歴史の世界

文化と文明について

オンライン辞書から

ぶん‐めい【文明】
人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。

出典:文明<デジタル大辞泉<小学館<コトバンク

次に文化。

ぶん‐か〔‐クワ〕【文化】
人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。(中略)

[用法]文化・文明――「文化」は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で、世代を通じて伝承されていくものを意味する。◇「文明」は人間の知恵が進み、技術が進歩して、生活が便利に快適になる面に重点がある。◇「文化」と「文明」の使い分けは、「文化」が各時代にわたって広範囲で、精神的所産を重視しているのに対し、「文明」は時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重きを置くというのが一応の目安である。「中国文化」というと古代から現代までだが、「黄河文明」というと古代に黄河流域に発達した文化に限られる。「西洋文化」は古代から現代にいたるヨーロッパ文化をいうが、「西洋文明」は特に西洋近代の機械文明に限っていうことがある。(以下略)

出典:文化<デジタル大辞泉<小学館<コトバンク

「それぞれの民族・地域・社会に固有の文化」とあるが、ここらへんがクセモノで、「東京の下町文化」という小さい地域から「西洋文化」という大きな地域まで言うことができる。

なぜそれが可能かというと「外の地域」が存在するからだ。西洋の外があるから外と比べれば内の西洋の共通の文化が挙げることができるから「西洋文化」という言葉が成立する。

だから「地球文化」という言葉はおかしい。仮に地球外に知的生命体が存在して文化があることも分かれば、それに対比した「地球文化」が成立するだろう。

私の定義

以上も踏まえて私なりに二つの言葉を定義すると以下のようになる。

「文化」とは慣習である。文化=慣習とは、生活上の習慣(挨拶、食事など)から冠婚葬祭、ものの考え方(mindset、習性となった考え方,思考態度[傾向] )などが含まれる。


「文明」とは利器である。文明=利器とは、人の生活を向上させる道具のことであり、大きくわけてハードウェアとソフトウェアの二つがある。
ハードウェアは、古代からあるものは城壁や道路などのインフラなど、現代においてはコンピュータや自動車など。
ソフトウェアはシステムと言い換えることもできる。古代からあるものは文字システムや王政、民主制など、現代においては金融ネットワークシステムや大戦を抑止する国連・G7・G20などがそれである。

ただし文明が興る時は、その興った地域の支配民族or多数民族の文化が土台となって誕生する。

例えば文明のカテゴリーに入る法律は、その支配民族or多数民族の文化(=慣習・常識)が土台となって誕生する。

文明:ゴードン・チャイルド氏の10項目

文明に対する厳密な定義というものはないようだ。

ある地域が文明の段階にあるのかどうかを判断する場合、幾つかの「文明的な要素または指標」というものがあり、これらが幾つあって、どのような状況かを見て各学者が判断している。学者たちの間で判断が違うことも少なくない。

ここでは、古いが有名な都市(化)の指標(要素)であるゴードン・チャイルド氏の10項目(Childe 1950: 9–1 6)*1を見てみよう。

  1. 大規模集落と人口集住
  2. 第一次産業以外の職能者(専業の工人・運送人・商人・役人・神官など)
  3. 生産余剰の物納
  4. 社会余剰の集中する神殿などのモニュメント
  5. 知的労働に専従する支配階級
  6. 文字記録システム
  7. 暦や算術・幾何学天文学
  8. 芸術的表現
  9. 奢侈品や原材料の長距離交易への依存
  10. 支配階級に扶養された専業工

上の指標は西アジアとヨーロッパの考古学における指標なので、他の地域に全て当てはまるかどうかは分からない。また地域によってこれら以外の指標が存在するはずだ。

さらには古いとか時代遅れだとかいう批判もあるようだ。

しかしこれに取って代わるような使いやすい指標が登場していないので、今だにこの指標が存在意義を持っている。

文化と文明

峻別できない「文化と文明」

「文化と文明」の違いについて詳しく区別できないようだ。

幅広く用いられていた「文明」という言葉
フランス語のcultureという単語には、20世紀の初め頃まで、現在の「文化」という単語が持つ「一時代、一国家における文学・芸術・宗教・道徳などの精神活動全体」という意味が含まれていませんでした。その代わりに用いられていたのは、civilisation(文明)という単語です。フランスの人々はこの一語によって、人間の活動の物質的な成果と精神的な成果の両方を表そうとしました。フランス的「文明」は「普遍性」「進歩」「人類」などの価値を重視していましたが、それは時に、文明のない地域を啓蒙するという理屈から、植民地主義と結びつく傾向にもありました。

フランス的「文明」とドイツ的「文化」の対立
一方、隣国のドイツでは、kultur(文化)とzivilisation(文明)という言葉が併用されていました。当初、両者の意味に大きな違いはありませんでしたが、kultur(文化)がzivilisation(文明)より価値が高いとする傾向は存在しました。フランス的「文明」が「普遍性」「進歩」「人類」などに価値を見出していたのに対し、ドイツ的「文化」は「個別性」「伝統」「民族」といった価値を重視しました。
やがて、フランス的「文明」とドイツ的「文化」は、明確に対立する二つの言葉として、敵対するフランスとドイツの価値観の象徴となり、第一次世界大戦における両国間の凄惨(せいさん)な戦いにつながっていきました。

出典:フランスには「文化」が存在しなかった?<夢ナビ 執筆:鈴木啓二

以上を踏まえて、二つの言葉が日本で(訳語として)生まれた頃の話をしよう。

訳語「文明」の出現

新装版 比較文明 (UPコレクション)

新装版 比較文明 (UPコレクション)

伊東俊太郎氏は*2、「日本において“文明”を最初に論じた書物は、福沢諭吉の『文明論之概略』(明治8年、1875)だといってよい」と書いている*3(ただし福沢がこの言葉をつくったとは書いてなかった)。同時代の西周(にしあまね)は文明ではなく“開花”という言葉をつかったが、明治の中頃から大正にかけて文明という言葉が定着した*4

訳語「文化」の出現

文化の誕生の瞬間もよく分からないが、伊東氏によれば明治の中頃から大正にかけて使われだした*5三宅雪嶺の『真善美日本人』(政教社 1891)に見られるという。

この「文化」の意味は上で紹介したとおり、ドイツから流入したものだ。当時の明治日本は西洋文明の輸入先をドイツに傾けていったようだ。

1871年(明治4)、普仏戦争でドイツの前身であるプロシアが勝利した結果、日本政府は陸軍の組織や戦術をフランス方式からドイツ方式へと変えた。[中略]

陸軍、医学、語学の分野でドイツからの文化導入が大きくなったことにより、哲学や法律、さらには経済といった分野まで、日本はドイツの影響を強く受けるようになった。昭和になると、まさにドイツの教育制度をそのまま入れたかたちで国民学校が設立された。

そして、日本人が最初にドイツ哲学を学んだとき、そこでは歴然と「文明」というものと「文化」というものを分けていた。つまり、「クルツール」という言葉を使っていた。その訳語として、初めて日本人が民族に固有の生き方を「文化」という言葉で捉えようとしたのである。

出典:松本健一/砂の文明 石の文明 泥の文明/岩波現代文庫/2012(2003年の新書の文庫版)/p27

上の話でいくと、「文化」という言葉が定着したのは昭和に入って以降ということになる。

砂の文明 石の文明 泥の文明 (岩波現代文庫)

砂の文明 石の文明 泥の文明 (岩波現代文庫)

「文化と文明」―対立か、連続か

以上のように文化と文明はその言葉の生い立ちも含めて対比される言葉ではある。

しかしこれと異なり、文化と文明は連続するものという捉え方がある。例えば古代イラクメソポタミア)ではウバイド文化からシュメール文明に変わり、古代中国においても複数の◯◯文化が黄河文明を生んだ。ここで使われる文化・文明は以上のような対比する意味では使われていない。

結局、“文化と文明”については二つの考え方があることになる。一つは、文化と文明は本質的に連続したものであり、文明は文化の特別発達した高度の拡大された形態であるとするものである。したがって最初の原初的な状態は“文化”であり、それがある高みにまで発展して、広範囲に組織化され制度化されたものになると“文明”になるという考え方である。たとえば「エスキモー文化」とはいうが、「エスキモー文明」とはいわない。またアフリカのマンデ族の文化とはいうが、マンデ族の文明とはいわない。また石器時代の「アッシュール文化」とはいうが、「アッシュール文明」とはいわない。それに対してもっと広範囲に発展して高度に組織化され、もっと全体的な大きなボディをなしてきたものには、たとえば「エジプト文明」「中国文明」「ヨーロッパ文明」というような言い方をする。これが主としてアングロサクソン系の文化人類学などで用いられる用法ではないかと思う。

もう一つの“文化と文明”に対する考え方は、“精神文化”と“物質文明”というように、これが連続的なものではなく、かえって対立したものとして捉えるものである。つまり哲学、宗教、芸術のような精神文化と、科学、技術というような物質文明は本質的に異なっており、一方は内面的なものであり、他方は外面的なものであり、一方は個性的なものであり、他方は普遍的なものであり、一方は価値的なものであり、他方は没価値的なものである、というような対立でとらえていく。これは主としてドイツの文化哲学や文化社会学の用法で、これが日本語の“文化”や“文明”のニュアンスにも入っているのではないかということは前にも述べた。もっとも日本語のなかには第一の“文化”や“文明”の意味も、はっきりと自覚されてはいないが、やはり併存しているように思う。

出典:伊東氏/同著/p13-14

文化・文明という言葉には注意が必要

文化と文明の両方はヨーロッパ文明の言葉からの訳語だ。両者の意味は、辞書の定義でも事足りるとは思うが、上のような経緯を知っているとより深く文章を読むことができるのではないか。もっとも、書き手/読み手がどれほどの知識を持っているかという問題もあるが。



*1:小泉龍人/都市論再考─古代西アジアの都市化議論を検証する─/2013(PDF

*2:伊藤俊太郎/新装版 比較文明/東京大学出版会/2013(1985年の再販)

*3:p2

*4:p5

*5:p5-6