歴史の世界

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メソポタミア文明:戦争のはじまり/「国家」の誕生

戦争
現在では,国家を含む政治的権力集団間で,軍事・政治・経済・思想等の総合力を手段として行われる抗争(内乱も含む)をいう。従来は,狭く国家間において,主として武力を行使して行われる闘争のみが戦争と定義されていた。

出典:百科事典マイペディア<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

「戦争」と言えば、国家どうしの戦いのことを指すのが普通だが、この記事では、国家形成以前に戦争がはじまった、としている。

しかし、「戦争」が本格化していくのは、複数の有力な都市国家が現れて覇権争いを繰り返す初期王朝時代に入ってからになるだろう。

実は この「戦争」と《「国家」の誕生》は関係がある。

戦争のはじまり

さかのぼれば新石器時代にはすでに戦争は北部メソポタミアで起こっていた。ハッスーナ文化期(前6000-5000年頃)後期にテル・エス・サワン遺跡は全体が周濠に囲まれ、後期になると城壁で囲まれていた。チョガ・マミ遺跡では城壁と灌漑用水路らしき溝がともに発見されている。周濠や城壁は敵の来週に備えた防備のための設備であって、当時すでに灌漑農耕社会における土地争いが起きていたことを示している。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p112


6000年前ころから、社会的緊張の高まりがメソポタミアとその近隣地域に波及して、あちこちで防衛用の壁や施設が構築されていった。それに併せて自衛のための武器も開発されていく。ウル胃液では、ウバイド終末期の段階で、銅製の槍先や磨斧、棍棒頭などが副葬されていて、集落を護る軍人の職能が生じていた。武器類の出現は先行期には見られなかった新しい一面である。「ならず者」が特定の集落に侵入してきた際、自衛のために使われたと推定される。

ただ、いずれも小型の規格であり、これだけでは当時の社会に戦争が起きていたことにはならない。その[(戦争が起きていたことの)]証明には、戦闘用の各種武器をはじめ、戦争を起こす国家的な権力、戦時に街を護る堅固な城壁、戦後処理としての捕虜・奴隷の収容施設など、さまざまな事象がそろってこなければならない。[中略]

ウルク中期後半になると、交易や市場の活性化により、良からぬ「ならず者」との接触がいっそう増えて、簡易な防衛施設だけで都市敵集落を護ることが難しくなる。自衛対策だけでは集落の防御施設だけで都市的集落*1を護ることが難しくなる。自衛対策だけでは集落の防御は不足となり、長距離の交易ルートも必要となって、本格的な城壁の建造とともに武器の開発が進行していく。城壁や武器によって護るのは住民や余剰食糧だけでなく、遠隔地から運んできた貴重な資源や、それを原料として生産された製品も含む。

そして、ウルク後期には社会的緊張が極度に高まり、都市的集落の人や資源などの富を護るために、「ならず者」やその予備軍的な存在を先に叩く攻撃的な側面も付加されていく。権力をもつ支配者によって、武器の開発とともに攻撃力を備えた軍隊組織が形成されていき、敵の攻撃を想定した堅固な城壁が建設されていく。戦争により生じる捕虜は連行され、勝者の奴隷となる。戦争を示唆する一連の証拠はウルク後期にそろってきていることから、西アジアでは約5300年前に本格的な戦争が起き始めたといえる。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p119-204(太字強調は引用者による)

ウルク後期はウルク市で都市が誕生したばかりの時期で、ほかの都市は、小泉氏によれば、北シリアのハブーバ・カビーラ南だけだがこの都市はウルクが鉱物などの資源を調達するための植民都市だった。

このように考えれば、戦争のはじまりは、「都市ウルク」vs「ならず者」ということになるのだろう。ここでいうところの「ならず者」は都市ウルクからの視点によるもので、ウルク周辺の発展途上の集落も含むのだろう。

そして小泉氏のいう「都市的集落」(都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落)の幾つかが、都市としてウルクに対抗できる存在になった時、初期王朝時代へと向かっていくことになる。

捕虜奴隷

戦争に敗北したために奴隷にされた「捕虜奴隷」がいた。現代は、戦争があっても捕虜の人権に一定の配慮がなされている。だが、近代以前の社会にあっては戦争で負ければ、過酷な運命が待っていた。戦争捕虜の男性は反乱を起こすことを恐れて殺され、女性たちは捕虜として敵国に連れて行かれたが、彼女たちに男の子がいた場合には問題であったことを「アマルク(ド)」という言葉が表している。

第二章でも話したようにシュメルでは農民も家畜を飼い、また周辺の荒野には遊牧民がいて、家畜の去勢は古くからおこなわれていた。その技術が人間の去勢へと展開したようだ。アマルク(ド)という語は本来「去勢された若い牛(若い大型動物)を意味したが、ウル第三王朝時代のラガシュ市から出土した文書では、若い成人男性や少年にもアマルク(ド)の語が使用されていて、「去勢された若者」を意味した。戦争捕虜として連れて来られ、羊毛紡ぎ(つむぎ)などをさせられた女性たちの息子が将来反乱を起こしたり、逃亡したりすることを前もって防ぐために去勢されたようだ。

出典:シュメル/p151-152

上のような話は、オリエント世界や古代ローマの歴史の本にも出てきた。中国・明帝国鄭和は たしか「アマルク(ド)」だったはずだ。著者は「現代は、戦争があっても捕虜の人権に一定の配慮がなされている」と書いてるが、国際社会を気にも留めない勢力は現代にもいると思うがどうだろう。

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ウルク遺跡で見つかった円筒印章の陰影

出典:都市の起源/p203

《「国家」の誕生》あるいは《「国家」の形成》

小泉龍人著『都市の起源』では《「都市」の誕生》と《「国家」の誕生》を区別している。

自説として、古代西アジアでは都市と国家は同時に登場しなかった。都市が誕生した後、その都市を軸として国家的な仕組みが構築されていき、実効支配領域をともなう都市国家が出現することになる。

つまり、国家とは、複雑に発展していった都市社会がたどり着いた到達点であり、国家なしに都市は存在しうるが、都市の存在しない国家は西アジアでは考えにくい。

ウルク後期、シュメール地方にはウルクの街しかなかったため、ひとり勝ち状態の「都市」には国家的な権力は未熟な状態であった。まもなくして、ライバルの都市が多数出現することで、互いに競合するようになり、本格的な権力をともなう「都市国家」へと発展したのである。

出典:都市の起源/p197

「国家的な仕組み」=「国家」とすれば、まず「戦争」がはじまる前に未熟な状態の「国家」が形成され、複数の国家が「戦争」を含む「競合」をするようになり、より合理的な政治・行政の構築を迫られ、その結果、《本格的な権力をともなう「都市国家」》が完成した。



*1:「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。――引用者注

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ④(聖婚儀礼・王)

前回の記事「メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ③(神)」から引き続いて書く。

今回も前回同様に小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』と前川和也編著『図説メソポタミア文明』に頼って書く。

前回に引き続き、今回も上段のシーンに焦点を当てながら「ウルクの大杯」全体の図像の意味について書く。

聖婚儀礼

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出典:図説メソポタミア文明/p9


「大杯」の図像をゆっくり眺めてきたが、それでは図像全体でなにを表しているのだろうか。[中略]

下段と中段に表された場面を踏まえると、上段は都市国家の王が豊穣を祈願あるいは感謝する場面であることは間違いないが、さらに踏み込んで王と女神官による「聖婚儀礼」が表されているとも解釈され、「大杯」の図像はその最古の例になると考えられる。

「聖婚儀礼」は男女の交合により、混沌から秩序を回復し、不毛を豊穣に変えることなどを意味する。シュメルだけの特異な儀礼ではなく、世界中で広く見られる。シュメルでは女神官と王が「聖婚儀礼」をおこない、豊穣がもたらされると考えられていた。

「聖婚儀礼」は元旦におこなわれていた。元日の持つ意味は現代日本では薄れてしまい、単に一年の最初の休日となってしまっているが、シュメルのみならず古代社会では元日は宇宙のはじまりに重ね合わされる日、つまり新しい生の循環が始まる日であった。

出典:シュメル/p75-76


ウルクの大杯」はなにを示しているのか。「聖婚」儀礼が描かれているとする研究者もいる。前三千年紀はじめには、イナンナ女神とドゥムジ神のあいだの「聖婚」儀礼が国家祭儀にまで高められていたらしい。当時の文献テキストによれば、ドゥムジの役割を演じる支配者がイナンナ神殿をおとずれて、カップルはおそらく性的合一をとげる。

前3000年頃のウルクにおいて、のちのテキストにみえるような「聖婚」儀礼がすでに成立していたかどうか、はっきりしない。けれども、「ウルクの大杯」に豊穣を祝う儀礼が描かれていることを、疑うことはできない。支配者は、耕地や牧地の生産物をイナンナに届け、イナンナはこれを祝福し、また次農業サイクルにおける支配者の役割を保護する。

古代メソポタミアとりわけ前二千年紀までの宗教イデオロギーでは、支配者は上によって選ばれる。彼は、この世を管理、支配するためのさまざまの手立てを、神から与えられる。そのことが、「ウルクの大杯」によって図像化されたのである。「ウルクの大杯」において、神の命令のもと、生産、消費体制を管理するために、王が生まれ、国家組織が確立されたことが、はじめてあざやかに語られた。

出典:図説メソポタミア文明/p10

「大杯」が表すものは諸説あるらしいが、「聖婚儀礼」だということで話をすすめる。

まず、豊穣を祈願あるいは感謝するために農作物を都市神イナンナに献上するという宗教的意味がある。

もう一つ、こちらのほうが重要だと思うが、女神官が都市神イナンナ、王がドゥムジ(牧神)の役割を果たして、神と王が一体であるというデモンストレーションをおこなうという政治的意味がある。

支配者・王

ウルクの大杯」がいつ制作されたかについては、『シュメル』と『図説メソポタミア文明』では意見が分かれる。

『図説メソポタミア文明』では、「考古学編年でいうジェムデト・ナスル期(紀元前3000年頃)に制作されたらしい。」としている。(p6)

『シュメル』では、ジェムデト・ナスル期の宝物庫から発見された「大杯」は「かつては大切に使用されていたらしく、補修の痕跡があったことから、前の時代であるウルク文化期(前3500-3100年頃)後期に作られたようだ」としている。(p54-55)

このブログで何度も紹介している参考図書の『都市の起源』*1では「ウルク後期に帰属する」としている(p145)。

ウルク期の支配層の形成については、別の記事「メソポタミア文明:文明誕生直後の神殿の役割」の節「文明誕生直後(ウルク期後期)の神殿の役割」で触れたが、簡単に言うと、支配化はウバイド期末期よりはじまり、初めは神殿の祭司あるいは神官に権力が集中したが、ウルク期後期になると、世俗の支配者が登場するようになった。

やがて、ウルク後期末には、ウルク遺跡の祭祀儀礼に関連した建物に、銅と銀の合金で鋳造された鏃(やじり)が奉納される。この合金鏃は威信財あるいは儀器(祭具)として特別に扱われている。おそらく、ウルク後期には軍事の職能を有する人物の社会的地位がもっとも高くなり、最終意思決定者としてコミュニティを支配するようになっていたのであろう。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p177

言うまでもなく、この最終意思決定者が王だ。

ウルク期には、公益活動の活発化にともない、祭司とはことなる世俗的な立場の指導者が登場して、余剰財を集中管理するようになる。都市的な性格の強まるウルク後期までに、交易ネットワークにより集積していく富に支えられながら、世俗的な指導者はコミュニティを統治する合理的な仕組みを思いついた。施政者は、乾燥気候と洪水という厳しい環境で都市的集落を存続させるために、自然現象は神意によるものとして神を頂点に据えた秩序を創り出し、神殿を主役に見せかけて経済を動かすという着想を得た。

つまり、古代西アジアにおいて、ウルク後期ごろに、世俗的な指導者は神と人の間に厳然たる線を引いて、抗うことのできない新たな秩序をつくりあげることで、神の代理として君臨する「勝ち組」になったのである。おそらく施政者は、有り余る富で神に仕える祭司たちを上手く取り込んだり、もしくは自らが祭司の長を兼ねたりして、コミュニティの支配者になったと推測される。

出典:都市の起源/p178-179

  • 「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。



*1:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ③(神)

前回の記事「メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ②(牧畜・家畜)」から引き続いて書く。

今回も前回同様に小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』と前川和也編著『図説メソポタミア文明』に頼って書く。

中段:剃髪した裸の神官

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出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p55

中段では、羊と逆方向に裸の男の行列が二種類の容器と注口付き壺をもって歩いている。『シュメル』によれば、この剃髪した裸の男は神官だとする。「剃髪、裸体の意味はよくわからない」(p71)。二種類の容器には下段の農地から作られたパン類と羊乳が入っているのだと思われる*1

上段:神への献上

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図説メソポタミア文明/p9

上段の図はウルクの都市神である女神イナンナにウルクで育った作物で作られたものを献上しているシーン。

欠損している部分は当時のウルクの支配者と考えられている。これは残存している部分に格子状の長いスカートの裾と素足、それと後ろの従者が持っている長い房飾りより判断できる。ほかの円筒印章にこれと同じような図像があるからだ。この支配者はおそらく「エン」の称号を持っていた。「エン」とはすなわち王である。*2

下は円筒印章の例。

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出典:三笠宮崇仁監修、岡田朋子・小林登志子共著/古代メソポタミアの神々/集英社/2000/p44

支配者については別の記事で書こう。

「エン」の前で容器を持っているのは中段と同じ裸の神官で、献上品をまさに献上しようとしている。これに対面しているのは女神官とする。これを女神イナンナとする説もあるが、『シュメル』(p74-75)によれば、鼻の前に手を置く姿を祈りを捧げているポーズとみて女神官としている。

女神官の後ろに奇妙な形のポールが2本ある。これは葦束で女神イナンナを表す。「イナンナ神をあらわす楔形文字は、もともとはこのポールを形象した文字サインだった」(図説メソポタミア文明/p8)。

ポール(女神イナンナ)の右側は神殿(の倉庫)を表している(ポールは神殿の入り口も表している)。

「大杯」の葦束の後方は神殿内部の様子である。二重の線で、二頭の羊が表されている。羊の背に置かれた台上に二人の人物が刻まれている。葦束を背後にした後方の人物は合掌している。前方の人物はなにかを手に持っているが、一説によれば古い時代の文字、エン(「主人」の意味)を持ているともいう。また、後代には神は動物の上に乗って表現されることから、二人の人物は神あるいは神像を表すとも考えられている。

一対の大杯の背後に、ガゼルとライオンの形をした容器がある。その下には一対のパンを盛った高坏(たかつき)、一対の供物籠が置かれ、犠牲として奉献された牡牛の首もある。詳細な部分では意味がわからないものもあるが、全体としては神殿内の供物を表しているようだ。

出典:シュメル/p74

神(最高神アン・女神イナンナ)

古くはウルク市の都市神、つまり都市の最高神はアンであったが、アンはデウス・オティーオースス(「暇な神」)となり、代わってアンの娘、妻あるいは「聖娼」といわれるイナンナが都市神となったと考えられている。ただし、その時期や理由はわからない。イナンナはのちにアッカド語でイシュタルと呼ばれ、豊穣と性愛、戦争の女神としてメソポタミアで広く、長く信仰された最大の女神である。

出典:シュメル/p73

最高神アンについて

アンはシュメールの神話で「太陽の頂き」あるいは「天」という意味の名前を持つ神である。アンはシュメール神話の神々の中では、大地の神エンリルや深淵の水の神エンキと並んで最も古い神である。エンリルが、シュメールとアッカドの事実上の最高神となるまでは、アンが最高神であった。アンはアッカド神話ではアヌと呼ばれる。

出典:アヌ (メソポタミア神話)<wikipedia

最高神アンはシュメールの天地創造に関係している。

最も古いシュメール人が考えていた宇宙観によれば、宇宙はアン(天)とキ(地下世界を含む大地)の二層構造からなっていた。アンとキとは本来は一つの世界であった。原初、そこには神々だけしか住んでいなかった。その後、人間の住まう場所が必要となったために、ある時点で分離してしまったという。

出典:アンソニー・グリーン監修/メソポタミアの神々と空想動物/山川出版社/2012/p13/上記は稲垣肇氏の筆

アンは最高神であり、かつ、創造神でもある。男神

ウルクの都市神イナンナについて

その名は「天の女主人」を意味するとされている。アッカド帝国期には「イシュタル」と呼ばれた。イシュタルは南アラビアの女神アスタルテやシリアの女神アナトと関連し、古代ギリシアではアプロディーテーと呼ばれ、ローマのヴィーナス(ウェヌス)女神と同一視されている。

出典:イナンナ<wikipedia

イナンナはあらゆる土着の女神と同一視された。イシュタルは「新アッシリア語名で、古くバビロニアの「星」の意味に由来」するとあるから*3、本来はイナンナとは別の神で のちに同一視(習合)されたのだろう。

シュメルの最高女神イナンナは元来はニン・アンナ「天の女主人」という意味だが、イナンナを表す絵文字は豊穣の「葦束」から発達したものである。

出典:古代メソポタミアの神々/p38

イナンナはもともと土着の豊穣女神だったが、ニン・アンナ「天の女主人」という名前を、おそらく後からつけられたのだろう。もともとは豊穣の神であり、「戦いの神」などの神性も習合した神々たちのものだったのだろう。



*1:図説メソポタミア文明/p8

*2:シュメル/p70、図説メソポタミア文明/p6

*3:イシュタル<wikipedia

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ②(牧畜・家畜)

前回の記事「メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ①(農耕・栽培)」から引き続いて書く。

今回も前回同様に小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』と前川和也編著『図説メソポタミア文明』に頼って書く。

下段:農耕と牧畜の風景

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出典:前川和也(編著)/図説メソポタミア文明/ふくろうの本/2011/p11

ヒツジ

「大杯」下段、大麦となつめやしの上には羊の図像が彫られている。

西アジア世界は、シュメル人が活躍していた時代から今にいたるまで穀物といえば麦、家畜といえば羊の世界である。遊牧民だけでなく、有畜農耕社会であったから農民の身辺にも羊がいた。

シュメルの彫刻師は事物を正確に描写していて、その図像は貴重な資料となりうる。「大杯」には二種類の羊が彫られている。一説によれば牡牝を表現しているという。別の説では羊の種類を表現しているとする。一種類は尾が長くて胸に房毛があって、角が螺旋状に水平に伸びた毛羊であり、もう一種類は角のない羊である。[中略]

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シュメル人は羊を頭部や角では表現せずに、古拙文字の「羊」は肛門の形でした。「牡牛」を表す古拙文字も一見して頭部の形とも見えるが、実際は陰部の形ともいわれている。こうした文字を生み出したシュメル人が特に変わった趣味だったということではない。周囲の荒野には遊牧民がいて有畜農耕社会であったシュメルには、家畜の群れを管理するための去勢や「先頭の山羊」などの技術もあった。シュメル人にとって、麦が豊作になることと同じように、羊が多産であることも大切なことであった。発情を知るためには家畜の生殖器に注目せざるをえず、こうした必要が文字を生み出すさいにも反映したのではないだろうか。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p65-66

『図説メソポタミア文明』には 「のちの時代の図像にみえる山羊・羊群のように、フリース状の毛が描かれていない。このペア飼育の主目的は、搾乳であったのかもしれない」 と書いている。家畜用のヒツジはいろいろな種類がいて、乳用種、毛用種、肉用種などに分化しているらしい。

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山羊1頭と羊2頭(ウルのスタンダード)
2頭の羊と先導山羊。山羊・羊の体毛が強調されていて、飼育の目的が羊毛獲得にあることはあきらかであるが、現在の羊とちがって大きな角をもっている。
左は外国人に連れられた羊。
前3千年紀中葉。
大英博物館
画像提供:DNP

出典:図説メソポタミア文明/p79

wikipediaのヒツジのページは以下のとおり。

ヒツジを家畜化するにあたって最も重要だったのは、脂肪と毛であったと考えられている。肉や乳、皮の利用はヤギが優れ、家畜化は1000-2000年程度先行していた。しかし山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯に暮らす遊牧民にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、現代でもヒツジの脂肪が最良の栄養源である。他の地域で脂肪摂取の主流となっているブタは、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、宗教的にも忌避されている。こうした乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されている。それぞれ、脂尾羊、脂臀羊と分類される。

出典:ヒツジ<wikipedia

ヤギ

家畜としてのヤギ
ヤギは家畜として古くから飼育され、用途により乳用種、毛用種、肉用種、乳肉兼用種などに分化し、その品種は数百種類に及ぶ。ヤギは粗食によく耐え、険しい地形も苦としない。そのような強靭な性質から、山岳部や乾燥地帯で生活する人々にとって貴重な家畜となっている。ユーラシア内陸部の遊牧民にとっては、ヒツジ、ウシ、ウマ、ラクダとともに5種の家畜(五畜)のひとつであり、特にヒツジと比べると乾燥に強いため、西アジアの乾燥地帯では重要な家畜であり、その毛がテントの布地などに使われる。ヤギの乳質はウシに近く、乳量はヒツジよりも多い。

出典:ヤギ<wikipedia

先ほどの小林氏の引用の続き。

「先頭の山羊」とは、羊の群を制御するさいに混ぜる山羊のことである。羊はおとなしいので、性格の激しい山羊を混ぜてやると、山羊が先頭に立ち、羊はその後について行く。牧人は山羊を制御すれば、羊の群れ全体を制御できることになる。第四章で話す「ウルのスタンダード」の「共編の場面」中断に見える一頭の山羊と二頭の羊は「先頭の山羊」とそれにしたがう羊の群れを象徴しているようだ。

出典:小林氏/p66-67

『シュメル』にも『図説 メソポタミア文明』にも「先頭の山羊」以外のヤギの利用はほとんど書いていなかった。ヤギに求められていたものはヒツジ、ウシ、ブタにシェアをとられてしまった。性格の激しさが祟ったのかもしれない。

ウシ

ウルクの大杯」にはウシは描かれていないが、『シュメル』ではウシ、ブタ、魚について触れられているので順に書いていこう。

ウシは食肉として利用されたのではなく、牡牛は犂を牽引させるための役畜、雌牛は乳をとるために利用された。

シュメル社会では力強い牡牛は犂を牽かせる大切な動物であった。シュメルのみならず古代オリエント世界では先史時代以来、この牡牛の力に畏敬の念を抱き、牛の角や頭部は力の象徴として崇められた。これが男神の根源的な姿であるが、やがて、男神は人間の男性の姿で表わされるようになっていった。シュメルでは図像で神であることを表すさいには、角の付いた冠をかぶっている姿が決まりとなっていることもある。この角は牛の角を模している。[中略]

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ウバイド遺跡のニンフルザク女神の神殿からは石製装飾壁(フリーズ)が出土している。この図像では、左側では四人の男が乳製品を作っており、真ん中には牛舎があって、仔牛の頭が見える。

右側は搾乳の場面であり、母牛の前に行使が連れて来られている。これは今日の搾乳とはかなりちがっている。現在の代表的な乳牛、ホルスタイン種のような乳牛は人間が改良して作り出した牛である。あたり前のことながら本来、母牛は人間のために乳を出すのではなく、仔のために出すのであり、この母牛が仔牛の匂いをかぐことで乳を出すことを表している。また、現在は牛の横から搾乳するが、ここでは牛の後ろに搾乳する人がいて、シュメルにおける酪農の様子を伝えている。

出典:シュメル/p68

ブタ

シュメル人は豚肉を食べたが、一般に羊肉の方が上等と考えられ、好まれたらしい。豚肉は女どれの食べ物と考えていたようで、次のようなことわざが残っている。

脂身はおいしい。
羊の脂身はおいしい。
女奴隷にはなにを与えようかしら。
彼女(=女奴隷)には豚のハム(あるいは臀(しり)の肉)を食べさせておけ。

そうはいっても、食べ物のこの実は一概にはいえず、犬の餌にもされている豚肉を后妃が食用とした記録もある。

また、豚の飼育は女性の仕事であったようで、こうした例は羊や牛には見られない。豚は肉だけでなく、皮や油も利用し、ことに豚の脂は皮膚に塗られていた。日本のように湿度の高い土地では身体に油を塗ることはあまりしないが、シュメルでは、直射日光から肌を守る民に胡亥で働くさいに豚の脂を塗っていたようだ。

出典:シュメル/p70-71

現代の豚肉はおいしいが、シュメール人は豚肉をあまり改良していなかったのだろう。

シュメール地方ではティグリス・ユーフラテス両川とペルシア湾で魚がとれた。ただシュメル語で魚の名前・種類を特定することは難しいらしい*1

ロバ

ここでは小泉龍人著『都市の起源』から。

[車輪と荷車の開発と]同時に、野生ロバが家畜化され、橇(そり)や荷車の牽引に利用されはじめる。中部メソポタミアのテル・ルベイデ(ウルク中期)や、ハブーバ・カビーラ南(ウルク後期)などでは、家畜化されたロバの骨が検出されている。また、パレスティナ地方の墓からは、籠を背中に積んだロバ形模型が出土して、ロバが荷物の運搬に利用されていたことを示す。さらに、ロバの引く荷車の車輪らしき土製品がウルでも見つかり、荷車はロバの家畜化とともにウルク期後半の発明とされる。」

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p158



*1:シュメル/p71

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ①(農耕・栽培)

小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』の第二章《「ウルク出土の大杯」が表す豊穣の風景》(p53~)と前川和也編著『図説メソポタミア文明』の序章《「ウルクの大杯」を読む 文明成立の宣言》(p6)で、ウルクの大杯が取り上げられている。

ウルクの大杯(英語:Warka Vase)とは古代都市ウルクで出土したアラバスター(雪花石膏)製の高さ1.10メートルもある大きな器だ。ウルク最高神イナンナの神殿への献上品だそうだ*1。外周にはウルクで作られた農作物を都市神イナンナへ献上する絵が描かれている。

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出典:前川和也(編著)/図説メソポタミア文明/ふくろうの本/2011/p6

この大杯自体 メソポタミア文明の代表的傑作だが、文字で書かれた史料がほとんどない時代に宗教儀礼などが描かれているこの大杯は当時の時代を知る上でも特に重要である。

ここでは、小林氏、前川氏の本に倣って、外周の絵を元に当時の農業や神・神殿に関することを書きたいと思う。その後でこの大杯のことも書いてみよう。

図像の構成

外周の図像は空白部を挟んで上・中・下の三段で構成されている。

下段:農作物の象徴として農地と動物が描かれている
中断:人々が農作物を運ぶ場面
上段:都市神イナンナへ農作物を献上している場面

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出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p55

これらの図像のメインはもちろん上段の神への献上の場面となる。

農地・牧場で農作物を作り、農作物を神殿まで運び、そしてそれらを神へ献上するというストーリーになっているので、まずは下段から見ていこう。

下段:農耕と牧畜の風景

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出典:図説メソポタミア文明/p11

この図像は下段の一部だが、下段はこの図のコピーが一周している。

最下部の波線は河川(ユーフラテス川)と灌漑に利用する水路を示す。天水農耕(雨水に頼った農耕)の最低条件である年間降水量200ミリに満たないシュメール地方では灌漑の技術は不可欠だった。

波線の上の2種類の草のような図像の列は農地を表す。前川氏によれば(p8)これらは「大麦と亜麻」、小林氏によれば(p58)「大麦となつめやし」だった。どちらが正しいかわからないが、3種の作物はいずれもシュメール地方には大切なものだった。

ここでいう大麦は、前川氏によれば、六条大麦で塩分に強いという特徴をもっている。シュメール地方は低地で海に近いので塩害に悩まされることが多かった。(図説メソポタミア文明/p8)

なつめやしも耐塩性に優れ、穀物が不作でもなつめやしが不作でなければ飢えをしのぐことができた。なつめやしからは酒や蜜も作ることができ、乾燥なつめやしは旅の携行食糧となった。

亜麻はその茎繊維が衣服の材料となる。亜麻から作られる織物はリンネルと呼ばれる。

農耕の景観

ここで農耕について書いてしまおう。

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出典:シュメル/p60

上はシュメール地方の農地のようすを表している。この図と同じものが『図説 メソポタミア文明』にもあった(p69)。この図を作成したのはケンブリッジ大のポストゲイト Postgate 氏(1992)。中田一郎著『メソポタミア文明入門』*2(p57)には上部の図が説明を併せて載っているのでこちらも頼って書いてみよう。

河川のコントロール

まず川が天井川になっている。天井川(てんじょうがわ)とは、「砂礫の堆積により河床(川底)が周辺の平面地よりも高くなった川」のこと*3ティグリス川もユーフラテス川も大量の土砂を運んで流れている。

ナイル川ティグリス川・ユーフラテス川も氾濫を起こす川だったが、ナイル川がコントロールしやすい一方、ティグリス川・ユーフラテス川のそれは多くの知恵と労力を必要とした。

ナイル川とティグリス・ユーフラテス両川では、農業にはたす役割は大きくちがっていた。増水したナイルの水が下流地方に到達するのは、麦などの冬作物の播種の前であり、しかもその時期は毎年ほぼ一定していた。だからエジプトでは、人々は増水期にナイルの堰をひらいて耕地に氾濫水を導入し(ベイスン・システム)、ついで減水期にはいって耕地から水がひいたのちに、耕地に作物の種をまけばよかった。

ところが、ティグリス・ユーフラテス川の水位は秋の麦類の播種期にもっとも低くなるから、ここでは両川を取水源とする無数の水路を建設しておいて、さらに必要な時期に(たとえば播種ののち収獲までに3ないし4回)、耕地に水を導入できるような設備を整えておかなければならなかった。

麦類が収穫される翌年春には、両川は南部の沖積平野でほとんど氾濫してしまうほどに増水する。だから南部地方では、増水した水を沼沢などに放出するための水路を建設・維持することが不可欠であったし、また水路の水量も厳密に管理されなければならなかった。

出典:図説メソポタミア文明/p68

『シュメル』のほうには増水期の水を溜池にためておいて乾季にその水を畑に流入させる溢流灌漑が行われていた、とする。(p59)

川あるいは溜池の水(淡水)を耕地に充分に与えないと地下の塩水が地表に上がってきて塩害を引き起こす。

自然堤防

川の両脇は土砂の堆積物によって作られた自然堤防が形成されている。『メソポタミア文明入門』の方では自然堤防の範囲は土手と果樹園/菜園までも含んでいる。

自然堤防は、場所にもよりますが、高さが2、3メートル、幅は水路と両側の自然堤防をあわせて2、3キロメートル、ばしょによっては5キロメートルにもなります。そして、遺跡の約75%がこの自然堤防の上に位置すると言われます。

出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p56-57

図の下部に村落の場所が見える。

確立された農耕システム

穀物の耕地」は水はけの良いところで、川からの灌漑用水と肥沃な沖積土を使って穀物を栽培している。傾斜の下部の「境界の耕地」は水はけが悪く農耕に向かないので羊や山羊を放牧させる場合が多い。

耕地は耕区にわかれ、耕区ごとに灌漑や耕作、ついで種まきが行われました。沖積平野では、一つの耕区で収穫が終わると、次の年はその耕区は休耕地となります。再びそこが耕され、麦の作付けが行われるのはその翌年ということになります。すなわち、耕作→収穫→休耕→耕作のサイクルが二年で一巡しました。これが隔年耕作制度で、地味の枯渇や塩害を防ぐとともに、休耕中の耕地は家畜の放牧にも利用されました。農民の耕地は複数の耕区に散在していたため、収穫直後の耕地が次の年に休耕地になっても、別の耕区にある耕地で作付けを行い、収穫を得ることができました。

出典:メソポタミア文明入門/p57-58

条播と労働力

ところで、メソポタミア文明で紹介される驚異的な収量倍率の話がある。世界史の教科書に載っているかどうかは知らないがそれなりに有名な話だと思う。

収量倍率とは穀物一粒につき収穫できる穀物の数量のこと。前川氏によれば、ローマ共和政末期から帝政期にかけてのイタリア半島での小麦の収量倍率はせいぜい5倍程度、中世前期はそれ以下。エジプトのファラオ時代および中世は約30倍、としている。(p69-70)

これが南部メソポタミアだと都市国家時代末(前24世紀)のころに、麦類の平均が80倍近く(ヘクタール当たり2000リットル超)という驚異的な数字を叩き出した。他の地域はエジプトの30倍よりも低いからたしかに驚異的だ。この高倍率の理由の一部は肥沃な沖積土にあるのだが、ほかにも理由があるのでそれを書こう。

(ちなみに、ウル第三王朝時代(前2112-前2004)は30倍以下となる。200年ほどで急落した倍率の原因はやはり塩害だった。これに比べてエジプトは塩害に悩まされずに穀倉地帯であり続けた。)

理由としてもう一つ重要なのは種の播き方にある。エジプトや多くの地域では種を畑地に一様にばらまくやり方(散播、さんぱ)をしていたが、南メソポタミアでは条播をしていた。条播とは「畑に平行なすじ状の畝を作り、そこに一定の間隔で種をまくこと」*4

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出典:図説メソポタミア文明/p71

以下は、前3000年紀末(ウル第三王朝時代)の農業指導書から、条播方式を用いた一連の農作業の手順。

当時、すでに考え抜かれた、合理的な農作業が行われていた。農作業の最初は耕地一面を灌水し、水が引いた後に「ブーツを履いた牛」に耕地を踏ませることを勧めていて、これはアジアの稲作農業でおこなわれている「踏耕」と同じであったようだ。

種をまくにしても適当にばらまくのではなく、条播器(種まき用の器具)を使って無駄なくまいていた。三人で一組になって条播器付きの犂(すき)を操作し、畑を耕しながら種をまいた。1平方ニンダン(36平方メートル)あたり8本のうねを作り、うねの長さ1ニンダンにつき1ギン(約60分の1リットル)の大麦をまく。指2本の幅ごとに1粒を落とすと、1ニンダンあたり1ギンの種子がまかれることになる。

出典:シュメル/p63

  • 上の説明は『図説 メソポタミア文明』では、より詳しく書いてある。
  • 犂を使った農耕はおそらく前4000年紀末には行われていた(その頃の最古の文字書板に犂を形象するサインがある)。*5

上のように、南メソポタミアの農作業は膨大な労働力を必要とする。

南部メソポタミアでは、農業生産を維持するために膨大な労働力が投下された。人々は自然に介入して、極度に人工的な農業をおこなったからである。粘土板文書がそのことを教えてくれる。そこには、運河、用水路の建設と維持、水の管理、耕地の開発と維持、そして耕作準備から播種にいたるまでの煩瑣な農作業について、驚くほど詳細な情報が記録されているからである。

出典:図説メソポタミア文明/p70

「驚異的な収量倍率」の理由として、肥沃な沖積土、種の播き方など膨大な労働力を挙げたがもう一つは教育または指導だ。条播技術を含む一連の農作業はすべて粘土板の指導書に書いてるものだ。きわめて人工的な農耕は、徹底的な管理の下におこなわれていたのだから、指導書を用いて農民にシステマティックな農作業を徹底したのだろう。ただし、殆どの農民は文字が読めなかっただろうから、文字が読める人が指導したのだろう。

以上が「驚異的な収量倍率」の「カラクリ」となる。他の収量倍率の低い地域よりも数倍の労働力(またはエネルギー)を消費していることが分かる。

度量衡

さて、農耕の描写の下にモネの絵があるのだが、これがなぜ載っているのかというと、度量衡システムの話に関連してくる。刈束の山は脱穀するまでのあいだ乾燥させるために積み上がられているのだが、穀物の1単位を表す。南メソポタミアの場合もおなじで、一定面積の畑で取れたものを一山にすると、収量倍率は過去の記録より算出されているから、その山の穀物の量も算出できる。(図説メソポタミア文明/p71-73)

まとめ

ウルクの大杯 自体の話は別の記事で書くとして、農耕・栽培の話を書いた。

以上のように南メソポタミアの農耕・栽培はきわめて人工的かつ緻密な農作業を膨大な労働力を駆使して成り立っていた。シュメール時代の遺跡では文字粘土板が数多く出土する。詳細な記録がつけられ、それらが次の緻密な農作業工程を作り上げていったのだろう。

合理的な農耕・栽培システムを用いて「驚異的な収量倍率」を叩き出してきたシュメール地方(南メソポタミア南部)だったが、やがて塩害により崩壊して、北に避難しメソポタミアの中心は南メソポタミアの北部、バビロニアに移った。



後半はウルクの大杯より遠く離れてしまったが、いちおう、『シュメル』の書き方に倣っているつもり。

今回は下段の下半分の農耕・栽培の話だけしかできなかった。

次回は上半分の牧畜の話を書く。

メソポタミア文明:ウルク期からジェムデト・ナスル期へ

シュメール文明が誕生したウルク期と、王朝が誕生した初期王朝時代の間にジェムデト・ナスル期という時代区分がある。この区分がどのような時代なのか、なぜウルク期と区別される必要があるのかを説明してくれる文献は「Jemdet Nasr period<wikipedia英語版」くらいしかなかった。

ここでは、「Jemdet Nasr period<wikipedia英語版」を頼りに書いてみる。


前3500-3100年頃 ウルク文化期。後期は前3300-3100年頃
前3100-2900年頃 ジェムデト・ナスル期
前2900-2335年頃 初期王朝時代


「ジェムデト・ナスル期」の誕生とその後

ウルク期」や「ジェムデト・ナスル期」などは考古学の成果に基づく時代区分だ。

1920年代にジェムデト・ナスル遺跡(イラク中央部、バビロンの北東)の発掘調査が行われた。1930年にバグダッドで大きな会議が開かれ、もともとあったメソポタミアの時代区分に組み込まれた。すなわちウルク期と初期王朝時代のあいだに挿入された。

ジェムデト・ナスル遺跡の発掘は、1988-1989年に成果のある発掘少佐が行われたが、1990年の湾岸戦争のため、追加の調査は中止された。その後、調査はされていないらしい。

しかし、イラク中南部の遺跡群(アブ・サラビク、ファラ、ニップル、ウル、ウルクなど)よりジェムデト・ナスル期の特徴が確認された。

ウルク期からジェムデト・ナスル期の移行

都市が誕生したウルク期と、都市国家と王が誕生した初期王朝時代のあいだにジェムデト・ナスル期が置かれている。私の手元にあるメソポタミア関連の本すべてにおいてジェムデト・ナスル期をちゃんと説明しているものはないので、この時期は2つのあいだの移行期と考えるしかない。

特徴

土器

ジェムデト・ナスル期を代表する土器は、単色/複数色で幾何学模様または比喩的な(figurative)絵/文様が描かれたもの。しかしこのような土器は数は多くなく、もっぱら、経済活動が行われる遺跡の中心的な大きな建物跡から発見される。

小林登志子著『シュメル』*1によれば、ウルク期後期からジェムデト・ナスル期にかけて、支配者階級が生まれたことを示す美術様式が現れたとある。

文字

ウルク古拙文字がウルク期後期に誕生したが、ジェムデト・ナスル期になると大きく変化する。絵文字からシンプルかつ抽象的なデザインに変化した。さらにこの時期に「楔形」の筆跡が現れた。

「Jemdet Nasr<wikipedia英語版」はこの時期の文字を「proto-cuneiform script」と呼んでいる。

文字はもっぱら行政に使われていた。例えば食糧の配給や家畜その他のリスト作成などに使われた。王名表や文学作品はまだ現れない。

楔形文字の完全な文字体系が整備されるのは前2500年頃である。文字に関しては以下の2つの記事も参照。

rekishinosekai.hatenablog.com

rekishinosekai.hatenablog.com

数字の表記法

数字の表記法は2種類あった。一つは六十進法(sexagesimal system)で人や動物の数を表す時に使われた。現代では時間や角度を表す時に使われる。

もう一つは「bisexagesimal system」というものだが、私自身 理解できていない。穀物、チーズ、鮮魚などに使われた。

社会

後の時代と比べると小規模ではあるが、交易が活発になり経済力が発展した。これにより巨大な建造物が築かれ、支配階級が生まれた。文字システムが簡略化されたのも時代の要請だった。*2

また中央集権化が進み、都市または集落の中心となる建物の跡からは食料の配給などが書かれた粘土板の他に円筒印章(円筒形の印章)が見つかった。

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Jemdet Nasr Period cylinder seal from glazed steatite and modern seal impression (found in Tell Khafajah, Iraq.)

出典:Jemdet Nasr period<wikipedia英語版*3

メソポタミアの各遺跡から各都市を表す印章が発掘されていることから、お互いに密接な交易または交流があったと推測される。

小林登志子氏によれば円筒印章はウルク期後期に現れた*4。)



*1:中公新書/2005/p38

*2:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p38-39

*3:著作者:Zoeperkoe、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Jemdet_Nasr_cylinder_seal_1.jpg

*4:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p86

メソポタミア文明:テル(遺丘)とジッグラト

テル(遺丘)

メソポタミア文明の建造物の代表であるジッグラトに、触れる前にテル(遺丘)について触れる。

遺丘(いきゅう、英語: tell)とは、ある場所に繰り返し集落や都市が築かれた結果、その場所が丘のように盛り上がった状態、又はその場所。集落や都市の形成、放棄、整地の繰り返しにより形成されるため、層状の遺跡となる。

遺丘が形成されるのは、人々の居住に適した場所がある程度限定されるためであるが、特に乾燥地では水利施設による制約があるため、形成されやすい。

遺丘は、世界各地に分布しているが、具体的な例としては、西アジア各地にみられるタル(アラビア語: تلّ tall または tell)、テル(ヘブライ語: תֵּל tel)、テペ(ペルシア語: Tepe)、ホユック(トルコ語: höyük)と呼ばれるものが挙げられる。また、アンデス地方では、ピラミッドや巨石などを含めて、このような遺丘のことをワカ(Huaca)と呼ぶ。そのため、こういった地域の遺跡名は、テペ某、某テペ、ワカ某という遺跡名が多く、実際に遺丘を形成している場合が多い。

遺丘は、いくつもの文化層が重なった結果、「丘」のようになっているのでその場所の歴史のタイムカプセルになっている。 典型的な層位発掘調査が期待できる。文化層の遺物を共伴遺物と考えることができる。ほかの遺丘の調査結果と比べることにより、その遺丘が集落ないしは都市として機能していたのか否かなどを含めてその地域の歴史を知ることができる。

出典:遺丘<wikipedia

建て替える時は取り壊した瓦礫をどかして再建せずに、その瓦礫の上を(?)地ならしをしてその上に建てられた。

例としては、テルアビブ(イスラエル第二の都市)、ギョベクリ・テペ(トルコにある1万年前の神殿)、チャタル・ホユック(ヒュユク)(先土器新石器時代の遺跡)などが挙げられる。

ジッグラド

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ウルのジッグラト復元図。三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所があった。基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていた。

出典:ジッグラト<wikipedia*1


ジッグラト
シュメールに起源し,前3千年紀以降,メソポタミアエラムの古代諸都市に築かれた方形のプランをもつ数層の塔。神にささげられた聖塔で,塔上に神殿がある。遺跡は,メソポタミア地方に20余ヵ所発見されており,旧約聖書の《創世記》ではバビロンのジッグラトを〈バベルの塔〉として伝えている。

出典:ジッグラト<百科事典マイペディア<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

シュメール地方は木も石もロクに無い沖積平野のため、泥を固めた日干し煉瓦を積み上げ、アスファルトを接着剤としていた*2

神殿は住居同様に、時の経過とともにほころび、いたんでくるため、立て替える必要が生じる。先行する建物はいったん取り壊されて、静置後に同じ場所(聖域)に新しい神殿が建て直されていった。もともと高いところに建っていた神殿は、建て替えの連続により重層的に「上へ」伸びていく。いわば遺跡の中にプチ遺跡があるような構図となる。古い神殿の瓦礫が基壇(プラットホーム)として残り、最新版の神殿が上書きされていった。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p62

下は以前にも貼ったエリドゥの神殿の遺跡の層

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p102-104

エリドゥやウルクなど古い集落では建て替えの神殿の層が10層を超えて塔のようになっている。これがジッグラトの基となる。

ウル第三王朝時代(約4100年前)には、ランドマークとしての神殿の進化形が出現する。数段の基壇上に神殿の建つジッグラト(聖塔)である。ジッグラトという言葉そのものは、アッカド語で「頂上に一つもしくは複数の神殿が設置された階段状ピラミッド」を意味する。[中略]

約4000年前までには、ウルを典型例として、主要な都市のテメノス(聖域)にジッグラトが建立されるようになる。ジッグラトの出現は、視覚的効果として強烈な街の焦点をもたらすことになり、都市プランの在り方を大きく変えていった。たいていジッグラトは、すぐそばに都市神を祀る神殿を伴い、独立した前庭をもつ区画の中に建てられている。街を守護する都市神は神殿に祀られて、ジッグラトは都市神の神殿を補助する役割があったとされる。

ジッグラトの起源に関して、おもに三つの仮説がある。一つ目は、農作物の保管施設としての利用が想定されている。毎春、雪解け水がユーフラテス・ティグリス両大河を下り、南メソポタミアの平野は洪水で溢れる。そこで、ムギ類をはじめとした穀物を冠水から避け、保管するためにつくられた設備がジッグラトだったという説である。

二つ目は、出身地の山岳地に似せてつくった人工の山という説である。シュメール人の出身は、南西イランの山岳地帯であったとされる。故郷から遠く離れて暮らしていたシュメール人は、自分たちの出身地の山に見立ててジッグラトをつくったというものだ。

三つ目は、ジッグラトは天に通ずる階段であるという考え方で、もっとも広く受け入れられている。ジッグラト頂部の神殿は、祭司が神々に近づける場所として配置されたという説である。ジッグラトに隣接して都市神を祀る神殿が配置されていることから、神が天からジッグラトに降りてきて、隣接した神殿に入る(居る)と想像されている。

ジッグラト内部はエジプトのピラミッドと異なり、たいてい排水用の縦坑以外に部屋や空間は作られていない。外側に階段やスロープが設けられていること自体、頻繁な昇降を示唆していて、明らかにピラミッドと違う。さらに、ウルのジッグラトに見られるように、ジッグラト外面は焼成レンガで被覆され、基底面付近はビチュメン(天然のアスファルト)が塗られて耐水構造になっている。

ジッグラトなどの基壇頂上にそびえる神殿は、洪水時に人々の緊急避難所としても利用されたであろう。遠目に見ると、洪水に覆われた平原に屹立する神殿は、あたかも海原に浮かぶ舟のごとく映り、洪水伝説の「箱船」の景色となる。洪水伝説は、大河の氾濫時に人々がジッグラトなどの基壇頂上へ避難する光景がもとになり、その描写が物語の一部として伝承されていったのかもしれない。

出典:都市の起源/191-192