前回に貴族制社会のことに触れたので、ここでは、西周後半期の身分/階級について書いていこう。
身分/階級:貴族から奴隷まで
当時の社会の構成については、王とその一族を除けば、(1)統治階級に属する貴族、(2)郷に住む国人、(3)田を耕す庶民、(4)各種の任務に使役される隷属民、のだいたい4階級に分けられるであろう。この(1)から(3)までおよび王族については、おそらくは氏族と称される集団を単位としていたものと考えられる。嫡長子制を基本として、大宗と小宗とに分かれつつも共通の祖先に発する一族としての団結を保つ宗法制が、西周時代の王室・諸侯のあり方の基本理念であった。「族」という語は金文にも現れ、たとえば「なんじの族を以(ひき)ゐて父の征に従へ」(班簋)の例では、族とはまさに一族郎党というに近い内容とみられる。それは生活上の基盤でもあれば、有事の際には軍の単位でもあった。その氏族の中に多くの家族をかかえていたということになる。
(1)から(3)までおよび王族は氏族の単位で行動していた。中国の氏族は「宗族」と呼ばれ、評論家の石平氏によれば、現在も個人に対する宗族の影響は大きいそうだ。
(2)の国人は西周後期になってから出来た集団らしい。別の本から引用する。
西周後期より、内紛や相互の紛争に陥っていた中原諸国は、混乱に対処するために都城を強化し、兵役負担者を集住させた。[中略] 都城に軍事力が集中した結果、春秋期には「國」は都城の意味となり、都城に住み特権的に兵役を担う人々は「国人」と称された。
上の本によれば、春秋期の国人は庶人・工商の上の「大夫下層・士に相当する」とある。春秋期には大夫・士のような階層は無かったようだが*1おそらく国人は貴族の傍系(貴族階級からあぶれてしまった人々)によって構成されたのだろう。
(3)は「田を耕す庶民」と書いてあるが、「工商」の人々も庶民だろう。
さて、(4)の話。引用の続き。
(4)の隷属民についてだけは、つねに氏族を単位としていたとは考えがたい。当時、奴隷に当たるかと思われるものは鬲(れき)(人鬲・じんれき)である。功績をあげた臣下にたいして君主がそれらを与えている例が、金文にはめずらしくない。大盂鼎という器の銘文には、王から盂への賜与のなかに「人鬲の馭より庶人に至る」までの者659夫(人)が含まれており、すべてをいっしょにして夫(人)で数えている。なお、この銘文によれば、人鬲と称されるなかにもいくつかの種類があるらしい。この鬲(人鬲)以外にも、隷属民として王から賜与される人間には、臣、妾、工(百工)、僕などがある。そのうち臣については、「臣五家」(不𡢁簋)、「臣十家」(令簋)のように「家」を単位とする事が多く、臣は個人を単位とせず、「家」ぐるみで取り扱われたのであろう。[中略] これらの人々がどのように供給されたのかはよくわからないながら、戦争捕虜の場合もあれば、代々身分的に固定していた場合もあったであろう。[中略] 工(百工)がおそらく職工であろうと推されるほかは、具体的にどれがどういう職務をこなしていたのかは不明である。[中略] こうした奴隷たちは、周王が所有していただけではなく、貴族もまた所有し、さらに貴族に仕える臣下たちも所有していた。
出典:竹内氏/p205-206
- 同ページには「大夫、士という階層は金文では確認されない」とある。
殷代では戦争捕虜は祭祀の犠牲にするか王族・貴族の家内奴隷にするしか「使いみち」がなかったが*2、西周代より各種の活用が見られるようになった。これは貴族制社会(あるいは封建制社会)が出現したためなのだろう。つまり、貴族制社会になって奴隷の需要が増えたのだと思われる。
影の薄い王たち
「後半期Ⅰ」という時代は佐藤信弥『周』(中公新書/2016)の時代区分だが、この時期の王は共王・懿王・孝王・夷王の4人の王となる。『史記』などの伝世文献ではこの諸王の記述が少なく、金文でも共王以外は実在が確認できる程度の頻出度だ。
佐藤氏は、「冊命儀礼」(前回の記事参照)などの統治システムによって、この時期は安定していたと書いている。
しかし、冊命儀礼は、前回書いた通り、周王室が王畿内諸侯たちに権力を切り売りすることである。当然のこととして、周王室の権力は無くなり、王畿内諸侯たちの権力が強まる。
この時期の王たちに対する言及の少なさは、伝世文献であれ金文であれ、周王室の権力の無さが原因であると言うことができる。