歴史の世界

前漢・武帝③: 第一期対匈奴攻戦

前135年、文帝の皇后、竇太后、死去。竇太后は文帝の代から政治に口出しする人だったらしく、彼女が生きている間は武帝は頭が上がらなかった。その竇太后が死んだ。この頃はまだ景帝の皇后の弟の田蚡(でんふん)などがいて、武帝の専制体制はできていなかったが、とりあえず外征を始めたのは前134年である。「第一期対匈奴攻戦」では有名な衛青と霍去病が活躍する。約2400字。


前135年 竇太后死去
前134年 対匈奴作戦、朝議で可決
前133年 対匈奴作戦、失敗に終わる。全面戦争突入へ
前129年 大規模な遠征が始まる
前119年 第八回の遠征で霍去病ら大勝。この後20年近く匈奴は長城付近には現れなかった。


武帝の外征」以前の匈奴・漢の関係

簡単に言ってしまえば、高祖劉邦冒頓単于に大敗して和睦をしてからほとんど変わっていない。ここでいう和睦とは漢が金品を差出す代わりに略奪をやめてもらうという約束だが、匈奴側はしばしばこの約束を破り漢帝国内への侵入、略奪、殺略を繰り返した。これに対して漢側は防衛はするが、交渉した後、再び金品を差し出した。和睦の文面上は対等な関係だが、力関係は歴然としている。*1

漢側がこれほどの屈辱的な関係を維持し続けたのは、2つの理由がある。

一つは全面戦争をするよりコストが安かったから。全面戦争の消費は今も昔も底が無い。それに比べれば貢物+厳重な防衛のコスト+侵略の損害の総和は計算できる数字だった。実際武帝までの前漢の国庫は文字通り腐るほどの備蓄食料が溢れかえっていた。

2つ目は黄老思想。これについては以前に触れたが、簡単に言えば低コストで簡素な政治を行い、民の生活の安定を図るというもの。少数の犠牲者、比較的少量の略奪された金品よりも国家の安定を採った。

詐謀作戦の失敗、全面戦争の始まり

前134年、馬邑(ばゆう、山西省朔県)の一土豪で交易業者ある聶壱(じょういつ)が対匈奴主戦論者の王快(おうかい、大行-だいこう-帰順した異民族を司る役職)に詐謀を献策した。内容は、まず聶壱が軍臣単于冒頓単于の孫)を訪ねて、自分が馬邑の官吏を殺して匈奴に降伏するから馬邑を受け取って欲しいと持ちかけ、軍臣単于が馬邑に着たところをだまし討ちする計画だった。王快は朝議でこの案を披露して採用され、実行に移された。

聶壱は計画通り軍臣単于を騙すことに成功したが、漢側が攻撃する直前にばれて逃げられてしまった。王快は責任を取らされて獄死した。これより両国の関係は修復すること無く全面戦争に突入した。*2

全面戦争突入

匈奴に対する武力攻撃方策に転じたのは武帝時代になっていからである。武帝による対匈奴戦争は二期に分けてみることができ、第一期は前133年より前119年までのあいだに展開された。[中略]

第一期には計八回の漢側からの大規模な出撃があり、そのうち第六回までの主役は衛青であった。衛青は武帝の愛妾の衛子夫(のちの衛皇后)の弟で、母の衛温は平陽公主の家婢であって、姉弟ともに私生児であり、かつ奴婢の身分であった。第一回は前129年、四人の将軍の率いる軍が四方面から匈奴を攻めたが失敗し、車騎将軍衛青のみが軍功をあげた。第二回は翌前128年に衛青が雁門より出撃して匈奴軍を破り、さらにその翌年にはオルドス地方を制圧してそこに朔方郡と五原郡が設置されることになった。第四回は前124年に衛青ほか六人の将軍が十余万騎を率いてオルドスの北方まで進出し、匈奴の右賢王を敗走させた。この功績により衛青は大将軍となった。さらに第五回・第六回はいずれもその翌年の前123年に、同じく六人の将軍とともに匈奴を攻撃し、この時は将軍によって勝敗なかばに終わっている。

第七回出撃は霍去病が中心となった。霍去病は衛青の姉の衛小児(しょうじ)の子であり、衛小児は衛青と同じく衛温の私生児であった。騎射に長じ、第五・第六回の対匈奴戦にはまだ二十歳にいたらぬ年齢で衛青に従軍して軍功を挙げている。前121年、霍去病は驃騎将軍に任ぜられ、春・夏の二回にわたって隴西から出撃して匈奴の西方を攻め、多くの捕虜を得、渾邪(こんや)王を投降させるとともに、その大部隊を引きつれて長安に凱旋した。この結果漢の西方地域が確保され、以後渾邪王の故地に武威、酒泉、張掖(ちょうえき)、敦煌のいわゆる河西四郡が順次設置されていったのである。第八回は前119年に衛青・霍去病に各五万騎を率いさせて、匈奴の根拠地を攻撃させた。衛青率いる舞台が伊稚斜(いちしゃ)単于(在位126~前114)の舞台を大破し、その結果全右派北方にのがれて本営をゴビ砂漠の北に移すことになった。また霍去病率いる部隊も多くの首級と王・高官を含む多数の捕虜を獲得した。両者はともに大司馬の位を与えられた。この漢の勝利の結果、匈奴は長城付近には以後二十年近く姿を現さなくなり、漢の方も主要な軍事大正を朝鮮・南越などへと移したいったのである。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p385-386/引用部分は太田幸男氏の筆

オルドスとは黄河の「几」の形になっている内部の地域。車騎将軍、大将軍、驃騎将軍、大司馬についてはwikipediaの各ページ参照。



*1:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p187-192

*2:西嶋氏、同著/p203-204

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