歴史の世界

メソポタミア文明:初期王朝時代③ 第ⅢA期/ウル王墓/ウルのスタンダード

記事「メソポタミア文明:初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」の第2節「政治史的動向」に第Ⅱ期は「点在していた都市国家や中小村落が統合されて一つの領域を形成していく過渡期の時代」と書いたが、第ⅢA期もその過渡期は続いていた。

この記事では南メソポタミアの一角を占める有力な都市国家でありウルの様子を書いてみる。

ウル「王墓」

(参考文献:小林登志子著『シュメル』(p115-116)*1前川和也編著『図説メソポタミア文明』(p29-31)*2

大英博物館ペンシルベニア大学の共同調査の下で、ウルでの発掘が行われた。この調査は1922年に開始されたが、初期王朝時代の遺跡が発掘されたのは1927年のことである。

この発掘を指揮したレオナード・ウーリーはこれを「王墓」と主張し、「王墓」は16あるとした(異説あり)。

時期と王族

(参考文献:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p172-175(前川和也氏の筆) )

時期は前2600年頃から使用されていた。

出土した短剣や円筒印章には「王」メスカラムドゥ・「王」アカラムドゥなどの名が記されてあったが、このうちメスカラムドゥは、ユーフラテス川中流域のセム人の都市マリの遺跡で発見された奉納碑文に、「キシュ王メスカラムドゥの息子たるウル王メスアンネパダ」と読める箇所があることから、メスカラムドゥ王は実在したと推定されている(「キシュ王」とはキシュの王を意味するのではなく、北方にまで支配権を及ぼそうとした諸都市王が、好んで用いた称号。メスアンネパダは「王名表」にウル第1王朝の創始者として名が載っている。メスカラムドゥ・アカラムドゥは載っていない)。

ウル王墓から離れるが、ウルの近くのアル・ウバイド遺跡からメスアンネパダののちに息子アアンネパダがウル王となったことを示す碑文も発見されている(アアンネパダの名は「王名表」に載っていない)。

メスアンネパダ王以降の時期から王碑文が各地で出土するのでメソポタミアの政治史がかなりよくわかるようになるらしい。

副葬品

副葬品には金、銀、青銅、ラピスラズリ、紅玉などがふんだんに使われたアクセサリ、像、楽器などがあり、多数の殉死者までいた。当時の権力の強さがうかがわれる。文字資料は極めて少ない。

f:id:rekisi2100:20170608154632j:plain
黄金の短剣 長さ37センチ。ラピスラズリのつかと黄金の短身をもつ。イラク博物館蔵
出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p173

f:id:rekisi2100:20170608154707j:plain:w250
牡山羊の像 2体1対のオス山羊の像。大英博物館
出典:牡山羊の像<<wikipedia*3

そして遺物の中で最も重要なものが、以下の「ウルのスタンダード」と呼ばれるものだ。

「ウルのスタンダード」

高さ21.6cm、幅49.5cm、奥行4.5cmの横長の箱で、前後左右それぞの面にラピスラズリ、赤色石灰岩、貝殻などを瀝青(ビチューメン)で固着したモザイクが施されている。大きな面の一方には戦車(チャリオット)と歩兵を従えたウルの王が敵を打ち負かす「戦争の場面」、その反対側の面には山羊や羊、穀物の袋などの貢納品が運ばれ王と家臣が宴会を楽しむ「平和の場面」(「饗宴の場面」)が描かれている。大英博物館に所蔵されているシュメールの代表的な美術工芸品である。

f:id:rekisi2100:20170608065823j:plain

出典:ウルのスタンダード<wikipedia*4

これを所蔵している大英博物館は前2500年のものとしている。

f:id:rekisi2100:20170608164236j:plain
「戦争の場面」

「戦争の場面」の下段には、4頭立ての戦車(チャリオット)が4両あるが、左から右にいくにしたがって前足があがっており、一台の戦車が次第に速度を増していく様子を描いているとも解釈できる[4]。この戦車を牽いているのは馬ではなく、オナガー(アジアノロバ)とする説が有力であり[4]、その足元には敵の死骸も描かれている。戦車には弓兵の姿は見られず、槍を構えた兵が描かれているが、これは当時弓兵がいなかったことを示すものではなく、都市間戦争が一般に接近戦であったため弓が不向きであったことなどが理由として考えられる[5]。中段左には冑をかぶりマントを身に着け手斧をもった8人のウル兵士が、中央には敵を捕らえた兵士、そして右側には胸や頭を負傷し敵兵の姿が描かれている。上段中央は王であるが、モザイクが欠損しているためその表情や服装は不明である。王の左には3人の高官が、右には連行されてきた敵兵の姿がみえる。

f:id:rekisi2100:20170609042354j:plain
「饗宴の場面」「平和の場面」

「平和の場面」の中段から下段は王に牡牛、山羊、羊、魚、穀物をいれた袋などさまざまな地域からの献上品を運ぶ列で、いずれも胸の前で手を組む恭順の仕草を示した人物に率いられている[6]。上段左から3人目の人物は、ひときわ大きくまた腰に巻いたカウナケス(Kaunakes、羊皮の腰巻)も細かく描写されていることから、ウルの王であることが伺える[7]。また上段右から二人目の楽師が手にする牡牛の竪琴と同じ形の竪琴がウル王墓から出土している。また楽師の背後の人物は一見髪が長く女性のようであるが、上半身裸という男性の服装で(当時の女性は片方の肩だけを露出する服装であった)実際は去勢された男性歌手(カストラート)であると考えられている[8][9]。このことからウルのスタンダードには女性が一人も描かれていないことになるが、こうした王妃も王女も描かれない図柄は他のシュメール初期王朝時代の飾り板などにもみられ、古代メソポタミア都市国家ラガシュの王グデアの碑文にも女性は不浄であるため神殿工事からは除外することが記されており、こうした考えからスタンダードにも女性が描かれなかったものと考えられる[9]。 ウルのスタンダードは、都市国家に豊穣をもたらすことと戦争に勝利することという、王の果たすべき二つの大切な役目を美しいモザイクで表したものであり、シュメールの洗練された文化を示すものである[10]。

出典:ウルのスタンダード<wikipedia*5  (この文章はほとんど『シュメル』(p120-124)に頼っている)

『シュメル』(p124)によれば、馬は前3000年末には南メソポタミアに登場している。



*1:中公新書/2005

*2:河出書房新社(ふくろうの本)/2011

*3:写真の著作者:Jack1956/ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Raminathicket2.jpg#/media/File:Raminathicket2.jpg

*4:写真の著作者:Denis Bourez/ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Denis_Bourez-British_Museum,London(8747049029)(2).jpg#/media/File:Denis_Bourez-British_Museum,London(8747049029)(2).jpg

*5:「戦争の場面」 「饗宴の場面」の写真:パブリック・ドメイン/ダウンロード先:「戦争の場面」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Standard_of_Ur-War.jpg#/media/File:Standard_of_Ur-War.jpg 「饗宴の場面」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Standard_of_Ur-peace_side.jpg#/media/File:Standard_of_Ur-peace_side.jpg

広告を非表示にする