歴史の世界

メソポタミア文明:初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期

前回、時代区分のところで書いたが、第Ⅰ期・Ⅱ期などの時代区分は考古学の研究成果によるもの(編年)で、政治史としてこの時代区分を使用するのは、便宜的に使用しているだけだ。言い換えれば、政治史としての区分でなく、考古学の区分に政治史を当てはめているだけだ。

上のことを留意しながら、第Ⅰ期・Ⅱ期について書いていこう。

第Ⅰ期・Ⅱ期は、まだ楔形文字の文字体系が確立しておらず文字史料がほとんどない。

考古学より

西アジアの考古学』によれば、考古学資料が少ないことを指摘した上で、以下のように書いてある。

そのような考古学資料の中で、たとえば円筒印章は闘争図柄の初出(EDⅡ)、銘文の出現(EDⅢ)など著しい様式の変遷をたどることができるといわれている。また、交易品と考えられるラピス・ラズリや石製容器のEDⅢ期における増大、あるいは金属器がEDⅡ期以後に著しい発達をみせることなどが指摘されている(Mallowan 1971)。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p148

また、ディヤラ川流域で出土した「ディヤラ式彩文土器」または「緋色土器(スカーレット・ウェア)」はEDⅠ期の指標となっている*1国士舘大学イラク古代文化研究所のハムリン地域を紹介するページで彩文土器を紹介している。写真あり)。

政治史的動向

小林登志子著『シュメル』から

前2900年頃に始まる初期王朝時代は、シュメルの都市国家間で覇権をめぐり、あるいは交易路や領土問題などから争いが絶えない戦国時代であった。

初期王朝時代は第Ⅰ期(前2900-2750年頃)には都市国家間の戦争が頻繁にあったことから城壁の内側に人々が住むようになり、第Ⅱ期(前2750-2600年頃)も戦争状態は変わらなかった。第ⅢA期(前2600-2500年頃)には、ラガシュ、ウンマ両市間の争いをキシュ市のメシリム王が調停するほどの勢力を示していた。第Ⅲ期(前2500-2335年頃)になると、ラガシュ、ウンマ両市の約100年にわたる戦争がラガシュの王碑文に詳細に書かれ、これは戦争についての最古の歴史的記録になる。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p113(文字修飾は引用者)


ウルク期のウルクに成立した都市国家は、ジェムデトナスル期と初期王朝時代第1期の期間にはその数があまり増えない。急速に規模と数を増し、両川下流域全体に拡大したのは第2期・第3期である。第2期からが都市国家が地域連携型の中小村落を圧倒して林立する時代であり、都市国家分立の名に相応しい時代の到来である。

出典:初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p39

  • 上の本で言うところの「地域連携型の中小村落」とは「運河や川に沿って分布し、街を結節点として地域的に連携する中小村落」のことで、ウルクのような都市国家と対比的な言葉として使っている。(p22)

記事「メソポタミア文明:ウルク期からジェムデト・ナスル期へ」の「シュメール文化圏の形成」で書いたが、ジェムデト・ナスル期には複数の都市とそれに準ずる集落(「地域連携型の中小村落」?)が形成され、一つの文化圏を形成していた。

初期王朝時代の第Ⅰ期はジェムデト・ナスル期とそれほど変化はなかった。*2

「第2期からが都市国家が地域連携型の中小村落を圧倒して林立する時代」と書いてあるが、これは『シュメル』が主張する戦争の結果だろう。点在していた都市国家や中小村落が統合されて一つの領域を形成していく過渡期の時代だ。

シュメールの「王名表」から

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出典:Sumerian King List<wikipedia*3

シュメール王名表は焼成粘土製の角柱形(高さ20cm)の古文書で*4、ウル第三王朝時代(前21世紀)に成立したらしい*5

テキストには、各時期に南部メソポタミアでもっとも力をもった諸王朝、諸王の年数が羅列されている。ひとつの時期にひとつの都市が南部メソポタミアを支配していたという前提があって、じっさいには並びたっていた複数の王朝も、あたかも継起したかのように叙述されているのである。いっぽうで、有力な都市王朝がすべて言及されてはいないし、王朝の順番も、テキストによって、ときにくいちがいがある。また初期の王たちには、異様に長い治世年数が与えられている。けれども、注意ぶかく用いるならば、この作品から初期メソポタミアの政治史について基礎的な情報を得ることができる。

出典:大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮著/世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/p165-166(前川氏の筆)

王名表は『日本書紀』のように神話と史実が入り混じっているようだ。『西アジアの考古学』(p146)によれば、シュメールを統一したサルゴン王より前の王名は「実際的」ではないらしい。それでも、考古学に照らし合わせると、実在性をうかがわせる名があるという。

初期王朝時代のものでは、キシュ第1王朝のエンメバラゲシ(Enmebaragesi)は「シュメール王名表に記載されている王の中で考古学的に実在が確認されている最古の王」*6として一番有名らしい。エンメバラゲシは物語『ギルガメシュとアッガ』に出てくるアッガ王(キシュ王)の父なのでギルガメシュウルク王)とアッガも実在したと考えられている。

エンメバラゲシがどの時代に生きていたのかは諸説あるが、ここでは「前27世紀」という後藤健氏の主張を採用しておこう。後藤氏によれば、王名表に「キシュのエンメバラゲスィ、エラムを撃つ」という文句があり、スーサ(エラム)の考古学研究の成果から前27世紀のメソポタミアの支配者(キシュ市の王エンメバラゲシ)によるスーサ侵略があり、その後スーサの繁栄は終わった、とする(後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p42-44)。

ギルガメシュとアッガは前27世紀か前26世紀となるだろう。

ほかにはウル第1王朝の創始者メスアンネパダが挙げられる。「メスアンネパダ<wikipedia」によれば、ギルガメシュと同時代の人物だとのこと。

(キシュ王エンメバラゲシとスーサについては、記事「シュメール文明の周辺① エラムまたはイラン(その1)原(プロト)エラム文明」第三節「エラムの考古学」も参照のこと。)



ギルガメシュとアッガ」の物語は、『史記』を読んでいるようで面白い。「ギルガメシュ叙事詩wikipedia」に簡単に書いてある。前川和也氏によれば、この物語より、ウルクがキシュに臣従していた、としている。キシュ王アッガに勝利したウルクギルガメシュは、Ⅲ期には既に神格化されていたという*7

*1: 小口裕通「メソポタミア考古学研究の近年の歩み」(PDF )(西アジア考古学 第9号/2008/p19-25/©日本西アジア考古学会)

*2:『初期メソポタミア史の研究』p21では参考にしたアダムズ氏の主張に従ってジェムデト期と初期王朝時代第Ⅰ期を合わせて一時代としている。

*3:パブリック・ドメイン、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sumeriankinglist.jpg#/media/File:Sumeriankinglist.jpg

*4:西アジアの考古学/p142

*5:大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮著/世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/p165(前川氏の筆)

*6:エンメバラゲシ<wikipedia

*7:世界の歴史1/p171