歴史の世界

エジプト文明:古王国時代⑥ ピラミッド史の流れ その1

古代エジプト人は来世に強い関心を持っていることは以前に書いた(古代エジプト人の来世観 )。王だけでなく、古代エジプト人は来世で再生復活することを考えて、墓をどのような構造にするかを考えた。ピラミッドは当時の王の宗教的表現の1つと言える。

さて、ピラミッドの歴史を書いていこう。この記事では、第4王朝初代スネフェル王のところまで。

【先史】初期王朝時代の王墓と高官墓

初期王朝時代にピラミッドは無かった。

第1王朝初代ナルメル王の墓は比較的小規模なものだったが、第2代アハ王からは大規模化した。第1王朝8代の王たちの墓は見つかってはいるが、発見されているのは いずれも地下構造のみである*1

地上建造物は残っていないが、第3代ジェル王からの基本的に同じ構造で、玄室(棺を納める部屋)を低いマウンドで覆い、それを日乾レンガで直方体にして覆い、さらにそれより大きなマウンドで覆った、とされている。このマウンドは「原初の丘」をイメージして造られた、と考えられている*2。原初の丘については「ピラミッドと太陽信仰」で書いた。

地下構造は玄室の他にいくつもの部屋があるが、生前の王宮環境を模したものとされている*3。これは墓を「来世の家」と考えていたことから想定される。

第1王朝でピラミッド建造に直接つながる建造上の発明(?)がある。

第5代デン王の墓から、外から玄室に続く階段が設けられるようになった。階段が設置されたことで、玄室を深い位置に造られるようになっただけでなく、墓の建造後に遺体を埋葬することが可能になった。この構造変化は、後のピラミッドや大型マスタバのように、墓主の生前から大型墓を築く伝統の出現と密接に関係するであろう。

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ヘテプセケムウィ[第2王朝初代王]王墓の地下回廊施設(サッカラ)(Stadelmann 1985 : abb. 10)

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p138-139

玄室の他に、副葬品を納める複数の細かい部屋が多数設けられているが、これは第3代ジェル王からの伝統である。

「マスタバ」についてはすぐ後に書く。

マスタバ

第4王朝の頃までは高級官僚は ほとんど王族で占められていた。だから高官墓≒王族墓と考えていいかもしれない。

第1王朝では王墓はアビュドス(初代ナルメル王の出身地)に建造されたが、高官墓はサッカラ(王都メンフィスの墓地)に建造された。

高官墓は「マスタバ」と呼ばれている。マスタバはアラビア語でベンチを意味するが、現代エジプトにおける背もたれのないベンチと直方体の高官墓が似ていることからこの名がつけられた。高官墓は大型のもので40mを超えるものもある。

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p81

第2王朝の王墓は全てマスタバである。

最古のピラミッド

最古のピラミッドは第3王朝初代ジェセル王の王墓だ。

これより前の王墓は ほぼ全て日乾レンガで造られていたが、この王墓は初めての大型石造建造物だった。これには単に墓ではなく、永久に存在し続けるモニュメントとして王墓を作ろうとした意図があるのかもしれない*4

立案者は宰相イムホテプで、彼は太陽信仰の総本山ヘリオポリスの神官だった。彼は王家と太陽信仰を強く結びつけた一人であったろう。

ジェセル王の王墓は当初、石造のマスタバとして建造されたが数回の増改築の末にピラミッドになった。

「階段ピラミッド」と呼ばれるように、形は私たちがイメージする正四角錐ではないが、ピラミッドの歴史はここから始まった。

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出典:馬場氏/p91

階段ピラミッドは周りを周壁で囲まれている。ピラミッド以外に複数の施設が設けられ、「ピラミッド・コンプレックス(複合施設)」という用語はこれら周壁内の全てを表す。

この施設が当時どのように使われていたかはよくわからないのだが、高宮氏によれば*5「階段ピラミッド・コンプレックスは、今生と同じく来世においても、王が宇宙の秩序を維持する祭儀を継続するべく構成されていた」。簡単に言い換えると、周壁内は来世の王が現世と同じような活動ができる空間になっている、ということ。

地方に築かれたピラミッド

第3王朝末から第4王朝初期に年代づけられる小さなピラミッドがエジプトの各地に少数だが発見されている(通常一辺18-25m)。これらは埋葬施設ではない。どのような目的で建造されたのか通説があるのかは分からないが、高宮氏は以下の主張を紹介している。

近年エレファンティネのピラミッドと周辺遺構を考察した S. ザイデルマイヤーは、新たに小型ピラミッドの性格について論じている(Seidlmayer 1996a)。それによれば、王墓をもした小型ピラミッドは地方における王の崇拝の拠点であり、基本的にノモスの行政中心地に配置されていた可能性があると言う。言い換えれば、地方においての威信を示し、国家の求心力を高めるための装置が、ピラミッドという埋葬施設の縮小版であったわけである。ピラミッドが古王国時代のエジプトの国家に果たした役割の大きさを、地方行政の観点からも認識できるであろう。

出典:高宮氏/p159

日本における国分寺と似ているが、建造の意図は違う(同じ可能性はあるかもしれない。証拠は全く無いが)。

試行錯誤の期間

第4王朝初代のスネフェル王はいくつものピラミッドを建造した。それらの各々のピラミッドについては書かないが、これらの試行錯誤が後世に与えた影響について引用しよう。

後のピラミッド・コンプレックスにおいて、ピラミッドの東側に設けられた葬祭殿、そこからナイル河方向に向かって伸びる長い参道、その先端に築かれる河岸神殿、ピラミッドの近くに位置する衛生ピラミッド、ピラミッド本体とピラミッドに接する葬祭殿を取り囲む周壁などが重要な構成要素になるが、それらのほとんどはスネフェル王のピラミッドにおいて初原的な形で現れている。またピラミッド建造方法についても、核に大型の石材を、表層石にトゥラ産の良質石灰岩を用い、内部に持送り式の天井を持つ部屋を構築するなど、後世のピラミッドの先駆をなした。

出典:高宮氏/p147-148

スネフェルの試行錯誤により、上記の階段ピラミッド・コンプレックスとは違ったピラミッド・コンプレックスを造り上げた。以下は第4王朝以降の基本形である。

河岸神殿はもともと港湾施設であり、参道は物資を運ぶ傾斜路であった。これら構成要素はそれぞれ役割を持っていた。まず河岸神殿は「現世から来世への境界」であり、そこから参道で結ばれる葬祭殿は「王の彫像への供物奉納と、王の再生復活を祈る場」であった。そしてその背後に鎮座するピラミッドは「王が再生復活を果たし、昇天する場」であった。

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出典:馬場氏/p219-220

  • ペピ2世は第6王朝第5代王。

もうひとつ、表層を覆った石灰岩について。上の引用にある「トゥラ産の良質石灰岩」とはカイロ東部・ナイル川東岸にあったトゥーラの白く輝く石灰岩のこと。化粧石とも呼ばれる。現在では多くのものが剥がされてしまっている。

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出典:石灰岩 - Wikipedia

ギザの三大ピラミッドの真ん中のカフラーのピラミッドは頂部だけ色が違い、富士山の冠雪のようになっているが、この部分が化粧石。

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出典:カフラー王のピラミッド - Wikipedia*6

ただし、スネフェル王以降の全てのピラミッドがトゥラ産の石灰岩で全て覆われていたわけではない。

ピラミッドを造り続けられた理由

一つのピラミッドの大きさでは、クフ王のピラミッドが最大だが、スネフェル王は大型ピラミッドを3つも建造したのでクフ王を遥かに凌ぐ建造事業を行ったと言える。

クフ王、スネフェルに限らず、ピラミッド建造事業は古王国時代に ほとんど間を置くことなく為されていたが、これを可能にしたのは官僚・行政組織が確立したためと、(同時代のメソポタミアと比べて)安全保障上のコストが極端に少なかったことが挙げられるだろう(古王国時代全体を通して国外からの侵略に脅かされたという話は見当たらない)。



*1:高宮氏/p138-139

*2:高宮氏p138,馬場氏p83-84

*3:これと同じような墓は先王朝時代末のアビュドスの王墓(あるいはエリート墓)でも発見されている

*4:上述したように墓は来世の家と考えられていたが、来世に復活再生できたら永遠に生き続けられるとも考えられていた

*5:高宮氏/p144

*6:著作者:Mgiganteus1

エジプト文明:古王国時代⑤ ピラミッドと宗教 その3 太陽信仰とオシリス信仰

今回も建築技術云々は すっ飛ばして宗教の話をする。ただし政治の話が少なからず混じってしまった。

ギザの三大ピラミッド(第4王朝)

私たちがイメージするピラミッドはギザの3つピラミッドだろう。

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上空から見た三大ピラミッド[左から、クフ王、カフラー、メンカウラー]

出典:三大ピラミッド - Wikipedia

この中で一番古いのピラミッドは第4王朝2代目クフ王のものだ。

クフ王の先代スネフェルの王墓はダハシュールにあるが、クフ王がギザに王墓建造を決めた最重要の理由は「太陽神の総本山ヘリオポリスが拝めることであったと考えられる」。「ダハシュールからはナイル川東岸のモカッダムの丘が邪魔してヘリオポリスが望めないのである」*1

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出典:河江肖剰/ピラミッド・タウンを発掘する/新潮社/2015/p80の図の一部

強力な中央集権体制と巨大建築技術の飛躍的発展のもとで、ギザの三大ピラミッドはピラミッド建造のピークと言われている。

太陽神殿(第5王朝)

第5王朝で、太陽信仰はさらに隆盛したが、ピラミッドは小さくなった。

これは中央政府の権力が弱まったからではなく、宗教自体の変化ということらしい。

第5王朝初代ウセルカフ王はサッカラにピラミッドを建造した他にアブシールに太陽神殿を建造した。

太陽神殿は、ピラミッドの複合施設に似た造りになっているが、ピラミッドのあるべきところにオベリクスが鎮座する形になっている。オベリクスの頂部はベンベン石の形(四角錐)になっている。

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The sun temple of Nyserre Ini at Abusir

出典:Egyptian sun temple - Wikipedia英語版

オベリクスの前の祭壇では「パンやビールの他に、毎日1頭の雄牛が屠殺され、ラー神への供物として奉納された」(馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p107)。

ピラミッドの大きさは小さくなったものの(第2代サフラー王の王墓の底辺の面積はクフ王の1/8)、複合施設の葬祭殿は大きくなり、装飾も凝ったものになった。

以上、太陽神殿建造とピラミッドの小型化の2つで分かることは、第5王朝の人々はピラミッド自体よりも祭儀の場のほうを重要視するようになった、ということ。祭儀の場にはヘリオポリスの勢力(神官たち?)が進出してきたようだ(エジプト第5王朝 - Wikipedia )。ヘリオポリス(とその勢力)の重要性が一段と増したようである。

この時代における行政上の最も目立った発展は最高位の官職から王族が撤退したことでした。もう一つの注目すべき特徴は太陽神殿が国の経済システムに組み込まれた見事な方法でした。太陽神殿の神官職への任命はあるものは純粋に名目的で、そのような官職から得られる恩恵を受け取る権利を官職保有者に与えるためになされました。これらの恩恵は職権上賃貸された神殿領を含んだかもしれません。同じことはピラミッド施設の職員への任命にもあてはまりました。神々と死者の世界の要求と生者達の必要との間に紛れもない矛盾はありませんでした。国家の生産物の大部分は理論上故王たち、彼らの太陽神殿、地方神たちの諸神殿の必要のために指定されたけれども、実際にはエジプトの住民の大部分を養うために使われたシステムを思い浮かべることができるでしょう。

出典:西 村 洋 子/History of Ancient Egypt_第5王朝/2006年9月16日

第4王朝までの官職の座は基本的に王族が埋めていたが、王族が撤退した後はおそらくヘリオポリスの勢力が埋めたのだろう。

この時期に宗教組織と官僚組織の複雑化・肥大化して官僚や神官の数が増えたと言う。さらに官僚たちの銘文や図像で装飾された多数の墓が建造された*2。このことからヘリオポリス勢力の増長がうかがえるだろう。

太陽信仰の後退とオシリス信仰

オシリス神は冥府の支配者であり、現世における死者に対して閻魔大王のようにさばきを下す神の一人だった。

冥界の支配者とみなされる前は穀物神だったらしく、「各地の神話において冬の植物の枯死と春の新たな芽生えを象徴」する神だった(オシリス - Wikipedia

河江肖剰氏によれば*3オシリス信仰は第4王朝に始まった。

第5王朝の王たちは太陽神ラーに寄進することに熱心だったが、前掲の西村氏によれば*4、他の地方の神々にも寄進していたという。一神教とは大違い。

さて、第8代ジェドカラー王は太陽神殿を造らなかった。これは大事件だ。

王は太陽礼拝を放棄し、太陽神殿を建造しませんでした。そのため、ラー神の礼拝は重要性が減少し、オシリス神の礼拝が表立つようになりました。一方、アブシールでの諸王の葬祭礼拝の再編成を行いました。その結果、諸王の葬祭礼拝に関わる官職とその特権は今や下級官吏たちに与えられました。

出典:西村氏/同ページ

これはヘリオポリス勢力の既得権益にメスを入れたと考えていいだろう。肥大化した勢力が中央行政を弱らせるまでになったことに対する動きだ。そして太陽信仰が後退した隙間をオシリス信仰が埋めた形になっている。ジェドカラー王が故意にそうしたのかどうかは分からない。

ピラミッド・テキスト

次の第9代ウナス王(第5王朝最後の王)は、別の意味で画期的な要素を誕生させた。ピラミッド・テキストである。

ピラミッド・テキストは一続きの文章ではなく、王の来世における再生と復活を保証するいくつもの呪文が並べられた呪文集であった。(p155)

古代エジプト人にとって、毎夕沈んでは毎朝再び昇る太陽は、再生復活の象徴であった。太陽は日没後に冥界を旅した後、夜明けに再び復活するが、その力を冥界においてオシリス神から受け取ると考えられていた。(p156)

また、王が「冥界の支配者」オシリス神と合一することも重要なテーマであった。(p157)

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006

ピラミッド・テキストは中国王時代の「コフィン・テキスト」と新王国時代の「死者の書」という葬祭文書と並んで、古代エジプトの宗教観を見出す貴重な資料として重要だ。

宗教面では上の通りだが、政治面においては、ちゃっかり王を冥府の支配者に合一させているところがポイント。

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The Pyramid Texts inscribed on the walls of Unas' burial chamber

出典:Unas - Wikipedia

第6王朝

古王国時代最後の王朝である第6王朝では定式化された第5王朝の小型ピラミッドおよび複合施設とピラミッド・テキストを踏襲した。

第6王朝では、神官や官僚の肥大化が中央政権の弱体化を招いた原因の一つとして挙げられている。ジェドカラー王の「改革」は実を結ばなかったか、一時的なもので終わってしまったのかもしれない。



当初の思惑とは違って、政治関連のことを少なからず書くこととなった。

しかし、政教一体の古代エジプトでは、これを完全に分けることは不可能だろう。


*1:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p100

*2:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p58

*3:ピラミッド・タウンを発掘する/新潮社/2015/p118

*4:同ページ

エジプト文明:古王国時代④ ピラミッドと宗教 その2 ピラミッドと太陽信仰

この記事では、ピラミッドと太陽信仰について書いていく。

最古のピラミッドと太陽信仰

最古のピラミッドは、第3王朝初代のジェセル(ネチェリケト)王の王墓だった。

ジェセル王の王墓は階段ピラミッドと呼ばれ、私たちがイメージする綺麗な四角錐のものではなかったが、ピラミッドの起源として重要だ。

もう一つ重要なことはこのピラミッド建設の立案者についてだ。その人物とはジェセル王の宰相イムホテプ。彼は建築、神学、医学、天文学などあらゆる分野に造詣が深かったのだが、決定的に重要なのは彼が太陽信仰の総本山であるヘリオポリスの神官だったということだ。

イムホテプは国家神を太陽神に変えたきっかけを作った一人と言っていいだろう。

高宮いづみ氏は以下のように書いている。

古代エジプトの王は時期によってさまざまな神々と結びつけられ、初期王朝時代にはホルスの化身にもなれば、古王国時代には太陽神ラーの息子や新王国時代にはアメン神の息子にもなったが、常にこうした神話によって、巧みに宇宙と世界観のうちに特別な存在として位置づけられていたのである。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p116

有名な「ナルメルのパレット」にもあるように、初期王朝時代の国家神はホルス神であった。

そして古王国時代の間に太陽神ラーに代わる。ただし、ホルス神を捨てたわけではなく、ラーとホルスを同一視(習合)した。

「ラーの息子」とは「ホルス名」と同様、王名(称号)である。ホルス名と一緒に使われ続けた。

太陽信仰と四角錐

かつてナイル川は夏に増水した。20世紀初頭に、上流のアスワンにダムが建設されて以後、反乱することはなくなってしまったが、それ以前に撮られたモノクロの写真を見ると、広大な水面から、耕作地の一部や椰子の木がところどころ水草のように浮かんでいる。毎年繰り返されるこの景色は、すべての生命は広大な水から大地が盛り上がり始まるというイメージを古代エジプト人の心象に植え付けた。(p131)

19世紀後半に活躍したフランス人写真家ボンフィスが撮影したギザの写真は、古代の景色を彷彿させる。ナイルの氾濫がギザ大地の麓まで押し寄せ、鏡のようになった水面に大ピラミッドが映っている(図6-2)。

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(p133)

4500年前の氾濫時には、遠方から見る大ピラミッドは、さながら創世神話にでてくる海から盛り上がる原初の丘のようだったに違いない。(p134)

出典:ピラミッド・タウンを発掘する/河江肖剰(ゆきのり)/新潮社/2015

  • 当時の川の水位の上下は古代エジプト人の常識だったので、「氾濫」の箇所はすべて「増水」に変換して読むべき。

ここで創世神話と原初の丘について書いていこう。これが太陽神話につながる。

エジプトの創世神話は幾つかあり似通っているが、ここではピラミッドに直結するヘリオポリス創世神話を紹介する。ただしヘリオポリス創世神話には幾つかのバリエーションが有るようだが、以下はその中の一つ。

ヘリオポリス創世神話によれば、世界の最初には「ヌン(原初の海)」と呼ばれる混沌があった。その混沌の中からある時「原初の丘」が出現し、そこに太陽神アトゥムが現れた。アトゥムは自慰行為を行って、大気の男神シュウと湿気の女神テフネトという男女ペアの神々を生み出した。そのシュウとテフネトが次の世代として、大地の男神ゲブと天空の女神ヌトを生み、さらにその二柱の神々が、男神オシリスとセトおよび女神イシスとネフティスを生んだという。これらのうちオシリスとイシスが婚姻関係を結んで、その間に生まれたのが男神ホルスであり、王が化身とされたのはこのホルス神であった。

ヘリオポリス創世神話は、古代エジプト人にとって、宇宙の始まりとその構造とをよく説明したいた。[以下略]

出典:高宮氏/p216-217

引用文に登場するホルス神を除く神々はヘリオポリス九柱神と呼ばれる。ホルスの化身である王は彼らと交流できる唯一の人間であった。王は祭儀を行って、混沌からこの世の秩序(マアト)を護り維持することを義務とした。

前述したように、古王国時代の王は「太陽神ラーの息子」を名乗ったが、ホルスの化身であることはやめようとしなかった。

私たちが良く知っている「太陽神ラー」の名はヘリオポリス神学ではアトゥムと同一視される。

さて、話がそれてしまったので原初の丘の話に戻る。

アトゥム神はどのようにその静止した世界を動き出させたのだろう?「ピラミッド・テキスト」[エジプト最古の宗教文書。第5王朝末。引用者注]には、それは彼の「自慰行為」によってだったと書かれている。

アトゥムはヘリオポリスで勃起し自らを生じさせた。彼は陰茎を握り、射精し、そしてシュウとテフネトという双子が生まれた(P475)

この創造神アトゥムの精液が石化したものが、ピラミッドの原型である四角錐の聖なる石ベンベンだった。聖なる石ベンベンの名前は、生殖に関連するベン(〈勃起する〉や〈射精する〉)から派生した言葉である。この言葉は、元々、〈膨らむ〉や〈盛り上がる〉を意味する語根からきている。つまりベンベンとは、創世以前に存在した混沌の海から盛り上がった丘の具体的なイメージであり、さらに後には〈太陽が昇る〉を意味するウェベンという言葉を派生し、そこから太陽とも関連付けられた。

古代エジプト人は、創世を単に太古に起こった出来事として捉えていたのではなかった。その明確な現れはナイル川の氾濫である。毎年起こるこの現象は、創世時に迸(ほとば)った凄まじいエネルギーの余波によるものだと信じていた。

出典:河江氏/p133-134

聖なる石ベンベンはベンベン石と呼ばれることが普通のようだ。ベンベン石はつまりは原初の丘のイメージである。

初期王朝時代の神殿には、(ベンベンとは言われていなかっただろうが)「原初の丘」と呼ばれた四角錐が祀られていた(河江氏/p131)。これがヘリオポリスでは以上のような物語の中で語られたのだ。

そしてヘリオポリスの太陽信仰はこのベンベン石を太陽信仰の象徴とした。

そしてさらに一歩進んで重要なことは、最後の段落にあるように、「単に太古に起こった出来事」とは捉えていなかった。ナイル川の水位の上下はエジプト人に「滅亡と再生」のイメージを与えた。

つまり「原初の丘」=「ベンベン石」=「ピラミッド」は「創造の象徴」だけではなく、「再生復活の象徴」でもある。「ベンベン - Wikipedia」によれば、ベンベン石は「再生と復活をつかさどる精霊が宿る」とされている。

ということで、太陽信仰は、太陽を再生復活の象徴として崇める信仰だった。太陽信仰はヘリオポリスの土着の宗教だったろうから古代エジプトの来世観を共有していただろう。

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出典:ベンベン - Wikipedia*1

  • エジプト第12王朝のアメンエムハト3世のピラミッドのキャップストーンとして造られたベンベン石。

なぜピラミッドは建造されたのか(建造の目的)

強固な中央集権国家の確立は、古王国時代のピラミッドを取り巻く墓地にも顕著に現れている。官僚たちはできれば来世の支配者となる王の近くに立派な墓を築いて埋葬されることを望んだが、王墓に近接する官僚墓の位置は当時の王の裁量で決められた可能性が大いに高い。そのことは、第4王朝クフ王のピラミッドおよび第6王朝テティ王のピラミッドに近接する官僚たち墓地の様子からうかがい知ることができる。

出典:高宮氏/p239

ピラミッド建造の目的については諸説あるが、難しく考えなかれば以下のような結論になるだろう。

基本的にピラミッドは王墓だ。王以外の墓だったり墓ですらないピラミッドもあるが、基本的には王墓だ。官僚たちは墓をピラミッドにすることはタブーだったのだろう。上の引用は「官僚墓の位置=来世で再生復活した時の序列」ということだ。古代エジプトの来世観(前回参照)は新王国時代まで(あるいはそれ以降)続いた。

なぜ四角錐か。それはピラミッド=ベンベン石だから。太陽信仰を採用した王家の墓の形にふさわしいと思ったからだろう。

なぜあのように巨大にしたのか。それは王の威勢を示すためだろう。ただし、官僚たちの墓と比較して大型の墓にしたということで、各王の威勢に比例しているわけではない。

歴代の各王によって趣向が違うが、基本的には上のような説明でいいと思う。



*1:著作者:Jon Bodsworth

エジプト文明:古王国時代③ ピラミッドと宗教 その1 古代エジプト人の来世観

古王国時代の宗教観とピラミッドがどのように結びついているのかを書いていく。

この記事では、民間を含むエジプト全体の来世観・死生観・宗教を書いていく。

来世観と宗教

古代エジプト人は死への脅迫概念が強く、死をひどく恐れていた。その恐怖をできるだけ拭い去るための解決策として、彼らは死を理解可能なものにしたのだ。それが、「死後も、来世で永遠に生き続ける」という再生復活の死生観である。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p304

ただし、エジプトの来世観においては、現世で死んだら すぐに来世に行くというものではない。開口の儀式など様々な過程を必要とする。

エジプトの宗教は、来世で永遠に生き続けるために必要な知識と行動を指す。

古代エジプト人が来世をどのようにイメージしていたのか気になるところだが、高宮いづみ氏によれば*1、一通りではなく幾つものイメージがあるものの、「最も受け入れやすく、実際に普及していたイメージは、おそらくこの世と似たような世界であろう」としている。

来世で永遠に生き続けるために必要な知識と行動

「カー」と「バー」

私たち日本人は生死の話をする時に人間を肉体と霊魂に分けて話すことがある。古代エジプト人はこの霊魂に当たる部分を「カー」と「バー」に分けている*2

「カー」は「生命力」や「活力」、「バー」は「個性」「人格」と訳される。人間の死は肉体からカーとバーが分離することで起こる。

カーは単なるエネルギーではなく、死後も実体の無い個人として存続する。カーは活力を維持するために供物を必要とする。他の諸宗教における精神の概念に類似している。

バーは日本人がイメージする霊に近いかもしれない。バーは現世と冥界を往来することができるが、夜になると現世の肉体(ミイラ)に戻らなければいけないという制約はある。

3要素の再合一

まずカーとバーが合一して「アク」となる。アクは「祝福された死者」と呼ばれる。そして再生復活するためにはもう一つ、肉体が必要になる。このため、古代エジプト人は遺体が朽ち果てることを防ぐためにミイラ処理を行って丁重に棺に納めた。

開口の儀式

3要素の再合一を果たしても、来世における再生復活はできない。いくつかの過程を必要とする。

その中で最重要の儀式が現世における葬祭「開口の儀式」。

死者が再生復活を遂げるためには一連の儀式すなわち葬祭が必要であり、葬祭の中で最重要の儀式は「開口の儀式」であった。この儀式は、ナイフのような道具を使って葬祭神官が死者の口を開くまねをする儀式で、一旦は物を食べたり呼吸をしたりという生命活動を停止した死者が、ミイラの口を開くまねをする儀式を行うことによって、生命活動を再開することを呪術的に引き起こす目的をもって行われた。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p232

この儀式は王朝時代の葬祭の中心であったが、先王朝時代(ナカダⅠ期以降)にも行われていたという説もある(同氏/p233)。

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『フネフェルのパピルス』に描かれた開口の儀式。

出典:フネフェル - Wikipedia

ほかに、冥界における「最後の審判」と呼ばれるものがあるのだが、これは新王国時代の『死者の書』登場以降のものなので、ここでは書かない。「死者の書 最後の審判 オシリス」でネット検索すればいろいろ出てくるだろう。

まとめ

重要なのは来世観だ。人々は来世で復活できることを望んでいるということ。

そしてこの来世観はピラミッドの宗教つまり太陽神信仰よりも長く存続した。

と言うよりも、おそらく太陽神信仰は、来世に復活再生するための道具に過ぎなかったのではないか、とすら私は思っている。

ピラミッドと太陽神信仰については次回書いていく。



*1:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p232

*2:古代エジプト人の魂 - Wikipedia」によれば、これらの他に3つの要素があるとしているが、ここでは「カー」と「バー」のみを扱う

宗教について

(ピラミッドと宗教の関係について書く前に、宗教とは何かについて書いておこう。)

(以下は私がネット検索してまとめたもの。)

宗教とは何か。簡単に言うと「何らかの利益を得るために、神秘的な法則・力を信じ、それに関連する教えを信じて行動すること。」

「神秘的な法則・力」とは自然界の法則あるいは物理法則とは無関係なもののことを指す。たとえば、神仏の力は物理法則の影響を受けない(受けると考える宗教もあるかもしれないが)。

少し詳しく書いてみよう。

  • 教徒・信者は、自然界の法則(科学的な法則)とは別の神秘的な法則・力を信じる。また自然界の法則を超越した存在(神仏)を信じる。

  • 教徒・信者は、「神秘的な法則・力に従って(頼って)行動すれば何らかの利益が得られる」ということを信じて、その法則・力に従って行動(実践)する。「神秘的な法則」「何らかの利益」は各宗教・宗派によって違う。「神秘的な法則・力」は例えば輪廻やユダヤ教系の唯一神の神秘的な力が挙げられるだろう。「何らかの利益」とは例えば「干ばつ時に雨を降らせる」「平穏な生活を保つ」(現世利益)とか「天国に行く」「解脱する」(現世以外の利益)などを指す。

  • 上記の「行動」ついては、各宗教・宗派は「教え」(how-to)を用意している。祭祀儀礼や普段の振る舞いの仕方や食事のタブーなどは「教え」に含まれる。

以上が宗教の基本。

以下は宗教の(副)産物。

  • 一般的に、同じ考え(信仰)を持つ人々は集まって集団(あるいは社会・共同体)をつくる。教会や寺院と呼ばれる施設を設ける。

  • ある宗教が教徒・信者が増えて発達すると、祭祀儀礼や教義が明確化する。行き過ぎると派閥ができて、看板は「○○教」であっても中身は全く違ったことを行っているという場合が生じる。

  • ヨーロッパ(キリスト教)や西アジア他(イスラム教)では、宗教は秩序・規範を与えるものとして社会に組み込まれている。



以上、書いてみたが、実は私は宗教に疎い人間なので、あまり自信は無い。

いつかもう少しマシなことが書けるようになったら書き直そう。

エジプト文明:古王国時代② 「ピラミッドの時代」

エジプトのピラミッドは古王国時代に始まり、古王国時代に集中的に建造され、古王国時代にピークがあり、ピークの後 衰退する。だから古王国時代は「ピラミッドの時代」とも言われている。

古王国時代の人口は およそ120万人とされるが、その人数であれだけの建造物を幾つも建てるには相当のエネルギーを要する。同時代人はピラミッド建設のために、国家体制全部を再構成しなければならなかった。これには行政も宗教も神話も当然含まれる。

こうなると、ピラミッド自体の構造とか建築技術よりも、なぜピラミッド建造にそれほどのエネルギー(コスト)をかけなければならなかったのかを知ることのほうが はるかに重要だ。

これからピラミッドに関する記事を幾つか書こうと思っているが、この記事では行政・宗教・安全保障とピラミッドの関係を書いていく。

行政関連

第3王朝時代に後世まで継続する官僚組織の体裁が整い始めたことは、少ないながらも、当時の官僚たちの称号や銘文資料からうかがい知ることができる。初期王朝時代の間、王家の需要に応じて随時設けられてきたさまざまな部署と役職を、ピラミッドの建造開始にともなって、国家規模に再組織化することが必要になったのである。ピラミッド建造は、建材の調達や職人や労働者の組織化に始まり、それを経済的に支えるための全国からの徴税組織、関連物資や人員を管理するための組織、さらには王の葬祭を維持するための組織などなどの発達を余儀なくした。そして大型ピラミッドが築かれた第4王朝時代には、さらに大規模な官僚組織が必要になっていった。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p171

私は「官僚・行政組織の発達のおかげで余裕ができたのでピラミッドをつくることができた」と思っていたが逆だった。

ピラミッドを作るためにあらゆる行政改革をしなければならなかった。そしてそれは成功した。

「行政」を「国家」と置き換えてもいいかもしれない。

宗教関連

あれだけ膨大なコストをかけて建造したら反乱が起こるのではないかと思ったら、建造に駆り出される庶民にもピラミッドを建造する動機があった。

それは宗教関連の話になる。

有名なエジプト神話もこの時代にできた。

古王国時代よりも前に各地に守護神がいて神話があった。これらの地方の神話をうまい具合に国家宗教の体系に入れて作り上げたのがペリオポリス創世神話に代表されるエジプト神話だ。

第5王朝最後の王ウナスから始まる複数の王と王妃のピラミッドの壁に刻まれた「ピラミッド・テキスト」*1の内容はヘリオポリスの神話に沿って書かれている*2

神話とピラミッドは密接に関係しあい、この頃の来世観(宗教観)は臣民に浸透し、臣民にとってピラミッドの建造は、労役というだけでなく宗教上の行動でもあった。

このことについては別の記事で改めて書こう。

安全保障関連

他地域・他時代とエジプト古王国時代を比べて重要なのは、この時代には国外からの侵略が無かったことが挙げられるだろう。

古代エジプトも時代が下れば諸外国との紛争に巻き込まれる…というより参加するようになるが、古王国時代は軍事方面にほとんどリソースを割かずにすんだ。

このことは、王国の人々はピラミッド建造に膨大なコストをかけられた理由の一つになるだろう。



とりあえずここまで。

この記事で言いたかったことは「ピラミッド建設は国を挙げての宗教活動だった。そしてその活動費を捻出するために行政(国家)が発達した。つまりはピラミッド建設によって国家が発達した。ピラミッドの時代。」

うまくまとめることが出来なかった。

行政と宗教については改めて少し詳しく書こう。

特に宗教については、私自身を納得させるために書かなければならない。


*1:王の来世における再生と復活を保証するいくつもの呪文が並べられた呪文集 -- 高宮氏/p155

*2:Parcours : 古代エジプトの神、オシリス | ルーヴル美術館 | パリ 

エジプト文明:古王国時代① 第3王朝の初代は誰か?

馬場匡浩『古代エジプトを学ぶ』*1によれば、初代はジェセルだが、高宮いづみ『古代エジプト文明社会の形成』*2によれば、ジェセルの前にサネケト等の先行する王が「いたようである」と書いている。

「第3王朝の初代は誰か?」という問題は資料不十分な古代エジプト史においては あまり大きな問題とは思わないのだが、すっきりするために いちおう調べたので書いておこう。

上記の2冊には初代王の系譜関連の話はほぼゼロなので、wikipediaで調べてみた。

初代王=サネケト 説

第2王朝最後の王カセケムイの死後、カセケムイの娘にして王位継承者のニマアトハピ に迎えられ、紀元前2686年に王に即位する。母系社会の古代エジプトにおいて、王位継承権を持つ女性との婚姻は王位の正当性を保証した。サナクトの統治は18年間に及んだが、その統治について示す史料はほとんど発見されていない。現在、発見されている史料はシナイ半島のワジマガラで発見された砂岩レリーフであり、敵対者を攻撃する様子が描かれ、セレクにはサナクトという王名が読み取れる。

出典:サナクト - Wikipedia

サネケト(サナクト)という王がいたことは考古学的な資料から証明されているが、ニマアトハピがカセケムイの娘というのは今では否定されているらしい。「Nimaathap - Wikipedia英語版」によれば、ニマアトハピは「a princess of the Northern royal house(北の王族の王女?)」であり、内戦でカセケムイとの戦いに破れた「北の王族」が「戦利品」としてニマアトハピをカセケムイに渡した。ニマアトハピは王妃になり、ジェセルとサネケトを産んだ(ただし、これが通説になったわけでもないようだが)。

これでもサネケトが初代王という可能性は残る.

この説を否定する説として以下のものがある。

エジプト中王国時代にパピルスに書かれた文献「ウェストカー・パピルス (Westcar Papyrus)」より、Nebka(ネブカ=サネケト)はジェセル王とフニ王(第3王朝最後の王)の間に在位した王である、と。(Djoser - Wikipedia英語版 )。

もう一つある。↓

初代王=ジェセル 説

Toby A. H. Wilkinsonによれば、カセケムイ王の墓の入り口でburial sealsが発見された。burial sealsがどのようなものかは分からないが、これにはサネケトではなくジェセル王の名があるため、ジェセルがカセケムイ王の葬儀を出したということが証明されるらしい。(Djoser - Wikipedia英語版

古代エジプトでは、先王の葬儀を出すことが現王の務めであり、継承の証明である。これにより、ジェセル王がカセケムイ王の次代の王で第3王朝の初代である、ということだ。ただし、マネトーが第2王朝と第3王朝を何故分けたのかは分からない。

以上のようなわけで、このブログでは、初代王=ジェセル 説を支持することにする。



*1:六一書房/2107/p90

*2:京都大学学術出版/2006/p53