歴史の世界

エジプト文明:先史⑩ 「緑のサハラ」時代/まとめ

この記事で「緑のサハラ」は終わりなので、まとめることにしよう。

「緑のサハラ」の始まり

およそ12000年前に最終氷期が終わり、サハラ・サヘルは湿潤化した。より正確に言えば、砂漠が縮小してサバンナが拡大した。

サバンナには湖ができ、狩猟採集民や遊牧民(非定住の牧畜民)がオアシスとして活用した。湖の中には乾季になると干上がるか極度に水の量が減るものもあった。また地表の近くに地下水が流れる場所も井戸を掘るなどして活用された。

土器の始まり

現段階での最古の土器は西アフリカ・マリ中部にあるオウンジョウゴウ ( Ounjougou ) のもの。1万1400年前(前9400年)という「緑のサハラ」が始まって間もない時期に早くも土器が登場した。

オウンジョウゴウ では土器と共に矢じり(鏃)も発掘された。発掘者(かつ研究者)によれば、新しい時代に対応するためにこの2つが発明された。

ウシの家畜化

遅くとも前5500年にはウシは家畜化されていた。ナブタ・プラヤでは野生牛オーロックスの骨が大量に発掘されているが、これらの骨は、おそらく家畜種になる前の馴化された野生種の骨なのだろう。生物学的(?)に野生種から家畜種に変わるには長い時間がかかったのだろう。

ウシは主に血や乳を調理に利用するために飼われた。食肉は犠牲にするときなどに限られた。

可食植物の集約的採取と栽培について

ナブタ・プラヤの家屋の周りには穀物ソルガム・ミレット)が貯蔵されている大きな穴がいくつもあった。

古代の人たちは野生の穀物を集約的に(集中して、選別して)採取していた。しかし不純物(?)を全く混入させずに選別することは難しいので栽培の可能性も主張されている。

サハラ・サヘルにおける経済

どうして集約的採取が必要だったのか?

まず第一の目的は、食物の狩猟・採集が難しい乾季を乗り切るためだが、その次の目的として物々交換の商品としてだ。物々交換における穀物は「商品貨幣」と呼ばれる。

「Ounjougou<wikipedia英語版」によれば、前9500-6750年の間にこのような「経済」が行われていたという。

ナブタ・プラヤでは年に一度、多くの集団が集まったようだが、これは経済活動の一環でもあったのだろう。

社会の高度化

ナブタ・プラヤにおける後期新石器時代に巨大な石の建築物が造られるようになった。このようなものを造るには協業が不可欠である。また、それを監督するリーダーがいたと言われている。この巨石建造物もリーダーの権力の誇示の現れなのかもしれない。

大人数が集まるところではまとめ役が必要であり、経済活動が行われれば争いごとの調停役が必要となる。秩序を構築するために、まとめ役・調停役に権威・権力が集中しリーダーの資格が与えられる。

ナブタ・プラヤで強いリーダーが生まれたのは、サハラ・サヘルの乾燥化が強まる過程で食糧資源が豊富なナイル川流域に近い場所だからかもしれない。つまりこの場所がナイル川とサハラ・サヘルの経済をつなぐ取引所であった可能性がある。

ちなみに、新石器時代においては比較的 平等な社会で、階級ができるのは後のことになる。

社会発達はナイル川流域より早かった

エジプト国内の新石器文化は、最初にナイル川西方のオアシスおよび低地において開花し、後にナイル川流域地方に伝播していったことだけは動かしがたい事実である。

現在までのところ、ナイル川流域の終末期旧石器文化の遺跡で、ナブタを除くと新石器分化段階への連続的な移行を示す遺跡は残念ながら発見されていない。

出典:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

まとめ

エジプト文明の食糧事情はその誕生以降、西アジア由来の穀物と家畜が支えた。このことから、文化文明も全て西アジア由来だと思われるかもしれない。私はそうだった。

しかし、旧石器時代から新石器時代に変わったのはナイル川流域よりもサハラ・サヘルの方が先で、「緑のサハラ」時代が終わってその文化はナイル川流入した。

ファラオは両手に穀竿(ネケク)と笏杖(ヘカ)を持つ姿で表現されるが、前者は脱穀用の竿、後者は牧畜の杖である。つまりそれぞれ、ナイル川流域に住む農耕民と、砂漠を往き来する遊牧民を象徴しており、両者の融合がエジプト人のルーツであることを示しているように思われる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p39-40

エジプト文明ではウシは最も重要な家畜とされ、ウシ信仰もあり神話でも多く登場する。王家ではウシを飼う施設があった。