歴史の世界

エジプト文明:初期王朝時代① 統一王朝の誕生の過程

古代エジプト史、あるいはエジプト学では、先王朝時代の後に初期王朝時代が来る。初期王朝時代は王朝時代の最初の時期で第1王朝と第2王朝を含む。

この記事では、統一王朝の誕生の過程について書いていこう。

簡単な流れ

上エジプトでナカダ文化が現れたときは、まだ農耕牧畜文化の中で比較的平等に生活が営まれていた。しかしⅠ期~Ⅱ期前半までに階層化が進んで分化していった。

Ⅱ期後半よりこの流れが加速するその一方で、今度は集落間でも階層化が始まった。つまり大集落が中小集落を支配するようになった。

そしてⅢ期になると大集落の都市化と地域統合が始まり、王が誕生した。Ⅲ期終盤になると地域がヒエラコンポリスとアビュドス(アビドス)の2大都市に統合される(2つとも上エジプト)。

いっぽう、下エジプトにはマアディ・ブト文化という、ナカダ文化と時期的に並行した文化が存在していたが、ナカダ文化と比べると階層化が進まず平等社会のままだった。この文化はナカダⅡ期の終わり頃に消滅し、ナカダ文化に呑み込まれた。

最終的にアビュドスの王ナルメルが初代の統一王朝の王になる。

ナカダⅡ期後半から統一までの流れ

上記のようにⅡ期後半から階層化が加速した。エリート層は中小集落を支配するために舶来品やその模倣品を使ったが、Ⅲ期になると西アジアへの交易ルートを独占するために下エジプトに拠点を作った。

下エジプトの交易ルートの拠点からナカダ文化が周囲に広がったと思われるが、上エジプトからの植民もあったらしい。Ⅱ期の終わり頃に下エジプトはナカダ文化に呑み込まれた。

Ⅲ期の後半にはヒエラコンポリスとアビュドス(アビドス)の2大都市が地域統合を行い、エジプトの2大勢力になる。この時期に下エジプトにも独立した政治勢力があったようだが、詳細はわかっていないらしい。

最終的にアビュドスの王ナルメルが初代の統一王朝の王になる。

アビュドスがヒエラコンポリスをどのように併合したかはわかっていない

参考文献にはアビュドスがどのように冷えら今ポリスを併合したのかは書いていなかった。そもそもこの時期は文字システムの黎明期で行政文書を作れるところまで発達していなかった。遺物からも読み解く手がかりになるものは無いようだ。

ここで、私の仮説を書き留めておこう。

まずは以下の図。

f:id:rekisi2100:20180525145130p:plain

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p38

この本の同ページには「ただし、ヒエラコンポリスとクストゥールが同じ王国に属するという見解は、あまり一般的ではない」とある。

ヒエラコンポリスとサヤラの間に第1急湍があり、ここがエジプトと北ヌビア(下ヌビア)の境界になっている。

仮にヒエラコンポリスが下ヌビアの集落を支配したとしても、文化の違う集落なのでそれなりにコストが増大したかもしれない。

いっぽう、ヒエラコンポリスの北の勢力の中心はアビュドスだ。この図ではティニスと書いてある都市。アビュドスは北に拡張していった。

Ⅲ期の初頭に下エジプトはナカダ文化を受容していたため、アビュドスの拡張(征服・侵略活動?)も容易だったかもしれない。

下エジプトと下ヌビアのことについては記事「エジプト文明:先王朝時代⑨ マアディ・ブト文化/下ヌビア/南パレスチナ」で書いたが、下エジプトの方が下ヌビアよりも収入が多かったようだ。

このように見ていくと、アビュドスの方がヒエラコンポリスよりも利益が多かっただろう。

アビュドスがヒエラコンポリスを併合できた理由は利益の多寡にあるのではないだろうか。

以上、とりあえず、アビュドスがエジプトを統一したということを前提として書いてみた。

統一の時期に戦争があったかどうか

未解決の問題の一つとして、統一事業に武力が使われたかどうか、という問題がある。

他地域を併合する時に武力を使わないというのは、世界史をふり返ればあまり考えられないことだが、戦争を証明できる明瞭な証拠は発見されていない。

しかし、「やはり武力は使われただろう」という主張が多いようだ。この主張の拠り所になっているのが、「ナルメル王のパレット」だ。

f:id:rekisi2100:20180601112327j:plain

出典:ナルメル<wikipedia

歴史的記述と解釈するG. ドライヤーは、アビドスで出土した豊富な文字史料から、当時の日付は年の名前で示され、その年の最も重要な出来事にちなんで名前が付されていたことを突き止めた。つまり、ナルメル王のパレットも彼が北の統合を果たした年を示しており、それは軍事的統合の歴史的事実を描いているとする。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p71

これに対して反論もある。ケーラーという学者がいうには、このパレットに描かれているような図像表現は、ナカダⅠ期後半にすでにある、だからこのパレットも先王朝時代から王朝時代まで続く定式化された図像表現の一つに過ぎない、としている。(p71-72)

現在、両者の主張のどちらが優勢なのかは分からないが、このブログではドライヤー氏の主張すなわち「武力制圧はあった→ナルメル王のパレットは史実を表している」を前提に話を進める。