ユグノー戦争とは、フランスで起きた宗教戦争。「ユグノー」はフランスのカルヴァン派を指す言葉。語源は諸説あるらしく、よくわからない。
1562年~98年と一世代以上続いているので、複数の戦いを含み、主要人物も多い。
前史
宗教改革派の弾圧の始まり
ルター思想は1520年代にフランスに伝わり、プロテスタントに対する政策は寛容と弾圧の間で揺れ動いていた。イタリア戦争の渦中にあったフランソワ1世(在位:1515年 - 1547年)は神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯の反乱を支援しており、フランス国内における信者に対して寛容であった。[中略]だが、1534年に檄文事件が起こるとフランソワ1世はプロテスタントを脅威と感じ、彼らを弾圧し始める。
フランソワ1世はイタリアのルネサンスの時代の人で、レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招いたことでも有名。神聖ローマ帝国の皇帝の後継者候補になるがカール(5世)に完敗した。この後、イタリアを巡って両国間の争いが絶えず、隣国の弱体化のためにドイツのプロテスタントを応援していた。
檄文事件とは、カトリックの教義を批判する文書(檄文)がフランソワ1世の寝室の扉に貼られていた事件だ。貼られた日以前に各地で「檄文」が貼られていたが、これを寝室の扉に貼るという狂気を恐怖を感じるのは当然だろう。これにより宗教改革派(プロテスタント)の弾圧が始まる。
弾圧から内乱へ
カルヴァンも弾圧されてスイスに亡命した一人だった。亡命先で1536年に『キリスト教綱要』を著し発表したが、これはカルヴァンの信仰を著したものだ。これがフランスでも話題となり、急速に信徒を増やすことになった。
信徒層も当初の知識人や手工業者中心の集団から,貴族,農民,ブルジョアなど,社会各層への浸透が顕著になった。こうして,59年には,第1回全国改革派教会会議がパリで開催され,教義面でも規律面でも明確な組織化がはかられるに至り,新旧両教会の決裂は決定的となった。これに加え,同じ59年には,アンリ2世が没し幼王フランソア2世が即位するが,これを期に新王の外戚に当たるカトリックの指導者ギーズ一門(ギーズ家)が政権を掌握することとなり,これに対抗するブルボン一族やコリニー提督など反ギーズ派の貴族層はプロテスタントに接近する。こうして,〈宗教のユグノー〉は〈政治のユグノー〉へと大きく変容し,内乱勃発の条件は整った。
アンリ2世はフランソワ1世の息子で次代の王。彼も新教徒弾圧をし続けた人物。ブルボン一族とはのちにフランス王家となるブルボン家。ちなみにフランソワ1世はヴァロア家。ギーズ公もコリニー提督も上級貴族で貴族間の政治闘争ということだ。
開戦
病弱だったフランソワ2世は16歳の若さで死去し、弟(アンリ2世の次男)のシャルル9世が10歳で王位に就く(1560)。そのため2人の実母であるカトリーヌ・ド・メディシスが摂政に就き、ギーズ公は失脚した。
1562年の初めに摂政政府は、宮廷内の党派争いに扇動された地方の無秩序を抑えるべく、サン・ジェルマン勅令(1月勅令)を発した。勅令は反乱を回避するためにユグノーに譲歩をし、城壁外および屋内での礼拝を容認していた。だが、3月1日、シャンパーニュのヴァシーでギーズ家の郎党が礼拝をしていたカルヴァン派を襲撃し、虐殺する事件が発生してしまう(ヴァシーの虐殺)。
これにより、長期間に渡り断続的な戦い、ユグノー戦争が始まる。
この期間の間、8回の戦争があり、新教派に有利な王令が発布されて集結するが、それが御破算になるような戦争がまた始まることを繰返した。
サン・バルテルミの虐殺
ユグノー戦争の中で特筆されるのがサン・バルテルミの虐殺だ。凄惨な戦争の中でも群を抜く凄惨な虐殺事件。
第3次の戦争がサン・ジェルマン和議(1570)によって終結した。この和議も新教派に有利なものだった。さらにこの融和の象徴として、国王シャルル9世の妹マルグリットと新教派のブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)の結婚が決まった。
しかし、王政の実権を握り続ける母后カトリーヌは危機感を募らせていた。新教派の中心人物コリニー提督が国務会議メンバーとなり、オランダ独立戦争の最中のオランダ(彼らはもちろん新教徒)に支援をするように国王に執拗に迫る。支援することはすなわちスペインを敵に回すことになるが、カトリーヌはそれを望まなかった。ここにカトリーヌはコリニー暗殺を決意する。しかし、よりによって暗殺の日に選ばれたのが娘のマルグリットの結婚式の日だ。 *1
結婚式当日は参列したコリニーが狙撃されて負傷するのみに終わったが、2日後にギーズ公アンリがコリニーを襲撃して殺害した。惨劇はこれで終わらない。
シャルル9世の命令により宮廷のユグノー貴族多数が殺害された。だが、事態は宮廷の統制を超えて暴発し[2]、市内でもプロテスタント市民が襲撃され、虐殺は地方にも広まり、犠牲者の数は約1万~3万人とされる。
犠牲者の数は千単位から万単位まで諸説あるが、旧教派の庶民が新教派の庶民を虐殺した結果だ。
三アンリの戦い
中心人物の紹介
「三アンリの戦い」(1585~89年)はユグノー戦争の中の8回目(最後)の戦争の一部。主要人物が3人のアンリなのでこのように呼ばれている。
- 国王:アンリ3世
- 旧教派:ギーズ公アンリ
- 新教派:ブルボン家アンリ
国王アンリ3世は、母后カトリーヌが長く王政の実験を握っていたので影が薄かった。だがこの頃にはアンリ3世が実験を握っていたようだ。王室は財政難に喘ぎ、保持する軍勢は旧教派や新教派よりも劣っていた。
ギーズ公アンリは、ユグノー戦争の発端を開いたギーズ公フランソワの息子。フランソワが暗殺された後、家督を継いだ。サン・バルテルミの虐殺の主要人物。
ブルボン家アンリは、幼い頃からブルボン家の家督を継いで新教派の主要人物に名を連ねた。そしてサン・バルテルミの虐殺の被害者の一人。旧教に改宗することで死を免れた。監禁から脱出して再び新教に改宗した。「ナバル王」と呼ばれることもあるが、スペインとフランスの境界の小さな国の王となっていた(ナバル王国はフランスに吸収された)。
発端と開戦
発端は王位継承者フランソワ(アンリ3世の弟)の死(1584)。彼の死によって第一王位継承者がブルボン家アンリになってしまった。これに危機感を持ったギーズ公アンリは過激な旧教集団「カトリック同盟」の首領になる。この集団は新教を異端として撲滅しようと考えていた。
1584年12月、カトリック同盟はスペインとジョアンヴィル条約を結び *2、 多額の援助を受ける。これによりカトリック同盟は戦いを始め、フランス北部の都市を占領し始めた。
一方、ナバラ王アンリはドイツ諸邦やイングランド王エリザベス1世からの援助を求め、また不満派や穏健派カトリック(ポリティーク派)と手を結ぶ。 *3
1587年クートラの戦いで両者は対決する。この戦いは新教派が数の上では劣勢だったが勝利した。しかしその直後の戦いでギーズ公アンリが勝利し、内戦の情勢は旧教派優位に傾いた。
2人のアンリの暗殺と新王誕生
アンリ3世は新教を弾圧し続けるカトリック同盟を好ましく思わず、パリ入城を拒否した。しかし同盟派のパリ市民がバリケードを張って王の軍隊と衝突する事件が起き、アンリ3世はパリを脱出しなければならなくなった *4。ギーズ公アンリはパリを掌握した。
アンリ3世はフランス中央部の都市ブロアで三部会を開く。そしてここに現れたキーズ公を暗殺した。しかしアンリ3世自身も旧教派の修道士に暗殺されてしまう。
これによりブルボン家アンリが棚ぼた的な勝者となり、国王アンリ4世となった(1589)(アンリ3世の暗殺直前には彼と妥協していた、と一応書いておく)。
カトリック改宗とナントの王令
しかしこれでもユグノー戦争は終わらない。アンリ4世は王位に就いたが、パリは旧教派に占拠されたままだった。旧教派は別の王を立てようとしたがまとまらず、その中でスペイン王フェリペ2世が娘をフランス王にせよ、と圧力をかけてきた。旧教派はこれを拒否すると、アンリ4世を認めようとする雰囲気が出てきた。このような状況でアンリ4世はカトリックに改宗することを決意し、1594年にようやくパリに入城、国家は統一を回復した。 *5
最後の課題は新教派をどうするかだ。
一方の新教徒はアンリ4世の改宗を非難し、なおも武装をつづけていたので、新国王は交渉を重ね、ようやく1598年に「ナントの王令」を出してプロテスタントの信仰を認めるとともに、その活動を制限することに成功し、宗教対立の解消を一応実現し、ここにユグノー戦争は終結した。
出典:ユグノー戦争<世界史の窓
アンリ4世も暗殺される
1610年、アンリ4世も暗殺される。犯人は旧教派だった。
*1:世界の歴史⑰ヨーロッパ近世の開花/中央公論社/1997(長谷川輝夫氏の筆)
*2:Treaty of Joinville - Wikipedia