歴史の世界

エジプト文明:古王国時代⑧ ピラミッド史の流れ その3 ギザの三大ピラミッド 後編

前回からの続き

主に、ピラミッド建造の労働者について書いていこう。

スフィンクスについて

上の馬場氏の引用文の後に続けて以下のように書いている。

ちなみに、ギザ大地に鎮座するスフィンクスは、石灰岩の岩盤を彫り抜いて造られたものだが、その周囲の岩盤はピラミッドの石材を砕石したことで堀り下がったとされる。スフィンクスは高さ20mもあり、およそ5階建てのビルに相当する。この高さからも、ギザ台地の地形を変えるほどの大規模な採石活動が行われていたことが理解できるだろう。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p222

ということで、スフィンクスは建築物ではなく、石像or岩像だった。

ピラミッドの建設労働者たち

西村氏の『雑記帳』の違う記事から引用。

次の講演はマーク・レーナー氏(ハーバード大学及びシカゴ大学教授)による「ピラミッド建設労働者の仕事と暮らし」でした。[中略]

ピラミッド周辺には乗馬場とサッカー場が何十とあり、ブルドーザーで遺跡がどんどん破壊されている状態なので、彼の発掘は実際にはマラソン発掘という遺跡の救済発掘だったそうです。その結果ギザの台地を構成する二つの地層の間にある谷間に大規模な労働者村を発見したのだそうです。ネクロポリスとこの労働者村を隔てる厚さ13m、長さ200mの壁(カラスの壁)によって囲まれ、その中に細長い部屋がいくつもある建物(これが労働者たちの宿泊施設で、2000人を収容可能、二階建てならば4000人を収容可能なもの)、パン焼き場、魚を加工する施設、労働者村を横断するメインロード(労働者に必要な物資を運びこむための道路で、港に通じていた)があることが分かりました。また労働者たちの食糧にするための家畜も多数飼育されていたことが明らかになり、大きな穀物貯蔵施設も見つかっています。遺跡の年代は、ワイン壷の封印の日付けからメンカウラー時代のものと確認されています。さらに掘り進めば、クフやカフラー時代のものも発見される可能性があるそうです。

出典:My Notebook-1_西村洋子の雑記帳 (1)

レーナー氏が来日された時の講演を聴いた備忘録(?)。講演を聴けたなんてとても羨ましい。

以上の話は河江肖剰(ゆきのり)著『ピラミッド・タウンを発掘する』(新潮社/2015年)にも書いてある。ちなみに河江氏はレーナー氏に師事してレーナー隊の一人としてピラミッド関連の発掘調査を行っていた(行っている?)。

「マラソン発掘」については、アメリカの富豪との援助資金の話し合いの中で決められたものだった。それまでの「レーナー隊」は1年に3ヶ月以上の調査を行っていたが、その富豪は まるまる1年発掘をするように提案してきた。それではデータ管理が追いつかないので、「4年間で計21ヶ月の発掘調査を行うことで話がついた、という話。

さて、本題に入ろう。

ピラミッド建設労働者の住む地域は、マーク・レーナー氏により1988年に発見された。レーナー氏はこの地域を「ピラミッド・タウン」と名付けた。

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出典:河江肖剰/ピラミッド・タウンを発掘する/新潮社/2015年/p5

上の地図の復元図が下。

 

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レーナーによる大ピラミッド建造時の復元図。図の下中央の位置に、町があると推測した(町の作りは、後の新王国時代の労働者の町に似せている)。(Courtesy of Mark Lehner)

当時、ピラミッドに関する主な研究は、何百万個とも言われている石材の運搬方法や、あるいは宗教の発展についてだったが、レーナーはまったく違う視点でピラミッドを理解しようとしていた。彼はピラミッド建築を、人間が実際に行う「建造プロジェクト」として見ようとしていた。ピラミッドを造ることは、周囲の地形に途方もないスケールでの変化を引き起こしたはずであり、そのことを示す人為的な痕跡(特に傾斜路、石切場、港、居住地)がギザ台地のどこかに必ず残っているはずだと考えた。

この仮説を証明すべく、レーナーはギザ台地全体を改めて測量し直し、その得られた遺構と地形の情報からスフィンクスの南400メートルほどに位置する「鴉(からす)の壁」に注目した。自然石でできた長さ200メートルのこの壁の南側を発掘したところ、見事、ピラミッド時代の居住地である「ピラミッド・タウン」を発見したのである。

出典:河江肖剰/第2回 マーク・レーナー博士との出会い 2015年9月16日 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト/2ページ目

しかし、長期に渡る発掘調査の中で、この地域が建設労働者の居住地とか「町」というレベルではなく、「都市」もしくは「王都」ではないかとレーナー氏らは考えるようになった。

長年にわたる発掘調査によって、ここは職人が仮住まいするような小さな村などではなく、庶民から貴族、そしておそらく王族までも住んでいた巨大な都市であることがわかってきた。さらに、ここには巨大な港湾があり、人や物が流通する要地として発展した都市でもあったと考えられている。

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ピラミッド・タウンの地図。図の上部の青い線の部分が営舎。(写真:Courtesy of Ancient Egypt Research Associates, Inc.)

出典:河江肖剰/第12回 ピラミッド・タウンの船乗りたち 2016年8月30日 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト/1ページ目

上の図の右下の大きな四角い部分は現在サッカー場になっている。

『ピラミッド・タウンを発掘する』によれば、数々のこのサッカー場の下に王宮があるかもしれないとレーナー氏らは考えている。

2004年、「ピラミッド・タウン」の発掘は新たな局面を迎えていた。チームは「ギャラリー」[上記の地図の青く囲まれている「営舎」のこと――引用者注]の調査を終えた後、南へと発掘を進めていった。するとそこから、これまで見たことがないような、石灰岩で作られた分厚い二重の壁と、その内側には10基の巨大な穀物庫の跡が発見されたのである。古王国時代には、こういった巨大な穀物庫は通常神殿か王宮にしか付属していない。そのため、街の一画で発見されたことを考えると、この場所はカフラー王メンカウラー王が住んでいた王宮の一部かもしれないとチームはざわめいた。

出典:ピラミッド・タウンを発掘する/p230

しかし、現状、交渉してもその場所を明け渡してもらえていないらしい。

前回も書いた通り、そして上記の復元図でも分かる通り、ピラミッド建設現場の近くに港があり、そしてその港は建設資材の運搬のための水路と言うだけでなく、国際貿易港の役割を果たしていた。

そして、「ピラミッド・タウン」は王都であったとマーク・レーナー氏は考えている。

「王都はメンフィスじゃないのか?」という疑問が湧くかもしれないが、ギザはメンフィスの一部である。

労働者は奴隷?

今から2500年ぐらい前の古代ギリシアの歴史家に、ヘロドトスという人がいました。彼は「クフ王のピラミッドは、10万人の奴隷が20年間働いてつくった」と本に書いて残しました。これが、世界中で通説になってしまったのです。 エジプトの灼熱の太陽の下で、何万人もの奴隷がムチで打たれながら大きな石を引っ張って運んでいる……。たしかにわかりやすいイメージです。ハリウッド映画で、そんな場面をご覧になったことのある方も多いと思います。

しかし、これはまったくの間違いなのです。実際は、ピラミッド建造には奴隷ではなく一般庶民が、それも自ら喜んで参加していました。なぜでしょうか? それはビールが飲めるから、だったんです。

現代の暦では、1週間は7日です。しかし古代のエジプトでは、1週間は10日でした。1か月は3週間、つまり30日。それが12か月で360日です。ちなみに円の1周360度というのはここから来ています。もちろん1年が365日というのは知ってました。では、残りの5日間はどうしたかというと、ざっくばらんにいえば、年末にみんなでドンチャン騒ぎをして過ごしていました。

要するに、なかったことにしてしまう。それは庶民も貴族も、みんな一緒になってやっていました。古代のエジプト社会は、そんなふうに大変おもしろい世界だったんです。

で、当時の農民や職人といった、いわゆる庶民といわれる人たちがビールを口にできるのは、ふつう1週間に1回でした。つまり10日に1回ですね。 ところが、ピラミッドづくりに参加すると、毎日ビールが飲めるんです。というのも、ピラミッドづくりに働いた人に対しては、その報酬としてビールが与えられていたんです。

by 吉村作治 早稲田大学名誉教授 エジプト考古学

出典:No.81 ピラミッドのために何万人も奴隷が働かされた、は大ウソ。庶民が建造に参加したのは、ビールが飲めるからだった│史学部│キリンビール大学|キリン

ビールだけではない。現在ではパン、ウシ・ヒツジ、魚、野菜などあらゆる食物が潤沢にあったことが確認されている。

さらに、労働者たちの墓地もあり、その骨を調べると骨折した箇所は綺麗に治療され、外科治療が行われた痕跡もある(馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p228)。

建造作業には、およそ2.5万人が従事したと見積もられており、監察官や熟練工人以外は農民をパートタイムで雇ったと考えられている(馬場氏/同ページ)。

ただし、労働者は上のような現世における利益だけのためにピラミッド建造に従事したのではない。古代エジプト人は現世・来世を通して秩序(当時の言葉で「マアト」。*1 )が維持されることを重要視していた。そしてこの秩序を維持するのが現世・来世を通して王の役目である。王の来世復活の役割を果たすピラミッドを作るのは古代エジプト人としては当たり前のことだった(これを拒否すれば来世に復活再生できないと考えられていた)、とされる。当時の官僚はこのような宗教観を使わないはずがない、と思う。世界各地、有史以来の王が宗教を手放さない理由はこんなところにある。先史時代の首長たちも同じだろう。

「ピラミッド建造=公共事業説」と国家の発展

「公共事業説」はもともと、「ドイツ生まれのイギリスの物理学者でエジプト考古学者のクルト・メンデルスゾーン(Kurt Mendelssohn、1906年 - 1980年)が1974年に著した"The Riddle of the Pyramids." のなかで唱えたピラミッド建造にかかわる仮説」(メンデルスゾーン仮説)*2から発した。

この仮説については、「「ピラミッドを作った王たちの墓の位置を巡る議論」」というウェブページに詳しく書いてある。

ただし、より広く唱えられた「公共事業説」は、簡単に言えば、現代における国家による経済対策の一つとしての公共事業、つまり雇用・失業対策だ(さすがに、当時の官僚が経済波及効果について知っていたとは思えない)。

この仮説は、有名な吉村作治氏によって日本に広められて通説に近い地位にあったが、現在では否定されているようだ。

結果的には公共事業的な効果はあったのではないか?

しかし私は、当時の王や官僚はピラミッド建造=公共事業だとは全く思っていなかっただろうが、結果的には、公共事業的な効果があったと思っている。

『ピラミッド・タウンを発掘する』(p110)によれば、イギリスの余命な考古学者であるバリー・ケンプ氏が『古代エジプト――文明の解剖学』で「公共事業的な巨大な労働集約型プロジェクトは、歴史上、国家が成長する原動力であったと述べている」。

著者の河江氏はこれを否定的に紹介しているが、私はケンプ氏の言う通りだと思う。

人口増加のスピードは農地の増加のそれを遥かに上回る(マルサスの人口原理)*3。開拓を行っても なお余剰人口がでてしまう。この人口を吸収したのがピラミッド建造だった、と想像する。ピラミッドタウンの労働者の住居は、雑魚寝する程度のスペースしかないので、家族で住めないし子作りもできない。

ピラミッド建造のおかげで国家レベルの飛躍的な(幾何級数的、ねずみ算的な)人口増加を抑制し、緩やかで国家の発展に適う程度の増加が実現されたのではないだろうか。

また「公共事業的」とは言えないが、ピラミッド建造によって、税制や行政が著しく整備されたことは以前に紹介した(エジプト文明:古王国時代② 「ピラミッドの時代」 )。

メンカウラー王のピラミッド

このピラミッドはギザの三大ピラミッドの最後のものとなる。

クフ王のピラミッドの底辺は230m、カフラー王は215.29mに対してメンカウラー王は105mとかなり小さい。後のピラミッド建造の歴史を見ればピラミッドの重厚長大趣味はカフラー王で終わった。

メンカウラー王のピラミッドの特色の一つは、下層の16段の化粧石に赤色花崗岩を使っていることだ。赤色花崗岩はギザから1000kmも離れていて、とても硬いため その加工に相当の労力を要する。

シェプスセスカフ王はピラミッドを建造しなかった

第4王朝最後の王シェプスセスカフはピラミッドを建造しなかった稀有の例だ。彼の王墓はマスタバで「ファラオのマスタバ」と呼ばれている。南サッカラに位置する。

ピラミッドにする予定だったが、王の治世が10年にも満たなかったため(6~9年)、マスタバに変更されたという説がある*4。先代が建造途中で亡くなった時は次代の王がその後を継ぐのが慣例だが、次代の王ウセルカフはやらなかった。



次回は第5王朝から滅亡までをやるつもり。