前回からの続き。
引き続き、以下の2つを参考文献とする。
- 馬場匡浩著『古代エジプトを学ぶ』(六一書房/2017)
- ウェブサイト「ナブタ・プラヤ|Nabta Playa|人類歴史年表」
後期新石器時代
馬場氏によれば、後期新石器時代は紀元前5400-4400年。
このころの特徴は巨石文化の始まりだ。この巨石文化がナブタ・プラヤがエジプト文明の起源の一番の要因かもしれない。
祠堂(巨石の建築物)
上述の2つの参考文献を元に簡単に説明してみる(詳細はウェブサイト「ナブタ・プラヤ」 参照)。
出典:牛の形に彫刻された岩の写真<ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」
構造を説明するとまず、直径6m、深さ3mの穴を彫り、岩盤の卓上岩を整形し、その上にナブタ・シルト(泥のような砂屑)で埋めて、その上に彫刻された岩を入れて、またシルトで埋め、その上に複数の岩(埋めた場所の目印か?)を置いている。
彫刻された岩は重さが4トンもあり、ウシの形に整形され真北を向くように埋められている。
出典:彫刻された岩<ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」
岩の他に人骨が埋められているのではないか(つまりこれは墓なのではないか)と思われたが、人骨を含む他のものは無かった。
この巨石の建築物(?)が何なのかは謎のままだが、分かることもある。
いずれにせよ、巨石を動かし、整形して構造物を造る社会がすでに存在していたことに驚かされる。これは明らかに個人を超えた作業であり、集団の協業がない限りなし得ない。そこには、協業的活動を支持・統括するいリーダーの存在があったにちがいない。ここに複雑化社会の萌芽がみてとれ、そして、リーダーを中心とした社会の紐帯を強化したのは、石塚の例にみる信仰の存在が大きかったと考えられるのである。
出典:馬場氏/p38
石塚
引用にある石塚について。
当時の遊牧民にとって雨は最大の恵みであったが、そのための雨乞または祭祀といった信仰も芽生えていたようだ。この時代のナブタ・プラヤでは、砂岩の岩で覆われた石塚が少なくとも13ヵ所で確認された。石塚の内部は人工物(ゴミ)が堆積し、その下には動物が埋葬されていた。ヒツジやヤギも見つかったが、ほぼ完全なかたちの仔牛の骨もあった。また人骨を埋葬した石塚もあった。遊牧民にとって、ウシは「歩く貯蔵庫」といわれるほど貴重な財産であり、祭祀や儀礼以外に殺して肉を食すことはめったにない。こうしたことから発掘者は、これら石塚は、雨乞のための生け贄、または雨に対する祝宴と雨の神への献納として築かれたという。雨期にナブタ・プラヤに遊牧民が集まり、一年に一度の祝宴や祭祀がここで執り行われていたのであり、この時期すでに自然に対する信仰があったようだ。
出典:馬場氏/p37
信仰・宗教はバラバラに生活している牧畜民(遊牧民)を一ヶ所に集う力を持っている。彼らは雨乞や祝宴を開いて紐帯を強化する。
これらの牧畜民の集団どうしの結びつきは、互助の働きや経済・情報のネットワーク形成などに重要なものだ。
そしてこの集団が大きくなり、リーダーを生みだし、巨大な建築物を造るまでになった。
このリーダーがこの集団を「支配」したかどうかは分からなかった。
カレンダー・サークル
もう一つ、有名なものがある。
まず注目されるのが、小高い丘の上につくられた環状列石だ(図3-3)。これは、直径4m弱の円形状に砂岩の平板を立てたもので、対を成す大きめの平板が4組、十字状に配置されている。そのうち、2組はほぼ正確に南北を指し、もう2組は北から東に70度ぶれた位置に置かれている。この赤ちゃんストーンヘンジを「カレンダー・サークル」と発掘者のウェンドルフはよぶが、その理由は、70度の指す方向が夏至日の太陽の日の出の位置を指すからという。つまりこれは日時計なのだ。雨による恵みを求めてナブタ・プラヤに訪れる遊牧民にとって、雨期の到来を告げる夏至を予測することはなによりも重要だったのだ。
出典:馬場氏/p36
これが文明の誕生よりも前に、正確な科学的知識が存在していた証拠となっている。これはナブタ・プラヤの魅力の一つとなっている。