歴史の世界

進化:進化にまつわる歴史⑤ もう一人の自然淘汰説論者、アルフレッド・ラッセル・ウォレス

前回からの続き。

自然淘汰説が初めて世に出たのは、1858年のチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ラッセル・ウォレスの共同論文だ。

共同論文と言ってもダーウィンとウォレスが共同研究をしたわけではなく、両者は独立して自然淘汰説を思いついた*1

今回はウォレスについて書く。

natgeo.nikkeibp.co.jp

ウォレスの生い立ち

ウォレスの生涯をたどるとき、まず注目すべきは、その生い立ちだ。「窮乏は発明の母」という言葉は、ダーウィンにはそぐわないが、ウォレスにはぴったりあてはまる。貧しい家に生まれた好奇心旺盛なウォレス少年は、1837年、14歳のときに家計を助けるために働きに出た。かたやダーウィンは、当時すでに28歳の若き紳士。裕福な父親の出資でビーグル号の航海に出て、英国に帰ってきたばかりだった。

ウォレスは、10年ほど土地の測量士や大工、小学校の教師などの職を転々とする。その間、町の図書館や組合の施設へ通っては、ほぼ独学で知識を身につけた。測量の仕事をしていた時期は、ウェールズの田舎の野山を歩き回り、安い普及版の図鑑を頼りに植物の種類を見分ける訓練を積んだ。

教職に就いて余暇がもてるようになると、ドイツの地理学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの旅行記や、経済学者マルサスの『人口論』など、手当たりしだいに本を読みあさった。

出典:ダーウィンになれなかった男/p3

ダーウィンとまさに好対照の生い立ち。前回で書いたが、ダーウィンは初期の進化論者エラズマス・ダーウィンを祖父に持つ裕福な家庭に生まれ、大学生活では生物学の基礎を学び、博物学者になる道筋を作ってくれた恩師にも出会えた。かたやウォレスは全くの独学で博物学者と認められるまでになった。これがドラマや小説だったらウォレスが主人公になるだろう。

ウォレスを自然淘汰説に導いた本

生涯を通じて本から多くを学んだウォレスだが、なかでもその後の方向性を決定づけた2冊の本がある。一つは、ダーウィンの『ビーグル号航海記』。まだ進化論につながるような考えはほとんど述べられていないが、生き生きとした筆致でつづられた壮大な旅行記だ。

もう1冊は、もっと大胆な内容で物議をかもした本。1844年刊行で、当時は著者不詳だったベストセラー『創造の自然史の痕跡』である。そこには、進化論に通ずる考え方が書かれていた。ヨーロッパでは長年、天地創造のときに神が万物を創造し、そのときから生物は基本的に変わっていないという「創造説」が主流を占めていた。当時、科学哲学者のウィリアム・ヒューウェルはこんな見解を発表したばかりだった。いわく、「種は自然界に厳然として存在するまとまりであり、ある種が別の種に変異するなどということはあり得ない」

『創造の自然史の痕跡』はこうした見方に反旗を掲げ、生物の「発展の法則」という仮説を論じていた。ある種は周囲の環境しだいで別の種へと変化し、単純な生物から複雑な生物へ、最終的には人間にいたるまで、地球上の生き物は段階的に変化してきたという考え方である。その結果が環境への適応だ。この本も神の働きを否定していないが、神は変化のプロセスを最終的に操るだけで、その役割はより間接的なものにとどまるとしていた。

ダーウィンは根拠が十分ではないとして、この本をあまり重視しなかったが、より若く、感化されやすかったウォレスは、この「独創的な仮説」に駆り立てられ、友人のベイツとともにアマゾンへ標本採集に行く計画を立てる。

出典:ダーウィンになれなかった男/p3

『創造の自然史の痕跡』はスコットランドの出版業者ロバート・チェンバースが匿名で書いたものだ。趣味で集め続けた天地創造説に反する博物学の論文を元にして一つの本にして出版した。地動説のコペルニクスの時代よりは科学に寛容になったヨーロッパだったが、それでも聖書に楯突く主張をした人々はあらゆる攻撃に耐えなければならなかった。チェンバースはそのような攻撃を恐れて匿名で出版した。

ダーウィンは既に自然淘汰説を思いついていたので根拠が十分でない素人の本に興味を示さなかったのだろう。しかしウォレスはおそらく進化論に初めて触れて探求する衝動に駆られた。

上のように探求の旅に出たウォレスはその後も研究活動を続けた。その活動費は膨大な量の標本を売りさばくことで賄った。収集は彼の趣味でもあった。

この収集癖のおかげで、ウォレスはある現象に気づく。同種でも個体によってかなり違いがあることだ。同じアゲハチョウでも、尾羽の長さや白さにばらつきがある。大型のフウチョウであっても、比較的小さな個体もいる。つまり、それぞれの個体には遺伝的な差異があり、その違いがときには見かけの美しさや体の大きさの違いとして、目に見える形で現れるのだ。

こうした現象に気づいたことは、自然選択による進化という理論に行き着くうえできわめて重要だった。ダーウィンは、家畜化された種に個体差があることに気づいていたが、自然界でも広くそのような現象が見られることを知ったのは、8年がかりでフジツボの分類にとりくんでいたときだった。このように遠回りをしていたことも、ダーウィンが自身の理論を発表するまでに長い年月がかかった一因である。

出典:ダーウィンになれなかった男/p5

種の変化の発見

個体の差異に注目したウォレスはフィールドワークとこれまで読んできた書物とを照らし合わせ種の変化の可能性について考えていた。

ウォレスはまた、英国の地質学者チャールズ・ライエルの地質と化石に関する著書についても思い起こした。ある時代に生息した種と、似たような種が次の時代にも続く現象を論じた本である。この二つの証拠、つまり似た種が地理的にも時間的にも近いところに分布するという事実から、ウォレスは種の起源に関する「法則」を導き出した。

「あらゆる種は、その前に存在した、それと密接に結びついた種と、同じ地域に、年代的に続いて出現する」というものだ。

ウォレスはこの考えを中心に論文をまとめ、ロンドンに送った。進化という言葉を使っていなくても、この論文の根底にあるテーマが進化であることは一読すれば明らかだ。「密接に結びついた」、つまりよく似た種同士が、同じ地理的な場所に、年代的に続いて出現するのは、それらの種が共通の祖先の血を引くからにほかならない。ただし、ウォレスがこの時点で確信をもてたのはここまでだ。進化が起きる仕組みについては、まだ解明できていなかった。

出典:ダーウィンになれなかった男/p6

1855年に「新種の導入を調節する法則について」という論文を発表した。この時ウォレスはボルネオ島のサラワクで調査をしていたため「サラワク論文」と呼ばれている。そして上の引用の法則をサワラクの法則として知られるようになった。

ライエルが「ある時代に生息した種と、似たような種が次の時代にも続く現象を論じ」ていることでも分かるように種が変化することが事実だということが「発見」されることは時間の問題だっただろう。ただひとつ宗教がこれを邪魔していたことは前にも触れた。

なにはともあれ、ウォレスは種の変化についての論文を発表した。そしてこのことがダーウィンを進化論の著作を書く方向へ進ませたことは前回書いた。

1854年までにはウォレスとダーウィンは文通をする間柄になっていた。

自然淘汰説にたどり着く

ウォレスは進化論の確立に向けて二つの手がかりを手にしていた。

一つは「種のなかで個体差が生じる」こと、二つ目は「類似した種が同じ場所に年代的に続いて出現する」こと。

種のなかでの個体差が気の遠くなるほどの年月をかけて種の分化につながることまで、ウォレスは到達していた。

ウォレスが第三の重要な手がかりに気がついたのは1858年。テルナテ島近くにいた彼は、それまでに得た二つの手がかりに、経済学者マルサスの『人口論』を突き合わせてみたのだ。繁殖率は変わらなくても食料と生息地には限りがある。そのため、生まれてくる子どもの大半は生き延びられないという考え方だ。

「つまり膨大な破壊が、絶え間なく続いているということ。ぼんやりとそう考えていたとき、ふと疑問がわき起こった。なぜ死ぬものがいる一方で、生き残るものがいるのだろう、と」

ウォレスが行き着いた答えはこうだ。「周りの状況に最もよく適応した個体が生き残る」。この仕組みが働けば、世代を重ねるうちに種全体が周囲の環境に適応する方向に変化していくはずだ。キリンの首はなぜ長いのか。首の短いキリンは環境に適応できずに死んでしまい、子孫を残せなかったからにほかならない。

出典:ダーウィンになれなかった男/p7

ついに自然淘汰説にたどり着いた。1858年6月、ウォレスは原稿を書きダーウィンに送った。これがいわゆるテルナテ論文で、同年7月にダーウィンの論文と合わせて共同論文として発表されてものだ。その後の経緯は前回書いた。

ウォレスはこのような形で発表されることを全く知らされていなかったが、後日この報告を聞くと彼は喜び公営に思ったという。翌年に出版された『種の起源』を読んだ時、ウォレスはダーウィンに尊敬の念を深くした。*2

功名心とは無縁な男

1859年『種の起源』が出版され大反響が巻き起こっていた頃、ウォレスはまだマレー諸島を探検していた。1862年帰国後にダーウィンとすぐに会い、ダーウィンの死まで友人であり続けた。

帰国後のウォレスは生活に困窮するなど多難な人生をおくったが、どこまでも好奇心を満たすことに明け暮れることが出来たのは幸せな人生だったかもしれない。

1889年に自然選択に関する論文をすべて集めて出版したとき、ウォレスは謙虚にも、そのタイトルを『ダーウィニズムダーウィン主義)』とした。自分の名前が残ることなど、彼にとってはどうでもよく、大事なのは理論そのものだった。生涯を通じて、功名心とは無縁な男だった。

大した教育も受けず、経済的にも恵まれなかったが、ウォレスは豊かな人生を送った。地理的にも、知的活動の場でも、まさに好奇心のおもむくままにどこにでも分け入り、迷うことなく自分の道を突き進んだ。科学史に異彩を放つ人物として、その名は後世に伝えられていい。

出典:ダーウィンになれなかった男/p9

*1:それ故に少なからぬ差異はある

*2:ダーウィンになれなかった男/p8

進化:進化にまつわる歴史④ ダーウィンの自然淘汰

自然淘汰は natural selection の訳語で、自然選択とも呼ばれる。

自然選択説とは、進化を説明するうえでの根幹をなす理論。厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、進化に方向性を与えるという説。1859年にチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスによってはじめて体系化された。

出典:自然選択<wikipedia

自然淘汰の考えは有名なダーウィンだけの発案ではなく、ウォレスもその一人だった。

この記事ではダーウィンについて書き、次回はウォレスを書こう

学生生活と世界周航

チャールズ・ダーウィンは、医者を継ぐべく、エディンバラ大学医学部に入学しましたが、血と他人の苦痛を見るのに耐えられない人柄で、麻酔のなかった当時の医学にはとてもついていくことができず、医者になるのをあきらめました。

そこで、英国国教会の牧師になることにして、ケンブリッジ大学に入りなおします。ケンブリッジ大学では、当時の金持ち上流階級の学生の典型のように、狩猟やパーティーに明け暮れ、本業の学業には少しも熱心ではありませんでした。それでも、卒業時には178人中の10番だったので、ずいぶん付け焼き刃の猛勉強をしたに違いありません。

そして卒業した直後、恩師の紹介で、軍艦ビーグル号にのって世界一周の旅に出るという話が持ち上がりました。医者に離れず、牧師になると言ってケンブリッジを卒業したのに、またまた牧師にならずに世界一周のたびにでるというので、[父の]ロバート・ダーウィン氏は大反対しました。それでも、最期にはいろいろな人に説得されて、とうとう、チャールズのビーグル号乗船を許可しました。こうして、チャールズ・ダーウィンは、自然淘汰による進化の理論を考えつくきっかけになる機会を得たのです。[中略]

なにはともあれ、チャールズ・ダーウィンは、この5年間の世界周航によって、有名なガラパゴス諸島を初めとするさまざまな異国の地質、生物相、人種、文化を知り、その多様性を満喫して帰ってきました。ガラパゴス諸島で、異なる島に生息するフィンチのたぐいを見てから自然淘汰の理論を考えついたと言われることがありますが、ことは、そう簡単ではなかったようです。さまざまな土地に生息するさまざまな生物を実際に観察したこと、チャールズ・ライエルの著書『地質学原理』を読んだこと、ロバート・マルサスの著書『人口の原理』を読んだことなどいろいろ合わさって、彼の思考形成を助けたのでしょう。

出典:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p199-202

ダーウィン自身、のちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エディンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている*1が、この大学生活の中で授業以外の場で博物学の興味と知識を広げていった*2

その大学生活の中で最も重要なことは聖職者にして植物学者のジョン・スティーブンス・ヘンズローだ。

ダーウィンが]ケンブリッジ大学で神学を専攻していたころ、彼の人生を大きく方向転換させた人物が、植物学者のジョン・ヘンズローだ。ヘンズローの学者としての評判を聞きつけたダーウィンは、彼が開催していた夜会に足しげく通うようになり、神学生にとって必須科目ではないヘンズローのフィールド・トリップにもほぼ毎日参加。「ヘンズローと歩く男」とのあだ名が付けられるほどになる。後にヘンズローはビーグル号による南米大陸探検航海の話を持ちかけられるが、彼は調査員としてのポジションを辞退し、代わりに自慢の生徒であったダーウィンを推薦する。かくして、ダーウィンのビーグル号航海が実現することになったのだ。

出典:もっと知りたいほんとのダーウィン<英国ニュースダイジェスト5 March 2009

ちなみにビーグル号におけるダーウィンの役目はどのようなものだったのか?

ダーウィンが依頼された任務は、表向きは地質学者、実際には船長の「話し相手」というものでした。当時、船長は立場上、船員たちとの個人的な会話が禁じられていたので、孤独を癒すための話し相手となる紳士がどうしても必要だったのです。

出典:おちこぼれのドラ息子だったダーウィン<NHKテキストビュー<BOOKSUTAND(長谷川眞理子氏の筆)

ヘンズローはダーウィンを「博物学者の道へ導き、科学的探求の方法を教え、友人となった」*3。ヘンズローがダーウィンを推薦したことを考えれば、その当時のダーウィンは落ちこぼれなどではなく船上で博物学者の代役が務まるほどの資質を持っていたのだろう。

ヘンズローはダーウィンの公開先から送られる手紙と標本などの資料を受け取り、手紙の返信には激励の言葉を贈った。さらにヘンズローはダーウィンの手紙と資料を科学界に披露しダーウィンを帰国前に有名にした。帰国後もアドバイスをして著書のための資金集めをするなどダーウィンのために奔走した。

[1836年に]ダーウィンが帰国したとき、ヘンズローが手紙をパンフレットとして博物学者たちに見せていたので科学界ですでに有名人だった。ダーウィンシュールズベリーの家に帰り家族と再会すると急いでケンブリッジへ行きヘンズローと会った。ヘンズローは博物学者がコレクションを利用できるようカタログ作りをアドバイスし、植物の分類を引き受けた。息子が科学者になれると知った父は息子のために投資の準備を始めた。ダーウィンは興奮しコレクションを調査できる専門家を探してロンドン中を駆け回った。特に保管されたままの標本を放置することはできなかった。

12月中旬にコレクションを整理し航海記を書き直すためにケンブリッジに移った。最初の論文は南アメリカ大陸がゆっくりと隆起したと述べており、ライエルの強い支持のもと1837年1月にロンドン地質学会で読み上げた。同日、哺乳類と鳥類の標本をロンドン動物学会に寄贈した。鳥類学者ジョン・グールドはすぐに、ダーウィンクロツグミ、アトリ、フィンチの混ぜあわせだと考えていたガラパゴスの鳥たちを12種のフィンチ類だと発表した。2月にはロンドン地理学会の会員に選ばれた。ライエルは会長演説でダーウィンの化石に関するリチャード・オーウェンの発見を発表し、斉一説を支持する種の地理的連続性を強調した。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

当時の学問は現在のように分化する前で、動物学、植物学、鉱物学などは博物学の一分野だった。ダーウィンは世界周航で多岐にわたる分野の知識を得ただけではなく、多様な標本も収集した。膨大なコレクションの中から上のように新しい知見も生まれた。

帰国後

世界周航以前はダーウィンの社会的身分は無いに等しかったが、帰国後は博物学者として迎えられたようだ。

1837年、ダーウィンは世界周航に関する著作の執筆することと並行して進化論関連の研究もしていた。1837年に記されたノートには共通祖先から分岐した複数の種を表すスケッチが描かれている。この頃すでにラマルクと違う進化説を思いついていた*4

[1837年]7月中旬に始まる「B」ノートでは変化について新しい考えを記している。彼はラマルクの「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てた。そして生命を一つの進化樹から分岐する系統だと見なし始めた。「一つの動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理である」と考えた。

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考察ノートのスケッチ (1837)。生命の樹 (Tree of life) と呼ばれる。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia*5

しかしこの頃の時代は今だに天地創造説が(つまり種は変化しないと)信じられており、ラマルクの進化論は全く浸透していなかった。そのような時にダーウィンは軽々に進化論をおおやけにするわけにはいかなかった。

ダーウィンが数十年間も持論の発表にをためらったのは天地創造説以外にも理由があった。

6月末にはスコットランドに地質調査のために出かけた。平行な「道」が山の中腹に三本走っていることで有名なグレン・ロイを観察した。後に、これは海岸線の痕だ、と発表したが、氷河期にせき止められてできた湖の痕だと指摘され自説を撤回することになった。この出来事は性急に結論に走ることへの戒めとなった。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

ともあれ、自説を証明するための情報収集は続けられた。

プロの博物学者からはもちろん、習慣にとらわれずに農民やハトの育種家などからも実際の経験談を聞く機会を逃さなかった。親戚や使用人、隣人、入植者、元船員仲間などからも情報を引き出した。最初から人類を推論の中に含めており、1838年3月に動物園でオランウータンが初めて公開されたとき、その子どもに似た振る舞いに注目した。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

彼に影響を与えた学者で有名な人物は進化論者のエラズマス・ダーウィン(チャールズの祖父)やラマルク、地質学者のチャールズ・ライエル、経済学者のトマス・マルサス

ライエルからは斉一説(自然において、過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろう、と想定する考え方)を学び、マルサスからは『人口論』を学んだ。特に『人口論』は新しい理論を産み出した。

1838年11月、つまり私が体系的に研究を始めた15ヶ月後に、私はたまたま人口に関するマルサスを気晴らしに読んでいた。動植物の長く継続的な観察から至る所で続く生存のための努力を理解できた。そしてその状況下では好ましい変異は保存され、好ましからぬものは破壊される傾向があることがすぐに私の心に浮かんだ。この結果、新しい種が形成されるだろう。ここで、そして私は機能する理論をついに得た...(C.R.ダーウィン 『自伝』)

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

種の起源」は1859年に出版されたが、自然淘汰説は1838年には思いついていた。

ダーウィンはようやく持論を友人に打ち明けることにした。1842年にチャールズ・ライエルに、1844年にジョセフ・ダルトン・フッカー(恩師ヘンズローの義理の息子)に。フッカーに宛てた手紙には以下のような文章があった。

私はガラパゴスの生物分布やアメリカの化石哺乳類の形質に大変心を打たれたので、種とはなにか、という問題に関わるものならば何でも集めてみようと決心しました。……そしてついに一条の光が差し込んだのです。その結果、当初の私の考えとはまったく逆に、種は変わり得ないものではないことを(これは殺人を告白するようなものですが)ほぼ確信するに至りました。

出典:長谷川政美/科学バー>進化の歴史>ー時間と空間が織りなす生き物のタペストリー>第4話 「自然の階段」から「生命の樹」へ(その4)

しかし彼らを納得させるのには数年の月日がかかったらしい。

進化論の研究を影で行っている一方で、「表」の博物学者としての名声は高まっていった。あらゆる方面の研究発表が評価され、幾つかの公的な役職にも就き、1853年には王立協会からロイヤル・メダルを受賞している。

ルフレッド・ウォレスのサラワク論文とテルナテ論文

1855年ダーウィンと同じような考えを示す論文が発表された。無名の博物学者アルフレッド・ウォレスによるいわゆるサラワク論文だ。この内容は共通祖先から分化して新しい種が誕生するという説が書いてあった*6

この論文にはまだ自然淘汰説は論じられていなかったこともあり、ダーウィンは関心を示さなかったが、友人のライエルはダーウィンとの類似性に注目し、ダーウィンを急かした。

ライエルが種の始まりに関するアルフレッド・ウォレスの論文を読んだとき、ダーウィンの理論との類似に気付き、先取権を確保するためにすぐに発表するよう促した。ダーウィンは脅威と感じなかったが、促されて短い論文の執筆を開始した。困難な疑問への回答をみつけるたびに論文は拡張され、計画は『自然選択』と名付けられた「巨大な本」へと拡大した。ダーウィンはボルネオにいたウォレスを始め世界中の博物学者から情報と標本を手に入れていた。アメリカの植物学者エイサ・グレイは類似した関心を抱き、ダーウィンはグレイに1857年9月に『自然選択』の要約を含むアイディアの詳細を書き送った。12月にダーウィンは本が人間の起源について触れているかどうか尋ねるウォレスからの手紙を受け取った。ダーウィンは「偏見に囲まれています」とウォレスが理論を育てることを励まし、「私はあなたよりも遥かに先に進んでいます」と付け加えた。

1858年6月18日に「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」と題して自然選択を解説するウォレスからの小論を受け取ったとき、まだ『自然選択』は半分しか進んでいなかった。「出鼻をくじかれた」と衝撃を受けたダーウィンは、求められたとおり小論をライエルに送り、ライエルには出版するよう頼まれてはいないがウォレスが望むどんな雑誌にでも発表すると答えるつもりですと言い添えた。その時ダーウィンの家族は猩紅熱で倒れており問題に対処する余裕はなかった。結局幼い子どもチャールズ・ウォーリングは死に、ダーウィンは取り乱していた。この問題はライエルとフッカーの手に委ねられた。二人はダーウィンの記述を第一部(1844年の「エッセー」からの抜粋)と第二部(1857年9月の植物学者グレイへの手紙)とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成の共同論文として1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で代読した[12]。

ダーウィンは息子が死亡したため欠席せざるをえず、ウォレスは協会員ではなく[13]かつマレー諸島への採集旅行中だった。この共同発表は、ウォレスの了解を得たものではなかったが、ウォレスを共著者として重んじると同時に、ウォレスの論文より古いダーウィンの記述を発表することによって、ダーウィンの先取権を確保することとなった。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

  • 「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」が通称テルナテ論文。

素人としてはなんだかきな臭い感じがするが、とりあえずウォレスは抗議などはせず、むしろ光栄に思った*7。著名なダーウィン都の共同論文という形でなければウォレスの論文は無視されていたかもしれない。しかしこの共同論文はほとんど関心を示されなかった。

種の起源

ダーウィンは13ヶ月間、「巨大な本」の要約に取り組んだ。不健康に苦しんだが科学上の友人たちは彼を励ました。ライエルはジョン・マレー社から出版できるよう手配した。1859年11月22日に発売された『種の起源』は予想外の人気を博した。初版1250冊以上の申し込みがあった。

もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではない。当時、すでに生物の進化に関する著作はいくつも発表されており、受け入れられる素地はあった。この本は『創造の自然史の痕跡』よりも少ない論争と大きな歓迎とともに国際的な関心を引いた。病気のために一般的な論争には加わらなかったが、ダーウィンと家族は熱心に科学的な反応、報道のコメント、レビュー、記事、風刺漫画をチェックし、世界中の同僚と意見を交換した。ダーウィン人間については「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言わなかったが、最初の批評は『痕跡』の「サルに由来する人間」の信条を真似して書かれたと主張した。初期の好ましい反応のひとつであるハクスリーの書評はリチャード・オーウェンを痛打し、以後オーウェンダーウィンを攻撃する側に加わった。オーウェンの反発は学問的な嫉妬が動機だったとも言われ、私的な交流も途絶えることになった。ケンブリッジ大学の恩師セジウィッグも道徳を破壊する物だとして批判した(が、セジウィッグとは生涯友好的な関係を保った)。ヘンズローも穏やかにこれを退けた。進化論の構築に協力していたライエルはすぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したが、やはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させた。『昆虫記』で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあったが意見の合致には至らなかった。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia(詳細は引用先参照)

ライエルやヘンズローの態度を見るとこの著書の重大さがわかる。『種の起源』は「道徳を破壊する物」つまり道徳・秩序であるキリスト教世界を壊すものと受け止められた。



進化:進化にまつわる歴史③ ダーウィン以前の進化論 ~ラマルクの獲得形質の遺伝~


1623 スイスのギャスパール・ボアン、『植物対照図表』の一部で二名法を採用。
1686 イングランドのジョン・レイ、『植物誌』で種の概念を発表する。
1694 フランスのジョゼフ・ツルヌフォール、『基礎植物学』で種の上に属、目、網を立てる。
1735-59 スウェーデンのカール・リンネ、『自然の体系』で生物の分類を体系化した。二名法を本格的に採用し、分類学の祖と言われるようになる。
1802 イギリスのウィリアム・ペイリー、『自然神学』でデザイン論を発表。
1809 フランスのジャン=バティスト・ラマルク、『動物の哲学』で獲得形質の遺伝による進化論を発表。
1844 スコットランドのロバート・チェンバース、匿名で『創造の自然史の痕跡』を出版。進化論が注目を集める。
1858 イングランドのアルフレッド・ラッセル・ウォレスとチャールズ・ダーウィンの共同論文を発表。自然選択による進化論を世に出すが、あまり注目されなかった。
1859 ダーウィンの『種の起源』が出版される。注目を集める。
1861 フランスのルイ・パスツール、『自然発生説の検討』を著し、従来の「生命の自然発生説」を否定。
1865 オーストリア帝国のグレゴール・ヨハン・メンデル、『植物雑種に関する研究』を発表。発表当時は反響がなかったが、後世に「メンデルの(遺伝の)法則」として有名になる。
1940年代 ネオダーウィニズム(総合説)が成立。
1968 遺伝子の「分子進化の中立説」をNatureに発表。


進化論を初めてはっきりと提唱したのはジャン=バティスト・ラマルク(1744-1829)だった。彼は上のような「生物を含む万物全ては上によって作られた」という考えを否定し、自然発生説(前回の記事参照)に立ち、『動物の哲学』(1809)を世に出し、生物は進化していくことを提唱した。

彼は、生物は常に単純なものから高等なものへ変化していくと考えており、現在複雑な構造をもつ生物はより昔に生じ、単純な生物はごく最近生じたため、まだ複雑なものに変化していないのだととらえていた。言い換えれば、彼は生物は一つの共通の祖先から進化したのではなく、絶えず別々の種類のものが自然発生していると考えたのだ。(図7)

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この他ラマルクは、生物は常に発展し、また変動する環境に適応する機構をもっているために、みずから絶滅するものとは考えなかった。そのため彼は、環境に適応する機構として「獲得形質の遺伝」をもとにした「用・不用説」を提唱したのである。

環境が変化すると、動物が生きるために必要とするものも変化する。キリンの祖先は首が短かったが、ある時点で樹上の食物をとらなければならないようになり、キリンは首を伸ばして食物をとろうとする。その結果、必要によってよく使われる首が発達し、子孫に伝えられ、次第にキリンの首が長くなったという話は、「用・不用説」の例としてよくあげられている。この機構は、生物が自発的な活動を通じて環境に適応していくという、「生物自身の努力による前進的な進化観」が基盤になっているのである。

出典:河田雅圭/はじめての進化論/p4(1990年に講談社現代新書から出版されたもの)

用不用説・獲得形質の遺伝は共に現代では否定されている。

簡単に言うと用不用説は「生物の器官で、生活の中でよく使うものは世代を通じて発達し、使わないものは退化する」というもの。獲得形質とは「生物個体が一生の間に、環境の影響や鍛錬によって獲得した形質」のことでラマルクはこれが遺伝すると考えていた。

進化:進化にまつわる歴史② 分類学


1623 スイスのギャスパール・ボアン、『植物対照図表』の一部で二名法を採用。
1686 イングランドのジョン・レイ、『植物誌』で種の概念を発表する。
1694 フランスのジョゼフ・ツルヌフォール、『基礎植物学』で種の上に属、目、網を立てる。
1735-59 スウェーデンのカール・リンネ、『自然の体系』で生物の分類を体系化した。二名法を本格的に採用し、分類学の祖と言われるようになる。
1802 イギリスのウィリアム・ペイリー、『自然神学』でデザイン論を発表。
1809 フランスのジャン=バティスト・ラマルク、『動物の哲学』で獲得形質の遺伝による進化論を発表。
1844 スコットランドのロバート・チェンバース、匿名で『創造の自然史の痕跡』を出版。進化論が注目を集める。
1858 イングランドのアルフレッド・ラッセル・ウォレスとチャールズ・ダーウィンの共同論文を発表。自然選択による進化論を世に出すが、あまり注目されなかった。
1859 ダーウィンの『種の起源』が出版される。注目を集める。
1861 フランスのルイ・パスツール、『自然発生説の検討』を著し、従来の「生命の自然発生説」を否定。
1865 オーストリア帝国のグレゴール・ヨハン・メンデル、『植物雑種に関する研究』を発表。発表当時は反響がなかったが、後世に「メンデルの(遺伝の)法則」として有名になる。
1940年代 ネオダーウィニズム(総合説)が成立。
1968 遺伝子の「分子進化の中立説」をNatureに発表。


スウェーデン博物学者カール・リンネ(Carl von Linné 1707-1778)は『自然の体系』(1735)を著し、生物の分類を体系化した。現在の分類も彼の体系の改良されたものだ。リンネは分類学の祖と言われている。

以下のような功績により、「分類学の父」と称される。

・それまでに知られていた動植物についての情報を整理して分類表を作り、その著書『自然の体系』(Systema Naturae、1735年)において、生物分類を体系化した。その際、それぞれの種の特徴を記述し、類似する生物との相違点を記した。これにより、近代的分類学がはじめて創始された。

・生物の学名を、属名と種小名の2語のラテン語で表す二名法(または二命名法)を体系づけた。ラテン語は「西洋の漢文」であり、生物の学名を2語のラテン語に制限することで、学名が体系化されるとともに、その記述が簡潔になった。現在の生物の学名は、リンネの考え方に従う形で、国際的な命名規約[2]に基づいて決定されている。

・分類の基本単位である種のほかに、綱、目、属という上位の分類単位を設け、それらを階層的に位置づけた。後世の分類学者たちがこの分類階級をさらに発展させ、現代おこなわれているような精緻な階層構造を作り上げた。

出典:カール・フォン・リンネ<wikipedia

リンネ以前に既に膨大な動植物のデータが西欧に集積されていた。そして分類方法をどうすべきかも案は出されてきた。

自然界のさまざまな存在を収集して命名し、体系化を試みた博物学者は、リンネが最初ではなかった。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、動物を「無血動物」と「有血動物」に分類した。16世紀のドイツの植物学者レオンハルト・フックスは、500種類の植物をアルファベット順に並べて解説した。英国のジョン・レイは、1686年に発表した『植物誌』で「種」という概念の確立に貢献した。レイと同時代に活躍したフランスの植物学者ジョゼフ・ピトン・ド・トゥルヌフォールは、花や実といった部位の形を基準にして、世界の植物を700あまりの種類に分類した。

出典:特集:リンネ 植物にかけた情熱の人<ナショナル・ジオグラフィック日本語版<2007年06月号/p2

上に名前は出ていないが、初めて二名法を公表したのはギャスパール・ボアン(Gaspard Bauhinまたは Caspar Bauhin、1560年-1624年)だった(二名法については後述)。『植物対照図表』(Pinax Pinax theatri botanici、1623)の中の多くの植物の名前に二名法を採用した。この二名法は属と種を使って表した*1が、ボアンの頃の属や種は近代のそれとは違う独自のものだったようだ。

種の概念を初めて確立したのはジョン・レイ(1627-1705)の『植物誌』(Historia generalis plantarum 、1686)。レイの定義はいわゆる生物学的種だった。つまり「同地域に分布する生物集団が自然条件下で交配し、子孫を残すならば、それは同一の種とみなす」というもの。

トゥルヌフォールツルヌフォール、1656-1708)は属・目・網の分類を確立した。彼が考案した分類は現在の分類学に受け継がれている*2

リンネはこうした伝統から出発し、その伝統を越えていった。1735年に刊行された『自然の体系』は他に類を見ない特異な書物で、二つ折りにされたページが十数ページ続く大型本だった。リンネはその中で、自然界を構成すると考えていた三つの世界、植物界、動物界、鉱物界に存在するすべてのものを分類する方法を概説している。[中略]

リンネの命名法も、科学の発展に貢献した。新種の植物が次々に発見されるようになると、種の分類と同様に、命名法にも問題が出てきた。“リンネ以前”は、形容詞や参考情報を延々と書き連ねる命名法しかなかったので、ひどく使いにくいものだった。そこでリンネは『植物の種』という著作で、植物の属と種の名前だけをラテン語で記述する二名法を確立した。1758~59年に大型の2巻本として刊行された『自然の体系』第10版では、二名法を植物だけでなく動物にも適用した。こうしてヒルムシロ科のエゾヤナギモという水草は、Potamogeton caule compresso, folio Graminis canini……という長たらしい名前から、簡潔なPotamogeton compressumになり、私たち現世人類は「知恵のあるヒト」という意味のHomo sapiensと呼ばれるようになった。

出典:特集:リンネ 植物にかけた情熱の人/p2-3

リンネは百年以上前に考案された二名法を動植物全てに一貫して採用した。ただ採用しただけでなく、リンネは「属名と種小名」という組み合わせの命名法を考案した*3

これらの分類と二名法の考案が現代の分類学の創始となる。よってカール・リンネは植物学の祖あるいは植物学の父と呼ばれる。

しかしリンネは近代学問の学者ではなかった。

リンネにはもっと深遠な目的もあった。植物を分類する「自然法則」を見つけることで、神が生物を創造した摂理を解明できると考えていた。

出典:特集:リンネ 植物にかけた情熱の人/p3

彼は進化論以前の人だった。キリスト教的な世界観を持ち天地創造説を信じていた。

進化:進化にまつわる歴史① ダーウィン以前

ダーウィン自然淘汰説が出る以前は聖書に書いてある天地創造説と古代文明の頃からあった自然発生説が信じられていた。

この世にある全てのものは神によって創造されたという天地創造説は中世西欧では当然のこととして受け入れられていたが、科学的知識が増加してくるに比例して、これに疑念を抱くようになる。これに対応しようとした教会側は自然神学を持ち出してきた。

いっぽう、自然発生説は古代より信じられていた説でアリストテレスもこの考えに基づいて『動物誌』や『動物発生論』を著している。


1623 スイスのギャスパール・ボアン、『植物対照図表』の一部で二名法を採用。
1686 イングランドのジョン・レイ、『植物誌』で種の概念を発表する。
1691 ジョン・レイ、『神の英知』で自然神学を説く。
1694 フランスのジョゼフ・ツルヌフォール、『基礎植物学』で種の上に属、目、網を立てる。
1735 スウェーデンのカール・リンネ、『自然の体系』で生物の分類を体系化した。二名法を本格的に採用し、分類学の祖と言われるようになる。
1802 イギリスのウィリアム・ペイリー、『自然神学』でデザイン論を発表。
1809 フランスのジャン=バティスト・ラマルク、『動物の哲学』で獲得形質の遺伝による進化論を発表。
1844 スコットランドのロバート・チェンバース、匿名で『創造の自然史の痕跡』を出版。進化論が注目を集める。
1858 イングランドのアルフレッド・ラッセル・ウォレスとチャールズ・ダーウィンの共同論文を発表。自然選択による進化論を世に出すが、あまり注目されなかった。
1859 ダーウィンの『種の起源』が出版される。注目を集める。
1861 フランスのルイ・パスツール、『自然発生説の検討』を著し、従来の「生命の自然発生説」を否定。
1865 オーストリア帝国のグレゴール・ヨハン・メンデル、『植物雑種に関する研究』を発表。発表当時は反響がなかったが、後世に「メンデルの(遺伝の)法則」として有名になる。
1940年代 ネオダーウィニズム(総合説)が成立。
1968 遺伝子の「分子進化の中立説」をNatureに発表。


自然発生説

自然発生説とは、「生物が親無しで無生物(物質)から一挙に生まれることがある」とする、生命の起源に関する説の1つである。一般にアリストテレスが提唱したとされている。近代に至るまでこれを否定する者はおらず、19世紀までの二千年以上にわたり支持された。

フランチェスコ・レディの対照実験を皮切りに自然発生説を否定する実験的証明が始まり1861年ルイ・パスツール著『自然発生説の検討』に至って、自然発生説がほぼ完全に否定された、とされる。

アリストテレスによる観察・判断・考察

紀元前4世紀ころのアリストテレスは、様々な動物の出産の様子(親の体から産まれる様子)なども観察した人物であるが、彼は多種多様な生物をじっくりと観察した結果、生物の中には親の体からではなく物質から一挙に生まれるものがある、と判断し、自著『動物誌』や『動物発生論』において多数の動物を自然発生するものとして記述した。例えば、ミツバチやホタルは(親の体から以外に)草の露からも生まれ、ウナギ・エビ・タコ・イカなどは海底の泥から産まれる、と記述した。

アリストテレスのこれらの観察はルネサンス期まで疑いなく人々に受け入れられており、疑う人はいなかった。

出典:自然発生説<wikipedia

天地創造と自然神学

聖書には唯一神が生命を含む万物を創造したと書かれており(天地創造)、長く信じられてきた。しかし西欧では17世紀の科学革命あたりから天地創造の物語に疑念を持つ信徒が急増し、協会側は対応を迫られていた。

18世紀初めの哲学者と進学者にとっての大きな問題は、科学が知的生活を支配し始めて以来そうであったが、理性と信仰とを調和させることであった。とりわけ、苦境にあったキリスト教会側は、キリスト教の教義と科学とを調和させることの必要性を痛感した。自然神学はそうした目的にかない、教会にも知性のある人々にも受け入れやすく、17、18世紀を経て19世紀半ばに到るまで自然神学全盛の時代となる。

出典:門井昭夫/ジョン・レイの『天地創造の御業に明示された神の英知』/健康科学大学紀要 第11号/2015(pdf)/p2

そもそも本来の自然神学とは聖書の文言や神の啓示に頼らずに、自然環境などの客観的事実の考察・判断からキリスト教の真理性を証明しようとする神学である。

中世西欧ではイスラム圏から輸入されてきたアリストテレスなどの古代ギリシアの知識が聖書と相反することが多く書かれていたためこれに対応するために自然神学が持ち出された。中世西欧の自然神学ではトマス・アクィナスが有名。

そして17世紀以降は上述のとおり、科学革命に対応するために自然神学が持ち出された。

ジョン・レイの『神の英知』

17世紀末と18世紀初めに代表されるのが上述したジョン・レイの『天地創造の御業に明示された神の英知』(通常『神の英知』で通用する)である。レイは「イングランド博物学の父」とも呼ばれるように科学者としても有名だが、この書の目的は科学的研究の発表ではなかった。

当時かなりの科学者たちが無神論者であり、それらの人々に神の御業の偉大さと英知とをつぶさに証明し、侵攻へと導くことがこの講話の目的であった。

出典:門井氏/p5

そして博物学者としての知識を披露し、とりわけ人間が如何に完全で申し分ない出来であるかを長々と説明し、その後に「神に感謝を捧げよう」と説く*1。また神を少しでも疑うことは「人を惨めにする」とした(門井氏/p19)。

[『神の英知』]は18世紀には、科学と神学の権威ある書物として広く読まれ、版を重ねて非常に大きな影響を及ぼした。その内容の多くがペイリー(William Paley)の『自然神学』(Natural Theology)に取入れられて、『神の英知』はさらに寿命が延び、その影響は後の時代にも及んだ。

出典:門井氏/p2

ペイリーの『自然神学』では『神の英知』からの無断借用が後半に見られ、剽窃と言われている。*2

ウィリアム・ペイリーのデザイン論

イギリスの聖職者、ウィリアム・ペイリー (William Paley 1743-1805)が『自然神学』(1802)*3という本を書いた。

この本の中に有名な時計職人の例え話がある。

この例え話の内容を手短に書くと、「時を測ろうと、という目的をもった時計職人が、上手く時が測れるようにデザインした」ように、「生き物がうまく生きられるようにと神様が目的をもってデザインした」*4というもの。

ペイリーは、『自然神学』という本を書き、その中で目の作りの精巧なことなど、たくさんの例をあげて、デザイン論を展開しています。これは、それ以後、主流の考えとなりました。しかし、本書でも少し指摘しましたが、生き物はたいへんうまくできてはいるものの、必ずしも完璧ではありません。でも、ペイリーは、そのような生き物の不備なところには目をつぶっていたようです。

出典:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p194



*1:門井氏/p13

*2:門井氏/p4

*3:Natural Theology or Evidences of the Existence and Attributes of the Deity 自然神学、あるいは自然の外観から収集された神性の存在および属性の証拠

*4:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p194

進化:進化について

厳密な学問上ではなく、一般的な進化は、ある種(生物)から別の新しい種ができることをいう。時々は新しい属もできる(種・属については記事「「種」「属」について/生物の分類について」参照)。この進化は生物学上、適応進化と言うらしい。

これ以外の進化に中立進化と言われるものがある。

この記事では一般的な進化のみについて書く。中立進化については「中立進化説<wikipedia」などを参照。

進化のプロセス

進化のプロセスについて説明するために必ず必要な用語は突然変異と自然淘汰の二つ。突然変異については記事「突然変異について」参照。自然淘汰については記事「適応と自然淘汰(自然選択)について」参照。

  1. 突然変異というのは周りの環境に関係なくランダムに起こる。多くの突然変異は生存に不利に働くので突然変異した種の個体は子孫を残せない。

  2. しかし、突然変異の中には生存に有利に働く場合もある。ある種が生活している環境が変わった場合(例えば気候変動の変化や個体激増による食糧難など)に突然変異によりたまたま生存と繁殖に有利な形質(生物のもっている形や特徴)を持った個体が生存に有利になる。この場合はその個体は子孫を多く残すことができる。そして生存に有利な突然変異を受け継いだ集団が出来上がる。

  3. ある種の中で、生存に有利な突然変異を受け継いだ集団が個体を増やし、そうでない集団が個体を減らす、このような状況を自然淘汰または自然選択という。

  4. また、個体を増やした集団は生活環境の中で有利な特性を得てより生活しやすくなっている。このような状態を適応という。

  5. ある種に自然選択を仕向ける要因(自然環境変化)を選択圧という。

  6. 突然変異から適応までのプロセスを進化という。

大進化と小進化

上で書いたように一般的な進化は、新しい種がうまれるできることだが、これを大進化という場合がある。これに対応するのが小進化と言う。

同じ種の中で生じる小規模な進化的変化。大進化の対語。新しい種が誕生するような中規模の進化もこれに含めることがある。小進化の例としてまず挙げられるのは,同じ集団内に生じる遺伝的変化である。工業地帯におけるガの工業暗化型の増加,殺虫剤の使用にともなうハエやダニやシラミの薬剤抵抗性系統の出現などがその好例である。前者の例では煤煙(ばいえん)で汚れた環境内では,暗化型の方が鳥などの捕食者によって食われにくいことから有利になり,増加したらしい。

出典:世界大百科事典 第2版<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

進化は進歩ではない

進化とは、生物が時間とともに「変化」していくことであって、その変化は必ずしも「進歩」であるとは限りません。第一、「進歩」という言葉には、悪いものから良いものへという価値観が入っていますが、なにが良くてなにが悪いのでしょう?「下等動物」・「高等動物」という言い方は、細菌のように、からだの体制が単純で神経系がよく発達しているものを「高等」とする価値観に基づいています。そして、その考えではもちろん、もっとも高等で優れた存在が「人間」ということになります。

しかし、自然淘汰に目的はないのだし、進化は、人間という「高等な」生き物を生みだすように進歩を重ねてきた過程なのではありえません。図9を見てください。進化は、左のような梯子ではなく、右に示したような枝分かれの過程です。現在、この地球上に見られるすべての動物は、ミミズでもハトでもイチゴでも、人間と同じように進化の最先端にいるのです。

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最初に生じた生物が単純な単細胞生物だったので、多細胞の複雑な生物は、確かに、あとになってから生まれました。しかし、寄生虫になって他の動物の腸の中で一生を送るようになった生き物の中には、祖先が持っていた内蔵を失ってしまったものもいます。つまり、彼らは、進化の結果、より単純なからだになりました。進化は、単純な一つの梯子にそった進歩の過程ではなく、さまざまに異なる環境に適した、さまざまに異なる生き物を生みだす枝分かれの過程なのです。

出典:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p52-54

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進化:適応と自然淘汰(自然選択)について

適応

1.ある生物のもつ形態、生態、行動などの性質が、その生物をとりかこむ環境のもとで生活してゆくのにつごうよくできていること[1]。[中略]

適応がいかにして起きているのかについての説明としては、生物学史的に見ると様々な説が提示されてきた過去があり紆余曲折があったが、現在では、自然選択が唯一の自然科学的なものであると考えられている。ただし、適応と自然淘汰の関係をどのように定義するかは研究者によって異なっている[1]。

1の意味の適応についてもう少し解説すると、たとえばアザラシやオットセイは手足がヒレ型であり、明らかに水中生活に都合のよい形をしているが、他方で頭蓋骨などの特徴からは食肉目に属するもので、イヌやネコと近縁と考えられる。この場合、陸上生活のものが先祖型と考えられるから、その手足は歩脚型であったはずで、それが現在のヒレ型になったのは、水中生活で便利なように変化したのだと生物学では考える。オットセイは両手両足を歩行に利用できるが、アザラシはそれもできなくなっており、後者の方がより水中生活への適応が進んだ(そのぶん陸上では適応的でなくなった)ものと考える。

出典:適応<wikipedia([1]生物学辞典 第四版 p.958 【適応】)

自然淘汰(自然選択)

一般に生物の繁殖力が環境収容力(生存可能数の上限)を超えるため、同じ生物種内で生存競争が起き、生存と繁殖に有利な個体はその性質を多くの子孫に伝え、不利な性質を持った個体の子供は少なくなる。このように適応力に応じて「自然環境が篩い分けの役割を果たすこと」を自然選択という。

出典:自然選択説wikipedia

ある生物(種)は制限されなければ幾何級数的に(例えば、2,4,8,16…のように)増加する。

→しかし自然環境の食糧は算術級数的に(例えば、1,2,3,4…のように)しか増加しない。

→食糧不足のため生存競争が起こる。

→突然変異によって偶然に生存と繁殖に有利な形質(生物のもっている形や特徴)を持った個体あるいは群は多くの子孫を残す。生存競争に勝つ。

生存競争に勝って多くの子孫を残した種は生活している環境の中で「適応している」という。

参考

幾何級数(=等比数列):a_{n} = ar^{n-1} (aを初項、rを等比という)

算術級数(≒等差数列):a_{n} = a_1 + (n-1)d (a_{1}を初項、dを等差という)

注意すべき誤解

自然淘汰が働く大前提は、生き物の間に遺伝的な変異があることです。それらの変異の中にあるものが、他のものよりも環境に適しているとなると、自然淘汰が働きます。しかし、そもそも生き物の間に存在する変異は、環境とは無関係に生じてくるものです。変異は遺伝子の配列に生じるものですが、遺伝子は、まわりの環境がどうなっているかなど知るよしもありません。

変異はランダムに無方向に生じます。したがって、たとえば、寒い海の中に住んでいる生き物にとって、血液が凍らないような性質があればいいなあということになっても、凍らない血液を作ることのできるような変異が遺伝子の中に生じていなければ、それが自然淘汰で拾い上げられることはありません。寒い海の中に入ったからといって、凍らない血液を作るような変異が、そのときになってうまい具合に生じてくるわけではありませんし、寒い海に入っていくことを見越して、あらかじめそのような変異が備わっているというわけでもないのです。

確かに、北極海に住んでいる魚の中には、凍らない血液を持っているものがあります。しかし、それは、その魚がたまたま、北極海に住むことで有利となり、自然淘汰によって広まったものです。自然淘汰の結果として適応が起こると、あたかもそのような素晴らしい適応を起こすように、目的をもって淘汰が働いたかのように見えますが、それは、あとから見るとそう見えるだけで、自然淘汰の材料となる変異は、目的などとは関係なく生じているのです。

出典:長谷川眞理子/しんかとはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p50-52



自然選択説の考えはマルサスの『人口論』の考えがベースにある。人口論の考えとは「人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する」*1というものだ。