歴史の世界

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ①(農耕・栽培)

小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』の第二章《「ウルク出土の大杯」が表す豊穣の風景》(p53~)と前川和也編著『図説メソポタミア文明』の序章《「ウルクの大杯」を読む 文明成立の宣言》(p6)で、ウルクの大杯が取り上げられている。

ウルクの大杯(英語:Warka Vase)とは古代都市ウルクで出土したアラバスター(雪花石膏)製の高さ1.10メートルもある大きな器だ。ウルク最高神イナンナの神殿への献上品だそうだ*1。外周にはウルクで作られた農作物を都市神イナンナへ献上する絵が描かれている。

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出典:前川和也(編著)/図説メソポタミア文明/ふくろうの本/2011/p6

この大杯自体 メソポタミア文明の代表的傑作だが、文字で書かれた史料がほとんどない時代に宗教儀礼などが描かれているこの大杯は当時の時代を知る上でも特に重要である。

ここでは、小林氏、前川氏の本に倣って、外周の絵を元に当時の農業や神・神殿に関することを書きたいと思う。その後でこの大杯のことも書いてみよう。

図像の構成

外周の図像は空白部を挟んで上・中・下の三段で構成されている。

下段:農作物の象徴として農地と動物が描かれている
中断:人々が農作物を運ぶ場面
上段:都市神イナンナへ農作物を献上している場面

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出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p55

これらの図像のメインはもちろん上段の神への献上の場面となる。

農地・牧場で農作物を作り、農作物を神殿まで運び、そしてそれらを神へ献上するというストーリーになっているので、まずは下段から見ていこう。

下段:農耕と牧畜の風景

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出典:図説メソポタミア文明/p11

この図像は下段の一部だが、下段はこの図のコピーが一周している。

最下部の波線は河川(ユーフラテス川)と灌漑に利用する水路を示す。天水農耕(雨水に頼った農耕)の最低条件である年間降水量200ミリに満たないシュメール地方では灌漑の技術は不可欠だった。

波線の上の2種類の草のような図像の列は農地を表す。前川氏によれば(p8)これらは「大麦と亜麻」、小林氏によれば(p58)「大麦となつめやし」だった。どちらが正しいかわからないが、3種の作物はいずれもシュメール地方には大切なものだった。

ここでいう大麦は、前川氏によれば、六条大麦で塩分に強いという特徴をもっている。シュメール地方は低地で海に近いので塩害に悩まされることが多かった。(図説メソポタミア文明/p8)

なつめやしも耐塩性に優れ、穀物が不作でもなつめやしが不作でなければ飢えをしのぐことができた。なつめやしからは酒や蜜も作ることができ、乾燥なつめやしは旅の携行食糧となった。

亜麻はその茎繊維が衣服の材料となる。亜麻から作られる織物はリンネルと呼ばれる。

農耕の景観

ここで農耕について書いてしまおう。

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出典:シュメル/p60

上はシュメール地方の農地のようすを表している。この図と同じものが『図説 メソポタミア文明』にもあった(p69)。この図を作成したのはケンブリッジ大のポストゲイト Postgate 氏(1992)。中田一郎著『メソポタミア文明入門』*2(p57)には上部の図が説明を併せて載っているのでこちらも頼って書いてみよう。

河川のコントロール

まず川が天井川になっている。天井川(てんじょうがわ)とは、「砂礫の堆積により河床(川底)が周辺の平面地よりも高くなった川」のこと*3ティグリス川もユーフラテス川も大量の土砂を運んで流れている。

ナイル川ティグリス川・ユーフラテス川も氾濫を起こす川だったが、ナイル川がコントロールしやすい一方、ティグリス川・ユーフラテス川のそれは多くの知恵と労力を必要とした。

ナイル川とティグリス・ユーフラテス両川では、農業にはたす役割は大きくちがっていた。増水したナイルの水が下流地方に到達するのは、麦などの冬作物の播種の前であり、しかもその時期は毎年ほぼ一定していた。だからエジプトでは、人々は増水期にナイルの堰をひらいて耕地に氾濫水を導入し(ベイスン・システム)、ついで減水期にはいって耕地から水がひいたのちに、耕地に作物の種をまけばよかった。

ところが、ティグリス・ユーフラテス川の水位は秋の麦類の播種期にもっとも低くなるから、ここでは両川を取水源とする無数の水路を建設しておいて、さらに必要な時期に(たとえば播種ののち収獲までに3ないし4回)、耕地に水を導入できるような設備を整えておかなければならなかった。

麦類が収穫される翌年春には、両川は南部の沖積平野でほとんど氾濫してしまうほどに増水する。だから南部地方では、増水した水を沼沢などに放出するための水路を建設・維持することが不可欠であったし、また水路の水量も厳密に管理されなければならなかった。

出典:図説メソポタミア文明/p68

『シュメル』のほうには増水期の水を溜池にためておいて乾季にその水を畑に流入させる溢流灌漑が行われていた、とする。(p59)

川あるいは溜池の水(淡水)を耕地に充分に与えないと地下の塩水が地表に上がってきて塩害を引き起こす。

自然堤防

川の両脇は土砂の堆積物によって作られた自然堤防が形成されている。『メソポタミア文明入門』の方では自然堤防の範囲は土手と果樹園/菜園までも含んでいる。

自然堤防は、場所にもよりますが、高さが2、3メートル、幅は水路と両側の自然堤防をあわせて2、3キロメートル、ばしょによっては5キロメートルにもなります。そして、遺跡の約75%がこの自然堤防の上に位置すると言われます。

出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p56-57

図の下部に村落の場所が見える。

確立された農耕システム

穀物の耕地」は水はけの良いところで、川からの灌漑用水と肥沃な沖積土を使って穀物を栽培している。傾斜の下部の「境界の耕地」は水はけが悪く農耕に向かないので羊や山羊を放牧させる場合が多い。

耕地は耕区にわかれ、耕区ごとに灌漑や耕作、ついで種まきが行われました。沖積平野では、一つの耕区で収穫が終わると、次の年はその耕区は休耕地となります。再びそこが耕され、麦の作付けが行われるのはその翌年ということになります。すなわち、耕作→収穫→休耕→耕作のサイクルが二年で一巡しました。これが隔年耕作制度で、地味の枯渇や塩害を防ぐとともに、休耕中の耕地は家畜の放牧にも利用されました。農民の耕地は複数の耕区に散在していたため、収穫直後の耕地が次の年に休耕地になっても、別の耕区にある耕地で作付けを行い、収穫を得ることができました。

出典:メソポタミア文明入門/p57-58

条播と労働力

ところで、メソポタミア文明で紹介される驚異的な収量倍率の話がある。世界史の教科書に載っているかどうかは知らないがそれなりに有名な話だと思う。

収量倍率とは穀物一粒につき収穫できる穀物の数量のこと。前川氏によれば、ローマ共和政末期から帝政期にかけてのイタリア半島での小麦の収量倍率はせいぜい5倍程度、中世前期はそれ以下。エジプトのファラオ時代および中世は約30倍、としている。(p69-70)

これが南部メソポタミアだと都市国家時代末(前24世紀)のころに、麦類の平均が80倍近く(ヘクタール当たり2000リットル超)という驚異的な数字を叩き出した。他の地域はエジプトの30倍よりも低いからたしかに驚異的だ。この高倍率の理由の一部は肥沃な沖積土にあるのだが、ほかにも理由があるのでそれを書こう。

(ちなみに、ウル第三王朝時代(前2112-前2004)は30倍以下となる。200年ほどで急落した倍率の原因はやはり塩害だった。これに比べてエジプトは塩害に悩まされずに穀倉地帯であり続けた。)

理由としてもう一つ重要なのは種の播き方にある。エジプトや多くの地域では種を畑地に一様にばらまくやり方(散播、さんぱ)をしていたが、南メソポタミアでは条播をしていた。条播とは「畑に平行なすじ状の畝を作り、そこに一定の間隔で種をまくこと」*4

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出典:図説メソポタミア文明/p71

以下は、前3000年紀末(ウル第三王朝時代)の農業指導書から、条播方式を用いた一連の農作業の手順。

当時、すでに考え抜かれた、合理的な農作業が行われていた。農作業の最初は耕地一面を灌水し、水が引いた後に「ブーツを履いた牛」に耕地を踏ませることを勧めていて、これはアジアの稲作農業でおこなわれている「踏耕」と同じであったようだ。

種をまくにしても適当にばらまくのではなく、条播器(種まき用の器具)を使って無駄なくまいていた。三人で一組になって条播器付きの犂(すき)を操作し、畑を耕しながら種をまいた。1平方ニンダン(36平方メートル)あたり8本のうねを作り、うねの長さ1ニンダンにつき1ギン(約60分の1リットル)の大麦をまく。指2本の幅ごとに1粒を落とすと、1ニンダンあたり1ギンの種子がまかれることになる。

出典:シュメル/p63

  • 上の説明は『図説 メソポタミア文明』では、より詳しく書いてある。
  • 犂を使った農耕はおそらく前4000年紀末には行われていた(その頃の最古の文字書板に犂を形象するサインがある)。*5

上のように、南メソポタミアの農作業は膨大な労働力を必要とする。

南部メソポタミアでは、農業生産を維持するために膨大な労働力が投下された。人々は自然に介入して、極度に人工的な農業をおこなったからである。粘土板文書がそのことを教えてくれる。そこには、運河、用水路の建設と維持、水の管理、耕地の開発と維持、そして耕作準備から播種にいたるまでの煩瑣な農作業について、驚くほど詳細な情報が記録されているからである。

出典:図説メソポタミア文明/p70

「驚異的な収量倍率」の理由として、肥沃な沖積土、種の播き方など膨大な労働力を挙げたがもう一つは教育または指導だ。条播技術を含む一連の農作業はすべて粘土板の指導書に書いてるものだ。きわめて人工的な農耕は、徹底的な管理の下におこなわれていたのだから、指導書を用いて農民にシステマティックな農作業を徹底したのだろう。ただし、殆どの農民は文字が読めなかっただろうから、文字が読める人が指導したのだろう。

以上が「驚異的な収量倍率」の「カラクリ」となる。他の収量倍率の低い地域よりも数倍の労働力(またはエネルギー)を消費していることが分かる。

度量衡

さて、農耕の描写の下にモネの絵があるのだが、これがなぜ載っているのかというと、度量衡システムの話に関連してくる。刈束の山は脱穀するまでのあいだ乾燥させるために積み上がられているのだが、穀物の1単位を表す。南メソポタミアの場合もおなじで、一定面積の畑で取れたものを一山にすると、収量倍率は過去の記録より算出されているから、その山の穀物の量も算出できる。(図説メソポタミア文明/p71-73)

まとめ

ウルクの大杯 自体の話は別の記事で書くとして、農耕・栽培の話を書いた。

以上のように南メソポタミアの農耕・栽培はきわめて人工的かつ緻密な農作業を膨大な労働力を駆使して成り立っていた。シュメール時代の遺跡では文字粘土板が数多く出土する。詳細な記録がつけられ、それらが次の緻密な農作業工程を作り上げていったのだろう。

合理的な農耕・栽培システムを用いて「驚異的な収量倍率」を叩き出してきたシュメール地方(南メソポタミア南部)だったが、やがて塩害により崩壊して、北に避難しメソポタミアの中心は南メソポタミアの北部、バビロニアに移った。



後半はウルクの大杯より遠く離れてしまったが、いちおう、『シュメル』の書き方に倣っているつもり。

今回は下段の下半分の農耕・栽培の話だけしかできなかった。

次回は上半分の牧畜の話を書く。