歴史の世界

メソポタミア文明:ウルク期からジェムデト・ナスル期へ

シュメール文明が誕生したウルク期と、王朝が誕生した初期王朝時代の間にジェムデト・ナスル期という時代区分がある。この区分がどのような時代なのか、なぜウルク期と区別される必要があるのかを説明してくれる文献は「Jemdet Nasr period<wikipedia英語版」くらいしかなかった。

ここでは、「Jemdet Nasr period<wikipedia英語版」を主に頼りにして書いてみる。


前3500-3100年頃 ウルク文化期。後期は前3300-3100年頃
前3100-2900年頃 ジェムデト・ナスル期
前2900-2335年頃 初期王朝時代


「ジェムデト・ナスル期」という時代区分の誕生とその後

ウルク期」や「ジェムデト・ナスル期」などは考古学の成果に基づく時代区分だ。

1920年代にジェムデト・ナスル遺跡(イラク中央部、バビロンの北東)の発掘調査が行われた。1930年にバグダッドで大きな会議が開かれ、もともとあったメソポタミアの時代区分に組み込まれた。すなわちウルク期と初期王朝時代のあいだに挿入された。

ジェムデト・ナスル遺跡の発掘は、1988-1989年に成果のある発掘調査が行われたが、1990年の湾岸戦争のため、追加の調査は中止された。その後、調査はされていないらしい。

しかし、イラク中南部の遺跡群(アブ・サラビク、ファラ、ニップル、ウル、ウルクなど)よりジェムデト・ナスル期の特徴が確認された。

ウルク期からジェムデト・ナスル期の移行

都市が誕生したウルク期と、都市国家と王が誕生した初期王朝時代のあいだにジェムデト・ナスル期が置かれている。しかし、私の手元にあるメソポタミア関連の本すべてにおいてジェムデト・ナスル期をちゃんと説明しているものはない。

ウルクの長距離の物流ネットワークが前3100年(つまりウルク期の終わりの時期)に崩壊したのだが*1、この崩壊の理由もよく分からない。

このジェムデト・ナスル期については以下のようなことも言われている。

実は「ジェムデッド・ナスル期」は時代名としては使わないことにしようという動きが一部にある(*16)。しかし現在までに新たな時代概念と名称が共通の約束事として定義されていないので、当分はこの概念を使い続けるしかない。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p34

  • (*16)の注釈を見ると、参照文献は1986年のものだった。この時期から2015年まで(おそらく現在まで)この状況は変わっていないようだ。

というわけで、ジェムデド・ナスル期という時代区分は形骸化しているのだが、新たな万国共通の時代区分が創出できないので、この「便宜的に」「しかたなく」使用されているだけのようだ。

社会

後の時代と比べると小規模ではあるが、交易が活発になり経済力が発展した。これにより巨大な建造物が築かれ、支配階級が生まれた。文字システムが簡略化されたのも時代の要請だった*2。ただし、上に書いたように長距離の物流ネットワークは崩壊している。

また中央集権化が進み、都市または集落の中心となる建物の跡からは食糧の配給などが書かれた粘土板の他に円筒印章(円筒形の印章)が見つかった。

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Jemdet Nasr Period cylinder seal from glazed steatite and modern seal impression (found in Tell Khafajah, Iraq.)

出典:Jemdet Nasr period<wikipedia英語版*3

メソポタミアの各遺跡から各都市を表す印章が発掘されていることから、お互いに密接な交易または交流があったと推測される。

小林登志子氏によれば円筒印章はウルク期後期に現れた*4。)

シュメール文化圏の形成

下の引用の「ウルク・エアンナⅢ層時代」はジェムデト・ナスル期に相当する。

「都市」リスト(Englund - Nissen 1993: 34: Abb. 16;Englund 1998: 91, Fg. 26)では、最初の4行で、ウル、ニップル、アダブ(Ararma)、ウルクが言及さている。いうまでもなく、これらの都市は実在している。では当時、リスト冒頭のウルがもっとも権威ある都市として認識されていたのだろうか。たしかにウルは、ウバイド時代からつづくセトゥルメントではあるけれども、リスト成立当時は、規模ではウルクにはるかにおよばない。さて、ウルク・エアンナⅢ層時代、アッカド地方キシュちかくのジェムデト・ナスル(古代名はおそらくNI.RU)から出土した10をこえる粘土板には、上述の4都市をふくむ計17(?)のセトゥルメント名が表象されている印章(「集合都市印章」collective cityseal)が押されており、さらに、おそらくテル・ウカイル(古代名ウルム?、ジェムデト・ナスルよりさらに北方に位置)から出土した1テキストにも、同一の印影があらわれる(Englund 1998: 92-93;Steinkeller 2002)。シュタインケラーは、「集合都市印章」は、ウルクのイナンナ神殿の祭儀費用の負担にかかわって用いられたと考えている。「集合都市印章」や「都市リスト」は、ひとびとがすでに南部メソポタミア(のちのシュメール・アッカド地域)を文化的・政治的に同質な世界と認識していたことを示す、きわめて重要な証拠であるが、ウルが当時もっとも権威ある存在とみなされていたとは、けっして結論できない。なお、「都市」リストが言及している地名が、さらに南部メソポタミアをこえてどの程度の広がりをもっていたかは、まだ、さほどあきらかではない。

出典:前川和也「<シュメール文字>文明」のなかの「語彙リスト」/セム系部族社会の形成(文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.7(2007年7月号)より)

上の文章により、複数の都市が生まれつつ、シュメールの文化圏が形成されていく状況がうかがえる。南メソポタミアこの時期以降文化文明の中心地域として機能する。

その他の特徴

土器

ジェムデト・ナスル期を代表する土器は、単色/複数色で幾何学模様または比喩的な(figurative)絵/文様が描かれたもの。しかしこのような土器は数は多くなく、もっぱら、経済活動が行われる遺跡の中心的な大きな建物跡から発見される。

小林登志子著『シュメル』*5によれば、ウルク期後期からジェムデト・ナスル期にかけて、支配者階級が生まれたことを示す美術様式が現れたとある。

文字

ウルク古拙文字がウルク期後期に誕生したが、ジェムデト・ナスル期になると大きく変化する。絵文字からシンプルかつ抽象的なデザインに変化した。さらにこの時期に「楔形」の筆跡が現れた。

「Jemdet Nasr<wikipedia英語版」はこの時期の文字を「proto-cuneiform script」と呼んでいる。

文字はもっぱら行政に使われていた。例えば食糧の配給や家畜その他のリスト作成などに使われた。王名表や文学作品はまだ現れない。

楔形文字の完全な文字体系が整備されるのは前2500年頃である。文字に関しては以下の2つの記事も参照。

rekishinosekai.hatenablog.com

rekishinosekai.hatenablog.com

数字の表記法

数字の表記法は2種類あった。一つは六十進法(sexagesimal system)で人や動物の数を表す時に使われた。現代では時間や角度を表す時に使われる。

もう一つは「bisexagesimal system」というものだが、私自身 理解できていない。穀物、チーズ、鮮魚などに使われた。



*1:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p34

*2:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p38-39

*3:著作者:Zoeperkoe、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Jemdet_Nasr_cylinder_seal_1.jpg

*4:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p86

*5:中公新書/2005/p38