歴史の世界

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前漢・景帝の治世/呉楚七国の乱

「文景の治」と文帝と並び称されるように、景帝の政治は文帝の継承するものだった。「文景の治」と言えば、仁政により安定した社会を築いたと言われるが、景帝は文帝の代から行われていた諸侯王抑制策も推し進めた。そしてこれが呉楚七国の乱につながっていく。約3200字。


前157年 文帝死去。景帝即位。
前157年 晁錯、内史(ないし、だいし、首都の長官)となる。*1
前156年 晁錯、御史大夫(副丞相)となり、「削藩策」を推し進める。*2
前154年 呉楚七国の乱(3ヶ月で平定。この最中に晁錯殺される)。
前143年 周亜夫獄死(景帝とは意見が合わなかった)。
前143年 景帝死去。武帝即位。


景帝即位と削藩策

まずは、景帝の即位の状況から。以下引用。

史記』「外戚世家」によると、文帝の五男として生まれた。4人の兄が早世し、生母の竇氏が正室に昇格したことにより文帝の嫡子となった。

出典:景帝<wikipedia

上のように景帝は他の皇帝らに比べてかなりスムーズに皇帝になることができた。このことは文帝の皇帝即位の事情と比較される。

つまりは

  • 外から皇帝になった文帝→慎重な政治
  • 嫡子・皇太子から皇帝になった景帝→積極な政治

という意味が込められている。

「積極な政治」とは、まず一つ目は晁錯を副丞相ともいうべき御史大夫に抜擢したこと。晁錯は賈誼(前回参照)と同意見の持ち主だが、景帝のお気に入りの人物で、内史に抜擢した時に丞相以下を退去させて晁錯と二人で話すほどだったという。*3

二つ目は、晁錯の提言である削藩策を実行したこと。削藩策とは諸侯王抑制策をさらに一歩進めた策で「藩」を「削減」する、つまり諸侯王の領地を削減する策のことだ。具体的には、「諸侯王に罪過があれば、これを宥免することなく、その封地を削減すべしということ」*4だ。宥免を繰り返した文帝との違いが際立つ。

削減された諸侯王は3つ。

  • 楚国:東海郡
  • 趙国:河間郡
  • 膠西国(斉国が分割してできた国):常山郡 *5

このような状況の中で諸侯王の不安・不満が溜っていった。そして、明日は我が身と思った呉王が反乱はこのような状況の中で起こった。

呉楚七国の乱

諸侯王国(参考)

f:id:rekisi2100:20170102085237p:plain:w300
出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p138

  • 上は高祖の治世の状況なので参考程度に。
  • 南部は領土は広いが人口が極めて少ないため、領土と国力が比例しないことに注意。人口は北中国に集中している。
  • 乱の前に斉国は七分割されている。
  • 諸侯王国はほぼ独立国であることは、乱の時まで変わらない(功臣粛清の記事も参照)。

呉国の状況

その[呉国]の封地は三郡五十三城におよぶ広大なものであった。かれ[劉濞]は以後四十余年にわたって呉国の経営につとめ[た]。[中略]

まず王国内の豫章郡(鄣郡の誤か)にある銅山を開発し、亡命の徒を集めて採鉱・鼓鋳(こちゅう)し、これによって銅銭を鋳造して流通させ、また海水を煮て塩を生産し、これを他国に販出して利益をあげた。そのため呉国においては、人民に賦税を課すことなくして国用が充足したといわれている。文帝時代には銅銭鋳造や製塩は中央政府の統制下にはなかったのである。

出典:西嶋氏、同著/p168-169

呉国は諸侯王国の中で最大最強の国になった。

首謀者、呉王劉濞

この乱の首謀者は呉王の劉濞。

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出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p186

劉濞は高祖劉邦の兄の劉喜(劉仲)の子で、英布の乱(前196年)に将軍として活躍した功績で呉王に封ぜられた。挙兵時は62歳で劉一族の中で最年長だった。

挙兵の遠因と決断

ある年に、長安に劉濞の世子・劉賢が父の名代として、長安に参内し、劉賢をねぎらう宴会が催されたが、宴会の余興(「博」と呼ばれる、今で言うボードゲームの一種)をめぐって、又従兄弟である皇太子・劉啓(後の景帝)と口論となり、皇太子が劉賢に向けて「博」の盤を投げ殺してしまった。この劉賢が殺害された事件と、その後の中央政府の対応に不満を抱いた劉濞は、諸侯王の義務である長安への入朝を、病と称して取りやめた。劉濞は諸侯王として、朝廷を軽視し、礼法を無視する態度で臨むようになった。朝廷の調査によって、劉濞が息子のことで、参内せず病と称したことが明らかになった。そのため呉の使者が都に派遣されると、朝廷から尋問を受けて抑留された。

出典:劉ビ<wikipedia

文帝はこれを劉濞が老齢だからということで不問にした。面倒事を避けたとも言える。

だが景帝に代がかわるとそうはいかない。景帝は晁錯を使って削藩策を実行している。

劉濞は何らかのアクションを起こさなくてはならなかった。平謝りに謝るか挙兵するかだが、劉濞の選択した行動は後者だった。

挙兵

前154年正月、呉王に豫章郡と会稽郡の二郡の削減命令が届いた。豫章郡は銅山開発地、会稽は海塩生産地。この削減命令が挙兵の最終的な決断のきっかけだった。

劉濞は他の諸侯王に呼びかけた。呼応したのは、領地を削減された楚王・趙王とさらに元の斉国から分割された7国の中から6国。しかし斉王と済北王は挙兵しなかったので結局7国となった(上の系図参照)。これにさらに外国の東越もこれに従った。挙兵の大義名分は「晁錯を中央から除く」こととした。

中央政府は、戦乱を避けるために大義名分を叶えるという行動に出た。つまり晁錯を処刑した。しかし乱はおさまらない。劉濞は東帝を自称し、戦況は予断を許さなかった。

しかし、反乱軍が中央政府側の軍に各地で足止めを食らっている状況で、太尉(軍事長官)の周亜夫が反乱軍の補給線を遮断したため、形勢は中央政府側に傾いた。

劉濞は東越へ逃れたが東越王が中央政府側に寝返り、劉濞を殺害した。他の反乱軍の諸侯王も敗走し自殺して、乱は鎮圧された。規模が大きかった乱だったが、わずか三ヶ月での出来事だった。

乱後の諸侯王統制策

次の二つ。

ひとつ目は、王国の「郡化」。乱の前までは、王国の丞相が中央政府に任命される以外は、諸侯王が諸官僚を任命していた。しかし乱後、中央政府は諸侯王国の丞相の官名を「相」とし、その他の中央政府の官僚と同名の官職(御史大夫など)はすべて廃止し、相にすべての権限が委譲した。諸侯王は租税の一部を与えられる存在に過ぎなくなった。

ふたつ目は、王国の「細分化」。諸侯王が死去すると中央政府はその王子たちに分封して細分化した。

このように諸侯王の権勢は限りなく抑制されたが、中央集権化の完成は武帝の代とされている。



*1:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p170

*2:同氏著/p170

*3:晁錯<wikipedia

*4:西嶋氏、同著/p170

*5:西嶋氏、同著/p170

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