歴史の世界

エジプト文明:先史③ 「緑のサハラ」時代の生活環境

砂漠と雨の関係

現代のサハラ・サヘルの環境

以下の引用は現代を含むサハラまたはサヘルの環境の一部を描写している。

「緑のサハラ」はサヘル地帯が拡大したと考えれば、現代のこの地域の環境を理解が「緑のサハラ」の環境に結びつくだろう。

砂漠は巨大な肺のように呼吸する。降雨のパターンにわずかな変化が起きても、そのたびに拡大しては縮小する。周辺部では、完全に砂漠だったところが、低木などの植生に一年中おおわれた砂丘に変わり、やがて半乾燥気候の草原になる。降水量が北部から南部にかけて、1キロあたり約1ミリずつ増加すれば、いずれはサバンナに変わる。この肺は降水量の多い時代には動物と人間を引き寄せ、再び乾燥化が進むと周辺にそれらを追いやる。完新世のあいだの降水量の変化は、いずれも大きなものではなく、年間数ミリ程度だったが、その効果はいちじるしいものだった。[中略]

衛星画像データは、降水量のわずかな増減が砂漠の周辺にどれだけ大きな影響をもたらすかを劇的にあらわした。春、サヘル一帯に数ミリ多くの雨が降れば、何千ヘクタールもの乾燥地帯に短い草が生え、砂漠の花まで咲くのだ。雨が降ったあとは数日間または数週間、浅い水たまりができる。牛牧畜民はたちまち新しい草地を求めて散らばっていく。家畜は草や低木が生長する隙からそれらを食む。翌年にはほどんど降らないかもしれない。そうなると、腹をすかせた牛は恒久的な泉の周囲に集まってくる。飼い主は迫ってくる砂漠を避けて牛を南に移動させ、農地の刈り株を食べさせる。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p208

先史時代のサハラ・サヘルの環境

今から12000年くらい前から、アフリカ大陸北東部の気候はしだいに湿潤化に向かってい[った]。[中略] 年間平均にすればエジプト南部でも200mm程度のわずかな降雨量であったものの、砂漠の景観を一変させるには十分な潤いを与えた。降雨後には一時的に低地部に湖沼あるいは水たまりが出現し、タマリスクやアカシアなどの灌木や草等の植物が生え、野ウサギ、ガゼル、オリックスなどの動物が生息していたという。[中略]

湿潤化した環境のなかで、人びとはナイル河西方の広大な地域に居住地を求めるようになり、それまで無人であった砂漠のなかに、活動の痕跡が遺されるようになった。少なくともその人口の一部は、おそらくナイル河のほとりからやってきたと推測される。[中略] 砂漠地帯で検出された遺跡はほぼすべて、夏季の降雨の後に水たまりができ、冬季にも比較的地表面に近いところに地下水が存在した低地、もしくは年間を通じて湧き水があるオアシス近くに形成されている。[中略]

ナイル河畔の遺跡では、砂漠地帯よりももっと水産資源に依存した生活が営まれていた。たとえば、カルトゥーム中石器文化のサッガイでは、動物遺存体が比較的よく残っており、そのなかでも魚類、ほ乳類および貝類の骨が優勢で、鳥類と は虫類がが少数含まれていたという。植物遺存体はほとんど残っていなかったが、人骨に含まれるストロンチウム含有量の分析と、植物質食糧の処理に用いられたと思われる粉砕具の存在から、貝類と植物が重要な食糧であったことが推測されている。

ナイル河流域における豊富な水産資源は、終末期旧石器時代の狩猟・採集を基盤とする生業の人びとにも、ある程度定住的な生活を可能にしたようである。ナイル河中流域のサッガイ遺跡では、各季節ごとに利用できる資源が存在すること、遺跡の規模が大きいこと、用具が豊富であること、および埋葬の存在にもとづいて、安定した集落の存在が指摘されており、おそらくカルトゥーム遺跡においても定住的な生活が営まれていたであろう。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生(世界の考古学⑭)/同成社/2003/p25-26

湿潤化したサハラ・サヘルのオアシスを転々とする生活に向かう人びとがいる一方で、定住的な生活を指向する人びとが現れた。こういった環境を作り出すためには、気候変動の恩恵だけではなく、用具を作成する技術も必要になってくる。

このような用具が揃ってくる時代が終末期旧石器時代(epipaleolithic)または中石器時代のことである。新石器時代に入ると農業が出現・発達して、宗教儀礼・法律・文字などのシステムが整ったら文明の誕生になる。

またナイル河流域でなくても地下水がある場所では、井戸を掘って乾季のみの定住地になった場所もあるようだ。つまり半定住が可能な場所がサハラ・サヘルにも幾つかあった(有名なのはナブタ・プラヤ。これは別の記事で書く)。ただ、井戸が出現する時期は分からない。

可食植物の話で言えば、ソルガム(モロコシ)やミレット(きび?)という穀物が出てくる。これらは古くから栽培されていたという説もあるようだが、基本的にはこれらの栽培は西アジアから入ってきた穀物類の栽培よりも後だそうだ。

ソルガムもミレットも熱帯アフリカが原産だそうだ。「緑のサハラ」時代の人びとは 、湖沼で自生したこれらを採集して乾季を過ごすための食糧としたようだ。

サハラ一帯は二つのおもな地形、つまり開けた平野と山地からなり、牧畜民はいずれの土地も利用していた。湿潤な時代には浅い湖が多数あったため、人々はおおむねその近くで暮らしていた。雨は7月から9月まで砂漠の南端で降った。今日、ツェツェバエがヒトの睡眠病の病原体を運び、牛にも死をもたらす地域だ。牧畜民はツェツェバエが少なくなる乾季に、南部へ移動したかもしれない。一方、山地の近くで暮らしていた人びとは異なったかたちで季節ごとに移動しており、乾季になると水利のよい谷間へ移動し、雨季にはより開けた土地に戻った。雨が局地的に降り、水や牧草地が当てにならない環境の本質そのものが、誰もが一年を通して莫大な距離を移動しなければならないことを意味していた。

出典:古代文明と気候大変動/p221

興味深い図があったので引用。

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Distribution of tsetse and cattle raising area in Africa

出典:ResearchGate(情報源は「http://pathmicro.med.sc.edu/lecture/trypanosomiasis.htm.」と書いてあるがこちらはリンク切れ)

紫が牛の牧畜エリア。緑がツェツェバエエリア。これは大雑把で分かりやすいイメージの図で、より正確な分布図は「cattle tsetse Distribution」などで画像検索すれば出てくる。

この紫の場所がサヘル地帯の多くと重なる地帯で、一年を通して南北に上下するので*1、牧畜民は移動する必要が出てくる。

また、牧畜の出現より前の時代は、上の紫の部分が野生牛などが生息する地帯と考えれば、ある程度想像はつくだろう。当時の狩猟採集民も一年を通して莫大な距離を移動しなければならなかっただろう(狩猟採集民はそういうものだと言ってしまえばそうなのだが)。