歴史の世界

エジプト文明:先王朝時代⑧ ナカダ文化Ⅲ期 その4(先王朝時代の主要な都市・大集落)

前回、都市化について書いたが、今回は個別の都市あるいは「都市」一歩手前くらいの大集落について書いていこう。

ナカダ

ナカダ文化の由来となった地域。ナカダ文化初期の中心地。

古代エジプト名ではヌブトと呼ばれていたが、ヌブトとは「金」を表す語だ。

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出典:古代エジプト文明社会の形成/2006/p16

  • 上の図の西岸のコプトスの対岸にナカダがあった。

この図で重要なのはワディ・ハンママート(ワディ・ハママート)だ。ワディとは涸れ谷のことで、ここが東岸砂漠へのルートとなっている。ナイル川東岸は絶壁になっているところが多く、東岸砂漠のルートは限られている。

図で示されているように、東岸砂漠には金以外にも多くの鉱物資源がある。このような資源はナカダに集積され、ナカダの人々はこれらをナイル川流域に住む人々に提供し、あるいは地域外との交易に利用された、と考えられている。ナカダは大集落化した。

ただし、ナカダ文化全体の交易は、Ⅰ~Ⅱ期前半までは あまり活発ではなく、Ⅱ期後半に入りようやく活発した*1。そして交易が盛況になったⅢ期にはナカダは没落期に入った。墓地からエリート層が消えた。

ヒエラコンポリス

ヒエラコンポリスは、ナカダ文化Ⅰ期以降に人びとが住みついたが、Ⅰ期のうちに大集落化して都市化の一歩手前まで栄えた。おそらくⅠ期のうちにナカダを抜いてナカダ文化最大の集落になったようだ。ナカダ文化全期を通して栄え、Ⅲ期には王を出現させ都市化した。古代エジプト最古の都市とされている。

Ⅲ期後半には上エジプト南部とヌビア北部を支配下に置いたとする仮説があるが、ヌビア北部を支配下にしたとする見解はあまり一般的ではない。(高宮氏/2006/p37-38)

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出典:高宮氏/2006/p38

ただし、王朝時代開闢直前には、アビドス(アビュドス)と並ぶ二大都市となったことは確か。

ヒエラコンポリス遺跡は、現在は辺鄙な田舎ですが、そのお陰で遺跡が荒らされずに良く残っている*2

ナカダ文化で最大の遺跡で、集落域において住居址、生産址、神殿址などの多様な遺構が検出されている。沖積低地中の微高地上に築かれた古代の都ケネンの址も検出されている(微高地上の検出は稀)*3。この他、世界最古のビール醸造施設や王宮などの遺跡、ナルメル王のパレットやサソリ王の棍棒頭などの特に有名な遺物が発掘されている。

この遺跡は現在でも活発に発掘作業が行われ、発掘の歴史だけでも100年以上になる*4

ヒエラコンポリスがその初期にどうして栄えたのか は、参考文献では言及されていないが、その位置から想像すれば、ヌビアとの交易の拠点であったのかもしれない(後述するアスワン付近にあるエレファンティネはⅡ期中葉までしか遡れない*5 )。

アビドス(アビュドス)

アビドスはナカダ文化の初期からこの文化の一員だったが、ナカダやヒエラコンポリスのような大型集落ではなかった。

しかしおそくともⅡ期後半には大型化していたようだ。低位砂漠のウム・アル=カーブでこの時期に年代づけられる大型墓が発見されている。

Ⅲ期の間に都市化して、ナカダを呑み込み、ヒエラコンポリスと並ぶ2大勢力になった。

Ⅲ期初頭に造られた、有名な「U-j墓」は先王朝時代の中で最大のものと言われている。多数の副葬品の中の土器の同部に頻繁にサソリが描かれていることからこの墓の被葬者はサソリ王と呼ばれている。このサソリ王はヒエラコンポリスの「サソリ王の棍棒頭」で有名なサソリ王の1世紀前の人物なので、「サソリ1世」とも呼ばれる。さらに重要なことに、この墓には古代エジプト最古の膨大な文字資料が検出された。

また、ウム・アル=カーブ南部には、「第0王朝」のカーおよび「第1王朝」のナルメル王以下の歴代王の墓が検出され、それまで疑問視されていた。王名表に載っていた王が実在したことが明らかになった。

上で触れたが、現在、第1王朝の初代はナルメル王で、ナルメル王は元々アビドスの王だったと考えられている。

その他の集落

上の集落と比べると重要度が落ちるが特筆に値する(?)集落を幾つか書き記しておこう。

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出典:大城氏/2009/p19

各集落の場所は上図で確認できる。

エレファンティネ

エレファンティネは上エジプトの最南端の集落、第1急湍、現在のアスワンの近くの中洲にあった。その遺跡はⅡ期半ばまで遡ることができる。

中王国時代の途中までヌビアとの交易の拠点かつ防御地点であったので、ナカダ文化期も交易の拠点だった可能性がある。

第1王朝時代の始まり前後に年代づけられる「天然の花崗岩の大岩を利用した小さな祠が発見されている。

(高宮氏/2003/p104、大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p41)

ビザンツ帝国時代まで継続して栄えていたようだが、ナカダ文化の時代の終わり頃にようやく(神殿ではなく)小さな祠が築かれたということで、それほど栄えていなかったかもしれない。

ヌビア北部の大集落(サヤラ、クストゥル(クストゥール) )

上エジプトの南はヌビアと呼ばれる地域がある。「ヌビア<wikipedia」によれば、「エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方の名称」。

ヌビア北部(第2急湍あたりまで)を下ヌビアというのだが、ここに前4千年紀にヌビアAグループというエジプトとは違う独自の文化があった。しかし、交易、交流が頻繁になったナカダⅢ期には下ヌビアの墓にはエジプトの影響がかなり見られる。

遅くともナカダⅢ期には、Aグループ文化の内部でも明瞭な社会階層が生じていたと考えられる。サヤラの大型墓からはナカダ文化と共通するモチーフが彫刻された混紡やパレットが、クストゥールの墓地からは多量のエジプト製土器が出土しているため、Aグループ文化の社会階層発展の裏には、ナカダ文化との交易や接触の影響がはたらいていたと推測される。

出典:高宮氏/2003/p138

サヤラとクストゥルが下エジプトの中心地で、エジプトとの交易により大集落化したと考えられているようだ。

下エジプト(ブト、テル・エル=ファルーカ)

下エジプトは、元々ナカダ文化とは別のマアディ・ブト文化が存在していたが、Ⅱ期末の頃にナカダ文化に飲み込まれた。

テル・エルファルーカは西アジアと上エジプトをつなぐ交易の拠点の一つだった。

世界最古のビール醸造所跡が発見されており、特産品としてビールを生産していたことが明らかとなている。またカバの牙で生産された小像や黄金製品が多数出土している。とくに古代エジプト最古の支配者を表したものと考えられているカーネリアン(紅玉髄)のペンダントやラピスラズリの眼の象嵌をもつ金で覆われた彫像は印象的であり、当時この地を治めていた支配者たちの権力の大きさを彷彿とさせるものがある。

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出典:大城氏/p42

ブトはテル・エル=ファルーカよりも大規模な集落とされている。ブトについてはマアディ・ブト文化の記事で書くが、長く南レヴァントとの関係が深い地だった。

ナカダⅢ期でもテル・エルファルーカよりも大規模な集落で、アビドスで出土された先王朝時代のラベルの中にはブトを表す文字が発見されている(大城氏/p43)。



*1:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p173

*2:エジプト文明の起源地を掘る ~国家はいかに形成されたか~ 馬場匡浩 准教授 – 早稲田大学 高等研究所 

*3:高宮氏/2003/102

*4:大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p41

*5:高宮氏/2003/p104

エジプト文明:先王朝時代⑦ ナカダ文化Ⅲ期 その3(都市化 ほか)

前回の最期に書いたナルメル王のパレットについては別の機会にやる。

今回は都市化について。

J.ウィルソン氏(1958)エジプト文明を「都市なき文明」であった、と主張した。メソポタミアのような都市が発達しないまま、上下エジプトは統一されたのがエジプト文明だというわけだ。しかし1970年以降の発掘の成果より先王朝時代に都市が存在していたことが明らかになった。ウィルソン氏の考える「都市」はメソポタミアにある都市で、エジプトの環境の違いを考慮していなかったらしい*1

それでも都市の出現についてはメソポタミアの研究のほうが遥かに蓄積されているので、メソポタミアの都市論を使ってエジプトの都市化を見ていきたい。

都市あるいは都市化に関する議論

(以下の都市論はメソポタミアのもの)

ある地域が先史時代から歴史時代、つまり未開から文明化へ変わる時、多くの場合 その政治的中心地は都市化する。

しかし、この「都市化」というのは、イメージできても具体的に書き表すというか定義が難しい。というか今だに議論中らしい。

「都市化とは何か」という問題に最初に解答案を世に出したのは、有名な考古学者ゴードン・チャイルド氏。彼の解答案(後述)は今でも影響力を持っているが批判はある。

時代ともに考古学その他の研究が積み重なっていくにつれて、数々の「解答案」が発表されていった。

「小泉龍人/都市論再考─古代西アジアの都市化議論を検証する─/2013(PDF )」には、メソポタミアの都市論を年代別に紹介している。「4.2. 都市化議論抄出」に年代ごとの推移が簡潔にまとめられている。

現在では、考古学による遺物によって構築される各地域(文化)の編年と、人類学から出てきた「複雑化していく社会」(大家族の自給自足する生活様式から王を戴く国家を持つ社会への変遷)を組み合わせて、ある地域の歴史を復元していこうとしているようだ。

先王朝時代の都市化

ここでは、古いが有名な都市(化)の定義であるゴードン・チャイルド氏の10項目(Childe 1950: 9–1 6)*2を見てみよう。

  1. 大規模集落と人口集住
  2. 第一次産業以外の職能者(専業の工人・運送人・商人・役人・神官など)
  3. 生産余剰の物納
  4. 社会余剰の集中する神殿などのモニュメント
  5. 知的労働に専従する支配階級
  6. 文字記録システム
  7. 暦や算術・幾何学天文学
  8. 芸術的表現
  9. 奢侈品や原材料の長距離交易への依存
  10. 支配階級に扶養された専業工

この定義からすると、少なくともⅢ期の超大型集落のヒエラコンポリスとアビュドス(アビドス)は10項目のほとんどをクリアしているようだ。この2つは都市と言っていいと思う。

大城道則『ピラミッド以前の古代エジプト*3では、上の2つ以外に、ナカダ、エレファンティネ(ヌビアとの国境付近。対ヌビアとの交易拠点)、テル・エル=ファルーカ(デルタ東部)、ブト(デルタ西部)、クストゥル(ヌビア)が都市として挙げられている。大城氏はこれ以外にも都市があったと考えているようだ。上述した「複雑化していく社会」の過程も遺物から証明できる。

ピラミッド以前の古代エジプト文明

ピラミッド以前の古代エジプト文明

神殿

前置きとして、エジプトにおける神の出現について。

古代エジプトの宗教を特徴づける多様な神々の存在は、先王朝時代に各地で地方の守護神となる神が信奉されていたことに起源を発すると考えられている。[中略]

おそらくはアニミズム(自然崇拝)に端を発していたと思われる地方の神々は、先王朝時代と王朝時代の初期には動物や物で表わされることが多かった。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生・同成社/2003/p219

王朝時代以降、神々は人間形になり、統一国家のもとで神々は体系化されていった。

さて、エジプトにおける最古の神殿は、ヒエラコンポリス遺跡HK29A地区で発見されている。Ⅱ期中葉。ヒエラコンポリスの王朝開闢直前に年代づけられる神殿跡(ネケン神殿跡)では、有名な「サソリ王の棍棒頭」や「ナルメル王のパレット」などが発掘されている。

先王朝時代では、ヒエラコンポリスのほかにも地方神殿が幾つか発掘されている。(高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/きょうとだいがく学術出版/2006/p220-222)

大城道則氏によれば*4、大きな(儀式用の)パレットが出現するのは先王朝時代の半ば(Ⅱ期後半?)の頃らしい。

王宮

先王朝時代の王宮についてはよく分からない。

馬場匡浩氏によれば(古代エジプトに学ぶ/六一書房/2017/p56)、Ⅲ期のヒエラコンポリスで「厚い日乾レンガの壁体で囲まれた聖域に、神殿や王宮が建造された」とある。

王朝時代の王都の神殿は上のヒエラコンポリスの神殿と同じく聖域とされ、王と一握りの神官だけしか入れなかった。神々への儀式も王が独占した(実際は神官が代行した)*5

これをふまえて推測すれば、先王朝時代の王を戴く都市(都市国家?)では王朝時代の王都の神殿と同じことをすでにやっていたのだろう。ナルメル王のパレットなどの儀式用の、王による奉納物などがその証拠となるだろう。



*1:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p234-235、高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p97-98

*2:上記の小泉氏の論文から

*3:創元社/2009/p41

*4:ピラミッド以前の古代エジプト文明/創元社/2009/p31

*5:馬場氏/p193

エジプト文明:先王朝時代⑥ ナカダ文化Ⅲ期 その2(王の出現 ほか)

今回は、王の出現とそれに付随して起こったことについて書いてみる。

王の出現

近年、各地の発掘調査にともなって、ナカダⅢ期ニ年代づけられる複数の王名の存在が明らかになってきた。こうした王名は、「セレク」とよばれ、王宮の正面を象ったと考えられている長方形の枠のなかに記されており、王朝時代初期に用いられた王名表記の先駆であった。王名は、焼成前の土器の外面に刻みつけたり、焼成後にインクで記されたりしたほか、稀に外面に刻みつけた例がある。セレクに書かれた王名の研究から、最古のセレクはナカダⅢa2-c1期に遡ることが明らかになり(Brink 1996; Wilkinson 2000)、初めは王名が書いていないものが多かったが、ナカダⅢb2-c1期には王名が判明できる霊が現れた。

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出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p216-217

  • 「Ⅲa2-c1期」はⅢ期半ばと言っていいだろう。

  • セレクや王名は上エジプト北部でも出土するが、土器や岩壁に記されているもので、本来の拠点とは違うところから出土していると考えられている。だから北部で出土したからといっても、その地域に独自の政体があったとは断言できない。

  • このⅢ期後半の王の出現は王朝時代の第1王朝よりも前の王のため、「原王朝」または「第0王朝」と呼ばれることがある。(高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p36)

これらで名の知られている王の中で有名なのがサソリ王とカー王だ。

★サソリ王

ヒエラコンポリスに棍棒頭を奉納した王。支配者を意味するローゼット・サインとともにサソリのサインが記されているので、サソリが王の名前と思われます。アビュドスからはこの王の存在を示す証拠は見つかっていないので、ナルメル王とほぼ同時代にヒエラコンポリス地域を支配した王だったかもしれません。

サソリ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/scorpionking.htm

★カー王

アビュドスの二重墓B7/9墓に埋葬されました。この王の存在を示す証拠は北東デルタのテル・イブラヒム・アワドから上エジプトのアビュドスまでとイスラエルのロッドで発見されています。ヘルワンではカー王のセレフが彫られた二つの壷が発見されているので、メンフィスがナルメル王の治世以前に存在し、ヘルワンがメンフィスの墓地として役立っていたことを示します。アビュドスの王墓で発見された土器の銘辞は王の宝庫によって受け取られた収入に言及しており、第1王朝の始まり以前に租税徴収が中央集権化されていたことを示します。

この二人の王以外にもセレフの中のサインの読み方が分からない王やセレフの中に王名が記されていない例が多数発見されており、エジプト統一以前の支配地域が限られた王たちの存在が暗示されます。

出典:西村洋子/History of Ancient Egypt 2_ナカダ3期・第1王朝/2006年6月25日

ここで棍棒(メイス)について書いておこう。

古代エジプトを学ぶ: 通史と10のテーマから

古代エジプトを学ぶ: 通史と10のテーマから


馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017

上の表紙の絵は第1王朝初代王ナルメルを描いたものとされるが、彼が持っているものが棍棒(メイス mace)。打撃用の武器。高貴な身分を表す物として副葬品としても利用された。神殿に奉納するものは実際に使用するものよりも遥かに大きく作られ、絵を彫刻されて奉納される。

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Scorpion macehead (Ashmolean Museum)

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Scorpion macehead (detail) (Ashmolean Museum)

出典:Scorpion Macehead<wikipedia英語版*1

官僚組織

全体的な社会や経済との関係は明らかにはできないものの、文字を用いた物品の管理がナカダⅢ期に始まったらしいことが知られており、この初期の物品管理システムが、王朝時代の管理組織の発達に深く関わっていた可能性がある。[中略]

土器に記した銘文、不腕に押捺した印章、物品に取り付けたラベルによって物品を管理する方法は初期王朝時代にも継続して行われており、ここに官僚組織あるいは少なくとも管理方法の萌芽を見ることができると思われる。ただし、これまで同時期の遺跡から出土した文字資料の数は限られているので、管理対象となった範囲も小さな王家の家政に限定されていたのかもしれない。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p161

このように、官僚組織または行政組織における先王朝時代は、黎明期といえるかもしれない。

文字

20世紀後半まで、エジプトの文字は第1王朝と同時に現れたと思われていた。メソポタミアに影響を受けて成立したという説もある。

しかし、ナカダⅢ期の大型集落であるアビュドス(アビドス)の墓(ウム・アル=カーブU-j号墓ほか)から初期の文字資料が豊富に検出され、研究の結果、エジプト独自に文字が誕生したことが示された。

これらの資料を用いて初期の文字の分析を行ったG.ドライヤーは、50種類あまりに及ぶ文字の使用を認め、それらの性格についても推測している。ドライヤーによれば、この頃すでに、表意文字あるいは絵文字だけではなく、表音文字や決定詞と補足音価を用いて言語を表記するシステムが認められるという。ドライヤーの解釈が妥当ならば、表音文字を用いて言語を表記しているという意味で、早くも本格的な文字が確立していたことになる。使用された文字や文法はエジプト特有のものであるが、初期の印章に描かれたモチーフにはメソポタミアからの影響が認められ、文字の概念はやはりメソポタミアから伝わったらしい。ただし、表音文字を用いた本格的な文字への脱皮は、エジプトの方がやや早かったかもしれない。

出典:高宮氏/2003/p242

これにより、メソポタミアの文字(楔形文字)とエジプトの文字(ヒエログリフの祖型)が同じ前3200年頃に誕生したことになった。

以下は、メソポタミアとエジプトの文字の出現の理由の違いについての説明。

楔形文字の出現は、数量や種類の防備録といった経済活動にあるようだが、ヒエログリフも物品管理を目的として生まれたと考えられる。アビドスで発見された初期ヒエログリフは、エジプト文明成立前夜の政治的な経済活動のなかから生まれてきたのである。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p260

ちなみに馬場氏はエジプトとメソポタミアの文字は独立して誕生したとしている。高宮氏のいう「概念」云々という話は書かれていない。

美術/図像表現

高宮氏によれば*2美術の歴史の中でも注目されるべき古代エジプトの図像表現は、王朝時代には、石碑や建造物の壁面などの大きな平面に描かれていたが、Ⅲ期はバダリ文化以来の伝統となっていた化粧用パレット、棍棒頭(メイスヘッド)、櫛、ナイフの柄などに施されていた。

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出典:高宮氏/2006/p266

神殿奉納用の化粧用パレットや棍棒頭は実用のものと比べて遥かに大きく作られている。大城道則氏によれば*3、大きな(儀式用の)パレットが出現するのは先王朝時代の半ば(Ⅱ期後半?)の頃らしい。

これらの図像表現の幾つか(ナイフの柄の2匹の絡み合った蛇の図像など)や、技術(浮彫など)はメソポタミアの影響を受けているのではないかと言われている。

そして、有名な「ナルメル王のパレット」は、先王朝時代の図像表現の集大成と言ってよい。

このパレットの図像は、構成まで続く王朝時代の美術の主要な特徴をすでにほぼまんべんなく取入れていた。

出典:高宮氏/2006/p269



*1:上図の著作者:Jon Bodsworth、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Scorpion_Macehead#/media/File:Scorpion_Macehead.jpg、下図の著作者:Udimu、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Scorpion_Macehead#/media/File:Kingscorpion.jpg

*2:2006/p267

*3:ピラミッド以前の古代エジプト文明/創元社/2009/p31

エジプト文明:先王朝時代⑤ ナカダ文化Ⅲ期 その1

ナカダ文化Ⅲ期は、先王朝時代の最後期、王朝時代の直前にあたる(もしかしたら王朝時代の初期まで含むかもしれない)。

ただし、Ⅲ期のあいだにすでに「王」が誕生しており、この時期は「原王朝」「第0期王朝」と呼ばれることもある*1

Ⅱ期後半からエリート層を含む政治勢力形成が急速に進んだが、Ⅲ期の遺跡では神殿や王宮の址が発見されている。文字の誕生もⅢ期まで遡ると言う。

現在、エジプト文明の誕生は第1王朝(初期王朝時代)の誕生とされているようだが、文明の諸条件はすでにナカダⅢ期(先王朝時代)に出揃っていた。*2

この記事では文化について書く。別の記事で王朝の出現と都市の出現について書く。

文化の拡張

ナカダ文化はⅡ期の終わりまでに下エジプト(ナイルデルタ)を飲み込んだが、ナイルデルタの北の頂部(メンフィスの辺り)は空白地帯になっていた、ということは前回にやった。

Ⅲ期になるとこの地帯に大型の墓地が築かれた。またデルタ地帯への拡張は東部を中心に広がっていった(高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p201)。文化の拡張に追いつくように政治的影響が急速に広まっていった。

交易

交易について。先に言っておくが、ナカダ文化は下エジプトにも拡張したが、その中心は、文化的にも政治的にも、Ⅲ期も引き続き上エジプト南部のままだ。これを踏まえた上で交易のネットワークを考えよう。

交易はⅡ期後半に活発化し、下エジプトに拠点を作り、おそらく植民も行われた。しかし交易ルートの支配は不完全だったようで、中距離貿易どまりだった。

これがⅢ期になると、下エジプトは上エジプトの勢力下に入り、南パレスチナにまで交易ルートの拠点が置かれるようになる。エジプト製土器あるいは(地元で作られる)エジプト様式の土器が多数出土する場所(エン・ベソルなど)は、行政中心地と考えられている(高宮氏/2003/p93)。

さらにヌビア方面では下ヌビアの南端(第2急湍)まで直接接触していたと推測されている。(p173)

このように遠距離交易網が確立され、上エジプト南部の政治勢力の交易独占は達成された。

専門化

Ⅱ期後半以降、専門化による大量生産は始まっていたが、Ⅲ期に入ると、支配者から独立した職業集団が現れた。

高宮氏は、各地の土器のヴァリエーションが減って規格化された「オレンジ色の胎土で制作された比較的単調な土器」が増加したこと、大型土器が増えたこと、回転台を用いて口縁部付近を整形された土器が急増したことなどを挙げて、以下のように書いている。

このように規格化、熟練した技術および大量生産は、かねてから指摘された経済的な効率化に起因する専門家の発達を示唆し、従属だけではなく、独立の専門家によっても引き起こされ得る現象である。

出典:高宮氏/2003/p194

  • 上の説明を読むと、独立の専門家といっても、商業の発達というよりも、公的事業の下請けという感じがする。

大量生産は、規格化による大量生産のほかに、交易の頻繁化により土器の大量生産が必要不可欠になったという面がある。つまり、土器および内容物の交易が頻繁に行われた結果、大量生産が必要だった。



*1:高宮氏/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p36

*2:時代区分が決まった後の発見や研究成果の結果、こういったズレがでることは少なくないようだ。古代日本史における縄文時代弥生時代の境界もズレがある事例の一つと言えるだろう。

エジプト文明:先王朝時代④ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年) 後編

前回の記事を書き終えた後に、Ⅱ期後半について書いておくべきことが見つかったので、取り急ぎ続きを書く。

先王朝時代をやり終えた後に、この記事と前回の記事を書き直そう、と、今のところ思っている。

まだ付け足さなければならないことがあるかもしれない。

ナカダ文化の拡張

ナカダ文化の発祥の地はナカダからアビュドスあたりだが、Ⅰ期のうちに北は上エジプト中部のマトマールから南はアスワン(ナイル川の第一急湍)まで拡大した。第一急湍の南はヌビアと言われ、ナカダ文化はヌビア勢力(ヌビアAグループ文化)と境界を接していた。

Ⅱ期中葉になると北へ拡張し、デルタ東部のミンシャト・アブ・オマルにまで到達した。

Ⅲ期に入るまでは、デルタの南端部(メンフィス付近)は空白地帯として残された。(高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p199-201)

高宮氏は拡張した要因について、人口増加の結果デルタに植民したという説と西アジアへの交易ルートの支配という説を紹介している(p204)。個人的には後者のほうに一票を入れたい。パレスチナの土器やアフガニスタンラピスラズリは地域支配や威信材となっている。また、シュメール文明初期に唯一の都市だったウルクは交易ルートに植民をしている。上エジプトにおけるミンシャト・アブ・オマルはウルクにおけるシリアのハブーバ・カビーラ南(Habuba Kabira)に比較できる(記事「メソポタミア文明:ウルク・ネットワークの広がり(物流網/文化の拡散/都市文明の拡散)」参照)。

さて、ナイルデルタ(下エジプト)にはマーディ・ブト文化(マアディ・ブト文化)という既存の文化があったのだが、Ⅱ期末の頃にこの文化は自然消滅した。つまり、下エジプトはナカダ文化に飲み込まれた。

ただし注意すべき点がある。以上は文化の拡張というだけで、政治支配の拡張ではない、ということ。(高宮氏/2003/p203-204)

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出典:高宮氏/2003/p200

政治的地域統合

Ⅱ期後半では広域を支配するような権力を持つ大型集落は現れなかった。

Ⅱ期半ばにアビュドス(アビドス、のちのティス?)、アムラー、ナカダ、ゲベレイン、ヒエラコンポリスといった一部の大型集落が中小集落を支配下に置いて政治的勢力を急速に築きあげた。ただし、これらの大型集落は上エジプト南部のみで、それより北には独立した集落があったようだ。(高宮氏/2003/p218)

ビールと支配

Ⅰ期末ころに、いち早く大型集落化したヒエラコンポリスに、今のところ最古のビール醸造施設が出現した(前3800年)(馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p301)。

この最古のビールについて馬場氏は以下のように主張する。

実は、ビールは簡単には作れません。イースト菌はすごく弱く、他の雑菌に負けてしまいます。雑菌を繁殖させないようにするなど環境対策ができていないと、ビールを作ることはできてもすぐに腐ってしまいます。つまり、適切な環境と酵母の維持・管理が必須となり、専業的なビール職人の存在が示唆されます。このことは発見された醸造址の規模からも支持されます。

一般的に、エジプトではビールは誰でも飲んでいたものとされてきましたが、少なくとも先王朝時代においては違うのではないかと思っています。当時、ビールは一般の人々に作らせなかったのではないでしょうか。ビールはエリート特権のアルコール飲物であり、エリートに従い、また儀式への参加を許されたものだけが飲むことができたのではないかと考えています。つまり、エリートが社会を統制し、自身の地位を確立し、さらに地位を高めるためにビールというアルコール飲料を造らせた。社会コントロールのためにエリートが利用していたものの一つがビールであり、そのためにお抱えのビール醸造職人を擁したのでしょう。

出典:エジプト文明の起源地を掘る ~国家はいかに形成されたか~ 馬場匡浩 准教授 – 早稲田大学 高等研究所 08 NOVEMBER 2016

さらに引用したページには、ビール醸造施設のすぐ近くの食品加工施設の大きな遺構も紹介している。

ビールと豪華なごちそうはエリート自身のためだけでなく、エリートの儀式と地位の維持を支えるために活用した、と馬場氏は考えている。下々の者たちに大盤振る舞いをして権力を維持するということ。

社会の複雑化とは

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社会を最も簡単に模式図で示すと図1のようになります。縦軸は「身分差」、横軸は「職の分化」を表しています。人は元々、みな平等な存在でした。身分差がなく、誰もが自給自足をしている社会だったのです。身分差がない限り、職の分化はほとんど起こりません。なぜなら、自給自足をしない専業的な職人が存在するには、支配者の庇護が必要です。それは、職人は通年で支配者の求めるモノを作り、その見返りに食糧を得るシステムです。このように、身分の階層化があることで、明確な職の分化、つまり専業化が成立すると考えられるのです。ファラオが誕生して王朝時代を迎える頃には、社会的な上下関係が形成され、専業化も進んでいました。ファラオを頂点としたピラミッド型の社会になっていくこうした過程が、先王朝時代なのです。

出典:同上

「社会の複雑化」に対する簡潔な説明を見つけられなかった。私が勝手に説明するとすれば、「未開から文明化する過程」としておこう。

上の引用のように「自給自足をしている社会」から「王朝時代」へ、つまり文明化への過程が「社会の複雑化」だ。

この言葉は、メソポタミア文明でも使われていたのだが、スルーしてしまったのでここで書いておく。



エジプト文明:先王朝時代③ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年) 前編

前回、Ⅰ期~Ⅱ期前半のあいだで、各集落で内部の発展と階層の分化が起こったことをやった。

今回はⅡ期後半。この時期は各集落間の格差が生じ、大型集落が中小の規模の集落をコントロールするまでになった。

集落間の格差

農耕・牧畜の安定的な生業基盤に支えられたナカダ文化は、この時期に文化・社会のさらなる発展を遂げる。まず集落では、長方形の家屋が新たに出現する。また建材として日乾レンガが使用されはじめる。さらに大きな変化として挙げられるのが、大型集落の出現である。つまりナカダⅡ期後半から、集落の規模に格差が生まれ、これまでと同様な小規模集落の他に、それをはるかに凌ぐ大型集落が誕生する。大型集落は、その規模や想定される人口から、ナカダⅡ期後半には都市ともよべる集落であったとされる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p48

ということで、Ⅱ期後半のメインイベントは、集落間の格差と大型集落の出現。Ⅰ期~Ⅱ期前半(前4000-3650年)では、集落の中で、集落の規模に関わりなく、社会階層の分化が起こった。これがⅡ期後半になると集落間の格差が起こるようになる、ということだ。

しかし、この本のヒエラコンポリス遺跡の説明を読むとこの集落は、すでにⅠ期末には大型化をしていた。ナカダもⅡ期後半より前に大型化していたかもしれない。

さて、集落の規模は、各集落内の墓地の個数が参考になる。

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出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p108

上の図はⅠ期からⅢ期までの墓地の検出個数。

都市と呼ばれるほどの超大型集落はヒエラコンポリスとナカダに限られる(ただし、Ⅲ期になるとアビドス(アビュドス)がこれに加わる)。高宮の本(p113)によると、これに次ぐ大型集落はアムラー、アッバディーヤ、バッラース。

これらの集落はすべてナカダ(集落)の周辺の上エジプト南部の集落で、北部およびデルタ地区が発展するのはⅢ期以降となる。

大型集落にはエリート層が出現する。エリート層は、支配者層とか特権階級、エスタブリッシュメントと言い換えられるかもしれない。血統によって、つまり一部の家系によって独占される。彼らがエジプト独自の政治・行政の基盤を作り上げていった。

彼らは地元の集落だけでなく、周辺の中小集落もコントロールするようになる。

地域統合の始まり

この時期はまだ文字が無いので、考古学的証拠つまり遺物から推測しなければならない。

その証拠となる遺物は波状把手土器(波状把手付土器、Wavy handled jar)だ。

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Naqada II–III 3650–2960 B.C.

出典:Wavy ledge handled jar/Museum of Fine Arts, Boston

この波状把手土器が「中小規模の集落」のステイタス・シンボルになる。

[ナカダⅡ期半ば]以降、王朝時代まで支配者のシンボルとして継続する棍棒象牙製品の副葬が、分析対象となった中・小規模の墓地ではほとんど途絶し、地域的なヴァリエーションも消失して、ステイタス・シンボルが波状取っ手土器に一律化してしまう。波状把手土器は、元来パレスチナ産の土器の模倣品であり、ナカダⅡ期中葉頃からエジプトで模倣生産が行われるようになるが、王朝時代に明瞭なシンボルとしての意味はしられていない。したがって、この時期に、各集落で自由に選択したわけではなく、かつ王朝時代に明瞭な支配者としての意味をもたないステイタス・シンボルが、中・小集落の支配者たちに普及したと考えられる。[中略]

中・小集落において支配者のステイタス・シンボルが一律化した一方、大型集落では伝統的なステイタスシンボルも継続していたことは、この頃進行した集落間の階層化と密接な関係がある。葬制における分家機から、この頃、大型集落でのみエリート層が発達したことが明らかになっており、それには大型集落が小型集落を政治的な支配下に置き、集落間に階層が生じた事情がともなっていた。そして、おそらく大型集落を中心とする政体の地域的な統合にともなって、ステイタス・シンボルがエリートたちにコントロールされるようになったのではないだろうか。当時のエジプトでは、波状把手土器の原型となったパレスチナ土器について知識をもつ人物は限られており、ラピスラズリの分布は、上エジプト南部の大型集落に居住するエリートたちが、北方からの交易品にアクセスする機会が多かったことを示している。パレスチナ土器を入手する機会がある大型集落のエリートたちが波状把手土器の生産をコントロールすれば、容易にステイタス・シンボルを支配できたであろうし、この頃から顕著になった従属の専門家組織は、それを可能にしたであろう。ここに、舶来品の模造品分配を通じて、地域における社会階層を制御しようとする、当時のエリートたちの戦略を見ることができるように思われる。

出典:高宮氏/p213-214

「従属の専門家組織」とは土器を作る職人集団のこと(後述)。

各地の墓地を調査すると大型集落の支配者層の墓地は安定的に一部の家系が連続していたが、中小規模の集落はそうではなかった(高宮氏/p139-141)。大型集落のコントロールの結果かもしれない。

職業集団の出現と大量消費社会の到来

上記のように土器をつくる従属の専門家組織が存在した。彼らはエリート層に庇護を受けていた。通年、食糧生産に従事せずに専ら土器などの製品をつくる専業職人は、エリート層の求めるモノをつくりその見返りに食料を得なければならなかった。エジプトの職業集団の出現はこのように始まったが、他地域に同じような減少があったのかもしれない。近代の音楽家や経済学者などが貴族の庇護の下に活動をしていたことが思い起こされる。

土器に関して言えば上述の波状把手土器以外に、工芸品としての装飾土器の発達や粗製土器の規格化が見られる。粗製土器は地域性が消失して規格化される。大型集落の職業集団の製品が各地に供給されたようだ。

また石製容器についても、材質の硬・軟を問わず、多様な石材を用いて様々な器形が数多く制作されるようになる。銅製品はそれまでのたたき技法に鋳造技法が新たに加わり、斧や短剣などの道具や装身具などが生産され、銅製品の使用がより一般的になる。

出典:馬場氏/p48

馬場氏は「エジプトではこの時期に大量先産大量消費社会が到来したのであり、それは経済活動が大きく変容したことを物語っている」と書いている(p49)。

交易

Ⅰ期~Ⅱ期前半までの交易はあまり活発とは言えなかったが、Ⅱ期後半になると活発化してくる。とりわけ境界を接しているヌビア勢力(ヌビアAグループ)とは活発化し、ヌビアでは多くのエジプト産の製品が出土する。地中海東岸からはパレスチナの土器とレバノンの木材が輸入された。しかし、それより遠方の西アジアアフガニスタンラピスラズリ以外はほとんど無い。

この頃は中距離交易ができる貿易組織はあったが、遠距離は中継交易をしていたらしい。そして交易組織は上エジプト南部の大型集落のエリートの支配下にあった。(高宮氏/p173)

家屋と墓

家屋は長方形のつくりで、建材は日乾レンガを使うようになった。

墓にも支配者層のものは日乾レンガが使われた。厚葬はバダリ文化(あるいはそれ以前)からの上エジプトの伝統だが、以前よりも墓の面積が広がり、土器などの威信材の数も増えた。

この厚葬の伝統がエリート層が職業集団をかかえた原因のひとつであった。



エジプト文明:先王朝時代② ナカダ文化Ⅰ期~Ⅱ期前半(前4000-3650年)

ナカダ文化は先王朝時代の中核。先王朝時代の本体と言ったほうがいいかもしれない。先王朝時代は他にはバダリ文化とマアディ・ブト文化を含むがこれらの文化はナカダ文化の付属物に過ぎない。先王朝時代については記事「エジプト文明:先王朝時代について 」で、少し詳しく書いた。

ナカダ文化は約千年続くが、この時代の中でエジプトは、定住がほとんど見られない状態から統一王国になるまでが含まれている。

さて、以上のようにナカダ文化は千年のうちに激変するのだが、「エジプト考古学の父」と称されるイギリス考古学者のフリンダース・ピートリーにより、3つの時代に分けられた。現在ではこの区分に改良が重ねられてⅠ~Ⅲ期とこれらの区分のなかでさらに細かい区分が加えられている。

このブログでは、馬場匡浩氏の説明に従い、Ⅰ期~Ⅱ期前半、Ⅱ期後半、Ⅲ期に時代を分けることにする*1

そしてこの記事では最初のⅠ期~Ⅱ期前半についてやる。

ナカダ遺跡の位置

ナカダ文化の標識遺跡がナカダ遺跡。ナイル川が「フ」の字に曲がっている位置にある。

ナカダ文化の発祥の地はこのナカダからアビドス付近*2

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p33

ナカダは初期の金石併用文化の小さな集落だったが、時が経ち、エジプトの最古の都市の一つにまで発展した。

なぜ、このナカダが発展したのか? 魅力的な仮説がある。

ナカダ遺跡の対岸には、東部砂漠を貫いて紅海まで続く大きな涸れ谷ワディ・ハママートが存在する。ここを通って、東部砂漠の鉱物資源、また紅海沿岸を伝ってシナイ半島または南方のアフリカ大陸からエキゾチックな物資が集約された可能性がある。特に、王朝時代に入るとここは「黄金の街:ヌブト」と呼ばれていたことから、東部砂漠またはアフリカからもたらされた金の集積地として先王朝時代から機能していたのだろう。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p47-48

東部砂漠の鉱物資源については以下の図がある。

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出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版/2006/p16

生業

初期は先行のバダリ文化と変わらなかった。つまり、農耕・牧畜で、漁撈と狩猟採集で補完していた。

しかしこの時期に着実に進展した。

より農耕牧畜に依存した生業基盤を築き、エンマーコムギや六条オオムギ、アマの出土量は増加する。その他、豆や根菜といった野生植物、それにナツメヤシやイチジク、ドームヤシなどの果実も新たに加わり、より豊かな食生活であったようだ。動物では、引き続いてヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシの家畜が主に飼育されていた一方で、野生動物の骨の出土量が減ることから、この時期、狩猟から家畜へノソ遺存が大きくシフトしたと考えられる。なお、魚骨の出土はこれまでと同様に多く、ナイル川での漁猟も主な生業活動の一つであった。

道具・工芸

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Predynastic artifacts: clockwise from top left: a Bat figurine, a Naqada jar, an ivory figurine, a diorite vase, a flint knife, a cosmetic palette.

出典:Predynastic collage - Prehistoric Egypt - Wikipedia

  • batは(ウシの?)女神らしい。

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Ovoid Naqada I (Amratian) black-topped terracotta vase, (c. 3800-3500 BC).

出典:Naqada black top - Amratian culture - Wikipedia

土器

ナカダ文化の土器は、通常手ごねおよび紐作りで成形されるが、ナカダⅡ期頃から、口縁部付近の整形に回転台が用いられるようになった。また、ヒエラコンポリス遺跡からは窯が出土しており、ナカダⅠ期のうちから窯を用いた焼成が行われていたことが知られる。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p80-81

この本によれば、ナカダ文化の土器は日用のためのものと精製のものに分かれる。集落址から出土する日用の土器は粗雑な作りのままだが、精製土器はⅠ期の頃に専門化、規格化が始まった。

石器

石器は、Ⅰ期は比較的小型の剥片を主体とした石器群が作られたが、Ⅱ期からは専門化が始まって大型の規則的な石刃を制作する技術が見られる。

また、この頃を代表する石器のひとつである波状剥離(波状剥取)ナイフ(上の6枚の写真の下部中央)の作成には膨大な時間を要するので専門職人でしか作ることができない。

その他の遺物

ナカダ文化の土器や石器以外の遺物は、前4千年紀の諸文化のなかでももっとも豊かである。櫛、ヘアピン、腕輪、ビーズなどの装身具、パレットや顔料などの化粧用具、歯牙・骨角製あるいは石製の護符、石製容器、銅製品、粘土製あるいは象牙製の人形など、生業活動に直結しない多様な品々が、とくに墓から豊富に出土している。比較的安定した定住生活と発展しつつある階級化社会のなかで、盛んに奢侈品が製作されるようになった結果であろう。

出典:高宮氏/p83

化粧用パレットの話。エジプトでは先史時代でも化粧をしていたようだが、化粧以外でも、強い陽光から目を保護するために顔料を目の下(まわり?)に塗っていたらしい(アイシャドウ)。また虫よけや宗教的な意味をこめて塗ってたという話もある。パレットの素材はスレート(粘板岩)。

王朝時代以前から、エジプトの人々は化粧にも高い関心を持っていた。前5000年紀から、墓には死者の遺体とともに化粧用のパレットが納められていて、これはアイシャドウなどの化粧品をすりつぶすために用いられた道具であった。青もしくは緑色のクジャク石、黒い色の方鉛鉱、赤い色の赤鉄鉱などが、古くから使われた化粧用の顔料である。これらの石をパレットですりつぶし、水や油を混ぜて、目の周りに塗布した。化粧用の顔料と思われる鉱物は、先王朝時代から墓に副葬品として納められていた。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p108

社会階層の分化

社会階層の分化については墓を見れば分かるらしい。

墓の埋葬方法自体は先行のバダリ分化とさほど変わらないのが、墓の大きさや副葬品の数にばらつきが生じたと言う。これはつまり、階層の二分化を表している。

この時代(Ⅰ~Ⅱ期前半)は、この文化内のどの地域においても二分化が見られた。時代が下るにしたがってその分化が大きくなった。

しかしⅡ期後半からは地域間の大小の格差が広がるにつれ、また違う複雑化が始まる。しかしこの話は次回にやろう(高宮氏/2003/p130-137)。

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p47

交易

さて、墓から出土する副葬品から、この時代の物質文化が豊かになったことがわかるが、これらの物品の中にはエジプトでは産出しない物が含まれている。

それらは交易で得られるものだが、2つの素材に関する引用をする。

これら工芸品に用いられる素材のなかで、長距離の交換・交易を示すものがある。それが、黒曜石とラピスラズリだ。これらはエジプトでは採取できない鉱物であり、その起源はおのずと遠方となる。黒曜石は、古くからアナトリア(トルコ)が原産として名を馳せており、それにより西アジアとの関連が示唆されていたが、近年の分析により、ナカダ分化出土の資料はどれもエチオピア東部またはイエメンが原産地であることが判明した。なお、下エジプトの黒曜石は従来どおりアナトリア産とされる。ラピスラズリについては、4,000km離れたアフガニスタンのバダクシャン地方の鉱脈がエジプトから最も近い産地であることから、西アジアを経由して入ってきたとされる。

出典:馬場氏/p46

エチオピア東部またはイエメン産の黒曜石に関しては、上述のワディ・ハママート経由かもしれないが、ヌビア勢力との交流を示すものかもしれない。ヌビアとの交流では、ヌビアにエジプト産の物品がたくさん出土する一方で、エジプトにヌビア産の物品がほとんど出土していない(高宮氏(2003)/p148)、鉱物資源など遺物として遺らないものと交換していたようだ。



*1:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p43

*2:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p77