味ではなく、ウルクに流入してくる主要な資源が通る経路くらいを意味している。
北方:上にあるように、北コーカサスにまで伸びている。
西方:シリア・トルコまで。『メソポタミアとインダスのあいだ』(後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p36)によればエジプトにもウルク文化が流入していたようなので、ウルクとは地中海経由で間接的に繋がっていたかもしれない。
南方:ウバイド期はウバイド人がアラビア半島の北東の海岸沿いにおそらく真珠の最終を目的に訪れていたが、ウルク期はこのネットワークが途絶えた。真珠の需要がなくなったのかもしれない。
東方:ウバイド期に比べて、飛躍的に拡大した。ネットワークはアフガニスタンを越えてインダス川にまで達したが、このネットワークはインダス文明誕生に関わっている(カテゴリー「インダス文明」参照)。
イランより東はおそらくエラム人たちが担っていただろう(エラムはいらん西南の山地部)*2。スーサ(Suse)を集積拠点として東方の物資を南メソポタミアに運んだ。
ロバの家畜化と車輪の発明
ウルク期中期(前3400-3300年)まではネットワークは主に河川(船)を利用していたが、この時期以降、荷車を使用した運搬も加わるようになった。
[車輪と荷車の開発と]同時に、野生ロバが家畜化され、橇(そり)や荷車の牽引に利用されはじめる。中部メソポタミアのテル・ルベイデ(ウルク中期)や、ハブーバ・カビーラ南(ウルク後期)などでは、家畜化されたロバの骨が検出されている。また、パレスティナ地方の墓からは、籠を背中に積んだロバ形模型が出土して、ロバが荷物の運搬に利用されていたことを示す。さらに、ロバの引く荷車の車輪らしき土製品がウルでも見つかり、荷車はロバの家畜化とともにウルク期後半の発明とされる。
出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p158
文化の拡散
物流もに比べると文化の広がりはそれほど大きくない。
文化の広がりは遺物によって証明される。『西アジアの考古学』(p127-132)によれば、ベベルト・リム・ボウル(碗)というウルク文化を代表する土器セットの一部が西アジア各地で出土している。日常的に使われた食器のたぐいのようだ。
もう一つは、物流に伴う遺物だ。記事「文字の誕生 前編(ウルク古拙文字)」で触れたブッラや粘土板は、取引の伝票や簿記の役割を果たしていたが、これらもまた広範囲に渡って出土している(ユーフラテス河中流域からイラン高原中央部まで)。
ただし、上に書いた2つの証拠はウルク後期のもので、さらに言うならば、この範囲の人々が、それまで持ち続けていた文化を投げ捨ててウルク文化を受け入れたわけではもちろん無い。そんなことは日本史を振り返れば分かることだろう。ハブーバ・カビーラ南のようにウルク文化の土器セットがそろっているところもあれば、独自の文化を保ちつつウルク文化を受容したところもある。
都市文明の拡散
都市文明の広がりはもっと狭い。都市文明は南メソポタミアにしか広がらなかった。これは初期王朝時代は、南メソポタミアだけで展開していたことを考えれば分かることだろう。
Map showing the extent of the Early Dynastic Period (Mesopotamia)
出典:Early Dynastic Period<wikipedia英語版*3
「ウルクワールドシステム」
メソポタミア南部に発したウルク期の文化は、メソポタミア全域とその周辺諸地域に急速に広がり、南メソポタミア型の都市、・集落群が広範囲に形成された。これは「ウルク文化の大拡張」として知られる。ギレルモ・アルガセの「ウルク・ワールド・システム論」は、メソポタミア文明の起源論に刺激的な一石を投じだ。同論では、ウルクが遠隔地産物資獲得のための水陸のルートを支配するために、自らの拠点を各地に設置(植民)し、これをネットワーク化したというのだ。ウルク・ワールド・システムは以下の四つの段階を経て完成したとされる。
最初ウルクは (A)メソポタミアの東に隣接するエラム地方に植民を行ない、東方に広がるイラン高原からの物資輸送ルートの確保を図った。次の段階で、ウルクは (B)ティグリス、ユーフラテス両河の上流に植民を開始し、小規模な拠点を設置した。さらにウルクは (C)特にユーフラテス河上流の開発を続け、シリア、アナトリアにおいて、ウルク文化をもつ大規模植民都市を設置した。最後の段階で、ウルクは (D)北メソポタミアや西南イランに拠点を設置し、そこを経由する輸送ルートの確保を図った。
ウルク文化がアルガゼの主張の通りに展開したかどうかについては議論があるが、それが急速に広がったという事実は、各地の都市集落で出土する同文化に特有の土器群によって跡づけられている。
出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p33
「(近代)世界システム論」といえばウォーラステイン氏を思い浮かべるが、この理論は1970年代からあったようで*4、アルガゼ氏はこの理論をウルク期に当てはめようとした(ウォーラステイン氏の理論をそのまま当てはめようとしたのかどうかは分からない)。
しかし「(近代)世界システム論」が批判にさらされているように、上の理論も批判されている。
ウルクワールドシステムの提唱後、南東アナトリアや北シリアなどにおけるさらなる調査結果の蓄積により、南メソポタミアのウルク文化が北方へ拡大していった様子が次第に明らかにされていった。結論として、北方諸地域におけるウルク文化の拡大は、ウルク中期後半に初現していて、すでに北方の在地社会の一部は複雑化していたことが明らかにされてきている。
こうした新資料に立脚して、南方の「中心」に対して北方の「周辺」社会は、けっして後進地域ではなく、独自の交易網を整備していたことも指摘されている。つまり、ウルクワールドシステムの根幹を成していた、先進の南メソポタミアのウルク文化と後進の北方の在地諸文化という構図、あるいは「中心」が「周辺」を支配しつづけていたという不平等な関係だけでは説明しきれなくなっている。それほどまでに、ウルク期のメソポタミア周辺地域は複雑化していたのである。
ウルクワールドシステムへの反動として、同じ考古学的な事象が異なる視点で再検討されていった。「中心」と「周辺」の関係は、南方ウルク文化と在地文化に置き換えられて、両地域間の非対称な経済的関係は多様性の一つとして再解釈されていった。南方ウルク文化の一元的な支配に代わって、在地文化の地域的な機能や役割が注目されて、南方ウルク文化と在地諸文化の関係が競合や模倣などの対等な関係で捕らえ直されていった。かつて、周辺地域がウルク文化の植民地と呼ばれることもあったが、今ではほぼ死語になっている。
出典:都市の起源/p161
「世界システム論」のような近代ヨーロッパ中心主義的な歴史観は、特に21世紀に入ってから現在まで批判され、再検討されている。ウルクワールドシステムも同類に批判されているようだ。ただし、このような理論がまるまる捨て去られているわけではなく、取捨選択して利用しようとしているようにみえる。
ウルクネットワークの崩壊
ウルク期は前3100年に終わるが、ウルクの植民地群のネットワークもこの頃に崩壊した*5。それまで「メソポタミア化」していたイランのスーサは、崩壊後にはイランの文化に帰っていった*6。
ウルクネットワークの崩壊については分からない。「Uruk period<wikipedia英語版」の節 End of the Uruk period に2つの説が書いてあるが、通説にはなっていないようだ。