歴史の世界

メソポタミア文明:文明誕生直後の神殿の役割

時代は変わっても神殿は都市の中心部に在リ続け、幾つもの重要な役割を果たした。

都市文明が誕生したばかりの時期は行政と宗教の運営が未分化だったが、時を経て分化していった。おそらく人口の増加や交易の多様化、インフラ事業の増大など業務が増えるにしたがって祭司または神官たちでは賄っていけなくなったのだろう。

ウバイド期の神殿の役割

記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」でも紹介したが、ウバイド4期(終盤)に、ウバイド文化を代表する集落遺跡エリドゥで小さな祠堂が発掘された。祭壇と供献台がありなんらかの祭祀儀礼が行われていたとされている。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p102-104

神殿での祭祀儀礼は祭司たちによって行われていたが、祭司たちは葬儀儀礼もやっていた*1。ウバイド期の祭司は専門職ではなくパートタイム的に役割を果たしていた。身分も一般庶民とは変わらなかった。ウバイド期の神殿の役割は以下のようだった。

祭祀儀礼の場としての神殿が人々の「心の拠り所」となり、平等主義的な社会が展開していた。ウバイド期の祭祀統合社会では、神殿を軸にした祭祀儀礼が各地に浸透していた[以下略]。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p67

文明誕生直後(ウルク期後期)の神殿の役割

ウバイド期の集落(共同体)は「血縁的なつながりの親族集団を単位」*2としていたが、末期になると気候変動の影響で「よそ者」が流入してくると、それまでの慣習はくずれ、神殿の役割も変化せざるを得なくなった*3

このような過程の中で祭司たちの役割の重要性が増していった。先住の庶民とよそ者は祭司に仲裁を必要としたが、重要性を増した祭司はパートタイム的な役割から専業者へと変わった。都市が誕生すると彼らは行政にも たずさわるようになり、それからは神官と呼ばれるようになる。

神殿経済論

メソポタミアは常に外界との物資のやり取りをおこなっていなければ生活そのものが成り立ちえない世界であった。しかしながらまさにこのような制約こそが、南メソポタミアに都市文明を興隆させた最大の要因であったのである。南メソポタミア世界に生きる人々は、自らの生存のために大規模な物資集散と再分配システムの構築に取り組み、異文化間を貫徹するひとつの経済システムをつくりあげていった。その中枢的役割を担っていたのが、神殿であった。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p110

上述のように、祭司の役割が重要性を帯びて神官へと変わり、神殿の中から集落あるいは都市へ影響力を行使するようになった。記事「文明の誕生、都市の誕生」に書いたように祭司(あるいは神官)たちは大規模な倉庫の鍵の管理を託されていた。これは交易または市(いち)を管理することも意味した。

神殿あるいは神官が経済に関わっていたことは考古学的上でも裏付けられている。ウルクの神殿跡から経済に関わる絵文字粘土板や数字粘土板が大量に出土しているからだ。*4

したがって、ウルク後期に確立する神殿は、素朴な祖先崇拝にもとづく以前の「神殿」とは隔絶性、定形性、機能といったあらゆる面で明確に区別される存在であり、集落の中核として機能していたことは疑いようがない。現在までウルク後期の王宮址(あと)と確実にいえるものが発見されていないことを考え合わせると、神殿がウルク後期社会の都市活動の根本を具現する存在であった、と結論付けることもできよう。

出典:西アジアの考古学/p117

経済に関連する役割を神殿あるいは神官が担っているという仮説を「神殿経済論」というらしい(上の引用先には「神殿経済」という言葉は出てこないのでこれとは違うかもしれない)。以下の文章はこれに批判的なもの。

神殿経済論とは、シュメール地方周辺で都市国家の分立する段階に、ほとんどの耕地は神殿の所領であり、神に仕える神官たちが経済を取り仕切っていたという仮説である。都市や都市国家は神の領地であり、施政者の権威は、神の家である神殿を管理することで示された。この説は、初期王朝時代(約4900~4300年前)のメソポタミア社会に関する研究を方向づけることになった。

しかし、神殿経済論の基礎史料は、約4600年前のギルスの街に限定された記述にある。また、歴史時代の都市国家の経済状況が、そのまま先史時代の社会経済にもあてはまるかは未検証である。こうした「旧説」の呪縛からの脱却が課題となっている。[中略]

自説は[以下の通り]。[中略]約5300年前の年誕生段階(ウルク後期)、西アジアの中心にあるメソポタミアではすでに世俗的な支配の仕組みが整い、施政者はあくまで神殿を前面に出して、自らは控えめにいた。政治的な支配化が進む過程で、意思決定は特定の個人に集中していく。施政者は神殿を主役に見せかけながら、街を政治的に支配していった。祭司たちはあくまで表向きの役者であり、最終意思決定は世俗的な支配者の掌中にあったと私は考えている。

出典:都市の起源/p179-180

小泉氏は上の自説の根拠のひとつとして、市(いち)が開かれる広場と商品が納められている巨大な倉庫が、神殿に面した中央の広場から(ウルク中期)、城壁に接した場所に移ったことを挙げている。このことは『都市の起源」のp119-120に北シリアの都市ハブーバ・カビーラ南を例として書いてある(記事「文明の誕生、都市の誕生」に引用した)。

そしてこの支配者が王になってあらわれるのだが、王ついては別の記事で書こう。

祭祀・お祭り・宴

都市国家の分立段階になると、南メソポタミアのラガシュ遺跡では、約4600年前の都市神を祀った聖域にビール工房が設けられ、メソポタミア最古級のビール醸造所であると推定されている。メソポタミアの神殿には、たいてい厨房が付設されている。神は人と同じように食事をとると信じられていたため、神々の身の回りをお世話する神官たちが必要となる。神の召し上がる食事を毎度準備するために、調理場がもれなく併設されている。美味しい酒と食事を神々に堪能していただいた後、そのお下がりは神官たちだけではなく、下々にまでおすそ分けされる。美酒や馳走にありつけるという噂をききつけて、よそから人々が都市に殺到したにちがいない。

出典:都市の起源/p132

もう一つ。

古代西アジアレスリングは、裸の男性が腰にベルトやふんどしのような布をつけて1対1で競い、互いのそれをつかんだりして、どちらかの体が地面につけば勝負ありとされた。[中略]

裸体で格闘するレスリングは、主要都市の神殿の前庭や宮殿の中庭で神聖な儀式として行われ、主要都市以外では、見物できなかったと想像される。

出典:都市の起源/p136

神に捧げられた犠牲を祭祀の後で、皆に分け与える風習は大昔からあったと思う。小さな集団(集会)の祭祀の後のおすそ分けなら宴(うたげ)になるが、神殿で行われた祭祀の後ならお祭りになるだろう。「美味しい酒と食事」のおすそ分けを都市の庶民が食べながら神殿の前の広場や目抜き通りで騒いでいる光景は想像に難くない。

おすそ分けにレスリング、パンとサーカス。神殿の役割は支配者に受け継がれたと思われる。

食事をとる

*1:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/64

*2:都市の起源/p97-98

*3:記事「メソポタミア文明:文明の誕生、都市の誕生」も参照

*4:西アジアの考古学/p121