歴史の世界

先史シリーズを書く

これから先史シリーズを書く。「先史」カテゴリーに保存する。

「先史」の意味

先史時代
先史時代は、「歴史時代(有史時代)」以前の歴史区分に当たり、文字を使用する前の人類の歴史である。

出典:先史時代<wikipedia

「歴史時代」とは文献的資料すなわち文字による記録がある時代のことを指し、それ以前を先史時代という。歴史学では、「歴史」と言えば歴史時代のことを指し、先史時代は「歴史」とは言わないらしい。ただし一般人は歴史の一部と思ってかまわないだろう。ビッグバンだって歴史の一部だ。

上では「先史時代」という言葉を使っているが、普通は「先史」という(と思う)。

このブログでの「先史」カテゴリー

先史シリーズ・「先史」カテゴリーは世界史の先史、つまり四大文明の先史を書いていこうと思う。

上限は「ホモ・サピエンスの誕生」とする。それより前はよくわからないし資料も少ない(ホモ・サピエンスに関してはかなり参考図書がある)

下限は文明誕生前夜あたり。農業の発達や文化の発達、町の発達などを書こうと思う。

変わる「先史の歴史」

参考図書になりそうな書籍を探すとたくさん見つかる。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』が日本で出版されたのは2000年だそうだが、それに出版社が味をしめたのか数多くのこの手の翻訳本が出版されている。日本人の本もたくさんある。

銃・病原菌・鉄 上下巻セット

銃・病原菌・鉄 上下巻セット

内容がどれもこれも一緒だと思ったらそうではない。昔も今もあらゆる分野で論争は繰り広げられ、ダイアモンド氏の主張も一部 時代遅れになりつつあるようだ(本人は反論するかもしれないが)。世界中で言語の壁を超えて論争中だ。

科学技術の発達で遺物からの年代測定の精度が上がっているものの、それでも学者によって千年単位の違いがある。私にはどれが妥当なのか分からないので、テキトーに選んで話を進めるしかない。その場合辻褄が合わなくなる場合があるがまぁ仕方ない。とりあえず書いてみて間違いが見つかれば書き直そう。ただ間違いかどうか見極めができるようになるかどうか。



インダス文明 後編(インダス文明とイラン・ペルシア湾岸の関係)

前回の記事「インダス文明①:新旧のインダス文明像」では長田俊樹氏の主張を元にして書いたが、今回は後藤健氏の主張に依存する。

NHKスペシャル 四大文明 インダス

NHKスペシャル 四大文明 インダス

後藤氏はアラビア湾ペルシア湾)の「湾岸文明」が専門の考古学者。NHKスペシャル四大文明」にも関わっている。上の『NHKスペシャル 四大文明 インダス』では、「インダスとメソポタミアの間」という題で一章を書いている。

この内容を一冊にしたのが二冊目の本『メソポタミアとインダスのあいだ』。前者が2000年、後者が2015年の出版。

トランス・エラム人がインダス文明を作った

エラム文明

メソポタミアとインダスのあいだ』の一章は「メソポタミア文明の最初の隣人たち」という題名が付けられている。その「隣人たち」というのがイラン高原アラビア湾岸に住む人々だ。初期のメソポタミア文明ができた南部(アラビア湾北岸)は肥沃な大地以外に何もなかった。また文明を作り上げたシュメール人は海に出ていって産品を輸入することをしなかった。では誰がメソポタミアに必需品を送り届けたか?それが「隣人たち」だった。

そして、この本によれば、この「隣人たち」のことを「原(プロト)エラム文明」と呼んでいる。

まず、「エラムとは何か」から

エラム(Elam)は古代オリエントで栄えた国家、または地方の名。紀元前3200年頃から紀元前539年までの間、複数の古代世界の列強国を出現させた。エラムと呼ばれたのは、メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域である。

f:id:rekisi2100:20170629052631p:plain

出典:エラムwikipedia*1

ここの連中たちが、メソポタミアに物資を供給する交易ネットワークを作った。アラビア湾の対岸(アラビア半島側)にも植民してアラビア湾からの海路の交易も支配した(植民の目的はアラビア半島のハフィート山の銅山開発*2)。

この文明は前27世紀のうちにメソポタミア側に首都であったスーサを侵略されて終わりを遂げる。

トランス・エラム文明

エラム文明が推戴した後しばらく経って、交易ネットワークが再生した。これがトランス・エラム文明と呼ばれるものだ。

スーサがメソポタミアに占領され、原エラムのネットワークは崩壊したが、イラン高原には、アラッタを首都とする新たな都市ネットワークが形成さらたことが推察される。

この新しい都市ネットワークを、考古学では「トランス・エラム文明」と呼んでいる。それは、字義通りには、メソポタミアから見て、東方の隣接地帯であるエラム(スシアナ)よりもっと遠い東方、つまりイラン高原(とさらにその延長地域)の文明を指す。この用語はピエール・アミエによって使われたのが最初で原エラム文明の後身であった。

出典:後藤氏/p76-77

ウンム・ン=ナール文明

また聞きなれない文明だが、この文明はトランス・エラム人が作ったようだ。

前2500年頃、アラビア湾アラビア半島側の地域に「湾岸で最初の国際性の高い都市文明が成立する」*3)。これを後藤氏はウンム・ン=ナール文明と呼んでいる*4

f:id:rekisi2100:20170629045936p:plain

出典:後藤氏/p113

イラン高原の北部のステップを通る交易路に加え(イラン高原のほとんどが沙漠)て、南路の海路が重要性を増してきた結果だ。

この文明の成立はトランス・エラムとの影響の他に、おそらくメソポタミアの需要の拡大の影響が一番大きいだろう。そして物資供給地域としてインダス文明圏が重要を増してくる。

インダス文明の登場

やっとここでインダス文明の登場。

トランス・エラム文明の都市には、日照りによる飢饉が起こりやすいという泣き所があった。食料事情を自らの顧客でもあるメソポタミアに握られていることは、この文明最大の急所であった。そこで彼らはメソポタミア以外の土地で穀倉と成る所はないかとあちこち調査したのだろう。インダス河流域の平原は最高の場所だった。そこにはまださしたる政治権力も芽生えてはおらず、豊かな先史農耕文化が広がっていた。その西側、バルーチスターンの山地に住むハラッパー文化の人びとと、トランス・エラム文明のネットワークはリンクした。彼らは低地に降りていった。

旧世界において、前2600年より早い時期から都市文明が存在したのは、エジプト、メソポタミア、そしてイラン高原の三カ所であった。都市というものに精通し、それまで都市というものを見たこともないスィンド地方の人びとに、完成度の高い都市の設計図を提示することができたのは、イランの都市住民であった可能性が最も高い。熟考された都市計画による、整然たる都市モヘンジョ・ダロの建設は、熟練の都市設計者の指導のもので行われたことが明らかで[ある]。

出典:後藤氏/p87

インダス川が流れるシンド(スィンド)地方も乾燥地帯だが、インダス川という大河があり灌漑農業ができた。メソポタミアの灌漑農業の技術をここに移植できたら穀倉地帯になると考えたのだろうか。

前回の記事「インダス文明①」でウィーラー氏がメソポタミアの影響下でインダス文明が生まれたという主張を紹介したが、上のようにトランス・エラム人を間に挟んだとすれば説得力があるのではないか。

f:id:rekisi2100:20170629052717p:plain

出典:後藤氏/p66

インダス文明の輸出品「ラピスラズリとカーネリアン」

インダス文明圏の産物は南北両方の交易ルートを使ってメソポタミアに供給されている(上の地図参照)。

ここで装飾品の輸出の話。

古代の装飾品と言えばラピスラズリが有名だが、インダス文明圏の輸出品目の中ではラピスラズリの他にカーネリアンも挙げられる。カーネリアンは紅玉髄(べにぎょくずい)とも書かれている。

ラピスラズリアフガニスタンのバダフシャーン州(バダクシャン)が原産地*5(ここもインダス文明圏)、カーネリアンの原産地はロータル遺跡のあるグジャラート州にあった*6。またドーラビーラ(グジャラート州)はカーネリアンをビーズにする加工で栄えた*7

ラピスラズリが青い石(ラピスラズリ<google画像検索参照
カーネリアンが赤い石(カーネリアン<google画像検索参照

NHKスペシャルの本に座談会のコーナーがあって、この二つの装飾品の話が出ていた。

近藤[英夫氏] インダス文明がまだ成立する前の、紀元前3000年から紀元前2500年ぐらいまでの西アジアの話をまずいたします。このころ、東から西に運ばれた代表的な物資はラピスラズリです。ラピスは採れる場所がはっきりしています。アフガニスタンのバダクシャンです。それがイラン高原からスーサを越えてメソポタミア方面へ運ばれていった状況は、ここ20年ぐらいの間にかなりはっきりしてきています。どういう理由からか、紀元前2500年ぐらいを境に物があんまり動かなくなる時期がある。ラピス交易は、紀元前3000年から2500年ぐらいがいちばん盛んなときで、それを越えると下火になるんですね。

ラピスの交易が盛んなころは、まだインダス文明はできてないんです。ヘルマンド川流域のムンディガクとか、シャハル・イ・ソフタ、それからケルマーンのテペ・ヤヒヤ、シャハダードというアフガニスタン、イランの諸都市を結ぶルートの中で動いているのが、紀元前3000年から2500年頃のことで、紀元前2500年を少し過ぎる頃になると、ヤヒヤもシャハル・イ・ソフタも衰退し始めてくる。

替わって動き出すのが紅玉髄(カーネリアン)なんです。紅玉髄の製品が、おそらくインダス川から海路を使ってオマーン半島やバーレーン、すなわちマガンとかディルムンとよばれた湾岸の土地、あるいは直接メソポタミアのウルにまで運ばれたのかもしれない。インダス文明の出土遺物で圧倒的に多い宝飾品は紅玉髄のビーズ類なんです。

出典:NHKスペシャル 四大文明 インダス/p214-215

前2500年といえば、ウンム・ン=ナール文明が都市文明として成立したころに当たる。この文明を誕生させた原動力の一つとしてカーネリアンが挙げられるかもしれない。装飾品の流行り廃りの交代劇が都市の興亡に関わっているかもしれない。



以上でインダス文明は終わり。

「大文明」という印象は感じられない。アメリカ大陸の古代文明2つを入れて「6大文明」という言葉を提唱している人もいるらしいが、おそらくアメリカ大陸の古代文明のほうがインダス文明より「大文明」で重要なのだろう。

過去の記事「 「四大文明」は学説でも仮説でもなく、ただのキャッチフレーズだった 」で書いたように「四大文明」は便宜的なものなので否定しても仕方ないが。

*1:地図の製作者はDbachmann、ダウンロード先はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Elam#/media/File:Elam_Map.jpg

*2:後藤氏/同著/p107

*3:後藤氏/同著/p107

*4:wikipediaではウンム・アン=ナール文化、Umm al-Nar Culture

*5:バダフシャーン州<wikipedia

*6:グジャラート州wikipedia

*7:ドーラビーラ<wikipedia

インダス文明 前編(新旧のインダス文明像)

インダス文明は古代四大文明の一つだが、他の文明に比べてかなり発掘・研究が遅れている。インダス文明の範囲はパキンスタン・インド・アフガニスタンにまたがっていて、三国の政府はともに古代文明に関心がなく、パキスタンアフガニスタンについては紛争地域なのでそれどころではない。

こんな状況でも発掘・研究は、断続的で遅いペースだが、進行しているという。そして十年前二十年前のインダス文明のイメージは間違えだったということがわかってきた。

  *  *  *

この記事では主に長田俊樹氏の主張に依存する。

インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す (学術選書)

インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す (学術選書)

文明の基層: 古代文明から持続的な都市社会を考える

文明の基層: 古代文明から持続的な都市社会を考える

旧来のインダス文明のイメージ(ウィーラー氏の文明像)

私のインダス文明のイメージは

  1. ハラッパーとモヘンジョダロの二大都市から成る」
  2. メソポタミア文明に影響されてつくられた」とか
  3. アーリア人侵入によって滅亡した」

というものだった。

こういうイメージは、長田氏によれば*1、イギリスの考古学者のモーティマー・ウィーラー氏*2による仮説*3によって広められた。ウィーラー氏は1970年代までインダス文明研究の第一人者*4で、その影響力は日本では今でも続いているという。

近年の発掘・研究の成果に基いて、ウィーラー氏の文明像は修正を迫られている。つまり、

  1. 上記2都市以外にも大きな都市遺跡が発見されている。
  2. メソポタミア文明とはかなり異なった文化文明を持っていて(ジグラットもなければ神官もいない)。
  3. アーリア人侵入以前にすでに衰退していた。

どうしてウィーラー氏は間違えたのか*5?1970年代までの発掘・研究が未発達だったという以外にも原因があると長田氏は主張する。それは長田氏の言葉を借りれば「権力闘争史観*6」だという。この言葉を理解するのに次の引用が必要だと思う。

都市のあり方を見るとき、権力中枢機能としての都市だけを考えるべきではありません。そうした考えの背景にあるのは、西洋中心主義的な発展段階説で、それによれば原始共産社会があって、奴隷制古代社会があって、封建社会があって、封建社会の中に中世の自由民の都市が生まれて……というようなイメージでしか都市が発想されません。

出典:長田俊樹・杉山三郎・陣内秀信/文明の基層: 古代文明から持続的な都市社会を考える /東京大学出版会/2015/p25/上記は長田氏の筆

長田氏の言う権力闘争史観=マルクス主義史観そのものかと思ったが、「西洋中心主義的な発展段階説」と書いているので、社会進化論全般のことを言っているのかもしれない。ちなみに有名な考古学者であるゴードン・チャイルド*7マルクス主義者だ。

新しいインダス文明の文明像(長田氏の文明像)

近年の発掘・研究の成果を踏まえて、長田氏は新しいインダス文明像を描くことを試みている*8。氏が挙げる主張を、すべてではないが、ここに書いておく。

インダス文明は「大河文明」ではなかった

四大文明と言うと、前回の四大文明の記事でも書いたが、大河に面した都市が農業・交易の両面で大河の恩恵に良くして発展をとげた、というイメージがある。メソポタミアやエジプトの地域では雨量が少なく大河の水を灌漑によって行き渡らせることで成り立っている。 インダス文明も、前述のウィーラー氏もそうだが、当然インダス川という大河の恩恵に浴した文明だと思われていた。

しかし長田氏によれば、近年の発掘・研究によりそのイメージが覆されたという。

f:id:rekisi2100:20170629043414p:plain

出典:Indus Valley Civilisation<wikipedia英語版*9

上はインダス文明の範囲だが、まず海岸沿いの地域は明らかに大河に依存していない。また、上の地図で点線で描かれている(今は存在しない)ガッカル・ハークラー川はインダス文明期は雨季だけに水が流れる季節河川だということが分かっている*10

インダス文明の農業の実態

上記のように、エジプト・メソポタミアの大河文明は雨量が少ないため冬作物が作られていた。

では、インダス文明の作物はどうか。上の地図を参照。

  • インダス川の中下流域は雨量が少ないため冬作物(麦類)が作られた。
  • 東南部は雨量があった(モンスーン)のため夏作物(雑穀類)が作られた。
  • 北東部はある程度雨量があるところで冬作物・夏作物の両方が作られていた。

エジプト・メソポタミアと同じように灌漑を行って麦類を作っているのはインダス川の中下流域だけだ。インダス文明は、乾燥地域とモンスーン地域にまたがっているため、二つの大河文明と全く同じとはなりえない。そういう意味でもインダス文明は大河文明ではなかった。

統治システム

さて大河文明とインダス文明の違いにもう一つ、統治システムがある。

エジプト・メソポタミアには強力な権力が存在し、ピラミッドやジッグラトのような大建造物を有する。これに対しインダス文明はそのような形跡はない。現在の学者の見解では、世襲のエリート、中央集権的国家、戦争の三つの要素が無いということで一致をみているらしい*11インダス文明にも権力者の富の象徴である穀物倉があると長い間思われてきたが、これも否定された、と長田氏は主張している。

流通ネットワーク

ランデル・ローという研究者が、ハラッパーの出土品を調べ、イヤリングやブレスレット等に使われた鉱物がどの地域からやってきたかという研究をしました。その結果、図30のようなネットワークの存在が浮かび上がってきました。彼いわく、まず船で河川を運んでいき、地上波牛車を使って – インダス文明期にはすでに牛車のミニチュアが作られていますが、同様の牛車は今も使われています – 運んできたと言います。船もメソポタミアペルシア湾岸、イラン、オマーンからやってきました。こうしたネットワークが実証的に明らかになってきました。

f:id:rekisi2100:20170629051654p:plain

出典:長田俊樹・杉山三郎・陣内秀信/文明の基層: 古代文明から持続的な都市社会を考える /東京大学出版会/2015/p23-24/上記は長田氏の筆

強力な権力者のいない、つまり富の集中の無いインダス文明でどうして上のように多くの鉱物が必要だったのか?それはメソポタミアへの輸出のためだった。

カースト社会

長田氏は現在の南アジアのカーストインダス文明に起因することを示唆している。

現在の南アジアはカースト社会です。カーストというと、上下関係ばかりが問題になっていて、人間は生まれながらに平等であると言われてきた我々にとっては、それだけで許せないと思いがちです。しかしカーストというのは、本来、多民族、多言語の職能分離社会ということで、実はインダス文明の当時もこの職能分離大系というものがあって、沙漠の中に点在する遺跡もそういう人たちが家畜とともに暮らした跡ではないかと思われるのです。職能によって色いろな階層に分かれた人たちがいると、お互いをお互いが必要とする。そうしたレシプロカルな状態、相互に依存し合う状態でないと成り立たない社会だというところに、私たちはもっと注目すべきではないか。

出典:長田俊樹・杉山三郎・陣内秀信/同著/p24-25

滅亡・衰退について

長田氏には上述した二つの本の他に『インダス 南アジア基層世界を探る (環境人間学と地域)』(京都大学学術出版会 2013)という本があり、インダス文明の衰退について詳しく書いてあるという。

インダス 南アジア基層世界を探る (環境人間学と地域)

インダス 南アジア基層世界を探る (環境人間学と地域)

Amazonの説明欄によると「その衰退の原因は、劇的な天災でも戦争でもなく、ネットワークの崩壊だった」とある。しかし残念ながら手元にないので内容は分からないので、『文明の基層』に書いてあることから読み取るしかない。

一般的にインダス文明の衰退(滅亡)についてはよくわかっていない。「インダス文明wikipedia」にもあるように諸説があるいっぽうで「それらの説が組み合わさって滅亡した」という説もある。

これに対して長田氏はまず「何が衰退か」について考え、インダス文明の衰退はそのネットワークの消失だと定義する*12。ネットワークの消失の証拠はコミュニケーションツールとしてのインダス印章やインダス文字が通用しなくなったこと。

そして衰退後、インダス文明を支えていた人たちは「そういうネットワークに頼らなくても十分に暮らせるような地域に」移動していった、という。その候補地の一つが肥沃で水の心配がほとんどないガンジス川流域だった。

とりあえずこれだけ。上記の本が読めたらここを修正しよう。

長田氏のインダス文明

以上を踏まえて、まとめとして、長田氏は以下のように記している。

先ほど雨季と乾季という話をしましたが、水がなくなったらその場所にとどまる必要はないでしょう。また移動すればいいのですから。こういう発想から言えば、戦うというのは、要するにその場所を必要とする、あるいは堅持したいという欲求の中から生まれます。しかし、流動性が高いとそもそも争いというものが必要であるのかどうか。根本的な疑問もわきます。小都市のネットワークというインダス文明のイメージには、中央集権や戦争といった今日的な事柄を考える上での貴重な示唆がある、と私は考えています。

出典:長田俊樹・杉山三郎・陣内秀信/同著/p25

権力闘争史観を批判するあまりに理想論にかちすぎているような気がする。

  *  *  *

以上、長田氏の主張を紹介した。

再びインダス文明の衰退

近藤英夫氏の説。

インダス文明の滅亡時期については、前1900年頃とする研究者と前1800年頃とする研究者がいる。それはさておき、同文明の滅亡は突然にではなく、ある時期幅の中で進行し、終末を迎えたとするのが普通であるようだ。近藤英夫氏はそれを前1800年頃とし、この頃以降、メソポタミアの文書に「メルッハ」に関する記事が途絶えることを指摘する。そしてインダス河口部の地殻変動を原因とする河川の流路変更、それによる主要都市の廃絶もしくはスラム化、耕地における塩害の発生など、複合的な原因による都市文明の崩壊を指摘している。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ: 知られざる海洋の古代文明/筑摩選書/2015/p241



*1:長田俊樹/インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す (学術選書) /京都大学学術出版会/2013/p78-87

*2:ロバート・エリック・モーティマー ウィーラー<20世紀西洋人名事典(1995年刊)<日外アソシエーツ<コトバンク参照

*3:長田氏は「神話」と書いている

*4:長田氏/同著/p278

*5:もしかしたら今後の発掘・研究で「やはり正しかった」となる可能性もゼロではないが

*6:長田俊樹・杉山三郎・陣内秀信/文明の基層: 古代文明から持続的な都市社会を考える /東京大学出版会/2015/p22/上記は長田氏の筆

*7:ゴードン・チャイルド<wikipedia参照

*8:長田俊樹/インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す (学術選書) /京都大学学術出版会/2013/第7章 新しいインダス文明像を求めて

*9:ダウンロード先はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilisation#/media/File:Indus_Valley_Civilization,Mature_Phase(2600-1900_BCE).png

*10:長田氏/2013/p161

*11:長田氏/2013/p269

*12:長田俊樹・杉山三郎・陣内秀信/同著/p22-23

文化と文明について

オンライン辞書から

ぶん‐めい【文明】
人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。

出典:文明<デジタル大辞泉<小学館<コトバンク

次に文化。

ぶん‐か〔‐クワ〕【文化】
人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。(中略)

[用法]文化・文明――「文化」は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で、世代を通じて伝承されていくものを意味する。◇「文明」は人間の知恵が進み、技術が進歩して、生活が便利に快適になる面に重点がある。◇「文化」と「文明」の使い分けは、「文化」が各時代にわたって広範囲で、精神的所産を重視しているのに対し、「文明」は時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重きを置くというのが一応の目安である。「中国文化」というと古代から現代までだが、「黄河文明」というと古代に黄河流域に発達した文化に限られる。「西洋文化」は古代から現代にいたるヨーロッパ文化をいうが、「西洋文明」は特に西洋近代の機械文明に限っていうことがある。(以下略)

出典:文化<デジタル大辞泉<小学館<コトバンク

「それぞれの民族・地域・社会に固有の文化」とあるが、ここらへんがクセモノで、「東京の下町文化」という小さい地域から「西洋文化」という大きな地域まで言うことができる。

なぜそれが可能かというと「外の地域」が存在するからだ。西洋の外があるから外と比べれば内の西洋の共通の文化が挙げることができるから「西洋文化」という言葉が成立する。

だから「地球文化」という言葉はおかしい。仮に地球外に知的生命体が存在して文化があることも分かれば、それに対比した「地球文化」が成立するだろう。

私の定義

以上も踏まえて私なりに二つの言葉を定義すると以下のようになる。

「文化」とは慣習である。文化=慣習とは、生活上の習慣(挨拶、食事など)から冠婚葬祭、ものの考え方(mindset、習性となった考え方,思考態度[傾向] )などが含まれる。


「文明」とは利器である。文明=利器とは、人の生活を向上させる道具のことであり、大きくわけてハードウェアとソフトウェアの二つがある。
ハードウェアは、古代からあるものは城壁や道路などのインフラなど、現代においてはコンピュータや自動車など。
ソフトウェアはシステムと言い換えることもできる。古代からあるものは文字システムや王政、民主制など、現代においては金融ネットワークシステムや大戦を抑止する国連・G7・G20などがそれである。

ただし文明が興る時は、その興った地域の支配民族or多数民族の文化が土台となって誕生する。

例えば文明のカテゴリーに入る法律は、その支配民族or多数民族の文化(=慣習・常識)が土台となって誕生する。

文明:ゴードン・チャイルド氏の10項目

文明に対する厳密な定義というものはないようだ。

ある地域が文明の段階にあるのかどうかを判断する場合、幾つかの「文明的な要素または指標」というものがあり、これらが幾つあって、どのような状況かを見て各学者が判断している。学者たちの間で判断が違うことも少なくない。

ここでは、古いが有名な都市(化)の指標(要素)であるゴードン・チャイルド氏の10項目(Childe 1950: 9–1 6)*1を見てみよう。

  1. 大規模集落と人口集住
  2. 第一次産業以外の職能者(専業の工人・運送人・商人・役人・神官など)
  3. 生産余剰の物納
  4. 社会余剰の集中する神殿などのモニュメント
  5. 知的労働に専従する支配階級
  6. 文字記録システム
  7. 暦や算術・幾何学天文学
  8. 芸術的表現
  9. 奢侈品や原材料の長距離交易への依存
  10. 支配階級に扶養された専業工

上の指標は西アジアとヨーロッパの考古学における指標なので、他の地域に全て当てはまるかどうかは分からない。また地域によってこれら以外の指標が存在するはずだ。

さらには古いとか時代遅れだとかいう批判もあるようだ。

しかしこれに取って代わるような使いやすい指標が登場していないので、今だにこの指標が存在意義を持っている。

文化と文明

峻別できない「文化と文明」

「文化と文明」の違いについて詳しく区別できないようだ。

幅広く用いられていた「文明」という言葉
フランス語のcultureという単語には、20世紀の初め頃まで、現在の「文化」という単語が持つ「一時代、一国家における文学・芸術・宗教・道徳などの精神活動全体」という意味が含まれていませんでした。その代わりに用いられていたのは、civilisation(文明)という単語です。フランスの人々はこの一語によって、人間の活動の物質的な成果と精神的な成果の両方を表そうとしました。フランス的「文明」は「普遍性」「進歩」「人類」などの価値を重視していましたが、それは時に、文明のない地域を啓蒙するという理屈から、植民地主義と結びつく傾向にもありました。

フランス的「文明」とドイツ的「文化」の対立
一方、隣国のドイツでは、kultur(文化)とzivilisation(文明)という言葉が併用されていました。当初、両者の意味に大きな違いはありませんでしたが、kultur(文化)がzivilisation(文明)より価値が高いとする傾向は存在しました。フランス的「文明」が「普遍性」「進歩」「人類」などに価値を見出していたのに対し、ドイツ的「文化」は「個別性」「伝統」「民族」といった価値を重視しました。
やがて、フランス的「文明」とドイツ的「文化」は、明確に対立する二つの言葉として、敵対するフランスとドイツの価値観の象徴となり、第一次世界大戦における両国間の凄惨(せいさん)な戦いにつながっていきました。

出典:フランスには「文化」が存在しなかった?<夢ナビ 執筆:鈴木啓二

以上を踏まえて、二つの言葉が日本で(訳語として)生まれた頃の話をしよう。

訳語「文明」の出現

新装版 比較文明 (UPコレクション)

新装版 比較文明 (UPコレクション)

伊東俊太郎氏は*2、「日本において“文明”を最初に論じた書物は、福沢諭吉の『文明論之概略』(明治8年、1875)だといってよい」と書いている*3(ただし福沢がこの言葉をつくったとは書いてなかった)。同時代の西周(にしあまね)は文明ではなく“開花”という言葉をつかったが、明治の中頃から大正にかけて文明という言葉が定着した*4

訳語「文化」の出現

文化の誕生の瞬間もよく分からないが、伊東氏によれば明治の中頃から大正にかけて使われだした*5三宅雪嶺の『真善美日本人』(政教社 1891)に見られるという。

この「文化」の意味は上で紹介したとおり、ドイツから流入したものだ。当時の明治日本は西洋文明の輸入先をドイツに傾けていったようだ。

1871年(明治4)、普仏戦争でドイツの前身であるプロシアが勝利した結果、日本政府は陸軍の組織や戦術をフランス方式からドイツ方式へと変えた。[中略]

陸軍、医学、語学の分野でドイツからの文化導入が大きくなったことにより、哲学や法律、さらには経済といった分野まで、日本はドイツの影響を強く受けるようになった。昭和になると、まさにドイツの教育制度をそのまま入れたかたちで国民学校が設立された。

そして、日本人が最初にドイツ哲学を学んだとき、そこでは歴然と「文明」というものと「文化」というものを分けていた。つまり、「クルツール」という言葉を使っていた。その訳語として、初めて日本人が民族に固有の生き方を「文化」という言葉で捉えようとしたのである。

出典:松本健一/砂の文明 石の文明 泥の文明/岩波現代文庫/2012(2003年の新書の文庫版)/p27

上の話でいくと、「文化」という言葉が定着したのは昭和に入って以降ということになる。

砂の文明 石の文明 泥の文明 (岩波現代文庫)

砂の文明 石の文明 泥の文明 (岩波現代文庫)

「文化と文明」―対立か、連続か

以上のように文化と文明はその言葉の生い立ちも含めて対比される言葉ではある。

しかしこれと異なり、文化と文明は連続するものという捉え方がある。例えば古代イラクメソポタミア)ではウバイド文化からシュメール文明に変わり、古代中国においても複数の◯◯文化が黄河文明を生んだ。ここで使われる文化・文明は以上のような対比する意味では使われていない。

結局、“文化と文明”については二つの考え方があることになる。一つは、文化と文明は本質的に連続したものであり、文明は文化の特別発達した高度の拡大された形態であるとするものである。したがって最初の原初的な状態は“文化”であり、それがある高みにまで発展して、広範囲に組織化され制度化されたものになると“文明”になるという考え方である。たとえば「エスキモー文化」とはいうが、「エスキモー文明」とはいわない。またアフリカのマンデ族の文化とはいうが、マンデ族の文明とはいわない。また石器時代の「アッシュール文化」とはいうが、「アッシュール文明」とはいわない。それに対してもっと広範囲に発展して高度に組織化され、もっと全体的な大きなボディをなしてきたものには、たとえば「エジプト文明」「中国文明」「ヨーロッパ文明」というような言い方をする。これが主としてアングロサクソン系の文化人類学などで用いられる用法ではないかと思う。

もう一つの“文化と文明”に対する考え方は、“精神文化”と“物質文明”というように、これが連続的なものではなく、かえって対立したものとして捉えるものである。つまり哲学、宗教、芸術のような精神文化と、科学、技術というような物質文明は本質的に異なっており、一方は内面的なものであり、他方は外面的なものであり、一方は個性的なものであり、他方は普遍的なものであり、一方は価値的なものであり、他方は没価値的なものである、というような対立でとらえていく。これは主としてドイツの文化哲学や文化社会学の用法で、これが日本語の“文化”や“文明”のニュアンスにも入っているのではないかということは前にも述べた。もっとも日本語のなかには第一の“文化”や“文明”の意味も、はっきりと自覚されてはいないが、やはり併存しているように思う。

出典:伊東氏/同著/p13-14

文化・文明という言葉には注意が必要

文化と文明の両方はヨーロッパ文明の言葉からの訳語だ。両者の意味は、辞書の定義でも事足りるとは思うが、上のような経緯を知っているとより深く文章を読むことができるのではないか。もっとも、書き手/読み手がどれほどの知識を持っているかという問題もあるが。



*1:小泉龍人/都市論再考─古代西アジアの都市化議論を検証する─/2013(PDF

*2:伊藤俊太郎/新装版 比較文明/東京大学出版会/2013(1985年の再販)

*3:p2

*4:p5

*5:p5-6

「四大文明」は学説でも仮説でもなく、ただのキャッチフレーズだった

書店には『これ一冊で分かる世界史』のような類の本が並んでいる。こういった本ではほとんどが「四大文明」から始まっている。私の学生時代と現在と少し違う点があるとすれば、黄河文明の代わりに中国文明という言葉が用いられていることくらいだ。

しかし最近では高校や中学の歴史教科書から「四大文明」という言葉が消えた、なんて話がある。教科書を読む機会がないのですべての教科書から消えたかどうかは分からないが、少なくともこの言葉を習ったことのない人が存在するらしい。ちなみに2014年に出版された高校世界史の参考書である『詳説世界史図録』(山川出版)には「四大文明」は無かった。

古い人間(?)の四大文明のイメージ

*よんだいぶんめい【四大文明

メソポタミア文明エジプト文明インダス文明黄河文明(または長江文明をふくめて中国文明)のこと。いずれも気候が温暖な大きな川の流域に,紀元前3000〜前1500年の間におこった。

〔文明の誕生〕 農業がすすみ,かんがいや排水工事によって生産が安定・増大し人口がふえると,大きな集落ができ,食料生産以外の仕事を専門にする人や,工事や軍事や宗教の中心となる指導者があらわれた。こうして都市が生まれ,平等だった人々は王や貴族や自由民や奴隷という,階級に分かれて,国家が発生した。そして,みつぎものや占いの記録を正確にのこすため,文字がつくられた。

出典:四大文明<ニューワイド学習百科事典<学研キッズネット

以上のような説明が私の四大文明のイメージだった。十年以上前に高校を卒業した方々もこのように教わったのではないだろうか?

他国には「四大文明」なんて言葉は使っていない?

ネット検索してみて分かったことは、「四大文明」という言葉はほとんど日本のローカルな言葉で他国では中国や韓国が使っているかどうかで他の国は使っていないらしい。

ameblo.jp

上のブログ記事によると、竹田恒泰氏によれば「四大文明」という「学説」は「学問の世界では今や完全に否定されている」とのことだ。

wikipediaで「世界四大文明」というページがあるが、このページの英語版を見たら「Cradle of civilization」となっており、Old World(Mesopotamia、Egypt、Indus Valley、China)の4つとNew World(Central Andes、Mesoamerica)の2つ、計6つが紹介されていた。

欧米での世界史古代の見解はまったく知らないが、マクニールの『世界史』は四大文明という言葉こそ使われていないものの、だいたい四大文明と同じような歴史観で書かれている(ユーラシア大文明と書かれている)。タミム・アンサーリー著『イスラームから見た「世界史」』も同様だ。

とりあえず、似たような認識はあるものの、「四大文明」という言葉は使ってない。

四大文明」は学説でも仮説でもなかった

四大文明」というと中国人(漢人?)の梁啓超が作った言葉だと言われるが、少なくとも彼が広めたわけではないようだ。

「文明<wikipedia」の注釈の欄に以下のような文章があった。

金沢大学教授の村井淳志は、この「四大文明」は考古学者江上波夫による造語で、1952年発行の教科書『再訂世界史』(山川出版社)が初出であると2009年に発表した[8]。青柳正規は江上のこの造語について、かつてアジアには高い文明があったことを強調することで敗戦に打ちひしがれた日本人を鼓吹しようとする意図があったと推定している[9]。 また京都大学教授の杉山正明江上波夫が杉山に「四大文明」を広めたのは自分であると伝えたと回想している[10]。杉山によれば「ふと江上さんが「四大文明」という考えを日本に広めたのは自分だよと、愉快そうに笑われた。私は率直に、長江・ガンジス・マヤ・アンデスなども「文明」で、ざっと挙げても八~十個くらいはありますよとお答えした。ところが江上さんは、「四大文明」といったのは口調がいいからで、本当はいろいろあるさと大笑いされた。」と江上が述べたと記している。
このように「四大文明」を提唱した江上波夫も文明の数については四つに限定されるものではないとしており、また考古学的研究が世界の全地域をカバーするようになると、四大文明以外にも文明の定義を満たすような社会が次々に発見され、四大文明説は定説の座を降り、近年の研究書や教科書では「四大文明」について記述するものは少なくなってきている。現在でも池田誠など四大文明図式にもとづいた研究もあるが、このなかでもスキタイを加え5つの文明文化圏を分析している。中国文明については黄河文明のほか長江文明遼河文明についても最近は研究されている。後述するように現在でも文明の数の定説は論者によって様々であり、不確定である。

出典:文明<wikipedia

「世界四大文明wikipedia」の脚注にも同様なことが書いてある。

以上のように、学説でも仮説でもなく、ただのキャッチフレーズだった。「中国の三大悪女」とか「学校の七不思議」などと同じようなものだった。つまりは嘘とか否定されているようなそういうレベルの話ではなかった。

最後に後藤健氏の言葉を引用。

メソポタミア文明エジプト文明インダス文明中国文明は]旧世界における人類最古の文明、いわゆる「古代の四大文明」として、我が国では1950年代初め以来、学校教育の場で取り上げられてきた。[中略]

しかし「四大文明」なる言い方は「言いえて妙」ではあるが、「学説」などではなく、所詮は半世紀以上前に作られたもっともらしい言い回しに過ぎない。「御三家」とか「七福神」のように、ある数からなるセットで覚えておきましょうという、教育者による思いつきに過ぎないのである。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015



【はてなブログ】markdownモードで、ほぼストレスフリーに

markdownモード」がいい、というよりは「見たままモード」がダメという話。

「これからブログを始めよう」という人、「でもmarkdownって難しそう」という人は参考にしてください。

私もmarkdownの1/100も知らないし、HTMLに関しては1/10000も知りません。でも使ってます。

難しいことをしなければ覚えることは ほんの少しだけ。ほんの少しの努力で「見たままモード」の煩わしさから開放されます。

markdownを(ほんの少しだけ)覚えて、ブログライフを楽しみましょう!

見たままモードについて

help.hatenablog.com

見たままモードは一般に(おそらく)WYSIWYGと呼ばれているもので、FC2ブログなど多くのブログで採用されている。私は はてなブログ以外のブログを幾つも使ったことがあるがすべてWYSIWYGで書いていた。

しかしこれで書くとストレスが溜まる。ミスを多発する。意図しないところが太字になったりインデントになったりする。もちろん原因は私のミスにあるのだが、WYSIWYGはちいさなミスを大失敗に変える力を持っている。

どうして上のようなミスが起こるのかは、HTML画面を見れば分かる。ミスをすると例えば、太字の<b>タグに意図しない文字列を加えられている。つまり<b>~</b>の間に意図せずに文字列が入ってしまうことがよくあった。はてなの記事編集画面ではHTML画面があるのだが、この画面も見にくい。

そして上のようなケアレスミスを直しているうちに書こうとしている内容を忘れてしまうという。「さっきの書いたお手紙な~に」というやつだ。

もう記事を書くモチベーションが無くなるところかブログを続ける気力すら無くなる。

  *   *   *

さて、これを解消してくれるのがmarkdownモードだ。

Markdownモードについて

Markdownの詳細についてはここでは触れない。実は私はほとんど分かっていない。Markdown記法なんて4つしか覚えていないのだから。

私がMarkdownモードで書こうと決断したのは以下のブログ記事を読んだからだ。私と同じような悩みを持ってそしてMarkdownにたどり着いたようだ。

dokuwohaku.hateblo.jp

上のブログ主さんは「私が覚えたMarkdown記法は今の所4つだけ」とおっしゃっているが、私も4つだけ。私の場合は「見出し、引用、リスト、水平線」だけ。

  • 見出し:「##、###、####」(大見出し、中見出し、小見出し)。
  • 引用:「>」
  • リスト:「+ 」(半角のプラスと半角のスペース)、
  • 数字リスト:「1. 」(最後はスペース、全て半角)
  • 水平線:「---」(私は本文と脚注の間を示すために使っている)

改行は<br>タグを日本語変換システムに単語登録すればOK(行末に半角スペースを2個するのは後で確認するのが面倒)。そのほか、太字などの文字装飾やリンク、脚註などは記事編集画面の入力補助ツールバーに有り、画像貼り付けはサイドバーにあるものを使えばいい。その他必要なものはその時にググればいい。頻繁に使わないものはどうせすぐ忘れるのだから。

もう一つ、リンクだが、これは各ブラウザにリンク作成の拡張機能がある。私はfirefoxを使っているが「Format Link」という拡張(アドオン)がある。

最後に。上に紹介したブログ記事にも書いてあったが、少々のHTMLの知識を持たなければならないが、私の場合は10個くらいしか覚えていない。興味あったものでも使わなければ忘れてしまう。

おまけ:markdown以外の記法(?)を2つ載せておく。

1つ目。非表示コメント

ブログに表示させたくないが、ブログ編集画面には表示されるようにしたい(書き留めておきたい)ことがよくあると思う。そういう時は以下のように書く。

<!ーーここにコメントーー>
  • 全角で書いているが、本当は半角(半角で書いたらコマンドが発動してしまうため)。
  • これはhtmlのものらしい。

2つ目。画像にリンクを貼る方法

【はてなブログ】markdownモードで、画像にリンクを貼る いちばん簡単な方法 - 歴史の世界」を参照。



【カスタマイズ備忘録】強調したい文章を枠で囲って背景色をつける

HTMLでやる方法

次のようなもの

強調して大事なところだと印象づける、
または、後で見直した時に素早く見つけることができるための
細工

これをどうやってやるか。

HTMLは次のとおり

 <div style="padding: 10px; margin-bottom: 10px; border-radius: 10px; background-color: #ffffcc;">
強調して大事なところだと印象づける、 <br />
または、後で見直した時に素早く見つけることができるための<br />
細工
</div>

以上は次のサイトを参照した。

HTMLのお勉強・枠をつける - ウェブサイト制作ツール紹介 Jimdo diy

ただし、CSSを使えば、もっと簡単に枠が使えるようになる。

CSS+HTMLで枠を書く

以下のブログで紹介されたもの

www.ituore.com

CSSに書くこと

.waku{
padding: 10px;
margin-bottom:
10px; border-radius: 10px;
background-color:
#ffff99;
}

「waku」の部分は自分の好きな文字列でいい。上記に紹介したブログのように「accent-box」でもいい。

波括弧{}の中身、「padding」以降は上記「HTMLでやる方法」の中身をCSSに書いただけ。

HTMLに書くこと

<div class="waku">
強調して大事なところだと印象づける、
または、後で見直した時に素早く見つけることができるための
細工
</div>

divやclassはHTMLの言葉(?)なのでそれに詳しいページ参照。

注意事項

divタグで囲まれた中ではmarkdownの記法は使えない。

HTMLは使えるのでそちらを活用スべし。