歴史の世界

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前漢・霍光政権①:内朝・外朝/恤民政策/塩鉄会議

武帝が亡くなり昭帝が立つ。御年8歳。昭帝を支えるのは武帝が選んだ3人、大司馬大将軍の霍光、左将軍の上官桀、車騎将軍の金日磾(じつてい)*1。3人の実権が確定するとおきまりの権力闘争が起こり、その結果 霍光が独裁者となった。約4000字。

昭帝即位と補佐の3人と内朝・外朝

上記のように昭帝を3人が補佐した。彼らは肩書のとおり軍人で内政に対しての決定権は無いはずだが以下の方法でこれを掌握した。

後元2年(前87)2月、武帝崩御の翌日、皇太子は即位し(昭帝 前94~前74、在位前87~74)、霍光が政務を執って尚書の事を領し、金日磾と上官桀がその副となった。この時、霍光が領した尚書は少府の属官で皇帝への上書の取り次ぎや詔書の草稿作成を担っており、官秩は高くないが非常に重要なポストであった。霍光の尚書掌握によって、従来の官僚機構を統括する丞相・御史大夫とは別に皇帝側近に新たな権力中枢が出現することとなった。前者を外朝、後者を内朝と呼ぶ。前漢後半期の政治を特徴づける内外朝の対立の種はこの時に播かれたのである。

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p94/上記は鷹取祐司の筆

昭帝即位当初の政治状況・恤民政策

昭帝即位当初は、二つの相違する民生政策が併存していたことが判明する。その一つは、使者を民間に派遣して民情を視察し、賢良を推挙させて民情を諮問し、貧民救済のために種子食料を支給して田租を免除するという恤民政策であり、他の一つは、屯田政策を再開して国家財政を増強しようとする富国強兵政策である。

前者は大将軍霍光を中心とする内朝の政策であり、後者は御史大夫桑弘羊を中心とする外朝の政策である。しかも武帝時代以来の塩鉄専売制や均輸・平準法は桑弘羊の管掌のもとになお継続されている。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p297

武帝の死の直前に「輪台の詔」により富国強兵政策の方針は中止され、恤民政策に転換された。

恤民政策とは儒家思想から出ている。儒家が庶民の貧窮を上書した例は文帝代の賈誼(かぎ)より有り(格差社会に対する対応参照)、恤民政策はその延長上にあるものと思われる。またこの政策は前漢初の休民政策(休民政策参照)と同様のものであり、武帝代の労役で疲弊した庶民に休養を与えようというものだった。

ただし、儒家の後ろには霍光のほかに塩鉄専売制や均輸・平準法で利益を国家に吸い上げられている商工業とそれに結びついている豪族たちがいる。*3

いっぽう、桑弘羊率いる外朝の富国強兵政策は「輪台の詔」で却下されたその案を実行した。つまり西域にある輪台地方に屯田を開き、北方からの侵攻に対して防備を厚くした。

積極的な対外政策の理由は、尾形勇氏によれば*4、防衛目的の他に「それ以上に、国内に満ちていた困窮した農民たちの政策を安定させるために、新しい農耕地を開拓する必要に迫られた」。

ちなみに、官僚機構のトップであるはずの丞相という職は武帝により権力を取り上げられていた(官僚登用制度参照)。そしてそのリーダー・まとめ役は御史大夫ということだ。昭帝即位当初の丞相は車千秋(田千秋が改名した)であったが、もともと権力のない彼は霍光に逆らうことなく過ごしていた。

以上のように霍光率いる内朝と桑弘羊率いる外朝の二つは、政策・思想の上で大きく分かれて対立するようになった(桑弘羊は法家の流れをくむ)。

塩鉄会議

[桑弘羊の富国強兵政策の]方針に儒学者は「国家が民間と利益を争うことは卑しいことである」と批判し、国家権力の参入によって「民業圧迫」の状態に陥って大打撃を受けた商人たちも不満を強めていった。武帝の死後、政権に参加するようになった外戚の大将軍霍光は、こうした批判を受けて政策の修正を図ろうとした。だが、桑弘羊らがこれに強く反対した。このため、昭帝の始元6年(紀元前81年)に、民間の有識者である賢良・文学と称された人々である唐生・万生ら60名を宮廷に招いて、丞相・車千秋、御史大夫・桑弘羊ら政府高官との討論会(塩鉄会議)が行われた。

法家思想に基づいて「価格の安定によって民生の安定を図っている」と唱える政府側と、儒家思想に基づいて「国家の倫理観の問題に加えて、政府の諸政策の実態は決して民間の需要にかなっているわけではないために、かえって民生の不安定を招いている」とする知識人側との議論は、財政問題から外交・内政・教育問題にまで及ぶなど激しい議論が続けられた。議論自体は知識人側の優位に進んだものの、具体的な対案を出せなかったために結果的には現状維持が決められ、さらに翌年、桑弘羊が別件で処刑されて霍光が政権を掌握した後も、実際の財政状況が深刻なものになっていることが判明したためか、酒の専売を廃止した他は、そのまま前漢末期まで維持されることとなった。

出典:塩鉄論<wikipedia

この会議は霍光の外朝に対する攻撃の一部だろうが、儒家が外朝の方針に対する有効な対案を打ち出せなかったために、上のように、現状維持が決定され、「桑弘羊が別件で処刑され」た後も(後述)、霍光は桑弘羊の築きあげた政策を使い続けた。結局、霍光は恤民政策と富国強兵政策を併用したことになる。

政争から霍光の独裁へ

ない蝶を握っていた三将軍(同時に尚書)のうち、金日磾は前86年に病死した。霍光と上官桀は婚姻関係を結び、さらに霍氏と上官氏は昭帝の外戚となっていっそう内朝に勢力をもつにいたった。

しかし上官桀・上官安親子は婚姻関係を利用して蓋長(がいちょう)公主・燕王旦の姉弟などの皇帝一族の者との結びつきを強めはじめたため、しだいに霍光とのあいだに溝が生じてきた。これに外朝を支配していた桑弘羊がからみ、政界が二分される対立が生まれたのである。すなわち、前81年に霍光はその人事権を活用して自らの部下であった楊敞を大司農に任命し、外朝にも勢力を伸ばそうとはかったため、桑弘羊は対抗上から上官桀一派と接近するようになったのである。

上官桀・桑弘羊の一派は前80年、霍光を忙殺して昭帝を廃し、燕王旦を帝位に即ける計画を立てたが、この計画は未然に発覚した。同年、上官桀・桑弘羊一族は上官皇后以外はすべて誅殺され、蓋長公主・燕王旦は自殺した。これが第二次燕王謀反事件である。

政敵をすべて壊滅させた霍光は、内朝と外朝をともに自らの権力で支配し、前77年に昭帝が元服(18歳)しても、その実権は変わらなかった。とくに内朝には子の霍禹をはじめ霍氏一族の者をつぎつぎに登用し、霍氏一族の独裁ともいえる状況をつくりだした。政策のうえでは、桑弘羊の富国強兵策にかわって租税の減免、対匈奴和平を推し進め、民力の回復をはかった。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p421-22/引用部分は太田幸男氏の筆

  • 大司農とは国家財政を仕切る役所の長、つまり今で言う財務大臣だが、昭帝即位当初は国家財政はこれを欠官とすることで桑弘羊が仕切っていた。これに対して霍光が配下を大司農に押し込んだということだ。

こうして独裁が始まったが、霍光は桑弘羊の富国強兵策を一気に潰すようなことをしなかったことは塩鉄会議の節の通り。霍光政権の政治の中身について私の参考図書には数行程度しか書いていないが、総じて慎重だったようだ。西嶋氏によれば*5、恤民政策がほとんど連年のように発布され、「匈奴ともほぼ和親関係が続き、武帝時代以来の民間の疲弊もかなり救済されて、百姓充実したと伝えられている」。



*1:霍光<wikipedia

*2:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p370/引用部分は太田幸男氏の筆

*3:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p420/引用部分は太田幸男氏の筆

*4:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p324/上記は尾形氏の筆

*5:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p316