歴史の世界

前漢・高祖劉邦④:法三章/蕭何の九章律と秦律

蕭何が作ったとされる「九章律」は漢の法典なのだそうだ(「法典」についてはリンク先参照)。これに関連して法三章と秦律(秦の法律)のことも書く。約1700字

法三章

秦帝国が亡びる直前、子嬰は「三世皇帝」と称せずただ秦王とした。

前206年10月、劉邦の軍が関中に入ると秦王子嬰は覇水のほとりで劉邦を出迎え降伏の意を示した。劉邦はこれを受け入れ、皇帝の証である玉璽などを受け取り、子嬰の生命を保証した(ただし後で項羽に殺された)。ここに秦帝国は正式に滅亡した。*1

劉邦は咸陽に入ると家臣の進言を聞き入れて宮室やに封をして項羽の来着を待った(項羽は美女や財宝を略奪し、火をかけて咸陽を廃墟にした)。*2 *3

覇上に引き上げた劉邦は、この地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりもでき、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」の3条のみに改めたものである。

出典:劉邦wikipedia

蕭何の九章律と秦律

国家統治の法としては法三章では不十分なため、法典作成担当の蕭何は九章律を作った。

九章律の引用。散逸してしまっているようだ。

九章律

中国、漢の高祖劉邦(りゅうほう)(在位前206~前195)のとき、相国である蕭何(しょうか)が秦(しん)代の法をもとにつくった漢王朝の基本的法典。戦国魏(ぎ)の文侯(在位前445~前396)時代に、李(りかい)の作成した『法経』6編(盗、賊、囚、捕、雑、具法)が戦国秦の商鞅(しょうおう)によって律と改められ、のちに蕭何が戸、興、厩(きゅう)3編を加えて九章律としたと伝えられる。すでに散逸してしまっているので、その内容はつまびらかではない。しかし清(しん)朝以来の漢律の逸文輯集(しゅうしゅう)作業によって二百数十条の律文が確認されており、九章律に相当すると思われる条文もみられる。[鶴間和幸]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) <コトバンク

ここで蕭何に関するエピソード。

蕭何は劉邦が沛公として咸陽に入った時に、秦の丞相や御史の図書を発見して隠した。そのことで項羽が咸陽に火を放っても、多くの貴重な書が、無事残されたのである。劉邦が漢王になってからは、蕭何が保存した秦の図書によって、全国の地形や人口分布、防衛上の強弱、人民の苦悩を理解したという。

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p137

これだけで地方の小役人がいきなり国家経営できるはずもないから関中にいた秦帝国の旧臣・旧官僚を採用したんだろう(この推測に証拠は全く無い。明治政府が旧幕臣を大量採用したのと重ねあわせているだけだ)。

ともかく、前漢中央政府は秦の法律を継承した。西嶋氏によれば、諸侯王や列侯の分封を除けばほとんど秦制を踏襲した、漢帝国秦帝国の継承者だとしている。*4



秦帝国滅亡前後の劉邦項羽の善悪のコントラストがはっきりしすぎてるので、法三章の話も作り話かもしれない。府庫に封をしたことと、蕭何が書類を持ちだしたことは矛盾ではないのだろうか?

*1:秦<wikipedia

*2:秦<wikipedia

*3:出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年/p90(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版 ) 

*4:西嶋氏、同著/p116