歴史の世界

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メソポタミア文明:文明の誕生、都市の誕生

文明はcivilizationの訳語だ。「civilizeすること=都市化すること」が文明の意味となる。

「文明」という言葉がついたものが全て都市を持っているかというとそうでもないが(長江文明トロイア文明も都市は持っていない)、メソポタミア文明(またはその最初期のシュメール文明)は「都市化」から文明が始まった。

メソポタミアペルシャ湾岸で始まった。都市化は時を経てメソポタミアに広がった。これがメソポタミア文明となる。


前4300-3900年 ウバイド3期。この時期メソポタミア南部で村落数が飛躍的に増大。またウバイド文化がメソポタミア北部などに伝播。
前3500-3400年 ウルク期初期。メソポタミア最南部(のちのシュメール地方)の都市化開始。
前3400-3300年 ウルク期中期。シュメールの都市化がさらにすすむ。またこのころからシリア・ユーフラテス流域ハブバ・カビラ、イラン・スサなどで南部メソポタミアの人びと(おそらくシュメール人)が活発に植民活動。
前3300-3100年 ウルク期後期。シュメール南部ウルクで大公共建設物が盛んに作られる。ウルク後期最末期(エアンナⅣa層時代)のウルクで粘土板文字記録システムが成立。シュメール都市国家時代の開始
前3100-2900年 ジャムダド・ナスル期(ジェムデト・ナスル期 Jemdet Nasr period)。シュメール都市文化が各地に伝播。 *1


都市の誕生の前段階

なんでもそうだが、都市は一日で突然できるわけではない。前段階(できるまでの過程)がある。

前段階はウバイド期の後期から始められる。ウバイド3期に南メソポタミアでは灌漑農耕による農産物の大量生産が実現した。家畜については従来のヒツジ・ヤギの他にブタ・ウシが導入された。これを背景に他の地方と交易が活発化して必要物資を得るルートが確保された。これに加えて重要なのが神殿だ。都市の中央部に建設される神殿の型やそこで行われる宗教儀礼はウバイド期に起源が求められる。(前記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」参照)

以下は小泉龍人著『都市の起源』(講談社選書メチエ/2016)に頼って書く。

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

人口流入と都市化

気候変動と人口の変化

最初に参考となる地図を貼り付けておこう。

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3

河口部の点線がシュメール文明誕生の時期の海岸線となる。

都市化が進行しはじめたころ、ちょうど西アジア地方は気候最適期に入っていた。[中略]

おもにグリーンランドやペルー・アンデス産地における氷床コアの酸素同位体比の分析により、約8000~5000年前に、地球規模でもっとも気候の温暖な時期があったことがわかっている。[中略]

西アジアの中心にあるメソポタミアでは、とくにシュメール地方(南メソポタミア南部)が気候最適期の影響を強く受けた。海水面の上昇により海岸線が陸へ入り込んできたのである。もともと、シュメール地方の南にあるペルシア湾は、約18000~14000年前までは海退により海底が露頭していた。約12500年前から内湾部へ海水が入りはじめて、およそ6000年前には現在の海水面とだいたい同じ高さにまで達したとされる。ペルシア湾の海水面は、地球規模の気候温暖化に同調してさらに上昇をつづけて、現在とくらべて2メートルも高いレベルにまで達して、約5500年前のペルシア湾の海岸線は200キロメートルも内陸に入り込んでいたと推定されている。[中略]

メソポタミアにおける気候最適期は、だいたいウバイド期からウルク期にかけて(約7500~5000年前)に相当する。とくに、ウバイド終末期になると、著しい海水面の上昇によりペルシア湾の海岸線が内陸に移動し、南メソポタミアの沖積低地の暮らしにおきな変化が起きた。この点は、アルガゼをはじめ多くの研究者が指摘しているところであるが、私はさらに踏み込んで、以下のように考えている。

メソポタミアペルシア湾に接していて、ペルシア湾の海水面の変動がメソポタミアの沿岸地域に直接影響する。とりわけ海水面の上昇により、沿岸付近の農耕地で灌漑排水に不具合が生じたり、河口付近の流路が移ってしまう。たとえ微増であっても、海進は微妙なバランスのもとで成り立っていた灌漑システムに深刻な被害を与えた。耕地への給水だけでなく、耕地から塩分を含む水を排水する機能が低下してしまった。海水面の上昇は厄介な塩害を招来して、周辺地域の農業に多大な損害をもたらしたのである。

ペルシア湾の海進により、シュメール地方に広がるメソポタミア低地の耕作地で冠水や灌漑排水の脱塩機能の低下が聞き起こされて、しだいに耕作地が放棄されていった。その結果、沖積低地で生活していた人々が移住せざるをえなくなり、約6000年前に「よそ者」が発生して、余剰食糧に溢れた集落へ惹きつけられていった。こうした人の動きが主な刺激となって、特定の集落で本格的な都市化が進行していった、というのが自説である。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p73-74

メソポタミア地方の人口増加については、他の文献でも言及している。前川和也*2と中田一郎氏*3はおそらく同じ資料(R. McC. アダムズ 1981)を紹介している。それによれば、ウルク期後半になると南部より人口が多かったシュメール地方北部で村落が廃棄されて、南部とりわけウルクに人口が大量流入したと推測している。

小泉氏はこれに対して言及し(p162-164)、ウルク期後期の急激な人口増加を認め、尚且つ、北部の村落を廃棄した人口は南部への流入だけではなく、遊牧民化したのではないかという説を紹介している。遊牧民は家畜を育てているだけではなく、広域の物流ネットワークの担い手(の一部?)になったとしている。

前川氏、中田氏はウルク期の前期・中期についてはあまり触れずにウルク期後期に都市化が起こったとするが、小泉氏はウバイド末期から、海進の影響による人口流入により、都市化がはじまった、そしてウルク期後期は都市化の完成期である、としている。

人口流入と社会構造の変化と神官の誕生

小泉氏は、南部に流入してきた人びとを「よそ者」と書いている。ウルクを含む幾つかの集落は「よそ者」を受け入れられるほどの余剰食糧の生産力を持っていた。「よそ者」は初めのうちは季節労働や運搬などの単純労働で生活していたと想像できるが、彼らが長く住むにつれて社会構造を変化させていった。つまり、人口流入あるいは人口増大により、顔見知りだけの慣習(=文化)だけでは社会の秩序を保つことができなくなり、「よそ者」をも説得できるようなシステム(=文明)を生み出さずにはいられなかった(文化と文明については以前に「文化と文明について」という記事を書いた)。

西アジアのウバイド終末期に、「よそ者」の出現によって将来されたさまざまな変化に対して、納得の行く折り合いが求められる。地域社会に新たな問題が生じた場合、もっとも信頼できる人物に解決策を委ねるのが自然な流れである。この場面で注目を浴びたのが、パートタイム的に神に仕えてた祭司たちだったと考えられる。役割から地位への変質が祭司たちにいち早く現れた理由は、このあたりにあったようだ〔ウバイド期には祭司は専門職ではなくパートタイム的に役割を担っていた(p63-67)〕。

身近な問題として、余った食糧の保管や、死者の埋葬の仕方があげられる。余剰食糧を預ける共同倉庫の開閉を祭司たちに任せるのは無難な落とし所であろう。風習の異なる「よそ者」の埋葬方法を巡っても、やはり儀礼に長けた祭司たちに最終的な判断を仰ぐのが妥当である。つまり、パートタイム的に祭祀儀礼に関わってきた祭司集団は、都市化の後半段階〔ウルク期〕において、俗世界のもめごとに対する苦情相談も請け負うようになり、それがフルタイム的な専門職になっていったのであろう。[中略]

ウバイド終末期からウルク期初頭にかけて、スーサでは祭司も庶民と同じく共同墓地に埋葬されていたが、祭司の墓には威信財が副葬されて他者と区別された。スーサは祭祀儀礼の要地であったために、埋葬されること自体に意味があったと推測される。ただでさえ箔がつく場所に威信財まで副葬されていたことから、スーサに埋葬された祭司たちの専門性はかなり強調されている。彼らはもはや専門職として神に仕える神官と呼べる。

かつて、パートタイム的な祭祀儀礼の役割を果たしていた祭司たちが、地域社会に生じた新たなトラブルを解決する役目も任されるようになる。本来の役割とは異なり、折り合いをつけていくうちに、しだいにそれが専業的な職能へ昇華していき、その役目が社会的な地位の形成へとつながっていく。面倒なもめごとの処理まで請け負ってくれる祭司たちの仕事ぶりは、コミュニティの指導者としての評価を高めることになり、その特異な地位が積極的に墓制に反映されていったと私は考えている。

出典:小泉氏/p87-89

この指導者(祭司/神官)たちの中から支配者層が現れるのだが、これは別に書こう。

専業化

「よそ者」の流入の変化として、町並みに現れたのが土器の工房だった。ウバイド期は見られなかった工房がウルク期前期になると出現する。集落の都市化が進んで人口増加も進むと、これに応えるように工房ができ、一定の機能・規格を持つ土器が大量生産されるようになった(この時期は改良されたろくろが活躍した)。大量生産は農民の余暇では賄えず、当然 工人を要する。工人は季節を問わずフルタイムで土器を作る。

時代が進むにつれ、貴重品を扱う商人や集落を衛る軍人など非食料生産者が登場する。(p78-81)

階層化

ウバイド期は基本的に平等な社会だった。それを一番表すのが墓の遺跡だが、共同墓地で画一的な墓に平等に葬られた。(p52-56)

しかし上に書いたように、ウバイド終末期にパートタイマー的に働いていた祭司たちから神官が現れた。彼らの墓には威信財が置かれて他者と区別されるように葬られるようになった。祭司以外も差別化が起こるようになる。専業化から職能集団が誕生し、一般庶民と職能集団の格差が生じるようになる。そして特定の職能集団の中でも格差は生じた。

コミュニティにおける役割から地位への変質は、都市化の後半段階(ウルク期)の後期銅石器時代に進行していった。都市的な正確の強まった集落では、街路により区切られた空間利用の専門分科により、祭祀儀礼を執り行う神殿、土器づくりや冶金の工房群、行政的な職務を司っていた館、集落を自衛する軍事施設など多様な正確の施設が出現していった。都市的集落では、街路により分けられた各区画で、祭祀、土器製作、冶金、行政、軍事などの役割が徐々に社会的地位を伴う専門的な職へ高まり、階層化された職能者の地位が墓制に反映されたと考えられる。

出典:小泉氏/p87

鍵付き倉庫と市場

平等社会のウバイド期においては、神殿や公共施設に付随した倉庫があった。こうした倉庫には、集落で生産された穀物などの余剰食糧が供託され、共同管理されていた。倉庫には鍵がかけられず自由に出入りができた(p56)。余剰食糧は、「必要に応じて個別の世帯に再分配されたり、さまざまな物資を外部から入手するために活用されたと推察される」(p91)。

しかし、「よそ者」の登場後、勝手に食糧を持ち出されないように、鍵がかけられるようになる。

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出典:小泉氏/p91

金属加工技術が未発達だった時代の「鍵」は上のような仕組みだった。木製の扉に通した紐をペグに引っ掛け、その上から封泥した。封泥とは封じた紐の上に泥の塊を塗って塊の上にスタンプ印章(判子)を捺印すること。こうすることによってアクセスを制限した。アクセスできるのはスタンプ印章を持っている「管理者」のみ。管理者は当初は祭司の役目だっただろう(p90-94)。現在の鍵のイメージとは違うが、とりあえずこれが鍵の誕生なのかもしれない。

管理者の役割は交易が活発になることにより重大になる。ウルク中期後半になるまでに交易が本格的に発達し、集落内に市(場)が形成される。

以下は、北メソポタミアのガウラ遺跡(Ⅷ層)の話。

倉庫の南東側には管理棟が建てられ、管理者は判子を首からぶら下げ、倉庫の開け閉めを意のままにできた。ただし、その人物はもはや祭司ではなく、世俗的な立場にいた指導者であったと思われる。これらの建物に隣接する広場では、大量の封泥(容器や袋などの封をする粘土塊)が見つかっている[中略]。ウルク中期後半、専業商人を媒介とする本格的な流通構造が整い、主要な集落に遠方から搬入された商品が独立倉庫で保管されて、倉庫に品説した広場が市(場)として利用されはじめたと推察できる。これは集落内における市の最古級の例である。

出典:小泉氏/p95

この時期になると早くも指導者の役割が祭司の手から離れている。神殿と権力の関係は、また別の記事で書こう。

またこの時期(ウルク中期後半)の広場は集落の中央付近に設けられているが、都市誕生期(ウルク後期)になると、広場が城壁の入り口付近に置かれるようになった(後述)。

「よそ者」関連まとめ

もともとウバイド期の社会は、祭祀により統合されながら、人々の暮らしが成り立っていた。そこでは格差のない人々の緩い結びつきがあり、血縁的なつながりの親族集団を単位として互いに協業し合っていた。やがてウバイド終末期になると、豊かな食を求めて集まってくる「よそ者」との共存において、異なる価値観の折り合いをつけるために、従来とは異なる仕組みが求められて、階層化が始まった。同時に、「よそ者」の活発化により、経済的な物流網が徐々に拡充されていき、ウルク中期後半までに都市的集落を結節点とする交易ネットワークが確立されることになる。

出典:小泉氏/p97-98

  • 「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。

以上「よそ者」関連は『都市の起源』の第二章《「よそ者」との共存》に依る。

安心と快適さを求める都市計画

ここでは『都市の起源』の第三章《安心と快適さの追求――都市的集落から都市へ》抜粋してみる。

城壁

まず何よりも、外敵の脅威から護られていないと、街での暮らしは落ち着かない。その安心を保障してくれるのが、街を取り囲む城壁である。

西アジアの本格的な防御施設は、後期銅石器時代(約6000~5100年前)に登場する。明確な城壁は北シリアの都市的集落で相次いで確認されている。ウルク前期のブラクでは、幅約2メートルの日干しレンガ製の壁が見つかっている。同壁は城門も伴い、集落を防御する城壁とされる。今のところ、この約6000年前の城壁が最古例となっている。(p101)

目抜き通り

ウルク後期に書原した目抜き通りは、物資を満載した車が行き交い、遠来の商人がさまざまな品物を取引する場として賑わっていた。同時に、目抜き通りは神殿やジッグラト(聖塔)などのモニュメントへつながり、年における祭祀儀礼や公式行事などの演出に欠かせない舞台にもなっていた。古代都市における目抜き通りは、日常の経済活動において人々に至便な暮らしをもたらすだけでなく、神殿などと一体化して儀礼や行事のパフォーマンス空間としても機能していた。(p106-107)

街の広場

古代西アジアでは、街道沿いや河川沿いに立地する都市的集落の中央に広場が設けられて、市を成していた。他方、都市そのものになると、街の入り口である城門近くに広場が設置されて、そこでは他所からやってきた商人が都市民と物々交換をしていたと思われる。都市的集落と都市では、市の立つ場所が微妙に異なっていた。

ウルク中期(約5500年前)、北メソポタミアのガウラ遺跡では、本格的な独立倉庫で保管された商品が倉庫に隣接する広場で物々交換されていた。ウルク後期になると、イラン西部のゴディン・テペ遺跡では、集落中央の広場に面した取引所で物々交換が行われていた。いずれの都市的集落でも、ほぼ真ん中に市場が設けられている。

北シリアの都市ハブーバ・カビーラ南では、南側の城門内に広さ10メートル程度の空間があり、門外も含めて広場として活用されたとみられる。門の付近では、「トークン」と呼ばれる土製の計算具(カウンター)が大量に出土している。[中略]

ハブーバ・カビーラ南では、各地から運ばれてきた物品が、城門付近で物々交換されていた可能性が極めて高い。こうした広場は、外部からの商人や旅人が出入りする空間であると同時に、居住者と取引するにも格好の場となる。ガウラやゴディン・テペといった都市的集落と異なり、年の段階になると街の入口付近に市が立つ。保安上の問題や、物資の搬出・搬入の効率も考慮して、街の出入り口に位置が設けられたと考えられる。(p119-120)

上水と下水

古代西アジアの都市における暮らしでは、いかに安全に飲み水を手に入れるのかが問題であった。現代の都市周辺では、川の水は川上からの生活排水などで不衛生であり、汚染されていることが多い。[中略]

川の水が当てにできない場合、井戸から汲み上げる地下水が注目される。[中略]川の水は灌漑・家畜用、井戸(雨)水は飲料用と使い分けていたと考えられる。[中略]

上水とあわせて問題になるのが下水である。快適な都市の暮らしで、下水施設は街路とともに重要な骨格をなしている。都市化の嚆矢となったメソポタミアの平原地帯では、常に水の恩恵にあずかるだけでなく、水のもたらすさまざまな問題にも向き合ってきた。メソポタミア平原に展開したサマッラ期の集落では早々と排水設備が認められるが、空き地に排水用の土管が埋められた程度にとどまる。都市化の始まったウバイド期でも、一部の集落で排水管は普及していたものの、いずれも計画的に配置された水利施設と呼べる本格的なものではない。[中略]

ウルク後期(約5300年前)に、城壁・街路と併せて水まわりの施設も明瞭になってくる。排水設備の計画的な配置はハブーバ・カビーラ南で登場する。まず最初に、街を南北に走る目抜き通りと主な街路が建設され、ほぼ同時に、街全体を覆うようにして排水網が張り巡らされる。地面を掘った溝に土管が埋設され、排水設備が家屋の建つ場所や街路を横切って配置されている。

つまり、ハブーバ・カビーラ南では、主要な通りや排水管が敷設された後に、リームヘン(断面が正方形の細長いレンガ)で規格化された建物が作られたのである。ウバイド期において建物をつくった後の空き地に土管を付け足した場当たり的な処置とは異なり、ウルク後期の街路や排水設備は周到な計画のもとで建設されている。

ハブーバ・カビーラ南は明らかに計画的につくられた街であり、とくに主要な通りと排水管が最初に設置されている点が重要である。ハブーバ・カビーラ南のモデルであるユーフラテス川下流ウルク遺跡では、すでに都市計画の青写真が出来上がっていたことになる。5000年以上も前に、都市計画に関する知識と技術がすでに成熟していたことはほぼ間違いない。(p122-126)

その他

本来なら、文字の誕生、神殿、行政システムの誕生なども書かなければならないが、これらについては別の記事でやることにする。

『都市の起源』はビール/ワインやスポーツなども取り上げられているがここでは割愛。



以下のことについては別の記事で書く。

*1:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p547-548(第1巻関連年表) 

*2:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p159

*3:メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p43-49

メソポタミア文明:先史② ウバイド文化

メソポタミア文明の最初期はシュメール文明。シュメール文明は最古の文明と言われているが、その直前はウバイド文化で、それなりに栄えていた。

このウバイド文化とシュメール文明の差はなにか、という問題は別の記事でやるとして、この記事ではウバイド文化について書く。

ウバイド文化の誕生

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3(図1-1)、p6(図1-2)

前六千年紀の中頃にサマッラ文化が中部メソポタミア沖積平野の北部に興った。この文化で最古の灌漑農耕が初められたとされる。

メソポタミアは、それまで西アジア先史時代の主要舞台であったレヴァントや北メソポタミアとは、全く異なる自然環境が広がる別世界であった。[中略]ウバイド文化が始まるまで、人々はこの水と太陽が支配する沖積低地を自らの住処として開発する術を知らなかったようである。南メソポタミアに人々が定住的な農耕集落を作り始めたのは、農耕が西アジアで始まってから数千年が経過した紀元前5500年頃のことであった。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p99

川の氾濫のおかげで肥沃な大地はあるものの、雨は少なく木材が無く鉱物も無いこの地域に、灌漑農耕という技術だけがほとんどの頼みの綱のような状態から、文明へとつながるウバイド文化が始まる。

ところで、この本ではサマッラ文化は紀元前5300年の直前*1に興ったと書かれているが、サマッラ文化はウバイド文化より先行しているように書いている。

他の書籍も参照にすると、以下のようなことが想定される。

  • サマッラ文化が興った直後にその担い手の一派が南メソポタミアに植民して灌漑農耕を始めた。
  • 時が経つと南メソポタミアの文化は変質してサマッラ文化と異質のものとなった。これがウバイド文化と呼ばれるようになる。

西アジアの考古学』では「オゥエイリーのウバイド0期と呼ばれている層は、文化要素的には、サマッラ文化に帰属するといってもおかしくないほどである」(p101)と書いてある。ウバイド1期(年代は分からない)になるとエリドゥの遺跡から小さな小型の建物が発見された。これはウルク期まで拡大しなが続く神殿の一番最初のものとされる。

このウバイド1期の文化層から出動する土器は、文様などにサマッラ土器やハラフ土器の影響を受けつつも器形的には独自の要素が強く、ウバイド土器の祖型としての範疇で捉えられる時である。文化指標として土器を一義的に考えるならば、ウバイド1期から真性のウバイド文化が始まったといえるだろう。

出典:西アジアの考古学/p101-102

ちなみにウバイド文化の中の時代区分は基本は1期~4期、これに南メソポタミアに文化が現れた最初期を0期とし、最終文化層として5期が加えられた。(西アジアの考古学/p100)

ウバイド文化の大変革

ウバイド2期までは他の地域に比べて優位とは言えなかった。

ウバイド3層期にはいって、メソポタミア最南部地方の灌漑農業に大変革がおこったようにみえる。それは農耕具の改良を出発点としていたであろう。この時期には、それまでの石刃を装着した木製収穫具にかわって粘土製の鎌が大量に出土しはじめる。おそらくこれは、前代にくらべて耕地面積が拡大したことを示している。とすれば、役畜を犂(すき)につないで土地耕起を行う技法も、この頃に本格的に導入されたのかもしれない。要するに、はじめてメソポタミア最南部地域で大人口が養えるようになり、また彼らによって余剰生産物が作り出されるようになったのであろう。この地域では鉱産物などはほとんど産しない。だから、これらは西アジア各地から輸入されていた。そして、交易にさいして送り出されるべき対価物(羊毛製品、沼沢地のアシを原料としたバスケット類など)も、はじめて最南部地方で大量に生産されはじめたのであろう。もちろん「ウバイドの拡大」によって創出された均質的な空間は、交易を容易にしたであろう。

[中略]ウバイド3層期にいたって、のちのシュメール時代の「町」や「都市」の原型が姿をあらわしたのである。

出典:前川和也 編著/図説 メソポタミア文明/ふくろうの本/2011/p16

  • 西アジアの考古学』によればウバイド3期は前4500年にはじまる(p102)。

ウバイド文化の故地である南メソポタミアでのウバイド3、4期の文化的特徴としては、建築の上からは3列構成ブランを基本とする住居の盛行と定型的な神殿の出現、土器では器形の多様化と文様の単純化、彩文土器の減少、成形に回転台の導入、生業面では、コムギや六条オオムギに加えてナツメヤシなど在地産の食料の開発、ヒツジ・ヤギへの依存の相対的低下とウシとブタの重要性の高まり、道具では鎌に代表されるテラコッタ製農耕具の盛行、などをあげることができよう。このうちのいくつかは南メソポタミア固有の地域的特質を反映した要素であるが、それ以外の、建築や土器の要素の多くがウバイド的要素として南メソポタミアの外へ広がっていった。

西アジアの考古学/p103

灌漑農耕の骨の折れる労働

これらの大きな共同体と、それを支える余剰食糧は、骨の折れる労働による多大な犠牲を払うことで実現したものだった。毎年秋および冬になると、人びとは男も女も狭い運河沿いに集まり、沈泥を除去し、鍬と掘り棒を使って雑草取りに励んだ。運河のなかには、川から5キロも離れた乾燥地帯までつづくものもあった。さらに別の作業班が、この間に粘土と泥土で堤防を強化し、夏の氾濫期に水を溜めておく自然の貯水池の周囲も固めた。どの家族も、沖積土で農業だけを営むわけにはいかなかった。すべてのことが、慎重に配備されたうえ、よく組織された作業班にかかっており、そのなかで人びとは公共の福祉のために汗水たらさなければならなかった。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p188

ナトゥーフ文化前期や先土器新石器時代温暖湿潤の気候と食料資源が豊富な土地の中で文化が栄えたが、ウバイド文化の繁栄は肥沃な土地以外はほとんど人力と言っていいだろう。前者と後者の違いは特筆に値する。

神殿

このウバイド的要素の中でも最も重要なものは神殿であろう。エリドゥⅦ,Ⅵ層(ウバイド4期)の神殿(図41)は、プラン的にも、内部施設的にも、また基壇上に建設されている点においても、後のウルク期の神殿に直接連なる定型的神殿である。中央室奥壁に腰壁、そこからやや離れて供献第が設けられており、宗教的儀礼がおこなわれていたことは間違いない。ほとんど同様のものが、ウルクのアヌ神殿域地区のウバイド層から発見され、また北メソポタミアのテペ・ガウラⅧ層からも発見されている。このような神殿は、他の遺構と比べてかなり大きくしかも遺跡の中央に近い位置から発見されており、宗教的施設であると同時に集落全体の中枢でもあった可能性が高い。

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西アジアの考古学/p102-104

別の書籍から。

大半の人びとはまだ枝をたわめて屋根を葺いた日干し煉瓦と葦の小屋に住んでいたとはいえ数世紀のうちに、ウバイドの大きな共同体には、堂々とした建物や小神殿が出現するようになったのだ。かなりのちに書かれた楔形文字の銘板を信じるとすれば、古代メソポタミアの宗教はこの時代に芽生えた。詠唱と神話が繰り返され、人間の運命を支配して雨や肥沃な土壌をもたらし、豊作を約束する神々をたたえていた時代である。霊界との媒介者や、人間の生命の復活儀式を執り行う人が、つねに権威をもつようになった。かつてのシャーマンや霊媒師が、この時代には急速に増えた余剰食糧に支えられて、本職の神官となったのである。

出典:古代文明と気候大変動/p188-189

メソポタミアの古代の宗教に関する均質性の土台はおそらくウバイド文化期にできたのだろう。

ウバイド文化の拡大

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ウバイド文化の範囲

出典:ウバイド文化>wikipedia*3

出土土器の分布

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出典:図説 メソポタミア文明/p16

下は湾岸への広がり

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出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p25

上の「ウバイド系文化の遺跡」はウバイド式土器またはその破片が発見された場所。ウバイド文化(または土器)が湾岸にまで広がった理由として、著者は湾岸付近の真珠の採集にあったとする(p30)。

車輪の発明

「車輪<wikipedia」に「その起源は古代メソポタミアで紀元前5千年紀(ウバイド期)にさかのぼり、元々は轆轤(ろくろ)として使われていた」と書かれてある。

銅の利用とchalcolithic(銅石器時代

無用の混乱を避けるため、ここでは確実に鋳造品と判断できる最古の例について言及するにとどめることにする。

それは、トルコ南部のウバイド併行期の遺跡Mersin-Yumuktepeから出土した銅製のピンである。[中略]近年これらの銅製品に対して詳細な分析が加えられ、精錬された銅を素材としていること、鋳造によって制作されていること、刃部を敲いて鍛えていること、などが判明した。これにより、紀元前5千年紀のウバイド期(銅石器時代)には、すでに本格的な銅冶金が確立されていたと理解することができる。しかし、これはあくまでも確実な最古の例でしかなく、年代的にさらに遡る可能性も考えられる。ただし、遺跡から出土する銅製品の例が増加し、銅関連の工房跡が確認されるようになるのもほぼこの時期に当たることを考えると、紀元前5千年紀を大きく遡る可能性は低いものと思われる。

出典:三宅 裕/古代西アジアにおける銅冶金技術の歴史/2008(PDF

Chalcolithicは “chalco-” が銅を、 “lithic-” が石を表し、銅石器時代と訳される。他の訳として金石併用時代がある。石器時代と青銅時代の間。

上の論文では西アジアにおける新石器時代の次の時代、銅石器時代(chalcolithic)の年代について教えてくれないどころか、「時代名称は、必ずしも銅利用の状況を正確に反映したものとなっていない」「こうした時代名称はあくまでも便宜的なものである」と書いてある。

ちなみに「chalcolithic<wikipedia英語版」によると、最古の銅の鋳造の証拠はセルビアで前5000年だそうだ。

西アジアの技術史的な時代区分において、新石器時代に後続するのが銅石器時代である。この時代、道具として石だけではなく銅も利用されはじめる。銅石器時代は大きく三つの時代に分けられ、前期がハラフ期(約8000~7500年前)、に相当する。銅石器時代の中ごろは都市化前半のウバイド期(約7500~6000年前)、後期銅石器時代は都市化後半のウルク期(約6000~5100年前)にだいたい相当する。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p48

  • 都市化については次回の記事で書く。



次回は都市の誕生について書くが、都市の誕生/形成期と比較してウバイド期のことも書いている。

メソポタミア文明:先史① 土器新石器時代(アムーク文化とハッスーナ文化/ハラフ文化とサマッラ文化)

西アジアの先史については「先史」カテゴリーにいくつか書いた。

先史:2万年前~(ケバラ文化/マドレーヌ文化)
先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化
先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」
先史:ナトゥーフ文化後期(ヤンガードリアス期)
先史:農業の誕生(新石器革命)と西アジアの新石器時代初期
先史:文化の衰退~PPNB後期と土器新石器時代

土器新石器時代の最後に引用したものを再掲する。

・・・以上のことから、土器新石器時代における集落規模の縮小、公共的建築物の消失、威信財の減少という姿が明確となった。高度に複雑化した先土器新石器時代の社会システムが、その後期あるいは末期に崩壊してしまったと考えることができ、これまでも「新石器時代の崩壊」と呼ばれていた現象が確かにこの時期に認められることを具体的な資料に基づいて明らかにすることができたと言える。

しかし、土器新石器時代を単に社会システム崩壊後の混乱期あるいは停滞期と捉えるだけでは十分ではないと思われる。これまで西アジア新石器時代は、チャイルド(G.Childe)の主張に従って、農耕牧畜という食糧生産の開始によって定義されてきた。しかし、動植物資料の実証的研究が進んだことにより、今では農耕牧畜が確立されたのは先土器新石器時代の後半(PPNB 中期から後期)であったと考えられるようになっている。先土器新石器時代の複雑な社会を生み出し、それを支えたものが必ずしも農耕牧畜という生業ではなかったことになり、むしろ農耕牧畜が確立された段階で「新石器時代の崩壊」が起こっているようにさえみえる。実際、サラット・ジャーミー・ヤヌ遺跡における調査おいても、出土した動物骨の分析からヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタがすでに飼育されていたことが確認されており、その割合は出土した動物骨の95%近くにもなる。また、植物遺存体の分析からは、コムギ、オオムギやマメ類なども栽培されていたことが明らかになっている。土器新石器時代は、農耕と牧畜に基盤を置いた社会であったことは間違いない。農耕牧畜という新しい生業の確立が、社会システムの面ではむしろマイナスに働いたようにみえるこうした現象は、農耕・牧畜が果たした役割を過度に強調する傾向にあったこれまでの考え方に、厳しく見直しを迫っていると言えるだろう。

出典:三宅 裕(研究代表者:筑波大学・大学院人文社会科学研究科・准教授)/西アジア新石器時代における社会システムの崩壊と その再編/2011/リンク先:(PDF

繁栄したPPNB期の後の土器新石器時代より数千年間、西アジアの文化の発展は低調だったようだ。上にあるようにこの低調な時代も農耕牧畜社会つまり農業社会であることは間違いなく、「農業が人類の文化を発展させた」というチャイルド以来の通説は正しいとはいえない、ということだ。

低調な時代は遺跡の数が少ないためか目を惹く発展が無いためか分からないが参考になる書籍もネット記事もほとんど見当たらない。

西アジアの考古学』*1には紙幅を割いて書いてはいるが、大半が土器についてだ。

以下は文化の中身について書かれているところを抜粋する。

アムーク文化とハッスーナ文化

西アジアの考古学』では西アジアにおける土器新石器時代の文化の中でアムーク文化とハッスーナ文化の2つを採り上げている(ほかにも文化はあるがよく分からない)。紀元前6千年紀の文化だ。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p78

アムーク文化

エル・ルージュ盆地ではPPNB後期に定住的なテル型集落が築き始められる。この時期は分地内に中規模の2遺跡が散財しているが、次の土器新石器時代、つまりアムークA、B期になると、かつて存在した盆地中央部の湖を挟むように盆地の北部と南部の扇状地末端に10haを優に越えるような超大型の集落が形成され、それぞれに小型集落が数遺跡ずつ付随する階層的な集落間構造のパターンが認識されるという。盆地南北の超大型集落の試掘調査で、所有権の表示や物流に関連して用いられたと想定されるスタンプ印章や、遠隔地から運ばれたトルコ石製のビーズなども出土している。テル・アル・ジュダイダなど他のアムーク文化に帰属する遺跡からもスタンプ印章は出土しており、なかにはラス・シャムラのようにアムークA期層ばかりでなくその下層のPPNB後期層からもスタンプ印章を出土する遺跡がある(常木1983)。こうしたことを考え合わせるならば、アムーク文化は、階層差と、遠隔地交易を内包した相当に複雑な社会構造を有した社会であった可能性が高いのである。

出典:西アジアの考古学/p81-82

三宅氏の引用と合致しないようだが一応貼り付けておく(ちなみに三宅氏らが調査したサラット・ジャーミー・ヤヌ遺跡は2haの規模)。

ハッスーナ文化

ハッスーナ文化は、『西アジアの考古学』では、プレ・ハッスーナ期と狭義のハッスーナ期に分けられる。プレ・ハッスーナ期の遺跡の住居は、粘土を乾燥させて作ったレンガではなく、ピセと呼ばれる粘土の塊そのものを積み重ねて作ったものである。PPNB期に見られるような計画性のある住居配置は見られない*2 (狭義のハッスーナ期の住居や文化がどのようなものかは書いていなかった)。

続いて狭義のハッスーナ期の土器についての話。

プレ・ハッスーナ段階に続く狭義のハッスーな文化の段階で特筆すべき点は、焼成の良好な彩文土器が多数生産されるようになることである。ヤルム・テペIからはこうした土器を焼成したと考えられる2室構造の垂直焔式土器焼成窯が複数発見されている。これは現在のところ世界最古の土器焼成窯であり、西アジアでは土器を本格的に作り始めてからわずか数百年後には、土器を専用に焼くための窯をつくりだしたのであった。1万年近く継続した縄文土器がその全期間を通じて野焼きされていたことを考えると、その違いは驚愕に値する。というのも、民族例などを見ても、土器焼成窯をもっていて専業的な土器生産をおこなっていない例を筆者は寡聞にして知らず、土器作りに専用の窯を用いることは、土器生産の専業化がかなり進んでいたことを意味すると思われるからである(常木1997)。同じヤリム・テペIからは銅冶金をしたのではなかと想定される資料も出てきており、ハッスーナ文化のパイロテクノロジーは相当進んだ段階に達していた可能性が高い。

出典:西アジアの考古学/p86

ハラフ文化とサマッラ文化

西アジアの考古学』では、アムーク文化とハッスーナ文化は500年ほど継続して その後にハラフ文化とサマッラ文化が登場する(年代が重なる部分がある)。

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出典:samarra culture<wikipedia英語版*3

ハラフ文化

「ハラフ文化の年代は紀元前5300年頃から同4500年頃まで」(p89)で「ホームランドは北シリアから北メソポタミアの平原地帯であり、その遺跡分布は、現在の天水農耕の可能な最低降雨量である年間250mmラインを南限として、東西に広く広がっている」(p92)と書いてある。特徴は以下の通り。

集落間の階層性は乏しく、集落の規模も一般的に小さい。各集落では、簡便なトロス型住居が散財して建てられ、集落全体が周壁や溝に囲われていることもない。生業から見ると基本的には草原の天水農耕民であり、マージナルな地域での不安定な食料生産を補うために、土器生産と交易システムの整備に強い関心を抱いていた。

出典:西アジアの考古学/p93

もしかしたら牧畜がメインで農耕の方が補完的な生業だったかもしれない。「降雨量が十分でない年には満足な収穫が得られずに、どこかへ移動していくか、何かと交換するかなどして食料を得るしかなかった」(p92)とあるのは遊牧民的である。階層を保っていたアムーク文化がこのようなハラフ文化に移行したのは、PPNB期末期のような乾燥化が再び起こったのかもしれない。

サマッラ文化

サマッラ文化の人びとはハラフ文化が現れる直前から「中部メソポタミア沖積地の開発に取り組んでいた」(p93)。特徴は以下の通り。

サマッラ文化の担い手は、北メソポタミアでハッスーナ文化が盛行していた頃中部メソポタミア沖積平野を開発し始めた農耕民で、その後北方にハラフ文化が興ってきてからも中部メソポタミアを中心に暫くの間独自の文化的伝統を守って生活していた。彼らは農耕に人工的な灌漑を本格的に導入した最初の人々であったが、そこでは規則性の著しい定型的な建物がつくられていた。集落の建設はかなりの計画性をもっておこなわれ、共同体規模での協業的な作業も存在した。こうしたサマッラ文化の特質の多くは、続くウバイド文化に取り込まれ、ウバイド文化の基本的要素となっていく。

出典:西アジアの考古学/p99

この本で紹介されているチョガ・マミ遺跡はギネスに「First irrigation canals」として登録されているらしい。年代はおよそ前5500年と書いてある。

灌漑農業は水路を掘らなければいけないので、土木の知識を持っているインテリ層・支配層が存在していただろう。彼らによって計画・規則が決定され、集落の民はこれに従ったのだろう。

上記2つの文化とメソポタミアの風土

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3

2つの文化の位置と上の説明と メソポタミアの風土の地図を重ねると、ハラフ文化が上ジャジーラにあたり、サマッラ文化は中部メソポタミア沖積平野にあたる。

ジャジーラと沖積平野の説明。

ジャジーラはアラビア語で「島」という意味。ティグリス川とユーフラテス川の上・中流のあいだの地域。北から南に緩やかに傾斜している高原。標高は500~200メートル。

ジャジーラはアブド・エル=アジズ山とシンジャル山を境に、北の上ジャジーラと南の下ジャジーラに分かれます。上ジャジーラは標高が比較的高かく、年間降水量は、200~600ミリメートルです。上ジャジーラでは、麦類の種まきの時期に当たる雨季の初めと、実りの時期に相当する雨季の終わりに比較的集中して雨が降るばかりではなく、なだらかな傾斜地で水はけがよいため、昔から豊かな穀倉地帯となっています。また、上ジャジーラは、夏の乾季になると、冬の間、下ジャジーラの河谷で放牧していた遊牧者が牧草を求めてヒツジや山羊をつれて移動してくるところでもあります。

これに対し、下ジャジーラのほとんどは、年間降水量が200ミリメートル以下なので、雨に依存する天水農業は不可能です。そのため人々は、高度な技術がなくとも灌漑可能なユーフラテスやハブル川の河谷に集まってきて集落や町をつくりました。河谷の外は荒地で、農業はもちろん羊や山羊の放牧にも不向きです。

出典:メソポタミア文明入門/p4-5

  • ハブル川はトゥール・アブディン山地からの流水が合流してできた川で、ジャジーラを通りユールラテス川の中流に合流する。

上の説明は現代の風土。『西アジアの考古学』のハラフ文化の描写のほうが気候条件が悪いとすれば、やはり当時は乾燥していたのかもしれない。

続いて沖積平野の説明。

河川が平野部に入り流速が落ちると河水により運搬された土砂が平野部に沈殿堆積する。これを堆積作用という。この作用により形成される平野を沖積平野という。

ティグリス川もユーフラテス川も氾濫を繰り返し、平野部に上流から来た土砂を撒き散らしたので平野部は肥沃な大地となった。これが後のメソポタミア文明の食料資源を支える要素の一つとなる。ただし中部メソポタミアから南部にかけて年間降水量が200mmを下回るため、灌漑農耕の技術・インフラは不可欠だった。

ティグリス川はサマッラの辺りで、またユーフラテス川はヒトの辺りで河谷を出て、幅200メートル近くもある低くて起伏の乏しい沖積平野に入ります。ここでは、両川は、周辺の土地より高いところを流れるいわゆる天井川となり、蛇行しながらペルシア湾に向かいます。

ふだん、川は、過去の氾濫の結果できあがった自然堤防の間を流れていますが、例年になく増水した時は、自然堤防を越えて氾濫しました。また、半連で川の流れが大きく変わることもありましたが、流路が変われば旧流路沿いの町では灌漑ができなくなり、人々は町を捨てて離散したため廃墟となることもありました。[中略]

古代の沖積平野での灌漑農業は、主としてユーフラテス川とその支流を利用したものでした。

他方、ティグリス川は水流が多く、春に急激に増水・氾濫することもあり、灌漑に利用するには不向きでした。したがって古代では、沖積平野を流れるティグリス川に沿って大きな街が発達することもありませんでした。

出典:メソポタミア文明入門/p6-7

サマッラ文化は沖積平野の北部で開始された。なぜ灌漑農耕のような面倒なことまでしてこの地に住み着いたのかは分からない。



*1:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997

*2:西アジアの考古学/p81-82

*3:ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Samarra_culture#/media/File:Mesopotamia_Per%C3%ADodo_6.PNG

メソポタミア文明シリーズを書く

これからメソポタミア文明シリーズを書く。「メソポタミア文明」カテゴリーに保存する。

メソポタミア文明とこのブログの「メソポタミア文明」カテゴリについて

メソポタミア文明はシュメール文明から始まることになっているが、その終わりが何時かはおそらく人によって違うだろう。一つの答えとしてはメソポタミア(≒イラク)はシュメール文明より今に至るまで続いているのだからメソポタミア文明は現在も進行中だというもの。別の答えとしてはヘレニズム文化がメソポてミアを覆う時までというもの。

このブログではそのどちらの答えも採らず、便宜的に(ハンムラビ法典で有名な)バビロン第1王朝(古バビロニア王国)の前までにする。バビロン第1王朝 以降は周辺諸民族が歴史の舞台に現れ、エジプトも西アジアに進出(侵略)してきてオリエント世界を形成し始める。

メソポタミア文明」のカテゴリには現代社会に通じる諸制度の形成を書き、オリエント世界における各国・各勢力の関係史は「オリエント世界」のカテゴリに書こうと思う。「メソポタミア文明」のカテゴリは大部分がシュメール文明の時代のことになるだろう。

メソポタミア文明」カテゴリで書くこと

歴史的な流れ

メソポタミア文明の先史から書き始めて都市国家・初期王朝・領域国家形成とその崩壊まで。こういった歴史は世界中の歴史時代の中で繰り返される。

現代社会の原点

小林登志子著『シュメル―人類最古の文明』 (中公新書/2005)によれば、シューメル文明において「当時すでに文明社会の諸制度がほぼ整備されていた」*1。政治組織、文字システム、学校などが挙げられている。この本では詳しく書かれていないようだが、王権についても取り上げてみたい。宗教については理解できれば踏み込みたい。

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

メソポタミアの王・神・世界観―シュメール人の王権観

メソポタミアの王・神・世界観―シュメール人の王権観

都市

都市の機能もここで詳しくわかると思う。

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

*1:–はじめに–ⅶ

四大文明から三大文明圏へ(枢軸時代/遊牧民)

四大文明については以前に《「四大文明」は学説でも仮説でもなく、ただのキャッチフレーズだった》という記事で書いた。

この記事では三大文明圏について書く。ちなみに三大文明圏というのは、私がこの記事を書くために勝手に作った言葉だ。

三大文明圏

4から3に減ったのはメソポタミアとエジプトがくっついてオリエント世界を形成したからだ。3つの文明圏とは

となる。その他の地域については順に書いていこう。

オリエント文明圏(オリエント世界)

メソポタミア文明はシュメール文明から始まるが、文明は四方に広がり、多数の民族を飲み込んで拡大した。

いっぽう、エジプト文明は前二千年紀中期にレバノン杉(木材)を求めてレヴァント(東地中海沿岸)を北上した。

二つの文明は物・人・情報の交流を密にするようになり、やがてひとつの文明圏を形成した。これがオリエント世界(文明圏)と呼ばれるものだ。

エーゲ海文明・ギリシア文明もオリエント世界の中で興った。エーゲ海文明・ギリシア文明はオリエント世界の一部だ。ギリシア文明は西洋史の一部だが、古代ローマ帝国以降のことを考えなければギリシア文明がオリエント世界の一部であることは疑う余地はないだろう。古代ローマ帝国が文明を形成する前はヨーロッパ大陸に文明化した勢力はほとんどいなかった。

インド文明圏(南アジア世界)

インダス文明は衰亡した。文明の担い手は一部は肥沃なガンジス川へ移住し、また一部は遊牧民化した。その後前二千年紀にアーリア人の一派が北インドに侵入し、彼らの文化を元に現在のヒンドゥー教文化に至る文化文明を形成していく。

中国文明圏(東アジア世界)

中国では黄河流域と長江流域を中心に複数の文化圏が興った。殷・周の勢力はそれほど広くなかったが春秋戦国時代を経て秦帝国が成立し、中国本土を支配する帝国の歴史が始まった。

枢軸時代

枢軸時代(とは、ドイツの哲学者で精神科医でもあったカール・ヤスパース(1883年–1969年)が唱えた紀元前500年頃に(広く年代幅をとれば紀元前800年頃から紀元前200年にかけて)おこった世界史的、文明史的な一大エポックのことである。枢軸時代の他に「軸の時代」という訳語があてられることもある。

この時代、中国では諸子百家が活躍し、インドではウパニシャッド哲学や仏教ジャイナ教が成立して、イランではザラスシュトラツァラトストラ、ゾロアスター)が独自の世界観を説き、パレスティナではイザヤ、エレミヤなどの預言者があらわれ、ギリシャでは詩聖ホメーロスや三大哲学者(ソクラテスプラトンアリストテレス)らが輩出して、後世の諸哲学、諸宗教の源流となった。

なお、枢軸時代とは「世界史の軸となる時代」という意味であり、ヤスパース自身の唱えた「世界史の図式」の第3段階にあたり、先哲と呼ばれる人びとがあらわれて人類が精神的に覚醒した時代、「精神化」と称するにふさわしい変革の起こった時代ととらえられる。

出典:枢軸時代<wikipedia

イラン・パレスティナギリシャオリエント文明圏だ。枢軸時代は三つの文明圏でそれぞれ独立してあらゆる学問・思想の天才たちが現れた時代だ。文字が出現して数千年経ち、積み重ねられた情報・記録の上に彼らが現れた。

ギリシア思想は理論的、インド思想は形而上学的、中国思想は処世的、ヘブライ思想は宗教的という大まかな性格の相違はあるにしても、それらはいずれもそれ以前の素朴な呪術的・神話的思惟方式を克服して、あれこれの日常的・個別的経験を超えた普遍的なるもの(ギリシアではロゴス、インドではダルマ、中国では道、ヘブライでは律法)を志向し、この世界全体を統一的に思索し、そのなかにおける人間の位置を自覚しようとするものであった。じつにここに人間の精神史が始まったというべきである。ギリシア思想とヘブライ思想はその後――ともに近代西欧文明のなかへときゅうしゅうされていったが、インドと中国の精神文明は現在にいたるまで本質的にこの時代に形成されたものをそのまま持続させている点も、ここに注目しておかなければならない。われわれが今日、投票の思想的遺産として語っているものは、本質的にこの時期につくられたものにほかならない。

出典:伊東俊太郎/新装版 比較文明/UPコレクション/2013(初版は1985年出版)/p68

文明の拡大に伴い、多くの文化に触れた人びとは文化の違いだけでなく共通性に興味を惹かれたのだろう。そしてその行き着くところが普遍性となる。人びとは四方を旅して観察したり記録を読み漁ったりして情報を得て普遍性に対する答えを出し続けた。

東西を移動し続ける遊牧民の世界史的役割

上の引用の続き。

ところでこのような大きな変革が、紀元前8世紀から前4世紀にかけて、西はギリシアから、東は中国にかけて、ほぼ時を同じくして起ったのは何故であろうか。当時これらの四つの領域には無数の小国家や都市が分立しており、たがいにそれぞれ知と富と力を争いあったという共通の土着の条件のなかで、さらにこれに加えてアルフレート・ウェーバーが想定し、日本では石田英一郎氏が説かれたような、中央アジア騎馬民族の移動ということが考えられるかもしれない。[中略]

これらは農耕文化圏に遊牧民の文化が侵入して重なりあうという共通のパターンをもっているように思われるが、こうした考え方は、今日まだ一つの仮説にとどまる。しかし前16世紀以降、遊牧民の農耕文化圏への侵入ということはしばしば(大きな波は3回)行われ、その最後のものが前8世紀から前6世紀にかけて、ヨーロッパから北シナにいたるまで、騎馬民族の大移動となって現れていることは歴史的事実であるから、これは注目に値する検証可能な仮説であると考えられるのである。

出典:伊東氏/p68-70

遊牧民(≒騎馬民族)はステップ(steppe)の草原を移動して生活史ている。

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ユーラシアステップ帯(エメラルドグリーンの部分)

出典:ユーラシア・ステップ<wikipedia

遊牧民の生活する領域は上のように広い。農耕が不可能なステップ地帯ユーラシア大陸の高緯度に広がる。遊牧民は西から東まで横断するわけではないが、彼らの文化は西から東まで共通する部分が少なくないらしい。ヨーロッパ系の人の骨が北東アジアで発見され、その逆もある。フン族匈奴説が根強いのもこれらのことに関連する。

ユーラシア大陸を横断して文化を伝播できる可能性のある人びとは遊牧民に限られる。時代が下るとシルクロードを往来するキャラバンやインド洋を往来する交易船がその役割を果たすが、次代を遡るにしたがってそれらの影響力は絞られてるだろう。

古代における遊牧民の文化伝播・交流の役割は今の私には分からない。分かり次第この記事を更新しよう。



先史:先史シリーズの主要な参考図書その他

今回は疲れた。

まず複数ある参考図書が言っている年代が違う。主張が違うことも多い。なんとかつじつまを合わせるなり両論併記なりして切り抜けようとすると、ナショナルジオグラフィックやネイチャーの記事が新しい説を発表しているというような感じだ。そしてあたらしい説のほうが信頼できるかといえばそうでもない。今現在でも論争中の案件なんてたくさんあるからだ。このブログでは、結局独断と偏見で「説」の選択をしたわけだが、新しめのものを採用したか両論併記したかのどちらかにした。

以下に主要な参考図書を書いていくが、

NHKスペシャル取材班/Human~なぜヒトは人間になれたのか~/角川書店/2012

ヒューマン  なぜヒトは人間になれたのか

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか

テレビのドキュメンタリー番組を書籍化した本なので避けようとしていたのだけれど、読んでみるとかなり惹き込まれた本だった。

有名な学者、その筋の第一人者、発掘現場の代表者などにちゃんと会いに行ってインタビューをしているし、アフリカの狩猟採集民であるサン人を取材するためにカラハリ砂漠に行くなど膨大なコストがかかっている。縮小しているテレビ業界においてもNHKの財力は健在だった。

一章ごとのストーリーをすべて信じることは危険だと思うが、その過程で出てくる多くの学者の主張は知る価値のあるものが多いのではないか。2010年以降に出版された先史関連の本は少ないので、新しい知識を得るためにもこの本を読むことは有益だと思う。

先史というと、石器やら土器やら骨やら墓やら遺跡やらの形がどうのこうのというつまらない話と訳が分からない用語が並べてあるだけの考古学の本を思い浮かべるのだが、この本は元がテレビ番組だけあってそれらのようなものを極力つかわずに構成されていた。先史に関してほとんど全く知識が無い私にとって、これはとても助かった。

パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)

ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた

ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた

この本は原著の出版が2015年で、私が読んだ書籍の中で一番新しいものだ。

正直言って「イヌがネアンデルタール人を絶滅させた」ことはどうでもよく(監訳者の河合信和氏ですらこれについて現段階では支持していない)、新しい知識・情報を得るために読んだようなものだ。そしてこの本はその要望に良く応えてくれた。この本を読まなければ、遺物資料の年代測定方法が近年(2014年?)においてより厳密になってこれからの先史の論争に大きく影響を与えそうなことを知らないままだった。

イヌの件に関しては、著者も認めているように確信できるような資料は無いので、今後 著者の主張を裏付ける資料が発掘されるかどうか というところだ。逆に主張を否定する資料が発掘されるかもしれないが。

スティーブン・ミズン氏/氷河期以後(上)(下)/青土社/2015(原著は2003年に出版)

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

この本も石器や骨の話の比率が少なくて読みやすい本だった。発掘・研究を元にして古代の情景を描写する手法を採っている。このようなやり方に反対する考古学者もいるようだが、私は素人の理解の助けになると思う。石器や骨角器をどのように使ったのかとか、肉や穀物をどのように調理したのかとか、考古学者はもっと丁寧に説明してほしい。時代による形の違いも大切だとは思うが。

大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997

西アジアの考古学 (世界の考古学)

西アジアの考古学 (世界の考古学)

この本は、上で書いたような考古学の本だ。つまり「石器やら土器やら骨やら墓やら遺跡やら」をつらつらと書いていく本だ。『氷河期以後』を読まなかったらこの本を理解できなかっただろう。理解する以前に途中で挫折していた。

とりあえず1997年当時の研究成果(?)が実直に書かれているので、ちゃんと読めば有益な本だ。ただし古い本なのでこの本が今、どこまで通用するのかは分からない。私は年代についてはこの本の示したものを利用するのを避けた。

ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)

題名の通り、気候の面から歴史を読み解いている本だ。ただし考古学者である著者は石器や遺跡のこともしっかりと解説している。

気候変動のメカニズムについて紙数を割いて説明している。丁寧で入門者向けのものだ。これより難しいメカニズムの話を理解するためには何を読めばいいのか分からない。「ハインリッヒ・イベント」とか「ボンド・サイクル」とか。・・・メカニズムの話はもうやめよう。

『氷河期以後』ほどではないが、情景を描写する紙数が多くて読みやすい。歴史時代についても書かれているので、また参考図書として利用すると思う。

古代文明と気候大変動―人類の運命を変えた二万年史 (河出文庫)

古代文明と気候大変動―人類の運命を変えた二万年史 (河出文庫)


↑これは文庫化したもの。

ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)

気候の文化史―氷期から地球温暖化まで

気候の文化史―氷期から地球温暖化まで

感想は上の『古代文明と気候大変動』とほぼ同じ。

この本は、先史の部分が少ないので先史シリーズではあまり利用できなかったが、歴史時代の部分は大いに利用しようと思う。

参考にしたブログ『雑記帳

雑記ブログだが、先史の最新の論文を紹介してくれる貴重なブログ。私とは違い先史の知識が半端ないので論文の評価も参考にさせてもらった。このブログの「古人類学」カテゴリーを全部読んだら、私は先史のページの大半をリライトしなければならなくなるだろう。

ナショナルジオグラフィック日本版サイト

数年前の記事まで残しておいてくれるありがたいサイト。ネイチャーの論文の解説も載っていることもある。

論文掲載サイト 『Nature』 『Proceedings of the National Academy of Sciences(米国科学アカデミー紀要)』

検索してよく引っかかるので参考にさせてもらった。しかしabstract以外はほとんど読んでいない。読解力・英語力その他知識不足のため。

先史:アフリカ大陸の農業の起源について

農耕の起源について続けて書いてきたが、この記事では農業の起源について書く。もしかしたら世界史的には農耕起源より家畜の起源のほうが重要かもしれない。

他の多くの地域もそうだが、アフリカの農業の起源についてある程度の通説を形成するには まだ蓄積が足りないらしい。

アフリカ大陸の気候について

アフリカ大陸の地図と気候

まずはアフリカ大陸の地図

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植生の季節変動、2月と8月

出典:アフリカの地図<wikipedia*1

緯度と気候の関係

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(1)熱帯収束帯(赤道低圧帯) 赤道付近ではあたためられた大気が上昇気流を生じ、低圧帯となり降雨がもたらされる。
(2)亜熱帯高圧帯(中緯度高圧帯) 赤道付近で上昇した大気が冷やされ、緯度20~30度付近で下降気流が生じて高圧帯となり、晴天がもたらされる。[以下略]

出典:中村和郎 監修/よくわかる地理/学研教育出版/2013/p49

熱帯収束帯は熱帯で常に低気圧なために常に雨が降り熱帯雨林が、亜熱帯高圧帯は亜熱帯で常に高気圧なため常に晴天で砂漠が、形成される。そしてアフリカ大陸では上の地図のようになる。

熱帯雨林気候と砂漠気候のあいだにはサバナ気候とステップ気候がある。サバナ気候は熱帯に属し、夏季と雨季を持つ。ステップ気候は乾燥体に属し、夏季と雨季を持つが雨季でも少量の雨しか降らない。サハラ砂漠の南縁のステップ地帯をサヘル(地帯)と呼ぶ。ちなみに、サヘルから大地溝帯以東の東アフリカを除いた中央・西サヘルのことを(歴史的)スーダンと呼ぶ(これは歴史で使われる地域名称であり、現在の国名とは別物だ――スーダン(地理概念)<wikipedia参照)。

完新世前期のサハラ砂漠

『農耕起源の人類史』*2によれば、完新世前期のサハラ地域は現在よりも湿潤で、前8000年頃の砂漠は現在の北半分ほどまで縮小していた。年代は学者によってまちまちだが、サハラの中央部にあるタッシリ・ナジェールの先史時代の岩壁画遺跡には8000年以上前の絵画には水牛、象、サイなどの動物が描かれ、前4000年ごろのものも象やキリンが描かれていた。これが前3500ごろの絵画になるとウシの放牧が描かれ、水牛など絶滅した動物は姿を消した*3

乾燥化したさはらは砂漠が南下した。これに伴いサハラの南部で暮らしていた人びとは南下を余儀なくされたが、一部は東のナイル川流域に移住し、エジプト文明の文化形成に寄与した。

エジプトの農業経済の出現

かつては多くの学者はエジプトに農耕起源があると思っていたようだが、そこに祖先野生種が存在せず、西アジアから農耕技術のパッケージが到来するまで農耕の形跡はなかった。農耕技術到来の時期は前5500年だが、この時期はギリシアやイタリアよりも遅かった。その理由はレヴァントとナイルデルタのあいだに人を近づけないシナイ砂漠があったからだ。

結局、エジプト文明の農業の由来はほとんどが西アジアで、唯一と言っていい「起源」が家畜化された在来のウシだけだった。*4

ウシの話は次の節でやろう。

ウシの家畜化

多くの考古学者はアフリカでのウシの家畜化は前6000~5000年以降であるとの見解を示している。その他のヒツジやヤギの家畜化は西アジア由来だ。

フィオナ・マーシャル(Fiona Marshall)とエリザベス・ヒルデブランド(Elisabeth Hildebrand)は東アフリカにおける初期のウシ家畜化について、その主な原動力は「予想可能な資源へのアクセス」への願望であったとしている。別の言葉でいえば、ウシを放牧するのには十分な環境ではあるが、つねにウシが生存できるほど湿潤ではない環境下に住むグループは牧畜をし、環境に左右されるたびに資源条件のよい地域に移動するような方式に転換した。このシナリオは西南アジアで起った順序をくつがえすものであり、もっとも興味をそそられるものである。サハラ以南のアフリカでは、放牧と土器制作は植物の栽培化以前におこったと考えられ、家畜化の初期段階は定住性ではなく移動性とともに発展した。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p162-163

西アジアでは「定住化→農耕→家畜」の順で出現したが、アフリカでは移動性狩猟採集民がウシの家畜化をするようになった。エジプト南部にあるナブタ・プラヤ遺跡やビル・キセイバ遺跡は完新世前期の湿潤期においてウシの牧畜をしていた。

ウシの牧畜は完全な定住ではないようだ。上述のナブタ・プラヤやビル・キセイバは夏場の放牧地だったようだ*5*6。また環境の変化で放牧地が利用できなくなった時は、速やかに別の場所を探すしかなかった。このような移動性は広範なネットワークをつくった。ウシの牧畜はサヘルと湿潤化されていたサハラで行われていた。このネットワークの中で文化が伝播していった*7(余談だが、中央ユーラシアの遊牧民も同様なネットワークがあり文化を共有した。東西ユーラシアの電波の担い手にもなったと思われる)。

農耕の起源について

[アフリカにおける]作物のなかでもっとも重要なものは、穀物のモロコシ、トウジンビエであり、両方とも乾燥したサヘル地帯とサバンナ地帯で栽培化された。アフリカイネとギニアヤムは西アフリカの森林―サバンナ境界の作物となった。さらに西アフリカのアブラヤシ、ササゲ、ピーナッツ、またエチオピアの作物としてシコクビエ、粉にして平たいパンをつくる穀物のテフ(Eragrostis tef)、葉の根本の一部を食用にするバナナの仲間であるエンセーテ(Musa ensete)などがくわわった。

前述したすべての穀物は西南アジアと中国の穀物同様一年生である。しかし、アフリカの穀物は他家受粉の傾向が強く、意識するしないにかかわらず、人間による選別は、野生植物が分布する範囲外に植えられた場合のみ機能したであろう。このことは非常に重要であり、アフリカの穀物は西南アジアのものほど容易には栽培化されなかった可能性がある。高度に合目的になった人間の行為が栽培化の過程を完結させるのに必要だったのかもしれない。

もしそうであるなら、アフリカ在来植物の栽培化が近年になってからおこった証拠が発見されてもそれほどおどろくにはあたらない。トウジンビエは紀元前訳2000~1500年にモーリタニアのダール・ティシット(Dhar Tichitt)と北ガーナのビリミ(Birimi)で栽培化が開始された。モロコシとアフリカイネは紀元前一千年紀にようやく栽培化された。モロコシとアフリカイネがアジア北西部とおそらくアラビア半島に、後期ハラッパー文化(紀元前1900~1400年頃、詳細は第4章参照)にもちこまれたという証拠から支持される。紀元前2000年以前、雑穀は実際に栽培されていたかどうかはともかくとして、野生植物としては採集されていた。

出典:農耕起源の人類史/p161-162

年代についてはまだ論争中で、栽培が前5000年にまで遡るという説もあるようだ。上の著者ベルウッド氏はアフリカ在来の野生の穀物が他家受粉であることを重要視して、年代を遡らせることに慎重だ。書籍には書いていなかったが、西アジアの栽培に関する知識がアフリカ在来穀物の栽培化に寄与したと考えているのだろう。

アフリカ中・南部における農耕の出現

紀元前1500年、熱帯雨林とおそらく赤道以南のすべての地域をふくんだアフリカ大陸の南半分は、狩猟民と採集民の土地としてのこされていた。つまり、有史以前の世界における、もっとも衝撃的で広範囲におこった農耕拡散がはじまるまでは、ここは未開拓のままのこされたのである。

出典:農耕起源の人類史/p166

アフリカ大陸の赤道付近の熱帯雨林地帯には「ツェツェバエ地帯」である。ツェツェバエはヒトや家畜を重病または死に追いやる感染症を引き起こすので人びとの移動を制限した。



*1:パブリック・ドメイン/ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%9C%B0%E7%90%86#/media/File:Africa_FebAug.gif

*2:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p154-155

*3:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p211-212

*4:農耕起源の人類史/p158

*5:Nabta Playa<wikipedia英語版

*6:Bir Kiseiba<wikipedia英語版

*7:農耕起源の人類史/p164