歴史の世界

前漢・成帝・哀帝の治世

匈奴との友好関係

宣帝・元帝の時代に続き、この頃も匈奴との友好関係は続いていた。匈奴単于が代替わりする度に漢に人質を送っていた。このような関係は前漢が滅亡するまで続く。

外界の強敵は匈奴以外いなかったので、この時代は外から侵略される恐れは無かったといえる。

内政

成帝・哀帝の短評を貼り付ける。

成帝(中国、前漢)せいてい(前52―前7)
中国、前漢の第11代皇帝(在位前32~前7)。姓名は劉(りゅうごう)。父の元帝のころから災害が相次ぎ、また外戚(がいせき)や宦官(かんがん)の横暴も激しく、学問を好んだ成帝もやがて酒色にふけり、宮廷を抜け出しては市内で遊んだりした。紀元前14年には各地で反乱が起こり、皇帝支配の体制は揺らぎ始め、宮廷内も治まらず、王氏、許氏、趙(ちょう)氏などの外戚が権力を争い、とくに王氏の伸張は、のちに王莽(おうもう)の出現を招いた。[尾形 勇]

出典:成帝<小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)<小学館<コトバンク-1553617)


哀帝 あいてい (前26―前1)
中国、前漢末期の第12代皇帝(在位前7~前1)。姓名は劉欣(りゅうきん)。定陶王康の子で、元帝の孫にあたる。3歳で定陶王を継ぎ、嗣子(しし)のなかった成帝(元帝の子)にみいだされて、その後を継いだ。在位中、土地所有額の制限などの改革を試みるが、傅(ふ)氏、王氏らの外戚(がいせき)が勢力を争う状況のなかで、みるべき成果をあげることができず、末年には、のちに新を建国する王莽(おうもう)の活躍する道を開いてしまった。[尾形 勇]

出典:日本大百科全書(ニッポニカ)<小学館<コトバンク-1553617)

以上のように、両皇帝とも後世に残る業績はなかった。wikipedia*1を見ると彼らも考えるなり行動するなりはしていたが、それらは形に残らなかったか失敗した。

王莽が属する王氏一族

結論から言うと前漢外戚の禍により滅亡した。つまり前漢を滅亡させた王莽が外戚の出身だった。

王莽が属する王氏一族は元帝の皇后であった王皇后(元后・王政君)より外戚となる。元帝が亡くなり彼女が皇太后(孝元皇太后)になると王氏一族は権力を握る。王氏一族は軒並み列侯に封建された。王莽もその一人で、前8年に大司馬(軍事のトップ、以前の太尉)となり、新都侯に封建された(これに因んで王莽が立てた国の号は「新」となった)*2

しかし、ここからストレートに滅亡に向かったわけではなく、成帝が亡くなり哀帝が即位すると王氏一族の権力は一時衰えた。

哀帝の親政

哀帝が即位すると、祖母の傅(ふ)太后の弟や実母丁姫の兄弟を列侯に封じる一方で、王氏一族を罪をもって朝廷から排除した。王莽もこの時に大司馬を罷免された*3。ただし傅太后も丁姫も哀帝の治世の間になくなったこともあり、その外戚は王氏一族のようにはならなかったようだ。また王氏一族を朝廷から一掃したわけではなく丞相王嘉や中常侍王閎(こう)の名がある。

哀帝はいちおう親政をしたのだが思ったような業績は挙げられなかったことは既に述べた。哀帝関連で残されている話といえば、男色相手の董賢の話だ。董賢については、私が参考にしている通史の書籍には出てこなかった。それほど重要な人物でもないので載せられなくても別に不思議ではないのだが。

哀帝は眉目秀麗な董賢を「片時も側から離さなかった」という。さらに董賢を大司馬に任じて列侯に立てた。これに反対した丞相王嘉は哀帝の怒りを買い、罪をもって投獄され絶食して命を絶った*4

哀帝は前7年に亡くなった。在位わずか6年。

[哀帝は]嗣子がなかったため、崩御に際し皇帝璽綬を董賢に託したが、太皇太后王氏は詔を発して董賢を罷免し、璽綬も奪った。董賢はその日のうちに自殺した。太皇太后は王莽を大司馬に任命し、政治の実権は王氏が再び掌握することとなった。

出典:董賢<wikipedia

董賢は政治的手腕はまるで無かったようだ。



*1:成帝<wikipedia、哀帝<wikipedia

*2:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p100/上記は鷹取祐司の筆

*3:鷹取氏/同著/p100

*4:董賢<wikipedia

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