歴史の世界

先史:ホモ・サピエンス:出アフリカ/文化の"爆発"

前回の「現代的行動」に関連して書いていこう。

ヒューマン  なぜヒトは人間になれたのか

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか

今回は「第2章 なげる人・グレートジャーニーの果てに ~飛び道具というパンドラの箱」。出アフリカとホモ・サピエンスの行動の変化に注目する。

出アフリカ。一度目の試み。撤退

アフリカで産まれたホモ・サピエンスが他の大陸へ渡ろうとした試みを「出アフリカ」と呼ぶ。出アフリカは6万年前に行われて、そこから世界各地に拡散したことが膨大な遺物と研究によって詳細に分かっている。しかし、この前に一度、12万年前に出アフリカを試みて失敗していたことがあった*1

12万年前、ホモ・サピエンスが最初にアフリカを出た場所は中東だった。彼らは75000年まで、8万年の間、生活していたがその後姿を消した*2。74000年前に始まった最終氷期の寒さに耐えられなかったようだ。この時は寒さに耐えられるほどの防寒技術その他を持っていなかったということだろう。

競争相手? ネアンデルタール人

いっぽう、ネアンデルタール人は寒さに適応した身体を持っていた。西アジアが寒冷になっても彼らは生活できた。

ネアンデルタール人は有能で成功した狩猟採集民だった。もしもホモ・サピエンスがいなかったら、彼らはいまでも存在していたのではないだろうか。ネアンデルタール人は複雑で洗練された石器を作り、それをもとに掻器や尖頭器など、さまざまな種類の道具をこしらえた。火を使って食物を調理し、野生のオーロックス(原牛)やシカウマなどの大型動物をしとめた。

出典:ダニエル・E・リーバーマン/人体~科学が明かす進化・健康・疾病 上/早川書房/2015(原著は2013年にアメリカで出版)/p165

  • 掻器は皮なめしに使う石器。毛皮についている脂肪や肉を掻き取るために使用された。
  • 尖頭器は字のごとく先端を尖らせた石器で槍先につけた。

このようにネアンデルタール人も それなりに技術を持っていた。

ちなみに槍で大型動物を狩る描写↓

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作者:Heinrich Harder/1920*3

上の絵は作者が大型動物(グリプトドン)を待ち伏せで狩ろうとしているホモ・サピエンスの想像図だが、おそらくネアンデルタール人もこのように狩をしていたのだろう。木や草むらに隠れて待ち伏せして大型動物が近づいた時に槍で突いた。ホモ・サピエンス槍投げ具を作ったあともネアンデルタール人は絶滅するまでこの方法で狩をしたようだ。

『ヒューマン』第2章ではホモ・サピエンス撤退までの時期においては技術的にネアンデルタール人のほうが上だったように読める。しかし実情は以下のようだったろう。

『ヒューマン』と違う主張

パット・シップマン著『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた』(原著は2015年出版)*4という本がある。これによると、ホモ・サピエンスは13万年前頃にレヴァント(地中海東海岸)に進出した、としている。以下はシップマンの主張(p65-66)。

13万年前から74000or71000年前までのあいだ地球は温暖期だった。ホモ・サピエンスは自分がアフリカから出ているという認識は当然持たずにレヴァントに生活の場を求めてたどり着いた。

この期間にレヴァントにネアンデルタール人の存在を示す物はほとんどない、としている。そして74000or71000年前になると寒冷期に入り、ホモ・サピエンスはレヴァントから姿を消し、入れ替わるようにネアンデルタール人がそこに戻ってきた。

つまり、両者の力量の差でホモ・サピエンスが撤退を強(し)いられたのではなく、環境の変化により両者の居住可能域が変化した、ということ。シップマン氏は両者が近接して共存したいたかどうかもはっきりしていないとする。

二度目の「出アフリカ」。成功

ホモ・サピエンスは6万年前、再び中東に進出した。これ以降、一度目のように撤退すること無く居続け、それどころか世界中に拡散し続けた。

74000or71000年前ころから最終氷期は6万年前の時期はまだ継続していた(最終氷期が終わるのは約1万年前)。

進出成功の原因 ~技術革新~

いったいなぜ、私たちの祖先は進出に成功することができたのか。

シェイ博士が大きなヒントを示してくれた。手元には三つの石器がある。それぞれスフール、タブーン、エル・ワドというこれまで紹介してきた、カルメル山の三つの洞窟で見つかったものだ。写真を見ても分かるように、スフールとタブーン洞窟のものには、まったく違いがない。それぞれ、"先発組"のホモ・サピエンスネアンデルタール人がつくったものだ。ともに、ルヴァロワ技法という方法でつくられた石器で、ナイフのように獲物の肉や皮を切ったり、槍先につけて突き刺したりするのに使われた。つまりこの時点では、ふたつの人類の技術水準は同じだったのである。

ところが、エル・ワド洞窟で見つかったもの、つまり"後発組"がつくった石器は、ほかのふたつとはまったく違っていた。細長い形をしている石刃と呼ばれる石器で、エル・ワド洞窟に限らず、ヨーロッパからアジア、アメリカ大陸に至るまで世界各地で発見されている。いわば"後発組"の名刺代わりのような石器なのだ。

出典:ヒューマン/p134-135

上記の石器および技法については「打製石器<世界史の窓」の図解付き解説参照。リンク先の絵を見れば分かるように容易に大量生産できる技法だ。

この石刃をどのように使ったかというと投槍につけた。ルヴァロワ技法で作られた石器よりも薄くて軽く空気抵抗も少ない。ホモ・サピエンスはこれをつけた投槍で小さくてすばしっこい中小動物を狩猟が可能になった。いっぽう、ライバルのネアンデルタール人は投槍を使わなかった。その理由は分かっていない(ヒューマン/149-150)が、小柄なホモ・サピエンスに比べて大柄なネアンデルタール人は中小動物の肉では腹を満たせなかったのかもしれない(p141)(寒冷に適応したネアンデルタール人の腕は短くて槍を投げるのに不向きという説があるが、それほどまでには短くはないと思うのだが)。

さらにホモ・サピエンスはこの投槍を飛ばす投擲具(アトラトル atlatl)を作った。「atlatl」で動画検索すると どういったものかが分かる。

[ジョン・シェイ博士(考古学者/ストーニー・ブルック大学)]「この道具は投擲具といいます。こちらは投擲用の槍。やりの先端にはあの石刃が取り付けられています。この槍は、とても軽く、手で投げても遠くまで飛びません。せいぜい15メートルくらいで威力も弱いです。しかし、このように投擲具と組み合わせれば、殺傷力の高い強力な武器になります。フックにやりを引っ掛けて飛ばせば、梃子の作用で、かなり遠くまで素早く飛ばすことができます。威力も増します。」(p140)

これを使ってシカやウサギなどの中小動物だけでなくサカナも捕ることができた(p142)。

ネアンデルタール人が大型動物を捕っている一方で、ホモ・サピエンスが中小動物を捕るという状況だと生存競争にならないような気がする。これに対し『ヒューマン』によれば、大型動物が気候変動などにより個体数が減っても、ホモ・サピエンスは繁殖の早い中小動物や魚を捕ることによって食料を確保することができる、とした(p141)。

石刃と投擲具とは別の角度から。前述の『人体』から。

ネアンデルタール人]の行動は完全に現代的とは言えなかった。たとえば骨角器をほとんど作らなかったから、動物の毛皮で服を作っていたはずなのに針をこしらえていなかった。[中略]彼らの生息環境の一部には魚も甲殻類もふんだんにいたのに、どちらもめったに食べなかった。原材料を25メートル以上運ぶこともほとんどなかった。(p165)

7万年以上前のたくさんのアフリカの遺跡から、アフリカに棲んでいた最初の現生人類は長距離交易をしていたことがうかがえる。つまり、そこには大きくて複雑な社会ネットワークがあったわけだ。(p208)

出典:リーバーマン氏/人体

骨角器について。

骨角器(こっかくき、bone tool)は、動物の骨、角、牙、殻などを材料として製作された人工品である。道具に限らず、装身具も含む。遺跡から出土する動物遺体の一種。

世界的にはっきりと道具として認識できる形状のものが出現するのは新人が出現した後期旧石器時代に入ってからである。

利器としては、銛(もり、ヤス)や鏃(やじり)、釣り針、ハマグリなど二枚貝の腹縁を欠いて刃にした貝刃(かいじん)、斧、篦(へら)、匙(さじ)、縫い針などがある。装飾品としては首飾り・耳飾り・髪飾り・腰飾りがあり、また、単独の彫像品もある。

骨角器<wikipedia

2段落目の「複雑な社会ネットワーク」については後述するが、『ヒューマン』第1章の「分かち合う心」も参照。

現代的行動

以上のホモ・サピエンスの技術革新を『ヒューマン』は「現代人的行動」の結果として捉えている。つまりアフリカから連綿と続き蓄積された文化の中の技術により困難を克服したということだ。

これとは違う説として「神経仮説」とか文化の「ビッグバン仮説」と呼ばれるものがある。

この論争(?)は前回の最初の節に書いた現代的行動の話になる。

「現代的行動<wikipedia」によると『銃・病原菌・鉄』で有名なジャレド・ダイアモンド氏が文化の「ビッグバン仮説」(同氏の言葉では"大躍進")を採用しているが、ネット検索をしているかぎりではこの説は否定される方向で進んでいるらしい。

「神経学仮説」とは、5万年前頃に現生人類(解剖学的現代人)に神経系の突然変異が起き、象徴的思考や現代人のような複雑な言語活動が可能になるなど、現生人類の認知能力が飛躍的に向上し、現生人類(解剖学的現代人)は真の現生人類(行動学的現代人)となり、急速に文化的発展を成し遂げて世界各地に拡散していったのだ、というものです。この見解は、後期石器・上部旧石器文化の開始を、人類史における一大転機であり、大発展だったとする解釈を前提としています。

出典:『5万年前に人類に何が起きたか?』第2版2刷 <雑記帳(ブログ)2008/01/16

この仮説の大商社的存在のリチャード・クライン氏は文化的発展を生物学的進化の結果だとしている。

もう一つ引用。

現生人類(ホモ・サピエンス)の行動面の進化

旧モデル
スタンフォード大学のリチャード・クラインらが唱えた「創造の爆発」モデルで、現代人的行動は、4~6万年前に新しい技術革新が突然に一斉に起きたことによって出現したとする。

これは、アフリカでの知見があまり考慮されておらず、おもに、ヨーロッパの研究成果から導かれた説であった。

新しいモデル
2000年に、アメリカの考古学者サリー・マグブレアティとアリソン・ブルックス(2人とも女性) が新たな説を発表した。

それは、次のような根拠から、現代人的行動は、アフリカで緩やかに、それぞれバラバラに出現したとするものであった。

  • 石刃技法、オーカー(酸化鉄の赤色顔料)の採掘・使用--28.5万年前ごろに始まる。
  • 尖頭器(槍先)=MSA(Middle Stone Age)[中期石器時代]--ほぼ同じ頃。
  • 貝の採捕、漁労--10数万年前
  • 定形的骨器、逆刺のついた骨製尖頭器--10万年前頃
  • 外部への記憶オーカー、ビーズ--7.5万年頃

出典:第262回 特別講演会 日本人の起源 河合信和先生<邪馬台国の会

上の「旧モデル」がダイアモンド氏の「大躍進」で、「新しいモデル」というのが『ヒューマン』の言うところの「文化の創出」だ。そして『ヒューマン』は「新しいモデル」の論文を発表したアリソン・ブルックス氏にインタビューしている。

ブルックス氏]「アフリカにいた私たちの祖先は、9万年前には十分に現代的でした。彼らには私たちと同じように考えることのできる脳があり、言語、精神性、宗教など現代の私たちと同じものを持っていたのです。もしも当時、技術的・社会的な環境があったなら、彼らはコンピューターさえ発明していたでしょう」

実際に、アフリカで現代的行動を窺(うかが)わせる証拠が次々と見つかってきていることで、博士たちの主張は説得力を増しているといえよう。対して「ビッグバン仮説」は、ヨーロッパはアフリカに比べて発掘調査が進んでいるがゆえの見かけ上の飛躍かもしれないという点から再検討もされている。

出典:ヒューマン/p146

「神経仮説」はどうやら間違っていたようだ。ただし、あふりかで現代的行動は起こったが、文化の"爆発"(ビッグバン仮説)は起こっていない。

文化の"爆発"に必要なもの:大規模なネットワーク

上で書いたことを言い換えれば、9万年前にすでに現代的だったホモ・サピエンスが、6~4万年前になるまで「文化の爆発」を起こせなかった。

では何故、起こせなかったのだろうか?

これは《「文化の爆発」を起こすために9万年前のホモ・サピエンスに何が足りなかったのか》という問題である。この問題の答えは「より大きなネットワーク(人びとのつながり)」となる。

上の『人体』の引用にあるように、アフリカでも「複雑な社会ネットワーク」は既にあった。しかしここでできた程度の規模では臨界点に達しなかったということだろう。

大きくなれなかった理由としてこのようなものがある。

アメリカの生物学者コリー・フィンチャーとランディ・ソーンヒルは、伝統的宗教の信者数、言語共同体の規模、「個人主義」対「集団主義」のバランスが、いずれも緯度と相関があることを一連の独創的な論文で示した。私たち〔つまりホモ・サピエンスは--引用者注〕は赤道付近では小規模で、より内向きで、結束の固い共同体を形成するのに対し、極地に近づくにしたがって大規模で、外向きで、個人主義的な共同体を形成するというのである。これらの生物学者は、この相関の原因が病原体負荷であることを突き止めた。熱帯が病気の温床であることは有名で、現在でもつねに新しい病気を生みだしつづけている。局所的な病原体負荷が高い条件下で健康リスクを減らすためには、他の集団との交流(とりわけ婚姻)を避けるのが効果的だと二人は論じた。自分が慣れ親しんだ共同体と病気と付きあっていくのが賢明であって、それはすでに免疫を進化させるための時間を共に過ごしてきたからだというのだ。

出典:ロビン・ダンバー/人類進化の謎を解き明かす/インターシフト/2016(原著の出版は2014年)/p261-262

低緯度の、6万年前以前のホモ・サピエンスは、高度な技術や芸術をつくる潜在的能力がありながら、ネットワークの規模が小さいためにせっかく発明した物事も消滅し、あるいは知識の蓄積を要する高度な物事を想像することができなかった。

いっぽう、高緯度に到達した6万年前以降のホモ・サピエンスは大規模なネットワークを形成することができた。その理由を引用しよう。

数年前にダニエル・ネトルが、言語集団(現代の言語の話者数)とその言語が話される地域は、緯度、より詳しく言えば、植物の生育期の長さと相関があることを明らかにした(緯度が高くなるにしたがって生息地が季節に依存するので、植物を育てられる期間が短くなる)。気候が予測不能で生育期がきわめて短い地域では、交換関係や交易関係が盛んでなければならないとネトルは説いた。状況が難しくなって別の場所に移ることができるためには、広い面積が必要になるのだ。問題は、隣人に助けを求めるには、直接話すことが書かせず、それには同じ言語を話さねばならない点にある。また世界像(道徳的信念、世界観など)がおなじであれば事はうまく運ぶだろうし、共有された世界像は同一の言語から生まれる。実際、私たちが行なった友情にかかわる研究では、共有された言語と世界像が日常的な友情の強さに大きな役割を果たすことがわかった。

出典:ダンバー氏/p249

高緯度では大規模なネットワークを形成することが不可欠だった。そして言語・世界像を含む文化は共有されて蓄積された。そして、ようやく、臨界点に到達して"爆発"が起こった。

一番最初に"爆発"が起こった場所は分からない。一番最初に思いつくのはヨーロッパだが、北アフリカ西アジアの可能性もある。

文化の"爆発"

とりあえず、ホモ・サピエンスは「150人の壁」を越えることができた。ではその先に何があったのか?文化の"爆発"が起きた。

[クリストファー・ストリンガー博士(ロンドン自然史博物館)]「集団のネットワークが大きくなると、問題に取り組む人衆が増え、新しいアイデアが次々に出やすくなります。それがもっとも発揮されるのは、氷期のような気候変動に見舞われた場合です。仲間が集って『さあ、どうしようか』と頭をひねっても、そうそういいアイデアが出るものではありません。それよりもお税でアイデアを出し合い、片っ端から試してみればいいのです。必要なのは、既存の知識をどれだけ知っているかではなく、新しいことにチャレンジできる絶対的な人数なのです」[中略]

[同氏]「現在は、いいアイデアが生まれれば、それは失われること無く受け継がれていきます。文字や資格情報などいろいろな方法で保存され、次の世代に伝達されるからです。過去はそうではなく、いいアイデアは出てきては、多くの場合失われていました。新しい文化や技術というものが定着するには、アイデアがどう保存されるかが問題です。それには情報が広まる安定した大きなネットワークが必要です。それがあれば、アイデアが存続するチャンスは大きいのです」

出典:ヒューマン/p189-190

集団の規模が大きくなったことで情報がより多く蓄積され、その蓄積された情報を使って多くの人びとが、多くのアイデアをチャレンジして、多くの新しい文化を生み出した。

(『ヒューマン』では飛び道具が大集団社会を可能にした仮説を紹介している。一度、この記事で紹介したのだが、個人的には全く納得できなかったので、ダンバー氏の本を読んだ時点で「飛び道具仮説」を消した。)



*1:ヒューマン/p125

*2:ヒューマン/p128

*3:ダウンロード先:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Glyptodon_old_drawing.jpg

*4:邦訳版も2015年出版/原書房

先史:ホモ・サピエンスの「心の進化」/現代的行動

「心の進化」で扱う問題はおそらく進化心理学の分野になるようだ。

ここではNHKスペシャル取材班『ヒューマン~なぜヒトは人間になれたのか~』の第1章「協力する人・アフリカからの旅立ち~分かち合う心の進化~」から抜き出してみる。

以下に示すように「分かち合う心」とは「現代的行動」のことを指すのだが、ここでいう「分かち合う心」という意味は「共有し合う心」または「コミュニケーションする能力」と解釈したほうがいいかもしれない。

現代的行動

研究者は「心」というような曖昧な言い方はしない。専門的には「現代人的行動の起源」と呼ぶ。心は残らないが、行動はその結果が証拠として残る可能性がある。研究としては、目に見えるもの、証拠をもって議論できるものを対象とするのが大原則だ。私たちと同じ行動をいつ、どこではじめたのかという謎を追いかけることで、その背後にある心に迫ろうという戦略である。

出典:NHKスペシャル取材班/Human~なぜヒトは人間になれたのか~/角川書店/2012/p20

ここでいう「心」は上のように一般的な意味の「心」とは全く別の意味で使われているので頭のなかで「心=現代人的行動(の起源)」と変換しなければならない。

「現代的行動」はwikipediaでは以下のように説明されている。

現代的行動、行動的現代性(げんだいてきこうどう、こうどうてきげんだいせい)とは人類学、考古学などで使われる言葉で、現生人類とその祖先に特有であり、他の現生霊長類や絶滅したヒト科の生物が持っていなかった行動のことを指す。現代的行動はホモ・サピエンスが象徴的思考への依存を高め、文化的な創造性を示しはじめたことを意味している。これらの行動の進化は、言語の進化と関連していると考えられることが多い[1]。

現代的行動の起源について、大きくふたつの理論がある[2]。ひとつはおよそ5万年前に、自然言語の発生を可能とするような脳の構造の再構築か、あるいは大きな遺伝的変化によって突然起きたと考える[3]。この理論は大飛躍、大躍進[4]、旧石器時代革命などと呼ばれる。もう一つの理論では、単一の技術的、認知的な革命は起きず、万年単位での漸進的な遺伝的変化、知識・技術・文化の蓄積が原因であると考える[5]。

現代的行動は人類の歴史を通してすべての人類集団に共有されている主要な特徴のことで、ヒューマン・ユニバーサルズとして観察される。一般的には言語、宗教、芸術、音楽、神話、娯楽、冗談などが含まれる。

定義

現代的行動は人類の歴史を通してすべての人類集団に共有されている主要な特徴のことで、ヒューマン・ユニバーサルズとして観察される。一般的には言語、宗教、芸術、音楽、神話、娯楽、冗談などが含まれる。

ヒューマンユニバーサルズは非常に孤立した民族を含むすべての文化で見つかるため、科学者はこれらの特徴が出アフリカの前に進化したか、発明されたはずだと考えている[6][7][8][9]。また具体的には以下の行動を含む。

  • 洗練された道具、(道具を作るための)二次道具
  • 釣り
  • 集団内での物々交換、長距離間での交易
  • 色素、顔料の使用、宝石などによる身体装飾
  • 洞窟壁画、ペトログリフのような象徴的な表現物
  • 遊び、音楽
  • 埋葬

出典:現代的行動<wikipedia(注釈は引用先参照)

現代的行動は基本的にはコミュニケーションの発達の中から生まれたものだ(上に示されているようにそうでないものもあるが)。

「ヒューマン・ユニバーサル」についてもwikipediaから↓

ヒューマン・ユニバーサル、あるいはカルチュラル・ユニバーサル、普遍文化とは地球上の全ての文化に共通してみられる要素、パターン、特徴、習慣のことである。強い文化相対主義の立場を取る一部の人類学者、社会学者はこのような普遍性の存在を否定するか、重要性を軽視することがある点に留意が必要である。この普遍性が狭義の文化であるか、生物学的、遺伝的基盤があるかどうかは氏か育ちか論争の争点である。ジョージ・マードッククロード・レヴィ=ストロース、ドナルド・ブラウンも参照のこと。

これらの概念は時々、特定の文化の重要性やユニークさについて何も明らかにしていない「空っぽの普遍性」と呼ばれることがある。

現代的な行動のもっとも古い証拠は前期旧石器時代に発見されており、これらの普遍性の出現はそれ以前に遡ることができると考えられる。

出典:ヒューマン・ユニバーサル<wikipedia

オーカーの遺物の意味と象徴的な思考

以上のことを念頭に置いて、NHKの本にもどって、アフリカ大陸の南端ケープタウンにあるブロンボス洞窟で発掘された遺物について書いていこう。

まずは10万年前の層から発掘された遺物はオーカーと呼ばれる顔料の一種だ(p11)。「オーカー(ocher)」をネット検索すると「黄土色」と出て来るがここで発掘されたオーカーは赤色だった。

この発掘の責任者であるヘンシルウッド博士(ノルウェーベンゲル大学教授)が、オーカーについて「人間の象徴的な行動と深い関係があります」と語った(p13)。

これを受けてNHKスペシャル取材班は以下のように説明する。

つまり、ブロンボス洞窟の出土品で注目すべきは、そこに住んでいた人たちが象徴的な思考を行っていたことを強く示唆しているということなのだ。

象徴的な思考は人間を飛び抜けて進化させた能力であり、文明を築き上げる原動力ともいえるだろう。その能力の片鱗を示す証拠が、10万年前というホモ・サピエンス黎明期の遺跡から見つかったのだ。

そう、ブロンボス洞窟が聖地とされるのは、ここが、象徴的な思考というホモ・サピエンスの独自性が大きく飛躍していたことを示すもっとも古い遺跡だからなのだ。

出典:NHK/p14

ホモ・サピエンス以外の人類(化石人類)はこの「象徴的な思考」を持っていなかった。我々現代人は字が読めることを当然だと思っているが、化石人類は文字どころか象徴的なものの意味さえ理解できなかったらしい。

また75000年前の層にもオーカーに関する遺物が出た(p15)。オーカーの石の塊の表面に目盛りのような線が施されている。ヘンシルウッド博士は何を表しているかは分からないと断った上で解説する。

「確かなことは、これは、当時の人々にとって何かを意味する象徴であることです」

その象徴が意味することは分からなくても、象徴であることは分かる。そこが大事なのだ。

その象徴はおそらく当時は、デザインを施した人だけでなく、多くの人々に通じたはずだ。アフリカ全土は無理でも、少なくとも集団内、またはほかの集団にも通じたはずだと博士は考えている。

「これはまさに言語に似た役割を持っているのです。私があなたに話すとき、言葉自体は実際には何も意味しません。でも、あなたも同じ言葉を知っているので解釈することができます。ですから、言語は人工物の上に刻まれたサインと同じです。(p15)

単純な線を見て「それが何を意味するか理解できる」ということが初めてできたのがおそらく10万年前だということだ。

さて、ホモ・サピエンスが高い象徴的な思考を持てたのはなぜかという問いについてはまだわかっていないとして(p21)、関係しているのは巨大な脳と言語能力だと書いている。以下は言語能力と象徴的な思考について。

「たとえば、象徴的な思考を獲得するプロセスは非常にゆっくりだったと想像していますが、どのくらいゆっくりだったかと聞かれると、分からないというしかありません。」[中略]

「ほぼ確かなことは、そのプロセスが言語の進化を伴ったということです。言語は化石化しないので、見ることはできませんが、このような技術の複雑さ、社会の複雑さは言語の複雑さがないと起こらないと考えられるので、当然、並行して言語も進化したと思います」(p22)

前述の「現代的行動<wikipedia」に「現代的行動の起源について、大きくふたつの理論がある」と書いてあるが、ヘンシルウッズ博士は上記のうちの後者の理論を支持する人らしい。ちなみに前者支持にリチャード・G・クラインという人がいる。

ブロンボス洞窟で発見されたオーカー破片の年代についてはほとんど議論がない一方で、スタンフォード大学の考古学者であるリチャード=クライン氏のような科学者は、それらは単なる落書きでほとんど意味がないと述べている。

出典:人類史に疑惑?(18)<ウェブサイト『趣味の館』 *1

クライン氏は『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』という本を書いている(原著は2002年出版)。『銃・病原菌・鉄』を書いたジャレド・ダイアモンド氏もこちら側。

装飾品の遺物の意味と分かち合いの心(=現代的行動)

この洞窟ではオーカーのほかに75000年前の層から彫刻された骨や数十個のビーズが発見されている。これらは装飾品には違いないが、手間をかけて作られたこれらの加工品が単なるおしゃれグッズではなく、象徴的な意味があったとしている。

この象徴的意味をつきとめるためにNHKスペシャル取材班は南部アフリカのカラハリ砂漠に向かった。ここには現代を生きる狩猟採集民族のサン人がいる。サン人はwikipediaによれば、『「地球最古の人類」とも呼ばれ、移動する狩猟採集民族として20世紀には数多くの生態人類学者の観察対象となった』。取材班は考古学ではなく、今度は文化人類学から答えを導き出そうとした。

そしてサン人の首飾りに関する慣習に話がいく。

取材班は9本もの首飾りをしている女性に話を聞いた。

祖先がずっと交換し続けてきたから私たちも交換するのです。[中略]首飾りをたくさんしていない人は、交友関係が少ない人です。私のようにたくさんしている人は、交友関係が多いのです。困ったときに助けてくれる人が多いのです」(p37)

サン研究の世界的権威であるトロント大学名誉教授のリチャード・リー博士はこの首飾りを親族関係の証(p38)とほかの種族との絆(p39)を表していると解説した。

「少なくとも200キロメートルの距離までは友人を見つけるようです。重要な点は、一つの地域で飢饉が起きても別の地域に十分な降水があれば、豊かな食料が期待できるということです。その地域にいる贈り物を交換した相手を訪れると、食物を得られるという仕組みです。」(p39)

以上がサン人における文化人類学上の話だが、取材班は前述のヘンシルウッズ博士に問い合わせ、サン人の首飾りとブロンボス洞窟のビーズは同じような役割を持っていたという回答を引き出した。

そして取材班はこの首飾りに託された心を「分かち合う心」と名付けた。つまりは現代的行動だ。

「分かち合う心」とヒューマン・ユニバーサル

リー博士の話↓

「どんな文化でも人間は、分かち合う環境で育ちます。分かち合いの精神が自然に身につき実行できます。児童心理学の研究から次のようなことがわかっています。人間の乳児の最初の行動のひとつは物を拾って口のなかにいれることです。次の行動は拾ったものをほかの人にあげることです」

それは世界共通だという。米国でも、欧州でも、日本でも、乳児は同じような本能的な行動パターンが身についているならば、地域によってバラつきがあるはずだ。そのバラつきがないということは、生まれながらにもっているものだという可能性が高い。その行動を身に付けていない個体は子孫をうまく残せず、自然淘汰によって排除されてしまった結果、世界共通のものになったと考えられるのだ。(p42)

ということで「分かち合いの心」はヒューマン・ユニバーサル(前掲参照)のひとつだということだ。

「分かち合う心」と互恵的利他主義

「分かち合う心」という言葉とをネット検索しているうちに「互恵的利他主義」という言葉を見つけた。

互恵的利他主義(ごけいてきりたしゅぎ)とは、あとで見返りがあると期待されるために、ある個体が他の個体の利益になる行為を即座の見返り無しでとる利他的行動の一種である。生物は個体レベルで他の個体を助けたり、助けられたりする行動がしばしば観察される。関係する個体間に深い血縁関係があれば血縁選択説による説明が可能だが、血縁関係がない場合(たとえば大型魚とソウジウオのホンソメワケベラ)にはこのメカニズムの存在が予測できる。

出典:互恵的利他主義wikipedia

取材班は上の人間以外の動物でもやっている「分かち合い(互恵的利他主義)」とホモ・サピエンス特有の「分かち合う心」の違いをつきとめるために、今度は京都大学霊長類研究所を訪れた(京都大学なのに愛知県犬山市にある)。この研究所はチンパンジーなどを飼育しながら、人間の起源と進化を解明することに力を入れている。(p44)

ここに所属する山本真也氏の言葉。

チンパンジーの場合、明らかに私たちと違うところがあって、いま目の前にある、この世界に生きているという制約が強いのです。瞬間記憶もその生き方のために必要な能力です。だから、チンパンジーはいま目の前にあるこの世界のことについては、共感を持つことはできると思うんです。しかし、目の前にないものについて共感するのは難しいと思います。たとえば、広島、長崎、沖縄のような悲劇に遭った人びとに思いをはせることは、人間でなければできません」(p56)

「結果的に自分のほうに幸せが戻ってくることがつづけば、助け合う関係がはじまることになります。だから、情けは人のためならず、という先人の知恵もあるわけでしょう。しかし、その関係が了解されるまでのあいだ、一方的になるかもしれない親切を施す必要があるわけです。その壁を乗り越えるためには、基本的に、想像する力が過去や未来に広がるのと同じように、他者にまで広がっていくことがカギなのです」(p57)

人間に有ってチンパンジーに無いもの。「相手の立場になって考える想像力」と「過去に思いをはせ、未来を予測する能力」。

チンパンジー以外の生物と人間との互恵的利他主義の違いは、私の素人考えで言うのなら、本能で行動するのか、(過去未来を含む)複雑な状況を判断して行動するのか、だろうか。

「分かち合う心」と狩猟採集社会における「平等主義」

上述のサン人は平等社会だそうだ。狩猟採集社会も基本的に平等主義だが、「分かち合う心」と関連性はないのだろうか?本書にはこのようなことには触れていなかった(階層ができるのは金石併用時代あたりから)。

おわりに

現代的行動はネアンデルタール人にもあったようだ*2

しかし2つの人種における差は歴然としている。この差はホモ・サピエンスネアンデルタール人を「絶滅させた」一因と言えるかもしれない。



先史:ホモ・サピエンスの誕生

エジプト国内の新石器文化は、最初にナイル川西方のオアシスおよび低地において開花し、後にナイル川流域地方に伝播していったことだけは動かしがたい事実である。現在までのところ、ナイル川流域の終末期旧石器文化の遺跡で、ナブタを除くと新石器分化段階への連続的な移行を示す遺跡は残念ながら発見されていない。出典:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

http://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/ejiputo-midori-sahara-matome

ホモ・サピエンスとは現生人類、つまり現代に生きる人間のことである。生物としてのホモ・サピエンスがいつ生まれ、どのように発展していったのか。

ホモ・サピエンスの誕生(起源)

ホモ・サピエンスの誕生(起源)には諸説あるらしいが、東アフリカで約20万年前(またはそれ以前)に誕生したというのが有力な答えだ。

現生人類すべての起源が東アフリカにあるという説は科学界においてほぼ合意に近い状態になっている[7][8][9][10][11]。[中略]

現生人類の最も古いおよそ195,000年前の化石がエチオピアのオモ遺跡(英語版)から発見されており、分子生物学の研究結果からすべての現生人類がおよそ20万年前のアフリカ人祖先集団に由来するとした証拠が示されている[17][18][19][20][21]。

出典:ホモ・サピエンスwikipedia(注釈の7~11、17~21は出典先参照)

オモ遺跡の場所↓

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出典:オモ川下流域<wikipedia*1

人類の進化の系統樹

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出典:人類の進化<wikipedia*2

・上の図の点線の意味は不明だが、おそらくフローレス人(ホモ・フローレシエンシス)とデニソワ人のことを表していると思われる(ホモ・フローレシエンシスについては「ホモ・フローレシエンシス<wikipedia」、デニソワ人につては「デニソワ<wikipedia」参照)。

異説:30万年起源説

以上は通説の20万年起源説だが、30万年説というものもある。トンデモ説ではない。

www.afpbb.com

↑の詳しい解説をされているブログがあるので紹介しておこう。

アフリカ北部の30万年以上前の現生人類的な化石(追記有) 雑記帳/ウェブリブログ

さらにホモ・サピエンスの脳(頭蓋骨)の形状が数十万年をかけて変化しているという研究発表もある。

gigazine.net

詳細解説のブログ

現生人類の脳の形状の進化 雑記帳/ウェブリブログ

将来こちらが通説になるかもしれない。

ミトコンドリア・イヴ

ミトコンドリア・イブ(Mitochondrial Eve)とは、人類の進化に関する学説において、現生人類の最も近い共通女系祖先(the matrilineal most recent common ancestor)に対し名付けられた愛称。約16±4万年前にアフリカに生存していたと推定され、アフリカ単一起源説を支持する有力な証拠の一つである。

しばしば誤解を受けるが、彼女は「同世代で唯一、現生人類に対し子孫を残すことができた女性」ではない。母方以外の系図を辿れば、彼女以外の同世代の女性に行き着くことも可能である。

出典:ミトコンドリア・イヴ<wikipedia

私の「ミトコンドリア・イヴ(イブ)」の最初の理解は「ホモ・サピエンスを最初に産んだ母親」だった。しかしそれは間違いだった。

ミトコンドリア・イヴは]「すべての人類の母」というイメージを持たれがちなのだが、それは明確に間違えだ。その女性の同時代には、ほかの男女も生きており、その中には我々の先祖となった人もたくさんいると考えられる。たまたまある女性が持っていたミトコンドリアが、今のすべての人類が持っているミトコンドリアの起源になった、という不思議は充分驚嘆に値するのだけれど、その時にその女性が一人きりで暮らしていたわけではない。あくまで、我々の祖先の一つになった集団に属していた、という理解が正しい。

[篠田謙一氏]「ミトコンドリア・イヴを包含する集団は、数千人くらいの規模だったと思います。祖先を辿ったら、1人の女性に行き着くというわけでは決してなく、1つの遺伝子を交配しているグループに行き着くくらいのイメージでとらえたほうがいいんです。1人の女性に行き着くという言葉の響きは、非常によくないと思っています」

ちなみに、ミトコンドリアの変異をまるで動物の系統樹のように考えて分析していくと、15万年から20万年前の「ミトコンドリア・イヴ集団」はまだアフリカにいた可能性が高い。

出典:第5回 ヒトの進化はアフリカ限定だった!<ナショナルジオグラフィック 日本版

まあ、ノアの箱舟の物語を思い出せばいいのではないか。

絶滅の危機:トバ火山大噴火

もっとも、前述の「[ミトコンドリア・]イブ」は、ただ一人の母親というわけではない。むしろ一万人ほどの個体群といっても差支えないのだが、東アフリカの地溝での淘汰に勝ち残ったのだ。このタイプの人間はそれ以前のヒト科の動物より頑健だった。ただし、それ以前にアフリカの地を去ったネアンデルタール人はおそらく例外で、彼らもホモ・サピエンスに属するのだが、ヨーロッパで屈強な大型獣狩猟者として氷期の生活条件に完全に順応していた。

今日の人間すべてが一人の母を始祖とする理由としてここ数年考えられているのは、ある種の大災害が太古にあり、それ以前のヒト属の種の大部分がその犠牲になったことである。ホモ・サピエンス・サピエンスはこの大災害でわずか数千の個体にまで数が減り、それに伴い遺伝子プール(遺伝子供給源)は乏しくなり、集中して一つの進化の方向へと向かうことになる。マイケル・R・ランピーノ(ニューヨーク大学)のような地質学者やスタンレー・H・アンブローズ(イリノイ大学)のような人類学者は、その理由として火山の巨大噴火を考えている。およそ七万五千年前のスマトラ島インドネシア)北部のトバ火山の噴火である。この噴火によって成層圏に放出された火山灰とエアゾルの量はおびただしく、そのまま何年間も雲となってとどまった。この噴火の証拠は今日、世界各地の氷床コアや土壌堆積物に見ることができる。

成層圏の火山灰とエアゾルが原因で急激な冷却減少が起き、局地的には15℃、世界的にはおよそ5℃の気温低下が数年間続いた。「火山の冬」は植物の生育を阻み、その結果、陸と海の食物連鎖も損なわれた。熱帯の植生は広範に破壊され、温暖な気候帯の森林も損なわれたに違いない。生き延びた植物も甚大な被害を受け、回復するまでには何十年物時を要した。これで、ホモ・サピエンス・サピエンスの歴史の初期に、種の個体数が絶滅寸前にまで激減した理由の説明がつく。

出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p44-45

火山の話をもう一つ↓

いまから7万-7万5000年前に、トバ火山が火山爆発指数でカテゴリー8の大規模な噴火を起こした。この噴火で放出されたエネルギーはTNT火薬1ギガトン分、1980年のセント・ヘレンズ山の噴火のおよそ3000倍の規模に相当する。この噴火の規模は過去10万年の間で最大であった。噴出物の容量は1,000 km3を超えたという(参考として、8万年前の阿蘇山火砕流堆積物の堆積は600km3であった)。

トバ・カタストロフ理論によれば、大気中に巻き上げられた大量の火山灰が日光を遮断し、地球の気温は平均5℃も低下したという。劇的な寒冷化はおよそ6000年間続いたとされる。その後も気候は断続的に寒冷化するようになり、地球はヴュルム氷期へと突入する。この時期まで生存していたホモ属の傍系の種(ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトゥスなど)は絶滅した。トバ事変の後まで生き残ったホモ属はネアンデルタール人とヒトのみである(ネアンデルタール人と姉妹関係にあたる系統であるデニソワ人がアジアでは生き残っていたことが、近年確認されている)[3]。現世人類も、トバ事変の気候変動によって総人口が1万人にまで激減したという。

出典:トバ・カタストロフ理論<wikipedia



先史シリーズは先史カテゴリーに保管される。

旧石器時代/中石器時代/Epipaleolithic

先史時代は石器時代に入る。この記事では旧石器時代と中石器時代とEpipaleolithicについて書く。Epipaleolithicについては後で説明する。

近年において先史時代の研究や測定技術の発達のおかげで、各時代の年代(期間)が見直されている。以下の記事は古い参考文献を利用しているので参考程度に。

三時代区分法

三時代区分法は三時期法とも言われる考古学の時代区分法。英語ではthree age systemと書く。デンマーク人のクリスチャン・トムセンが19世紀に考案した。

三時代区分法(さんじだいくぶんほう)(three age system)は、人類の歴史の時代を石器時代青銅器時代鉄器時代に区分する考え方。

提唱
デンマークコペンハーゲン王立博物館の館長クリスチャン・トムセン(Christian Thomsen,1788年~1865年)は、博物館の収蔵品を、利器、特に刃物の材質の変化を基準にして分類し、石・銅・鉄の三つに分類して展示することを考えついた。つまり、人類は石以外に金属を知らない石器時代、鉄がまだ使われていない青銅器時代(青銅は銅、スズの合金)、鉄器時代という三つの時代を経たことを区分して展示したことに始まる。トムセンは、この考え方を推し進め、1836年に、『北方古代文化入門』を著して、三時代区分法を提唱した。[中略]

三時代区分法の限界
三時代区分法は、当初はヨーロッパという一地域の考古学的区分として考えられていたものが、次第に世界に共通する区分とみなされるようになった。しかし、三時代区分が適さない地域も見られるようになり、三時代区分自体の問題点も明らかになっていった。たとえば、新大陸が金属器を知るのは旧大陸より遅い時期なのに鉄器までに至らなかった点、東アジアの日本では、金石併用時代は石器、青銅器、鉄器の三者が併用され、青飼器時代を飛び越えて鉄器時代に移行した点など、三時代区分法では区分できない地域があることが分かってきた。

出典:三時代区分法<wikipedia

トムセン以降にいろいろなアイデアが加えられて今に至る。

石器時代

石器時代は「Stone Age<wikipedia(英語版)」によれば340年前~1万年前。

エチオピアのアワシュ渓谷(Lower Awash Valley)で石器を使用した「痕」が発見されたという*1 *2。これが340万年前とされた。

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出典:アワッシュ川下流域<wikipedia

最初の石器の実物は推定330年前のもので、ケニアトゥルカナ湖西岸の干上がった河床で発見された。発見された場所は「ロメクウィ(Lomekwi)3」と名付けられた。*3 *4。この遺跡の近くでケニアントロプス・プラティオプス(猿人)の骨が発見されており、彼らが石器を使用していたのではないかと議論されているようだ。

ちなみに現代の人類(現生人類=ホモ・サピエンス)は約20万年前に誕生した。石器時代の到来よりずいぶん後に登場したことになる。現生人類は先祖の人類から石器の使用方法を受け継いだということだ。

石器時代もまた三つに時代区分され旧石器時代、中石器時代新石器時代に区分される。

旧石器時代

旧石器時代打製石器を使用していた。外部サイトの打製石器<世界史の窓では、イラスト入りで複数の打製石器が解説されているのでそちらを参照。ある程度の時代の変遷も分かる。

旧石器時代wikipedia」によるとこの時代も三分割されて以下のようになる。

前期旧石器時代
+ 約260万年前 - 約30万年前
+ ハンドアックスがひろく用いられた時代。この時代の人類はホモ・ハビリスおよびホモ・エレクトスが主流であった。

中期旧石器時代
+ 約30万年前 - 約3万年前
+ 剥片石器が出現した時代。
+ ネアンデルタール人が広がった。極東アジアの中期石器文化の特徴から、ヨーロッパから来たネアンデルタール人に依ったものではなく、アジアの原人から進化した古代型新人によって形成された可能性が大きいとされる。

後期旧石器時代
+ 約3万年前 - 約1万年前
+ 石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の原動力を言語に求める説もある。クロマニヨン人ホモ・サピエンス)が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。

現生人類(ホモ・サピエンス)の誕生は20万年前だから中期旧石器時代に出現したことになる。

石器時代

この時代は旧石器時代新石器時代の間の時代という意味合いで使われる。

石器時代

石器時代を3区分した際に,より古い旧石器時代と,より新しい新石器時代の中間に設定された時代名。1865年にJ.ラボックが,旧石器時代新石器時代の2時期に石器時代を細分したのち,翌66年にウェストロップH.Westroppが小型の打製石器の時代として,中石器時代を加えたのが最初である。その後,モルガンJ.de Morganによって,明確な時代概念が与えられた。典型的な形でみられるのはヨーロッパとオリエント地域であるが,世界的な石器の小型化や水産資源の利用の拡大を一つの流れとみなし,必ずしも同一の内容をもつわけではないが,中石器時代という区分がその他の地域でも用いられている。

出典:世界大百科事典 第2版<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

日本大百科全書(ニッポニカ)*5によれば、この言葉が世に出た当初から強い反対意見があり、現在まで「中石器時代」という概念は学界全般には普及していない。「現在、中石器時代という語が使われているのは、主としてイギリス、北ヨーロッパ諸国や旧ソ連である」。ではどういう用語を使っているかは後述。

石器時代の概観

いま反対論者の意見をかたわらに置いて中石器時代の概要を述べると、第一に強調されるのは、それが主として解氷期に該当すること、ならびに当時の人々の生活が獲得経済(狩猟、漁労、植物採集)に依存していたことである。[中略][角田文衛]

精器文化

石器の型式のうえからみると、現在知られている多数の中石器諸文化は、〔1〕精器文化(または広義の細石器文化)と、〔2〕粗器文化とに大別される。主流をなした精器文化は、細石器microlithをもって特色としている。これは単に細小な石器をいうのではなく、一定の形態を予想して石核から剥取(はくしゅ)された小さい石刃(せきじん)や剥片をそのまま、あるいは側縁だけにわずかに修正を施した石器を意味している。もっとも特徴的な細石器は、細彫器microburinや梯形(ていけい)の石刃などである。精器文化の特色は、(1)細彫器を含めてさまざまな細石器が使用されたこと、(2)狩猟は、個人狩猟が主で、弓矢や投げ槍(やり)がおもな猟具であったこと、(3)漁労は、銛(もり)で行われたが、やがて釣り針や漁網が発明されたこと、(4)貝類の捕食も盛んであって、ときとしては住居の近くに貝塚を残したこと、(5)植物の球根や野生の穀草からとった穀物を食糧としたこと、(6)狩猟の効果をあげるため、イヌが家畜化されたこと、(7)遺跡によって量に差異はあるが、骨角器の使用も盛んであり、骨角や貝殻を用いたさまざまな装身具もつくられたことなどである。細石器は柄に着装して、あるいは棒の側縁に列をなしてはめ込んで使用された。[角田文衛]

粗器文化

粗器文化のほうは、旧石器文化的な伝統の強い停滞的な文化であって、ヨーロッパの西部や北東部に存在した。フランスのカンピニー文化はその代表的な例である。粗製の石鍬(いしくわ)や鶴嘴斧(つるはしおの)が特徴であるが、これらは植物の採集や栽培に用いられた。[以下略][角田文衛]

出典:中石器時代<小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) <コトバンク(角田文衛の筆)

  • 氷期とは最終氷期の末期の地球全体が温暖化して氷床が後退していったということ。

細石器について別の引用。

ミクロリスmicrolithともよばれる小さな石器。幅1センチメートル、長さ5センチメートル以下ぐらいのきわめて小さな石器であり、単独で使用するものではなく、木や骨の柄(え)にはめ込んで使われた。小さいためきわめて軽く、また一定の石材からもっとも長い刃を得ることができる。先史時代にあっては良質の石材は限られており、そのためもっとも能率のよい方向へと石器製作の技術は発展していった。その方向の頂点にあるのが細石器である。後期旧石器時代末期から中石器時代にかけてもっとも盛行し、新旧両大陸ともにみられる。このように世界的にみられるので、その形態、あり方はさまざまである。世界的にみた場合には、小さな石刃(せきじん)の形をあまり変えずに使っている例が多いが、ヨーロッパ、西アジア北アフリカといった環地中海地域には、長方形、台形、三角形、半円形といった幾何学形をしたものもある。これらは幾何学形細石器とよばれる。[藤本 強]

出典:細石器<日本大百科全書(ニッポニカ)<小学館<コトバンク

石材は地域によって異なるようで、黒曜石、砂岩、チャート(フリント)、流紋岩、ガラス質安山岩、硬質頁岩などがある。*6

Epipaleolithicについて

石器時代に対応する英語はMesolithicだが、中東の考古学者たちはこの言葉を使用せずに、Epipaleolithicを使っているらしい。 Epipaleolithicに対応する日本語は

などである。先史関連の書籍では「中石器時代」を発見するのは稀で多くがEpipaleolithicの訳語が使用されている。

Epipaleolithicについては中石器時代の中身と同じだと思う。

ネアンデルタール人旧人)とホモ・サピエンス(新人)の交代劇

ネアンデルタール人が滅びてホモ・サピエンスが頂点捕食者(食物連鎖の頂点にあるもの)になった時期は中石器時代あるいはEpipaleolithicにあたる。これについては別の記事で書く。



冒頭で、時代区分は「近年において先史時代の研究や測定技術の発達のおかげで、各時代の年代(期間)が見直されている」と書いたが、学者によって様々な主張があるため、「いつ何年で区切るか」について差異が生じている。私が参考にした書籍の著者たちは最新の研究結果を反映した時代区分を利用せずに普及しているものを便宜的に使用しているが、その便宜的に使用した時代区分も統一されていない状況だ。だから数字についてはあまり正確さを追求しないことだ。

最終氷期/ヤンガードリアス期/完新世

現在から見て最後の氷河期が終わると人類は農業をするようになった、と言われる。

農業の始まりについては別の記事で書くとして、この記事では最後の氷河期(最終氷期)の終末の前後について書く。

  • この記事では数字に多少のズレがあるが、すべて「およその数字」なので千年~二千年くらいのズレは誤差とする(測定機器の限界なのか、学者たちの判断の差なのか、私には分からない)。

  • 「◯◯年前」と「(紀元)前◯◯年」と両方を使用するので混同しないように注意。

最終氷期完新世

最終氷期はヴュルム氷期とも呼ばれ、およそ7万年前から1.2万年前までの時期を指す。地質年代地質時代)の更新世に属する。

およそ1.2万年前(前10000年)から現在までは地質年代で言えば完新世になる。

最終氷期の亜氷期/亜間氷期

最終氷期というと長い間続いたと一般には思われているが、実際は短い周期(氷床コアの研究において発見され、ダンスガード・オシュガーサイクルと呼ばれる)で気候が激しく変動していたことがわかってきた。最寒冷期の状態が続いたのは実際は非常に短い間、おそらく2000年ほどであったと専門家の間では考えられている。

出典:最終氷期wikipedia

上の「最寒冷期」は同ページに書いてある「最終氷期最盛期、Last Glacial Maximum、LGM」のこと。およそ2.1万年前。

ベーリング/アレレード期(亜間氷期

これより数千年経つと亜間氷期ベーリング/アレレード期(前12700-前10800)に突入する。

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

上の図に示されているように気温が急激に上がった。これに伴い氷床は後退し、人類を含む動植物の行動範囲が広がった。

ヤンガードリアス期(亜氷期

上記のベーリング/アレレード期の後の亜氷期ヤンガードリアス期(上図参照)(前10800年-前9600年)。「寒の戻り」と言われている。氷床は前進し、動植物は後退した。

このヤンガードリアス期の終わり(前9600年)が最終氷期の終わりであり、更新世の終わりであり、完新世の始まりとなる。

上の「完新世の始まり」の定義は国際的な基準であるGSSP(国際標準模式層断面及び地点)によって定まっている(「完新世の始まり」については「完新世の開始期の定義の批准<日本第四紀学会」参照。「GSSP」については「国際標準模式層断面及び地点<wikipedia」参照)。

ただし、この決定にどれほどの学者およびその他の人々が従っているかは分からない。

完新世

ヤンガードリアス期が終わるといよいよ現代まで続く完新世になる(前9600年-現在。)。氷床と動植物の前進/後退の逆転が見られた。ベーリング/アレレード期との違いは、変動が比較的安定していることと、人類が農業をやりだして人口爆発を起こしたことだ。これが文明の誕生につながっていく。

地球温暖化だけが農業の始まりの原因ではないが、不可欠な要素の一つではある。

気候変動の重要性

気候変動は人類を含む動植物に甚大な影響を与えている。その中で人類は右往左往するだけでなく、試行錯誤を繰り返して文化文明を発達させていった。逆に言えば、文化文明の発達の原因の中に気候変動があるとも言える。



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*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

地質年代(地質時代)

カンブリア紀とかジュラ紀とか白亜紀などという言葉を耳にしたことがあるだろう。これは地球の歴史の時代区分。

「先史」を知るためには必要な知識。ただし地質時代の全部を知る必要はない。

「先史」については、記事「先史シリーズを書く」で書いた。

地質時代 ちしつじだい geological age

地質学が対象とする地球の歴史を相対的な時間関係で区分した年代。地質年代ともいう。地層の重なりと地層中の化石による古生物の進化から,大区分,中区分,小区分がなされている。代,紀,世,期がそれで,新生代,新第三紀,中新世,アキタニアン期というように用いる。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

現在の区分は

顕生代<新生代<第四紀<完新世



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氷河期/氷期/間氷期/氷河時代

氷河期/氷期間氷期などの用語は歴史上の気候変動を理解するために必要になるので、これらの言葉を理解するために記事にしておく。

「氷河期」という言葉と氷期間氷期

氷期のこと。氷河時代のうち、特に気候が寒冷で氷河が発達した時期。

出典:大辞林<三省堂<コトバンク

ということで、「氷河期=氷期氷期というのは、上に書いてあるとおり「特に気候が寒冷で氷河が発達した時期」。ただし氷河というより氷床と言ったほうが正確だと思う(氷床=「大陸の全体を広く覆って発達する氷河。現在は南極大陸グリーンランドにだけみられ、厚さ1000メートル以上ある。」*1)。

現在は氷床が南極とグリーンランドまで後退しているがこのような時期を間氷期といい、比較的温暖な時期と区分されている。現在の直近の氷期「最終氷期というがこの時期はヨーロッパ北部と北米大陸北部が氷床に覆われていた。

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最終氷期の最寒冷期(LGM)における植生。灰色は氷床に覆われた地域

出典:最終氷期wikipedia

氷河時代

氷河時代」という新たな用語の説明。

地球の大陸上に氷床があらわれる時代を氷河時代といい、氷河時代の中でも比較的寒冷な時期を氷期、比較的温暖で氷河がとけつつある時期を間氷期という。

出典:単語記事: 氷河期<ニコニコ大百科(仮)

氷河時代の対義語が「無氷河時代でこの時期は地球上に(北極や南極にすら)氷河がない時代。恐竜が大繁栄していたジュラ紀白亜紀などは無氷河時代だった*2

大辞泉では「地球上の気候が寒冷となり、広範囲に氷床(大陸氷河)が発達した時代」*3と説明されているが、説明不足で誤解を招く説明だと思う。

もう一つ小さい区分「亜氷期/亜間氷期

氷期もしくは間氷期が続く間に、更に細かな気候の変動が見られることがある。寒い時期を氷期 (stadial)、温暖な時期を間氷期 (interstadial) と呼ぶ。最終氷期終了前後から現在にかけてはヨーロッパの泥炭湿地で発見された花粉層序がしばしば用いられ、現在では最終氷期終了~後氷期にかけての気候変化を表現する際に幅広く使われている。

出典:氷河期<wikipedia

氷期/亜間氷期氷期間氷期の両方にある。

上の出典先によれば現在はサブアトランティック(亜間氷期。500 BCE-現在)という区分に入るそうだ(ただし欧州における区分)。ちなみに小氷期とよばれる歴史的に重要な時期はこのサブアトランティックの中での寒冷な時期になる。

現在の区分

現在はどのような時代区分に入るかというと以下のようになる。

氷河時代間氷期>亜間氷期

となる。



関連記事


*1:大辞泉<小学館<コトバンク

*2:中生代の生き物(恐竜・鳥・植物・昆虫)<第42回特別展大化石展 「この時代は気候がとても温暖で、南北両極地方にも氷床(氷河)が無い無凍結の時代が続きました。」

*3:大辞泉<小学館<コトバンク