歴史の世界

前漢・武帝⑨:塩鉄専売/五銖銭と貨幣の中央政府独占発行

武帝の前の二代にわたる治世は文景の治と呼ばれ讃えられている。民の生活の安定に重きを置き、金銭的・人的コストが酷くかかる対外戦争は避ける方針を採った。この結果国庫は潤い備蓄の食料が腐るほどだったという。

しかし武帝の対外戦争は四方に敵を作り、財政は当然のごとく赤字だった。そして対匈奴戦争開始より7年目の前123年についに財源不足に陥った。*1

世界史を眺めれば無謀な領土拡大戦争をして王朝を傾けたり潰した君主は何人もいるが(ユスティニアヌス1世など)、武帝はなんとかその汚名を免れた。財政を立て直すことができたのは、矢継ぎ早に実施された幾つもの経済政策と、この政策法律に違反することを許さない酷吏の存在にある。

酷吏については別の記事で書くことにして、まずは経済関連から書こう。このページでは塩鉄専売と五銖銭について記す。約3300字。


前123年 対匈奴戦争7年目のこの年、財源不足に陥る。
前119年 塩鉄専売。
前115年 均輸(法)。
前113年 五銖銭以外の貨幣を廃止し、貨幣発行を中央政府独占とした。
前110年 平準(法)。


経済政策は、酷吏として有名な張湯によって始められた。前121年張湯は御史大夫になった。当時は丞相の権力を低下させていたため御史大夫が政治のトップの役割を担っていた*2wikipediaの張湯のページでは「張湯は武帝の意を受けて白金や五銖銭鋳造、塩鉄専売化、豪商の排斥、告緍令などを進言した」と書いてあり、御史大夫の立場で経済政策を指揮したのは彼だった*3(張湯と官僚機構については別の記事で書く)。

塩鉄専売

塩は食生活にも人体にも不可欠なものだが、その生産地は限られていた。東方の海岸で採れる塩の他に内地の幾つかの生産地があるのみであった。

また、鉄も人びとにとって不可欠なものになっていた。漢代に入り農具として鉄製品が普及していたからだ。この生産もまた限られていた。

それだけに製塩・製鉄業者または販売者は莫大な利益をあげてきたが、中央政府がこれらを専売にすることで莫大な利益を独占した。

武帝の意を聞きながら専売制の総括的指導をしたのは御史大夫張湯であった。まず大農令〔今の財務大臣〕であった鄭当時の推薦により山東の大製塩業者東郭咸陽と南陽河南省南陽市)の大製鉄業者孔僅を抜擢して大農令の副官とした。つぎにこの二人は上申して製塩業と製鉄業の管轄を帝室財政担当の少府から国家財政担当の大農に移すことをはかり、認められた。目的は国家財政収入の増大にあることはいうまでもない。つぎに前119年にこの二人は塩鉄専売の具体案を建議し、武帝の裁可を得た。ただちに二人はおのおの全国を巡察して、鉄鉱石の産地50ヶ所に鉄官、製塩業がいとなまれておた36ヶ所に塩官を設置した。ここまでの塩と鉄の専売化の手順は同じであるが、以後は異なっている。鉄の場合は国家の直接管理をはかり、鉄官に官営の冶金・鋳造の作業場を付属させて製鉄を国家直営とした。鉄官の官吏には孔僅が各地で採用した実務経験者が多くを占めた。労働力は一般農民の更卒[労役か強制労働]、労働刑に処された囚人、官奴婢をあて、専門の工匠も配置した。

鉄官には農器の製造工場も付設されていたとする説もあるが定かではない。しかし、生産された鉄の多くは農器具につかわれたであろうことはまちがいなく、鉄のほかの重要な用途である武器は別の官営工場で生産されたと思われる。鉄を産しない地域には小鉄官がおかれ、各県に所属して廃鉄の回収と再生産を管理した。しかし、現在までに発掘されている前漢代の鉄鋼遺跡には鉄官のおかれなかったところもあり、厳しい処罰にもかかわらず私鋳がおこなわれていたこともうかがわせる。

塩の場合は、製塩をおこなったのは募集に応じた民間業者であり、設備・器具は塩官の管理下におかれた。生産品は塩官がすべて買い上げ、以後販売は国家の手に委ねられたと思われる。

この両専売制は、一部の商人から反発があったものの順調に進められ、国家財政の再建に絶大な貢献をしたことはまちがいなく、武帝後期の対外遠征を保障する有力な財源となった。なお、前78年には全国に𣙜酤(かくこ)官がおかれて酒の専売も試みられたが、その内容など具体的なことは不明である。

出典:松丸道雄他編/世界歴史大系中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p411/引用部分は太田幸男氏の筆

なお、尾形勇氏によれば、鉄官で作られた農器は高価で粗悪で農民を苦しめた。*4

五銖銭と貨幣の中央政府独占発行

古代中国の貨幣の歴史を少し遡る

はじめて貨幣制度を統一したのは、秦の始皇帝の半両銭であった。この半両銭の形態は漢代にも踏襲された。しかし、高祖のときに民間の鋳造が許可されたので、その一個の重量はだんだん小さくなり、楡(にれ)の莢(さや)の大きさにまで縮小した。これがいわゆる楡莢銭(ゆきょうせん)である。秦の半両銭の重量が約7.5グラムであったのに比べて、これは、1.5グラム前後、その最小のものはわずか0.2グラムしかなかった。

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出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p252-253

中央政府は私鋳の許可と禁止を繰り返した。さらには8銖(1両 = 24銖)の半両銭を作ったり五分銭(重量が半両の五分の一)を作ったり試行錯誤している。

三銖銭・皮幣・白金の貨幣

さて、武帝の治世、前120年、中央政府はついに「半両銭」を廃止した。すなわち表面の「半両」の文字をやめた。そして新しく三銖銭を作った。これには表面の文字は重量と同じ「三銖」とした。戦国時代から続いた半両銭をやめるという一つの画期となった。

同年、白鹿の皮で作った皮幣(ひへい)*5を白金の貨幣を作った。

しかしこの三つ、三銖銭・皮幣・白金の貨幣、すべて一年で失敗した。盗鋳を死刑をもって禁じたが防ぐことができなかったからだ。*6

五銖銭と中央政府独占発行の成功

五銖銭は前118年に初めて発行された。重量は五銖で額面も五銖の円形方孔銭(四角い穴のあいた丸い硬貨)である(上の画像参照)。当初は複数の貨幣と共に扱われていた。

盗鋳がなおも頻発する中で、前120年、中央政府は貨幣鋳造権を郡国だけに制限したが、それでも盗鋳の頻発はおさまらずに死罪になる吏民は数十万人を数えた*7。さらには各郡国の鋳造の品質も不統一だった*8

以上のような問題を受けて、前123年、政府は貨幣鋳造権を中央官庁*9の独占とし、五銖銭以外の貨幣を廃止した*10

こうして五銖銭の品質が統一・保持され、五銖銭の経済価値が当時の経済状況に適合されていたため*11、これ以降、貨幣政策は安定した。

さらにこの五銖銭の形態は中国貨幣の基本形式として踏襲されて唐代の開元通宝(621年制定)の出現まで約700年継続した。*12



*1:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p86/上記は鷹取祐司の筆

*2:御史大夫wikipedia

*3:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p408/引用部分は太田幸男氏の筆

*4:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p327

*5:google画像検索「皮幣」で検索すると出てくる:おそらく中国のサイト

*6:西嶋氏/同著/p253-254

*7:鷹取氏/同著/p87

*8:西嶋氏/同著/p255

*9:五銖銭<wikipedia参照

*10:鷹取氏/同著/p87

*11:鷹取氏/同著/p87

*12:西嶋氏/同著/p255

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