歴史の世界

メソポタミア文明:文明の誕生、都市の誕生

文明はcivilizationの訳語だ。「civilizeすること=都市化すること」が文明の意味となる。

「文明」という言葉がついたものが全て都市を持っているかというとそうでもない。長江文明トロイア文明も都市は持っていない。文明という言葉は曖昧なのだ。

今回のメソポタミア文明は「都市化」から文明が始まった。

メソポタミアペルシャ湾岸で始まった(シュメール文明)。都市化は時を経てメソポタミアに広がった(メソポタミア文明。シュメール文明はメソポタミア文明の一部)。


前4300-3900年 ウバイド3期。この時期メソポタミア南部で村落数が飛躍的に増大。またウバイド文化がメソポタミア北部などに伝播。
前3500-3400年 ウルク期初期。メソポタミア最南部(のちのシュメール地方)の都市化開始。
前3400-3300年 ウルク期中期。シュメールの都市化がさらにすすむ。またこのころからシリア・ユーフラテス流域ハブバ・カビラ、イラン・スサなどで南部メソポタミアの人びと(おそらくシュメール人)が活発に植民活動。
前3300-3100年 ウルク期後期。シュメール南部ウルクで大公共建設物が盛んに作られる。ウルク後期最末期(エアンナⅣa層時代)のウルクで粘土板文字記録システムが成立。シュメール都市国家時代の開始
前3100-2900年 ジャムダド・ナスル期(ジェムデト・ナスル期 Jemdet Nasr period)。シュメール都市文化が各地に伝播。 *1


都市の誕生の前段階

なんでもそうだが、都市は一日で突然できるわけではない。前段階(できるまでの過程)がある。

前段階はウバイド期の後期から始められる。ウバイド3期に南メソポタミアでは灌漑農耕による農産物の大量生産が実現した。家畜については従来のヒツジ・ヤギの他にブタ・ウシが導入された。これを背景に他の地方と交易が活発化して必要物資を得るルートが確保された。これに加えて重要なのが神殿だ。都市の中央部に建設される神殿の型やそこで行われる宗教儀礼はウバイド期に起源が求められる。(前記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」参照)

以下は小泉龍人著『都市の起源』(講談社選書メチエ/2016)に頼って書く。

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

  • 作者:小泉 龍人
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

人口流入と都市化

気候変動と人口の変化

最初に参考となる地図を貼り付けておこう。

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3

河口部の点線がシュメール文明誕生の時期の海岸線となる。

都市化が進行しはじめたころ、ちょうど西アジア地方は気候最適期に入っていた。[中略]

おもにグリーンランドやペルー・アンデス産地における氷床コアの酸素同位体比の分析により、約8000~5000年前に、地球規模でもっとも気候の温暖な時期があったことがわかっている。[中略]

西アジアの中心にあるメソポタミアでは、とくにシュメール地方(南メソポタミア南部)が気候最適期の影響を強く受けた。海水面の上昇により海岸線が陸へ入り込んできたのである。もともと、シュメール地方の南にあるペルシア湾は、約18000~14000年前までは海退により海底が露頭していた。約12500年前から内湾部へ海水が入りはじめて、およそ6000年前には現在の海水面とだいたい同じ高さにまで達したとされる。ペルシア湾の海水面は、地球規模の気候温暖化に同調してさらに上昇をつづけて、現在とくらべて2メートルも高いレベルにまで達して、約5500年前のペルシア湾の海岸線は200キロメートルも内陸に入り込んでいたと推定されている。[中略]

メソポタミアにおける気候最適期は、だいたいウバイド期からウルク期にかけて(約7500~5000年前)に相当する。とくに、ウバイド終末期になると、著しい海水面の上昇によりペルシア湾の海岸線が内陸に移動し、南メソポタミアの沖積低地の暮らしにおきな変化が起きた。この点は、アルガゼをはじめ多くの研究者が指摘しているところであるが、私はさらに踏み込んで、以下のように考えている。

メソポタミアペルシア湾に接していて、ペルシア湾の海水面の変動がメソポタミアの沿岸地域に直接影響する。とりわけ海水面の上昇により、沿岸付近の農耕地で灌漑排水に不具合が生じたり、河口付近の流路が移ってしまう。たとえ微増であっても、海進は微妙なバランスのもとで成り立っていた灌漑システムに深刻な被害を与えた。耕地への給水だけでなく、耕地から塩分を含む水を排水する機能が低下してしまった。海水面の上昇は厄介な塩害を招来して、周辺地域の農業に多大な損害をもたらしたのである。

ペルシア湾の海進により、シュメール地方に広がるメソポタミア低地の耕作地で冠水や灌漑排水の脱塩機能の低下が引き起こされて、しだいに耕作地が放棄されていった。その結果、沖積低地で生活していた人々が移住せざるをえなくなり、約6000年前に「よそ者」が発生して、余剰食糧に溢れた集落へ惹きつけられていった。こうした人の動きが主な刺激となって、特定の集落で本格的な都市化が進行していった、というのが自説である。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p73-74

メソポタミア地方の人口増加については、他の文献でも言及している。前川和也*2と中田一郎氏*3はおそらく同じ資料(R. McC. アダムズ 1981)を紹介している。それによれば、ウルク期後半になると南部より人口が多かったシュメール地方北部で村落が廃棄されて、南部とりわけウルクに人口が大量流入したと推測している。

小泉氏はこれに対して言及し(p162-164)、ウルク期後期の急激な人口増加を認め、尚且つ、北部の村落を廃棄した人口は南部への流入だけではなく、遊牧民化したのではないかという説を紹介している。遊牧民は家畜を育てているだけではなく、広域の物流ネットワークの担い手(の一部?)になったとしている。

前川氏、中田氏はウルク期の前期・中期についてはあまり触れずにウルク期後期に都市化が起こったとするが、小泉氏はウバイド末期から、海進の影響による人口流入により、都市化がはじまった、そしてウルク期後期は都市化の完成期である、としている。

人口流入と社会構造の変化と神官の誕生

小泉氏は、南部に流入してきた人びとを「よそ者」と書いている。ウルクを含む幾つかの集落は「よそ者」を受け入れられるほどの余剰食糧の生産力を持っていた。「よそ者」は初めのうちは季節労働や運搬などの単純労働で生活していたと想像できるが、彼らが長く住むにつれて社会構造を変化させていった。つまり、人口流入あるいは人口増大により、顔見知りだけの慣習(=文化)だけでは社会の秩序を保つことができなくなり、「よそ者」をも説得できるようなシステム(=文明)を生み出さずにはいられなかった(文化と文明については以前に「文化と文明について」という記事を書いた)。

西アジアのウバイド終末期に、「よそ者」の出現によって将来されたさまざまな変化に対して、納得の行く折り合いが求められる。地域社会に新たな問題が生じた場合、もっとも信頼できる人物に解決策を委ねるのが自然な流れである。この場面で注目を浴びたのが、パートタイム的に神に仕えてた祭司たちだったと考えられる。役割から地位への変質が祭司たちにいち早く現れた理由は、このあたりにあったようだ〔ウバイド期には祭司は専門職ではなくパートタイム的に役割を担っていた(p63-67)〕。

身近な問題として、余った食糧の保管や、死者の埋葬の仕方があげられる。余剰食糧を預ける共同倉庫の開閉を祭司たちに任せるのは無難な落とし所であろう。風習の異なる「よそ者」の埋葬方法を巡っても、やはり儀礼に長けた祭司たちに最終的な判断を仰ぐのが妥当である。つまり、パートタイム的に祭祀儀礼に関わってきた祭司集団は、都市化の後半段階〔ウルク期〕において、俗世界のもめごとに対する苦情相談も請け負うようになり、それがフルタイム的な専門職になっていったのであろう。[中略]

ウバイド終末期からウルク期初頭にかけて、スーサでは祭司も庶民と同じく共同墓地に埋葬されていたが、祭司の墓には威信財が副葬されて他者と区別された。スーサは祭祀儀礼の要地であったために、埋葬されること自体に意味があったと推測される。ただでさえ箔がつく場所に威信財まで副葬されていたことから、スーサに埋葬された祭司たちの専門性はかなり強調されている。彼らはもはや専門職として神に仕える神官と呼べる。

かつて、パートタイム的な祭祀儀礼の役割を果たしていた祭司たちが、地域社会に生じた新たなトラブルを解決する役目も任されるようになる。本来の役割とは異なり、折り合いをつけていくうちに、しだいにそれが専業的な職能へ昇華していき、その役目が社会的な地位の形成へとつながっていく。面倒なもめごとの処理まで請け負ってくれる祭司たちの仕事ぶりは、コミュニティの指導者としての評価を高めることになり、その特異な地位が積極的に墓制に反映されていったと私は考えている。

出典:都市の起源/p87-89

この指導者(祭司/神官)たちの中から支配者層が現れるのだが、これは別に書こう。

専業化

「よそ者」の流入の変化として、町並みに現れたのが土器の工房だった。ウバイド期は見られなかった工房がウルク期前期になると出現する。集落の都市化が進んで人口増加も進むと、これに応えるように工房ができ、一定の機能・規格を持つ土器が大量生産されるようになった(この時期は改良されたろくろが活躍した)。大量生産は農民の余暇では賄えず、当然 工人を要する。工人は季節を問わずフルタイムで土器を作る。

時代が進むにつれ、貴重品を扱う商人や集落を衛る軍人など非食料生産者が登場する。(p78-81)

階層化

ウバイド期は基本的に平等な社会だった。それを一番表すのが墓の遺跡だが、共同墓地で画一的な墓に平等に葬られた。(p52-56)

しかし上に書いたように、ウバイド終末期にパートタイマー的に働いていた祭司たちから神官が現れた。彼らの墓には威信財が置かれて他者と区別されるように葬られるようになった。祭司以外も差別化が起こるようになる。専業化から職能集団が誕生し、一般庶民と職能集団の格差が生じるようになる。そして特定の職能集団の中でも格差は生じた。

コミュニティにおける役割から地位への変質は、都市化の後半段階(ウルク期)の後期銅石器時代に進行していった。都市的な正確の強まった集落では、街路により区切られた空間利用の専門分科により、祭祀儀礼を執り行う神殿、土器づくりや冶金の工房群、行政的な職務を司っていた館、集落を自衛する軍事施設など多様な正確の施設が出現していった。都市的集落では、街路により分けられた各区画で、祭祀、土器製作、冶金、行政、軍事などの役割が徐々に社会的地位を伴う専門的な職へ高まり、階層化された職能者の地位が墓制に反映されたと考えられる。

出典:都市の起源/p87

  • 「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。

鍵付き倉庫と市場

平等社会のウバイド期においては、神殿や公共施設に付随した倉庫があった。こうした倉庫には、集落で生産された穀物などの余剰食糧が供託され、共同管理されていた。倉庫には鍵がかけられず自由に出入りができた(p56)。余剰食糧は、「必要に応じて個別の世帯に再分配されたり、さまざまな物資を外部から入手するために活用されたと推察される」(p91)。

しかし、「よそ者」の登場後、勝手に食糧を持ち出されないように、鍵がかけられるようになる。

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出典:都市の起源/p91

金属加工技術が未発達だった時代の「鍵」は上のような仕組みだった。木製の扉に通した紐をペグに引っ掛け、その上から封泥した。封泥とは封じた紐の上に泥の塊を塗って塊の上にスタンプ印章(判子)を捺印すること。こうすることによってアクセスを制限した。アクセスできるのはスタンプ印章を持っている「管理者」のみ。管理者は当初は祭司の役目だっただろう(p90-94)。現在の鍵のイメージとは違うが、とりあえずこれが鍵の誕生なのかもしれない。

管理者の役割は交易が活発になることにより重大になる。ウルク中期後半になるまでに交易が本格的に発達し、集落内に市(場)が形成される。

以下は、北メソポタミアのガウラ遺跡(Ⅷ層)の話。

倉庫の南東側には管理棟が建てられ、管理者は判子を首からぶら下げ、倉庫の開け閉めを意のままにできた。ただし、その人物はもはや祭司ではなく、世俗的な立場にいた指導者であったと思われる。これらの建物に隣接する広場では、大量の封泥(容器や袋などの封をする粘土塊)が見つかっている[中略]。ウルク中期後半、専業商人を媒介とする本格的な流通構造が整い、主要な集落に遠方から搬入された商品が独立倉庫で保管されて、倉庫に品説した広場が市(場)として利用されはじめたと推察できる。これは集落内における市の最古級の例である。

出典:都市の起源/p95

この時期になると早くも指導者の役割が祭司の手から離れている。神殿と権力の関係は、また別の記事で書こう。

またこの時期(ウルク中期後半)の広場は集落の中央付近に設けられているが、都市誕生期(ウルク後期)になると、広場が城壁の入り口付近に置かれるようになった(後述)。

「よそ者」関連まとめ

もともとウバイド期の社会は、祭祀により統合されながら、人々の暮らしが成り立っていた。そこでは格差のない人々の緩い結びつきがあり、血縁的なつながりの親族集団を単位として互いに協業し合っていた。やがてウバイド終末期になると、豊かな食を求めて集まってくる「よそ者」との共存において、異なる価値観の折り合いをつけるために、従来とは異なる仕組みが求められて、階層化が始まった。同時に、「よそ者」の活発化により、経済的な物流網が徐々に拡充されていき、ウルク中期後半までに都市的集落を結節点とする交易ネットワークが確立されることになる。

出典:都市の起源/p97-98

以上「よそ者」関連は『都市の起源』の第二章《「よそ者」との共存》に依る。

安心と快適さを求める都市計画

ここでは『都市の起源』の第三章《安心と快適さの追求――都市的集落から都市へ》抜粋してみる。「安心と快適さの追求」が都市を生み出したと言っていいと思う。

城壁

まず何よりも、外敵の脅威から護られていないと、街での暮らしは落ち着かない。その安心を保障してくれるのが、街を取り囲む城壁である。

西アジアの本格的な防御施設は、後期銅石器時代(約6000~5100年前)に登場する。明確な城壁は北シリアの都市的集落で相次いで確認されている。ウルク前期のブラクでは、幅約2メートルの日干しレンガ製の壁が見つかっている。同壁は城門も伴い、集落を防御する城壁とされる。今のところ、この約6000年前の城壁が最古例となっている。(p101)

目抜き通り

ウルク後期に初現した目抜き通りは、物資を満載した車が行き交い、遠来の商人がさまざまな品物を取引する場として賑わっていた。同時に、目抜き通りは神殿やジッグラト(聖塔)などのモニュメントへつながり、年における祭祀儀礼や公式行事などの演出に欠かせない舞台にもなっていた。古代都市における目抜き通りは、日常の経済活動において人々に至便な暮らしをもたらすだけでなく、神殿などと一体化して儀礼や行事のパフォーマンス空間としても機能していた。(p106-107)

街の広場

古代西アジアでは、街道沿いや河川沿いに立地する都市的集落の中央に広場が設けられて、市を成していた。他方、都市そのものになると、街の入り口である城門近くに広場が設置されて、そこでは他所からやってきた商人が都市民と物々交換をしていたと思われる。都市的集落と都市では、市の立つ場所が微妙に異なっていた。

ウルク中期(約5500年前)、北メソポタミアのガウラ遺跡では、本格的な独立倉庫で保管された商品が倉庫に隣接する広場で物々交換されていた。ウルク後期になると、イラン西部のゴディン・テペ遺跡では、集落中央の広場に面した取引所で物々交換が行われていた。いずれの都市的集落でも、ほぼ真ん中に市場が設けられている。

北シリアの都市ハブーバ・カビーラ南では、南側の城門内に広さ10メートル程度の空間があり、門外も含めて広場として活用されたとみられる。門の付近では、「トークン」と呼ばれる土製の計算具(カウンター)が大量に出土している。[中略]

ハブーバ・カビーラ南では、各地から運ばれてきた物品が、城門付近で物々交換されていた可能性が極めて高い。こうした広場は、外部からの商人や旅人が出入りする空間であると同時に、居住者と取引するにも格好の場となる。ガウラやゴディン・テペといった都市的集落と異なり、年の段階になると街の入口付近に市が立つ。保安上の問題や、物資の搬出・搬入の効率も考慮して、街の出入り口に位置が設けられたと考えられる。(p119-120)

上水と下水

古代西アジアの都市における暮らしでは、いかに安全に飲み水を手に入れるのかが問題であった。現代の都市周辺では、川の水は川上からの生活排水などで不衛生であり、汚染されていることが多い。[中略]

川の水が当てにできない場合、井戸から汲み上げる地下水が注目される。[中略]川の水は灌漑・家畜用、井戸(雨)水は飲料用と使い分けていたと考えられる。[中略]

上水とあわせて問題になるのが下水である。快適な都市の暮らしで、下水施設は街路とともに重要な骨格をなしている。都市化の嚆矢となったメソポタミアの平原地帯では、常に水の恩恵にあずかるだけでなく、水のもたらすさまざまな問題にも向き合ってきた。メソポタミア平原に展開したサマッラ期の集落では早々と排水設備が認められるが、空き地に排水用の土管が埋められた程度にとどまる。都市化の始まったウバイド期でも、一部の集落で排水管は普及していたものの、いずれも計画的に配置された水利施設と呼べる本格的なものではない。[中略]

ウルク後期(約5300年前)に、城壁・街路と併せて水まわりの施設も明瞭になってくる。排水設備の計画的な配置はハブーバ・カビーラ南で登場する。まず最初に、街を南北に走る目抜き通りと主な街路が建設され、ほぼ同時に、街全体を覆うようにして排水網が張り巡らされる。地面を掘った溝に土管が埋設され、排水設備が家屋の建つ場所や街路を横切って配置されている。

つまり、ハブーバ・カビーラ南では、主要な通りや排水管が敷設された後に、リームヘン(断面が正方形の細長いレンガ)で規格化された建物が作られたのである。ウバイド期において建物をつくった後の空き地に土管を付け足した場当たり的な処置とは異なり、ウルク後期の街路や排水設備は周到な計画のもとで建設されている。

ハブーバ・カビーラ南は明らかに計画的につくられた街であり、とくに主要な通りと排水管が最初に設置されている点が重要である。ハブーバ・カビーラ南のモデルであるユーフラテス川下流ウルク遺跡では、すでに都市計画の青写真が出来上がっていたことになる。5000年以上も前に、都市計画に関する知識と技術がすでに成熟していたことはほぼ間違いない。(p122-126)

  *   *   *

以上の項目が揃えば「文明の誕生」というものでもない。「安心と快適さの追求」の積み重ねの中で都市は誕生したと思えばいいだろう。

その他

本来なら、文字の誕生、神殿、行政システムの誕生なども書かなければならないが、これらについては別の記事でやることにする。

『都市の起源』はビール/ワインやスポーツなども取り上げられているがここでは割愛。




*1:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p547-548(第1巻関連年表) 

*2:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p159

*3:メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p43-49