歴史の世界

メソポタミア文明:初期王朝時代⑨ 神と宗教観と王権観

政治と宗教・思想・哲学は密接に関係しているのだが、宗教・思想・哲学は抽象的なものなので理解するのが難しい。理解するためには、まずその主張の前提となる知識を理解しておかなければならない。

シュメールの宗教や思想を知るためには以下のものだけでは全く足りないが、とりあえず記録しておこう。

初期王朝時代以前

初期王朝時代より前の宗教観を書いておこう。

『古代メソポタミアの神々』(p32-37)*1を参考にする。

宗教心の淵源をつき詰めようとしたらホモ・サピエンス誕生以前まで調べなければならなくなりそうだが、ここでは豊穣神像の話からすることにする。

チャタル・ホユック(ヒュユク)(先土器新石器時代の遺跡)やテル・エス・サワン(サマッラ期)から豊穣神像(基本的に女神)が出土している。時代が下り、前三千年紀に入ると、支配者階級が出現して、神殿を中心とした公共の宗教システムが整備されていく一方で、私的な民間信仰も受け継がれていった。

豊穣女神も名前をもち、大いなる神々の万神殿(パンテオン)のいち員に昇格して、堂々とした麗しい容姿で崇拝される女神グループと、相変わらず名もなく、大きな胸と大きなお尻が強調された裸体姿で量産され、庶民に信仰される女神のグループとに分かれていく。

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イランの型押し量産の豊穣女神。

頭髪を後ろに束ねて両手で乳房を持ち上げ、女性器が大きく表現されたイラン各地の量産女神は、安産祈願と家内繁盛のために各家庭で祀られたのであろう。このような型押し制作は、メソポタミア全土にも広がっていた。

出典:三笠宮崇仁監修、岡田朋子・小林登志子共著/古代メソポタミアの神々/集英社/2000/p37-38

公共の宗教システムの発展

公共の宗教システムの発展は神殿の発展に見ることができる。

エリドゥ(ウバイド期)では神殿の内部に祭壇と供物台が設けられていることから何らかの宗教儀礼が行われていたことが分かる。エリドゥはその後 神殿の建て替えが続けられ、神殿とその重要性の発展を観察することができる。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p102-104

世界最古の都市ウルクでも神殿は都市の中心にあり、公共行事の中心であった。

宗教観

メソポタミアの神々は人間の姿をとっていると信じられていた。神々は巨大で人知を超えた力を有するだけでなく、人間味のある感情と弱みもそなえた存在であった。神々は人間に畏怖心をもたらす「」を身にまとい、また「メラム」という光輝をそなえていた。ニやメラムは着脱することができ、神が死ぬと失ってしまうものである。神々は一般に天空に居住する不死の存在であったが、ドゥムジ、グガラナ、ゲシュティアンナといった殺された神々や英雄もいたし、黄泉の国にあたる地下世界に住むものまでいた。そうした神々のために神の似姿である像を制作した人間は、「口浄め」と「口開け」の儀式を行うことによって、神がその像に入り込むと信じていたらしい。神殿に祀られた神像としての神々は日々の食べ物を必要とするため、人間は毎日供えなければならなかった。そもそも古代メソポタミアでは食べ物や飲み物など神々の欲するものを捧げ、神々の世話をするために人間が創造されたとされていたのである

各都市に建てられた神殿には諸神が祀られていた。神々には自然の営為が神格化されたもの、豊穣の女神、無名の神々、家来の神々、天地が分かれる前の太古から存在する神々などがいた。メソポタミアの神々のなかで、きまった都市に祭儀の拠点をもたないものはほどんどないといってよい。弱小の神の信仰が廃れて国家神信仰が台頭することもあった。これは、ある都市国家が強大化して大きな都となり、本来は地方神にすぎなかった都市神の信仰が政治謙抑の伸張にともなって他の都市へと広がった結果である。初期王朝時代、シュメールの都市国家ラガシュで尊崇されていた神々は相互に家族関係を構成していたことがわかっている。これは大都市ラガシュに吸収された町や村落の多様な民間信仰が融合したためだと考えられる複数の都市で信仰をあつめた神も存在したようで、ウルクのイナンナ神、ザバラのイナンナ神、ニネヴェのイナンナ(イシュタル)神などは、もとは地方神であったイナンナがさらに権威のある国家神と同一視されたものである

出典:アンソニー・グリーン監修/メソポタミアの神々と空想動物/山川出版/2012 (稲垣肇氏の筆)/p10-11 (太字は執筆者、下線は引用者)

  • 上の神々の家族の話は、おそらくパンテオン(万神殿)やシュメール神話の誕生につながるだろう。どういうことかというと、シュメール人がシュメール地方(または南メソポタミア)を一つの地域とみなした時、パンテオンと神話が創造されたのだろう。

  • 「もとは地方神であったイナンナがさらに権威のある国家神と同一視されたものである」は まさに習合そのもの。イナンナがイシュタルという「別名」を持っているのは習合のせい。イナンナは「古代ギリシアではアプロディーテーと呼ばれ、ローマのヴィーナス(ウェヌス)女神と同一視されている」*2

  • 「食べ物や飲み物など神々の欲するものを捧げ、神々の世話をするために人間が創造されたとされていた」。ウルクの大杯はまさに王が都市神イナンナに食物を捧げている図像だ。この宗教観は、支配者層が恣意的に紛れ込ませたような気がするがどうだろう。勝手に想像すれば、人民から「税」を徴収するための神官たちが使った方便だったのかもしれない。

神々の「二重の性格」

前田徹著『メソポタミアの王・神・世界観』(p151)*3によれば、「シュメールの神々の最大の特徴は、万神殿(パンテオン)の神の性格と、都市神の性格の、二重の性格をもつことである」。たとえば、ウルクの都市神イナンナのパンテオンの性格は「戦闘の女王」が有名だろう。ニップルの都市神エンリルは「諸国の王」「神々の王」としての性格をもつ。

前田氏はこの二重の性格が政治史の反映だとする。

都市とその都市神の自立性が、最後まで維持されたところにメソポタミア史の特色があり、それを打破できなかったところに、メソポタミアの王権の限界があったといえる。王号であるルガルに代えて、新しい王権観にふさわしい王号が生み出されなかったことにも反映するが、メソポタミアでは、少なくともアケメネス朝ペルシア以前の新アッシリア新バビロニアまで、中央集権的国家体制の理念は完成されなかったといってよい。

出典:前田徹/メソポタミアの王・神・世界観/山川出版/2003/p162

別のページにも書いてあるので引用。

中国の王号と比較すれば、その差は明瞭である。中国の「皇帝」は、それ以前の「王」とは異質の隔絶した最高権を表象するために創出された。このような変化がシュメールでは起こっていないのである。実際は王権観や支配構造が変化したはずであるが、シュメールではそれを重視せず、空間的な領域への関心で王号を捉えた。都市国家から帝国へと展開するメソポタミアであるが、一方において空間的な領域への関心のみが存在し、王権の質的展開を明示する王号を生み出さなかったことは、メソポタミアにおける王権の限界性を示すものとして注目される。

メソポタミアの王・神・世界観/p22

上の主張をどういう意味か十分理解できていない上で解釈すると、中国の「皇帝」は中央集権国家の絶対的な元首として生み出された。これも正当化だが、「皇帝」の称号は やがて中国史において正統なものになった。つまり「皇帝」という称号の創出が政治史を変えたといえる。

いっぽう、シュメールでは「皇帝」に類似する称号が永く生み出されなかった。生み出されたのはアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世の「シャーハンシャー(諸王の王)」が最初だ。

「皇帝」や「シャーハンシャー(諸王の王)」の意味を十分理解できたら、前田氏の意味するところも理解できるだろう。



*1:三笠宮崇仁監修、岡田朋子・小林登志子共著/集英社/2000

*2:イナンナ/wikipedia または メソポタミアの神々と空想動物/p24

*3:山川出版/2003

メソポタミア文明:初期王朝時代⑧ 第ⅢB期(その4)初期王朝時代末の画期

この記事では、前田徹著『メソポタミアの王・神・世界観』*1の政治史の時代区分に頼って書いていく。ただし、この本は、今まで頼ってきた小林登志子著『シュメル』*2前川和也編著『図説メソポタミア文明*3や『世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント*4(参考にした部分は前川和也氏執筆の部分)の年代観とは すこし離れているので、年代については小林氏、前川氏の主張に頼る。

この記事で展開する時代区分は、前田徹氏の発案であるが、独自のもので学界全体に通用しているわけではないらしい。しかし神と現実世界の政治との関係を理解する上で重要だと思うので、この記事で採用してみた。

メソポタミアの王・神・世界観―シュメール人の王権観

メソポタミアの王・神・世界観―シュメール人の王権観

ウルク王エンシャクシュアンナ

この記事で注目する前田氏の時代区分はアッカド帝国誕生の直前のウルク王エンシャクシュアンナ治世の時代だ。

ウルク王エンシャクシュアンナとはどういう王だったのか。

前田氏の推測を交えた説明によれば(p34-35)、ラガシュ王エンメテナ治世以降の時期にウルク王エンシャクシュアンナは、アダブ、ニップル、ラガシュ、シュルッパク、ウンマと計6都市の連合軍を組み、キシュ王エンビイシュタルと戦い、征服した(ウルはウルク支配下に入っていた可能性が高い*5 )。(『シュメル』の巻頭年表には、ウルク王エンシャクシュアンナの名前は前2400~2334年の間にある。)

その後エンシャクシュアンナは「国土の王」を名乗る(p34)。彼は「国土の王」を初めて名乗る王だ*6。前田氏はエンシャクシュアンナが「国土の王」を名乗った時期をもって時代区分の「都市国家分立期」から「領域国家期」への画期としている

「キシュの王」と「国土の王」

キシュの王

前田氏の言うところの「領域国家期」の前には、前25世紀、「キシュの王」という称号があった。名乗ったのはウルのメスアンネパダ、ラガシュのエアンナトゥム、ウルクのルガルキギネドゥドゥだ。この称号は「戦闘の神」であるイナンナにより与えられる王の武勇の資質を表す称号である。「この称号は王個人の資質を象徴しており」、「覇権をめざして、北方の雄国キシュをも制覇できるほどの武勇をもつ覇者であることを喧伝するために名乗った王号である」(p27)。

国土の王

これに対し、「国土の王」は、エンリル神によって与えられる。エンリルはシュメールの神々の世界(パンテオン)の最高神であり、現実のシュメールの最高神でもある。

「国土の王」に込められた王の意志を要約すると以下のようになるだろう(p42を参考にした)。

シュメールの最高神エンリルより与えられたこの称号は、地上の支配権を「対抗するものなき唯一の王」として委任することの証であり、この王に敵対することは、エンリル神が定めた秩序の破壊者と見なしうる。

「国土の王」を名乗ったのは、ウルク王エンシャクシュアンナの他には、同じくウルク王の(ウルク王になった)ルガルザゲシがいる。おそらくこの二人だけ。これに似た称号で「全土の王」というものがあるが、これはアッカド王朝以降に使用されたものなのでここでは触れない。

都市国家から領域国家へ/宗教・思想の転換

「領域国家」の定義を本やネットで探しても無かったので、勝手に「複数の都市を一つの中央政府が統治する国家」としておこう。

さて、『メソポタミアの王・神・世界観』のp40 に「都市破壊記事」という節がある。ここではこの説を要約してみよう。

エンシャクシュアンナは碑文に「キシュを征服した」と書いた。「征服する」に相当する動詞「フル」は「破壊する」という意味も持つ。

前田氏によれば、シュメール・アッカド(つまり南メソポタミア)では、都市を「征服する・破壊する」ということは都市神に対する罪だという観念を持っていた。シュメール・アッカドの王は戦争をした場合、「フル(征服する・破壊する)」を使用することを避けて、「王を打ち倒した」というように表現した(ただし、エラムなどの周辺地域の都市には彼らを野蛮視していたようで「フル」を使用していた。

エンシャクシュアンナがシュメール・アッカドの都市であるキシュに対し、「フル」を使用したことは、宗教・思想の転換である。

それまでは「都市を征服・破壊することは都市神に対する罪」という観念から、エンシャクシュアンナのころより、「エンリル神に支配権を委任された唯一の王に敵対する者は、エンリル神が定めた秩序を破壊する者である」、だから敵対する都市を破壊することは何ら罪ではなく、むしろ責務である、という観念に変わった。

これはあからさまな正当化だが、ウルク王の軍事力の前に逆らう者がいなくなり、思想は転換された。これ以降、「シュメール・アッカドの神々」ではなく、唯一エンリル神の名のもとに侵略・征服が展開された。ただし、バビロン第1王朝が興ると最高神はエンリルからバビロンの都市神マルドゥクに代わった。



(雑記1)

前田氏は「国土の王」に似たものとして「すべての王」を紹介している(p28-30)。おそらく前2500年の前半から歴代のウンマの王が王碑文に使った称号だ。この称号は「国土の王」より前に現れている。

この称号も都市国家の枠を超えた領域支配の意欲が込められていたのかもしれない。しかしウンマは覇権を手にすくことに失敗したので、覇権を手にしたウルク王エンシャクシュアンナの「国土の王」とは一線を画する、と前田氏は思っているようだ(それゆえに、「すべての王」出現をもって「領域国家期」とするとはしなかった)。

ウンマはのちにシュメール地方(南メソポタミア南部)を(ほぼ)統一したルガルザゲシを生み出したが、ルガルザゲシはウンマからウルクに移って「ウルク王」を名乗り、「国土の王」を採用した(「すべての王」とは名乗らなかった)。


(雑記2)

領域国家を「複数の都市を一つの中央政府が統治する国家」としたが、エンシャクシュアンナより前の王のルガルキギネドゥドゥの治世はどうなのだろう?彼は「ウルクとウルの王」を名乗っていて、前田氏はウルがウルクの支配化にあったとしているが、そうなるとウルクは領域国家ではなかったのか?また、雄国ウルほどの都市国家が他国に支配されるのだったら弱小都市国家など既に征服されていたのではないのか?

中国では(春秋)戦国時代の戦国七雄の頃は領域国家の時代と見なされていることを考えれば、初期王朝時代末の領域国家時代もエンシャクシュアンナよりも前のような気がする。

そうなると、前田氏のエンシャクシュアンナ登場の画期は「領域国家」ではなく、「統一国家への宗教・思想の転換」なのだが、やっぱりこれでは分かりにくいか。


(雑記3)

時代が大きく変わる時には思想の転換はあるものだ。戦国秦・贏政(えいせい・後の始皇帝)の時も、資本主義の手前でも それは為された。これらのことはいつか書こう。

*1:山川出版社/2003

*2:中公新書

*3:河出書房新社(ふくろうの本)/2011

*4:中央公論社/1998

*5:エン赤珠アンナより前のウルク王ルガルキギンネドゥドゥは「ウルクの王、ウルの王」と名乗っている

*6:メソポタミアの王・神・世界観/p19

メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)ラガシュの歴史 後編

前回の記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑥ 第ⅢB期(その2)ラガシュの歴史 前編」の続き。

ラガシュは前2500年頃からウル・ナンシェ王朝が治めていたが六代目のエンアンナトゥム2世で世襲が途切れて、七代目にあたるエンエンタルジは血縁でない人物のようだ。続く八代目ルガルアンダはエンエンタルジの息子のようだが、その次の九代目ウルイニムギナ(ウルカギナ)は先代父子と血縁がなく元は軍司令官だった*1

九代目:ウルイニムギナ

クーデタを起こし王位を簒奪した約1年後、「改革」を行ったことについての碑文を書いた。この碑文もかなり有名なものらしく、「改革碑文」と呼びならわされている。

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ウルイニムギナ王の改革碑文 2本の粘土製円錐に同一内容が記されている
ルーブル美術館蔵)

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p155

この「改革碑文」は前任者たちが、神々の財産を横領し、役人は人民に重税を課して強者が弱者の財産を掠め取っていたと批判する。このような状況で、
「[ラガシュの都市神の]ニンギルス神が36000人の(ラガシュ市民の)なかからウルイニムギナ(を選びだし、彼)にラガシュの王権を与えた」。
ウルイニムギナは、税を軽減し、弱者を救済し、ラガシュに自由をもたらした。さらに債務奴隷を解放し、重罪人を牢屋から解放した(恩赦を施した)(『世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント』(p180)*2

ただし、ウルイニムギナの后妃たちが以前よりも驕奢な生活をしていたという主張もある。「Urukagina<wikipedia英語版」によれば(ネタ元はKatherine I. Wright/Archaeology and Women/2007/p206とのこと)、后妃の所帯(宮殿とそれに所属する倉庫や、さらに広くは后妃が管理する所帯全体を指す)の総人員が以前の50人から1500人に増えている。さらに聖職者たちから押収した膨大な土地を王后ササ(Shasha)に与えた、としている*3

この「改革」は結局のところ、『シュメル』(p158)によれば、治世3年目で挫折した。そして5年目にはウンマ氏のルガルザゲシの攻撃が激化し、7年目にはラガシュ市は敗北し、滅亡する

年代

前川和也編著『図説メソポタミア文明』によれば、ウル・ナンシェ王朝は前2500年に建てられ、六代まで続く。

『世界の歴史1』(p179)によれば、ウル・ナンシェと血縁関係にない七~九代目は前24世紀前半の約20年間 治めた、とある。前24世紀半ばに滅亡。



*1:ウルイニムギナ<wikipedia

*2:中央公論社/1998/前川和也氏の筆

*3:wikipediaの"Household of Women"は「エミ」すなわち「后妃の家=所帯」を表す。シュメル/p132参照

メソポタミア文明:初期王朝時代⑥ 第ⅢB期(その2)ラガシュの歴史 前編

第ⅢB期の都市国家ラガシュの歴史を書く。この時代の文字史料が他の都市国家に比べて突出して多く、他の都市国家の情報が少ないからだ。

都市国家ラガシュ

シュメール南部の都市ラガシュの主地区ギルスは、1877年からフランス対によって発掘された。発掘が開始されてまもなく、前3000年紀後半の諸時代に作られた彫像、浮彫り、碑文、粘土書版などが多く出土して、シュメール文明が実在した確証がはじめて得られたのである。

出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p176/前川和也氏の筆

発掘は1930年代まで断続的に行われた。これらの遺物の幾つかはパリのルーブル博物館が所蔵している。シュメール文明研究の黎明期から研究され続けたこの都市国家は、よくまとめられた形で参考図書に紹介されている。

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初期王朝期Ⅲ期、おそらく前2500年頃、シュメール都市国家の一つラガシュでウル・ナンシェが王朝を立てた。ラガシュでは彼以後、彼の子孫たち5人、ついで彼らと直接的な血縁関係にはない3人がつぎつぎに即位して(上図)、たくさんの政治碑文をのこしている。他都市から出土した碑文の数は多くないから、ラガシュの支配者たちの記録はシュメールの有力都市国家が覇権をめぐって争った時期の歴史を知るうえで、もっとも大切な史料である。ラガシュとは、ウル・ナンシェ以前の時代にギルス、ラガシュ、ニナそしておそらくニンマルの4独立都市が連合して生まれた都市国家の名前である。ただし、連合の敬意はわかっていない。当時のシュメールのなかではもっとも巨大であったが、前二千紀〔ママ〕はじめに最終的に成立した「歴史」テキスト(シュメール王朝表)では、ラガシュはいっさい言及されていない。

出典:前川和也(編著)/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p25

  • 上にある「シュメール王朝表」は「シュメール王名表」のことを指す。
  • 王名表に載らなかったラガシュの王朝は後世の人間が別に王朝表を作った。

上の説明よりラガシュは第ⅢB期前期のもっとも巨大な都市国家だった。ラガシュは隣国ウンマと長い闘争を繰り広げるがウンマのほうも、史料は多くないが、強国に違いない。後世シュメール地方(南メソポタミアの南部)を統一したルゲルザゲシはウンマの王だ。

初代:ウル・ナンシェ

ウルナンシェ王朝(ラガシュ第1王朝とも呼ばれる)を立てたウル・ナンシェは多くの石製の奉納板を残しているが、その中で最も有名なのが下の奉納板。

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楔形文字解読例(ウルナンシェ王の「家族の肖像」) 神殿に奉納した石製の額で、真ん中の孔に神殿の壁面から突き出た棒状の突起をさし込んで掲げた

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p48

この奉納板は上下2つのシーンを描いたもので、両方とも大きな人物が王だが、上段が神殿の建設者としての王、下段が宴を楽しんでいる王を表す。

三代目:エアンナトゥム

エアンナトゥムはウル・ナンシェの孫で王朝の3代目。

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「エアンナトゥム王の戦勝碑」
(左)人間たちの戦い
(右)神々の戦い

出典:シュメル/p135

左側の右上には、敗れたウンマ兵の斬られた首をハゲワシがついばんでる様子が描かれている。この様子に因んで日本では長らく「禿鷹碑文」と言いならわされていた*1。ハゲワシの拡大図はwikipediaこちらのページで見ることができる。

上の戦勝碑の重要な点を挙げていこう。

  • 最古の戦争記録と言われている。「ウルのスタンダード」やウルナンシェ王の「家族の肖像」の戦闘のシーンは具体的な戦争にもとづいているかどうか分からないが、この戦勝碑はラガシュ・ウンマ戦争の様子を表している*2

  • この戦勝碑が作られた頃にシュメール語の正字法(正書法)が確立した*3 *4。これより後は意味を把握しがたい表現のテキストが少なくなった。

  • 右側の神々の戦いにある人物像はラガシュの都市神ニンギルスを表している。戦争は実際には人間が戦っているのだが、シュメルの人々は「都市神は先頭に立って戦っている」「この戦争は都市神どうしの戦いだ」と思っていた。

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出典:Stele of the Vultures<wikipedia英語版*5

  • 左側の人間たちの戦いでは、槍兵・盾兵の密集戦団(ファランクス)が描かれている。彼らの足元には敗兵たちの死骸だ。先頭に立っているのがラガシュ王エアンナトゥムだ。実際に盾も取らずに先頭に立って戦ったら真っ先に殺られるので、これは王が戦場で指揮をしたことを表現していることを伝える図像なのだろう。

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出典:Stele of the Vultures<wikipedia英語版*6

(以上、列挙おわり)

この戦勝碑以外の文字史料(碑文)によれば、「エアンナトゥムはエラム、ウルア、ウンマ、ウル、ウルク、ウルアズなどの都市と戦って勝利を収めたという。具体的な経過については凡そ知られていない」(エアンナトゥム<wikipedia)。

四代目/五代目:エンアンナトゥム1世/エンメテナ

ラガシュ・ウンマ戦争

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Map showing the extent of the Early Dynastic Period (Mesopotamia)

出典:Early Dynastic Period<wikipedia英語版*7

『図説メソポタミア文明』(p26)によれば、ラガシュとウンマはウル・ナンシェが即位するしばらく前から「グエディン(おそらく、ウンマ、ラガシュ西方に広がる巨大な平野の東端部)」をめぐって争っていた。この争いは百数十年に及ぶが、一部の様子がエンメテナが回顧した王碑文に残っている。小林氏はこれを以下のようにまとめた。

昔、キシュ市のメシリム王の調停によってラガシュ市とウンマ市の国境は画定し、境界石が立てられていた。ところが、ウンマ市の右手王が境界石を壊してラガシュのエディンに攻め込んで来た。これをラガシュはよく食い止め、ウンマ兵の死骸の山を築いた。その結果、エアンナトゥム王はウンマのエンアカルレ王との間に国境を定め、メシリム王の定めた境界石を元に戻した。

ウンマの人はラガシュの大麦を借りたが、利子が膨大な量となって返せなくなったために、ウンマウルルンマ王は運河から勝手に水を引き、境界石を壊し、境界を守る神々の聖堂を破壊した。しかも、いくつかの都市がウルルンマに加担し、国境の運河を越えて攻め込んで来た。エンアンナトゥム1世はこの侵攻を受けて立って戦ったが、どうやら戦士したらしい。

この非常時に跡を継いだエンメテナはよく奮戦し、父の仇(かたき)ウルルンマを敗走せしめた。ウルルンマ亡き後のウンマのイル王とエンメテナは再度協定を結んだ。

出典:シュメル/p140-141

  • 王たちの名の最初の二文字「エン」はシュメール語で「王、支配者」を意味する。
  • この時代のキシュは大国と見なされていた。ラガシュはキシュを宗主国とみなしていたそうだ*8ウンマもみなしていたのかもしれない。

ラガシュとウンマの戦いはウンマ王ルガルザゲシがラガシュを滅亡させるまで続く。

粘土釘/ウルクとの同盟

「エンメテナ<wikipedia」によれば、上述のウンマウルルンマとの戦いの前にウルク王ルガルキギンネドゥドゥと同盟を結んだ。下の粘土釘がその証拠の「文書」である。

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エンテメナの粘土釘(紀元前2,400年頃)。現在知られているものの中では世界最古の外交文書のひとつである。

出典:粘土釘<wikipedia*9

粘土釘というものがどういうものなのか、いちおう貼り付けておこう。

粘土釘は、紀元前三千年紀になって シュメールやメソポタミア文明で使われはじめた太い円錐状の釘である。粘土で作った釘の円錐面に楔形文字で銘文を刻み、神殿などの建物の壁面に打ち込んだ。銘文には、誰が、誰のためにその建物を建てるのかが刻まれており、たとえば、王が神に奉納することが記されている。

出典:粘土釘<wikipedia

『シュメル』(p131-132)によれば、この粘土釘はエムシュ神殿の壁面に多数打ち込まれていたようで、内容の同じものが30本以上も出土した。またエムシュ神殿は、ラガシュとウルクの中間あたりにあるバドティビラ(Bad-Tibira)(都市?)にある。バドティビラとラガシュの関係がどのようなものかは分からなかった(ラガシュの支配化にある?)。

奴隷解放

[エンメテナは、]内政においては徳政令を実施し、債務奴隷の解放を行った事が碑文に記録されている。これは知られている限り最も古い債務免除の記録であり、神殿の建設などの記念行事に伴って実施された。

出典:エンメテナ<wikipedia

政令というより、恩赦と言ったほうがしっくりくる。王だけに。

『シュメル』(p152-153)によれば、上述のバドティビラ市にエムシュ神殿を建設(または再建)して、その落慶(落成の慶事)に伴って開放を実施した。

(長くなってしまったので「ラガシュの歴史」は次回へ続く。)



メシリム王の頃のキシュ市はラガシュに宗主国と認めさせるほどの大国だったが、残念なことに、ラガシュのように詳細な文字史料は残っていないようだ。

*1:前川和也(編著)/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p22

*2:シュメル/p134-144

*3:世界の歴史1/p177/前川和也氏の筆

*4:シュメル/p135

*5:ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Stele_of_Vultures_2.jpg

*6:ダウンロード先:File:Stele of Vultures detail 01-transparent.png - Wikipedia

*7:著作者:Zunkir/ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Dynastic_Period_(Mesopotamia)#/media/File:Basse_Mesopotamie_DA.PNG

*8:シュメル/p133。ラガシュ市の他にアブダ市もみなしていた

*9:ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Foundation_nail_Entemena_Louvre_AO22934.jpg#/media/File:Foundation_nail_Entemena_Louvre_AO22934.jpg

メソポタミア文明:初期王朝時代⑤ 第ⅢB期(その1)領邦都市国家の成立

「領邦都市国家」という用語は前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1に載っているもので、おそらく独自のものだろう。

点在する都市国家群から勢力を伸張させ諸勢力が相争う時代を経て、第ⅢB期には南メソポタミアは8つの都市に分割される時代となる。

「領邦都市国家

領邦都市国家とは、都市国家の一類型型であり、近隣の都市を服属させることで、地域統合を果たした有力な都市国家を指す。領邦都市国家に数えられるのは北から、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマウルク、ウルの八つであり、成立過程は不明ながら、前2500年頃(初期王朝時代第3期b)には成立していたと考えられる。分権的な都市国家的伝統を体現する領邦都市国家の出現は、王権の展開に大きな影響を持つようになる(前田2009a)。

前の時代の集合都市印章に並立して記された都市国家のなかで、ニップル、アダブ、ウルクウルクなどは領邦都市国家に上昇した。その一方で領邦都市国家に従属する地位に甘んじる都市国家もあった。下位の都市国家として、アダブに服属するケシュ、ウンマに服属するザバラム、ウルクに服属するラルサなどを挙げることができる。

出典:初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p39

  • 第2パラグラフでウルクが二つ並んでいるが、一つはウルの誤植だろう。

参考文献の「前田2009a」の題名は「シュメールにおける地域国家の成立」だが、ネットから(PDF)を入手できる。

この論文では、前2500年頃に画期を置いた原因について、王碑文を挙げている。都市国家間の競争の中で富国強兵と王権の強化が求められ、王自らの権威を誇示するために「王のイニシアティブで行っていることを王碑文で示し始めた」としている(詳しくは本文で)。

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出典:前田徹/シュメールにおける地域国家の成立/2009

まとめ

  • 楔形文字の体系が整うのが前2500年、つまり第ⅢB期が始まる頃。そして王碑文が出始めるのもこの頃。これは偶然ではないだろう。体系が出来たから王碑文が出始めたのではなく、その逆である可能性がある。

  • 王碑文は、王権の正統化であり、富国強兵の一部である。

  • メソポタミアは8つの「領邦都市国家」に分割された。



*1:早稲田大学出版部/2017

メソポタミア文明:初期王朝時代④ シュメール王名表

王名表については、記事「メソポタミア文明:初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」の節「シュメールの「王名表」から」で紹介したが、それからの続き。

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出典:Sumerian King List<wikipedia*1

(以下の参考文献:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/p165-181(前川和也氏の筆)ただし前川氏は「王名表」とはではなく「王朝表」と書いている )

「王権が天より降りきたったとき、王権はエリドゥにあった」

王名表によれば、シュメールに王権が現れた一番最初は、シュメール最南部の都市エリドゥだった。王権は二王が計6万4800年も治めた後、王権はバド・ティビラ市、ララク市、ジムビル市、シュルパク市へと変遷した。それぞれ万年単位という治世の長さだ。

シュルパク王治世1万8600年にシュメールを大洪水が襲う。これによりシュルパク王の治世は終わる。

「洪水が襲った。洪水が襲ったのち王権が天より降りきたった。王権はキシュにあった」

この大洪水はシュメール神話にもなっていて、聖書の「ノアの方舟」のネタ元だ。実際に大洪水が当時の全シュメールを一掃したわけではないらしいが、なにかしらの厄災があって、それを洪水になぞらえたのかもしれない。王権を手にしたキシュは南メソポタミアの北部(のちにアッカド(地方)と呼ばれる)の都市だから南部(シュメール地方)にだけ厄災が起こったのかもしれない。

王名表の中からキシュ第1王朝とウルク第1王朝を取り上げよう。ウル第1王朝については別の記事記事「メソポタミア文明:初期王朝時代③ 第ⅢA期/ウル王墓/ウルのスタンダード」で取り上げた。

キシュ第1王朝

キシュ王はその後 世襲するが、この王朝をキシュ第一王朝と呼ぶ。キシュはセム人(シュメール語とは別系統のセム語系言語を話す人々)が古くから住みついていた。「Kish<wikipedia英語版」によれば、前3100年ころから初期王朝時代にかけて強大な影響力を持っていた。

王名の前半はアッカド語の動物名を当てているので、実際の創始者は第13代にあたるエタナという説がある。ただし考古学資料で確証されているわけではない(エタナの在位は1560年)。

王名表の中で実在が確定されている最初の人物はエンメバラゲシ。エンメバラゲシとその息子で後継者のアッガについては記事「初期王朝時代②」で書いた。

ウルク第1王朝

王名表によれば、王権がキシュ第1王朝からウルク第1王朝へ移ったとする。しかしこれが史実だという証拠はない。

この王朝で比較的名の知られている王は2、3、5代の王すなわちエンメルカル、ルガルバンダ、ギルガメシュで、彼らは英雄叙事詩の物語に現れる。

エンメルカルとルガルバンダと都市アラッタ

エンメルカルとルガルバンダにはエラム(≒イランまたはイラン南部)の1都市アラッタにまつわる物語がある(「エンメルカル<wikipedia」「ルガルバンダ<wikipedia」参照)。これらの物語について書いてみる(この物語がどの程度史実に関係があるのかは分からない)。

アラッタという都市(国家?)はシュメール(南メソポタミア)から遠く離れた東方にあった。ここはラピスラズリに代表される鉱物の供給地としてシュメール諸国としては重要な取引相手だった。

補足:アラッタではウルクにはない瑠璃などの宝玉、貴金属に恵まれ、それらを細工する技術と職人も持ち、それらの製品交易によって経済力も確かなものだったと思われる。エンメルカルはしばしばアラッタの君主と対決してきたが、今回の遠征目的はそんなアラッタの貴金属とそ加工技術、そして貿易路の確保と導入によってウルクの発展に貢献することであった。

出典:ルガルバンダ<wikipedia

メソポタミアとインダスのあいだ』*2によれば、エンメルカルがアラッタの君主と対決する前に、キシュ第1王朝のエンメバラゲシがエラムの首都スーサを崩壊させた。当時はスーサが(シュメールから見た)東方からの物資が集中する供給拠点で首都の役割も持っていた。

スーサ陥落の後、エラムの司令塔(首都)はアラッタに移った。アラッタとの対決・交渉する王もキシュ王からウルク王に移った。

物語は両者の和解が成立しシュメールへの物資供給が正常化し めでたしめでたしで終わる。物語中のシュメール側の攻撃姿勢にもかかわらず、両者の関係は対等だったようだ。

エンメルカル、ルガルバンダ両王の実在性の確証はない。

ギルガメシュ

ギルガメシュは『ギルガメシュ叙事詩』の主人公として王名表の中でも、初期王朝時代の人物でも最も有名な王だ。ただし、彼の実在性を確証するものが出土していない。

英雄譚の中で、史実に関係がありそうなものの一つとして、『ギルガメシュとアッガ』という物語がある(これは『ギルガメシュ叙事詩』には含まれない)。

ここに登場するアッガはキシュ第1王朝の最後の王アッガだ。物語では、アッガ王がウルクを屈服させようとするが、ウルクギルガメシュは屈服することを良しとせずに立ち向かい、ウルクを包囲していたアッガ王を捕らえることに成功した。しかしギルガメシュはアッガを解放しキシュに返した。

ギルガメシュ叙事詩<<wikipedia」では「ギルガメシュがアッガに戦勝したことでウルクに王権が移ったと伝えられている。この背景を踏まえて物語を振り返ってみると、『ギルガメシュとアッガ』が史料的・歴史的事実の反映を伝えているのは明らかである」と書いているが、これを史実とすると、上のエンメルカル、ルガルバンダ両王がシュメールの盟主だという仮説が怪しくなる。ギルガメシュの王権奪取説も仮説だが。



キシュ王エンメバラゲシ、エンメルカル、ルガルバンダとアラッタの対決・交渉をみると、この3王はシュメールの盟主(宗主国の王)となって、東方の王と対峙した、と考えることができるだろう。古代で言えばギリシアアテナイ、現代でいえばアメリカの元首とおなじ役割を担っていたのだろう。

上の仮説が仮に当っているとすれば、おそらく初期王朝時代の第Ⅱ期の時代だろう。

*1:パブリック・ドメイン、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sumeriankinglist.jpg#/media/File:Sumeriankinglist.jpg

*2:後藤健/筑摩選書/2015/p42-43

メソポタミア文明:初期王朝時代③ 第ⅢA期/ウル王墓/ウルのスタンダード

記事「メソポタミア文明:初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」の第2節「政治史的動向」に第Ⅱ期は「点在していた都市国家や中小村落が統合されて一つの領域を形成していく過渡期の時代」と書いたが、第ⅢA期もその過渡期は続いていた。

この記事では南メソポタミアの一角を占める有力な都市国家でありウルの様子を書いてみる。

ウル「王墓」

(参考文献:小林登志子著『シュメル』(p115-116)*1前川和也編著『図説メソポタミア文明』(p29-31)*2

大英博物館ペンシルベニア大学の共同調査の下で、ウルでの発掘が行われた。この調査は1922年に開始されたが、初期王朝時代の遺跡が発掘されたのは1927年のことである。

この発掘を指揮したレオナード・ウーリーはこれを「王墓」と主張し、「王墓」は16あるとした(異説あり)。

時期と王族

(参考文献:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p172-175(前川和也氏の筆) )

時期は前2600年頃から使用されていた。

出土した短剣や円筒印章には「王」メスカラムドゥ・「王」アカラムドゥなどの名が記されてあったが、このうちメスカラムドゥは、ユーフラテス川中流域のセム人の都市マリの遺跡で発見された奉納碑文に、「キシュ王メスカラムドゥの息子たるウル王メスアンネパダ」と読める箇所があることから、メスカラムドゥ王は実在したと推定されている(「キシュ王」とはキシュの王を意味するのではなく、北方にまで支配権を及ぼそうとした諸都市王が、好んで用いた称号。メスアンネパダは「王名表」にウル第1王朝の創始者として名が載っている。メスカラムドゥ・アカラムドゥは載っていない)。

ウル王墓から離れるが、ウルの近くのアル・ウバイド遺跡からメスアンネパダののちに息子アアンネパダがウル王となったことを示す碑文も発見されている(アアンネパダの名は「王名表」に載っていない)。

メスアンネパダ王以降の時期から王碑文が各地で出土するのでメソポタミアの政治史がかなりよくわかるようになるらしい。

副葬品

副葬品には金、銀、青銅、ラピスラズリ、紅玉などがふんだんに使われたアクセサリ、像、楽器などがあり、多数の殉死者までいた。当時の権力の強さがうかがわれる。文字資料は極めて少ない。

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黄金の短剣 長さ37センチ。ラピスラズリのつかと黄金の短身をもつ。イラク博物館蔵
出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p173

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牡山羊の像 2体1対のオス山羊の像。大英博物館
出典:牡山羊の像<<wikipedia*3

そして遺物の中で最も重要なものが、以下の「ウルのスタンダード」と呼ばれるものだ。

「ウルのスタンダード」

高さ21.6cm、幅49.5cm、奥行4.5cmの横長の箱で、前後左右それぞの面にラピスラズリ、赤色石灰岩、貝殻などを瀝青(ビチューメン)で固着したモザイクが施されている。大きな面の一方には戦車(チャリオット)と歩兵を従えたウルの王が敵を打ち負かす「戦争の場面」、その反対側の面には山羊や羊、穀物の袋などの貢納品が運ばれ王と家臣が宴会を楽しむ「平和の場面」(「饗宴の場面」)が描かれている。大英博物館に所蔵されているシュメールの代表的な美術工芸品である。

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出典:ウルのスタンダード<wikipedia*4

これを所蔵している大英博物館は前2500年のものとしている。

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「戦争の場面」

「戦争の場面」の下段には、4頭立ての戦車(チャリオット)が4両あるが、左から右にいくにしたがって前足があがっており、一台の戦車が次第に速度を増していく様子を描いているとも解釈できる[4]。この戦車を牽いているのは馬ではなく、オナガー(アジアノロバ)とする説が有力であり[4]、その足元には敵の死骸も描かれている。戦車には弓兵の姿は見られず、槍を構えた兵が描かれているが、これは当時弓兵がいなかったことを示すものではなく、都市間戦争が一般に接近戦であったため弓が不向きであったことなどが理由として考えられる[5]。中段左には冑をかぶりマントを身に着け手斧をもった8人のウル兵士が、中央には敵を捕らえた兵士、そして右側には胸や頭を負傷し敵兵の姿が描かれている。上段中央は王であるが、モザイクが欠損しているためその表情や服装は不明である。王の左には3人の高官が、右には連行されてきた敵兵の姿がみえる。

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「饗宴の場面」「平和の場面」

「平和の場面」の中段から下段は王に牡牛、山羊、羊、魚、穀物をいれた袋などさまざまな地域からの献上品を運ぶ列で、いずれも胸の前で手を組む恭順の仕草を示した人物に率いられている[6]。上段左から3人目の人物は、ひときわ大きくまた腰に巻いたカウナケス(Kaunakes、羊皮の腰巻)も細かく描写されていることから、ウルの王であることが伺える[7]。また上段右から二人目の楽師が手にする牡牛の竪琴と同じ形の竪琴がウル王墓から出土している。また楽師の背後の人物は一見髪が長く女性のようであるが、上半身裸という男性の服装で(当時の女性は片方の肩だけを露出する服装であった)実際は去勢された男性歌手(カストラート)であると考えられている[8][9]。このことからウルのスタンダードには女性が一人も描かれていないことになるが、こうした王妃も王女も描かれない図柄は他のシュメール初期王朝時代の飾り板などにもみられ、古代メソポタミア都市国家ラガシュの王グデアの碑文にも女性は不浄であるため神殿工事からは除外することが記されており、こうした考えからスタンダードにも女性が描かれなかったものと考えられる[9]。 ウルのスタンダードは、都市国家に豊穣をもたらすことと戦争に勝利することという、王の果たすべき二つの大切な役目を美しいモザイクで表したものであり、シュメールの洗練された文化を示すものである[10]。

出典:ウルのスタンダード<wikipedia*5  (この文章はほとんど『シュメル』(p120-124)に頼っている)

『シュメル』(p124)によれば、馬は前3000年末には南メソポタミアに登場している。



*1:中公新書/2005

*2:河出書房新社(ふくろうの本)/2011

*3:写真の著作者:Jack1956/ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Raminathicket2.jpg#/media/File:Raminathicket2.jpg

*4:写真の著作者:Denis Bourez/ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Denis_Bourez-British_Museum,London(8747049029)(2).jpg#/media/File:Denis_Bourez-British_Museum,London(8747049029)(2).jpg

*5:「戦争の場面」 「饗宴の場面」の写真:パブリック・ドメイン/ダウンロード先:「戦争の場面」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Standard_of_Ur-War.jpg#/media/File:Standard_of_Ur-War.jpg 「饗宴の場面」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Standard_of_Ur-peace_side.jpg#/media/File:Standard_of_Ur-peace_side.jpg