歴史の世界

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ①(農耕・栽培)

小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』の第二章《「ウルク出土の大杯」が表す豊穣の風景》(p53~)と前川和也編著『図説メソポタミア文明』の序章《「ウルクの大杯」を読む 文明成立の宣言》(p6)で、ウルクの大杯が取り上げられている。

ウルクの大杯(英語:Warka Vase)とは古代都市ウルクで出土したアラバスター(雪花石膏)製の高さ1.10メートルもある大きな器だ。ウルク最高神イナンナの神殿への献上品だそうだ*1。外周にはウルクで作られた農作物を都市神イナンナへ献上する絵が描かれている。

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出典:前川和也(編著)/図説メソポタミア文明/ふくろうの本/2011/p6

この大杯自体 メソポタミア文明の代表的傑作だが、文字で書かれた史料がほとんどない時代に宗教儀礼などが描かれているこの大杯は当時の時代を知る上でも特に重要である。

ここでは、小林氏、前川氏の本に倣って、外周の絵を元に当時の農業や神・神殿に関することを書きたいと思う。その後でこの大杯のことも書いてみよう。

図像の構成

外周の図像は空白部を挟んで上・中・下の三段で構成されている。

下段:農作物の象徴として農地と動物が描かれている
中断:人々が農作物を運ぶ場面
上段:都市神イナンナへ農作物を献上している場面

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出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p55

これらの図像のメインはもちろん上段の神への献上の場面となる。

農地・牧場で農作物を作り、農作物を神殿まで運び、そしてそれらを神へ献上するというストーリーになっているので、まずは下段から見ていこう。

下段:農耕と牧畜の風景

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出典:図説メソポタミア文明/p11

この図像は下段の一部だが、下段はこの図のコピーが一周している。

最下部の波線は河川(ユーフラテス川)と灌漑に利用する水路を示す。天水農耕(雨水に頼った農耕)の最低条件である年間降水量200ミリに満たないシュメール地方では灌漑の技術は不可欠だった。

波線の上の2種類の草のような図像の列は農地を表す。前川氏によれば(p8)これらは「大麦と亜麻」、小林氏によれば(p58)「大麦となつめやし」だった。どちらが正しいかわからないが、3種の作物はいずれもシュメール地方には大切なものだった。

ここでいう大麦は、前川氏によれば、六条大麦で塩分に強いという特徴をもっている。シュメール地方は低地で海に近いので塩害に悩まされることが多かった。(図説メソポタミア文明/p8)

なつめやしも耐塩性に優れ、穀物が不作でもなつめやしが不作でなければ飢えをしのぐことができた。なつめやしからは酒や蜜も作ることができ、乾燥なつめやしは旅の携行食糧となった。

亜麻はその茎繊維が衣服の材料となる。亜麻から作られる織物はリンネルと呼ばれる。

農耕の景観

ここで農耕について書いてしまおう。

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出典:シュメル/p60

上はシュメール地方の農地のようすを表している。この図と同じものが『図説 メソポタミア文明』にもあった(p69)。この図を作成したのはケンブリッジ大のポストゲイト Postgate 氏(1992)。中田一郎著『メソポタミア文明入門』*2(p57)には上部の図が説明を併せて載っているのでこちらも頼って書いてみよう。

河川のコントロール

まず川が天井川になっている。天井川(てんじょうがわ)とは、「砂礫の堆積により河床(川底)が周辺の平面地よりも高くなった川」のこと*3ティグリス川もユーフラテス川も大量の土砂を運んで流れている。

ナイル川ティグリス川・ユーフラテス川も氾濫を起こす川だったが、ナイル川がコントロールしやすい一方、ティグリス川・ユーフラテス川のそれは多くの知恵と労力を必要とした。

ナイル川とティグリス・ユーフラテス両川では、農業にはたす役割は大きくちがっていた。増水したナイルの水が下流地方に到達するのは、麦などの冬作物の播種の前であり、しかもその時期は毎年ほぼ一定していた。だからエジプトでは、人々は増水期にナイルの堰をひらいて耕地に氾濫水を導入し(ベイスン・システム)、ついで減水期にはいって耕地から水がひいたのちに、耕地に作物の種をまけばよかった。

ところが、ティグリス・ユーフラテス川の水位は秋の麦類の播種期にもっとも低くなるから、ここでは両川を取水源とする無数の水路を建設しておいて、さらに必要な時期に(たとえば播種ののち収獲までに3ないし4回)、耕地に水を導入できるような設備を整えておかなければならなかった。

麦類が収穫される翌年春には、両川は南部の沖積平野でほとんど氾濫してしまうほどに増水する。だから南部地方では、増水した水を沼沢などに放出するための水路を建設・維持することが不可欠であったし、また水路の水量も厳密に管理されなければならなかった。

出典:図説メソポタミア文明/p68

『シュメル』のほうには増水期の水を溜池にためておいて乾季にその水を畑に流入させる溢流灌漑が行われていた、とする。(p59)

川あるいは溜池の水(淡水)を耕地に充分に与えないと地下の塩水が地表に上がってきて塩害を引き起こす。

自然堤防

川の両脇は土砂の堆積物によって作られた自然堤防が形成されている。『メソポタミア文明入門』の方では自然堤防の範囲は土手と果樹園/菜園までも含んでいる。

自然堤防は、場所にもよりますが、高さが2、3メートル、幅は水路と両側の自然堤防をあわせて2、3キロメートル、ばしょによっては5キロメートルにもなります。そして、遺跡の約75%がこの自然堤防の上に位置すると言われます。

出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p56-57

図の下部に村落の場所が見える。

確立された農耕システム

穀物の耕地」は水はけの良いところで、川からの灌漑用水と肥沃な沖積土を使って穀物を栽培している。傾斜の下部の「境界の耕地」は水はけが悪く農耕に向かないので羊や山羊を放牧させる場合が多い。

耕地は耕区にわかれ、耕区ごとに灌漑や耕作、ついで種まきが行われました。沖積平野では、一つの耕区で収穫が終わると、次の年はその耕区は休耕地となります。再びそこが耕され、麦の作付けが行われるのはその翌年ということになります。すなわち、耕作→収穫→休耕→耕作のサイクルが二年で一巡しました。これが隔年耕作制度で、地味の枯渇や塩害を防ぐとともに、休耕中の耕地は家畜の放牧にも利用されました。農民の耕地は複数の耕区に散在していたため、収穫直後の耕地が次の年に休耕地になっても、別の耕区にある耕地で作付けを行い、収穫を得ることができました。

出典:メソポタミア文明入門/p57-58

条播と労働力

ところで、メソポタミア文明で紹介される驚異的な収量倍率の話がある。世界史の教科書に載っているかどうかは知らないがそれなりに有名な話だと思う。

収量倍率とは穀物一粒につき収穫できる穀物の数量のこと。前川氏によれば、ローマ共和政末期から帝政期にかけてのイタリア半島での小麦の収量倍率はせいぜい5倍程度、中世前期はそれ以下。エジプトのファラオ時代および中世は約30倍、としている。(p69-70)

これが南部メソポタミアだと都市国家時代末(前24世紀)のころに、麦類の平均が80倍近く(ヘクタール当たり2000リットル超)という驚異的な数字を叩き出した。他の地域はエジプトの30倍よりも低いからたしかに驚異的だ。この高倍率の理由の一部は肥沃な沖積土にあるのだが、ほかにも理由があるのでそれを書こう。

(ちなみに、ウル第三王朝時代(前2112-前2004)は30倍以下となる。200年ほどで急落した倍率の原因はやはり塩害だった。これに比べてエジプトは塩害に悩まされずに穀倉地帯であり続けた。)

理由としてもう一つ重要なのは種の播き方にある。エジプトや多くの地域では種を畑地に一様にばらまくやり方(散播、さんぱ)をしていたが、南メソポタミアでは条播をしていた。条播とは「畑に平行なすじ状の畝を作り、そこに一定の間隔で種をまくこと」*4

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出典:図説メソポタミア文明/p71

以下は、前3000年紀末(ウル第三王朝時代)の農業指導書から、条播方式を用いた一連の農作業の手順。

当時、すでに考え抜かれた、合理的な農作業が行われていた。農作業の最初は耕地一面を灌水し、水が引いた後に「ブーツを履いた牛」に耕地を踏ませることを勧めていて、これはアジアの稲作農業でおこなわれている「踏耕」と同じであったようだ。

種をまくにしても適当にばらまくのではなく、条播器(種まき用の器具)を使って無駄なくまいていた。三人で一組になって条播器付きの犂(すき)を操作し、畑を耕しながら種をまいた。1平方ニンダン(36平方メートル)あたり8本のうねを作り、うねの長さ1ニンダンにつき1ギン(約60分の1リットル)の大麦をまく。指2本の幅ごとに1粒を落とすと、1ニンダンあたり1ギンの種子がまかれることになる。

出典:シュメル/p63

  • 上の説明は『図説 メソポタミア文明』では、より詳しく書いてある。
  • 犂を使った農耕はおそらく前4000年紀末には行われていた(その頃の最古の文字書板に犂を形象するサインがある)。*5

上のように、南メソポタミアの農作業は膨大な労働力を必要とする。

南部メソポタミアでは、農業生産を維持するために膨大な労働力が投下された。人々は自然に介入して、極度に人工的な農業をおこなったからである。粘土板文書がそのことを教えてくれる。そこには、運河、用水路の建設と維持、水の管理、耕地の開発と維持、そして耕作準備から播種にいたるまでの煩瑣な農作業について、驚くほど詳細な情報が記録されているからである。

出典:図説メソポタミア文明/p70

「驚異的な収量倍率」の理由として、肥沃な沖積土、種の播き方など膨大な労働力を挙げたがもう一つは教育または指導だ。条播技術を含む一連の農作業はすべて粘土板の指導書に書いてるものだ。きわめて人工的な農耕は、徹底的な管理の下におこなわれていたのだから、指導書を用いて農民にシステマティックな農作業を徹底したのだろう。ただし、殆どの農民は文字が読めなかっただろうから、文字が読める人が指導したのだろう。

以上が「驚異的な収量倍率」の「カラクリ」となる。他の収量倍率の低い地域よりも数倍の労働力(またはエネルギー)を消費していることが分かる。

度量衡

さて、農耕の描写の下にモネの絵があるのだが、これがなぜ載っているのかというと、度量衡システムの話に関連してくる。刈束の山は脱穀するまでのあいだ乾燥させるために積み上がられているのだが、穀物の1単位を表す。南メソポタミアの場合もおなじで、一定面積の畑で取れたものを一山にすると、収量倍率は過去の記録より算出されているから、その山の穀物の量も算出できる。(図説メソポタミア文明/p71-73)

まとめ

ウルクの大杯 自体の話は別の記事で書くとして、農耕・栽培の話を書いた。

以上のように南メソポタミアの農耕・栽培はきわめて人工的かつ緻密な農作業を膨大な労働力を駆使して成り立っていた。シュメール時代の遺跡では文字粘土板が数多く出土する。詳細な記録がつけられ、それらが次の緻密な農作業工程を作り上げていったのだろう。

合理的な農耕・栽培システムを用いて「驚異的な収量倍率」を叩き出してきたシュメール地方(南メソポタミア南部)だったが、やがて塩害により崩壊して、北に避難しメソポタミアの中心は南メソポタミアの北部、バビロニアに移った。



後半はウルクの大杯より遠く離れてしまったが、いちおう、『シュメル』の書き方に倣っているつもり。

今回は下段の下半分の農耕・栽培の話だけしかできなかった。

次回は上半分の牧畜の話を書く。

メソポタミア文明:ウルク期からジェムデト・ナスル期へ

シュメール文明が誕生したウルク期と、王朝が誕生した初期王朝時代の間にジェムデト・ナスル期という時代区分がある。この区分がどのような時代なのか、なぜウルク期と区別される必要があるのかを説明してくれる文献は「Jemdet Nasr period<wikipedia英語版」くらいしかなかった。

ここでは、「Jemdet Nasr period<wikipedia英語版」を主に頼りにして書いてみる。


前3500-3100年頃 ウルク文化期。後期は前3300-3100年頃
前3100-2900年頃 ジェムデト・ナスル期
前2900-2335年頃 初期王朝時代


「ジェムデト・ナスル期」という時代区分の誕生とその後

ウルク期」や「ジェムデト・ナスル期」などは考古学の成果に基づく時代区分だ。

1920年代にジェムデト・ナスル遺跡(イラク中央部、バビロンの北東)の発掘調査が行われた。1930年にバグダッドで大きな会議が開かれ、もともとあったメソポタミアの時代区分に組み込まれた。すなわちウルク期と初期王朝時代のあいだに挿入された。

ジェムデト・ナスル遺跡の発掘は、1988-1989年に成果のある発掘調査が行われたが、1990年の湾岸戦争のため、追加の調査は中止された。その後、調査はされていないらしい。

しかし、イラク中南部の遺跡群(アブ・サラビク、ファラ、ニップル、ウル、ウルクなど)よりジェムデト・ナスル期の特徴が確認された。

ウルク期からジェムデト・ナスル期の移行

都市が誕生したウルク期と、都市国家と王が誕生した初期王朝時代のあいだにジェムデト・ナスル期が置かれている。しかし、私の手元にあるメソポタミア関連の本すべてにおいてジェムデト・ナスル期をちゃんと説明しているものはない。

ウルクの長距離の物流ネットワークが前3100年(つまりウルク期の終わりの時期)に崩壊したのだが*1、この崩壊の理由もよく分からない。

このジェムデト・ナスル期については以下のようなことも言われている。

実は「ジェムデッド・ナスル期」は時代名としては使わないことにしようという動きが一部にある(*16)。しかし現在までに新たな時代概念と名称が共通の約束事として定義されていないので、当分はこの概念を使い続けるしかない。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p34

  • (*16)の注釈を見ると、参照文献は1986年のものだった。この時期から2015年まで(おそらく現在まで)この状況は変わっていないようだ。

というわけで、ジェムデド・ナスル期という時代区分は形骸化しているのだが、新たな万国共通の時代区分が創出できないので、この「便宜的に」「しかたなく」使用されているだけのようだ。

社会

後の時代と比べると小規模ではあるが、交易が活発になり経済力が発展した。これにより巨大な建造物が築かれ、支配階級が生まれた。文字システムが簡略化されたのも時代の要請だった*2。ただし、上に書いたように長距離の物流ネットワークは崩壊している。

また中央集権化が進み、都市または集落の中心となる建物の跡からは食糧の配給などが書かれた粘土板の他に円筒印章(円筒形の印章)が見つかった。

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Jemdet Nasr Period cylinder seal from glazed steatite and modern seal impression (found in Tell Khafajah, Iraq.)

出典:Jemdet Nasr period<wikipedia英語版*3

メソポタミアの各遺跡から各都市を表す印章が発掘されていることから、お互いに密接な交易または交流があったと推測される。

小林登志子氏によれば円筒印章はウルク期後期に現れた*4。)

シュメール文化圏の形成

下の引用の「ウルク・エアンナⅢ層時代」はジェムデト・ナスル期に相当する。

「都市」リスト(Englund - Nissen 1993: 34: Abb. 16;Englund 1998: 91, Fg. 26)では、最初の4行で、ウル、ニップル、アダブ(Ararma)、ウルクが言及さている。いうまでもなく、これらの都市は実在している。では当時、リスト冒頭のウルがもっとも権威ある都市として認識されていたのだろうか。たしかにウルは、ウバイド時代からつづくセトゥルメントではあるけれども、リスト成立当時は、規模ではウルクにはるかにおよばない。さて、ウルク・エアンナⅢ層時代、アッカド地方キシュちかくのジェムデト・ナスル(古代名はおそらくNI.RU)から出土した10をこえる粘土板には、上述の4都市をふくむ計17(?)のセトゥルメント名が表象されている印章(「集合都市印章」collective cityseal)が押されており、さらに、おそらくテル・ウカイル(古代名ウルム?、ジェムデト・ナスルよりさらに北方に位置)から出土した1テキストにも、同一の印影があらわれる(Englund 1998: 92-93;Steinkeller 2002)。シュタインケラーは、「集合都市印章」は、ウルクのイナンナ神殿の祭儀費用の負担にかかわって用いられたと考えている。「集合都市印章」や「都市リスト」は、ひとびとがすでに南部メソポタミア(のちのシュメール・アッカド地域)を文化的・政治的に同質な世界と認識していたことを示す、きわめて重要な証拠であるが、ウルが当時もっとも権威ある存在とみなされていたとは、けっして結論できない。なお、「都市」リストが言及している地名が、さらに南部メソポタミアをこえてどの程度の広がりをもっていたかは、まだ、さほどあきらかではない。

出典:前川和也「<シュメール文字>文明」のなかの「語彙リスト」/セム系部族社会の形成(文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.7(2007年7月号)より)

上の文章により、複数の都市が生まれつつ、シュメールの文化圏が形成されていく状況がうかがえる。南メソポタミアこの時期以降文化文明の中心地域として機能する。

その他の特徴

土器

ジェムデト・ナスル期を代表する土器は、単色/複数色で幾何学模様または比喩的な(figurative)絵/文様が描かれたもの。しかしこのような土器は数は多くなく、もっぱら、経済活動が行われる遺跡の中心的な大きな建物跡から発見される。

小林登志子著『シュメル』*5によれば、ウルク期後期からジェムデト・ナスル期にかけて、支配者階級が生まれたことを示す美術様式が現れたとある。

文字

ウルク古拙文字がウルク期後期に誕生したが、ジェムデト・ナスル期になると大きく変化する。絵文字からシンプルかつ抽象的なデザインに変化した。さらにこの時期に「楔形」の筆跡が現れた。

「Jemdet Nasr<wikipedia英語版」はこの時期の文字を「proto-cuneiform script」と呼んでいる。

文字はもっぱら行政に使われていた。例えば食糧の配給や家畜その他のリスト作成などに使われた。王名表や文学作品はまだ現れない。

楔形文字の完全な文字体系が整備されるのは前2500年頃である。文字に関しては以下の2つの記事も参照。

rekishinosekai.hatenablog.com

rekishinosekai.hatenablog.com

数字の表記法

数字の表記法は2種類あった。一つは六十進法(sexagesimal system)で人や動物の数を表す時に使われた。現代では時間や角度を表す時に使われる。

もう一つは「bisexagesimal system」というものだが、私自身 理解できていない。穀物、チーズ、鮮魚などに使われた。



*1:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p34

*2:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p38-39

*3:著作者:Zoeperkoe、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Jemdet_Nasr_cylinder_seal_1.jpg

*4:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p86

*5:中公新書/2005/p38

メソポタミア文明:テル(遺丘)とジッグラト

テル(遺丘)

メソポタミア文明の建造物の代表であるジッグラトに、触れる前にテル(遺丘)について触れる。

遺丘(いきゅう、英語: tell)とは、ある場所に繰り返し集落や都市が築かれた結果、その場所が丘のように盛り上がった状態、又はその場所。集落や都市の形成、放棄、整地の繰り返しにより形成されるため、層状の遺跡となる。

遺丘が形成されるのは、人々の居住に適した場所がある程度限定されるためであるが、特に乾燥地では水利施設による制約があるため、形成されやすい。

遺丘は、世界各地に分布しているが、具体的な例としては、西アジア各地にみられるタル(アラビア語: تلّ tall または tell)、テル(ヘブライ語: תֵּל tel)、テペ(ペルシア語: Tepe)、ホユック(トルコ語: höyük)と呼ばれるものが挙げられる。また、アンデス地方では、ピラミッドや巨石などを含めて、このような遺丘のことをワカ(Huaca)と呼ぶ。そのため、こういった地域の遺跡名は、テペ某、某テペ、ワカ某という遺跡名が多く、実際に遺丘を形成している場合が多い。

遺丘は、いくつもの文化層が重なった結果、「丘」のようになっているのでその場所の歴史のタイムカプセルになっている。 典型的な層位発掘調査が期待できる。文化層の遺物を共伴遺物と考えることができる。ほかの遺丘の調査結果と比べることにより、その遺丘が集落ないしは都市として機能していたのか否かなどを含めてその地域の歴史を知ることができる。

出典:遺丘<wikipedia

建て替える時は取り壊した瓦礫をどかして再建せずに、その瓦礫の上を(?)地ならしをしてその上に建てられた。

例としては、テルアビブ(イスラエル第二の都市)、ギョベクリ・テペ(トルコにある1万年前の神殿)、チャタル・ホユック(ヒュユク)(先土器新石器時代の遺跡)などが挙げられる。

ジッグラト

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ウルのジッグラト復元図。三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所があった。基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていた。

出典:ジッグラト<wikipedia*1


ジッグラト
シュメールに起源し,前3千年紀以降,メソポタミアエラムの古代諸都市に築かれた方形のプランをもつ数層の塔。神にささげられた聖塔で,塔上に神殿がある。遺跡は,メソポタミア地方に20余ヵ所発見されており,旧約聖書の《創世記》ではバビロンのジッグラトを〈バベルの塔〉として伝えている。

出典:ジッグラト<百科事典マイペディア<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

シュメール地方は木も石もロクに無い沖積平野のため、泥を固めた日干し煉瓦を積み上げ、アスファルトを接着剤としていた*2

神殿は住居同様に、時の経過とともにほころび、いたんでくるため、立て替える必要が生じる。先行する建物はいったん取り壊されて、静置後に同じ場所(聖域)に新しい神殿が建て直されていった。もともと高いところに建っていた神殿は、建て替えの連続により重層的に「上へ」伸びていく。いわば遺跡の中にプチ遺跡があるような構図となる。古い神殿の瓦礫が基壇(プラットホーム)として残り、最新版の神殿が上書きされていった。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p62

下は以前にも貼ったエリドゥの神殿の遺跡の層

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p102-104

エリドゥやウルクなど古い集落では建て替えの神殿の層が10層を超えて塔のようになっている。これがジッグラトの基となる。

ウル第三王朝時代(約4100年前)には、ランドマークとしての神殿の進化形が出現する。数段の基壇上に神殿の建つジッグラト(聖塔)である。ジッグラトという言葉そのものは、アッカド語で「頂上に一つもしくは複数の神殿が設置された階段状ピラミッド」を意味する。[中略]

約4000年前までには、ウルを典型例として、主要な都市のテメノス(聖域)にジッグラトが建立されるようになる。ジッグラトの出現は、視覚的効果として強烈な街の焦点をもたらすことになり、都市プランの在り方を大きく変えていった。たいていジッグラトは、すぐそばに都市神を祀る神殿を伴い、独立した前庭をもつ区画の中に建てられている。街を守護する都市神は神殿に祀られて、ジッグラトは都市神の神殿を補助する役割があったとされる。

ジッグラトの起源に関して、おもに三つの仮説がある。一つ目は、農作物の保管施設としての利用が想定されている。毎春、雪解け水がユーフラテス・ティグリス両大河を下り、南メソポタミアの平野は洪水で溢れる。そこで、ムギ類をはじめとした穀物を冠水から避け、保管するためにつくられた設備がジッグラトだったという説である。

二つ目は、出身地の山岳地に似せてつくった人工の山という説である。シュメール人の出身は、南西イランの山岳地帯であったとされる。故郷から遠く離れて暮らしていたシュメール人は、自分たちの出身地の山に見立ててジッグラトをつくったというものだ。

三つ目は、ジッグラトは天に通ずる階段であるという考え方で、もっとも広く受け入れられている。ジッグラト頂部の神殿は、祭司が神々に近づける場所として配置されたという説である。ジッグラトに隣接して都市神を祀る神殿が配置されていることから、神が天からジッグラトに降りてきて、隣接した神殿に入る(居る)と想像されている。

ジッグラト内部はエジプトのピラミッドと異なり、たいてい排水用の縦坑以外に部屋や空間は作られていない。外側に階段やスロープが設けられていること自体、頻繁な昇降を示唆していて、明らかにピラミッドと違う。さらに、ウルのジッグラトに見られるように、ジッグラト外面は焼成レンガで被覆され、基底面付近はビチュメン(天然のアスファルト)が塗られて耐水構造になっている。

ジッグラトなどの基壇頂上にそびえる神殿は、洪水時に人々の緊急避難所としても利用されたであろう。遠目に見ると、洪水に覆われた平原に屹立する神殿は、あたかも海原に浮かぶ舟のごとく映り、洪水伝説の「箱船」の景色となる。洪水伝説は、大河の氾濫時に人々がジッグラトなどの基壇頂上へ避難する光景がもとになり、その描写が物語の一部として伝承されていったのかもしれない。

出典:都市の起源/191-192

ジグラトはシュメルの都市を特徴づける聖塔で、はるかかなたからも見ることができた。アッカド語ではジグラトだが、シュメル語ではウニルという。その起源についてはいくつかの説があるが、ジグラトは天に通じる階段で、頂上の神殿は神々に近づける場所であるとする考え方が最も受け入れられている。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p261

メソポタミア文明:文明誕生直後の神殿の役割

時代は変わっても神殿は都市の中心部に在リ続け、幾つもの重要な役割を果たした。

都市文明が誕生したばかりの時期は行政と宗教の運営が未分化だったが、時を経て分化していった。おそらく人口の増加や交易の多様化、インフラ事業の増大など業務が増えるにしたがって祭司または神官たちでは賄っていけなくなったのだろう。

ウバイド期の神殿の役割

記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」でも紹介したが、ウバイド4期(終盤)に、ウバイド文化を代表する集落遺跡エリドゥで小さな祠堂が発掘された。祭壇と供献台がありなんらかの祭祀儀礼が行われていたとされている。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p102-104

神殿での祭祀儀礼は祭司たちによって行われていたが、祭司たちは葬儀儀礼もやっていた*1。ウバイド期の祭司は専門職ではなくパートタイム的に役割を果たしていた。身分も一般庶民とは変わらなかった。ウバイド期の神殿の役割は以下のようだった。

祭祀儀礼の場としての神殿が人々の「心の拠り所」となり、平等主義的な社会が展開していた。ウバイド期の祭祀統合社会では、神殿を軸にした祭祀儀礼が各地に浸透していた[以下略]。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p67

文明誕生直後(ウルク期後期)の神殿の役割

ウバイド期の集落(共同体)は「血縁的なつながりの親族集団を単位」*2としていたが、末期になると気候変動の影響で「よそ者」が流入してくると、それまでの慣習はくずれ、神殿の役割も変化せざるを得なくなった*3

このような過程の中で祭司たちの役割の重要性が増していった。先住の庶民とよそ者は祭司に仲裁を必要としたが、重要性を増した祭司はパートタイム的な役割から専業者へと変わった。都市が誕生すると彼らは行政にも たずさわるようになり、それからは神官と呼ばれるようになる。

神殿経済論

メソポタミアは常に外界との物資のやり取りをおこなっていなければ生活そのものが成り立ちえない世界であった。しかしながらまさにこのような制約こそが、南メソポタミアに都市文明を興隆させた最大の要因であったのである。南メソポタミア世界に生きる人々は、自らの生存のために大規模な物資集散と再分配システムの構築に取り組み、異文化間を貫徹するひとつの経済システムをつくりあげていった。その中枢的役割を担っていたのが、神殿であった。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p110

上述のように、祭司の役割が重要性を帯びて神官へと変わり、神殿の中から集落あるいは都市へ影響力を行使するようになった。記事「文明の誕生、都市の誕生」に書いたように祭司(あるいは神官)たちは大規模な倉庫の鍵の管理を託されていた。これは交易または市(いち)を管理することも意味した。

神殿あるいは神官が経済に関わっていたことは考古学的上でも裏付けられている。ウルクの神殿跡から経済に関わる絵文字粘土板や数字粘土板が大量に出土しているからだ。*4

したがって、ウルク後期に確立する神殿は、素朴な祖先崇拝にもとづく以前の「神殿」とは隔絶性、定形性、機能といったあらゆる面で明確に区別される存在であり、集落の中核として機能していたことは疑いようがない。現在までウルク後期の王宮址(あと)と確実にいえるものが発見されていないことを考え合わせると、神殿がウルク後期社会の都市活動の根本を具現する存在であった、と結論付けることもできよう。

出典:西アジアの考古学/p117

経済に関連する役割を神殿あるいは神官が担っているという仮説を「神殿経済論」というらしい(上の引用先には「神殿経済」という言葉は出てこないのでこれとは違うかもしれない)。以下の文章はこれに批判的なもの。

神殿経済論とは、シュメール地方周辺で都市国家の分立する段階に、ほとんどの耕地は神殿の所領であり、神に仕える神官たちが経済を取り仕切っていたという仮説である。都市や都市国家は神の領地であり、施政者の権威は、神の家である神殿を管理することで示された。この説は、初期王朝時代(約4900~4300年前)のメソポタミア社会に関する研究を方向づけることになった。

しかし、神殿経済論の基礎史料は、約4600年前のギルスの街に限定された記述にある。また、歴史時代の都市国家の経済状況が、そのまま先史時代の社会経済にもあてはまるかは未検証である。こうした「旧説」の呪縛からの脱却が課題となっている。[中略]

自説は[以下の通り]。[中略]約5300年前の年誕生段階(ウルク後期)、西アジアの中心にあるメソポタミアではすでに世俗的な支配の仕組みが整い、施政者はあくまで神殿を前面に出して、自らは控えめにいた。政治的な支配化が進む過程で、意思決定は特定の個人に集中していく。施政者は神殿を主役に見せかけながら、街を政治的に支配していった。祭司たちはあくまで表向きの役者であり、最終意思決定は世俗的な支配者の掌中にあったと私は考えている。

出典:都市の起源/p179-180

小泉氏は上の自説の根拠のひとつとして、市(いち)が開かれる広場と商品が納められている巨大な倉庫が、神殿に面した中央の広場から(ウルク中期)、城壁に接した場所に移ったことを挙げている。このことは『都市の起源」のp119-120に北シリアの都市ハブーバ・カビーラ南を例として書いてある(記事「文明の誕生、都市の誕生」に引用した)。

そしてこの支配者が王になってあらわれるのだが、王ついては別の記事で書こう。

祭祀・お祭り・宴

都市国家の分立段階になると、南メソポタミアのラガシュ遺跡では、約4600年前の都市神を祀った聖域にビール工房が設けられ、メソポタミア最古級のビール醸造所であると推定されている。メソポタミアの神殿には、たいてい厨房が付設されている。神は人と同じように食事をとると信じられていたため、神々の身の回りをお世話する神官たちが必要となる。神の召し上がる食事を毎度準備するために、調理場がもれなく併設されている。美味しい酒と食事を神々に堪能していただいた後、そのお下がりは神官たちだけではなく、下々にまでおすそ分けされる。美酒や馳走にありつけるという噂をききつけて、よそから人々が都市に殺到したにちがいない。

出典:都市の起源/p132

もう一つ。

古代西アジアレスリングは、裸の男性が腰にベルトやふんどしのような布をつけて1対1で競い、互いのそれをつかんだりして、どちらかの体が地面につけば勝負ありとされた。[中略]

裸体で格闘するレスリングは、主要都市の神殿の前庭や宮殿の中庭で神聖な儀式として行われ、主要都市以外では、見物できなかったと想像される。

出典:都市の起源/p136

神に捧げられた犠牲を祭祀の後で、皆に分け与える風習は大昔からあったと思う。小さな集団(集会)の祭祀の後のおすそ分けなら宴(うたげ)になるが、神殿で行われた祭祀の後ならお祭りになるだろう。「美味しい酒と食事」のおすそ分けを都市の庶民が食べながら神殿の前の広場や目抜き通りで騒いでいる光景は想像に難くない。

おすそ分けにレスリング、パンとサーカス。神殿の役割は支配者に受け継がれたと思われる。

食事をとる

*1:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/64

*2:都市の起源/p97-98

*3:記事「メソポタミア文明:文明の誕生、都市の誕生」も参照

*4:西アジアの考古学/p121

メソポタミア文明:文字の誕生 後編(楔形文字)

世界最古の文字「ウルク古拙文字」は数詞と物を表す絵文字だけで記録をつけるために使われていた。

これからまた時が経つと、物と数字の記録だけでなく、「物と数字」の関係者たちの名前も書かれるようになっていった。例えば物の貸し借りの債権者と債務者、物を納入の時の納入者と受領者といったように。そして絵文字と数詞しか無い文字から物語も書ける文字「楔形文字」が出現した。

楔形文字が「完全な文字体系に整えられるのは前2500年頃である。」*1

表音文字と助辞の誕生

絵文字と数詞しか無い文字しか無い状態でどのように人名を表したかというと、その名前の一部に似た音の文字や、似た意味の文字を利用して表した。

次に、表音文字が現れた。絵文字は一字で意味と音を表す文字だが(表語文字という)、絵文字から特定の音(音素)を表す文字が現れた。つまり、漢字からひらがなが産まれたことと同じことが起こった。これが表音文字だ。

シュメール人の言語は膠着語と言われるカテゴリの中にあり、日本語の「てにをは」のような助詞を使う。これを表す必要性から表音文字が産まれた。

こうして、表語文字表音文字を使うことにより、かなり自由に記録することができるようになった。*2

線画文字(ウルク古拙文字)から楔形文字

いったいなぜ、線画から楔形になったのか。私の手元にある参考文献には詳しく書かれていないので想像を加えて書いてみよう。

ウルク古拙文字から楔形文字への変遷の図がある。

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出典:シュメール文字<世界の文字<地球ことば村

ここでまず、数詞に注目する。

葦の丸い端をそのまま押し付けると円形が、斜めに押し付けると爪形が押捺される。重要なのは円と爪形の印であり、後の楔形文字の粘土板で表現されている数字と全く同じ形で、爪形が1を円形が10をというように、数字を表現していると考えられる。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p119

ウルク古拙文字の時代の筆記具は葦だった。「葦といっても日本の河川で生えているような細いものではなく、直径2.5cmもある太いもの」だ*3。それでも粘土に細いペン先で線画を書こうとなると簡単にオレてしまうことは想像に難くない。

そこで思いついたのが、始めに太い先端を粘土に押し付けて、その後にペンを横に倒して直線の痕をつける、という方法だ。線の痕をより明確にするためにペンの形を細長い三角錐にすれば、楔形文字の筆跡が出来上がる。(この部分は文献になかったので私の想像)。

下の写真は楔形文字の実物、

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イラク,ドレヘム遺跡より出土した手紙。紀元前 20 世紀頃(ウル第三王朝時代)。

シュメール文字<世界の文字<地球ことば村 *4

楔形文字の普及

楔形文字表音文字としても使用できるようになると、楔形文字が持つ音価を利用して、シュメール語とは全く異なる言葉を表記することが可能になります。

初期王朝時代のメソポタミア南部には、シュメール人の他に、セム語族に属するアッカド語を話すアッカド人も住んでいました。アッカド人は自分たちの言葉を表記する文字を持っていませんでしたが、シュメール人楔形文字をもっぱら表音文字として利用して、自分たちの言葉であるアッカド語を表記しました。このアッカド語は、後で述べるように、古代オリエント世界の最初の共通語となりました。

出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p74-75

こうして文字は単なる業務の備忘の道具としてだけでななく、手紙のやり取りをしたり ギルガメシュ叙事詩のような物語を書いたりできるようになった。




*1:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p40

*2:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p74

*3:シュメル/p41

*4:リンク先には「手紙」の内容を知ることができる

メソポタミア文明:文字の誕生 前編(ウルク古拙文字)

世界最古の文字はメソポタミアで誕生した「ウルク古拙文字」だ。

「拙」の字があるように、産まれたばかりの文字は絵文字もしくは記号のようなものだった。これが時を経て使いやすいように変わり、文字大系(現代でいうところのアフファベットや五十音)が出来上がるようになる。そして形を変えながら世界へ伝播していく。

この記事では、文字の誕生までの過程を中心に書く。


前8000年頃 プレイン・トークンの使用、始まる。
前3500年頃 コンプレックス・トークン、ブッラ登場。
前3200年頃 コンプレックストークンからウルク古拙文字へ


文字誕生のきっかけ――トークンとブッラ

文字誕生のきっかけはトークンとブッラというものから始まる。

トークン(token)は「しるし」「代用貨幣」を意味する。これが何かというと計算具だった。文字が無い時代に記録をつけなくてはならない時にこれを使った。

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p68

初めのうちのトークンは球形、円錐形、円盤形、円筒形など様々な形を成し、それぞれの形に意味を持たせていた。時が経つと形が多様化してさらに線や模様が彫られるようになった。前者をプレイン・トークン(単純トークン)、後者をコンプレックス・トークン(複合トークン)と呼ぶ。

最初に登場したのはプレイン・トークンで、最も古いものは紀元前8000年頃の半定住農耕村落や定住農耕村落の遺跡で発見されました。そして、文字による財の出納管理が、トークンによる財の出納管理に取って代わる紀元前3000年頃まで継続して使われました。プレイン・トークンは、主に穀物の貸し借りや家畜の飼養委託の管理に使われたと思われます。

たとえば、収穫前に主食のオオムギの蓄えがなくなってしまった人は、収穫までの食糧として蓄えにゆとりのある人から大麦を、たとえば3単位量借りることになります。今ならば借用書を書くことになるでしょうが、当時は文字がありませんので、債務者(借りた人)は債権者(貸した人)に大麦1単位量を意味したと思われる円錐形のトークンを3個渡します。債権者はこれら3個のトークンを大事に保管しておき、収穫時に債権者からかした大麦を返済してもらい、代わりにトークンを廃棄処分するのです。[中略]

実際には、富を蓄えた村の有力者は、複数の人に大麦を貸したり、羊の飼養を委託していた可能性があります。また、債務者にとっては、債権者がトークンの数をごまかすのを防ぐ必要もあります。

そこで、それまではたぶん債務者ごとにツボに入れて保管していたトークンを、中空のボールの形をした粘土製封球に入れて封印し、保管するようになりました。紀元前3500年頃のことと思われます。しかし、いったんトークンを封球に入れてしまうと、封球を壊さないかぎり中身が確かめられないという欠陥がありました。この欠陥を解決するために考え出されたのが、生乾きの粘土製封球の表面に、中に保管しているトークンと同じものを同じ数だけくっつけておくことでした。ところが、くっつけたトークンは何かの拍子にはずれてしまうことがあります。

そこで考えついたのが、トークンを封球の中に入れる前に、まず一つ一つのトークンの押印痕を封球の表面に残し、そのあとでトークンを封球の中に入れ、封球を封印することでした。そうすれば、封球を割らなくても中身が何であるかを知ることができる上、トークンの保管も完璧です。

メソポタミア文明入門/p68-70

上にある「粘土製封球」を「ブッラ(bulla)」という。ブッラはラテン語で「球」を意味する。

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A Bulla (or clay envelope) and its contents on display at the Louvre. Uruk period (4000 BC–3100 BC).

出典:Bulla (seal)<wikipedia英語版*1

上の泥粘土で作られた球(ブッラ)の中にトークンを入れて閉じて粘土を乾かす。一度乾かしたら叩き割らないかぎり、中を見ることはできない。当事者(たとえば債務者と債権者)両方が粘土を閉じて乾かしたり叩き割ったりする場面に立ち会えば、不正が起こる可能性が無くなる。

他方、コンプレックス・トークンが出現したのは紀元前3500年頃でした。ちょうどメソポタミア南部で都市文明が成立する時代です。プレイン・トークンが村落遺跡から見つかっているのに対し、コンプレックス・トークンは、神殿など、大きな公的建造物のある都市遺跡――たとえば、イラクのスーサ、シリアのハブバ・カビーラなど――から見つかっている点が注目されます。

シュマント=ベッセラによると、これらコンプレックス・トークンは、それぞれ都市で作られた製品の1単位を表しました。コンプレックス・トークンの多くは孔に細ひもを通し、ひもの結び目を封泥(ブッラ)で封印して保管したものと考えられます(図3-5)。

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メソポタミア文明入門/p71-72

  • 上にあるシュマント=ベッセラ氏は、「トークンとブッラ=文字の起源」という仮説の主唱者の一人(後述)。

小泉龍人『都市の起源』*2によれば、ウルク中期に現れた車輪と家畜化されたロバによる陸上輸送手段の確立が、トークンの利用の複雑化を引き起こした。つまり交易が活発になり西アジアで取引される都市と商品の数が増えたので上のような複雑化が起こった。

トークンから文字へ

先述のシュマント=ベッセラ氏はプレイン・トークンのブッラへの押捺から数詞が、コンプレックス・トークンの複雑な模様/形態から絵文字が誕生したと主張する。

上にプレイン・トークンを封球(ブッラ)に押捺して補助的な記録として利用したことを述べたが、時が経つと、記録の本体であるはずのトークンが消え去り、補助的記録であったトークンの押捺が本体に変わった。記録をする媒体のブッラも消え去り、媒体は粘土板(タブレット)に変わった。これが数詞の誕生である。*3

しかしコンプレックス・トークンは形状・模様が多様なため、上記のように押捺しても間違いなく認識できるような押捺痕を残すことが難しかった。そこで押捺痕の代用として、先の尖った筆記具でコンプレックス・トークンの形状・模様を線画して代用とした。これが線画絵文字つまりウルク古拙文字の起源となった*4

ウルク古拙文字の最も古い証拠はウルクで出土した。前3200年頃のもの*5

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ウルク第4層出土の粘土書板

出典:シュメール文字<世界の文字<地球ことば村 *6

  • 上の粘土板が前3200年頃のものではない(と思う)。

上のような手のひらサイズの粘土板が備忘録として使われていたようだ。手間のかかる「トークン・システム」と比べるとかなり簡略化された。これが行政の記録としても利用されるようになった。ウルク後期から次のジェムデット・ナスル(ジェムデト・ナスル Jemdet Nasr)期(約5300~4900年前)に「ウルク古拙文書」と呼ばれる5000枚以上の粘土板が見つかった。*7

ウルク文字の粘土板の写真は上の地球ことば村のリンク先にある。

アミエ氏とシュマント=ベッセラ氏

以上の「トークンから文字へ」の過程を主張しているのは、シュマント=ベッセラ(Denise Schmandt-Besserat)氏だ。1992年に「Before Writing*8」という本を出版している。邦訳本は「文字はこうして生まれた*9」という題名で2008年に出版されている(私は読んでいない)。

文字はこうして生まれた

文字はこうして生まれた

コンプレックス・トークンから絵文字への転換になる証拠が出土していないため、批判もあるそうだ*10

これに先駆けて、「トークン・システム」を思いついたのはフランスのP.アミエ(Pierre Amiet)氏だ。イランのスーサ遺跡から出土したブッラを見て思いついたそうだ。どうやらこの研究者が上の仮説の起源らしい*11




次回は楔形文字について書こう。

*1:ダウンドード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Bulla_(seal)#/media/File:Accountancy_clay_envelope_Louvre_Sb1932.jpg

*2:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p168

*3:都市の起源/p167-168

*4:メソポタミア文明入門/p72

*5:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p40

*6:『都市の起源』のp169に同じ写真があった。ウルク第4層はウルク期の最末期(前3100-3000年)。

*7:都市の起源/p169

*8:University of Texas Press

*9:岩波書店

*10:都市の起源/p168 またはシュメル/p37

*11:都市の起源/p167

メソポタミア文明:文明の誕生、都市の誕生

文明はcivilizationの訳語だ。「civilizeすること=都市化すること」が文明の意味となる。

「文明」という言葉がついたものが全て都市を持っているかというとそうでもない。長江文明トロイア文明も都市は持っていない。文明という言葉は曖昧なのだ。

今回のメソポタミア文明は「都市化」から文明が始まった。

メソポタミアペルシャ湾岸で始まった(シュメール文明)。都市化は時を経てメソポタミアに広がった(メソポタミア文明。シュメール文明はメソポタミア文明の一部)。


前4300-3900年 ウバイド3期。この時期メソポタミア南部で村落数が飛躍的に増大。またウバイド文化がメソポタミア北部などに伝播。
前3500-3400年 ウルク期初期。メソポタミア最南部(のちのシュメール地方)の都市化開始。
前3400-3300年 ウルク期中期。シュメールの都市化がさらにすすむ。またこのころからシリア・ユーフラテス流域ハブバ・カビラ、イラン・スサなどで南部メソポタミアの人びと(おそらくシュメール人)が活発に植民活動。
前3300-3100年 ウルク期後期。シュメール南部ウルクで大公共建設物が盛んに作られる。ウルク後期最末期(エアンナⅣa層時代)のウルクで粘土板文字記録システムが成立。シュメール都市国家時代の開始
前3100-2900年 ジャムダド・ナスル期(ジェムデト・ナスル期 Jemdet Nasr period)。シュメール都市文化が各地に伝播。 *1


都市の誕生の前段階

なんでもそうだが、都市は一日で突然できるわけではない。前段階(できるまでの過程)がある。

前段階はウバイド期の後期から始められる。ウバイド3期に南メソポタミアでは灌漑農耕による農産物の大量生産が実現した。家畜については従来のヒツジ・ヤギの他にブタ・ウシが導入された。これを背景に他の地方と交易が活発化して必要物資を得るルートが確保された。これに加えて重要なのが神殿だ。都市の中央部に建設される神殿の型やそこで行われる宗教儀礼はウバイド期に起源が求められる。(前記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」参照)

以下は小泉龍人著『都市の起源』(講談社選書メチエ/2016)に頼って書く。

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

  • 作者:小泉 龍人
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

人口流入と都市化

気候変動と人口の変化

最初に参考となる地図を貼り付けておこう。

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3

河口部の点線がシュメール文明誕生の時期の海岸線となる。

都市化が進行しはじめたころ、ちょうど西アジア地方は気候最適期に入っていた。[中略]

おもにグリーンランドやペルー・アンデス産地における氷床コアの酸素同位体比の分析により、約8000~5000年前に、地球規模でもっとも気候の温暖な時期があったことがわかっている。[中略]

西アジアの中心にあるメソポタミアでは、とくにシュメール地方(南メソポタミア南部)が気候最適期の影響を強く受けた。海水面の上昇により海岸線が陸へ入り込んできたのである。もともと、シュメール地方の南にあるペルシア湾は、約18000~14000年前までは海退により海底が露頭していた。約12500年前から内湾部へ海水が入りはじめて、およそ6000年前には現在の海水面とだいたい同じ高さにまで達したとされる。ペルシア湾の海水面は、地球規模の気候温暖化に同調してさらに上昇をつづけて、現在とくらべて2メートルも高いレベルにまで達して、約5500年前のペルシア湾の海岸線は200キロメートルも内陸に入り込んでいたと推定されている。[中略]

メソポタミアにおける気候最適期は、だいたいウバイド期からウルク期にかけて(約7500~5000年前)に相当する。とくに、ウバイド終末期になると、著しい海水面の上昇によりペルシア湾の海岸線が内陸に移動し、南メソポタミアの沖積低地の暮らしにおきな変化が起きた。この点は、アルガゼをはじめ多くの研究者が指摘しているところであるが、私はさらに踏み込んで、以下のように考えている。

メソポタミアペルシア湾に接していて、ペルシア湾の海水面の変動がメソポタミアの沿岸地域に直接影響する。とりわけ海水面の上昇により、沿岸付近の農耕地で灌漑排水に不具合が生じたり、河口付近の流路が移ってしまう。たとえ微増であっても、海進は微妙なバランスのもとで成り立っていた灌漑システムに深刻な被害を与えた。耕地への給水だけでなく、耕地から塩分を含む水を排水する機能が低下してしまった。海水面の上昇は厄介な塩害を招来して、周辺地域の農業に多大な損害をもたらしたのである。

ペルシア湾の海進により、シュメール地方に広がるメソポタミア低地の耕作地で冠水や灌漑排水の脱塩機能の低下が引き起こされて、しだいに耕作地が放棄されていった。その結果、沖積低地で生活していた人々が移住せざるをえなくなり、約6000年前に「よそ者」が発生して、余剰食糧に溢れた集落へ惹きつけられていった。こうした人の動きが主な刺激となって、特定の集落で本格的な都市化が進行していった、というのが自説である。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p73-74

メソポタミア地方の人口増加については、他の文献でも言及している。前川和也*2と中田一郎氏*3はおそらく同じ資料(R. McC. アダムズ 1981)を紹介している。それによれば、ウルク期後半になると南部より人口が多かったシュメール地方北部で村落が廃棄されて、南部とりわけウルクに人口が大量流入したと推測している。

小泉氏はこれに対して言及し(p162-164)、ウルク期後期の急激な人口増加を認め、尚且つ、北部の村落を廃棄した人口は南部への流入だけではなく、遊牧民化したのではないかという説を紹介している。遊牧民は家畜を育てているだけではなく、広域の物流ネットワークの担い手(の一部?)になったとしている。

前川氏、中田氏はウルク期の前期・中期についてはあまり触れずにウルク期後期に都市化が起こったとするが、小泉氏はウバイド末期から、海進の影響による人口流入により、都市化がはじまった、そしてウルク期後期は都市化の完成期である、としている。

人口流入と社会構造の変化と神官の誕生

小泉氏は、南部に流入してきた人びとを「よそ者」と書いている。ウルクを含む幾つかの集落は「よそ者」を受け入れられるほどの余剰食糧の生産力を持っていた。「よそ者」は初めのうちは季節労働や運搬などの単純労働で生活していたと想像できるが、彼らが長く住むにつれて社会構造を変化させていった。つまり、人口流入あるいは人口増大により、顔見知りだけの慣習(=文化)だけでは社会の秩序を保つことができなくなり、「よそ者」をも説得できるようなシステム(=文明)を生み出さずにはいられなかった(文化と文明については以前に「文化と文明について」という記事を書いた)。

西アジアのウバイド終末期に、「よそ者」の出現によって将来されたさまざまな変化に対して、納得の行く折り合いが求められる。地域社会に新たな問題が生じた場合、もっとも信頼できる人物に解決策を委ねるのが自然な流れである。この場面で注目を浴びたのが、パートタイム的に神に仕えてた祭司たちだったと考えられる。役割から地位への変質が祭司たちにいち早く現れた理由は、このあたりにあったようだ〔ウバイド期には祭司は専門職ではなくパートタイム的に役割を担っていた(p63-67)〕。

身近な問題として、余った食糧の保管や、死者の埋葬の仕方があげられる。余剰食糧を預ける共同倉庫の開閉を祭司たちに任せるのは無難な落とし所であろう。風習の異なる「よそ者」の埋葬方法を巡っても、やはり儀礼に長けた祭司たちに最終的な判断を仰ぐのが妥当である。つまり、パートタイム的に祭祀儀礼に関わってきた祭司集団は、都市化の後半段階〔ウルク期〕において、俗世界のもめごとに対する苦情相談も請け負うようになり、それがフルタイム的な専門職になっていったのであろう。[中略]

ウバイド終末期からウルク期初頭にかけて、スーサでは祭司も庶民と同じく共同墓地に埋葬されていたが、祭司の墓には威信財が副葬されて他者と区別された。スーサは祭祀儀礼の要地であったために、埋葬されること自体に意味があったと推測される。ただでさえ箔がつく場所に威信財まで副葬されていたことから、スーサに埋葬された祭司たちの専門性はかなり強調されている。彼らはもはや専門職として神に仕える神官と呼べる。

かつて、パートタイム的な祭祀儀礼の役割を果たしていた祭司たちが、地域社会に生じた新たなトラブルを解決する役目も任されるようになる。本来の役割とは異なり、折り合いをつけていくうちに、しだいにそれが専業的な職能へ昇華していき、その役目が社会的な地位の形成へとつながっていく。面倒なもめごとの処理まで請け負ってくれる祭司たちの仕事ぶりは、コミュニティの指導者としての評価を高めることになり、その特異な地位が積極的に墓制に反映されていったと私は考えている。

出典:都市の起源/p87-89

この指導者(祭司/神官)たちの中から支配者層が現れるのだが、これは別に書こう。

専業化

「よそ者」の流入の変化として、町並みに現れたのが土器の工房だった。ウバイド期は見られなかった工房がウルク期前期になると出現する。集落の都市化が進んで人口増加も進むと、これに応えるように工房ができ、一定の機能・規格を持つ土器が大量生産されるようになった(この時期は改良されたろくろが活躍した)。大量生産は農民の余暇では賄えず、当然 工人を要する。工人は季節を問わずフルタイムで土器を作る。

時代が進むにつれ、貴重品を扱う商人や集落を衛る軍人など非食料生産者が登場する。(p78-81)

階層化

ウバイド期は基本的に平等な社会だった。それを一番表すのが墓の遺跡だが、共同墓地で画一的な墓に平等に葬られた。(p52-56)

しかし上に書いたように、ウバイド終末期にパートタイマー的に働いていた祭司たちから神官が現れた。彼らの墓には威信財が置かれて他者と区別されるように葬られるようになった。祭司以外も差別化が起こるようになる。専業化から職能集団が誕生し、一般庶民と職能集団の格差が生じるようになる。そして特定の職能集団の中でも格差は生じた。

コミュニティにおける役割から地位への変質は、都市化の後半段階(ウルク期)の後期銅石器時代に進行していった。都市的な正確の強まった集落では、街路により区切られた空間利用の専門分科により、祭祀儀礼を執り行う神殿、土器づくりや冶金の工房群、行政的な職務を司っていた館、集落を自衛する軍事施設など多様な正確の施設が出現していった。都市的集落では、街路により分けられた各区画で、祭祀、土器製作、冶金、行政、軍事などの役割が徐々に社会的地位を伴う専門的な職へ高まり、階層化された職能者の地位が墓制に反映されたと考えられる。

出典:都市の起源/p87

  • 「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。

鍵付き倉庫と市場

平等社会のウバイド期においては、神殿や公共施設に付随した倉庫があった。こうした倉庫には、集落で生産された穀物などの余剰食糧が供託され、共同管理されていた。倉庫には鍵がかけられず自由に出入りができた(p56)。余剰食糧は、「必要に応じて個別の世帯に再分配されたり、さまざまな物資を外部から入手するために活用されたと推察される」(p91)。

しかし、「よそ者」の登場後、勝手に食糧を持ち出されないように、鍵がかけられるようになる。

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出典:都市の起源/p91

金属加工技術が未発達だった時代の「鍵」は上のような仕組みだった。木製の扉に通した紐をペグに引っ掛け、その上から封泥した。封泥とは封じた紐の上に泥の塊を塗って塊の上にスタンプ印章(判子)を捺印すること。こうすることによってアクセスを制限した。アクセスできるのはスタンプ印章を持っている「管理者」のみ。管理者は当初は祭司の役目だっただろう(p90-94)。現在の鍵のイメージとは違うが、とりあえずこれが鍵の誕生なのかもしれない。

管理者の役割は交易が活発になることにより重大になる。ウルク中期後半になるまでに交易が本格的に発達し、集落内に市(場)が形成される。

以下は、北メソポタミアのガウラ遺跡(Ⅷ層)の話。

倉庫の南東側には管理棟が建てられ、管理者は判子を首からぶら下げ、倉庫の開け閉めを意のままにできた。ただし、その人物はもはや祭司ではなく、世俗的な立場にいた指導者であったと思われる。これらの建物に隣接する広場では、大量の封泥(容器や袋などの封をする粘土塊)が見つかっている[中略]。ウルク中期後半、専業商人を媒介とする本格的な流通構造が整い、主要な集落に遠方から搬入された商品が独立倉庫で保管されて、倉庫に品説した広場が市(場)として利用されはじめたと推察できる。これは集落内における市の最古級の例である。

出典:都市の起源/p95

この時期になると早くも指導者の役割が祭司の手から離れている。神殿と権力の関係は、また別の記事で書こう。

またこの時期(ウルク中期後半)の広場は集落の中央付近に設けられているが、都市誕生期(ウルク後期)になると、広場が城壁の入り口付近に置かれるようになった(後述)。

「よそ者」関連まとめ

もともとウバイド期の社会は、祭祀により統合されながら、人々の暮らしが成り立っていた。そこでは格差のない人々の緩い結びつきがあり、血縁的なつながりの親族集団を単位として互いに協業し合っていた。やがてウバイド終末期になると、豊かな食を求めて集まってくる「よそ者」との共存において、異なる価値観の折り合いをつけるために、従来とは異なる仕組みが求められて、階層化が始まった。同時に、「よそ者」の活発化により、経済的な物流網が徐々に拡充されていき、ウルク中期後半までに都市的集落を結節点とする交易ネットワークが確立されることになる。

出典:都市の起源/p97-98

以上「よそ者」関連は『都市の起源』の第二章《「よそ者」との共存》に依る。

安心と快適さを求める都市計画

ここでは『都市の起源』の第三章《安心と快適さの追求――都市的集落から都市へ》抜粋してみる。「安心と快適さの追求」が都市を生み出したと言っていいと思う。

城壁

まず何よりも、外敵の脅威から護られていないと、街での暮らしは落ち着かない。その安心を保障してくれるのが、街を取り囲む城壁である。

西アジアの本格的な防御施設は、後期銅石器時代(約6000~5100年前)に登場する。明確な城壁は北シリアの都市的集落で相次いで確認されている。ウルク前期のブラクでは、幅約2メートルの日干しレンガ製の壁が見つかっている。同壁は城門も伴い、集落を防御する城壁とされる。今のところ、この約6000年前の城壁が最古例となっている。(p101)

目抜き通り

ウルク後期に初現した目抜き通りは、物資を満載した車が行き交い、遠来の商人がさまざまな品物を取引する場として賑わっていた。同時に、目抜き通りは神殿やジッグラト(聖塔)などのモニュメントへつながり、年における祭祀儀礼や公式行事などの演出に欠かせない舞台にもなっていた。古代都市における目抜き通りは、日常の経済活動において人々に至便な暮らしをもたらすだけでなく、神殿などと一体化して儀礼や行事のパフォーマンス空間としても機能していた。(p106-107)

街の広場

古代西アジアでは、街道沿いや河川沿いに立地する都市的集落の中央に広場が設けられて、市を成していた。他方、都市そのものになると、街の入り口である城門近くに広場が設置されて、そこでは他所からやってきた商人が都市民と物々交換をしていたと思われる。都市的集落と都市では、市の立つ場所が微妙に異なっていた。

ウルク中期(約5500年前)、北メソポタミアのガウラ遺跡では、本格的な独立倉庫で保管された商品が倉庫に隣接する広場で物々交換されていた。ウルク後期になると、イラン西部のゴディン・テペ遺跡では、集落中央の広場に面した取引所で物々交換が行われていた。いずれの都市的集落でも、ほぼ真ん中に市場が設けられている。

北シリアの都市ハブーバ・カビーラ南では、南側の城門内に広さ10メートル程度の空間があり、門外も含めて広場として活用されたとみられる。門の付近では、「トークン」と呼ばれる土製の計算具(カウンター)が大量に出土している。[中略]

ハブーバ・カビーラ南では、各地から運ばれてきた物品が、城門付近で物々交換されていた可能性が極めて高い。こうした広場は、外部からの商人や旅人が出入りする空間であると同時に、居住者と取引するにも格好の場となる。ガウラやゴディン・テペといった都市的集落と異なり、年の段階になると街の入口付近に市が立つ。保安上の問題や、物資の搬出・搬入の効率も考慮して、街の出入り口に位置が設けられたと考えられる。(p119-120)

上水と下水

古代西アジアの都市における暮らしでは、いかに安全に飲み水を手に入れるのかが問題であった。現代の都市周辺では、川の水は川上からの生活排水などで不衛生であり、汚染されていることが多い。[中略]

川の水が当てにできない場合、井戸から汲み上げる地下水が注目される。[中略]川の水は灌漑・家畜用、井戸(雨)水は飲料用と使い分けていたと考えられる。[中略]

上水とあわせて問題になるのが下水である。快適な都市の暮らしで、下水施設は街路とともに重要な骨格をなしている。都市化の嚆矢となったメソポタミアの平原地帯では、常に水の恩恵にあずかるだけでなく、水のもたらすさまざまな問題にも向き合ってきた。メソポタミア平原に展開したサマッラ期の集落では早々と排水設備が認められるが、空き地に排水用の土管が埋められた程度にとどまる。都市化の始まったウバイド期でも、一部の集落で排水管は普及していたものの、いずれも計画的に配置された水利施設と呼べる本格的なものではない。[中略]

ウルク後期(約5300年前)に、城壁・街路と併せて水まわりの施設も明瞭になってくる。排水設備の計画的な配置はハブーバ・カビーラ南で登場する。まず最初に、街を南北に走る目抜き通りと主な街路が建設され、ほぼ同時に、街全体を覆うようにして排水網が張り巡らされる。地面を掘った溝に土管が埋設され、排水設備が家屋の建つ場所や街路を横切って配置されている。

つまり、ハブーバ・カビーラ南では、主要な通りや排水管が敷設された後に、リームヘン(断面が正方形の細長いレンガ)で規格化された建物が作られたのである。ウバイド期において建物をつくった後の空き地に土管を付け足した場当たり的な処置とは異なり、ウルク後期の街路や排水設備は周到な計画のもとで建設されている。

ハブーバ・カビーラ南は明らかに計画的につくられた街であり、とくに主要な通りと排水管が最初に設置されている点が重要である。ハブーバ・カビーラ南のモデルであるユーフラテス川下流ウルク遺跡では、すでに都市計画の青写真が出来上がっていたことになる。5000年以上も前に、都市計画に関する知識と技術がすでに成熟していたことはほぼ間違いない。(p122-126)

  *   *   *

以上の項目が揃えば「文明の誕生」というものでもない。「安心と快適さの追求」の積み重ねの中で都市は誕生したと思えばいいだろう。

その他

本来なら、文字の誕生、神殿、行政システムの誕生なども書かなければならないが、これらについては別の記事でやることにする。

『都市の起源』はビール/ワインやスポーツなども取り上げられているがここでは割愛。




*1:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p547-548(第1巻関連年表) 

*2:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p159

*3:メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p43-49