歴史の世界

メソポタミア文明:ウル第三王朝② 初代ウルナンム

即位まで

アッカド王朝末期については 記事「アッカド王朝時代⑥ 六代目以降の没落から滅亡まで/都市国家分立期」で書いた。

  • 王朝が滅亡する過程の中でラガシュ、ウルクグティ勢力が台頭した。ウルナンムはウルク王ウトゥヘガル配下の将軍だった。

  • 将軍ウルナンムはウトゥヘガル王にウルに派遣されたが、そこで独立して「ウルの王」となった。これが いちおうウル第三王朝誕生の瞬間。

  • その後、「ウルの王、シュメールとアッカドの王」を名乗った。

支配状況

私が入手した参考文献の中で、ウルナンムがどのようにシュメール・アッカド地方を攻略したか について書かれているものはほとんど無い。

小林登志子著『シュメル』*1(p252)によれば、「ウルナンムはグティ人の侵入で混乱したシュメル・アッカドの地を再統一すると・・・」とさらっと書くのみである。

「ウル・ナンム<wikipedia」には「彼は独立状態にあった他のシュメール都市国家を次々と打ち破り統合していったが、その具体的な過程は殆ど知られていない」とある。

入手できたものので唯一詳細にかかれている図書は前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*2だけだ。以下はこの本に頼って書く。

シュメール地方

『初期メソポタミア史の研究』(p126-128)によれば、「ウルの王、シュメールとアッカドの王」を名乗った後、ウルナンムは勢力拡大のための活動を開始した。諸都市に各都市の都市神の神殿を建設し、ニップルに城壁を築き運河を開削した。こうしてウルナンムは都市国家の上級支配権を獲得した。上級支配権という言葉がよく分からないが、おそらく江戸幕府における外様大名に対する中央政府の命令権(支配権)のようなものだと思われる。

上記の本では「ラガシュを例外として、ほぼシュメール地方を掌中した」(p128)とあるが、ウルナンムはラガシュの権益であるペルシア湾の交易とグエディンナの一部を奪取しラガシュ王ナムハニ(ナンマハニ。ラガシュの王名表では第2王朝の最後の王)を破ったので、ウルナンムの治世中にラガシュを陥落出来なかった(または安定した支配が出来なかった)としても、それは時間の問題だったと思われる。

ちなみに「lagash<wikipedia英語版」によれば、古バビロニア時代に少し触れられる文書が遺っているいがいに見当たらない。ラガシュが初期王朝時代およびアッカド王朝末期に持っていた重要な地位はその後 回復することはなかった。

アッカド地方

ウルナンムがシュメール地方を掌握しようとしていた頃、アッカド地方はエラムの王プズルインシュシナクが支配していた(前掲書/p128/p216-218)。

アッカド地方をエラムが支配したことについては、『ウルナンム法典』に「そのとき、ウンマ(=アクシャク)、マラダ、ギリカル、カザルとその村落、そしてウザルムがアンシャンの故に奴隷状態にあったが、私(ウルナンム)の主ナンナ神の力によって、その自由を回復した」(RIME 3/2、48)とあり、プズルインシュシナクは、スサを本拠に、アンシャンまでのイラン高原全域を支配下においていた。

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出典:初期メソポタミア史の研究/p218(地図はp217)

ウルナンムはエラム勢力アッカド地方から奪取した。

開放されたカザル、アパアク、マラダは、ウル第三王朝時代を通じて、ほかの都市とは異なる支配形態を取るようになる。ウル支配下の有力都市は、通常、在地勢力の有力者がなるエンシの支配であるが、カザルなどは、将軍がエンシを兼ね、軍民両政を担った。ウルナンム以後も、ウルの王はこの地域が軍事な要地であるという認識を持っていたのである。

出典:初期メソポタミア史の研究/p129

上のような地域が「軍政地域」となることは記事「ウル第三王朝① 概要」第2節「文書行政システムと二元支配体制」で触れた(地図も参照)。この軍政地域はエラムまたは東方の勢力がディアラ川流域から中心地域(アッカド・シュメール地方)への侵入を防ぐために必要だと考えたからだろう。

『初期メソポタミア史の研究』では小林氏の『シュメル』に書いてある「グティ人の侵入」に触れないのは、著者前田氏がグティ人がシュメール・アッカド地方を支配したという(以前の?)通説を否定しているからだろう。

ウルナンム法典と社会正義

ウルナンム法典は現存するもので最古の法典と言われている。これとともに重要なのは、社会正義が王の責務に加わったことだ。

『シュメル』(p160-162)では法典の幾つかの条文を載せているが、どのような内容かは「ウルナンム法典<wikipedia」に書いてある。

ここでは見出しのとおり、ウルナンム法典と社会正義を合わせて書いてみよう。

 アッカド時代までの王の責務

「正義」は、シュメール語で「ニグシサ」、アッカド語で「ミーシャルム」と言いますが、どちらも文献上に最初に現れるのは、アッカド時代の終わりころです。そして、次のウル第三王朝時代になると、前田徹氏が指摘するように、「正義」を維持することが王の重要な責務の一つになります。

シュメール都市国家時代以来、都市国家の防衛、および豊饒と平安の確立の確保が、王にとっての2つの重要な責務であると考えられてきました。

都市国家の防衛とは、都市に周壁を築いて外からの攻撃に備え、万一攻められたときには、軍隊を率いて外敵と戦うことです。豊饒と平安とは豊かな収穫と不安のない生活の確保のことで、それらを保障してくれる神々の神殿の建設や修復、また農耕に欠かせない運河の開削や浚渫を意味しました。

 ウル第三王朝以降の王の責務

ウル第三王朝時代になると、バビロニア全土とその周辺地域を支配する統一国家が完成します。

この時期に、国家の防衛と豊饒・平安の確保に加えて、新に「正義」の維持が王の責務に加わりました。[中略]

ここでいう「正義」とは社会正義のことです。孤児や寡婦に代表される社会的に弱い立場にある人たちを、強い立場にある人たちの搾取や抑圧から守り、弱い立場にある人たちの正義が蹂躙されたときには、その正義を回復することが、王の責務となったのです。

 ウルナンム法典

正義の維持者としての王の責務が具体的な形をとったのが、王による「法典」の作成です。最も有名なのはハンムラビ法典ですが、メソポタミア最古の法典は、ウル第三王朝初代の王ウルナンム(在位前2112-2095年)が作らせたウルナンム法典です。ウルナンム法典はシュメール語で書かれています。現在残っているのは、粘土板に書き写された断片的な写本数点のみですが、その前書きの最後に、「わたしは、憎しみ、暴虐、そして正義を求める叫び声(の原因)を取り除いた。わたしは、国土に正義を確立した」と述べており、ウルナンムが正義の維持に強い関心を持っていたことをよく示しています。

出典:メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p106-108

前書き(前文)にはウルナンムが最高神エンリルより王権を賦与されたことが書かれ(初期メソポタミア史の研究/p137)、そして前文の最後にあるように王としての役割である社会正義の実現を高らかに宣誓している。

正義(ニグシサ)が用語として確定する以前の初期王朝時代では、社会の不公正や社会階層の分解による不安定さを是正するために、「寡婦、孤児を力有る者のもとに置かない」と宣言する弱者救済や、債務奴隷から自由民に戻す「自由を与える」ことを、都市支配者は宣言した。社会正義とは、個々の施策である債務奴隷からの解放や弱者救済を包含し総称する概念と捉えることができる。ただし、社会の公正さと平安を意図することは同じであっても、「自由を与える」ことと、法典における「社会正義」の擁護とは相違するところがある。

出典:初期メソポタミア史の研究/p132

まず「自由を与える」という言葉は、初期王朝時代ⅢB期のラガシュ王エンメテナとウルイニムギナ(ウルカギナ)が使用している*3。彼らは債務奴隷などを解放して「自由を与えた」。

『シュメル』(p152)によれば、「自由」のシュメール語は「アマギ」と言い、《アマギは字義通りには「母」アマに子を「戻す」ギであることから、本来あるべき姿に戻すことを意味するので、「自由」と翻訳されている》。

ただし、債務奴隷などの解放を何度も行ったら逆に社会が乱れるだろう。債務奴隷は非合法に奴隷に落とされたわけではないのだから。王は即位や神殿の落成などの慶事の機会を用いて「勅令」と言う形で奴隷解放を命じた。いわば恩赦だ。

それに対して、法典に示された条文は、「正義の定め」としての普遍的な規則、神が定めた守るべき秩序や準則を例示するものであって、ときに言われるような立法権を行使して王が定めた方ではない。ウルナンム以下の3法典は、あくまでもその条文に示された社会正義を実行するように人びとを導くことにあった。王は決して立法者ではない。

出典:初期メソポタミア史の研究/p132

ウルナンム法典は「正義の定め」を知らしめるために作られたが、その条文の罰則はかなり具体的なものだ(シュメル/p160-162)。これらが実際の裁判で適応された証拠は無く、裁判と法典は無関係だと見ることが多いということだが、著者の前田氏は「筆者もそのように捉えてきたが、ウル第三王朝時代に、「法典」の編纂と裁判制度の整備が同時並行的に行われているので、無関係と切り捨てることはできないと考えるようになった」と言って、「法典」が裁判において定期王された例を示している(p135)。



*1:中公新書/2005

*2:早稲田大学出版部/2017

*3:初期メソポタミア史の研究/p131

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メソポタミア文明:ウル第三王朝① 概要

これから幾つかの記事に亘ってウル第三王朝について書くが、最初に概要を書いておこう。

文書行政システムと二元支配体制

おそらく前21世紀の末、ウルにおいてウル・ナンムが即位して、ウル第三王朝がはじまった。王は5人、彼らの治世期間はあわせて100年程度にすぎないが、この時期は前3000年にわたるメソポタミアの歴史のなかでもきわだっている。この時期に公的機関の文書行政システムが極端なまでに整えられ、驚くほど精密な記録が大量に作成されたからである。[中略]

ウル第三王朝時代の繁栄は、二代王シュルギ治世の後半で頂点に達した。彼は外征をくりかえし、メソポタミア周辺の諸国家にウル王朝への臣従、朝貢を誓わせ、いっぽうメソポタミア中心部(シュメール・アッカド地域)の都市には知事を派遣して直接支配を行った。中心地域の都市には、シュメールの最高神エンリルの神殿での輪番奉仕を義務づけ、いっぽう中心地域の北方、ディヤラ川から上・下ザブ川地域にかけては軍団による軍事支配を実現した。

ウル第三王朝の支配は中核と周辺という二分法にもとづいていた。王権は、中心地域では伝統的な都市組織を利用しつつ、灌漑にもとづく農業生産を行わせて、その余剰を吸いあげた。いっぽう周辺地域からは、大量の家畜を中心地域には込みこませたのである。

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前田徹「メソポタミアの王・神・世界観」(2003年)より転載。前田は、ウル王朝が、ディヤラ流域地方を軍事力によって統治したことを強調している。

出典:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p42-43

  • ディヤラ川流域は東方からアッカド地方への侵入点の一つ。

ウル第三王朝は東地中海沿岸からイラン高原にいたる広い地域を支配下に組み込んだが、その支配は均一ではなかった。

中核となるのはシュメル・アッカドの地であった。だがウル市の王朝にしたがうとはいえ、各都市の独立志向は根強かった。最高神エンリルを祀ることでなんとか統一を維持していたが、すでに第2章で紹介したようにニップル市など諸都市はウル市とはちがう月名を使用していた。

シュメル・アッカドの外側には貢物を持って来る服属国があり、西方ではマリやエブラ、東方ではマルハシやアンシャンなどが朝貢にやって来ていた。

さらにその外側の、グティ人の侵入経路であったティグリス河東岸地域、ディヤラ河および大小ザブ河流域は軍事的に重要視された地域であった。

ウル第三王朝は約100年と短期間であったが、第二代シュルギ王治世後半以降に膨大な数の行政経済文書が記録された。各地から出土していて、丸剤約四万枚が公刊されているが、まだ多数の文書が未解読のままである。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p252-253

ウルのジッグラト

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ウルのジッグラト復元図。三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所があった。基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていた。

出典:ジッグラト<wikipedia*1

  • 「ジッグラト」については 記事「テル(遺丘)とジッグラト」の第二節「ジッグラト」に書いた。

ウル遺跡に残るジグラトは、すでに初期王朝時代に建立されていたが、ウル第三王朝初代ウルナンム王が修復、拡大した。このジグラトはエテメンニグル(「畏怖をもたらす基礎の家」の意味)と名づけられていた。

出典:シュメル/p253-254

ウルナンムによる修復/拡大は二代目シュルギ治世に完了する。

このジッグラトはイラン・フーゼスターン州にあるチョガ・ザンビールのジッグラトに次いで最も保存状態が良いもの。

ジッグラトの中でおそらく最も参照され、最も著名なものである(チョガ・ザンビールのほうはシュメール人ではなく、エラム人により建築されたから参照されないのかもしれない)。

以下は「Ziggurat of Ur<wikipedia英語版」と「エ・テメン・ニグル<wikipedia(日本語版)」に依る*2

  • ウルのジッグラトは元々ウルの都市神ナンナ(月神/男神最高神エンリルの長子*3によると、三層より成るジッグラトだったが、最下層はウル第三王朝時代で、2-3層は紀元前6世紀(ナボニドゥス王治世)の建築だった。

  • サダム・フセイン治世に、最下層のファサード、階段が改築

上述のチョガ・ザンビールは1979年に、ユネスコ世界遺産に登録されたが、ウルのジッグラトはされていない。上記のように後から手が加えられたからかもしれない。

ウル・ナンム法典

ウル・ナンム法典(ウル・ナンムほうてん)は、メソポタミア文明のウル第三王朝・初代王ウル・ナンムによって発布された法典。 紀元前1750年頃のものとされるハンムラビ法典よりおよそ350年程度古く、影響を与えたと考えられる、(現存する)世界最古の法典とされる。[中略]

後世のハンムラビ法典の特徴が「目には目を、歯に歯を」の一節で知られる同害復讐法であるのとは異なり、ウル・ナンム法典では損害賠償に重点が置かれている。殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについての刑罰が規定されており、特に、殺人・強盗・強姦・姦通は極刑に値する罪と見なされた。

シュメルには鋳造貨幣(コイン)はなかったため、損害賠償は銀の秤量貨幣によって行われた。[後略]

出典:ウル・ナンム法典<wikipedia*4

ウル第三王朝版「万里の長城

ウル第三王朝の滅亡は早かった。ジグラトどころではなくなり、代わって城壁を造らざるをえなくなった。シュメル版「万里の長城」の建造である。[中略]

マルトゥ、つまりアモリ人の侵入が勢いを増し、現代のバグダード北方80キロメートルの所にユーフラテス河からティグリス河へと、防御のための城壁を築いて侵入を阻止しなければならなくなった。これがシュメル版「万里の長城」である。

城壁建設は第ニ代シュルギ王(前2094-2047年頃)の治世に始まっていて、前で話したように治世37年の「年名」は「国の城壁が建てられた年」であった。[中略]

また、第四代シュ・シン王(前2037-2029年頃)の治世4年の「年名」も城壁建造であったことはすでに第6章で紹介した。

出典:シュメル/p263-265

王朝最後の王、第五代イッビ・シン王に至っては治世6年の年名は「ニップルとウルの大いなる城壁を造った年」*5。もはやメソポタミア中心部(シュメール・アッカド地域)の統治も出来ない状況が示されている。

ウルの滅亡

周辺地域およびアッカド地方の統治機能の崩壊

ニップル市(アッカド・シュメール両地域の境界あたりの都市)の近くに、第ニ代プズリシュ・ダガン王はプズリシュ・ダガンという街を建設した。ここは周辺地域からの家畜群の集積管理センターだった。この重要な場所がイッビ・シン王治世2年末に早くも機能しなくなった。ウンマ市の最後の行政・経済文書は治世5年、ギルス(ラガシュ)市は6年で途絶える。(世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p197-198(前川和也氏の執筆部分) )

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Map of the main cities of Lower Mesopotamia during the Akkad and Ur III periods (c. 2300-2000 BC), with the approximate course of the rivers and the ancient shoreline of the Gulf.

出典:Bala taxation<wikipedia英語版*6

シュメール地方の統治機能崩壊

ウル第三王朝時代にはシュメル地方では土壌の塩化が進み、大麦の収量倍率が激減していた。初期王朝時代末期(前24世紀中頃)にはラガシュ市において76.1倍であったものが、前21世紀のウル第三王朝の属州ギルス(以前のラガシュ市)では30倍に減少していた。この数字はシュメル地方のほかの地域でもそうちがわなかったと考えられる。

第五代イッビ・シン王(前2028-2004年頃)の治世になると、東方からはエラム人、西方からはマルトゥ人(アモリ人)と外敵の脅威が増し、しかも同王の治世6年にウル市で発生した飢饉は数年続いて、穀物価格が60倍にも高騰した。

出典:シュメル/p265-266

  • アモリ人とはアムル人のこと。

イシン市の独立

イシン市はニップルの西南にある都市。

上述の危機的な食糧不足の状況で、イッビ・シン王は、マリ市出身のアムル人イシュビ・エラ将軍をイシン市へ派遣した。しかし、この将軍は滅びゆく王朝を見限りイシン市で独立した(前2017年)。イシン第1王朝の誕生である。ウル第三王朝滅亡の前にイシン・ラルサ時代が始まっていた。(イビ・シン<wikipedia

エラムの侵攻(王朝滅亡)

ウル第三王朝を滅ぼしたのはエラムだった。エラム人はウル市に侵入してイッビ・シン王を捕らえてアンシャンへ連れ去った(前2004年)。イッビ・シン王がその後どうなったのかは誰も知らない。

シュメール文明の終わりと継承

シュメル人の統一王朝にして最後のウル第三王朝(前2112-2004年頃)は前2004年頃にエラムの侵入によって滅亡したが、シュメル人はその後も行き続けていた。だが、シュメル人は古くから共生していたアッカド人に加えて、アモリ人(マルトゥ人)が侵入したことによってセム語族の圧倒的文化のなかに埋没せざるをえなかった。

出典:シュメル/p274

ウル第三王朝の後継を自認したイシンのイシュビ・エラ王はシュメール語による王碑文を遺したが、日常の言語はシュメール語からアッカド語に変わった。

ただし、シュメールの文化がここで途絶えたわけではない。特にシュメール人が作り上げた神々と神話はメソポタミア神話に受け継がれ、メソポタミアを越えて古代オリエントと地中海(ギリシア、ローマ)へと伝わった。

シュメール文明について『シュメル』のはしがきでは「シュメル社会は現代社会の原点である。当時すでに文明社会の諸制度がほぼ整備されていた」とあり、あとがきでは「起きるべきほどのことはすでにシュメル社会では起きていた」と書いてある。

名称

この王朝の名称は「ウル第三王朝」だが、古代メソポタミアまたは西アジアの年表には「第一」や「第ニ」は出てこない。

「ウル第三王朝」の名称は、シュメール王名表に依る。シュメール王名表については記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」の第3節「シュメールの「王名表」から」と記事「初期王朝時代④ シュメール王名表」で書いた。

シュメール王名表は史実とフィクションが入り混じっていて正確ではない。「ウル第一王朝」には実在する王が書かれているが、そうだとしても「一都市国家の王」でしかない。「ウル第ニ王朝」に載っている王の名は遺物などで確認できないし、年代的はウルクの王に支配されている時期だ(初期メソポタミア史の研究/p125)。このようにこの名称は史実に基づかないが、慣例によりこの名称は使い続けられている。



ウル第三王朝はシュメール文明の最後の王朝にしてシュメール文明の集大成というべき王朝だと思うが、世界史関連の本やサイトでは注目されていない。

次回から、個々の事象について書いていく。

*1:作者:wikiwikiyarou(パブリック・ドメイン)、ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88#/media/File:Ziggurat_of_ur.jpg

*2:日本語版は英語版をまとめたもの

*3:前田徹著『初期メソポタミア史の研究』(早稲田大学出版部/2017/p126)によれば、ナンナ神の系譜を最高神エンリルの長子にしたのは創始者ウルナンムである)) )のためのもの。

  • 紀元前6世紀、新バビロニア帝国最後の王ナボニドゥスにより改修された。

  • 1939年のレオナード・ウーリーの発掘レポート((Woolley, C. Leonard (1939). The Ziggurat and its Surroundings. Ur Excavations. 5.

    *4:この記事は『シュメル』(p158-162)に依っている

    *5:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p189

    *6:著作者:Zunkir、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Basse_Mesopotamie_Akkad-Ur3.png#/media/File:Basse_Mesopotamie_Akkad-Ur3.png

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    メソポタミア文明:アッカド王朝時代⑥ 六代目以降の没落から滅亡まで/都市国家分立期

    この記事では、王朝の滅亡までと、ウル第三王朝までの都市国家分立期を書く。都市国家分立期は一般的には、便宜的にアッカド王朝時代の中に含まれる。

    王朝滅亡まで

    シュメール王名表によれば、シャルカリシャリの後に「誰が王で誰が王でなかったか」と書かれて、次に「たった3年のうちに4人の王が立った」とある(Sumerian King List<wikipedia)。

    この次にドゥドゥという者が王に立ったが、この王がサルゴンの血統を継ぐものかどうかは分からない。ドゥドゥの碑文や印章がシュメールとアッカド両地方から出土しているから両地方の支配はまだ続いていたと思われる。次にドゥドゥの子のシュトゥルルが王を継ぐが彼の支配を示す出土品はシュメールからは見つかっていない。そしてシュトゥルルがアッカド王朝最後の王とされる。滅亡の詳細は分かっていない。(前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p113-115)

    王朝の年代

    アッカド王朝の年表は複数提案されているが、ここでは現在よく使われている中年代説(Brinkman 1977)*1と前田氏の私案を載せよう。

    f:id:rekisi2100:20170713124740p:plain

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p116
    および Akkadian empire<wikipedia英語版

    上によるとアッカド王朝は両方とも180年間つづいたことになる。

    都市国家分立期

    アッカド王朝滅亡からウル第三王朝までの間は中年代説が42年間、前田氏私案が16年間になる。

    ただし滅亡前においてアッカド王朝の支配力が落ちていくと、シュメール地方の各都市は自立か他の勢力への従属を迫られた。

    このような状況で大勢力を張ったのは、ウルク、ラガシュ、グティだった。

    ウルク

    ウルクは、シャルカリシャリ治世に反乱を企てて、鎮圧されたのち、『シュメールの王名表』ではウルク第四王朝とされるウルニギンとその子ウルギギルなど5代の王が自立して統治する時代になる。ウルクはシュメール都市のなかで最も早くに独立した一つであり、周辺に勢力を伸ばした。

    ウルニギンとウルギギルは、同時代史料から確認される。[中略]

    『シュメールの王名表』はウルギギルのあとになお3人の王の名を記すが、彼らについては同時代史料から確認できない。

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p119

    • 上の本(p117)によると、 ウルニギンはアッカド王ドゥドゥと同時代の人物。

    このあと、王名表にはウルク第五王朝にウトゥヘガルが唯一の王として載っている。第四王朝との系譜関係は不明。ウトゥヘガルも実在が確認されている。彼は のちにウル第三王朝を建てるウルナンムをウルに将軍として派遣した王である。

    ラガシュ

    ラガシュは、ウルクと同時期にアッカド王朝から離反する動きを見せた。プズルママは王号をエンシ(都市支配者)からルガル(王)に変更し、アッカドの支配からの離脱を目指した。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p120

    • プズルママは、上の本(p117)によると、 ウルニギンとアッカド王ドゥドゥと同時代の人物。

    ラガシュは初期王朝時代より主要な都市国家だったが、なぜかシュメール王名表に全く名が無い。後世にラガシュの王名表を作ったものがいたが、初期王朝時代の王朝を第1王朝、アッカド王朝末期からウル第三王朝までを第2王朝と呼ぶことがある*2。しかし第2王朝は複数の見解がある*3

    『初期メソポタミア史の研究』ではp121に王統が載っている。ただしこの本では、第2王朝と呼ぶ代わりに「グデアの時代」という用語を利用している(後述)。

    この王朝の中で、最盛期はウルバウとグデアだ。

    ウルバウはウルのナンナ神の祭主に自らの娘を送った。この祭主は代々アッカド王朝の娘が送り込まれていたのだが、それが出来ないほど王朝の力が衰えていたのだろう。いっぽう、ウルバウはこれを行ったことでシュメールの王になることを考えていたように思える。グデアはペルシア湾航路を掌握した後、東方アンシャンにまで遠征し、戦利品を都市神ニンギルスに奉納した。(初期メソポタミア史の研究/p122)

    しかし、ウルバウもグデアもルガルを名乗らずエンシを名乗った*4。彼らの碑文の中で最も多く語られたのは戦勝の記念碑ではなく、神殿建設者としての王である*5。上述のルガルを名乗ったプズルママさえもラガシュの伝統的な(復古的な)碑文を残している。

    このようにラガシュの王はシュメールを統一する王(ルガル)を目指すよりも、神に仕える民の代表者(支配者=エンシ)としての役割を全うすることを考えていた、とするほうがいいかもしれない。このようなラガシュの王の伝統的な態度が「シュメール王名表」にラガシュの王が載らない原因なのかもしれない。

    グデアの祈願像と円筒印章と円筒碑文

    グデア王の名は有名らしく、私が利用した参考図書にほとんど名前が載っていた。ラガシュ市はメソポタミア史研究の中でも最も古くより研究され史料も多いが、グデア王に関する遺物は特に多く遺っている。

    中でもグデア王の像は多く出土され、ルーブル美術館にはこれらが集められた部屋があるという。衣服には端正なシュメル語が刻まれている。内容は像の素材の輸入先とかグデアが像に命令を与えて神殿に奉献したなどと書かれている*6

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    出典:Gudea<wikipedia英語版*7

    印章で有名なものが以下の円筒印章がある。印章そのものはなく印影だけが遺っている(これもルーブル美術館所蔵)。

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    出典:Gudea: A good Sumerian king<Sumerian Shakespeare

    • 左上の楔形文字は「グデア、ラガシュのエンシ」と書かれている。

    これについて小林登志子著『シュメル』に解説が載っている(p107)。

    一人剃髪の人物がグデア王である。グデア王の腕を握っているのがニンギシュジダ、グデア王の個人神(特定の個人を守護する神)。グデア王の左は「誰でも守護してくれる、慈悲深いラマ神」。左端の獣はニンギシュジダの随獣(ムシュフシュ<wikipedia参照)。右端は学者によって意見が分かれるところだが、小林氏はラガシュ市の都市神であるニンギルス神としている(他にエンキ神説やエンリル神説がある)。

    この図像はグデア王が個人神を通してニンギルス神に謁見する場面で「紹介の場面」と呼ばれる。円筒印章は はんことして使用されるが、「紹介の場面」の円筒印章は護符としての機能も持つ。

    もう一つ、グデアの円筒碑文というものが有名だ。

    f:id:rekisi2100:20170714102948j:plain

    出典:Gudea cylinders<wikipedia英語版*8

    この円筒碑文には、「なぜグデアが神殿建立を決意するにいたったか、そして建設の過程、建立された神殿への神の招請、祝祭が流麗に語られ、のちのシュメール文学の文体におおきな影響を与え続けた」(図説メソポタミア文明/p41-42)。

    グティ

    グティについては、『初期メソポタミア史の研究』の「第8章 グティ」に詳細に語られている。

    この本ではグティは小規模の君主(豪族)の連合体だと書かれている(p319)。個人的には、匈奴に代表される中央ユーラシアの遊牧民と同種と考えていいと思う。

    アッカド王朝の五代目シャルカリシャリ治世にはグティはシュメール地方の家畜を略奪する程度の勢力だったが、その後 王を戴く大勢力になり、シュメール地方の都市を支配するようになった。シュメール王名表に名前が載っている第18代ヤルラガンと第19代シウがウンマを支配した。ウンマには支配者がいたがグティの王たちはその上の権力者だった(p306-308)。グティは税の一部を上納させていた(言い換えれば みかじめ料をぶんどった)と思われる。これが武力をもつ遊牧民の最も楽な統治形態である。

    f:id:rekisi2100:20170714163938j:plain
    An inscription dated c. 2130 BCE. “Lugalanatum prince of Umma … built the E.GIDRU [Sceptre] Temple at Umma, buried his foundation deposit [and] regulated the orders. At that time, Siium was king of Gutum [or Qutum].” (Collection of the Louvre Museum.)

    出典:Gutian people<wikipedia英語版*9

    また、ウンマの他にアダブも支配した。というかこちらが本拠地だったようだ。ウル第三王朝版『シュメールの王名表』(Steinkeller 2003)によれば、最後のグティ王ティリガンはアダブで滅ぼされた、とある。(p315-317)

    まとめ

    以上により、アッカド王朝末期からウル第三王朝までの期間はウルク、ラガシュ、グティウンマ、アダブ)が分立していた様子が分かる。他の大都市であるキシュとシュルッパクについては詳細は分からない。『初期メソポタミア史の研究/p124-125)

    *1:私が参考図書としてよく利用している前川和也氏編著『図説メソポタミア文明』と小林登志子著『シュメル』もこの編年を採用している。

    *2:Lagash<wikipedia英語版

    *3:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p41

    *4:初期メソポタミア史の研究/p122

    *5:図説メソポタミア文明/p41

    *6:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p225

    *7:著作者:Marie-Lan Nguyen、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Gudea_of_Lagash_Girsu.jpg#/media/File:Gudea_of_Lagash_Girsu.jpg

    *8:著作者:Ramessos、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:GudeaZylinder.jpg#/media/File:GudeaZylinder.jpg

    *9:著作者:Rama、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Gutian_inscription_AO4783_mp3h9060.jpg#/media/File:Gutian_inscription_AO4783_mp3h9060.jpg

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    メソポタミア文明:アッカド王朝時代⑤ 五代目シャルカリシャリ

    [四代目]ナラムシンの治世にアッカド王朝は最大版図になったが、ローマ帝国に例を採るまでもなく絶頂期が没落の始めであり、支配領域の縮小と滅亡に至る権力の弱体化が顕著になる時代である。

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p112

    神にならなかった王

    先代ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」の王号を使用し、自らを神格化したが、シャルカリシャリはその王号も神格化も拒否するように、先々代までの伝統的王権観に回帰した。

    彼は、王権の伝統性を最高神エンリルに選ばれることに求め、自らを「エンリル神が愛する子、強き者、アッカドとエンリル神の統治下にある人々の王」(RIME 2,188)と名乗った。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p112

    シャルカリシャリのあとアッカド王朝が没落することを考えれば、アッカド王朝はシュメールの伝統的王権観を受容した王朝であり、ナラムシンだけがその例外だった、と言えるようだ。*1

    対外戦争

    先代までは「外征」を行ったが、シャルカリシャリは「防戦」を行った。

    アッカド王朝の領地を脅かしたのはグティ、マルトゥ(アムル)、エラムだった。

    マルトゥ(アムル)はシリア方面の遊牧民だった*2。彼らは後世メソポタミアに浸透して政権に関わるようになるのだが、シャルカリシャリ治世においてはそれほどの脅威ではなかった。マルトゥとの戦場もシリア領域だった。

    エラムとの戦場はアクシャクだった。アクシャクはティグリス川の上流部にあり、アッカド地方の入り口に当たる。ここを突破されたら王朝は滅亡の危機に晒されることになる。『初期メソポタミア史の研究』(p113)によると、エラムの侵攻はアッカド地方に甚大な影響を与えて王朝が滅亡する主要因になったと思われる、と書いてあるがその証拠は示されていない。

    グティはシャルカリシャリ治世に初めて史料に登場したのだが、ザグロス山脈方面からメソポタミアに侵入したという以外、殆ど何も知られていない*3

    グティのシュメールへの侵入の証拠はある。シャルカリシャリからラガシュ市にいるアッカドの高官に宛てた手紙だが、グティが家畜を略奪した場合の対処について書かれている。これより治世中にグティがシュメール地方を跋扈していることがわかる。また、この手紙より少なくともこの頃はラガシュ市はアッカド王朝の支配下にあったことが確認される。『初期メソポタミア史の研究』(p304)

    内乱

    二代目と四代目の治世にも内乱の記録が残されているが、シャルカリシャリ治世も内乱があったようだ。ただウルクとナグスが反乱を企て、鎮圧されたことしか分からない(『初期メソポタミア史の研究』(p113、p119)。

    支配のほころびをもうひとつ。

    ラガシュ出土の行政経済文書が支配者の言語アッカド語ではなく、再びシュメール語で書かれ始めた[以下略]。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p113


    まとめ

    五代目シャルカリシャリの時代は絶頂期のナラムシン治世とは真逆の防戦に明け暮れる日々だったようだ。しかし情勢悪化の中でシャルカリシャリは辛くも支配を維持した。混乱期に入るのはシャルカリシャリの後の時代か治世末期からになるだろう。



    前田徹氏はナラムシン治世より統一国家形成期に入ると主張するが、シャルカリシャリが「四方世界の王」の王号も王の神格化も受け継がずに、先々代の伝統に戻したことを考えれば、この主張には納得できない。

    *1:前田氏はナラムシンより後を統一国家形成期としているがこの王の王権観は受け継がれていない以上かれの治世を画期とは考えられない。

    *2:アムル人<wikipedia

    *3:グティ人<wikipedia

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    メソポタミア文明:アッカド王朝時代④ 四代目ナラムシン

    遠征

    四代目王ナラムシンは前三代を引き継いで頻繁に外征を行った。そして彼の時代にアッカド王朝の最大版図を築いた。北はスビル(スバルトゥ=アッシリア=北メソポタミア)、西はエブラ・杉森(=シリア)、東はバラフシ(スサよりの東方)、南はマガン(オマーン)までを影響下に置いた。これにより広域の交易ネットワークがナラムシン一人の影響下に置かれた。

    東方は主に前三代が征服し、ナラムシンはユーフラテス川の上流の西方と南方を主に征服した。特にナラムシンは西方の征服を前人未到の快挙として碑文で誇っている。

    ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」の王号を使用した。

    (前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p102-104)

    f:id:rekisi2100:20170710154006j:plain
    ナラムシンがザクロス山脈の勢力Lullubiに勝った時の記念碑。
    ルーブル美術館所蔵

    出典:Victory Stele of Naram-Sin<wikipedia英語版*1

    反乱と統治

    二代目王リムシュの即位直後にシュメール地方で反乱が起こったが、ナラムシンの即位直後にはキシュの王(lugal)を首謀者とする反乱が起こった。シュメール地方の都市国家もこれに呼応したというので、ナラムシンは国の大半を敵に回して戦わねばならなかった。

    ナラムシンはこの反乱を鎮圧したが、統治方法は以前のものを継続したようだ。

    ナラムシンの支配は、サルゴン以来の基本的な形態を変えることなく、領邦都市国家以来の文献的な都市国家的伝統を尊重して、アッカドの権威に従う在地勢力の有力者を支配者に据えて行われた。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p112

    神になった王/神格化

    ナラムシンは上述の反乱鎮圧の後、自らを神格化した。ウルクのイナンナ神を始めとする神々が、ナラムシンが神になることを要請した、と主張した。

    しかしこの神格化は最高神エンリルと同等の地位でもパンテオンの大神と伍するものでもなく、「アッカド市の守護神」であった。これはアッカド市の都市神イラバ神の配下の将軍の地位にあたるらしい。

    神格化と言っても控えめというか かなり中途半端な感じがするが、自らを神格化した王はメソポタミアではナラムシンが最初である。

    (初期メソポタミア史の研究/p106-107)

    王冠の授与

    都市国家分立期からナラムシン治世より前までは王権の象徴と言えば王杖だったが、ナラムシン以後はこれが王冠になった。これ以降、王冠の授与=戴冠式が行われるようになる。(初期メソポタミア史の研究/p107)

    アッカド地方」の成立

    メソポタミアは北のアッカド地方と南のシュメール地方と区分できるが、アッカド地方と呼び習わされるのはナラムシン以降のことらしい。

    サルゴンアッカド市の王であったにも関わらず、前々回の記事で書いたように、「アッカド市の王」の王号は使用せず、代わりに「全土の王(LUGAL KIS)」の中に「キシュ市の王」の意味を込めていた。サルゴンの時代にはまだ北メソポタミアの中心はキシュであり、彼の後の2代もこれに倣った。

    ナラムシンは「全土の王」は使用せず、「アッカドの王、四方世界の王」と連称することによってアッカドがシュメール文明圏の中心であるという統合理念を示した。これよりアッカド王朝はようやくキシュの伝統的権威から抜け出して、名実ともにアッカドがこの地域の中心となった。「アッカド地方」の成立である。

    ちなみに「シュメールとアッカドの王」という王号が使用されたのはアッカド王朝滅亡後のことである。

    (初期メソポタミア史の研究/p109-110)



    『初期メソポタミア史の研究』で前田氏はナラムシンの治世より「統一国家形成期」が始まるとしているが、いまのところ納得できていない。国内の統治体制は上述のようにサルゴンの統治方法を踏襲しているし、広い地域を影響下に置いたと言っても次代のシャルカリシャリの治世でそれは崩れてしまう。ナラムシンの治世により時代が大きく変わったとは思えない。

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    メソポタミア文明:アッカド王朝時代③ 二代目リムシュ/三代目マニシュトゥシュ

    リムシュとマニシュトゥシュの外征

    サルゴンを継いだリムシュも積極的にエラム遠征を行ない、勢力を維持していたバラフシの王を殺し、エラム全土の支配権を掌握した。リムシュはエラム征服の成功を祝って、支配化にある諸都市の都市神に戦利品を奉納した。現在知られるのは、シュメール都市のニップルアッカド地方のシッパル、ディヤラ川流域のトゥトゥブ(ハファジェ)、ハブル川上流域に位置するテル・ブラクである(RIME 2, 62-66)。そのほかに、アッシュルから「リムシュ、全土の王」という銘を刻んだ遺物が見つかっている(RIME 2,71)。リムシュ治世時にアッカド王朝が支配する領域の範囲は、ティグリス川をさかのぼってアッシュルに至り、さらに北上してハブル川の上流域に達する北メソポタミアに広がっていた。

    アッカド王朝第3代の王になったマニシュトゥシュは、安定したエラム支配のもと、イラン高原深く、アンシャン、シェリフムに遠征し、下の海(=ペルシア湾)を渡って都市を破った(RIME 2,75-76)。ただし、それを誇る碑文に、ペルシア湾交易に重要な役割を果たすマガン、ディルムンなどの地名は挙がっていない。

    ティグリス川上流部のアッシュル地方が、アッカドの支配領域になっていたことは、マニシュトゥシュに捧げられたアッシュルの支配者の碑文やニネヴェから出土した古バビロニア時代のアッシリア王シャムシアダド1世の碑文からも知られる。

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p90

    シュメール地方の支配状況

    反乱

    リムシュが第2代の王になるとすぐにシュメール諸都市の反乱が起こった。反乱を鎮圧したリムシュの碑文には、反乱軍にはウルの王(lugal)カクと、アダブ、ウンマ、ラガシュ、キアン、ザバラムの支配者(ensi)がいた。リムシュはこれらの王と支配者の都市の全ての城壁を破壊して住民を都市から退去させキャンプに送った。(『初期メソポタミア史の研究』(p92-93) )

    『初期メソポタミア史の研究』(p60)によれば、領邦都市国家期(ウルク王エンシャクシュアンナより前の時代)はlugalとensiは同等の王号だったが、領域国家期(ウルク王エンシャクシュアンナ以降)はlugalは「シュメール全土を支配する王の称号」となり、ensiはこれに従属する都市国家の支配者の号となった。

    リムシュの碑文にはサルゴンのシュメール統一以前にはウルクに従属していたウルがlugalを名乗る一方でルガルザゲシの故郷のウンマがensiだという。

    93ページの説明では納得できなかったので、勝手に解釈すれば、ウルのカクがlugal(シュメール全土を支配する王)となり、他の支配者層がensiとなり、反乱を起こした(または暫定のシュメール地方統一国家を建ててアッカドに戦争を仕掛けた)。

    支配

    サルゴンの碑文に以下のような文がある。

    下の海から(アッカドまで)アッカド市の市民に(シュメル諸都市の)エンシ権(=王権)を選び与えた。

    出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p175

    これに対し『初期メソポタミア史の研究』(p97)では「同時代史料によれば、アッカド王朝支配下のシュメール諸都市の支配者(エンシ)は、ほとんどがシュメール語名であり、アッカド人による直接支配は実証されない」としている。

    直接統治(中央集権体制)の証拠は上の碑文の一文だけだが、前田氏は「アッカド市の市民」の訳し方が違っていると主張する。「アッカド市の市民」は「dumu-dumu a-ga-de」(正しい表記は著書参照)の訳だが、前田氏はこれを「アッカドの権威に従って奉仕する者」と訳した。この意味するところは「アッカド王権の要職にある者の子弟と支配に服する諸都市の親アッカド派の子弟」(p98)。

    アッカド市の市民」が正しければ、秦の始皇帝が行ったような中央集権体制を敷いたと言えるが、前田氏が正しければ「外様」が存在したわけだ。

    中央集権化は四代目ナラムシンによって指向されるが、五代目シャルカリシャリ以降、国が乱れると都市国家の自立化傾向が顕著になった(p99)。



    (雑記1)

    リムシュは反乱を起こした都市の住民を退去させた、とあるが、これは強制移住の最古の記録かもしれない。しかし、都市の城壁を破壊したと書いてある碑文はこれ以前にあるので強制移住はその前から行われていたかもしれない。


    (雑記2)

    ウル王のカクの反乱は中国史における楚漢戦争や呉楚七国の乱を想起させる。また、シュメール支配の話で言えば、前漢武帝より前の時代の郡国制と比較できるだろう。

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    メソポタミア文明:アッカド王朝時代② アッカド王初代 サルゴン

    メソポタミアアッカドとシュメール)の統一

    サルゴンという名前は『旧約聖書』に出てくるヘブライ語名であって、アッカド語ではシャル・キンという。この名前は「真の王」を意味しているが、生まれながらの王族であったならばこうした名前を名乗らないはずである。出世してから付けられた名前であり、端なくも成り上がりであることを示してしまったといえる。

    サルゴン王伝説』に語られているところでは、サルゴン王の母は子供を産んではいけない女神官であったようだ。母はひどかにサルゴンを産み、籠に入れてユーフラテス河に流したという。[中略] アッキという名前の庭師に拾われ、その後キシュ市の王ウルザババ王の酒杯官となり、やがてサルゴンは王権を簒奪した。ウルザババはそうなることを見越していたようで、サルゴンを暗殺しようと企てたが失敗したことは第三章ですでに紹介した。

    河に流されたサルゴンの話は、アケメネス朝ペルシアの初代王キュロス二世(前559-530年)、イスラエル人の「出エジプト」を指導したという伝説の人モーセ、そして「ローマ建国伝説」の双生児ロムルスとレムスなどにまつわる「捨て子伝説」の最古の例である。

    出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p173-174

    ウルザババ王はシュメール王名表に載っている。キシュ第4王朝の第2代。王名表にはサルゴンがウルザババ王の酒杯係だったことも載っているという。ただしウルザババが実在したことを確証する遺物はないらしい。

    サルゴンがキシュ市の近くにあるアガデ市で王位を確立したということは確からしい。アガデ市がアッカド王朝の名の由来なのだが(Agade=Akkad)、アガデ市の正確な位置は今も不明だという。

    アッカド王に即位してからのこともほとんど史料が無いので、前田徹氏の推測に頼ることにする。

    サルゴンの治世年数は、同時代史料から確認できないので、『シュメールの王名表』に載る56年が採用されている。シュメール征服以後の治世が数年であった可能性が高いので、サルゴンは、シュメール征服以前にすでに50年近く在位していた計算になる。この期間は、ルガルザゲシの治世が25年とされるので、ルガルザゲシが即位してシュメールの統一を果たす全期間よりも長くなり、ルガルザゲシ以前に「国土の王」を名乗ったエンシャクシュアンナとも同時代を生きたと見ることもできる。

    サルゴンは、長い治世中に、エンシャクシュアンナやルガルザゲシがウルクの王になり、シュメール地方の統一に邁進し、「国土の王」を名乗るのを見続けた。その間、有力都市キシュはアクシャクの台頭によって弱体化しており、サルゴンアッカド市で自立したのだろう。サルゴンが王になるのは、エンシャクシュアンナのキシュ遠征以後と考えるのが妥当であろうが、「エンシャクシュアンナが武器で打ち倒した年」と読むことができる年名があり、サルゴンは、アッカドの王として、エンシャクシュアンナがキシュを征服したのを見た可能性がある。

    出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p87

    サルゴンはシュメール地方(南メソポタミア南部)の覇権争いの末期を外側から見ていたと思われる。しかしただ傍観していたわけではないだろう。

    「国土の王」と「全土の王」

    サルゴンは、キシュの衰退という事態を受けて、キシュに代わるべく上流地域(アッカド地方)を統一する行動を取った。南を統一するエンシャクシュアンナやルガルザゲシに、サルゴンは好敵手の姿を見たであろうし、下流地域(シュメール地方)で「国土の王」が生み出されれば、サルゴン都市国家を超える同等の王号を編み出したはずである。それが「全土の王」である。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p87-88

    サルゴンセム系のアッカド人ではあるが、シュメール文明の中の王であった*1。ルガルザゲシが「下の海(ペルシア湾)から上の海(地中海)まで道を切り開いた」と豪語すれば、サルゴンは上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)までを征服した王」と書き残した。「上」「下」が逆なのはアッカド地方とシュメール地方の上下関係が関係していると思われる。

    さらにエンシャクシュアンナ、ルガルザゲシが使用した「国土の王」を唱えれば、サルゴンは「国土の王」を唱えた。

    前田氏によれば(p59)、「国土の王」には都市国家から領域国家への移動を指向する意味合いが込められているが、「全土の王」にはそれに加えてサルゴンの思惑も込められている。

    サルゴンが採用する王号は、王都アッカドを示す「アッカドの王」を名乗らないことで変則的である。第2代リムシュ、第3代マニシュトゥシュも同様である。王都アッカドを明示しないで、「全土の王」のみを使用した理由は、[中略]新興都市アッカドをキシュの権威を継承する都市と認知させるためと考えられる。

    出典:p84

    テキストで表せない文字があったので、別のところでコピーした文字を貼り付ける。

    f:id:rekisi2100:20170706140215p:plain

    f:id:rekisi2100:20170706140247p:plain

    出典:Tohru MAEDA/ROYAL INSCRIPTIONS OF LUGALZAGESI AND SARGON (PDF)

    • 前田氏によれば(p85)、上の左がキシュ王メシリムが名乗った「キシュの王」。すなわち都市国家キシュの王としての称号。「ki」は限定詞。

    • 上の右がシュメール諸都市の王が名乗る「キシュの王」。武勇を示すために使用した称号(これに関しては記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期」の第2節「「キシュの王」と「国土の王」」を参照)。

    • 下はサルゴンが名乗った「全土の王」。限定詞「ki」をつけないと「全土」の意味になる。

    前田氏の解釈によれば、「全土の王」の「KIS」にキシュの王の継承者としての意味も込められている。そして、あえて「アッカド(アガデ市)の王」とは名乗らなかった。

    サルゴン常備軍と遠征と支配領域

    『シュメル』より。

    サルゴン王はなぜシュメル地方の諸都市を破ることができたのだろうか。強さの秘密は常備軍を持っていたことであった。次に引用する王碑文にもそのことが書かれている。この王碑文もシュメル語とアッカド語の二カ国語で書かれ、後世の写本である。

    キシュ市の王、サルゴンは34回の戦闘で勝利を得た。彼は諸都市の城壁を海の岸まで破壊した。彼はアッカド市の岸壁にメルッハの船、マガンの船そしてティルムンの船を停泊させた。

    王、サルゴンはトゥトゥリ市でダガン神に礼拝した。

    ダガン神はサルゴンに森(アマヌス山脈)と銀の山(タウロス山脈)までの上の国、つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた。

    5400人が、エンリル神が敵対者を与えない王、サルゴンの前で毎日食事をした。(略)

    サルゴン王が毎日の食事を提供した5400人の兵士がいたことが書かれていて、王に忠誠を誓う戦士集団を育成していたことがわかる。

    メルッハはインダス河流域地方(エチオピア説もある)、マガンはアラビア半島オマーン、ティルムン(シュメル語ではディルムン)はペルシア湾のバハレーンおよびファイラカ島にあたるといわれている。三カ所ともにどうの交易拠点であった。また、マガンからは閃緑岩、ディルムンからは玉葱が輸入されていた。

    サルゴン王は常備軍の力によって、ラガシュ市やウル市に替わってペルシア湾を中心とした交易を掌握し、富を得た。

    出典:シュメル/p175-176

    『初期メソポタミア史の研究』より。

    サルゴンが実施した周辺地域への軍事遠征は、多くの王碑文で顕彰され、年名にもあるように、エラムと、エラムに隣接するシムルムと、それに西北のマリに向かっていた。シムルムは下ザブ川南方域にあって中心地域を脅かす勢力であり、脅威を除くための遠征であった。

    マリについては、マリ征服を記す年名のほかに、サルゴン碑文に「マリとエラムサルゴンの前に立った」(RIME 1,12)とあり、サルゴンが自認する支配領域は西方のマリと東方のエラムを両端とする範囲である。マリからエラムまでの地域は、都市国家分立期最後の時期に領邦都市国家が覇権を巡って相争う地域であった。これがサルゴンが現実に勢力範囲とした領域であり、マリからエラムの間の領域を強調することは、支配すべきはユールラテス川流域の中心文明地域であるという理念に沿うものである。

    シュメールとエラムの敵対関係は古くからあったが、アッカド王朝の諸王は、新しい動きとしてエラムの政治支配を目指した。サルゴンが遠征したとき、エラム地方には王を名乗るアワンを中心としたエラム(=スサ)勢力と、上流域のバラフシに本拠を置く勢力があり、サルゴンはこの二大勢力を撃破した(RIME 2,23-24)。

    出典:初期メソポタミア史の研究/p88-89

    前田氏(上の本/p88)によれば、『シュメル』で引用されている「ダガン神はサルゴンに森(アマヌス山脈)と銀の山(タウロス山脈)までの上の国、つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた」は、サルゴンがトゥトゥリ市まで行き、ダガン神に懇願しただけで支配したわけではない、とする。

    f:id:rekisi2100:20170715121806p:plain
    Map of the Akkadian Empire (brown) and the directions in which military campaigns were conducted (yellow arrows)

    出典:Akkadian Empire<wikipedia英語版*2

    • この地図が誰の治世の頃の版図なのかわからないが、都市・地域の位置の確認のため載せておく。



    サルゴンはシュメール地方を征服したが、完全に支配できたわけではなかった。中央集権国家というより連邦国家といったほうが良いかもしれない。次回に書こう。

    *1:前回の記事「メソポタミア文明アッカド王朝時代① 時代区分/セム人とアッカド人」の第3節「シュメール人とアッカド人」参照

    *2:著作者:Zunkir、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Empire_akkad.svg#/media/File:Empire_akkad.svg

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