歴史の世界

エジプト文明:先史⑨ 「緑のサハラ」時代の終焉とエジプト文明とのつながり

前6000年頃から徐々に乾燥化が強まっていたが、前4000年頃(前3900年?)、さらに乾燥化が強まり、ここで「緑のサハラ」の時代は終わった(5.9 kiloyear event<wikipedia)。

サハラ・サヘルで生活していた多くの人々は四方に散ったが、その多くがナイル川流域に移動したと考えられている。そして彼らの持つ文化が後のエジプト文明に影響を与えた。

以下の引用はナブタ・プラヤの後期新石器時代が終わり、遺跡の連続性が途絶えた後の話についての推測。

これほどまでの文化はどこへいってしまったのであろうか。一つの可能性として、生活の拠点をナイル川下流域に移し、そこで土着の人々と融合し、セイン王朝時代の人々の祖となったというストーリーが挙げられる。その根拠は、タサ文化のチューリップ形土器(図3-5)と黒頂土器(ブラック・トップ)が、後期新石器時代の後半から、ナブタ・プラヤや近隣遺跡で出土しているからである。タサ文化は、上エジプトにおける先王朝時代の最古の文化であり、20世紀初頭に最初に発見されたタサ遺跡にちなんで名付けられた。[中略] つまり、後期新石器時代にはすでに、遊牧民ナイル川下流域での活動にウェイトを置くようになっており、その後の急激な乾燥化によって砂漠を放棄し、ナイル川に生活の場を完全に移行させたと考えられる。彼らが有する牧畜と栽培の技術、そしてリーダーを擁する社会組織が、上エジプトに先王朝時代の文化をもたらしたと考えられるのである(図3-6)。ちなみに、ファラオは両手に穀竿(ネケク)と笏杖(ヘカ)を持つ姿で表現されるが、前者は脱穀用の竿、後者は牧畜の杖である。つまりそれぞれ、ナイル川流域に住む農耕民と、砂漠を往き来する遊牧民を象徴しており、両者の融合がエジプト人のルーツであることを示しているように思われる。

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ただし、こうしたストーリーはそれを実証する明瞭な証拠がまだ薄く、今後の調査の結果を期待したい。なお、ナブタ・プラヤ遺跡をエジプト文明の巨石文化の起源とする話が散見されるが、巨石文化が継承された痕跡は後の先王朝時代には全くみられず、ピラミッドなどへの連続性はいまのところない。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p39-40

  • ピラミッドなどへの連続性はないらしい。

エジプト文明:先史⑧ ナブタ・プラヤ 後編

前回からの続き。

引き続き、以下の2つを参考文献とする。

後期新石器時代

馬場氏によれば、後期新石器時代は紀元前5400-4400年。

このころの特徴は巨石文化の始まりだ。この巨石文化がナブタ・プラヤがエジプト文明の起源の一番の要因かもしれない。

祠堂(巨石の建築物)

上述の2つの参考文献を元に簡単に説明してみる(詳細はウェブサイト「ナブタ・プラヤ」 参照)。

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出典:牛の形に彫刻された岩の写真<ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」

構造を説明するとまず、直径6m、深さ3mの穴を彫り、岩盤の卓上岩を整形し、その上にナブタ・シルト(泥のような砂屑)で埋めて、その上に彫刻された岩を入れて、またシルトで埋め、その上に複数の岩(埋めた場所の目印か?)を置いている。

彫刻された岩は重さが4トンもあり、ウシの形に整形され真北を向くように埋められている。

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出典:彫刻された岩<ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」

岩の他に人骨が埋められているのではないか(つまりこれは墓なのではないか)と思われたが、人骨を含む他のものは無かった。

この巨石の建築物(?)が何なのかは謎のままだが、分かることもある。

いずれにせよ、巨石を動かし、整形して構造物を造る社会がすでに存在していたことに驚かされる。これは明らかに個人を超えた作業であり、集団の協業がない限りなし得ない。そこには、協業的活動を支持・統括するいリーダーの存在があったにちがいない。ここに複雑化社会の萌芽がみてとれ、そして、リーダーを中心とした社会の紐帯を強化したのは、石塚の例にみる信仰の存在が大きかったと考えられるのである。

出典:馬場氏/p38

石塚

引用にある石塚について。

当時の遊牧民にとって雨は最大の恵みであったが、そのための雨乞または祭祀といった信仰も芽生えていたようだ。この時代のナブタ・プラヤでは、砂岩の岩で覆われた石塚が少なくとも13ヵ所で確認された。石塚の内部は人工物(ゴミ)が堆積し、その下には動物が埋葬されていた。ヒツジやヤギも見つかったが、ほぼ完全なかたちの仔牛の骨もあった。また人骨を埋葬した石塚もあった。遊牧民にとって、ウシは「歩く貯蔵庫」といわれるほど貴重な財産であり、祭祀や儀礼以外に殺して肉を食すことはめったにない。こうしたことから発掘者は、これら石塚は、雨乞のための生け贄、または雨に対する祝宴と雨の神への献納として築かれたという。雨期にナブタ・プラヤに遊牧民が集まり、一年に一度の祝宴や祭祀がここで執り行われていたのであり、この時期すでに自然に対する信仰があったようだ。

出典:馬場氏/p37

信仰・宗教はバラバラに生活している牧畜民(遊牧民)を一ヶ所に集う力を持っている。彼らは雨乞や祝宴を開いて紐帯を強化する。

これらの牧畜民の集団どうしの結びつきは、互助の働きや経済・情報のネットワーク形成などに重要なものだ。

そしてこの集団が大きくなり、リーダーを生みだし、巨大な建築物を造るまでになった。

このリーダーがこの集団を「支配」したかどうかは分からなかった。

カレンダー・サークル

もう一つ、有名なものがある。

まず注目されるのが、小高い丘の上につくられた環状列石だ(図3-3)。これは、直径4m弱の円形状に砂岩の平板を立てたもので、対を成す大きめの平板が4組、十字状に配置されている。そのうち、2組はほぼ正確に南北を指し、もう2組は北から東に70度ぶれた位置に置かれている。この赤ちゃんストーンヘンジを「カレンダー・サークル」と発掘者のウェンドルフはよぶが、その理由は、70度の指す方向が夏至日の太陽の日の出の位置を指すからという。つまりこれは日時計なのだ。雨による恵みを求めてナブタ・プラヤに訪れる遊牧民にとって、雨期の到来を告げる夏至を予測することはなによりも重要だったのだ。

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出典:馬場氏/p36

これが文明の誕生よりも前に、正確な科学的知識が存在していた証拠となっている。これはナブタ・プラヤの魅力の一つとなっている。

エジプト文明:先史⑦ ナブタ・プラヤ 前編

ナブタ・プラヤ遺跡(Nabta Playa)は、「緑のサハラ」時代のサハラ・サヘルにおける最も有名な遺跡だ。後世のエジプト文明の起源とも言われているが、確実な証拠はない。

「緑のサハラ」については、記事「エジプト文明:先史① 緑のサハラ 」参照。

主な参考文献

馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017

第3章の「エジプト文明の起源(新石器時代)」がナブタ・プラヤに当てられている。

ナブタ・プラヤを扱う日本語の書物は数少なく、その中でもこの本はおそらく最新のものだと思う。

冒頭の「はじめに」によれば、著者の馬場氏は有名なエジプト考古学者の吉村作治氏のお弟子さん(?)だそうだ。

ナブタ・プラヤ|Nabta Playa|人類歴史年表

非常に詳しく描かれているウェブサイト。参考文献もしっかり書いてあり。図表や写真も豊富。

ナブタ・プラヤの現在と過去

ナブタ・プラヤは現在のエジプト南部、スーダンとの国境の近く、ナイル川から西へ約100kmの地点の砂漠にある盆地にある。

上で紹介したウェブサイトの「ナブタ・プラヤ」の「はじめに」には、現在の砂丘と盆地の写真が貼られている。

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第8章で言及した地名を含むサハラ砂漠とエジプトの地図

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p209

現在は年間降水量1mm未満だが、「緑のサハラ」時代にはこの大きな盆地(プラヤ)は季節的な湖となった。湖畔には植物が繁茂し、乾季になっても井戸を掘れば水が確保できた。この湖畔があった場所に沿って遺跡が遺っている。

ナブタ・プラヤの人々は、秋から春の間ここで生活し、夏の雨期は他の場所に移動した。夏が終わった頃、湖畔に繁茂した植物を採取し、それを貯蔵して冬以降の食糧として備蓄した。冬は乾期となるため、深く大きな井戸を掘って水を確保していた。井戸はサハラ砂漠で最古の例である。

出典:馬場氏/p32

ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」の第Ⅱ部第1章「三つの地域」に遺跡の分布図がある。

初期の住居跡

ナブタ・プラヤの歴史については、ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」の第Ⅰ部 「第一章 歴史」で簡潔に書かれている。

正確な年代については様々な説がある。

12000年前に最終氷期が終わり、北アフリカは「緑のサハラ」の時代に入る。そして湿潤化したナブタ・プラヤに人々が集まってくる。

前8800年頃から人々が住んでいる形跡が出始める。

ウシや土器については前回、前々回でやった。

旧石器時代は雨風を避けるために洞窟や岩陰を住居(の代わり?)にしていたが、ナブタ・プラヤでは簡単ながら家屋を造っていた(家屋の起源についてはしらべていない)。

床は30cmほど掘り下げ、壁と天井は、湖畔に自生するタマリスクやアカシアの灌木を骨組みにして、葦やマットで覆って作られていたようだ。家屋の形状は楕円や円形であるが、なかには長さ7mのものも存在する(図3-2)。床面には土器が埋め込まれ、また中心軸に沿って炉址が設けられていた。[中略]

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図3-2ナブタ・プラヤの家屋復元図

家屋の周辺には貯蔵穴が多く見つかっており、ソルガムやミレットなどの雑穀を主に貯蔵していた。石皿と磨り石も多く出土していることから、雑穀は挽いて粉にして、お粥のように食されていたようだ。

出典:馬場氏/p34

馬場氏はソルガムの栽培についても言及している。

形態的には野生種であるものの、栽培されていた可能性が指摘されている。なぜなら、貯蔵穴にはソルガムのみが入れられており、それだけを選別して採取することが難しいからである。つまり、ソルガムの種を撒いて意図的に育てていたのだ。

出典:馬場氏/p34

ナトゥーフ文化の生活環境にかなり似ている(ナトゥーフ文化はepipaleolithic(終末期旧石器時代))。日本の縄文時代にも似ているかもしれない。

ナブタ・プラヤの「新石器時代」について

この地域の歴史については新石器時代から話が始まることが多い。それより前の文化(旧石器文化以前)は、無いか無視できるレベルということらしい。

新石器の定義には一般的に、農耕と牧畜、土器と磨製石器、そして定住が挙げられるが、ナブタ・プラヤ遺跡では、ウシの牧畜、土器の製作しか当てはまらない。農耕はソルガム栽培の可能性にとどまり、定住も通年ではなく、雨期の夏はここから移動していたとされる。[中略]ただやはり、遊牧民でありつつも、土器を作り、集約的な食物採取を行い、家屋を造って比較的長く一ヶ所に留まる生活様式は、北東アフリカのそれまでの旧石器文化とは大きく異なる。ナブタ・プラヤは、完全なる新石器化への過渡期の遺跡なのだ。

出典:馬場氏/p35

定住と非定住の文化は根本的に違うと思うが、非定住民の完全なる新石器がどのようなものなのかが分からない。

前期新石器文化と中期新石器文化

上の二つの文献では、前期(初期)新石器文化の始まりの年代は異なるが、中期新石器時代の年代はだいたい前6000年、前5900年と近い年代におまっている。

前6000年までに出揃ったもの。

  • ウシの家畜化(遅くとも前5500年頃には確実に家畜化されていた)。
  • 土器の制作。
  • 井戸を掘る。
  • 家屋を造る。
  • ソルガムの栽培と乾期をやり過ごすための貯蔵。

そして前6000年以降になると、西アジアからナイル川を通ってヒツジ・ヤギの家畜技術が導入された。「ウシとは違い、ヒツジとヤギは主に食肉用として持ち込まれた」(馬場氏/p36)、とある。ただしこれらの家畜が普及するのは、ナブタ・プラヤを含むサハラ・サヘル、ナイル川流域両方とも前五千年紀後半以降らしい。

もう一つ重要なこととして、宗教関連のことがある。

前5900年頃には、周辺の各地から集まった遊牧民たちが、物々交換や情報交換や冠婚葬祭の儀式を行うようになり(マルヴィル:1998年)、ナブタ・プラヤはこの地域のための、一つの大きな 「集会場(祭儀場)」 とされるまでに育っていきます。実はこの 「祭儀場」 の存在が、この砂漠の「僻地における、意外なほどの文化の発展の、大きな原因の一つだと、考えられるのですが、それについては後で詳しく触れます。

出典:ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」

これについて著者は「 文化の発展の、大きな原因の一つ」に「集団の拡大効果」 を挙げている。つまり、文字システムの無い時代には情報を多くの人々で共有することによって、文化の保存、伝播、普及、そして各地の文化を土台とした技術や文化様式の発明が為されることを主張している。

西アジアのギョベクリ テペも宗教的な建築物で集会場だと言われているが、上のような役割を持っていたとも思われている。

馬場氏によれば(p34)、この時代(前6000-5500年)は「前時代に比べ乾燥化が進」んでいた時代ということで、ナイル川流域からの物資を求めて、西のサハラ・サヘルから多くの牧畜民が訪れたのかもしれない。

(以下次回)

エジプト文明:先史⑥ 土器の出現

土器が初めて作られた場所は日本を含む東アジアだが、二番目はアフリカ、サハラ・サヘルだそうだ。

この記事はサハラ・サヘルにおける土器の誕生とその後の話(日本・東アジアの土器については別の機会にやろう)。

アフリカ最古の土器(西アフリカ・マリ)

サハラ・サヘルの最古の土器は西アフリカで発見されたもの。

ジュネーブ大学のエリック・ヒュイセコム教授率いる、28カ国から集まった50人の国際チームが、アフリカのマリ中部で1万1400年前の土器を発掘した。これまで発見されたアフリカの土器の中でも最古のものという。

発掘場所はユネスコ世界遺産に登録されているバンディアガラ断崖の近く、オウンジョウゴウ ( Ounjougou ) 。人類の進化と気候の変化との関係についての新理論につながる発掘でもある。

2002〜2004年に発掘された地層から、6個の土器のかけらが発掘された。それらは最低1万1400年前のものという。これまで発掘された最古の土器は、中東およびサハラ東部から出土したもので、9000〜1万年前のものだ。

出典:アフリカ最古の土器を発見 2007-02-04 - SWI swissinfo.ch

1万1400年前(前9400年)といえば、最終氷期の終わり=完新世の始まり=「緑のサハラ」の始まりの時期の直後だ。

このニュース記事のインタビューに答えたエリック・ヒュイセコム(Eric Huysecom)氏によれば、土器はまさに気候変動によって起こった発明だと指摘している。

さらにヒュイセコム氏は興味深いことを言っている。土器と同じ時期に矢じりも発明された、さらにはその状況は東アジアも同様だと。

さらに今回の発掘で解明したのは、土器の発明と矢じりの発明が同時代に起こったということだ。矢じりで草原のウサギや鳥を獲ったのだという。西部アフリカと同じ年代の土器と矢じりがシベリア、中国、日本の3点を結ぶトライアングル地帯でも発掘されている。「アフリカとアジアの2つの地域で、ほぼ同時に土器と矢じりが発明され、しかも同じような気候であったということが重要なのです。というのも、人類は気候の変化にどのように対応するのかということが、これで分かるからです」とヒュイセコム教授は説明する。

出典:前掲記事

  • 先史の石で作った矢じりは細石器microlithに分類され、中石器時代または終末期旧石器時代(Epipaleolithic)の特徴の一つ。

ただし、東アジアでの最古の土器出現の時期は氷河期の最中であった*1 *2

リビアの遺跡による調理用土器の例

今週のオンライン版に掲載される論文によれば、かつて緑のサバンナであったサハラでは、1万200年も昔の新石器時代人が野生の穀物や多葉植物、水生植物を土器で調理していたという。

人類史の中で、土器は約1万6,000年前の東アジアと、約1万2,000年前の北アフリカの2回にわたって互いに無関係に発明されたと考えられている。その土器について、牛乳などの動物産品の加工に利用されたことを示す証拠は存在するが、植物の料理で果たした役割は知られていなかった。

Richard Evershedたちは、リビアサハラのTakarkoriおよびUan Afuda遺跡から出土した合計110個の土器片を調べた。土器に残されている脂質付着物の炭素同位体比を分析した結果、その土器は、多葉植物、種子、穀物、および水生植物など、周辺の湖沼およびサバンナで採集された多様な植物の加工に利用されていたことが示された。

その土器は、この地域での植物の栽培化および農業に4000年以上先行することが分かった。研究チームは、前期完新世の狩猟採集民が当時の緑のサハラに存在した穀物などの野生植物によって食事の必要を充足させる上で、今回の知見によって想定された植物加工技術が極めて重要であった可能性があると結論付けている。

出典:植物の加熱調理には1万年の歴史がある | Nature Plants | Nature Research

ナブタ・プラヤにおける貯蔵用その他の例

エジプトにおける土器の最古の例はナブタ・プラヤだそうだ。

ウェブサイト『ナブタ・プラヤ|Nabta Playa|人類歴史年表』の「第Ⅱ部・第三章・(四)土器」によれば、最古のもので前8200年の土器片とのこと。

以下は別の参考図書からの引用。

在地の粘土を用い、全てお椀のかたちに作られている。外面全体には櫛目文様が施されており、縄文土器のような雰囲気を醸し出している。この装飾は同時代のスーダンの土器と類似しており、文化的つながりがあったことを示唆する。前期新石器時代の土器には煤(すす)の付着が一切みられないため、調理用ではなく、貯蔵・運搬または儀礼用の容器として用いられたとされる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p34

  • この本でのナブタ・プラヤにおける前期新石器時代の年代は、紀元前7050~6700年。学者によって年代が変わるので参考程度で。

家屋の床面に埋め込まれた大きな土器の中には野生の雑穀(ミレットやソルガム)を貯蔵した。

ナイル河流域への普及について

ナイル河流域で普遍的に使用されるのは前6千年紀後半だそうだ*3。この普及はサハラからではなく、北方の(西アジア由来の)ファイユーム文化からかもしれない。

エジプト文明:先史⑤ アフリカにおけるウシの家畜化

以前は農耕・家畜ともに西アジアから流入してきたとされていたが、ウシに関してはアフリカで独自に家畜化されたとする説が出てきた。

この記事ではウシの家畜化と牧畜の状況・環境・その後について書く。

家畜と家畜化

家畜とは「人間の生活に利用する目的で、野生動物から遺伝的に改良した動物をいう」*1

次に家畜化について。

動物の家畜化(かちくか)あるいは植物の栽培化(さいばいか、英: domestication)とは、動物あるいは植物の集団が選択過程を通して、人間に有益な特徴を際立たせるよう遺伝子レベルで変化させられる過程である。この過程では動物の表現型発現および遺伝子型における変化が起きるため、動物を人間の存在に慣らす単純な過程である調教とは異なる。生物の多様性に関する条約では、「飼育種又は栽培種」とは、「人がその必要を満たすため進化の過程に影響を与えた種」とされている[1]。したがって、家畜化・栽培化の決定的な特徴は人為選択である。人間は、食品あるいは価値の高い商品(羊毛、綿、絹など)の生産や様々な種類の労働の補助(交通、保護、戦争など)、科学研究、ペットあるいは観賞植物として単純に楽しむためなど様々な理由でこれらの生物集団を制御下に置き世話をしてきた。

出典:家畜化<wikipedia

  • 英語では家畜化も栽培化も domestication。
  • 人に都合がいいように進化させるので、人為選択または人為淘汰である。
  • 家畜化されると進化するので、種も変わる。

ウシの家畜化について

一般的にウシは、家畜牛のことをさす*2

ウシの祖先はオーロックスaurochsで、ユーラシアとアフリカで生息していた。オーロックスは絶滅している。

一般的には、西アジアとインドで独自に家畜化されたと言われているが、アフリカでも独自に家畜化されたという説もある(後述)。

アフリカのウシの家畜化

ウシの家畜化については、記事「アフリカ大陸の農業の起源について」の節「ウシの家畜化」で書いたことがあるが、ここでは別の引用をしよう。

アフリカ大陸最古の確実な家畜化された牛の例は、アルジェリアのカペレッティから出土した例で、前7~6千年紀に年代づけられるが、これをやや控えめに見積もってか、従来家畜化も西アジアから導入されたという説が主流を占めてきた。

しかし、アフリカ大陸北東部における牛の家畜化が、今から9000年くらい前、すなわち西アジアにおける家畜化に匹敵するくらい古くに始まっていたという説が、1980年代にウェンドルフらから提示された(Wendorf et al. 1984)。西アジアにおける牛の家畜化は前6千年紀に年代づけられるので、この説は、アフリカ大陸において独自に家畜化が始まったことを意味する点でも重要である。

その根拠は、ナブタ・プラヤやビール・キセイバなどのサハラ砂漠東部の遺跡において、少数ながらいまから9000年前よりもはやくから今から5000年前頃まで連続的に大型の牛科動物の骨が出土することであった。断片的な資料から牛の種類を特定するのは困難であるが、さまざまな可能性を検討した結果、野生の牛(Bos primigenius)もしくは家畜化された牛(Bos primigenius f. taurus)であろうと推測されている。いずれの遺跡においても出土数が少なく、形態的特徴からは野生種か家畜種か判別できないために、こうした資料は牛の家畜化を確証するものではないと、この説に否定的な研究者も少なくない。

しかしながら、肯定的な研究者たちは当時の環境を重視する。この頃のサハラ砂漠東部は、現在よりも湿潤であったとはいえ、少なくとも2日に1回は飲み水を必要とする牛にとって、十分な環境ではなかった。実際、これらの遺跡において出土する他の動物骨は、野ウサギ、ガゼル、オリックスなどの乾燥に強い動物に限られる。野生の牛が独自に到達しにくい場所に形成された遺跡からつねに牛の骨が出土することは、その牛の移動に人間が関与したことを示す可能性が高いという。[中略]

もしもウェンドルフらが推測したように、砂漠から出土した牛の骨が家畜化された牛のものであり、その牛が人間によって西部砂漠に連れてこられたものならば、それより古い段階に、牛が自然に生息していたどこかの地域で馴化されていたことになる。砂漠の遺跡との直接の関係は明らかでないものの、ナイル河流域では、すでに後期旧石器時代完新世より前の時代――引用者注]から人びとが牛を重視していたようであり、牛の家畜化がさらに古くまでさかのぼるかもしれない(高橋 1999 a;b)。

出典:出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生(世界の考古学⑭)/同成社/2003/p35-36

  • 「cattle<wikipedia英語版」によれば、西アジアでの家畜化は10500年前に遡るという説を紹介している。

家畜化する前の状態のウシの生息地を人間がどのようにコントロールしたのかが分からない。狩猟採集民の集団が三方から弧を描いて野生の牛(オーロックス)の群を追い立てて一方向に向かわせたのだろうか。

また、家畜化はアフリカ独自で行われたが、去勢などの技術や犠牲にするなどの文化的側面その他のいくつかは西アジアのものを取入れたかもしれない。

家畜化と気候変動を関連付ける説もある。前6000年頃に比較的短い乾燥期が訪れたが、この時期に家畜化が行われたという*3。野生の牛はもともと人間が近づいても攻撃することを露わにしなければ警戒しない特性を持ち、さらに気候が乾燥した環境の中で水源から離れようとしなかった。こうした状況で狩猟採集民は容易にコントロールできた、というシナリオ。遅くとも前5500年頃には確実に家畜化されていたという。

ちなみに、「saharan rock art<wikipedia英語版」によれば、7200年前(前5200年)より前からサハラ・サヘル地帯に牧畜の風景の絵が出現しはじめた。

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Photo credit: africanrockart.org

ウシの利用

ウシはその肉を食べるためというよりも血と乳を飲食するために飼われていた。ある本には遊牧民(牧畜民)にとってのウシは「歩く貯蔵庫」と言われるほどの貴重な財産としている*4

牛が雌雄同数の子牛を産むのは、生物学的に避けられない事実であり、牧畜民のもとには繁殖に必要な数を大幅に上回る頭数のオスが生まれた。オスの子牛は殺されるか、去勢されて太らされ、牛乳が不足した場合に備えて肉の供給源として飼育された。こうした余剰分はきわめて貴重な社会的手段であり、妻を娶るために払われ、社会の絆を固め、儀式的な義務をはたすためにも利用された。したがって、それは富と自尊心、社会的名声、そして遠隔地の野営地にクラス人びととの家族的および個人的な関係を象徴していたのである。雄牛は精力的な指導者の象徴であり、重要な族長の象徴となった。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p222

文明成立以降のウシ

すこし、文明成立以降の話をする。

以上にいくつか引用したように、ウシは信仰の対象であり、富・強い指導者の象徴だった。

サハラ・サヘルの牧畜民の一部が「緑のサハラ」時代以降にナイル川流域に移住したため、上のような文化がエジプト文明に溶け込んだ。

宗教に関しては、神話の中に取入れられた。ブログ『現在位置を確認します。』の記事「丑年+古代エジプト というわけで古代エジプトの牛の話。」によれば、雄牛は「基本的に、気高さや雄雄しさの象徴。」、雌牛は「基本的に、母性や愛の象徴。」となっているという。

古代エジプト人はオシリス、ハトホル信仰を通して雄牛(ハピ、ギリシャ名ではアピス)を聖牛として崇め、第一王朝時代(紀元前2900年ごろ)には「ハピの走り」と呼ばれる行事が行われていた[36]。創造神プタハの化身としてアピス牛信仰は古代エジプトに根を下ろし、ラムセス2世の時代にはアピス牛のための地下墳墓セラペウムが建設された[36]。聖牛の特徴とされる全身が黒く、額に白い菱形の模様を持つウシが生まれると生涯神殿で手厚い世話を受け、死んだ時には国中が喪に服した。

出典:ウシ<wikipedia

もうひとつ、「富・強い指導者の象徴」について。

王朝時代に入ってからのウシの利用は、一般の農民は農作業などの役畜としてだった一方で、王家は領地にウシを飼う施設を設けて飼育していた*5

また王が描かれているパレットや壁画では王の腰に雄牛の尾が着けられている。これが王の象徴・証(あかし)らしい。詳しくは「ナルメルのパレット(3) 牡牛の試練 ( 人類学と考古学 ) - オルタナティブを考えるブログ - Yahoo!ブログ」を参照。

牧畜民のネットワーク

再び文明成立前に話を戻す。

前5000年(7000年前)になると再びサハラ・サヘルは湿潤になり、牧畜民の生活可能な空間が広がった。

これだけ遠距離に散らばっても、牧畜民が使っていた道具は驚くほど似ており、そのなかには精巧なつくりのやじりや、斧や丸のみなど木の加工用の道具のほか、家畜の乳を入れておく椀型の壺もあった。これは驚くべきことではない。氷河時代にシベリアやアラスカにいた狩人と同様、これらの人びとも技術より情報を頼りにしていたのであり、牧草地や水がどこで見つかるかといった知識と、何キロも離れた場所にいる何百もの独立した牧畜民の野営地を結ぶ社会的なネットワークに依存していたからだ。サハラでは今日でも、同じような社会的な絆が結ばれている。

出典:ブライアン氏/p221

このことについてはのちのユーラシア北部(中央ユーラシア)の遊牧民にも当てはまる。



何でもかんでも気候変動に関連付けるのは馬鹿げていると思う人が少なくないと思うが、まあ、可能性のひとつだ。または気候変動が主要因でなくてもマイナーな要因の一つになるかもしれない。

*1:家畜/日本大百科全書(ニッポニカ) - コトバンク

*2:ウシ<wikipediaウシとは - コトバンク 

*3:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p219

*4:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p37

*5:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p80

エジプト文明:先史④ タッシリ・ナジェール

今回はタッシリ・ナジェールについて書いていこう。

タッシリ・ナジェールは「緑のサハラ」の代表的な遺跡で世界遺産にも登録されている。

タッシリ・ナジェールとは

タッシリ・ナジェールの地は、アルジェリアの南東の高地(または台地状の山脈)にある。

72000平方kmの中に15000点以上の絵が岩壁・岩に描かれている。これらの絵は紀元前10000年から紀元後まで連続的に書かれているので北アフリカの先史を知るために重要な遺物である。

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第8章で言及した地名を含むサハラ砂漠とエジプトの地図

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p209

  • この図だとタッシリ・ナジェールは何時の時代も砂漠のなかにあることになるのだが、実際はタッシリ・ナジェールは「緑のサハラ」の恩恵に預かっていた。これに対する説明は著書には書かれていなかった。高地だから?

半乾燥地帯の社会は みなそうだが、狩猟者たちはつねに移動をつづけ、ほとんど痕跡を残さなかったため、考古学者が研究しうるのは、砂漠の奥地にある山脈地帯やナイル川の東側、三万ヵ所以上で見つかっている岩面画と刻画しかない。これらの芸術の多くは、アルジェリアタッシリ・ナジェールで発見されたものだ。8000年以上昔、ここには水牛、象、サイ――いずれも現在ではこの地域から絶滅している――などの動物を、驚くほど写実的に描いた人びとがいた。棍棒、投槍器、斧、および矢で武装した男たちが獲物のまわりで浮かれ騒いでいる。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p211

考古学者などの専門家がこの絵画群についてどのように思っているのかは知らないが、ネットでちょっとだけ調べただけではこの15000点の絵が考古学者その他の研究者の論争の種になっているとは思えなかった。

ナブタプラヤなどナイル川の西方の砂漠で複数の遺跡が見つかっているのでこの絵画群の価値が落ちたのかもしれない。

先史時代に描かれた絵について

先史時代(いわゆる四大文明より前の時代)の絵は世界各地で発見されている(洞窟壁画<wikipedia参照)。岩・岩壁や洞窟内部の壁に描かれている。

人類が枝や巨大獣の骨を使って掘っ建て小屋をつくり始めるのはたかだか数万年前だが、それまでは雨風を避けるために洞窟や岩陰・岩窟(洞穴)・壁龕(へきがん、岩壁のくぼみ)を住処としていた。

岩陰の遺跡の例をひとつ↓。埼玉県秩父市の彦久保岩陰遺跡。こういったものが日本を含む世界各地にある。

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出典:岩蔭の遺跡(彦久保岩蔭遺跡)/秩父市

これらの住処の壁に描いた絵が今日まで遺っている。

有名なものとしては、タッシリ・ナジェールのほかには、スペインのアルタミラ洞窟、フランスのドルドーニュのラスコー洞窟の壁画(20,000年前)だろう。

アフリカ各地では多くの岩絵が発見されているが、サハラ・サヘルの地の岩絵は「saharan rock art」として知られている。この地域の絵は時代ごとに共通性を持ち、5つに区分されるらしい。「saharan rock art<wikipedia英語版」などを参照。

「Takayuki Hanafusa Photography 英隆行-写真」というサイトの記事「PANORAMIC PHOTOS OF SAHARAN ROCK ART サハラ岩壁画パノラマ写真」には多くの絵と外の風景の写真がアップされている。

タッシリ・ナジェールの絵の変遷

カラパイアというサイトの記事「1万年もの間、人類の歴史や環境の変化が克明に描かれた先史時代の岩絵が数多く残された世界遺産 タッシリ・ナジェール(アルジェリア)」に頼って書く。この記事はAMUSING PLANETというサイトの記事「The Prehistoric Rock Art of Tassili N'Ajjer, Algeria」の翻訳だ。

この記事の年代区分は上で書いた「saharan rock art」の区分とは少し違う。

紀元前10000-6000年

もっとも古いものは、紀元前1万年から6000年のもので、カバ、ワニ、ゾウ、キリン、バッファロー、サイのような大型動物の姿が克明に描かれている。当時サハラが緑豊かな肥沃な土地で、野生動物の宝庫だったことがよくわかる。こうした動物の多様さに、我々人間などあまりにも小さくてかすんでしまうほどだ。人間はブーメラン、投げ槍、棍棒、斧、弓を持つ姿でよく描かれている。

下は冒頭の写真。おそらくこの時代に描かれたもの。

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sleeping antelope[アンテロープ、レイヨウ、ウシ科--引用者注]

出典/著作者:Linus Wolf/Wikimedia

この時代は「saharan rock art」の区分のLarge Wild Fauna Period (Bubalus Period) (野生動物層または野生牛の時代)と同じ。

この時代に重なって、紀元前8000年から6000年には、着衣の人間の姿が描き込まれるのが主流になった。身長数センチのものから数メートルのものまでさまざまで、ほとんどが目鼻のない丸い頭に、不格好な体という姿で描かれている。シャーマンのような人物が空中を飛んでいる姿や、そびえたつ大男の前で人々がひれ伏しているような絵もある。

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image credit:Patrick Gruban/Wikimedia

上の引用の「そびえたつ大男の前で人々がひれ伏しているような絵」はタッシリ・ナジェールの岩絵の中で最も有名な「白い巨人(またはセファールの巨神)Great god of Sefar」を指しているかもしれない。

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セファールの巨神, 2014年11月撮影 (9.7m x 4m, 巨神: 3.2m)

出典/著作者:Takayuki Hanafusa Photography  英隆行-写真 » PANORAMIC PHOTOS OF SAHARAN ROCK ART サハラ岩壁画パノラマ写真

この絵は最も有名なのだが、この写真が何を意味するかは今の所分かっていないようだ。10000年前(前8000年)に描かれたもので大男の左には諸手を上げて祈っているよな人が数人描かれている。(おそらく)学者ではない人が安産祈願ではないかと書いていたがよくわからない。

引用のリンク先に行けば鮮明な画像を見ることができる。

紀元前5000(7000年前以降)

約7000年前には、こうしたアートの中に家畜が描かれるようになった。田園時代として知られているこの時代の岩絵の指向は、自然や持ち物や道具へと変わっていく。人間の姿がよりフューチャーされるようになり、もはや人間は自然の一部ではなく、自然の上に君臨し、そこから食料を得ているものとして描かれるようになる。

野生動物よりも家畜が多くなり、3500年前くらいの絵になると、馬や馬が引く馬車が描かれるようになる。岩の多いサハラを馬車が走っていたとは考えられないので、馬車や武装した男たちの絵は、土地の所有権や住民の支配を表わした象徴として描かれたのではないかと研究者は推測している。気候がますます乾燥していくと、馬よりもラクダの絵が多くなる。これは2000年前くらいの岩絵からその証拠が残っている。

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Photo credit: africanrockart.org

「自然の上に君臨し、そこから食料を得ているものとして描かれるようになる」というのも興味深い。これは著者の感想だろう。



思ったよりも考古学的な証拠にはなっていないらしい。

この絵画群は歴史全体において価値があるというよりも美術史・芸術史で価値があると言ったほうがいいかもしれない。

エジプト文明:先史③ 「緑のサハラ」時代の生活環境

砂漠と雨の関係

現代のサハラ・サヘルの環境

以下の引用は現代を含むサハラまたはサヘルの環境の一部を描写している。

「緑のサハラ」はサヘル地帯が拡大したと考えれば、現代のこの地域の環境を理解が「緑のサハラ」の環境に結びつくだろう。

砂漠は巨大な肺のように呼吸する。降雨のパターンにわずかな変化が起きても、そのたびに拡大しては縮小する。周辺部では、完全に砂漠だったところが、低木などの植生に一年中おおわれた砂丘に変わり、やがて半乾燥気候の草原になる。降水量が北部から南部にかけて、1キロあたり約1ミリずつ増加すれば、いずれはサバンナに変わる。この肺は降水量の多い時代には動物と人間を引き寄せ、再び乾燥化が進むと周辺にそれらを追いやる。完新世のあいだの降水量の変化は、いずれも大きなものではなく、年間数ミリ程度だったが、その効果はいちじるしいものだった。[中略]

衛星画像データは、降水量のわずかな増減が砂漠の周辺にどれだけ大きな影響をもたらすかを劇的にあらわした。春、サヘル一帯に数ミリ多くの雨が降れば、何千ヘクタールもの乾燥地帯に短い草が生え、砂漠の花まで咲くのだ。雨が降ったあとは数日間または数週間、浅い水たまりができる。牛牧畜民はたちまち新しい草地を求めて散らばっていく。家畜は草や低木が生長する隙からそれらを食む。翌年にはほどんど降らないかもしれない。そうなると、腹をすかせた牛は恒久的な泉の周囲に集まってくる。飼い主は迫ってくる砂漠を避けて牛を南に移動させ、農地の刈り株を食べさせる。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p208

先史時代のサハラ・サヘルの環境

今から12000年くらい前から、アフリカ大陸北東部の気候はしだいに湿潤化に向かってい[った]。[中略] 年間平均にすればエジプト南部でも200mm程度のわずかな降雨量であったものの、砂漠の景観を一変させるには十分な潤いを与えた。降雨後には一時的に低地部に湖沼あるいは水たまりが出現し、タマリスクやアカシアなどの灌木や草等の植物が生え、野ウサギ、ガゼル、オリックスなどの動物が生息していたという。[中略]

湿潤化した環境のなかで、人びとはナイル河西方の広大な地域に居住地を求めるようになり、それまで無人であった砂漠のなかに、活動の痕跡が遺されるようになった。少なくともその人口の一部は、おそらくナイル河のほとりからやってきたと推測される。[中略] 砂漠地帯で検出された遺跡はほぼすべて、夏季の降雨の後に水たまりができ、冬季にも比較的地表面に近いところに地下水が存在した低地、もしくは年間を通じて湧き水があるオアシス近くに形成されている。[中略]

ナイル河畔の遺跡では、砂漠地帯よりももっと水産資源に依存した生活が営まれていた。たとえば、カルトゥーム中石器文化のサッガイでは、動物遺存体が比較的よく残っており、そのなかでも魚類、ほ乳類および貝類の骨が優勢で、鳥類と は虫類がが少数含まれていたという。植物遺存体はほとんど残っていなかったが、人骨に含まれるストロンチウム含有量の分析と、植物質食糧の処理に用いられたと思われる粉砕具の存在から、貝類と植物が重要な食糧であったことが推測されている。

ナイル河流域における豊富な水産資源は、終末期旧石器時代の狩猟・採集を基盤とする生業の人びとにも、ある程度定住的な生活を可能にしたようである。ナイル河中流域のサッガイ遺跡では、各季節ごとに利用できる資源が存在すること、遺跡の規模が大きいこと、用具が豊富であること、および埋葬の存在にもとづいて、安定した集落の存在が指摘されており、おそらくカルトゥーム遺跡においても定住的な生活が営まれていたであろう。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生(世界の考古学⑭)/同成社/2003/p25-26

湿潤化したサハラ・サヘルのオアシスを転々とする生活に向かう人びとがいる一方で、定住的な生活を指向する人びとが現れた。こういった環境を作り出すためには、気候変動の恩恵だけではなく、用具を作成する技術も必要になってくる。

このような用具が揃ってくる時代が終末期旧石器時代(epipaleolithic)または中石器時代のことである。新石器時代に入ると農業が出現・発達して、宗教儀礼・法律・文字などのシステムが整ったら文明の誕生になる。

またナイル河流域でなくても地下水がある場所では、井戸を掘って乾季のみの定住地になった場所もあるようだ。つまり半定住が可能な場所がサハラ・サヘルにも幾つかあった(有名なのはナブタ・プラヤ。これは別の記事で書く)。ただ、井戸が出現する時期は分からない。

可食植物の話で言えば、ソルガム(モロコシ)やミレット(きび?)という穀物が出てくる。これらは古くから栽培されていたという説もあるようだが、基本的にはこれらの栽培は西アジアから入ってきた穀物類の栽培よりも後だそうだ。

ソルガムもミレットも熱帯アフリカが原産だそうだ。「緑のサハラ」時代の人びとは 、湖沼で自生したこれらを採集して乾季を過ごすための食糧としたようだ。

サハラ一帯は二つのおもな地形、つまり開けた平野と山地からなり、牧畜民はいずれの土地も利用していた。湿潤な時代には浅い湖が多数あったため、人々はおおむねその近くで暮らしていた。雨は7月から9月まで砂漠の南端で降った。今日、ツェツェバエがヒトの睡眠病の病原体を運び、牛にも死をもたらす地域だ。牧畜民はツェツェバエが少なくなる乾季に、南部へ移動したかもしれない。一方、山地の近くで暮らしていた人びとは異なったかたちで季節ごとに移動しており、乾季になると水利のよい谷間へ移動し、雨季にはより開けた土地に戻った。雨が局地的に降り、水や牧草地が当てにならない環境の本質そのものが、誰もが一年を通して莫大な距離を移動しなければならないことを意味していた。

出典:古代文明と気候大変動/p221

興味深い図があったので引用。

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Distribution of tsetse and cattle raising area in Africa

出典:ResearchGate(情報源は「http://pathmicro.med.sc.edu/lecture/trypanosomiasis.htm.」と書いてあるがこちらはリンク切れ)

紫が牛の牧畜エリア。緑がツェツェバエエリア。これは大雑把で分かりやすいイメージの図で、より正確な分布図は「cattle tsetse Distribution」などで画像検索すれば出てくる。

この紫の場所がサヘル地帯の多くと重なる地帯で、一年を通して南北に上下するので*1、牧畜民は移動する必要が出てくる。

また、牧畜の出現より前の時代は、上の紫の部分が野生牛などが生息する地帯と考えれば、ある程度想像はつくだろう。当時の狩猟採集民も一年を通して莫大な距離を移動しなければならなかっただろう(狩猟採集民はそういうものだと言ってしまえばそうなのだが)。