歴史の世界

中国文明:西周王朝⑨ 後半期Ⅱ その2 衰退から滅亡へ

宣王の時代

金文によれば、宣王は南方の勢力に貢納を要求したという(これは先々代の夷王の頃から要求していた。前回の記事参照)。そしてこれは蛮夷の反乱を引き起こした。また、この時代の後半には犬戎が再び反乱を頻発するようになる*1

王の親征に対しては佐藤氏は以下のように書いている。

厲王・宣王は前節までに見たように親征を行っていたわけであるが、その親征も先の〈晋侯蘇鐘〉で晋侯が厲王に従って出征していたように、晋侯のような諸侯や、武公のような権臣の軍事力をあてこんだものであったかもしれない。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/p134

前回の記事で、周直属軍が反乱軍に破れて弱体化を露わにしたことを書いたが、宣王は直属軍を強化したというような事実は無いようだ。

宣王は西周を中興したと言われているが、『史記』などの伝世文献には王の暴虐あるいは暗愚な所業が書かれているという。実態はどうだったのか?

結局のところ、宣王は讃えられるような英主とは言えないようだ。どうしても「中興の主」と言いたいのなら、断続的に起こる戦乱の中で在位46年を過ごし天寿を全うできたことを称えるべきだろうか。ただしこれも他力本願だったように思われるが。

権臣とは

権臣とは「権勢・権力をもった臣下。」(権臣(けんしん)の意味 - デジタル大辞泉(小学館)/goo国語辞書

厲王は王畿の外の臣下を重用してクーデターを招いたが、宣王は王畿の臣下を重用した。さらに後半期の前半にあった「執政団」が宣王の頃には存在が確認されなくなった。佐藤氏はこの現象を「西周前半期の体制への回帰と見ることができる」としているが(p123)、おそらく単純に王の権勢が微々たるものになってしまったというのが実態だろう。次代の王(幽王)で周王朝は滅びるのだから。

異民族について

周の領域の外には、周王朝に服さない勢力と貢納をして形式上は従属している勢力があった。これらを周側は夷とか狄などと呼んでいる。私は蛮夷という言葉を使っている。

しかしこれらの勢力は周王国と共通の文化・レベルに属しているとのことだ。金文によれば、彼らの軍の構成は周側と同じような戦車(チャリオット)を主体として、戦術も変わりはなかったという。

だから周側が異民族を野蛮未開と決めつけてもそれを鵜呑みにしてはいけない、と竹内康浩氏は書いている(世界歴史大系 中国史1/山川出版社/2003/p191)。

また領域外とは別に、内側の山岳や叢沢に犬戎が居住していたことは前回書いた。

幽王と西周滅亡

幽王は西周王朝最後の王となった。

西周王朝が滅亡した原因は、幽王に起因するものとしないものに分かれる。

起因しないものとしては、周の直属軍の弱体化と畿内の大貴族と諸侯国の増長がある。幽王以前からの断続的な戦乱の中で周王室は大貴族と諸侯国に頼らなければならなかった。そして周王室の権威権力はますます先細りして滅亡の一途をたどった。

起因するものとしては、幽王の後継者騒動だ。『史記』周本紀にある「傾国の美女・褒姒」のストーリーは作り話のようだが、後継者騒動は史実とされている。

以前に立てた太子を廃して伯盤(伯服)を立てた。廃太子された宜臼は母・申后(同じく廃后された)の実家の申国へ亡命した。

史記』周本紀によれば、申侯が怒って犬戎と繒国と組んで幽王らを攻め滅ぼした。清華大学蔵『繋年』によれば、申侯との対立とは別に、幽王らは犬戎に攻め滅ぼされた。

いずれにしろ、幽王は攻め滅ぼされた。この時点で、一般的には、西周が滅亡したということになっている。そして、『史記』周本紀の作り話にあるような理由で軍勢が集まらなかったのではなく、周王室の直属軍が犬戎に一蹴されるほどの勢力でしかなかったということだろう。

さらに、西周から東周へ代わる時期には、貴族や諸侯国が違う王を擁立して戦闘を繰り返していた。西周王朝のエネルギーは全て彼らに吸い取られていることが分かるだろう。

西周・東周交代期の話は別の機会に書こう。

「理想化された古代王朝」

「理想化された古代王朝」は佐藤信弥『周』の副題だが、以下は竹内氏が書いたものだ。

後世、周は、「文」とか「礼」とかで憧憬の対象となるけれども、むしろ周が得意であったのは実は「武」の面であった。殷を倒しえたのも、その後に敵対勢力と戦いつづけえたのも、周の「武」の優秀性のゆえであった。しかし「武」によっては支配を貫徹することはできなかった。『史記』周本紀は、儒家によってすでに理想化された西周像のみを描こうと努め、こうした周の「武」の面を極力捨象してしまった。その結果、創業と滅亡の際以外には記事の乏しい、およそ存在感の薄い歴史だけが西周王朝像として残されることとなったのである。

出典:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p198(竹内康浩氏の筆)

西周が理想化されたがゆえにその歴史が薄っぺらいものになってしまったというのは なんとも皮肉な話だ。

しかし竹内氏は《「武」によっては支配を貫徹することはできなかった》と書いているが、西周も祭祀儀礼に力を入れていたことは証明されている。西周滅亡以降、東周が弱肉強食の世界で細々と生きながらえることができたのは「祭祀王」としての権威が幾らか残っていたためだろう。



*1:「宣王30年代に入ると再び玁狁の蠢動が活発化する」谷秀樹/西周代陝東戦略考(pdf参照