歴史の世界

前漢・武帝⑪:運河 漕運/灌漑/治水

太田幸男*1によれば、武帝の時代に大規模な運河がいくつも作られた。治水・灌漑・漕運の3つの目的を兼ねたものが多かったとのこと。約3000字。


前132年 黄河、大氾濫。以後二十数年にわたり修復できず。
前126年 漕渠開通。
前109年 前132年に決壊した場所をようやく修復する。
前95年  白渠開通。


まずは黄河の地図

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出典:黄河wikipedia*2

  • Weiが渭水渭河)、Jinが涇水(涇河)、Luoは洛水(洛河)。
  • Xi'anが西安長安。上の地図の場所ではなくて、本当の位置は渭水と涇水合流地点の南側。
  • 「Luo」と書いてある川は現在「北洛河」と言われ、Xi'an(西安)の南から発する川が「南洛河」と言われる。

漕運

漕運とは船を使って物資を運搬すること。前述の太田氏*3によれば、漕運は武帝の時代からいちだんとその必要性が増した。理由は塩鉄専売と均輸法・平準法の大量の物資輸送の国家事業のためだ。

長安山東(崤山こうざん以東の地。現在の河南省西武より東の地)を結ぶ輸送はおもに黄河渭水が利用された。しかし、急流な黄河を遡ることの困難さとともに、砥柱の険と呼ばれる三門峡付近の難所が漕運を苦しめた。したがって陸送も併用されることが多かった。渭水の遡行にも困難が多かったが、南方に渭水と並行する運河の開鑿が鄭当時によって提案され、武帝が認めて三年間に及ぶ大工事がおこなわれ、前126年に開通した。漕渠(そうきょ)と呼ばれるこの運河によって、航行期間を半減させることができた。

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出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p415/引用部分は太田幸男氏の筆

・この漕渠は灌漑用水路としても使われた。

・砥柱とは「河南省三門峡市の黄河中にある柱のような山の名で,黄河の流れの最も速い所にそそり立っている。」*4

・三門峡市は洛陽市の西側にある。

灌漑

武帝時代に掘削した灌漑用水路で有名なのが白渠。上の図28にも載っている。

前95年に白公の建議によって開削された白渠(白公渠)は、ちょうど鄭国渠(図28参照)の南に位置し、涇水と渭水を結ぶ全長80キロ以上におよぶものである。これによって、4500頃(けい)(約80万アール)の農地が灌漑されたといわれ、漢代においては渭水盆地を潤す二代運河をあわせて鄭白渠とも呼ばれていた。そしてこれらの新耕地には、全国各地の災害地からまとめて徙民(しみん)される事が多かった。

出典:前掲書/p416

・徙民は強制移住という意味(だと思う)だが、ここでは救済のために住む場所を与えたような意味になっている。

・「全国各地の災害地」とは後で紹介する黄河大氾濫で被害にあった地域のこと。

上の引用ではポジティブなことしか書いていないが、ネガティブな後日談がある。

白渠が作られた黄土高原と関中盆地の境界地点は、元来、乾燥すればアルカリ化する地勢にありました。畑作灌漑を行うと、毛細管の原理が再び働き出します。集積していた塩は、灌漑すればいったん洗い流されますが、畑では水の供給が止まると表土が乾燥します。その場所の地下水位が、毛細管による地表への上昇可能な程度の深さしかないと、塩分は再び昇ってくるのです。一次的なアルカリ地の場合とは異なり、すでに一度灌漑されて塩分が地下に溜まった土地では、上昇しいた地下水が蒸発する時、重炭酸たトリウムなどが生成され、再生アルカリ化という現象が発生します。再生アルカリ化は水に溶けない物質です。もう灌漑によって洗い流すことはできません。つまり稲作しないで灌漑する畑作地は、鄭国渠建設以前より、さらに農作物に有害な土地に代わってしまうのです。

出典:原宗子(もとこ)/環境から解く古代中国/大修館書店・あじあブックス/2009年/p145-146

・「鄭国渠建設以前より」という部分は「白渠建設以前より」の間違いだと思う。

・鄭国渠は塩害を発生させないために稲作(水稲田)を利用した。空気と毛細管を接触させなければ塩類は集積できない*5

原氏は、灌漑地だけでなく運河の下流にまで被害が及んだとしている*6。さらには「白渠の灌漑は、多額な財政支出を投与しながら、実行が上がらないどころか、被害を発生させた、典型的な「お上の公共事業」だったと思われます」としている*7

また、原氏は、史書にはこのような失敗談が記述されないことも指摘している。だから「その後二千年経っても、再生アルカリ化の悲劇が繰り返されたのです」*8とも。

治水

治水事業は主として黄河の氾濫への対応として進められた。黄河は前138年と前132年に大氾濫があったが、とくに後者の場合は水流が鉅野沢(きょやたく)(山東省泰安市の南西)や淮水・泗水(しすい)にまでいたり、現在の山東・河南両省の広大な地域に被害をもたらした。武帝は10万をこえる人民をこえる人民を動員して復旧をはかったが、決壊した箇所の瓠子(こし)(河南省)では20年以上も堤防が修復できず、被害地域には繰り返し飢饉がおそった。武帝は前109年、自ら決壊箇所に赴き、官僚を直接指揮して大工事を推進し、堤防を完成させるとともに、北方に向けて二本の運河を開いて河水を分流させた。以後黄河下流地方は安寧を得ることができた。

出典:太田氏/同著/p415

鶴間和幸氏によれば*9、前109年に堤防を完成させたのは汲仁(きゅうじん)と郭昌(かくしょう)であって、武帝は前年に泰山で封禅を行った旅の帰りに立ち寄っただけだった(ちなみにこのとき司馬遷が郎中(側近)として随行していて武帝に言われて手伝いをさせられたという。司馬遷はここで見聞きしたことを『史記』の「河渠書」にまとめた)。

前132年の大氾濫から前109年まで修復できなかった理由は、武帝が治水よりも対匈奴戦争を優先したからだ、と鶴間氏は主張している*10

もうひとつ、前掲の原氏の本によれば*11、漢代から黄河の大規模な決壊の記録が出現すると書いてあった。しかし漢代以前の記録はおそらく統一秦の時代に焼かれてしまったので*12記録がないのは当然かと思う。



*1:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p415/引用部分は太田幸男氏の筆

*2:著作者:Shannon/ダウンロード元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3#/media/File:Yellowrivermap.jpg

*3:*1に同じ

*4:白水社 中国語辞典<Weblio

*5:p118-123

*6:p145

*7:p152

*8:p152

*9:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p205

*10:同著/同ページ

*11:p145

*12:焚書wikipedia

前漢・武帝⑩:算緡令・告緡令/均輸法・平準法/桑弘羊

前回の記事経済関連その1において塩鉄専売という商人の一番の利益を謂わば横取りするようなことをして利益を得たが、今回の増税策でも商人たちがターゲットになっている。前漢の経済官僚として有名な桑弘羊は商人出身だが、このような政策を推進したのは彼だった。約2300字。


前123年 対匈奴戦争7年目のこの年、財源不足に陥る。
前119年 塩鉄専売。算緡令。
前118年 告緡令を出し、財産隠匿の告発を推奨する。*1
前115年 均輸(法)、試行開始。
前114年 再び告緡令を出し、告発者に対して没収財産の半分を与えることにする。*2
前113年 五銖銭以外の貨幣を廃止し、貨幣発行を中央政府独占とした。
前110年 均輸(法)、本格的に施行。平準(法)施行。


増税策。算緡令と告緡令

算緡令は財産税の増税。これを脱税した者を告発することを推奨したのが告緡令。

前漢の税の項目の中に算貲(さんし)がある。貲は財産の意味で算貲は財産税を意味する。これの課税は一般には一万銭につき120銭を課した。

前119年に算緡令を出して、商人に対して一般の5倍の二千銭につき120銭、手工業者に対しては2.5倍の四千銭につき120銭を課した。申告漏れが有った場合は、財産没収の上に一年の辺境防備を課した。

告緡令は上記の通り。重いペナルティにもかかわらず、正確に申告する商人がわずかだったため、二度にわたって告緡令を出した。告発者には没収金額の半分を与えられた。この告緡令のせいで中産以上の商人の大半が破産したという。*3

その他の増税策としては算車令・算船令(馬車と船のオーナーに課せられる税)がある。一般人の増税に関しては口賦(7~14歳までに課した人頭税)を20銭から23銭に増税した。*4

以上の税制改革によると、増税の対象は主として商人であり、農民に対してはごくわずか、または自宅品を対象とするものだけである。このことは、専売制や均輸・平準とも共通するものがあり、秦以来の重農抑商策をいっそう強化して、商業利潤を国家に吸い上げることによって財政の安定を実現しようとする意図は明らかである。

出典:太田氏/同著/p413

均輸法・平準法の実施

均輸法は前115年に桑弘羊(そうくよう)が建議して試行され、前110年に施行された。

これが施行する前は中央政府が必要とする物資の調達を各地方の商人に依存していたが、均輸法により、全国の各県に均輸官を設置し、大農(財務省に相当)には数十人の専門官を置き、物資の調達を国で扱うことにより、それまで商人たちが手にしていた利益を国が得ることとなった。

平準法は前115年に施行された。こちらも桑弘羊によって指揮された。

大農の下に平準官を設置し物資を中央に集積し、ある地域である商品が供給過剰になると均輸官を利用してこれを安値で購入し平準官の倉庫に納入する。逆に供給不足で高騰した場合は倉庫から搬出して高値で売る。こうして国が利潤を儲けると同時に物価安定の役目も果たした。

均輸法・平準法は表裏一体のものであった。この政策の成功により財政は改善したが、商人らは大打撃を受けた。*5 *6

経済官僚・桑弘羊

前回の記事経済関連その1に初期の経済政策を主導したのは酷吏として有名な張湯だったことは書いた。張湯は前115年に自殺した。その直後かどうかは分からないが、彼の後に経済政策を主導したのは桑弘羊だった。

洛陽にて商人の子として生まれる。13歳の時にその計算上の神童ぶりにより宮廷に入り、武帝に侍中に任用される。武帝が連年軍事行動を起こし財政危機に陥ったが、元狩3年(前120年)、商人の孔僅等とともに財政建て直しとして、塩・鉄・酒の専売制を実施し大きな効果を挙げる。その功績により大司農中丞に任命され、任命後は均輸法を推進した。

元封元年(前110年)、孔僅が船車税の反対により失脚すると、治粟都尉に登用され、中央に平準官、地方に塩鉄官、均輸官を設置してその政策を具体化し、各地の物流を調整して財政収入を向上させ、左庶長の爵位を与えられた。

出典:桑弘羊<wikipedia

・当時の治粟都尉は大農(財務省に相当)の実質的統括者*7

塩鉄専売と均輸法・平準法の両方の主要人物となって働いた。武帝の時代は彼のような庶民あがりの秀才が武帝の専制を背景にして活躍できる時代だった。



*1:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/付録p39(年表)

*2:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/付録p39(年表)

*3:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p413-414/引用部分は太田幸男氏の筆

*4:太田氏/同著/p413

*5:太田氏/同著/p412

*6:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p247-248

*7:西嶋氏/同著/p232

前漢・武帝⑨:塩鉄専売/五銖銭と貨幣の中央政府独占発行

武帝の前の二代にわたる治世は文景の治と呼ばれ讃えられている。民の生活の安定に重きを置き、金銭的・人的コストが酷くかかる対外戦争は避ける方針を採った。この結果国庫は潤い備蓄の食料が腐るほどだったという。

しかし武帝の対外戦争は四方に敵を作り、財政は当然のごとく赤字だった。そして対匈奴戦争開始より7年目の前123年についに財源不足に陥った。*1

世界史を眺めれば無謀な領土拡大戦争をして王朝を傾けたり潰した君主は何人もいるが(ユスティニアヌス1世など)、武帝はなんとかその汚名を免れた。財政を立て直すことができたのは、矢継ぎ早に実施された幾つもの経済政策と、この政策法律に違反することを許さない酷吏の存在にある。

酷吏については別の記事で書くことにして、まずは経済関連から書こう。このページでは塩鉄専売と五銖銭について記す。約3300字。


前123年 対匈奴戦争7年目のこの年、財源不足に陥る。
前119年 塩鉄専売。
前115年 均輸(法)。
前113年 五銖銭以外の貨幣を廃止し、貨幣発行を中央政府独占とした。
前110年 平準(法)。


経済政策は、酷吏として有名な張湯によって始められた。前121年張湯は御史大夫になった。当時は丞相の権力を低下させていたため御史大夫が政治のトップの役割を担っていた*2wikipediaの張湯のページでは「張湯は武帝の意を受けて白金や五銖銭鋳造、塩鉄専売化、豪商の排斥、告緍令などを進言した」と書いてあり、御史大夫の立場で経済政策を指揮したのは彼だった*3(張湯と官僚機構については別の記事で書く)。

塩鉄専売

塩は食生活にも人体にも不可欠なものだが、その生産地は限られていた。東方の海岸で採れる塩の他に内地の幾つかの生産地があるのみであった。

また、鉄も人びとにとって不可欠なものになっていた。漢代に入り農具として鉄製品が普及していたからだ。この生産もまた限られていた。

それだけに製塩・製鉄業者または販売者は莫大な利益をあげてきたが、中央政府がこれらを専売にすることで莫大な利益を独占した。

武帝の意を聞きながら専売制の総括的指導をしたのは御史大夫張湯であった。まず大農令〔今の財務大臣〕であった鄭当時の推薦により山東の大製塩業者東郭咸陽と南陽河南省南陽市)の大製鉄業者孔僅を抜擢して大農令の副官とした。つぎにこの二人は上申して製塩業と製鉄業の管轄を帝室財政担当の少府から国家財政担当の大農に移すことをはかり、認められた。目的は国家財政収入の増大にあることはいうまでもない。つぎに前119年にこの二人は塩鉄専売の具体案を建議し、武帝の裁可を得た。ただちに二人はおのおの全国を巡察して、鉄鉱石の産地50ヶ所に鉄官、製塩業がいとなまれておた36ヶ所に塩官を設置した。ここまでの塩と鉄の専売化の手順は同じであるが、以後は異なっている。鉄の場合は国家の直接管理をはかり、鉄官に官営の冶金・鋳造の作業場を付属させて製鉄を国家直営とした。鉄官の官吏には孔僅が各地で採用した実務経験者が多くを占めた。労働力は一般農民の更卒[労役か強制労働]、労働刑に処された囚人、官奴婢をあて、専門の工匠も配置した。

鉄官には農器の製造工場も付設されていたとする説もあるが定かではない。しかし、生産された鉄の多くは農器具につかわれたであろうことはまちがいなく、鉄のほかの重要な用途である武器は別の官営工場で生産されたと思われる。鉄を産しない地域には小鉄官がおかれ、各県に所属して廃鉄の回収と再生産を管理した。しかし、現在までに発掘されている前漢代の鉄鋼遺跡には鉄官のおかれなかったところもあり、厳しい処罰にもかかわらず私鋳がおこなわれていたこともうかがわせる。

塩の場合は、製塩をおこなったのは募集に応じた民間業者であり、設備・器具は塩官の管理下におかれた。生産品は塩官がすべて買い上げ、以後販売は国家の手に委ねられたと思われる。

この両専売制は、一部の商人から反発があったものの順調に進められ、国家財政の再建に絶大な貢献をしたことはまちがいなく、武帝後期の対外遠征を保障する有力な財源となった。なお、前78年には全国に𣙜酤(かくこ)官がおかれて酒の専売も試みられたが、その内容など具体的なことは不明である。

出典:松丸道雄他編/世界歴史大系中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p411/引用部分は太田幸男氏の筆

なお、尾形勇氏によれば、鉄官で作られた農器は高価で粗悪で農民を苦しめた。*4

五銖銭と貨幣の中央政府独占発行

古代中国の貨幣の歴史を少し遡る

はじめて貨幣制度を統一したのは、秦の始皇帝の半両銭であった。この半両銭の形態は漢代にも踏襲された。しかし、高祖のときに民間の鋳造が許可されたので、その一個の重量はだんだん小さくなり、楡(にれ)の莢(さや)の大きさにまで縮小した。これがいわゆる楡莢銭(ゆきょうせん)である。秦の半両銭の重量が約7.5グラムであったのに比べて、これは、1.5グラム前後、その最小のものはわずか0.2グラムしかなかった。

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出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p252-253

中央政府は私鋳の許可と禁止を繰り返した。さらには8銖(1両 = 24銖)の半両銭を作ったり五分銭(重量が半両の五分の一)を作ったり試行錯誤している。

三銖銭・皮幣・白金の貨幣

さて、武帝の治世、前120年、中央政府はついに「半両銭」を廃止した。すなわち表面の「半両」の文字をやめた。そして新しく三銖銭を作った。これには表面の文字は重量と同じ「三銖」とした。戦国時代から続いた半両銭をやめるという一つの画期となった。

同年、白鹿の皮で作った皮幣(ひへい)*5を白金の貨幣を作った。

しかしこの三つ、三銖銭・皮幣・白金の貨幣、すべて一年で失敗した。盗鋳を死刑をもって禁じたが防ぐことができなかったからだ。*6

五銖銭と中央政府独占発行の成功

五銖銭は前118年に初めて発行された。重量は五銖で額面も五銖の円形方孔銭(四角い穴のあいた丸い硬貨)である(上の画像参照)。当初は複数の貨幣と共に扱われていた。

盗鋳がなおも頻発する中で、前120年、中央政府は貨幣鋳造権を郡国だけに制限したが、それでも盗鋳の頻発はおさまらずに死罪になる吏民は数十万人を数えた*7。さらには各郡国の鋳造の品質も不統一だった*8

以上のような問題を受けて、前123年、政府は貨幣鋳造権を中央官庁*9の独占とし、五銖銭以外の貨幣を廃止した*10

こうして五銖銭の品質が統一・保持され、五銖銭の経済価値が当時の経済状況に適合されていたため*11、これ以降、貨幣政策は安定した。

さらにこの五銖銭の形態は中国貨幣の基本形式として踏襲されて唐代の開元通宝(621年制定)の出現まで約700年継続した。*12



*1:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p86/上記は鷹取祐司の筆

*2:御史大夫wikipedia

*3:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p408/引用部分は太田幸男氏の筆

*4:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p327

*5:google画像検索「皮幣」で検索すると出てくる:おそらく中国のサイト

*6:西嶋氏/同著/p253-254

*7:鷹取氏/同著/p87

*8:西嶋氏/同著/p255

*9:五銖銭<wikipedia参照

*10:鷹取氏/同著/p87

*11:鷹取氏/同著/p87

*12:西嶋氏/同著/p255

前漢・武帝⑧:第二期対匈奴攻戦

第一期対匈奴攻戦は以前書いた。前134年~前119年。衛青・霍去病が活躍し、匈奴を北方へと追いやった。しかし第二期の戦いでは漢の軍事作戦はほとんど失敗し、多大な戦費と人命だけを消費した。武帝は前89年、この戦争から手を引くことを決断した。対外戦争、領土拡大方針の終焉である。約1900字。


前103年 第二期対匈奴攻戦 始まる。
前91年 李広利、戦いに敗れて投降する。
前89年 輪台の詔。武帝の対外戦争が終わる。


戦争の前段階

「第二期対匈奴攻戦」は前103年から開始されるが、この前に漢と匈奴との間に幾度かの交渉があった。

原宗子(もとこ)氏によれば、この頃寒冷化が進んでいた。これが匈奴を弱体させた原因だという *1。 一方、太田幸男氏によれば、匈奴は漢と西域諸国との交流に対して諸国に圧力をかける一方で漢とは和親関係の回復への交渉を望んだ *2

漢帝国側は、東南勢力の攻略が一区切りつけた(東南勢力併合参照)あとに、匈奴との交渉を本格化させた。

…漢は郭吉を匈奴に送り、匈奴に漢の臣下となるよう交渉させた。単于烏維(うい)は怒って郭吉を留置し、北海(バイカル湖)のほとりまで流刑としたが、漢の国境地帯に侵入する勇気がなかったので、たびたび使者を漢に送っては講和を申し込んだ。そこで漢は楊信を送り、講和する条件として、単于の太子を人質として漢に差し出すように要請した。しかし、漢側が公主と絹・綿・食物などの品々を匈奴に送ってから講和する従来の立場と違うとし、使者を送り返した。また漢は王烏を使者として匈奴に送ったが、単于が漢の高官とでないと交渉はできないとし、匈奴の貴族を使者として送ってきた。しかし、その使者が漢に到着すると病気で死んでしまい、漢は高官として路充国を送ったが、単于匈奴の貴族が漢によって殺されたと思いこみ、路充国を留置してしまった。これにより交渉は決裂し、匈奴はたびたび漢の国境地帯に侵入するようになった。

出典:烏維単于wikipedia

上のことは烏維単于が死去する前105年より以前のことだ。

単于(烏師廬うしろ単于)が烏維単于の後を継いだが、漢は分裂工作として単于と右賢王(単于に次ぐ地位)のそれぞれに使者を出した。単于はこれに怒って両方の使者を捕らえ抑留した。

戦争の開始と終わり

弐師将軍李広利が大宛遠征を行っていたころ、匈奴の地方に大雪があり、家畜多数が飢餓と寒さのために死ぬという事態が生じた。これによって匈奴の社会が生活の不安におびえていたとき、単于とその左大都尉との間に争いがおこった。それは年少の単于が人を殺すことを好んだため、左大都尉がこの単于を殺して漢に降伏しようとしたことによる。

この報らせを受けた漢は、受降城(帰綏きあん市の西方)を築いてこれを待つことにしたが、さらに太初二年(前103年)春、左大都尉を援助するために、浞野(さくや)侯趙破奴(ちょうどは)に二万騎を率いさせて匈奴の奥地に向かわせた。まさに十六年ぶりの対匈奴出兵である。ところが、趙破奴の軍隊が到着する前に、単于は左大都尉を誅殺し、八万騎の兵で趙破奴の軍を包囲し、かれを捕虜とした。そのために、漢軍二万騎は全員匈奴に降伏してしまった。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p233

この後も交渉と戦闘が続いたがいずれもうまくいかなかった。大宛攻略で功をあげた李広利はこの戦いの中で敗れて匈奴に投稿し、一度は単于に寵愛されたものの閼氏(えんし、あつし、単于の妻)が病気になった時に神に捧げる犠牲として殺されてしまった。*3

戦果もなく巨額の戦費と多くの人命を失うこの戦争に、武帝は前89年、ついに対外戦争に終止符を打った(輪台の詔)。

ただし、漢と匈奴の紛争と交渉はこの後も続くことになる。



*1:原宗子/環境から解く古代中国/大修館書店・あじあブックス/2009/p163(ただ寒冷化がいつから始まったのかは書いていない)

*2:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p401/引用部分は太田幸男氏の筆

*3:西嶋氏/同著/p238-240

前漢・武帝⑦: 西域支配

西域とはおおまかに言って中央アジアのこと。「古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称」*1

前漢及びそれ以前の漢人は西域について詳細な知識を持っていなかった。張騫によって初めてもたらされた。張騫の「冒険譚」は『史記』の大宛列伝にかかれているが、それはマルコポーロの『東方見聞録』やコロンブス以降の新大陸「発見」と比較すべきものである。3600字。


前139年頃 張騫、長安から月氏に向かい出発。まもなく匈奴に捕まり、十数年も勾留される。
前120年代前半 張騫、匈奴から脱出して月氏の住む地に到達するが、目的は果たせず帰国に着く。再び匈奴に捕まり1年余抑留される。
前126年 張騫、長安に戻る。
前119年 張騫、再び西域に出発。目的は烏孫匈奴挟撃の協定を結ぶこと。 前115年 張騫、目的を果たせず帰国。しかし張騫は西域諸国に使者を派遣し、その後諸国との交流、通商が盛んとなった。
前114年 張騫死去。

前104年 武帝、大宛に使者を派遣し千金で汗血馬を求めるも、拒否されたうえに使者を殺される。
同年   武帝、李広利を弐師将軍に任じて大宛を攻めさせる。失敗する。
前102年 再び李広利が大宛を攻めた。今度は成功し、大宛は王を殺し、その首級と汗血馬を差し出した。


張騫と西域

張騫の壮大な物語は以下のきっかけにより始まる。

月氏族は、もともと現在の甘粛省方面に居住していた種族であったが、強度の冒頓単于に攻撃されて西方に追われ、しかも、老上単于のとき、月氏王は匈奴のために殺されて、その髑髏(しゃれこうべ)は酒器にされたという。だから、月氏族はたとえ西方に逃れていても、匈奴に対する怨みを忘れているはずがない、と考えられていたのである。しかもこの話は、当時二十歳に達していなかった青年武帝が、匈奴の降人から直接に聞いたところである。月氏族と手を握るという武帝の夢はふくらみ、その使者を郎官の中からつのることとなった。そして、張騫がこの使者に選ばれた。

出典:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p224

武帝が「二十歳に達していなかった」時期だから、まだ外征を始める前どころか実権掌握すらできていない時にすでにこの計画は実行されていた。張騫が月氏に向けて出発したのは前139年頃とされる。武帝が即位して3年くらいしか経っていない。

張騫の西域冒険譚

張騫は漢中郡の人で、武帝治世の初期に選ばれて郎になった。郎は今で言えば官僚のキャリアみないなものか。出世コース上にいる人だった。しかし『史記』大宛列伝によれば、このプロジェクトの公募に張騫が自ら応募したとのことだ。

前139年頃、100人ほどの使節団を伴って長安を出たが隴西(今の甘粛省)を出たところですぐに匈奴に発見されて捕まってしまった。張騫は殺されなかったものの十数年も抑留された。その間妻を娶って子を授かっていた。

十数年の抑留の後、脱走に成功した張騫は西へ月氏へと向かった。途中大宛(フェルガナ)に到達した時大宛国王に歓迎され、月氏の場所を教えてもらえたばかりか康居国(こうきょこく・ソグディアナ)まで送ってもらった。

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出典:木村精二他監修/詳説世界史図録/山川出版社/2014/p39

康居国に送られて張騫はついに目的地である月氏の地にたどりついた。しかし目的は果たせなかった。たどり着いた月氏は確かに匈奴に殺された月氏王の子が王をつとめる国だったが、安住の地を得た彼らはもはや匈奴と事を構える意志はなかった。

張騫はこれ以上の説得が無駄であることを悟ると帰路についた。匈奴に捕まらないようにタリム盆地の南側(シルクロードの西域南道)を使ったが、その甲斐虚しく匈奴に捕まってしまった。再び抑留されることになるが、残していった妻に再会したという。

抑留されてから1年余で張騫は再び脱走し、前126年、長安出発から13年後にようやく長安に戻ってきた。戻ってきたころは衛青による第三次遠征(前127年)と四次遠征(前124年)の間だ。*2 *3 rekishinosekai.hatenablog.com

張騫、インドへの道を探る

西南諸民族攻略の記事で引用したが、張騫はインドへの道を探るために西南の地を探検した(記事参照)。何時の頃かについては書かれていなかった。西域からの帰国から再び西域に出発するまでの間のことらしい。

張騫、再び西域へ出発

今度も対匈奴対策になるが、交渉相手は月氏ではなく烏孫になった。つまり烏孫と組んで匈奴を挟撃しようという話だ(前119年)。

張騫は匈奴に捕まることなく烏孫の住む地にたどり着けたが、今度も目的を果たすことができずに帰国した(前115年)。

しかしこの旅でも大きな利益を産んだ。張騫は西域諸国に使者を派遣して諸国から漢への使者をもたらした。この行為がその後の通商を盛んにして、西域を貫く道をシルクロードと呼ばれる重要な道に変えた(といっても西域の人びとはもっと大昔から利用していたわけだが)。

前114年、張騫死去。

「張騫」の重要性

張騫は漢帝国に西域の詳細な報告を提出した。『史記』の大宛列伝や『漢書』の西域列伝の記事は張騫のこの報告に基づくものである。

漢帝国およびそれ以前の中国歴代王朝は西域やインド、さらにその西方に関する詳細な知識を持たなかった。匈奴のような遊牧騎馬民族との交流によって断片的な知識を持つに過ぎなかった。例えばインド(身毒)の存在は知っていたらしいがその場所は知らなかった(西南諸民族攻略の記事参照)。

張騫の報告によって詳細を知り、また張騫によって為された諸国との交流が漢人の地理的視野を拡大させた。そしてそれは西域諸国他にも言えることだ。

「西域」の読み方

「西域」は、中国人が自分たちの西方の地域や諸国を総称したことばです。狭義には現在の中国西部の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面をさします。読み方には(1)[サイイキ](2)[セイイキ]の両方あり、辞書類の扱いをみても(1)を採るもの(2)を採るもの、両方を採るものとマチマチです。しかし、歴史・文化部門の用語としては、古くから[サイイキ]と読まれ、東洋史などの専門家の慣用的な読みは[サイイキ]です。また、同音語の「聖域」[セイイキ]との混同が避けられるということからも、「西域」を歴史的な用語として放送で使う場合には、[サイイキ]と読んでいます。ただし、現在の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面を主にさして言う場合は、[セイイキ]と読んでもよいことにしています。[中略]
(『ことばのハンドブック』P72、P73、P99 『日本語発音アクセント辞典』P331、P336、P469、P475参照)

出典:「西域」の読み方は? <放送現場の疑問・視聴者の疑問<NHK放送文化研究所

李広利と大宛

汗血馬をめぐる戦争

西域から漢へ珍しいものが多くもたらされたが、武帝が関心を寄せたのは汗血馬だった。汗血馬は血の(ような)汗をかき一日千里を走る名馬のことである。

使者によれば汗血馬は大宛の弐師城に隠し置かれているという。武帝は大宛に使者を派遣し千金で汗血馬を求めさせた(前104年)。しかしこれを断られた上に使者を殺されたために、武帝は同年李広利を弐師将軍として大宛を攻めさせた。

李広利は武帝の愛妾李夫人の長兄だ。第一回目の遠征は惨めな失敗に終わったが、二回目の遠征は準備万端にして大宛を攻め、勝利することができた。

大宛は漢の要求を拒否した王を殺し、その首級と汗血馬数十頭などを差し出した。*4

この李広利は次の第二期対匈奴攻戦の主役になる。



「西域」という語は『史記』では使用されておらず、『漢書』で現れたらしい。

*1:西域<wikipedia

*2:西嶋氏/同著/p224-225

*3:張騫<wikipedia

*4:李広利<wikipedia

前漢・武帝⑥ :衛氏朝鮮攻略

武帝治世の朝鮮半島北部に衛氏朝鮮という国があった。衛氏朝鮮の王は漢人で、現地諸民族の併呑と漢からの流入者で国は栄えた。三代目の朝鮮王が漢の言うことを聞かなくなったため武帝はこれを攻め滅ぼした。約1000字。


前108年 衛氏朝鮮、滅亡。「漢四郡」が置かれる。


衛氏朝鮮の興亡

衛満
生没年不詳。衛氏朝鮮の建国者。紀元前2世紀初めの中国、燕(えん)の人で、『史記』によれば前195年、燕王の盧綰(ろわん)が漢に背いて敗れるや、衛満は魋結(ついけつ)(さいづち髷(まげ))をし、蛮夷(ばんい)の服を着て、1000余人を率いて水(はいすい)(鴨緑江(おうりょくこう))を渡り、朝鮮の地に移った。そこで土着民や燕、斉(せい)の亡命者を治め、王険城(おうけんじょう)(現在の平壌(ピョンヤン))に都を定めて衛氏朝鮮を建てた。[後略][浜田耕策

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)<コトバンク

その後、衛満は呂后治世の時代に漢の外臣となり朝鮮王となった。つまり衛氏朝鮮は外藩(属国)となった。衛氏朝鮮は周辺の諸部族を併合して朝鮮半島の大半を領土とした。

衛満の孫、衛右渠(うきょ)治世の前後より漢の亡命の流入を認め、さらには入朝しなかったばかりではなく、辰国・真番国などの近隣の諸小国から漢に入朝しようとする使者の通行を妨害するようになった。

前109年、漢はこれを詰問するために使者を派遣したが右渠はこれにも従わず、ついに武帝は朝鮮討伐の出兵を命令した。

討伐軍のまずい攻めのために、戦争は長引いたが、前108年に衛氏朝鮮は滅んだ。

その後、漢は朝鮮に漢四郡を置いた。半島南部を除いて漢の直接統治の地となった。*1

その後の半島の変遷

出典:漢四郡<wikipedia

漢による朝鮮半島経営は成功しなかった。



古代朝鮮半島の歴史は古代日本列島の歴史と絡んでくるのでこの話はいつか別の記事でやる。

*1:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p218-219

前漢・武帝⑤:西南諸民族攻略

西南諸民族は西南夷と呼ばれていた。『史記』では「西南夷列伝」に書かれている。東南地域と同様にこの地域も漢人はほとんど住んでいなかった。そもそも中原とは全く気候の違う場所で、当時の漢人には住みづらい場所だっただろう。そして当然、中央政府の威光も及んでいない。約2100字。


前109年 西南夷を攻撃して滇国を服属させる。*1


西南地方には漢初から巴郡・蜀郡・広漢郡(以上は現在の四川省)、漢中郡(現在の陝西省南部)の四郡がおかれていたが、武帝は前135年に犍為(けんい)郡(郡治は現在の貴州省遵義じゅんぎ市付近、5年後に四川省南部に移動)をおいた。しかしそれらの域内およびその周辺には多数の民族が族長に率いられて割拠しており、なかでも貴州省南部にいた夜郎雲南省昆明市付近にいた滇(てん)、滇の北方にいた邛都(きょうと)は強大であり、滇は国を称し、族長は王を称していた。武帝は南越を攻めるにあたって、犍為郡に対して徴兵を命じたが、且蘭(しょらん)族が抵抗し、漢の使者と犍為太守を殺した。この事件を契機に漢は諸民族の弾圧に乗り出し、且蘭・邛都などの君長を処刑にし、新たに牂珂(そうか)郡など数郡をおいて漢の直接統治を強化した。

しかし、夜郎は漢の圧力を恐れて入朝したため、漢はその君長を夜郎王に封じ、牂珂郡内にいながら一定地域を漢の官吏を受け入れて統治した。滇国に対しては、漢は最初から外藩とすることを目論んでおり、武力による圧力と、滇と親交のあった二国を滅ぼすことによって入朝を強制し、その地を益州郡とするが、君長をあらためて滇王に封じ、漢からの官吏を受け入れて統治権を認めた。

このように夜郎・滇に対してだけは王印を授けて外藩国として残したのである。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p388-389/引用部分は太田幸男氏の筆

・郡治とは郡庁所在地のこと。

場所の確認。

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出典:中国人民共和国<wikipedia*2

巴郡・蜀郡・広漢郡(以上は現在の四川省)と書いているが、巴は重慶じゃないのか?

滇国への道

……大夏(たいか)の東南には身毒国(インド)があるとされている。張騫が身毒について知ったのは、かれが大夏にいたとき、そこの市場で邛(きょう)(四川省西昌県東南)の竹杖と蜀(四川省成都地方)の布とを発見し、その購入先を尋ねたところ、それは身毒から求めたものであると答えたことによる。

これによってかれは身毒と蜀との距離が近く、その間に交易が行われており、匈奴の地を避けて漢から大夏などの西域諸国に行くには、身毒経由が便利であろうと推定した。かれはこのことを武帝に上言して、みずから試みることを申し出て許され、蜀から南方の山地にはいり、身毒への道を求めた。しかし、張騫のこの努力はついに成功しなかった。とはいえ、これによってはじめて滇国に通ずることができてといわれている。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p226

大夏とはパミール高原西南のバクトリアにあった国のこと。

これによれば、漢帝国または漢人は滇国の場所さえ分からなかったことになる。

張騫については別の記事で書く。

夜郎自大

史記』では夜郎は当時の西南地区における最大の国家であり、武帝が時南越国討伐に唐蒙(中国語版)を派遣した際、その地で当時蜀(現在の四川省)で産出された枸醬(こうしょう)が夜郎よりもたらされたことを知り、南越国を牽制する目的で使節を派遣、現地に郡県を設置し、夜郎王族を県令に任じることとした。その漢の使者と面会した夜郎王が「漢孰與我大」(漢と我といずれが大なるか)と尋ねたことより、「世間知らずで、自信過剰」を表す「夜郎自大」(夜郎自らを大なりとす)の故事成語が誕生した。漢による郡県の設置は南越国滅亡後にようやく実施され、夜郎による漢への入朝も行われ、武帝夜郎王に封じている。

出典:夜郎wikipedia

実は『史記』の「西南夷列伝」には「漢孰與我大」と言ったのは滇王の方で、その直後に「及夜郎侯亦然(夜郎侯もまた同様だった)」と書いてある。本来なら「滇王自大」というはずだったが、何故か「夜郎自大」が普及した*3 *4。語呂が良かったから?



*1:夜郎がいつ服属したか分からないが、おそらくこの年か前後だと思われる

*2:ファイル名:Chuugoku gyousei kubun.png、ダウンロード元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chuugoku_gyousei_kubun.png著作者名が分からない(利用者ラン氏?) 

*3:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p240

*4:史記/卷116西南夷列傳 第五十六