歴史の世界

前漢・高祖劉邦①:皇帝即位/長安建設

前漢」シリーズの1ページ目。項羽との戦いが終わり劉邦が皇帝に即位するところから始める。約4000字 


前202年 漢王劉邦、皇帝に即位
前201年 白登山の戦い(高祖、匈奴に敗れる)
前200年 都を長安に定める(長安城が完成するのは前190年)


「漢王」劉邦、皇帝に即位

前二〇二年正月、漢王とともに楚漢戦争を戦った諸侯や将軍たちが、項羽を穀城に埋葬したあと、定陶に集結した。山東省の西端、山東丘陵の西の平原である。項羽という敵がいなくなり、同時に西楚覇王というリーダーもいなくなった。漢王劉邦が戦争に加わった人々を治めていくには、漢王の地位をあげなければならない。漢王と功臣たちの間でつぎのようなやりとりがあった。

漢王はいった。
「帝という資格は、賢者こそがもつものであり、そら言をいうような人間がもつものではありません。だから私は帝位につくようなことはしません」。

群臣はいった。
「大王は庶民から身を起こし、悪逆どもを殺し、天下を平定し、功労のあるものには土地を与えて諸侯に封じました。大王が帝号を唱えなければ、諸侯たちはみな自分の地位が不安になります。私たちは死をもって帝号を守っていきますから」。

漢王は三度辞退し、やむをえず「諸君が国家のために役立つというのであれば」といった。

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p135

群臣とは、楚王韓信・韓王信・淮南王英布・梁王彭越・趙王張敖(ちょうごう)・もとの衝山(こうざん)王呉ゼイ(項羽によって王位を剥奪された)・燕王臧荼(ぞうと)、楚漢戦争で劉邦についた七王*1。ここで示した肩書は劉邦の即位の直前のものとなる。

以上のような物語は作り話かもしれないが、「三度辞退する」ことは中国では「マナー」なので劉邦はそれに従っただけなのかもしれない(ただこの「マナー」がいつできたのかは分からない)。

ともかく劉邦は「皇帝」という称号を採用した。皇帝という称号だけでなく、劉邦中央政府は秦律(秦の法律)を採用し、首都も秦の咸陽のすぐそばに長安を建設した。有名な郡国制という地方行政制度も時代が下るに連れて秦が採用した郡県制に近づけるように指向した。

こういう理由で前漢帝国は秦帝国の継承者である。皇帝即位は劉邦が皇帝になるという意味だけではなく、前漢帝国が秦帝国を継承することを指向した代表的なイベントである(劉邦たちがそう考えていたかどうかは別として)。

この後は皇帝になるということが中華の支配者を継承することを意味するようになるのだが、同時期に複数の皇帝が存在する時代も少なくない。

長安建設

洛陽から漢中へ

高祖劉邦が皇帝に就いた後、数ヶ月ではあるが都は洛陽だった。洛陽は古来より中華・中原の中心であり、交通の要衝だった。一人を除けば、ここに都を置くことに異議を唱える者はいなかった。

高祖が長安に遷都するきっかけを作ったのは婁敬(ろうけい)という一人の兵卒だった。婁敬が隴西(現在の甘粛省ウイグル内モンゴルの間)に国境警備の役に就くための旅の途中で洛陽を訪れた。同じ斉出身の虞将軍に高祖への謁見を頼み込み許された。*2 *3

斉人婁敬という者、高祖を説得して曰く、
「洛陽は天下の中央に位し(結構な都ではありますが、要害の地ではないから、ここに都する天子に)徳があれば盛んになるが、徳がなければ滅びやすいというところです。しかし、かの秦の地関中は後ろに山を負い、前に渭水をめぐらし、司法が自然の要塞で固められています。陛下がもし秦の旧地に拠られたならば、天下の亢(くび)を扼して、その背をうつ[頭をおさえつけて背をうつ、つまり天下を制御する]ように中国を自由にすることができるでしょう」と。

高祖はこれを張良に謀った。張良
「誠に洛陽は四面に敵をうけ易く、武力を用うるに適した国ではありません。これに反し関中は殽山(こうさん)、函谷関を左に控え、隴山や蜀の嶮を右にし[皇帝は北に座り南面している]、三面が要害で守られています。婁敬の説は正しいでしょう」と言った。高祖は即日西に向かい、関中に都を定めた。(関中の櫟陽(れきよう)を首都とした。ここに櫟陽宮がある)。

出典:曹先之/森下修一訳 『十八史略(上)

上で引用した鶴間氏の本では婁敬のことを「謎の人物」と紹介し「素性はよくわかっていない」と書いている。高祖は婁敬の献策を功績と認め劉姓を賜った。

高祖はすぐさま関中に都を移す準備をしたという。すぐに長安ができるわけではないので、いったん櫟陽に仮の都を置き、秦の都咸陽の郊外に長安を建設した。長安城が完成するのは前190年。

遷都した要因:匈奴の勢力拡大

高祖は張良に謀る前に群臣に謀っている。史記の婁敬の列伝(劉敬叔孫通列伝)によれば、彼らはみな山東の出身者で遠方へ移ることを嫌がった。そして婁敬の主張に対してこう反論した。「周の都洛陽は数百年続き、秦は二代で滅びました」と。

それでも高祖は漢中に入った。入らなければならなかった。それは内側(内乱)からの防衛だけではなく、外側(匈奴)からの防衛が喫緊の課題になったからだ。かの有名な冒頓単于匈奴を大勢力にまとめあげて漢帝国内に侵入してきたのだ。

関中に移る前年(前201年)、白登山の戦いという戦いがあった。以下引用。

楚王項羽を滅亡させて中国再統一を果たした皇帝劉邦は、匈奴へ備えるために韓王信を代(現在の山西省)に派遣するが、匈奴の脅威を間近で見た韓王信は匈奴との和平を唱えた。これを裏切りとみられた韓王信は、匈奴に投降した。韓王信の軍隊を加えた匈奴は40万の大軍で太原へ攻め込んできた。

劉邦は32万の軍勢をひきつれて平城で匈奴を迎え討った。だが劉邦の本隊は、弱兵ばかりに見せかけた匈奴軍の偽装退却にだまされて進撃して孤立してしまい、白登山で包囲された。この時、匈奴軍は北方の軍団は黒馬、南方の軍団は赤馬、西方の軍団は白馬、東方の軍団は白面の黒馬に乗って漢軍を包囲していたという。

7日間包囲されていた劉邦は陳平の献策に従い、冒頓単于の妻に贈り物をして包囲の一角を開けさせた。劉邦の軍勢はそこから包囲を抜け出し、命からがら長安に逃げ帰ることが出来た。この時、漢軍兵士の10人に3人は凍傷で指を失っていた。

出典:白登山の戦い>wikipedia

代は匈奴と国境を接する地域でここを破られれば洛陽までそう遠くない。そして婁敬が言うように防衛に適していない土地だ。劉邦が時を置かずに関中に移ったのはこのような背景があったからだろう。

関中首都圏整備構想

また劉敬(婁敬)にまつわる話。

劉敬の頭のなかでは、外交と内政は一体化していた。匈奴はすでに河南(オルドス)を回復しているので、新都長安を建設しても、南の白羊王や楼煩(ろうはん)王がいざ攻撃すれば七〇〇里の距離、一昼夜で着いてしまう。それを防ぐためには、首都長安を囲む漢中全体を固めなければならない。秦の崩壊後、土地は肥沃であるのに人口は少なくなっている。北の匈奴と東の諸侯の反抗を防ぐためにも、関中を回復しなければならない。まず斉の田氏や楚の昭・屈・景氏、そして燕、趙、韓、魏といった旧戦国の国々の王族や貴族を関中へ移住させるべきだと提言した。関中首都圏整備構想は、対匈奴外交からから生まれてきた。

出典:鶴間氏、同著/p155

  • オルドスとは長安のすぐ北の黄河の屈曲部の内側の地域。漢代の一里は約400mとすると*4、700里は28万m=280km(東京-名古屋の直線距離が263km)。

  • 名家を関中に移住させたのは徙民政策(しみんせいさく)の一環であると思われる。徙民とは強制移住のことで、反抗のおそれのある集団・勢力を地元から引き剥がすことにより弱体化させることが目的である。強制移住については古代オリエントで頻繁に行われていたという。バビロン捕囚が良い例だろう*5

  • 内乱抑制、関中人口増大、国防増強の一石三鳥の計。



*1: 西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p100 

*2:婁敬<wikipedia

*3:巻099 第39 劉敬叔孫通列傳

*4:wikipedia「里」

*5:バビロン捕囚<wikipedia