歴史の世界

前漢・景帝の治世/呉楚七国の乱

「文景の治」と文帝と並び称されるように、景帝の政治は文帝の継承するものだった。「文景の治」と言えば、仁政により安定した社会を築いたと言われるが、景帝は文帝の代から行われていた諸侯王抑制策も推し進めた。そしてこれが呉楚七国の乱につながっていく。約3200字。


前157年 文帝死去。景帝即位。
前157年 晁錯、内史(ないし、だいし、首都の長官)となる。*1
前156年 晁錯、御史大夫(副丞相)となり、「削藩策」を推し進める。*2
前154年 呉楚七国の乱(3ヶ月で平定。この最中に晁錯殺される)。
前143年 周亜夫獄死(景帝とは意見が合わなかった)。
前143年 景帝死去。武帝即位。


景帝即位と削藩策

まずは、景帝の即位の状況から。以下引用。

史記』「外戚世家」によると、文帝の五男として生まれた。4人の兄が早世し、生母の竇氏が正室に昇格したことにより文帝の嫡子となった。

出典:景帝<wikipedia

上のように景帝は他の皇帝らに比べてかなりスムーズに皇帝になることができた。このことは文帝の皇帝即位の事情と比較される。

つまりは

  • 外から皇帝になった文帝→慎重な政治
  • 嫡子・皇太子から皇帝になった景帝→積極な政治

という意味が込められている。

「積極な政治」とは、まず一つ目は晁錯を副丞相ともいうべき御史大夫に抜擢したこと。晁錯は賈誼(前回参照)と同意見の持ち主だが、景帝のお気に入りの人物で、内史に抜擢した時に丞相以下を退去させて晁錯と二人で話すほどだったという。*3

二つ目は、晁錯の提言である削藩策を実行したこと。削藩策とは諸侯王抑制策をさらに一歩進めた策で「藩」を「削減」する、つまり諸侯王の領地を削減する策のことだ。具体的には、「諸侯王に罪過があれば、これを宥免することなく、その封地を削減すべしということ」*4だ。宥免を繰り返した文帝との違いが際立つ。

削減された諸侯王は3つ。

  • 楚国:東海郡
  • 趙国:河間郡
  • 膠西国(斉国が分割してできた国):常山郡 *5

このような状況の中で諸侯王の不安・不満が溜っていった。そして、明日は我が身と思った呉王が反乱はこのような状況の中で起こった。

呉楚七国の乱

諸侯王国(参考)

f:id:rekisi2100:20170102085237p:plain:w300
出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p138

  • 上は高祖の治世の状況なので参考程度に。
  • 南部は領土は広いが人口が極めて少ないため、領土と国力が比例しないことに注意。人口は北中国に集中している。
  • 乱の前に斉国は七分割されている。
  • 諸侯王国はほぼ独立国であることは、乱の時まで変わらない(功臣粛清の記事も参照)。

呉国の状況

その[呉国]の封地は三郡五十三城におよぶ広大なものであった。かれ[劉濞]は以後四十余年にわたって呉国の経営につとめ[た]。[中略]

まず王国内の豫章郡(鄣郡の誤か)にある銅山を開発し、亡命の徒を集めて採鉱・鼓鋳(こちゅう)し、これによって銅銭を鋳造して流通させ、また海水を煮て塩を生産し、これを他国に販出して利益をあげた。そのため呉国においては、人民に賦税を課すことなくして国用が充足したといわれている。文帝時代には銅銭鋳造や製塩は中央政府の統制下にはなかったのである。

出典:西嶋氏、同著/p168-169

呉国は諸侯王国の中で最大最強の国になった。

首謀者、呉王劉濞

この乱の首謀者は呉王の劉濞。

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出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p186

劉濞は高祖劉邦の兄の劉喜(劉仲)の子で、英布の乱(前196年)に将軍として活躍した功績で呉王に封ぜられた。挙兵時は62歳で劉一族の中で最年長だった。

挙兵の遠因と決断

ある年に、長安に劉濞の世子・劉賢が父の名代として、長安に参内し、劉賢をねぎらう宴会が催されたが、宴会の余興(「博」と呼ばれる、今で言うボードゲームの一種)をめぐって、又従兄弟である皇太子・劉啓(後の景帝)と口論となり、皇太子が劉賢に向けて「博」の盤を投げ殺してしまった。この劉賢が殺害された事件と、その後の中央政府の対応に不満を抱いた劉濞は、諸侯王の義務である長安への入朝を、病と称して取りやめた。劉濞は諸侯王として、朝廷を軽視し、礼法を無視する態度で臨むようになった。朝廷の調査によって、劉濞が息子のことで、参内せず病と称したことが明らかになった。そのため呉の使者が都に派遣されると、朝廷から尋問を受けて抑留された。

出典:劉ビ<wikipedia

文帝はこれを劉濞が老齢だからということで不問にした。面倒事を避けたとも言える。

だが景帝に代がかわるとそうはいかない。景帝は晁錯を使って削藩策を実行している。

劉濞は何らかのアクションを起こさなくてはならなかった。平謝りに謝るか挙兵するかだが、劉濞の選択した行動は後者だった。

挙兵

前154年正月、呉王に豫章郡と会稽郡の二郡の削減命令が届いた。豫章郡は銅山開発地、会稽は海塩生産地。この削減命令が挙兵の最終的な決断のきっかけだった。

劉濞は他の諸侯王に呼びかけた。呼応したのは、領地を削減された楚王・趙王とさらに元の斉国から分割された7国の中から6国。しかし斉王と済北王は挙兵しなかったので結局7国となった(上の系図参照)。これにさらに外国の東越もこれに従った。挙兵の大義名分は「晁錯を中央から除く」こととした。

中央政府は、戦乱を避けるために大義名分を叶えるという行動に出た。つまり晁錯を処刑した。しかし乱はおさまらない。劉濞は東帝を自称し、戦況は予断を許さなかった。

しかし、反乱軍が中央政府側の軍に各地で足止めを食らっている状況で、太尉(軍事長官)の周亜夫が反乱軍の補給線を遮断したため、形勢は中央政府側に傾いた。

劉濞は東越へ逃れたが東越王が中央政府側に寝返り、劉濞を殺害した。他の反乱軍の諸侯王も敗走し自殺して、乱は鎮圧された。規模が大きかった乱だったが、わずか三ヶ月での出来事だった。

乱後の諸侯王統制策

次の二つ。

ひとつ目は、王国の「郡化」。乱の前までは、王国の丞相が中央政府に任命される以外は、諸侯王が諸官僚を任命していた。しかし乱後、中央政府は諸侯王国の丞相の官名を「相」とし、その他の中央政府の官僚と同名の官職(御史大夫など)はすべて廃止し、相にすべての権限が委譲した。諸侯王は租税の一部を与えられる存在に過ぎなくなった。

ふたつ目は、王国の「細分化」。諸侯王が死去すると中央政府はその王子たちに分封して細分化した。

このように諸侯王の権勢は限りなく抑制されたが、中央集権化の完成は武帝の代とされている。



*1:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p170

*2:同氏著/p170

*3:晁錯<wikipedia

*4:西嶋氏、同著/p170

*5:西嶋氏、同著/p170

前漢・文帝の治世

意図せずして皇帝になった文帝。 臣下の意見をよく聞き慎重に行動した賢帝だった。
彼の治世は前代までのように蕭何の法(九章律)を順守しているだけでは社会の平和を得られない状況になってた。後世讃えられた「文景の治」はこのような状況の中で彼の賢明な判断によって成し遂げられたものだった。約3500文字。


前180年 文帝即位
前178年 陳平死去
前177年 済北王興居、反乱を起こし、撃滅される
前174年 淮南王長、謀反の罪によって廃絶、流罪の途上で自殺
前169年 周勃死去
前157年 文帝死去


文帝即位の過程

呂氏一族を一掃した後、皇帝を誰にするかが当面の問題だった。この問題の決定権は高祖劉邦の遺臣でもある丞相陳平や大尉(軍事長官)周勃らにあったらしい。

まず候補に挙がるのは、呂氏一族討滅で活躍した斉王襄であったが、斉王の外戚に悪人がいるとの理由で候補から外された。

代わって検討されたのが高祖の実子である代王恒。彼は仁孝寛厚の人で外戚も申し分ないとのことで、彼を迎え入れることを決定した。

[代王恒が]長安に到着すると、丞相陳平・太尉周勃以下の群臣が代王を渭橋(長安の北の渭水の橋)まで出迎え、太尉周勃が天子の璽符を奉呈した。しかし、代王はこれを受取ることなく、都内の代王の王邸にはいり、ここであらためて諸群臣から帝位に即くことを要請される。代王は自分がその重任に適格するものでないことを述べ、西に向かって三たび、南に向かって二たび辞退し、再度要請せれて承諾した。

高祖劉邦が帝位に即いたときもそうであったように、皇帝の位に即くには、このような推戴と辞退との繰り返しがつねであり、やがてそれは漢代以降の皇帝即位儀礼として定着する。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p139

以上のような状況描写はすべて西嶋氏を参照。

休民政策の継承

「文帝(漢)<wikipedia」によれば、文帝の生年は前203年で即位の年が前180年だから23歳ということになる。以上のような状況を見れば、文帝の政治は、少なくとも当初は、陳平・周勃らの意見を聴くというより彼らに従ってハンコを押すようなものだったろう。

ただし、文帝はこれまでの「休民政策」を継承し、高祖の遺臣らがいなくなった後でも宮廷だけでなく、劉一族にも遠慮をしながらも安定した社会を築くことに成功した。

具体的なことを言えば、まず田租(農作物に対する税)を30分の1に引き下げ、算賦・口銭(人頭税)や徭役(労役)を軽減して民の生活の安定を図った。

これに加え、秦律(秦の法律)より継承された苛酷な刑の軽減も為された。

黥(入れ墨)、劓(ぎ、鼻削ぎ)、刖(げつ、足切り)といった身体刑(肉刑)を鞭打ち(笞刑、ちけい)に替えるなど、恫喝によって人びとを治める方式を改めることに努力した。

出典:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p309(引用部分は尾形氏の筆)

前漢の法律は秦の法律を継承したことは以前に述べたが*1、その中で苛酷なものは段階的に廃止・軽減されていった。

格差社会に対する対応

戦乱・紛争が終わりひとまず平和が訪れると今度は格差社会中央政府の課題となってに現れてきた。これに対して提言を行った一人に賈誼(かぎ)がいる。文帝の治世とともに朝廷に召されて*2、文帝のお気に入りになった人だ。

彼の提言は、対匈奴・経済・対諸侯の3つに分けられるが、経済の提言は以下引用。

賈誼は文帝時代の社会に貧富の差が極めて大きいことを指摘し、富者とは奴隷所有者と大商人であること、とくに物を生産しないで巨利を得る大商人の存在が社会秩序を破壊する元凶であることを強調して、商鞅以来の国家政策である重農抑商政策を進めることを提言している。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p378-379/引用部分は太田幸男氏の筆

上で商鞅の名が出ているように賈誼の提言は法家の思想から出てきているものである。これは注目に値する。これまでの休民政策から民を統制する動きへ代わる端緒がここに見られる。ただし本格的に統制が始まるのは景帝の治世の後半になってからだ。

文帝は賈誼の提言をすべて受け入れたわけではないようだが、勧農の詔を発布したと言われている(ただしこれがどのような結果を出したのかよく分からない)。

もうひとり、提言の徒として有名なのが晁錯(ちょうそ)。賈誼と同様に朝廷に召されて提言をした。

この時期の晁錯の政策として有名なものが、納粟受爵制度である。当時は商業が活発となって貧富の差が激しくなり、農民の没落が目立つようになっていた。その原因の一つが、納税が全て銭納であったことで、これにより納税期になると農民が一斉に農作物を銭に替えるため、非常な買い手市場となり、商人によって安く買い叩かれがちだったことがある。晁錯はこの問題の解決策として、穀物をある一定以上の量を納めた者に爵位を与えるという制度を提案した。この納粟受爵制度により、商人が爵位を求めて穀物の買い付けに走り、農民たちの売り手市場となって農民の手元に多くの金銭が入るようになった。

出典:晁錯<wikipedia

周辺の諸民族に対する対応

周辺の諸民族に対する政策もまた「和親」を旨とする穏当なものであった。匈奴はいくども侵攻してきたが、文帝は太尉の灌嬰らに命じて派遣した。しかし人びとの労苦を考えて、必要以上の深追いを避けさせた。

出典:尾形氏、前掲書/p308

華南には南越国という国があった。秦末に華南の一県令だった趙佗が自立して建てた国だが漢帝国が成立した後も帝国の中央政府は華南にかまっている暇はなかった。文帝の治世になってようやくその余裕ができたが文帝は兵を派遣しようとはせず、趙佗を説得し臣従させることにとどめた。

諸侯王に対する対応

高祖の治世に韓信ら「異姓」諸侯王は粛清され、呉氏長沙国以外すべて劉氏一族が諸侯王になったのだが、これで平和が約束されたわけではなかった。皇帝が代替わりするにつれて、中央政府と諸侯王の間の関係が密でなくなったため、「同姓」諸侯王が中央政府に牙をむく事態が現実味を帯びるようになってきた。さらに言えば、「異姓」諸侯王がいたときもそうだったが、これら諸侯王は自らの朝廷と軍隊を持ち、実質的には独立国であった。

済北王興居の反乱*3、淮南王長の謀反*4とたて続けに起こった。これを見た賈誼が諸侯王抑制の必要を訴えた。具体的には王国を分割相続させて細分化し個々の勢力を弱めようとするものだ。

文帝はこの提言を一部取り入れて二つの行動を起こした。

  • 前164年、淮南国は、上記の事件から10年経った年に三分割されて淮南王長の遺子3人に与えられた。淮南国は一度郡とされ、その後皇帝の恩徳を与えるという名のもとに改めて分封した形をとっている。*5

  • 同年、斉文王則(呂氏一族討滅クーデタで活躍した斉王劉襄の子)に後継ぎが無かったため、斉王を7分割し、劉襄の兄弟と劉章(劉襄の弟)の子、あわせて7人に分封した*6。これも当時の封建相続法によって絶国になるところを皇帝の恩徳によって分封する形をとった*7

文帝は、前述したように諸侯王らに遠慮していたので、諸侯王抑制策も不十分だった。これを積極的に行ったのが後継の恵帝だった。そしてそれが呉楚七国の乱につながる。



重農抑商政策は日本では松平定信寛政の改革で有名だ。その時代まで(たぶんこれ以降も)ずっと同様の提言がなされ続けている。

*1:法三章/蕭何の九章律と秦律参照

*2:賈誼>wikipedia参照

*3:劉興居<wikipedia参照

*4:劉長<wikipedia参照

*5:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年((同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p167

*6:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p79/上記は鷹取祐司の筆

*7:西嶋氏、同著/p167

前漢・恵帝/呂太后/恵帝・呂太后の治世の社会

史記』の本紀には恵帝・少帝恭・少帝弘の本紀がなく、その代わりに呂太后本紀がある。『漢書』には恵帝紀と高后紀が置かれ少帝恭・少帝弘は無い。皇帝でない呂太后がこのように本紀に書かれるように、彼女は絶対的権力を持っていた。約1800字。

恵帝の治世

高祖劉邦は反乱を起こした英布との戦いで受けた矢傷が元で前195年に死去した。二代目に就いたのは恵帝。

影が薄い恵帝は初めから政治に興味が無いわけではなかった。相国の曽参の職務怠慢を責めた説話がその証拠だ。恵帝が政務を顧みなくなったのは呂太后の戚夫人に対する仕打ちを見てからだという。

劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたる。また、自らの地位をより強固なものにするため、張耳の息子張敖と魯元公主の娘(恵帝の姪に当たる)を恵帝の皇后(張皇后)に立てた。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王とその生母戚夫人を殺害した。この時、呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせた、と史書にはある(なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。戚氏を厠に入れた事から、豚に喩えたと思われる)。

出典:呂雉<wikipedia

太后は恵帝を呼んでこの戚夫人の姿を見せた。この時ショックを受けた恵帝はそれから政務を放棄し酒に溺れたという。*1

太后の治世

臨朝称制:呂太后の専横

恵帝は皇帝に就いて七年で死去してしまった。わずか23歳。そして後継には恵帝が女官に産ませた子、少帝恭が就いた。呂太后が選んだとされる。少帝恭は恵帝と張皇后の子と公表していた。発覚を怖れて呂太后は実母である女官を殺害した。*2

少帝恭は幼年であるため、呂太后が代わりに政務を代行した。これが臨朝称制といわれる。臨朝とは「朝廷に臨む」つまり国政を裁決すること、称制は制書(天子の制度に関する命令の書)や詔書(天子の命令、お言葉の書)を発布すること*3摂政みたいなものだ。

少帝恭は成人して実母を殺されたことを知って呂太后に恨みを持った。彼の恨み言が呂太后の耳に届き、少帝恭は幽閉された後に殺された。後継に別の後宮の子・少帝弘が就いた。

太后は政務をほしいままにし、甥の呂禄、呂産を王にするまでした。中央政府はこれまで諸侯王を劉一族のみにする政策をとってきたが、呂太后がこれを侵した。当然それまでの劉一族の王を排除して王に就かせたので、呂太后及び呂氏一族への怨みは全土に達した。

呂氏一族誅殺

前180年、呂太后が没する。この時呂産が相国、呂禄が上将軍になっていた。ほどなく、斉王劉襄(劉邦の孫)と長安の内部が連携してクーデタを起こし、呂氏一族は呆気無く滅ぼされた。

政権を奪取した周勃や陳平は代王の劉恒(劉邦の庶子)を招き皇帝に戴いた。これが文帝だ。

文帝が長安に入ると少帝弘は廃位させられ、殺害された。

恵帝・呂太后の治世の社会

呂后の時代は、残忍な政争が続いたが、それは宮廷の内部にとどまったことであった。呂后自身も静謐(せいひつ)を尊ぶ道家系統の「黄老の学」を好んだ人であり、「折からの休息の時代にふさわしく、内政の一般は安定しており、農業生産は回復し、衣食ともに充実した」というのが、司馬遷の史評である。

出典:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p307(引用部分は尾形氏の筆)

恵帝の治世にも挟書律が廃止された。挟書律とは医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令のこと。秦の焚書坑儒のころから続いていた。

*1:戚夫人<wikipedia

*2:少帝恭<wikipedia

*3:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年((同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p133

前漢・高祖劉邦⑤:休民政策/黄老思想

「休民政策」とは便宜的な言葉で、用語辞典に載っているようなものではない。字のごとく「民を休める」ための政策のことだ。これと黄老思想の関係は後述する。約2000字

休民政策

漢五(前二〇二)年二月に皇帝となったあと、高祖は洛陽に滞在していた。そこで五月に詔(しょう)を発布したが、この詔は兵士や民に対して、戦乱の終息を告げるものであった。その要点は、①諸侯に属していて関中に定住するものには、一二年の税役を免除し、東方に変えるものはその半分とすること。②戦乱による流民は、郷里の県に帰らせて、もとの爵と田宅に復すること。③人の奴婢となった者は、開放して庶民とすることなど、である。

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史/講談社選書メチエ/2006年/p210

高祖は即位してまもなく、長安に都を置くことを決定するより前に上のような詔を出している。詔とは皇帝から命令のこと。

同じような文章をもう一つ引用。

秦末の動乱は、人びとの生活に影響をあたえざるを得なかった。[中略]

この事情から、高祖劉邦の最初の施策は、ともかくも人びとを休養させることに絞られた。

一般の兵士たちには、功績に応じて徭役[労役]免除などの恩典を与えたり、爵位(後述)を一級上げたりして、それぞれ故郷に帰らせ、農事につかせた。戦乱の中で奴隷になったものは、これを救い、戦争のどさくさで大儲けをした証人たちは、これを弾圧した。また、秦が滅びる原因となった法令は、これを大幅に削減し、蕭何に命じてあらためて「九章の律」を制定させた。

出典:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p295(引用部分は尾形氏の筆)

前回書いたが九章律は法三章の宣言に基づいて民を休めるために新たに作り変えられた法典だ。

爵位(後述)」はp298-299に書いてある。要は「民間の秩序」を形成させるためのからくりなのだが、長くなるので詳しくは原著参照。*1

休民政策は武帝の時代の前半まで続いた。高祖は匈奴に敗れて屈辱的な和平を結んだ後も断続的に交戦したが全面戦争は避けた(これも武帝が攻勢に出るまで)。

黄老思想

始皇帝が『韓非子』に惚れ込んだこと、法家の李斯を使ったことから、統一秦は法家思想を採用したといえる。では前漢は何か?前漢すべてではないが初期の頃は黄老思想だった。

休民政策は武帝の時代に終わったと書いたが、前漢を支える思想も武帝の時代に黄老思想から儒教に代わった。休民政策と黄老思想は一体だった。

黄老思想

中国の道家(どうか)思想の一派。神話や伝説上の帝王黄帝(こうてい)と、道家思想の開祖とされる老子(ろうし)とを結び付けた名称である。漢の初め(前2世紀前半)に政術思想として為政者の間で流行した。宰相の曹参(そうしん)が無為(むい)清静の政術として斉(せい)の国から伝え、秦(しん)の厳しい法治に苦しんでいた人心を解放するものとして歓迎された。ことさらなことをせず、基本的な法にゆだねて単純簡素な政治を行うことを主にし、『老子』や『黄帝書』を尊重した。ほぼ50年にわたって漢の統治の指導理念となっていたが、武帝(在位前141~前87)の儒教尊重による積極的な政治思想によって衰微した。

1973年に馬王堆(まおうたい)で発見された古文書に、『老子』と続いた「経法」などという4編があり、黄老関係の資料とされている。黄老の起源ははっきりせず、『史記』によると、戦国中期の申不害(しんふがい)や末期の韓非(かんぴ)などの法家(ほうか)思想もそれに基づいたものとされているが、おそらく戦国末期の斉の国でおこったとみるのが正しいであろう。武帝ののちでは、もはや政術としての性格を失ったが、後漢(ごかん)では「黄老浮図(ふと)」とよばれ、浮図すなわち仏陀(ぶっだ)と並ぶ信仰の対象として祭祀(さいし)が行われ、後の道教信仰に連なる様相をみせている。[金谷 治]

出典:コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

曹参のエピソードが「曹参<wikipedia」に載っているので参照。一部だけ紹介。

蕭何が死んで代わって相国になった曹参が恵帝に職務怠慢で責められた時にこう言った。「高帝は蕭何とともに天下を平定し法令はすでに明白です。我々はそれを遵守すればよいのです」と。恵帝は納得して、休息するようにといった。



*1:もしくは西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年/p140-156(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)参照

前漢・高祖劉邦④:法三章/蕭何の九章律と秦律

蕭何が作ったとされる「九章律」は漢の法典なのだそうだ(「法典」についてはリンク先参照)。これに関連して法三章と秦律(秦の法律)のことも書く。約1700字

法三章

秦帝国が亡びる直前、子嬰は「三世皇帝」と称せずただ秦王とした。

前206年10月、劉邦の軍が関中に入ると秦王子嬰は覇水のほとりで劉邦を出迎え降伏の意を示した。劉邦はこれを受け入れ、皇帝の証である玉璽などを受け取り、子嬰の生命を保証した(ただし後で項羽に殺された)。ここに秦帝国は正式に滅亡した。*1

劉邦は咸陽に入ると家臣の進言を聞き入れて宮室やに封をして項羽の来着を待った(項羽は美女や財宝を略奪し、火をかけて咸陽を廃墟にした)。*2 *3

覇上に引き上げた劉邦は、この地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりもでき、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」の3条のみに改めたものである。

出典:劉邦wikipedia

蕭何の九章律と秦律

国家統治の法としては法三章では不十分なため、法典作成担当の蕭何は九章律を作った。

九章律の引用。散逸してしまっているようだ。

九章律

中国、漢の高祖劉邦(りゅうほう)(在位前206~前195)のとき、相国である蕭何(しょうか)が秦(しん)代の法をもとにつくった漢王朝の基本的法典。戦国魏(ぎ)の文侯(在位前445~前396)時代に、李(りかい)の作成した『法経』6編(盗、賊、囚、捕、雑、具法)が戦国秦の商鞅(しょうおう)によって律と改められ、のちに蕭何が戸、興、厩(きゅう)3編を加えて九章律としたと伝えられる。すでに散逸してしまっているので、その内容はつまびらかではない。しかし清(しん)朝以来の漢律の逸文輯集(しゅうしゅう)作業によって二百数十条の律文が確認されており、九章律に相当すると思われる条文もみられる。[鶴間和幸]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) <コトバンク

ここで蕭何に関するエピソード。

蕭何は劉邦が沛公として咸陽に入った時に、秦の丞相や御史の図書を発見して隠した。そのことで項羽が咸陽に火を放っても、多くの貴重な書が、無事残されたのである。劉邦が漢王になってからは、蕭何が保存した秦の図書によって、全国の地形や人口分布、防衛上の強弱、人民の苦悩を理解したという。

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p137

劉邦の配下である地方の小役人がいきなり国家経営できるはずもないから、当然、関中にいた秦帝国の旧臣・旧官僚を採用したのだろう。

ともかく、前漢中央政府は秦の法律を継承した。西嶋氏によれば、諸侯王や列侯の分封を除けばほとんど秦制を踏襲した、漢帝国秦帝国の継承者だとしている。*4



秦帝国滅亡前後の劉邦項羽の善悪のコントラストがはっきりしすぎてるので、法三章の話も作り話かもしれない。府庫に封をしたことと、蕭何が書類を持ちだしたことは矛盾ではないのだろうか?

*1:秦<wikipedia

*2:秦<wikipedia

*3:出典:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年/p90(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版 ) 

*4:西嶋氏、同著/p116

前漢・高祖劉邦③:功臣粛清

楚漢戦争で劉邦勝利に導いて諸侯王になった功臣たちは、漢帝国ができて直後に「危険人物」と見なされて滅ぼされる。約2700字。

功臣を粛清する理由

帝国内における王国の広さは、皇帝の直轄地が十五郡であったのに対して、[諸王国の総和は]三十余郡にも及んでいたのであり、この点からみれば、中央政府の支配権は、秦帝国に比べてはるかに劣弱であったといえよう。

事実、上述のように、王国内の統治権は諸侯王に委譲され、その官僚は相国(丞相)のみが中央政府に任命され、それ以外はすべて諸侯王が独自に任命するものであった。また、諸侯王はそれぞれ年号を立て、国内の財政権を掌握していた。したがって、この郡国制における封建王国の性格は、周代封建制が復活したものと考えられやすい。また実際問題としても、このような王国の性格からすれば、それが中央政府の支配から離脱して、地方的独立国となる傾向があったことは当然である。

このような傾向に対して、あるいはこのような傾向をたどることを予見して、高祖劉邦は、その在位中に一定の政策を実施した。それは、諸侯王のうちの異姓のものを除き、同姓諸侯王のみ存続させるという政策である。すなわち、ともすれば中央政府から遠心的傾向に走る諸王国を、血縁の原理によって中央に統合させようとし、その原理を適用できぬものの存在を抹殺しようとしたのである。

出典:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年/p112*1

  • 中央政府項羽が行った論功行賞を元にした封建制を止めて、西周代と同じような、つまり本来の封建制に近づけようとした(と言っても郡県制と併用だが)。

  • ちなみに、前回に書いた「列侯」には政治的な実権は無く、その領土に応じた租税分を与えられるだけだった。

標的となった異姓諸侯王、最初の七人

この七人とは前々回で書いた劉邦を皇帝に推戴した七人のこと。すなわち、楚王韓信・韓王信・淮南王英布・梁王彭越・趙王張敖(ちょうごう)・もとの衝山(こうざん)王呉ゼイ(項羽によって王位を剥奪された)・燕王臧荼(ぞうと)*2(ここまで示した肩書は劉邦の即位の直前のもの)。

  1. 臧荼(ぞうと)(燕王)。劉邦前202年劉邦が皇帝即位した年)10月、早くも謀反を起こし、討伐された。

  2. 韓王信(韓王)。前201年匈奴に囲まれ、匈奴と交渉した時に中央政府に謀反を疑われ、匈奴に寝返った。wikipedia「韓王信」によれば、「紀元前196年に陳武(柴武)との戦いに敗れて斬られた」。

  3. 韓信(斉王から楚王に転封)。前201年に「軍隊を勝手に発動した罪」で淮陰侯におとされた*3。前196年、韓信は反乱を起こそうとしたが密告され、蕭何の計略にはまり斬られ、一族も誅された。

  4. 張敖(趙王)。前198年、王国の丞相貫高らの高祖暗殺計画が発覚し、張敖にも嫌疑がかけられた。張敖は無罪放免になったが、宣平侯におとされた。前182年、列侯のまま死去。宣平侯は世襲された模様。

  5. 彭越(梁王)。前196年、王国で罪を犯して長安に逃亡した太僕(官名)に謀反を告発されて蜀に流された。しかし蜀でもまた謀反を起こしたとされて一族とともに誅殺された*4

  6. 英布(淮南王)。前196年、彭越が誅殺されたの聞き、反乱を起こし、敗れて殺された(前195年)。

  7. 呉ゼイ(長沙王に分封)。前202年、分封された年に長沙王のまま死去。子の呉臣に世襲された。七人のうち諸侯王を剥奪されなかったのは彼だけだ。南の辺境だったから見逃されたのかもしれない。数代のちに「呉氏長沙国」は廃絶する(前157年)。

もう一人の異姓諸侯王、盧綰

盧綰

劉邦とおなじ沛県豊邑中陽里の出身。

盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また、盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、彼らの息子である二人も竹馬の友として育った。平民時代の劉邦が罪を犯して逃亡した際も、盧綰は劉邦と行動をともにしたという。二人の親友付き合いは、劉邦が皇帝になってからも続き、劉邦の臣下では唯一盧綰のみが、劉邦の寝室に自由に出入りすることが許されたという。

出典:盧綰<wikipedia

盧綰は劉邦とともに戦い続けた。そして前202年、臧荼が反乱を起こした時は太尉(軍事担当宰相)だった盧綰が後任の燕王に封建された*5。しかし前195年、彼もまた謀反の疑いをかけられた。竹馬の友の劉邦に直接話して嫌疑を解くことを望んだが、同年に死去してしまったため、盧綰は匈奴に逃亡した。

功臣粛清の裏に呂后

これら異姓諸侯王については、漢王朝の脅威となったため排除されたとしばしば説明されるが、自発的に反乱した臧茶以外はいずれも積極的に漢王朝に反抗したわけではなく、むしろ王朝のほうが言い掛かりをつけている。韓信・彭越の殺害が高祖の皇后である呂后(前124~180)の意向であったように、異姓諸侯王を排除しようとしたのは呂后であった。盧綰亡命の経緯はその点を明確に示すものである。呂后は漢王2年(前205年)、劉邦項羽に大敗して人質になった時に、漢側諸侯が楚に寝返るさまを目の当たりにした。この経験から、恵帝を案じて諸侯王反乱の芽を摘み取ろうとしたのかもしれない。唯一残っていた長沙王呉氏も文帝7(前157)年に後嗣なく死去して国除となり、異姓諸侯王は完全に消滅する。

出典: 冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p73/上記は鷹取祐司の筆

功臣粛清が呂后の意向だという主張は上の本以外には見たことはないが(見落としてるだけかも)、興味深いので書き残しておく。



中央政府の方針は達成したように思えたが、のちに同姓諸侯王が反乱を起こすことになる。


*1:同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版

*2:西嶋氏、同著/p100

*3:出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p140

*4:鶴間氏同著/p141

*5:上記wikipedia

前漢・高祖劉邦②:郡国制

郡国制は封建制と郡県制を併用したものと言われている。だからまずは封建制と郡県制を知らなければならない。約2300字。

封建制とは?

中国の封建制は日本と西欧の封建制とは似て非なるものと考えたほうがいい。ここでは日本・西欧のそれの説明はしない。

デジタル大辞泉によれば、「封建」とは《封土を分けて諸侯を建てるの意》。「封土」とは《封建君主が、その家臣に領地として分かち与えた土地》(これもデジタル大辞泉)。

封建制(周)

中国の周時代の封侯建国を意味する政治制度。

 周王朝の政治制度であり、周王が一族や功臣、地方の有力な土豪を諸侯として、一定の土地と人民の支配権を与え、統治したシステムをいう。諸侯に与えられた地域を「国」といい、諸侯を封じて(土地と人民を与えて)国を建てることが「封侯建国」であり、その略が「封建」である。諸侯は国を支配し、国内の土地を一族や臣下に分与した。周王と諸侯、諸侯とその家臣である卿大夫は、擬制的な血縁関係にあり、その基盤には血縁的な宗族によって結びついている氏族社会があった。

出典:封建制(周)<世界の窓

西周代は氏族社会(血縁による共同体)であったが、支配領域が拡大するに従って、擬制的な血縁関係を使ってコントロールしようとした。分封(封建)された諸侯はその地の最高権力者であり軍も持っていたので半独立国であった。春秋戦国時代(東周)に入ると諸侯は事実上独立国となった。中央政府である周室が機能しないのだから当然といえば当然。

項羽が中華統一を果たした時には分封(領地を分け与えて支配させること)して18の王が誕生した。これも封建制といわれているが、擬制的な血縁関係という建前すら無く、単に論功行賞の一環として功臣に分け与えた(分封した)だけ。これを封建制と呼んでいいのかとすら思うが実際に封建制で通用しているようだ。

郡県制とは?

ぐんけん‐せい【郡県制】

中国で、戦国時代から秦代に施行された、中央集権的な地方行政制度。全国を皇帝の直轄地として郡・県に分け、皇帝の任命する地方官を派遣して統治させたもの。

出典:デジタル大辞泉<コトバンク

郡県制は始皇帝が始めたことではなく、戦国時代よりあった制度だ。始皇帝は統一後全土の王国を潰し36の郡を置いた(丞相・李斯の案だといわれている)。各地の既得権益はことごとく潰されたから、権益者たちの不満は打倒秦へと向けられたことは想像に難くない。

郡国制とは?

高祖は7人の功臣を分封し諸侯王にした(他方で近親・同族にも分封し諸侯王とした)。しかし帝国内の過半は郡県とした。統一秦と項羽の統一時代との両方の失敗から学んだ結果ということもできる。この状態が郡国制と言われている。

郡国制

漢(前漢)の高祖の全国統治法。秦の郡県制と周以来の封建制を併用したもの。
漢帝国の初代、高祖の統一政策の中心となった地方行政制度。皇帝の直轄地としての関中(長安の周辺地域)には、郡県制をしき、官吏を派遣して直接支配し、それ以外の地には一族や功臣の有力者を諸侯王として配して世襲的にその地の支配権を任せる封建制を復活した。彼らはそれぞれ王と言われ、その治める地域は国と言われた。このような封建制と郡県制をあわせたものが郡国制である。[以下略]

出典:郡県制<世界史の窓

「周以来の封建制」と書いているが、周の封建制は、上の引用で書いているが、血縁関係が基本になっている。一方、前漢の体制は功臣を分封しているだけで血縁関係を拠り所として封建しているわけではない。功臣を分封することは項羽の天下でも行っていることであり、前漢の体制は項羽の時代の体制を一部継承した形である。

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出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p138

上の地図のように首都に近いところは郡県を置き、遠方は王国を分封して政治を任せる体制が郡国制だ。

郡国制の一部として「列侯」のことも書いておこう。列侯とは諸侯王の次の爵位が列侯になる。列侯には県単位の領地が与えられ世襲ができた。戦功第一と讃えられた蕭何は酇(きん)県を封ぜられて酇侯と呼ばれた*1

列侯は中央政府が定めた二十等爵の最上位だが、その上に諸侯王という爵位がある。



【メモ】郡国制は時代が下るにつれて変わっていく。武帝の時代にはほぼ郡国制と変わらないものになるのだが、ここらへんはおいおい記事にする。

*1:出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年/p108((同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版