ナブタ・プラヤ遺跡(Nabta Playa)は、「緑のサハラ」時代のサハラ・サヘルにおける最も有名な遺跡だ。後世のエジプト文明の起源とも言われているが、確実な証拠はない。
「緑のサハラ」については、記事「エジプト文明:先史① 緑のサハラ 」参照。
主な参考文献
馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017
第3章の「エジプト文明の起源(新石器時代)」がナブタ・プラヤに当てられている。
ナブタ・プラヤを扱う日本語の書物は数少なく、その中でもこの本はおそらく最新のものだと思う。
冒頭の「はじめに」によれば、著者の馬場氏は有名なエジプト考古学者の吉村作治氏のお弟子さん(?)だそうだ。
ナブタ・プラヤ|Nabta Playa|人類歴史年表
非常に詳しく描かれているウェブサイト。参考文献もしっかり書いてあり。図表や写真も豊富。
ナブタ・プラヤの現在と過去
ナブタ・プラヤは現在のエジプト南部、スーダンとの国境の近く、ナイル川から西へ約100kmの地点の砂漠にある盆地にある。
上で紹介したウェブサイトの「ナブタ・プラヤ」の「はじめに」には、現在の砂丘と盆地の写真が貼られている。
第8章で言及した地名を含むサハラ砂漠とエジプトの地図
現在は年間降水量1mm未満だが、「緑のサハラ」時代にはこの大きな盆地(プラヤ)は季節的な湖となった。湖畔には植物が繁茂し、乾季になっても井戸を掘れば水が確保できた。この湖畔があった場所に沿って遺跡が遺っている。
ナブタ・プラヤの人々は、秋から春の間ここで生活し、夏の雨期は他の場所に移動した。夏が終わった頃、湖畔に繁茂した植物を採取し、それを貯蔵して冬以降の食糧として備蓄した。冬は乾期となるため、深く大きな井戸を掘って水を確保していた。井戸はサハラ砂漠で最古の例である。
出典:馬場氏/p32
ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」の第Ⅱ部第1章「三つの地域」に遺跡の分布図がある。
初期の住居跡
ナブタ・プラヤの歴史については、ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」の第Ⅰ部 「第一章 歴史」で簡潔に書かれている。
正確な年代については様々な説がある。
12000年前に最終氷期が終わり、北アフリカは「緑のサハラ」の時代に入る。そして湿潤化したナブタ・プラヤに人々が集まってくる。
前8800年頃から人々が住んでいる形跡が出始める。
ウシや土器については前回、前々回でやった。
旧石器時代は雨風を避けるために洞窟や岩陰を住居(の代わり?)にしていたが、ナブタ・プラヤでは簡単ながら家屋を造っていた(家屋の起源についてはしらべていない)。
床は30cmほど掘り下げ、壁と天井は、湖畔に自生するタマリスクやアカシアの灌木を骨組みにして、葦やマットで覆って作られていたようだ。家屋の形状は楕円や円形であるが、なかには長さ7mのものも存在する(図3-2)。床面には土器が埋め込まれ、また中心軸に沿って炉址が設けられていた。[中略]
図3-2ナブタ・プラヤの家屋復元図家屋の周辺には貯蔵穴が多く見つかっており、ソルガムやミレットなどの雑穀を主に貯蔵していた。石皿と磨り石も多く出土していることから、雑穀は挽いて粉にして、お粥のように食されていたようだ。
出典:馬場氏/p34
馬場氏はソルガムの栽培についても言及している。
形態的には野生種であるものの、栽培されていた可能性が指摘されている。なぜなら、貯蔵穴にはソルガムのみが入れられており、それだけを選別して採取することが難しいからである。つまり、ソルガムの種を撒いて意図的に育てていたのだ。
出典:馬場氏/p34
ナトゥーフ文化の生活環境にかなり似ている(ナトゥーフ文化はepipaleolithic(終末期旧石器時代))。日本の縄文時代にも似ているかもしれない。
ナブタ・プラヤの「新石器時代」について
この地域の歴史については新石器時代から話が始まることが多い。それより前の文化(旧石器文化以前)は、無いか無視できるレベルということらしい。
新石器の定義には一般的に、農耕と牧畜、土器と磨製石器、そして定住が挙げられるが、ナブタ・プラヤ遺跡では、ウシの牧畜、土器の製作しか当てはまらない。農耕はソルガム栽培の可能性にとどまり、定住も通年ではなく、雨期の夏はここから移動していたとされる。[中略]ただやはり、遊牧民でありつつも、土器を作り、集約的な食物採取を行い、家屋を造って比較的長く一ヶ所に留まる生活様式は、北東アフリカのそれまでの旧石器文化とは大きく異なる。ナブタ・プラヤは、完全なる新石器化への過渡期の遺跡なのだ。
出典:馬場氏/p35
定住と非定住の文化は根本的に違うと思うが、非定住民の完全なる新石器がどのようなものなのかが分からない。
前期新石器文化と中期新石器文化
上の二つの文献では、前期(初期)新石器文化の始まりの年代は異なるが、中期新石器時代の年代はだいたい前6000年、前5900年と近い年代におまっている。
前6000年までに出揃ったもの。
- ウシの家畜化(遅くとも前5500年頃には確実に家畜化されていた)。
- 土器の制作。
- 井戸を掘る。
- 家屋を造る。
- ソルガムの栽培と乾期をやり過ごすための貯蔵。
そして前6000年以降になると、西アジアからナイル川を通ってヒツジ・ヤギの家畜技術が導入された。「ウシとは違い、ヒツジとヤギは主に食肉用として持ち込まれた」(馬場氏/p36)、とある。ただしこれらの家畜が普及するのは、ナブタ・プラヤを含むサハラ・サヘル、ナイル川流域両方とも前五千年紀後半以降らしい。
もう一つ重要なこととして、宗教関連のことがある。
前5900年頃には、周辺の各地から集まった遊牧民たちが、物々交換や情報交換や冠婚葬祭の儀式を行うようになり(マルヴィル:1998年)、ナブタ・プラヤはこの地域のための、一つの大きな 「集会場(祭儀場)」 とされるまでに育っていきます。実はこの 「祭儀場」 の存在が、この砂漠の「僻地における、意外なほどの文化の発展の、大きな原因の一つだと、考えられるのですが、それについては後で詳しく触れます。
出典:ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」
これについて著者は「 文化の発展の、大きな原因の一つ」に「集団の拡大効果」 を挙げている。つまり、文字システムの無い時代には情報を多くの人々で共有することによって、文化の保存、伝播、普及、そして各地の文化を土台とした技術や文化様式の発明が為されることを主張している。
西アジアのギョベクリ テペも宗教的な建築物で集会場だと言われているが、上のような役割を持っていたとも思われている。
馬場氏によれば(p34)、この時代(前6000-5500年)は「前時代に比べ乾燥化が進」んでいた時代ということで、ナイル川流域からの物資を求めて、西のサハラ・サヘルから多くの牧畜民が訪れたのかもしれない。
(以下次回)