歴史の世界

前漢・王莽政権と前漢滅亡

前回の記事(成帝・哀帝の治世)の最後に書いたように、哀帝の死後、実権は再び王氏一族の元に転がり込んだ。まず、孝元皇太后(元帝の皇后・王政君)が皇帝璽綬を得て、王莽を呼び寄せて大司馬領尚書事に就けて政治を任せた。*1

王莽は哀帝の後継に中山王衎(えん)を選んだ(前1年。平帝。元帝の孫、哀帝の従弟、9歳)。王莽は自分の娘を皇后に立てたが、平帝は6年に急死してしまった(王莽による毒殺とされる)。平帝の後継には宣帝の玄孫嬰を選んだ(孺子嬰。2歳)。しかし嬰を皇帝とせず、皇太子にした。この時すでに王莽は自らが皇帝になることを決断していたらしい。

[王莽は]実権は掌握したものの、正当性を考えると、王氏が劉氏に代わって皇帝となることには無理があった。そこで王莽が採用したのは、天命の移り替わりが何らかの姿を借り表現されるという「符命」の思想であった。この時点で王莽は、井戸から出た白石に「告ぐ、安漢公莽、皇帝たれと」の朱色の文言が現れた――という地方官の報告を得たとして、群臣の要望(勧進)に渋々従うというかたちで「仮(か)皇帝」となり、長安の南郊で上帝を祭り、居摂元年と改元して「摂皇帝」と号した(後6年)。

翌々年には、周公の例にならって、「孺子嬰が成人となれば位を返す」ことを前提として、「摂」の字を除いて「皇帝」(真皇帝)となった。ついで、符命を通しての上帝の命なので辞退することができない、と理由づけて「真天子」になり、この旨を漢の開祖たる高祖廟に行って報告した。高祖の霊がこれを承認したかどうか、それは定かではないが、こういう手順を踏んで「皇帝」と「天子」の両号を獲得した王莽は、孺子嬰を臣下の位に落とし、「始建国」と改元して「新」朝の樹立を宣言した(後9年)。

尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p333-334/上記は尾形氏の筆

こうして悪夢のような皇位簒奪劇のうちに前漢は滅亡した。ちなみにこの皇位簒奪劇は「禅譲」と呼ばれ、後世の中国史における王朝交代劇の手本となった。言い換えれば「禅譲」の最初が王莽だった。

もちろんこのような三文芝居に反抗した勢力がいくつかあったがことごとく鎮圧された*2

符命、讖緯説

上に出てきた「符命」について書いておく。

「符命」による騒動は王莽以前にあった。

昭帝の元鳳3年(紀元前78年)、泰山の莱蕪山で数千人の人の声が聞こえ、人々が見に行くと、3つの石を足にして大きな石が自立しており、その傍らに白い烏が数千羽集まった。さらに昌邑国では社の枯れ木がまた息を吹き返し、上林苑でも枯れて倒れていた柳の木が自立し、葉には文字のような虫食いの穴があった。その穴は「公孫病已立」と読めた。

眭弘はそれを「廃されて民となっている公孫氏から新たな天子があらわれる予兆である」と解釈し、友人の内官長を通じて「漢の皇帝は賢人を探し出し、帝位を譲り渡して自分は殷王、周王の末裔のように諸侯となって天命に従うべきである」と上奏した。

当時、若い昭帝を補佐して実権を握っていた大将軍霍光はこれを問題視して廷尉に下し、眭弘と内官長は大逆不道の罪で処刑された。

その後、戻太子劉拠の孫の劉病已が民間から迎えられて皇帝に即位すると、眭弘の子を郎とした。

出典:スイ弘<wikipedia

これが本当に自然現象だったのかどうかは知らないが、当時はこのようなことが予言として信じられた空気があったらしい。

儒家はこのような神秘主義(オカルト)を取り入れていった。この流れが歴史に初めて現れるのが武帝代の董仲舒の災異説だが(儒教の隆盛参照)、前述の眭弘は董仲舒の孫弟子に当たる。このような流れの中で出来上がった思想が讖緯説だ。

讖緯説とは、当時の儒家思想と無関係に出現した迷信ではなくて、当時の社会に充満していた神秘主義儒家が採用し、これによって儒家思想の大系を、その尚古主義と矛盾することなく、再構築したものであった。そしてこのことによって儒家思想は、一面において古礼を説きながら、他面において時代の風潮に妥協し、その結果として、国家・社会から尊重されることとなったのである。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p364

「宣帝<wikipedia」のページには「儒家が往々にして讖緯説に基いて皇帝退位を持ち出し」たとあるから、宣帝代には神秘主義の風潮が蔓延していたのだろう。

讖緯説の詳しい解説は上の本に書いてあるが、ここでは辞書からもう一つ引用する。

中国で、前漢から後漢にかけて流行した未来予言説。讖は未来を占って予言した文、緯は経書の神秘的解釈の意で、自然現象を人間界の出来事と結びつけ、政治社会の未来動向を呪術的に説いたもの。日本にも奈良時代に伝わり、後世まで大きな影響を与えた。

出典:讖緯説<デジタル大辞泉<小学館<コトバンク

上の「讖(しん)」が符命に当たる言葉で、「自然現象を人間界の出来事と結びつけ」ると書いてあるが、自然現象の中から無理くり文字に見立てたのかもしれない。これを逆手に利用したのが王莽だった。この讖緯説は後漢の時代も隆盛してついには日本にも伝来したという。



これで前漢の歴史は終わり。

*1:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p493/引用部分は太田幸男氏の筆

*2:太田氏/同著/p494

前漢・成帝・哀帝の治世

匈奴との友好関係

宣帝・元帝の時代に続き、この頃も匈奴との友好関係は続いていた。匈奴単于が代替わりする度に漢に人質を送っていた。このような関係は前漢が滅亡するまで続く。

外界の強敵は匈奴以外いなかったので、この時代は外から侵略される恐れは無かったといえる。

内政

成帝・哀帝の短評を貼り付ける。

成帝(中国、前漢)せいてい(前52―前7)
中国、前漢の第11代皇帝(在位前32~前7)。姓名は劉(りゅうごう)。父の元帝のころから災害が相次ぎ、また外戚(がいせき)や宦官(かんがん)の横暴も激しく、学問を好んだ成帝もやがて酒色にふけり、宮廷を抜け出しては市内で遊んだりした。紀元前14年には各地で反乱が起こり、皇帝支配の体制は揺らぎ始め、宮廷内も治まらず、王氏、許氏、趙(ちょう)氏などの外戚が権力を争い、とくに王氏の伸張は、のちに王莽(おうもう)の出現を招いた。[尾形 勇]

出典:成帝<小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)<小学館<コトバンク-1553617)


哀帝 あいてい (前26―前1)
中国、前漢末期の第12代皇帝(在位前7~前1)。姓名は劉欣(りゅうきん)。定陶王康の子で、元帝の孫にあたる。3歳で定陶王を継ぎ、嗣子(しし)のなかった成帝(元帝の子)にみいだされて、その後を継いだ。在位中、土地所有額の制限などの改革を試みるが、傅(ふ)氏、王氏らの外戚(がいせき)が勢力を争う状況のなかで、みるべき成果をあげることができず、末年には、のちに新を建国する王莽(おうもう)の活躍する道を開いてしまった。[尾形 勇]

出典:日本大百科全書(ニッポニカ)<小学館<コトバンク-1553617)

以上のように、両皇帝とも後世に残る業績はなかった。wikipedia*1を見ると彼らも考えるなり行動するなりはしていたが、それらは形に残らなかったか失敗した。

王莽が属する王氏一族

結論から言うと前漢外戚の禍により滅亡した。つまり前漢を滅亡させた王莽が外戚の出身だった。

王莽が属する王氏一族は元帝の皇后であった王皇后(元后・王政君)より外戚となる。元帝が亡くなり彼女が皇太后(孝元皇太后)になると王氏一族は権力を握る。王氏一族は軒並み列侯に封建された。王莽もその一人で、前8年に大司馬(軍事のトップ、以前の太尉)となり、新都侯に封建された(これに因んで王莽が立てた国の号は「新」となった)*2

しかし、ここからストレートに滅亡に向かったわけではなく、成帝が亡くなり哀帝が即位すると王氏一族の権力は一時衰えた。

哀帝の親政

哀帝が即位すると、祖母の傅(ふ)太后の弟や実母丁姫の兄弟を列侯に封じる一方で、王氏一族を罪をもって朝廷から排除した。王莽もこの時に大司馬を罷免された*3。ただし傅太后も丁姫も哀帝の治世の間になくなったこともあり、その外戚は王氏一族のようにはならなかったようだ。また王氏一族を朝廷から一掃したわけではなく丞相王嘉や中常侍王閎(こう)の名がある。

哀帝はいちおう親政をしたのだが思ったような業績は挙げられなかったことは既に述べた。哀帝関連で残されている話といえば、男色相手の董賢の話だ。董賢については、私が参考にしている通史の書籍には出てこなかった。それほど重要な人物でもないので載せられなくても別に不思議ではないのだが。

哀帝は眉目秀麗な董賢を「片時も側から離さなかった」という。さらに董賢を大司馬に任じて列侯に立てた。これに反対した丞相王嘉は哀帝の怒りを買い、罪をもって投獄され絶食して命を絶った*4

哀帝は前7年に亡くなった。在位わずか6年。

[哀帝は]嗣子がなかったため、崩御に際し皇帝璽綬を董賢に託したが、太皇太后王氏は詔を発して董賢を罷免し、璽綬も奪った。董賢はその日のうちに自殺した。太皇太后は王莽を大司馬に任命し、政治の実権は王氏が再び掌握することとなった。

出典:董賢<wikipedia

董賢は政治的手腕はまるで無かったようだ。



*1:成帝<wikipedia、哀帝<wikipedia

*2:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p100/上記は鷹取祐司の筆

*3:鷹取氏/同著/p100

*4:董賢<wikipedia

前漢・元帝の治世

宣帝のまっとうな政治と匈奴の弱体化のおかげで元帝の代も平和な時代だと言っていいように思う。元帝は宣帝の作った道を進めば良いだけでほとんど何もしないでよかった。元帝の治世では大きな災禍はなかったようだ。

そのような状況の中で朝廷がやったことが祭祀制度改革だった。これは儒家勢力が増大したために起こったことだが、儒家勢力の思想が朝廷を覆い、それはやがて簒奪者王莽を産み出すことになる。約3200字。

元帝の儒教偏重

宣帝が元帝の未来を憂いていたのは有名な話。

現実主義者であったため、理想主義、懐古主義である儒教を嫌い、儒教に傾倒する皇太子劉奭(元帝)とは反りが合わず廃嫡も考えた。儒者登用を進言した皇太子を一喝した言葉は古来名言とされており、『漢書』・『十八史略』などで広く日本社会にも流布している。

(太字部分は故事成語になった部分)
「漢家おのずから制度あり。元々、覇王道を以ってこれを雑す。なんぞ純じて徳教(儒教)に任じ、周政をもってせんや。かつ、俗儒は時宜に達せず。好んで古を是となし今を非となす。人をして名・実を眩ませ、守るべきところを知らず。なんぞ委任するに足らんや。我家を乱すものは必ず太子ならん。」
(意味:漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]の良いところを取っているのだ。なぜお前は儒教だけが素晴らしいなどと言い、儒教が理想とする周の政治に戻しましょうなどと世迷い事を言うのか。そのうえ、俗な儒者どもは時局に合わせてものを考えず、常に「昔はよかった、今は良くない」などと言い出し、現実を見ようとせず、政治が出来ない。そんな連中を登用せよとは何事か。お前のような奴が漢王朝をおかしくするのだ。)

しかし、結局、劉奭に後嗣(のちの成帝)が生まれたことを理由に廃嫡を見送った。元帝はこの一喝の言葉通り、儒者を登用して王莽の専制を招き、前漢滅亡の端緒を開いたのである。

出典:宣帝<wikipedia

漢書』の「元帝紀」に書いてあるエピソード。『漢書』の著者・班固は前漢滅亡の起因を元帝に求めたのかもしれない。しかしたとえ班固の言うとおりだとしても元帝の治世は安定していた。

匈奴との和平

呼韓邪単于が漢に投降したことは前回の記事宣帝の治世で書いたが、その後も漢と匈奴の関係は良好だった。

前回の記事にも書いたが、呼韓邪単于と分かれて単于になった郅支単于は前36年に漢の派遣した兵により殺された*1

さらに呼韓邪単于は前33年に漢に入朝した際に後宮の女を妻としたいと所望し、元帝はこれを受けいれて後宮から選んだ女を与えた。これにより匈奴単于は漢皇帝の外戚となった*2

ちなみにこの女の名は王昭君と言う。王昭君は呼韓邪単于の妻(閼氏えんし)となったが、その死後、その子である復株累若鞮(ぶくしゅるいにゃくたい)単于の閼氏となった。これはレビラト婚*3と呼ばれる婚姻の慣習のひとつだが、中国の婚姻の慣習に照らし合わせれば考えられないものなので王昭君は後世に悲劇のヒロインとして有名になった。その代表作が『西京雑記』だという。*4

復株累若鞮単于も前25年に入朝した。

内政、貢禹の献策

上の匈奴との和平を背景にして、内政ではより一層の恤民政策*5が献策された。その代表となる人が貢禹だ。

貢禹は高齢になってから地方官から中央官になった儒家官僚だが、元帝に気に入られて多くの献策を行った。

そのなかでも公費の節約(具体的には宮殿の一部廃止、衛卒〔※警備兵、番兵〕の数の削減など)、人民への賦課の軽減(口賦〔※人頭税の一種〕が課される年齢を[三歳から]七歳に引き上げる)などは実現し、塩鉄専売も一時期停止された。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p423/引用部分は太田幸男氏の筆

塩鉄専売の停止は国用不足のため、実施の3年後に廃された*6

また、採用されなかった献策の中には銅銭の廃止というものがあった。その理由は「民衆が農業を棄てて商業に走るのは貨幣のせい」というものだった*7

貢禹の上の献策は、宣帝の現実主義に比べて明らかに儒教の理想主義に偏重していたが、元帝はこれに対して取捨選択はしたがその献策に耳を傾けることを好んだ。これは儒教的理想主義を献策どまりではなく本当に実行して、失敗して、滅亡してしまった王莽の時代の過渡期といえるだろう。

儒学勢力の増大と祭祀制度改革

前段で儒家思想の影響力について書いたが、思想の影響力の増大だけでなく儒家官僚の数も増大した。鷹取祐司*8によれば、「官吏登用を目的とする博士弟子も、昭帝の時に100人だったのが元帝の時には1000人、次の成帝の時には3000人に拡充された」。

祭祀制度の改革の議論は元帝から王莽の代まで朝廷でのメインテーマだった。

漢王朝は高祖の時に太上皇(高祖の父)廟を王国に設置したのを皮切りに、高祖を祀る太宗廟、武帝を祀る世宗廟を郡国に設置した。これに対し建始元年(前32)、儒家官僚が皇帝の宗廟を郡国に設置し官僚に祀らせることは礼制に合致しないと主張したので、全国167ヶ所の郡国廟が廃止された。[後略]

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p98/上記は鷹取祐司の筆

以下祭祀制度の改革の話は略すが、儒学勢力が増大したとは言え、武帝を含む漢室の祖先が作り上げた祭祀を合致しないというだけで廃止・改革できたのは元帝の意志の反映だろう。

この祭祀制度が全てまとめられたのは(「新」王朝ができる前の)王莽政権になってからのことだった。

宦官と外戚の進出

宣帝から成帝にかけての時期、次代を予告する二つの状況が発生している。宦官と外戚の政界進出である。宦官の政務関与は、武帝が後宮に入り浸り政務の報告に宦官を用いたことから始まった。宣帝の時には、宦官の弘恭・石顕(せきけん)が法令故事に通じていたので彼らを重用し枢機をたずさわらせ掌(つかさど)らせ、元帝も宦官には姻戚がいないといって二人を用いた。弘恭の死後は石顕が政務を取り仕切り、自己を脅かす者があればこれを排除した。これが宦官が権力を握った初めであるが、成帝が即位すると石顕は旧悪を告発され罷免された。

出典:鷹取氏/同著/p100

外戚が権力を掌握することは前漢初の呂氏政権の頃からあったが、宦官が掌握したのは元帝の時代からだった。

元帝の治世になって石顕がその人となった。石顕は宣帝の時代に中書令になる。中書令とは「内廷(後宮など宮廷の皇帝の私的な部分)の秘書長」*9である。権力が朝廷でなく後宮に移った。

ただし石顕の権力の基盤は元帝の寵愛だけだった。「石顕<wikipedia」によると彼は元帝の権力を蔑ろにするほどの権力は持っておらず、自分が不利の立場になった時に元帝の寵愛にすがって保身を保っていたようだ。だから元帝が亡くなってその後ろ盾が無くなった時、成帝は彼を簡単に罷免できた。

外戚の禍については成帝の治世の時に始まる。



*1:シツ支単于wikipedia

*2:呼韓邪単于wikipedia

*3:レビラト婚<wikipedia

*4:王昭君wikipedia

*5:霍光政権①

*6:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p348

*7:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p98/上記は鷹取祐司の筆

*8:鷹取氏/同著/p98

*9:中書令<wikipedia

前漢・宣帝の治世

霍氏一族を族誅した後、宣帝の親政が始まる。その政治は霍光政権の恤民政策の継承と発展であった。匈奴が分裂したこともあって総じて平和な時代だった。約5200字。

内政――循吏と酷吏

循吏の登場

何よりも大事なことは、人民の生活を安定させることであり、そのためには、地方官に恤民政策(人民をあわれむ政策)をとらせることであった。それまでの郡太守の職掌は、担当地域の治安を維持し、戸口数を正確に査定して租税・人頭税・徭役を徴収し、郡兵を監督・訓練することであった。いまやそれに加えて、民生を維持し、農業を奨励することがその要務となった。こうして出現するのがいわゆる循吏である。

循吏とは、酷吏に対応する言葉で、後者が法術第一主義の官吏であるとすれば、前者は人民愛撫を主義とする官吏である。そして、武帝時代を代表する官吏が酷吏であるとすれば、宣帝時代を代表とする官吏は循吏であった。[中略]

霍光の政策は恤民政策を第一としていたのであるから、その点では宣帝と共通する。相違するところは、宣帝の親政開始とともに、循吏として名声のある地方官を、このように中央の高官に登用した点であり、そこに、循吏がにわかに注目されることとなった理由がある。

出典:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p333-334

  • 最後の段の「このように」は中略した部分の書いてあることだが、地方行政で評判の良かった王成や黄覇が宣帝によって召し出されたことを指す。

宣帝は地方の循吏を重用したり爵位を授けたりすることによって、他の地方の官吏に対してどのように行動すべきかを示し、官吏はこれに倣ったということだ。

酷吏の必要性

宣帝は循吏だけではなく酷吏も活用した。

武帝代に酷吏に抑え込まれ続けていた地方の豪族たちが強力になりつつあり、これらの悪事を抑制するためには酷吏を用いねばならなかった。

宣帝期にも武帝期と同じく酷吏が活躍した。例えば、大姓〔※豪族のこと〕が威勢を張る琢(たく)県(北京市の南)では郡吏以下皆「たとい郡太守に逆らうことがあっても、大姓にはさからえない」というありさまであった。宣帝はそこに酷吏の厳延年を送り込み、大姓の悪事を暴き数十人を誅殺した。厳延年は酷吏であったが、豪強〔※豪族のこと〕を弾圧するだけでなく、貧者を扶助することもしている。

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p97/上記は鷹取祐司の筆

以上のように循吏と酷吏をうまく使い分けたところに宣帝の内政の特徴がある。

対外政策

f:id:rekisi2100:20170202014105p:plain
出典:出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p393

西域都護設置

匈奴の弱体化に伴い、漢帝国は西域で攻勢に出た。

前67年、漢の勢力下にある車師が漢に背いて匈奴と結んだ。

宣帝の地節2年(紀元前68年)、漢は鄭吉を侍郎とし、渠黎に派遣して刑を免除した罪人に耕作させて兵糧を集め、車師国を攻めようとした。収穫が終わると鄭吉は周辺の国々から兵を徴発し、自分が率いる屯田兵1500人と共に車師を攻撃した。車師は匈奴に援軍を要請したが、匈奴の援軍も鄭吉が迎撃に出ると前進せず、車師王は烏孫に逃亡した。漢は鄭吉を衛司馬とし、「護鄯善以西南道」(西域南道の監督役)とした。

神爵年間に匈奴が混乱すると、匈奴の日逐王(単于の従兄)が漢への降伏を鄭吉へ打診した。鄭吉は渠黎、亀茲の兵を徴発して日逐王と彼が率いてきた12,000人を迎え、途中で離反した者は斬刑に処して長安まで連行した(神爵2年(紀元前60年))。

日逐王の降伏により、鄭吉は「護車師以西北道」ともなり、以前の職と合わせて西域の南北両道の監督役となったことで、「西域都護」(「都」は大きい、全て、という意味)となった。また、以前の功績と併せて安遠侯に封じられた(神爵3年(紀元前59年))。また日逐王はこのとき帰徳侯に封じられた。

鄭吉は都護の幕府を西域の中心に置き、烏塁城を治所として西域諸国の鎮撫に携わった。(参考文献:『漢書』巻17景武昭宣元成功臣侯表、巻70鄭吉伝、巻96西域伝)

出典:鄭吉<wikipedia

都護の幕府(都護府)の烏塁城は亀茲(きじ)の東にあり*1、まさに西域の中央にあった。

呼韓邪単于の投降

西域地方が漢の勢力下に確保されると、匈奴の勢力はますます弱体化し、ついに内部分裂を惹起した。それは神爵二年(前60)の虚閭権渠(きょろけんきょ)単于の没後のことであり、漢の西域都護設置と年代が合致する。その分裂状態は、一時は五人の単于が並立するというありさまであったが、そのうちでは虚閭権渠単于の子呼韓邪(こかんや)単于が有力で、一時は他の単于を制圧してほぼ匈奴の統一に成功した。ところが、その兄の左賢王が自立して郅支(しつし)単于がとなるに及んで、ふたたび匈奴は両勢力に別れ、しかも呼韓邪単于の勢力は郅支単于に劣ることとなった。

その結果、呼韓邪単于は漢に投降してその救援を求めることになり、甘露元年(前53)、その子の右賢王銖婁渠堂(しゅるきょどう)を漢に派遣して入侍(にゅうじ)させた。入侍とは宮中にはいって天子に近侍することであるが、前述したように、外国の王子が入侍するということは実質的には人質として派遣されたことを意味する。

[前52、]呼韓邪単于は自ら五原の要塞を訪ね、甘露3年(紀元前51年)正月に入朝することを願い出た。呼韓邪単于が入朝すると、漢の宣帝は甘泉宮で呼韓邪単于に会い、単于を諸侯王より上位に位置するものと決め、臣と称しても名を言わなくても良いこととし、中国の冠や衣服、黄金の璽などを賜り、兵と食料を出して呼韓邪単于を助けた。

郅支単于は呼韓邪単于が漢に入朝したことを知ると兵が弱くもう戻って来られないと踏み、右地(西方)を攻撃した。しかし烏孫は漢が呼韓邪単于を受け入れたことを知ると郅支単于を拒んだ。(参考文献:班固著『漢書』巻94匈奴伝)

出典:呼韓邪単于wikipedia

郅支単于の勢力は漢の軍により前36年(元帝の代)に攻め滅ぼされた。

羌族制圧

羌族は古代より中国西北部に住んでいる民族で、言語的にはチベット系(チベットビルマ語派)に分類される。

国史において羌族は氐族とともに最も古くみえる部族の一つである。漢代になると、北の匈奴が強盛であったため、初めのうちは匈奴に附いていたものの、漢の武帝により匈奴が駆逐されると、代わって漢に附くようになり、漢の護羌校尉のもとで生活することとなる。しかし、羌族はたびたび漢に背いて叛乱を起こしたため、その都度漢によって討伐された。*2

神爵元年(紀元前61年)、光禄大夫義渠安国が不穏な行動をしていた先零羌の首領30人を召し出して殺したことから、降伏していた羌も怒り、反乱した。趙充国は70歳以上であったことから、宣帝は御史大夫丙吉を遣わし、趙充国に誰を将とすべきか訊かせた。趙充国は「私を超える者はいません」と答えた。宣帝は再度「羌の軍勢はどれほどか。誰を用いるべきか」と訊いたところ、趙充国は「百聞は一見に如かず。兵は遠く離れていては測りがたいものです。急ぎ金城まで向い、そこから方略を献上したいと思います。羌は天に逆らい滅亡も遠くありませんので、私にお任せください」と言い、宣帝はこれを笑って承諾した。

趙充国は持久戦の構えを取り、羌に対し罪ある者を討った者は赦免して褒美を与えると告げた。宣帝は趙充国の子の右曹中郎将趙卬に期門、羽林の騎兵を率いさせ、また刑徒や各郡の兵など合計6万を動員した。酒泉太守辛武賢が騎兵をもって迂回して後方を攻撃し補給を断つことを進言したが、趙充国は反対した。

宣帝は楽成侯許延寿を強弩将軍とし、辛武賢を破羌将軍とし、反対した趙充国を責めた。しかし趙充国はなおも反対し、屯田をすることを願い出た。朝廷の大臣たちも次第に趙充国に賛成する者が多くなり、宣帝は趙充国の献策を認める一方で許延寿、辛武賢及び趙卬に出撃を命じた。許延寿らは羌を破り功を挙げた。(参考文献:班固著『漢書』巻19下百官公卿表下、巻69趙充国伝)

出典:趙充国<wikipedia

  • 「百聞は一見に如かず」という言葉はここから出たらしい。

こうして漢は北方および西方において漢は諸勢力に対して圧倒的優位な立場を確保した。

宣帝の評価

これら内外政治における成果から、文武に功績があったとされ、班固の『漢書』宣帝紀において、前漢中興の祖という評価を受けている。

しかし、中書を通じての直接の上奏は、中書の任にあたった宦官の権力を強化させる原因になり、後の元帝の代には宦官と外戚が連携して政治に大きな影響を及ぼす一因となったことは否めない。

現実主義者であったため、理想主義、懐古主義である儒教を嫌い、儒教に傾倒する皇太子劉奭(元帝)とは反りが合わず廃嫡も考えた。儒者登用を進言した皇太子を一喝した言葉は古来名言とされており、『漢書』・『十八史略』などで広く日本社会にも流布している。

(太字部分は故事成語になった部分)
「漢家おのずから制度あり。元々、覇王道を以ってこれを雑す。なんぞ純じて徳教(儒教)に任じ、周政をもってせんや。かつ、俗儒は時宜に達せず。好んで古を是となし今を非となす。人をして名・実を眩ませ、守るべきところを知らず。なんぞ委任するに足らんや。我家を乱すものは必ず太子ならん。」
(意味:漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]の良いところを取っているのだ。なぜお前は儒教だけが素晴らしいなどと言い、儒教が理想とする周の政治に戻しましょうなどと世迷い事を言うのか。そのうえ、俗な儒者どもは時局に合わせてものを考えず、常に「昔はよかった、今は良くない」などと言い出し、現実を見ようとせず、政治が出来ない。そんな連中を登用せよとは何事か。お前のような奴が漢王朝をおかしくするのだ。)

しかし、結局、劉奭に後嗣(のちの成帝)が生まれたことを理由に廃嫡を見送った。元帝はこの一喝の言葉通り、儒者を登用して王莽の専制を招き、前漢滅亡の端緒を開いたのである。

なお、別府大学非常勤講師の中川祐志は、論文(参考文献参照)において、後漢光武帝が宣帝同様に民間から即位し、法家政策を取って豪族の暴走を食い止めようとしたため、同じ出自で同じ政策を取っていた宣帝を高く評価し、中興の祖と持ち上げたことから、王家を復活させたわけでもない宣帝が史書において異常に高く評価されていることを指摘している。光武帝はわざわざ宣帝に「中興の祖」を意味する「中宗」の廟号を奉り、王宮に祀るほどであった。また、中川は、儒家が往々にして讖緯説に基いて皇帝退位を持ち出し、権力基盤を危うくする存在だったことから、宣帝は儒家を退けたともしている。

参考文献
・班固『漢書』宣帝紀
十八史略
・中川祐志論文『光武帝の宣帝観・補論』別府大学紀要ゆけむり史学 No.7 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=ys00705

出典:宣帝(漢)<wikipedia

霍光政権(前1世紀序盤)②」で眭弘が昭帝に対して禅譲を進言した事件を紹介したが、宣帝の時代にもこのような進言があったとのこと。この讖緯説は王莽の帝位簒奪において大きな役割を果たすことになる。

宣帝の評価だが、法と儒、言い換えれば、酷吏と循吏を使い分けて政治を動かせた人だった。

匈奴が弱体化したことも宣帝にとってラッキーなことだったが運も実力のうちと考えれば彼の評価は上がるだろう。特に儒教を含んだ中国の思想では「運も実力のうち」は真実だ(実際ところは武帝代の努力のおかげだが。一説によればこの頃寒冷化が進み北方に住む匈奴に大打撃を与えたという*3)。

*1:クチャ/亀茲<世界史の窓

*2:羌<wikipedia

*3:原宗子/環境から解く古代中国/大修館書店・あじあブックス/2009/p163(ただ寒冷化がいつから始まったのかは書いていない)

前漢・霍光政権②:昭帝の死去から宣帝即位まで/霍氏一族の族誅

霍光独裁政権は宮廷・朝廷内でいろいろな事件はあったものの、内外の政治は基本的に順調だった。霍光は天珠を全うした。霍光の一族はその権力を受け継いだが、宣帝がこれを誅滅した。約3300字。


前79年 匈奴に属していた烏桓が離反して抗争状態になる。
前74年 昭帝死去。宣帝即位。
前72年 霍光、5人の将軍と十数万騎の軍を派兵、匈奴は戦わずに逃げる。
前68年 霍光死去。
前66年 霍禹処刑される。霍一族族誅。


霍光政権の対匈奴・西域政策

桑弘羊を誅して霍光は全権を握ったが、霍光は恤民政策を採用したが桑人羊の富国強兵策も継承され続けた(規模は縮小されたかもしれないが)。

f:id:rekisi2100:20170524223907p:plain
出典:匈奴wikipedia*1

匈奴武帝代の「輪台の詔」(前89年)の頃にはすでに弱体化していた。

前79年、匈奴に属していた烏桓が離反して抗争状態になる。

[前79年]、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に破られた時の恥に報復した。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。漢の大将軍の霍光は、この情報を得ると、中郎将の范明友を度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせ、遼東郡から出陣させた。范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけたが、范明友の軍が到着したときには、匈奴はもう引き揚げた後だった。烏桓匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりで、范明友は彼らが力を失っているのに乗じて、軍を進めて烏桓に攻撃をかけ、6千余りの首級を上げ、3人の王の首をとって帰還し、平陵侯に封ぜられた。(参考資料:『漢書匈奴伝)

出典:壺衍テイ単于wikipedia

前72年には、西方の烏孫匈奴に攻撃されると漢に支援要請をする。霍光はこの要請を受け、5人の将軍と十数万騎の軍を派兵したが、匈奴は戦わずに逃げた。

しかし、匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなる。その冬、壺衍鞮単于烏孫を報復攻撃した。しかし、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死した。さらにこれに乗じて北の丁令、東の烏桓、西の烏孫に攻撃され、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大虚弱となった。(参考資料:『漢書匈奴伝)

出典:壺衍テイ単于wikipedia

以上のように匈奴勢力は弱まる一方だが、霍光の死後もその傾向は変わらない。

眭弘の禅譲進言事件

昭帝の元鳳3年(紀元前78年)、泰山の莱蕪山で数千人の人の声が聞こえ、人々が見に行くと、3つの石を足にして大きな石が自立しており、その傍らに白い烏が数千羽集まった。さらに昌邑国では社の枯れ木がまた息を吹き返し、上林苑でも枯れて倒れていた柳の木が自立し、葉には文字のような虫食いの穴があった。その穴は「公孫病已立」と読めた。

眭弘はそれを「廃されて民となっている公孫氏から新たな天子があらわれる予兆である」と解釈し、友人の内官長を通じて「漢の皇帝は賢人を探し出し、帝位を譲り渡して自分は殷王、周王の末裔のように諸侯となって天命に従うべきである」と上奏した。

当時、若い昭帝を補佐して実権を握っていた大将軍霍光はこれを問題視して廷尉に下し、眭弘と内官長は大逆不道の罪で処刑された。

その後、戻太子劉拠の孫の劉病已が民間から迎えられて皇帝に即位すると、眭弘の子を郎とした。

出典:眭弘<wikipedia

この事件に対して西嶋氏は「当時の思想界の一端を知るうえでも、また、後年の王莽政権の成立と比較するうえでも、そしてまた、元服前の少年皇帝と霍光との関係を知るうえでも、注目すべき事件である」*2としている。さらに

ようするに、怪異現象によって、皇帝の退位を求め、代わりに賢人を探して皇帝とせよ、という趣旨である。この説は明らかに董仲舒の災異説を発展させたもので、その神秘的な呪術主義と禅譲説とを結合させた革命説である。当時の儒家の一派は、このような神秘主義と深く結びついていた。しかも、虫喰いのあとが文字となって現れたということは、いわゆる図讖(としん)である。

図讖とは、予言が人力によらない文字となって現れることであり、これを逆に作為して帝位に即いたのが後年の王莽である。それゆえ、この眭弘の上言は王莽時代の図讖の先駆形態であった。

出典:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p318-319

昭帝の死去から宣帝即位まで

昌邑王賀の即位・廃位

前74年、昭帝は21歳の若さで病死した。昭帝に子はなく、武帝の孫の昌邑王賀が帝位に即いたが、品行に難があったため27日で廃位され、かわって民間で育てられていた戻太子の孫の病已(へいい、当時18歳)が立てられて宣帝(在位前74年~前49)となった。この間の即位・廃位に関してはすべて霍光が主導した。

出典:太田氏/同著/p422

昌邑王賀の即位・廃位について西嶋氏の前掲書では6ページに渡って詳細に書き不自然さを書き表している*3。曰く「政権を新皇帝の手に収めようとするクーデター計画があり、これが霍光の耳にはいって、逆に霍光側から先制攻撃がかけられ、廃位計画が進められたのではあるまいか」*4と。しかし歴史が史書の通りであろうと西島氏の推測どおりであろうと霍光の正確な処理したことにより、この事件がその後の歴史に与える影響は殆どなかったようだ。自分の使っている参考図書の中でこの事件を詳しく扱ったのは西島氏の本だけだった。

昌邑王賀は即位はしたのだが、皇帝として数に数えられておらず諡もつけられることもなかった。彼の即位は「なかったこと」にされた。

宣帝の即位

紀元前74年、昭帝が崩御、昌邑王劉賀が一時即位するが品行不良を理由に廃立されると、儒教の経典、特に詩経論語・孝経に通じており、「質素倹約に務め、仁愛深い性格だ」という丙吉・霍光らの推薦により上官皇太后の詔を受け、まずは陽武侯に封じられ、間もなく即位した。即位した際に、忌諱が困難であることから即位の際に諱を病已(へいい)から詢(じゅん)と改めている。

昭帝崩御から昌邑王の廃立を経て宣帝の即位に至る一連の動きは、霍光の主導したものであり、政権は引き続き大司馬大将軍である霍光に委ねられた。

出典:宣帝(漢)<wikipedia

宣帝の生い立ちも疑おうと思えばきりがないがこれをひっくり返す資料はない。とりあえず宣帝は霍光のお膳立てに乗ってその役割を全うした。

霍光の死と霍氏一族の族誅

前68年、霍光は天珠を全うして亡くなった。彼の権力は霍氏一族に継承された。霍光の子の霍禹は右将軍となって父の封邑を嗣ぎ、霍去病(霍光の兄)の孫霍山は奉車都尉(軍官)として尚書の事を行った。*5

この時、宣帝は24歳に達していた。彼は霍氏一族の独裁を良しとしなかった。宣帝は親政を意図して尚書の役割を制限した。すなわち、尚書の上奏文の検閲権を無くして、上奏文は皇帝に直接に届けられるようにした。これを皮切りに霍氏一族の権益を順々に削り、最後は霍禹を皇帝にするというクーデター計画の廉で霍氏一族は族誅された。

こうして宣帝は専制を敷くことになった。



前漢・霍光政権①:内朝・外朝/恤民政策/塩鉄会議

武帝が亡くなり昭帝が立つ。御年8歳。昭帝を支えるのは武帝が選んだ3人、大司馬大将軍の霍光、左将軍の上官桀、車騎将軍の金日磾(じつてい)*1。3人の実権が確定するとおきまりの権力闘争が起こり、その結果 霍光が独裁者となった。約4000字。

昭帝即位と補佐の3人と内朝・外朝

上記のように昭帝を3人が補佐した。彼らは肩書のとおり軍人で内政に対しての決定権は無いはずだが以下の方法でこれを掌握した。

後元2年(前87)2月、武帝崩御の翌日、皇太子は即位し(昭帝 前94~前74、在位前87~74)、霍光が政務を執って尚書の事を領し、金日磾と上官桀がその副となった。この時、霍光が領した尚書は少府の属官で皇帝への上書の取り次ぎや詔書の草稿作成を担っており、官秩は高くないが非常に重要なポストであった。霍光の尚書掌握によって、従来の官僚機構を統括する丞相・御史大夫とは別に皇帝側近に新たな権力中枢が出現することとなった。前者を外朝、後者を内朝と呼ぶ。前漢後半期の政治を特徴づける内外朝の対立の種はこの時に播かれたのである。

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p94/上記は鷹取祐司の筆

昭帝即位当初の政治状況・恤民政策

昭帝即位当初は、二つの相違する民生政策が併存していたことが判明する。その一つは、使者を民間に派遣して民情を視察し、賢良を推挙させて民情を諮問し、貧民救済のために種子食料を支給して田租を免除するという恤民政策であり、他の一つは、屯田政策を再開して国家財政を増強しようとする富国強兵政策である。

前者は大将軍霍光を中心とする内朝の政策であり、後者は御史大夫桑弘羊を中心とする外朝の政策である。しかも武帝時代以来の塩鉄専売制や均輸・平準法は桑弘羊の管掌のもとになお継続されている。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p297

武帝の死の直前に「輪台の詔」により富国強兵政策の方針は中止され、恤民政策に転換された。

恤民政策とは儒家思想から出ている。儒家が庶民の貧窮を上書した例は文帝代の賈誼(かぎ)より有り(格差社会に対する対応参照)、恤民政策はその延長上にあるものと思われる。またこの政策は前漢初の休民政策(休民政策参照)と同様のものであり、武帝代の労役で疲弊した庶民に休養を与えようというものだった。

ただし、儒家の後ろには霍光のほかに塩鉄専売制や均輸・平準法で利益を国家に吸い上げられている商工業とそれに結びついている豪族たちがいる。*3

いっぽう、桑弘羊率いる外朝の富国強兵政策は「輪台の詔」で却下されたその案を実行した。つまり西域にある輪台地方に屯田を開き、北方からの侵攻に対して防備を厚くした。

積極的な対外政策の理由は、尾形勇氏によれば*4、防衛目的の他に「それ以上に、国内に満ちていた困窮した農民たちの政策を安定させるために、新しい農耕地を開拓する必要に迫られた」。

ちなみに、官僚機構のトップであるはずの丞相という職は武帝により権力を取り上げられていた(官僚登用制度参照)。そしてそのリーダー・まとめ役は御史大夫ということだ。昭帝即位当初の丞相は車千秋(田千秋が改名した)であったが、もともと権力のない彼は霍光に逆らうことなく過ごしていた。

以上のように霍光率いる内朝と桑弘羊率いる外朝の二つは、政策・思想の上で大きく分かれて対立するようになった(桑弘羊は法家の流れをくむ)。

塩鉄会議

[桑弘羊の富国強兵政策の]方針に儒学者は「国家が民間と利益を争うことは卑しいことである」と批判し、国家権力の参入によって「民業圧迫」の状態に陥って大打撃を受けた商人たちも不満を強めていった。武帝の死後、政権に参加するようになった外戚の大将軍霍光は、こうした批判を受けて政策の修正を図ろうとした。だが、桑弘羊らがこれに強く反対した。このため、昭帝の始元6年(紀元前81年)に、民間の有識者である賢良・文学と称された人々である唐生・万生ら60名を宮廷に招いて、丞相・車千秋、御史大夫・桑弘羊ら政府高官との討論会(塩鉄会議)が行われた。

法家思想に基づいて「価格の安定によって民生の安定を図っている」と唱える政府側と、儒家思想に基づいて「国家の倫理観の問題に加えて、政府の諸政策の実態は決して民間の需要にかなっているわけではないために、かえって民生の不安定を招いている」とする知識人側との議論は、財政問題から外交・内政・教育問題にまで及ぶなど激しい議論が続けられた。議論自体は知識人側の優位に進んだものの、具体的な対案を出せなかったために結果的には現状維持が決められ、さらに翌年、桑弘羊が別件で処刑されて霍光が政権を掌握した後も、実際の財政状況が深刻なものになっていることが判明したためか、酒の専売を廃止した他は、そのまま前漢末期まで維持されることとなった。

出典:塩鉄論<wikipedia

この会議は霍光の外朝に対する攻撃の一部だろうが、儒家が外朝の方針に対する有効な対案を打ち出せなかったために、上のように、現状維持が決定され、「桑弘羊が別件で処刑され」た後も(後述)、霍光は桑弘羊の築きあげた政策を使い続けた。結局、霍光は恤民政策と富国強兵政策を併用したことになる。

政争から霍光の独裁へ

ない蝶を握っていた三将軍(同時に尚書)のうち、金日磾は前86年に病死した。霍光と上官桀は婚姻関係を結び、さらに霍氏と上官氏は昭帝の外戚となっていっそう内朝に勢力をもつにいたった。

しかし上官桀・上官安親子は婚姻関係を利用して蓋長(がいちょう)公主・燕王旦の姉弟などの皇帝一族の者との結びつきを強めはじめたため、しだいに霍光とのあいだに溝が生じてきた。これに外朝を支配していた桑弘羊がからみ、政界が二分される対立が生まれたのである。すなわち、前81年に霍光はその人事権を活用して自らの部下であった楊敞を大司農に任命し、外朝にも勢力を伸ばそうとはかったため、桑弘羊は対抗上から上官桀一派と接近するようになったのである。

上官桀・桑弘羊の一派は前80年、霍光を忙殺して昭帝を廃し、燕王旦を帝位に即ける計画を立てたが、この計画は未然に発覚した。同年、上官桀・桑弘羊一族は上官皇后以外はすべて誅殺され、蓋長公主・燕王旦は自殺した。これが第二次燕王謀反事件である。

政敵をすべて壊滅させた霍光は、内朝と外朝をともに自らの権力で支配し、前77年に昭帝が元服(18歳)しても、その実権は変わらなかった。とくに内朝には子の霍禹をはじめ霍氏一族の者をつぎつぎに登用し、霍氏一族の独裁ともいえる状況をつくりだした。政策のうえでは、桑弘羊の富国強兵策にかわって租税の減免、対匈奴和平を推し進め、民力の回復をはかった。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p421-22/引用部分は太田幸男氏の筆

  • 大司農とは国家財政を仕切る役所の長、つまり今で言う財務大臣だが、昭帝即位当初は国家財政はこれを欠官とすることで桑弘羊が仕切っていた。これに対して霍光が配下を大司農に押し込んだということだ。

こうして独裁が始まったが、霍光は桑弘羊の富国強兵策を一気に潰すようなことをしなかったことは塩鉄会議の節の通り。霍光政権の政治の中身について私の参考図書には数行程度しか書いていないが、総じて慎重だったようだ。西嶋氏によれば*5、恤民政策がほとんど連年のように発布され、「匈奴ともほぼ和親関係が続き、武帝時代以来の民間の疲弊もかなり救済されて、百姓充実したと伝えられている」。



*1:霍光<wikipedia

*2:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p370/引用部分は太田幸男氏の筆

*3:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p420/引用部分は太田幸男氏の筆

*4:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p324/上記は尾形氏の筆

*5:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p316

前漢・武帝⑯:武帝の死/武帝の評価

皇太子を冤罪で失うという悲劇のわずか4年に武帝は亡くなる。参考文献には武帝が後悔のうちに死んでいくような描写が多い。なんとなく情けないような感じで終わってしまった武帝の治世だが、その治世の全体を見渡せば武帝の才能は高く評価されるべきだろう。この治世が前漢の最盛期であることを考えれば前漢武帝がつくったとも言える(武帝以前は秦の政治を多く引きずっていた)。「秦漢帝国」がその後の中国史をつくったのであれば、武帝の影響力は後世まで絶大だったと言える。約2800字。

武帝の死

前91年の巫蠱の乱から武帝の死までわずか4年。江充と皇太子に関するこの乱以外にも巫蠱による事件が何件か起きている。武帝の判断力の低下を表しているのかもしれない。

武帝自身もこのころになると外征によって国力を疲弊させたことを後悔して、民力の回復を願い、新しい辺境の開発を中止させ、また、その意図を知らせるために、この田千秋を恩沢侯とするばあい、これを富民侯と名づけた。桑公羊が計画した輪台地方の屯田開発を中止させて、いわゆる「輪台の詔」を出したのもこのころであった。

こうして武帝の時代は終末に近づいた。後元二年(前87)二月丁卯の日、武帝は老病のために長安城南方の五柞(ごさく)宮でその寿命を終えた。即位して55年目、年70歳であった。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p283

  • 恩沢侯とは列侯でなかった者が丞相に就く前にそれに先立って列侯に封ぜられたばあいの名称。儒家の公孫弘がその始め。

  • 「輪台の詔」は武帝の積極軍事指向を終止する命令のこと。

武帝の評価

私が参考にしている書籍には武帝の評価を論ずるものはなかった。参考図書が通史ものばかりだからかもしれない。

武帝 評価」でgoogle検索してみるとブック検索で守屋洋著『中国皇帝列伝: 歴史を創った名君・暴君たち』が引っかかった。適当な長さの評価が書いてある。

これによると武帝は秦始皇帝と並び称されて「秦皇漢武」という言葉があるとのこと。

始皇帝武帝の二人はたしかにスケールの多き傑物であって、その政治的業績は余人の継い付いを許さないものがあったと言えよう。しかし、この二人には顕著な違いもある。始皇帝秦帝国という大伽藍をつくりあげたが、皇帝の位にあること十年という短い在位年数のせいもあって、その内容となると物足りない。これに対し武帝は、創業以来六十年、すでに安定した基礎のうえに立つ漢王朝を引き継ぎ、これをさらに発展させ、軍事、政治、外交、経済、文化すべての面にわたって、まことに絢爛たる時代を築きあげた。

この違いは、人材の面から見るとよくわかる。始皇帝の時代に活躍した人物をあげよ、と言われても、丞相の李斯、将軍の王翦ぐらいしか浮かんでこない。ところが武帝の時代となると、多士済々だ。[中略]

この時代に多くの人材が輩出したのは、武帝の人材登用が能力本位に徹し、しかもその選択眼が優れていたからであったし、また、副宰相の卜式は羊使い、大蔵大臣の桑公羊は商人、大将軍として対匈奴作戦に大活躍する衛青のごときは奴隷の出身であった。かれらの能力を見出し、それを発揮する機会を与えたところに、武帝の偉さがあったのである。[中略]

漢の武帝はいろいろな意味で幸運の星の下に生まれてきた皇帝であったように思われる。

出典:守屋洋中国皇帝列伝: 歴史を創った名君・暴君たちPHP研究所/2013年

  • 衛青が将軍になったのは能力というより外戚武帝の寵姫の弟)だったからだろう。将軍で外戚であった李広利には能力は無かった。

  • 引用以外のところでは武帝の批判に言及し曰く、「苛酷な人民使役」をした。

  • 氏の短評は、「功七罪三」。

中国皇帝列伝 歴史を創った名君・暴君たち (PHP文庫)

中国皇帝列伝 歴史を創った名君・暴君たち (PHP文庫)

さらに引用以外のところでは皇帝二人以外に孔子を加えて「教えは孔子より成り、政は始皇より立ち、境は武帝より定まる」と評した史家を紹介している。「境」は版図のこと。

版図拡大だけでなく武帝の内政の後世への影響力は始皇帝を凌ぐものがある。塩鉄専売、五銖銭の中央政府の鋳造独占、専制体制、儒教の復興などなど。

秦漢帝国」という言葉がある。この二つの帝国が後世の中国王朝の性格を決めたのだが、秦始皇帝と漢武帝の寄与度は他の皇帝の比較にならないだろう。



武帝の治世がやっと終わった。丸数字がなくなってしまうのではないかと心配していたほどだ(google日本語入力の丸数字は50までだから余裕だったが)。

思えば、文帝・景帝・武帝と三人名君が続いたと言える。中国王朝の大興隆の時代だが、少なくとも武帝の時代の人民はそれを良き事とは思わなかっただろう。