歴史の世界

エジプト文明:先王朝時代⑤ ナカダ文化Ⅲ期 その1

ナカダ文化Ⅲ期は、先王朝時代の最後期、王朝時代の直前にあたる(もしかしたら王朝時代の初期まで含むかもしれない)。

ただし、Ⅲ期のあいだにすでに「王」が誕生しており、この時期は「原王朝」「第0期王朝」と呼ばれることもある*1

Ⅱ期後半からエリート層を含む政治勢力形成が急速に進んだが、Ⅲ期の遺跡では神殿や王宮の址が発見されている。文字の誕生もⅢ期まで遡ると言う。

現在、エジプト文明の誕生は第1王朝(初期王朝時代)の誕生とされているようだが、文明の諸条件はすでにナカダⅢ期(先王朝時代)に出揃っていた。*2

この記事では文化について書く。別の記事で王朝の出現と都市の出現について書く。

文化の拡張

ナカダ文化はⅡ期の終わりまでに下エジプト(ナイルデルタ)を飲み込んだが、ナイルデルタの北の頂部(メンフィスの辺り)は空白地帯になっていた、ということは前回にやった。

Ⅲ期になるとこの地帯に大型の墓地が築かれた。またデルタ地帯への拡張は東部を中心に広がっていった(高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p201)。文化の拡張に追いつくように政治的影響が急速に広まっていった。

交易

交易について。先に言っておくが、ナカダ文化は下エジプトにも拡張したが、その中心は、文化的にも政治的にも、Ⅲ期も引き続き上エジプト南部のままだ。これを踏まえた上で交易のネットワークを考えよう。

交易はⅡ期後半に活発化し、下エジプトに拠点を作り、おそらく植民も行われた。しかし交易ルートの支配は不完全だったようで、中距離貿易どまりだった。

これがⅢ期になると、下エジプトは上エジプトの勢力下に入り、南パレスチナにまで交易ルートの拠点が置かれるようになる。エジプト製土器あるいは(地元で作られる)エジプト様式の土器が多数出土する場所(エン・ベソルなど)は、行政中心地と考えられている(高宮氏/2003/p93)。

さらにヌビア方面では下ヌビアの南端(第2急湍)まで直接接触していたと推測されている。(p173)

このように遠距離交易網が確立され、上エジプト南部の政治勢力の交易独占は達成された。

専門化

Ⅱ期後半以降、専門化による大量生産は始まっていたが、Ⅲ期に入ると、支配者から独立した職業集団が現れた。

高宮氏は、各地の土器のヴァリエーションが減って規格化された「オレンジ色の胎土で制作された比較的単調な土器」が増加したこと、大型土器が増えたこと、回転台を用いて口縁部付近を整形された土器が急増したことなどを挙げて、以下のように書いている。

このように規格化、熟練した技術および大量生産は、かねてから指摘された経済的な効率化に起因する専門家の発達を示唆し、従属だけではなく、独立の専門家によっても引き起こされ得る現象である。

出典:高宮氏/2003/p194

  • 上の説明を読むと、独立の専門家といっても、商業の発達というよりも、公的事業の下請けという感じがする。

大量生産は、規格化による大量生産のほかに、交易の頻繁化により土器の大量生産が必要不可欠になったという面がある。つまり、土器および内容物の交易が頻繁に行われた結果、大量生産が必要だった。



*1:高宮氏/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p36

*2:時代区分が決まった後の発見や研究成果の結果、こういったズレがでることは少なくないようだ。古代日本史における縄文時代弥生時代の境界もズレがある事例の一つと言えるだろう。