歴史の世界

メソポタミア文明:アッカド王朝時代① 時代区分/セム人とアッカド人

シュメールを統一しかけたウルク王ルガルザゲシを打倒して、アッカドサルゴンがシュメール統一を果たす。サルゴンより始まる王朝をアッカド王朝と呼び、この時代をアッカド王朝時代と呼ぶ。

時代区分

前2900-2335年 初期王朝時代
前2335-2154年 アッカド王朝時代
前2112-2004年 ウル第3王朝時代

アッカド王朝時代は初期王朝時代とウル第3王朝時代の間というのが一般的だ。しかし、アッカド王朝第5代シャル・カリ・シャリの治世、前2200年頃に異民族勢力グティがシュメールへ侵入してシュメールの統一王朝アッカド王国は崩壊した。アッカドは王朝自体は存続したものの、その勢力範囲はシュメールのごく一部に過ぎなかった。 グティはシュメールを統一する術(すべ)は持たず、シュメールは分裂し、かつてのシュメール諸都市は独立した。

このシュメールの諸国分立の時代は一般的にアッカド王朝時代に含まれる。ウル王ウル・ナンムがシュメールを統一してウル第3王朝を建てた時、アッカド王朝時代は終わる。

セム人とアッカド

アッカド人はセム系の民族で、セム人とはセム語族の言語を話す諸民族の総称(俗称?)である。セム語族の原郷(原産地、homeland)は諸説あり定まっていないが、小林登志子著『シュメル』(p171)*1によれば、アラビア半島南端の地、現在のイエメン共和国と言われている。

さらに『シュメル』(p171)によれば、半島から南シュメールに入っていったのが東方セム語族に属するアッカド人だ。

アッカド人がいつ頃南シュメールに移住したかは分からないが「Kish(Sumer)<wikipedia英語版」によれば、前3100年頃(ジェムデト・ナスル期)には南シュメール北部のキシュで大きな勢力を持っていた。ただし、「アッカド人」と呼ばれるのはアッカド王朝が成立した以降のことだ。南シュメール北部の地域がアッカドと呼ばれるのも同じ。

シュメール人アッカド

バビロニア[南メソポタミアのこと。引用者注]においては、シュメル人は南方、アッカド人は北方に住み分けていたようだが、両者は二分されていたのではなく、混在もしていた。

シュメル人とアッカド人の間には民族対立はなかったのであろうか。この観点からの研究もかなりこれまでされてきたが、どうやら深刻な民族対立はなかったようだ。シュメルの都市国家アッカドサルゴン王に切りしたがえられたが、これも民族対立に起因するものではなかった。

シュメル人とアッカド人はともに都市生活をし、神を崇拝し、文化を持つ民であって、共存していた。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p183

シュメール人アッカド人は言語が違い、おそらく顔立ちもちがったが、共通の神話を持って信じていたことは間違いない。シュメール人が作った文明・文化をアッカド人がそのまま受け入れたといったほうがいいかもしれない。

さらに言えば、シュメール人アッカド人は自分たちの住む場所(南メソポタミア)を「文明・文化の領域カラム(kalam)」として、その周辺地域を「クル(kur)」と呼んで野蛮視していた。*2

・・・ただサルゴンを、セム人によるシュメール人との争いの勝利者と理解すべきではない。サルゴンに支配権を与えるのは、シュメール人最高神であるエンリルである。サルゴンは捕らえたルガルザゲシをニップルのエンリル神殿まで連行しているし、彼の王碑文はエンリル神殿に奉献されている。彼はシュメール文化の庇護者でもあった。彼は娘をウルの月神ナンナの女官とし、彼女はシュメール語で多くの作品を書きのこしたという。これ以後、約2000年にわたって、メソポタミアの王はサルゴンにならって、娘をウルのナンナ神殿に送りこむであろう。

出典:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p37

アッカド語

前 3000年頃から紀元頃まで,メソポタミアで用いられていた言語。アフロ=アジア語族のセム語派に属し,単独で北東セム語をなす。前 2000年頃からアッシリア語とバビロニア語の二大方言に分れたため,アッシリアバビロニア語ともいわれる。セム語のうち年代的に最古のものであるが,セム祖語の面影はあまりとどめていない。これはセム祖語から最初に分れ,しかも系統関係の不明なシュメール語の影響を受けたためと考えられている。シュメール人から受継ぎ発展させた楔形文字で書かれ,最古の文献は前 2800年頃。前7~6世紀に徐々にアラム語に圧倒された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

アッカド語wikipedia」によれば、アッカド語の語順はシュメール語と同じSVO。セム語の大半はVSO。

アッカド王朝がメソポタミアを支配するに及んで、アッカド語がシュメル語に取って代わる。アッカド王朝が滅亡した後も、前2000年紀になるとこの傾向は本格化して、シュメル語はラテン語と同じように教養としては学ばれても、日常語としては死語になる。

アッカド人は自らの言語アッカド語を表記するために、シュメル人が発明した楔形文字を借用した。中国語を表記するために発明された漢字を、日本語を表記するために日本人が借用したのと同様である。日本人は仮名文字を作ったが、アッカド人はこうした工夫はせずに楔形文字表音文字として使用した。

前14世紀前半の「アマルナ時代」になると、アッカド語古代オリエント世界の共通語として使用されていた [以下略]

出典:シュメル/p176-177

アッカド語wikipedia」によれば、主にアッシリア人カルデア人バビロニア人)やミタンニ人に話されていた。

*1:中公新書/2005

*2:前川徹/メソポタミアの王・神・世界観/山川出版/2003/p109-110

メソポタミア文明:初期王朝時代⑪ 青銅器時代の幕開け

西アジアでは、後期銅石器時代(約6000~5100年前)に銅製錬の技術が発展していき、砒素銅やエレクトラム(金と銀の合金)などが鋳造されてくる。後期銅石器時代の工房では、メソポタミアの近場で算出される銅鉱石から高品質の銅を得るために、別の鉱物を意図的に混ぜ合わせたと推察される。[中略]

約5000年前になると、ついに銅と錫の合金である錫青銅が開発される。手近に産出されていた銅と、さまざまな鉱石の組み合わせが試みられていった結果、もっとも効果的なのが錫であることがわかった。西アジアで最古級の錫青銅は、アッカド地方のキシュ遺跡(現代名ウハイミル)で、初期王朝時代ⅢB期(約4400年前)のA墓地に副葬された斧である。この青銅斧には、錫が15.5%含まれていることから、錫青銅の精錬技術においてまだ初歩的な段階にあったと推定されている。こうした銅と錫の出会いによって青銅器時代の幕開けとなる。

錫青銅の原料となる錫は、比較的メソポタミアの近場で採掘できた銅とちがい、かなり遠方に行かないと手に入らない。良質な錫の産地は、イラン東部からアフガニスタンにかけての地域に限定される。したがって、メソポタミアの支配者たちが東方の資源を開発するには、陸上交易網の整備を待たねばならなかったのである。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p154-155

上の同ページにおよそ5500年前にはロバが荷車を牽いている光景が西アジアで見られた、としている。つまりこの頃以前にロバの家畜化と車輪の発明は為されていた。

下はメソポタミア文明インダス文明のあいだの交易ネットワーク。

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出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p113



青銅器が登場したのは初期王朝時代ⅢB期の時代だが、青銅器がシュメール統一にどの程度 関係していたのかは分からなかった。

初期王朝時代はとりあえずこれで終わり。

メソポタミア文明:初期王朝時代⑩ 第ⅢB期(その5)初期王朝時代の終わり

記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期」からの続き。

初期王朝時代はアッカドサルゴンウンマ王(ウルク王)ルガルザゲシを倒してシュメールを統一する時に終わる。ルガルザゲシが活躍した数十年間は目まぐるしく情勢が変わったようだが、詳細な情報はなく断片的で、いろいろな説がある。(サルゴンについては別の記事で書く。)

ルガルザゲシ、ラガシュを滅ぼす

ルガルザゲシがラガシュを滅ぼした史実は、滅ぼされた側のラガシュの王碑文に残されている。

ウンマの人はラガシュ市を破壊してしまい、ニンギルス神に対して罪を犯した。その勝利に呪いあれ。罪はギルスのルガル(=王)、ウルイニムギナにはない。ウンマ市のエンシ(=王)、ルガルザゲシ、彼の(個人)神ニサバ女神はまさにその罪を彼女の首にかけるように。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p142

ウルクの王」

ルガルザゲシはウンマの王だったが、シュメール王名表にはウルク第3王朝の唯一の王として載っている。アッカドサルゴンの碑文にも「ウルクの王」として語られているから間違いないだろう。

支配領域について

王朝表〔王名表。引用者注〕は、ルガルザゲシはウルクの王であり、25年治世したと述べている。彼はウンマの支配者として出発して、のちウルクやウル、ラルサなどを征服したのである。彼の碑文には、全土の神たるエンリルの神の委任によって広大な領域を支配するというイデオロギーが明確に表現されている。ウルク王であり、「国土の王」であるルガルザゲシは、「下の海(=ペルシア湾)から、ティグリス・ユーフラテス河(にそって)上の海(=地中海)までの交通ネットワーク」を保護した。彼に全土の王権を与えた「エンリル神は、太陽が昇るところ(=東)から沈むところ(=西)まで彼に敵を許さなかった。彼のもとで国土(の人びと)は(安心して)やわらかい(?)草のうえで休んだ」。

出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p181(前川和也氏の筆)

王名表にはルガルザゲシは25年(または34年)治世したことと、アッカド王(サルゴン)に王権を奪われたことしか書いていない*1

ルガルザゲシの碑文から彼が「下の海から上の海まで平定した」と主張する学者がいるが(前川氏もその一人)、これは「エンリル神は東から西まで与えた」と同様にお告げの一部で事実ではないだろう。

「国土の王」は「全土の神たるエンリルの神の委任によって広大な領域を」与えられた、という意味が込められている。ちなみにこの称号を最初に使用したのはウルク王エンシャクシュアンナである(記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期<「キシュの王」と「国土の王」<国土の王」参照)。

「Lugal-zage-si<wikipedia英語版」には、キシュもルガルザゲシに滅ぼされたとなっているが、ソースは書いていなかった。

前田徹氏の論文『ROYAL INSCRIPTIONS OF LUGALZAGESI AND SARGON』(PDF)では、ルガルザゲシの支配領域は、ウンマの周辺(Umma,Zabala,Kian)とウルクの周辺(Uruk,Ur,Larsa)を中心とする属国の寄せ集め(patchwork)に近い、としている(上にある6都市は碑文に名がある)。

ルガルザゲシは「シュメールを統一した」とか「下の海から上の海まで平定した」とか言われているが、その主張の根拠がどこにあるのか知りたい。

サルゴンに滅ぼされる

サルゴンニップル市の神殿に残した碑文にルガルザゲシの敗北が書いてある。

シュメル統一を目指し、ウンマ市の王にあきたりずウルク市の王位を得ていたルガルザゲシ王をサルゴン王は急襲して捕虜とし、彼に代わってシュメル統一の覇業を成し遂げたことを次のように書いている。

サルゴンウルク市を征服し、その城壁を破壊した。彼は戦闘でウルク市に勝利した。ウルク市の王ルガルザゲシを戦闘で捕らえ、軛(くびき)にかけエンリル神の門まで連行した。

さらにウル市、ラガシュ市そしてウンマ市に勝利し、その城壁を破壊したと書き、次のように続ける。

国土の王サルゴンにエンリル神は敵対者を与えない。エンリル神はサルゴンに上の海(=地中海)から下の海(=ペルシア湾)まで与えた。[以下略]

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p174-175

ルガルザゲシを倒したサルゴン王はシュメールを統一するわけだが、これより先はアッカド王朝時代に入る。別の記事で書こう。



メソポタミア文明:初期王朝時代⑨ 神と宗教観と王権観

政治と宗教・思想・哲学は密接に関係しているのだが、宗教・思想・哲学は抽象的なものなので理解するのが難しい。理解するためには、まずその主張の前提となる知識を理解しておかなければならない。

シュメールの宗教や思想を知るためには以下のものだけでは全く足りないが、とりあえず記録しておこう。

初期王朝時代以前

初期王朝時代より前の宗教観を書いておこう。

『古代メソポタミアの神々』(p32-37)*1を参考にする。

宗教心の淵源をつき詰めようとしたらホモ・サピエンス誕生以前まで調べなければならなくなりそうだが、ここでは豊穣神像の話からすることにする。

チャタル・ホユック(ヒュユク)(先土器新石器時代の遺跡)やテル・エス・サワン(サマッラ期)から豊穣神像(基本的に女神)が出土している。時代が下り、前三千年紀に入ると、支配者階級が出現して、神殿を中心とした公共の宗教システムが整備されていく一方で、私的な民間信仰も受け継がれていった。

豊穣女神も名前をもち、大いなる神々の万神殿(パンテオン)のいち員に昇格して、堂々とした麗しい容姿で崇拝される女神グループと、相変わらず名もなく、大きな胸と大きなお尻が強調された裸体姿で量産され、庶民に信仰される女神のグループとに分かれていく。

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イランの型押し量産の豊穣女神。

頭髪を後ろに束ねて両手で乳房を持ち上げ、女性器が大きく表現されたイラン各地の量産女神は、安産祈願と家内繁盛のために各家庭で祀られたのであろう。このような型押し制作は、メソポタミア全土にも広がっていた。

出典:三笠宮崇仁監修、岡田朋子・小林登志子共著/古代メソポタミアの神々/集英社/2000/p37-38

公共の宗教システムの発展

公共の宗教システムの発展は神殿の発展に見ることができる。

エリドゥ(ウバイド期)では神殿の内部に祭壇と供物台が設けられていることから何らかの宗教儀礼が行われていたことが分かる。エリドゥはその後 神殿の建て替えが続けられ、神殿とその重要性の発展を観察することができる。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p102-104

世界最古の都市ウルクでも神殿は都市の中心にあり、公共行事の中心であった。

宗教観

メソポタミアの神々は人間の姿をとっていると信じられていた。神々は巨大で人知を超えた力を有するだけでなく、人間味のある感情と弱みもそなえた存在であった。神々は人間に畏怖心をもたらす「」を身にまとい、また「メラム」という光輝をそなえていた。ニやメラムは着脱することができ、神が死ぬと失ってしまうものである。神々は一般に天空に居住する不死の存在であったが、ドゥムジ、グガラナ、ゲシュティアンナといった殺された神々や英雄もいたし、黄泉の国にあたる地下世界に住むものまでいた。そうした神々のために神の似姿である像を制作した人間は、「口浄め」と「口開け」の儀式を行うことによって、神がその像に入り込むと信じていたらしい。神殿に祀られた神像としての神々は日々の食べ物を必要とするため、人間は毎日供えなければならなかった。そもそも古代メソポタミアでは食べ物や飲み物など神々の欲するものを捧げ、神々の世話をするために人間が創造されたとされていたのである

各都市に建てられた神殿には諸神が祀られていた。神々には自然の営為が神格化されたもの、豊穣の女神、無名の神々、家来の神々、天地が分かれる前の太古から存在する神々などがいた。メソポタミアの神々のなかで、きまった都市に祭儀の拠点をもたないものはほどんどないといってよい。弱小の神の信仰が廃れて国家神信仰が台頭することもあった。これは、ある都市国家が強大化して大きな都となり、本来は地方神にすぎなかった都市神の信仰が政治謙抑の伸張にともなって他の都市へと広がった結果である。初期王朝時代、シュメールの都市国家ラガシュで尊崇されていた神々は相互に家族関係を構成していたことがわかっている。これは大都市ラガシュに吸収された町や村落の多様な民間信仰が融合したためだと考えられる複数の都市で信仰をあつめた神も存在したようで、ウルクのイナンナ神、ザバラのイナンナ神、ニネヴェのイナンナ(イシュタル)神などは、もとは地方神であったイナンナがさらに権威のある国家神と同一視されたものである

出典:アンソニー・グリーン監修/メソポタミアの神々と空想動物/山川出版/2012 (稲垣肇氏の筆)/p10-11 (太字は執筆者、下線は引用者)

  • 上の神々の家族の話は、おそらくパンテオン(万神殿)やシュメール神話の誕生につながるだろう。どういうことかというと、シュメール人がシュメール地方(または南メソポタミア)を一つの地域とみなした時、パンテオンと神話が創造されたのだろう。

  • 「もとは地方神であったイナンナがさらに権威のある国家神と同一視されたものである」は まさに習合そのもの。イナンナがイシュタルという「別名」を持っているのは習合のせい。イナンナは「古代ギリシアではアプロディーテーと呼ばれ、ローマのヴィーナス(ウェヌス)女神と同一視されている」*2

  • 「食べ物や飲み物など神々の欲するものを捧げ、神々の世話をするために人間が創造されたとされていた」。ウルクの大杯はまさに王が都市神イナンナに食物を捧げている図像だ。この宗教観は、支配者層が恣意的に紛れ込ませたような気がするがどうだろう。勝手に想像すれば、人民から「税」を徴収するための神官たちが使った方便だったのかもしれない。

神々の「二重の性格」

前田徹著『メソポタミアの王・神・世界観』(p151)*3によれば、「シュメールの神々の最大の特徴は、万神殿(パンテオン)の神の性格と、都市神の性格の、二重の性格をもつことである」。たとえば、ウルクの都市神イナンナのパンテオンの性格は「戦闘の女王」が有名だろう。ニップルの都市神エンリルは「諸国の王」「神々の王」としての性格をもつ。

前田氏はこの二重の性格が政治史の反映だとする。

都市とその都市神の自立性が、最後まで維持されたところにメソポタミア史の特色があり、それを打破できなかったところに、メソポタミアの王権の限界があったといえる。王号であるルガルに代えて、新しい王権観にふさわしい王号が生み出されなかったことにも反映するが、メソポタミアでは、少なくともアケメネス朝ペルシア以前の新アッシリア新バビロニアまで、中央集権的国家体制の理念は完成されなかったといってよい。

出典:前田徹/メソポタミアの王・神・世界観/山川出版/2003/p162

別のページにも書いてあるので引用。

中国の王号と比較すれば、その差は明瞭である。中国の「皇帝」は、それ以前の「王」とは異質の隔絶した最高権を表象するために創出された。このような変化がシュメールでは起こっていないのである。実際は王権観や支配構造が変化したはずであるが、シュメールではそれを重視せず、空間的な領域への関心で王号を捉えた。都市国家から帝国へと展開するメソポタミアであるが、一方において空間的な領域への関心のみが存在し、王権の質的展開を明示する王号を生み出さなかったことは、メソポタミアにおける王権の限界性を示すものとして注目される。

メソポタミアの王・神・世界観/p22

上の主張をどういう意味か十分理解できていない上で解釈すると、中国の「皇帝」は中央集権国家の絶対的な元首として生み出された。これも正当化だが、「皇帝」の称号は やがて中国史において正統なものになった。つまり「皇帝」という称号の創出が政治史を変えたといえる。

いっぽう、シュメールでは「皇帝」に類似する称号が永く生み出されなかった。生み出されたのはアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世の「シャーハンシャー(諸王の王)」が最初だ。

「皇帝」や「シャーハンシャー(諸王の王)」の意味を十分理解できたら、前田氏の意味するところも理解できるだろう。



*1:三笠宮崇仁監修、岡田朋子・小林登志子共著/集英社/2000

*2:イナンナ/wikipedia または メソポタミアの神々と空想動物/p24

*3:山川出版/2003

メソポタミア文明:初期王朝時代⑧ 第ⅢB期(その4)初期王朝時代末の画期

この記事では、前田徹著『メソポタミアの王・神・世界観』*1の政治史の時代区分に頼って書いていく。ただし、この本は、今まで頼ってきた小林登志子著『シュメル』*2前川和也編著『図説メソポタミア文明*3や『世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント*4(参考にした部分は前川和也氏執筆の部分)の年代観とは すこし離れているので、年代については小林氏、前川氏の主張に頼る。

この記事で展開する時代区分は、前田徹氏の発案であるが、独自のもので学界全体に通用しているわけではないらしい。しかし神と現実世界の政治との関係を理解する上で重要だと思うので、この記事で採用してみた。

メソポタミアの王・神・世界観―シュメール人の王権観

メソポタミアの王・神・世界観―シュメール人の王権観

ウルク王エンシャクシュアンナ

この記事で注目する前田氏の時代区分はアッカド帝国誕生の直前のウルク王エンシャクシュアンナ治世の時代だ。

ウルク王エンシャクシュアンナとはどういう王だったのか。

前田氏の推測を交えた説明によれば(p34-35)、ラガシュ王エンメテナ治世以降の時期にウルク王エンシャクシュアンナは、アダブ、ニップル、ラガシュ、シュルッパク、ウンマと計6都市の連合軍を組み、キシュ王エンビイシュタルと戦い、征服した(ウルはウルク支配下に入っていた可能性が高い*5 )。(『シュメル』の巻頭年表には、ウルク王エンシャクシュアンナの名前は前2400~2334年の間にある。)

その後エンシャクシュアンナは「国土の王」を名乗る(p34)。彼は「国土の王」を初めて名乗る王だ*6。前田氏はエンシャクシュアンナが「国土の王」を名乗った時期をもって時代区分の「都市国家分立期」から「領域国家期」への画期としている

「キシュの王」と「国土の王」

キシュの王

前田氏の言うところの「領域国家期」の前には、前25世紀、「キシュの王」という称号があった。名乗ったのはウルのメスアンネパダ、ラガシュのエアンナトゥム、ウルクのルガルキギネドゥドゥだ。この称号は「戦闘の神」であるイナンナにより与えられる王の武勇の資質を表す称号である。「この称号は王個人の資質を象徴しており」、「覇権をめざして、北方の雄国キシュをも制覇できるほどの武勇をもつ覇者であることを喧伝するために名乗った王号である」(p27)。

国土の王

これに対し、「国土の王」は、エンリル神によって与えられる。エンリルはシュメールの神々の世界(パンテオン)の最高神であり、現実のシュメールの最高神でもある。

「国土の王」に込められた王の意志を要約すると以下のようになるだろう(p42を参考にした)。

シュメールの最高神エンリルより与えられたこの称号は、地上の支配権を「対抗するものなき唯一の王」として委任することの証であり、この王に敵対することは、エンリル神が定めた秩序の破壊者と見なしうる。

「国土の王」を名乗ったのは、ウルク王エンシャクシュアンナの他には、同じくウルク王の(ウルク王になった)ルガルザゲシがいる。おそらくこの二人だけ。これに似た称号で「全土の王」というものがあるが、これはアッカド王朝以降に使用されたものなのでここでは触れない。

都市国家から領域国家へ/宗教・思想の転換

「領域国家」の定義を本やネットで探しても無かったので、勝手に「複数の都市を一つの中央政府が統治する国家」としておこう。

さて、『メソポタミアの王・神・世界観』のp40 に「都市破壊記事」という節がある。ここではこの説を要約してみよう。

エンシャクシュアンナは碑文に「キシュを征服した」と書いた。「征服する」に相当する動詞「フル」は「破壊する」という意味も持つ。

前田氏によれば、シュメール・アッカド(つまり南メソポタミア)では、都市を「征服する・破壊する」ということは都市神に対する罪だという観念を持っていた。シュメール・アッカドの王は戦争をした場合、「フル(征服する・破壊する)」を使用することを避けて、「王を打ち倒した」というように表現した(ただし、エラムなどの周辺地域の都市には彼らを野蛮視していたようで「フル」を使用していた。

エンシャクシュアンナがシュメール・アッカドの都市であるキシュに対し、「フル」を使用したことは、宗教・思想の転換である。

それまでは「都市を征服・破壊することは都市神に対する罪」という観念から、エンシャクシュアンナのころより、「エンリル神に支配権を委任された唯一の王に敵対する者は、エンリル神が定めた秩序を破壊する者である」、だから敵対する都市を破壊することは何ら罪ではなく、むしろ責務である、という観念に変わった。

これはあからさまな正当化だが、ウルク王の軍事力の前に逆らう者がいなくなり、思想は転換された。これ以降、「シュメール・アッカドの神々」ではなく、唯一エンリル神の名のもとに侵略・征服が展開された。ただし、バビロン第1王朝が興ると最高神はエンリルからバビロンの都市神マルドゥクに代わった。



(雑記1)

前田氏は「国土の王」に似たものとして「すべての王」を紹介している(p28-30)。おそらく前2500年の前半から歴代のウンマの王が王碑文に使った称号だ。この称号は「国土の王」より前に現れている。

この称号も都市国家の枠を超えた領域支配の意欲が込められていたのかもしれない。しかしウンマは覇権を手にすくことに失敗したので、覇権を手にしたウルク王エンシャクシュアンナの「国土の王」とは一線を画する、と前田氏は思っているようだ(それゆえに、「すべての王」出現をもって「領域国家期」とするとはしなかった)。

ウンマはのちにシュメール地方(南メソポタミア南部)を(ほぼ)統一したルガルザゲシを生み出したが、ルガルザゲシはウンマからウルクに移って「ウルク王」を名乗り、「国土の王」を採用した(「すべての王」とは名乗らなかった)。


(雑記2)

領域国家を「複数の都市を一つの中央政府が統治する国家」としたが、エンシャクシュアンナより前の王のルガルキギネドゥドゥの治世はどうなのだろう?彼は「ウルクとウルの王」を名乗っていて、前田氏はウルがウルクの支配化にあったとしているが、そうなるとウルクは領域国家ではなかったのか?また、雄国ウルほどの都市国家が他国に支配されるのだったら弱小都市国家など既に征服されていたのではないのか?

中国では(春秋)戦国時代の戦国七雄の頃は領域国家の時代と見なされていることを考えれば、初期王朝時代末の領域国家時代もエンシャクシュアンナよりも前のような気がする。

そうなると、前田氏のエンシャクシュアンナ登場の画期は「領域国家」ではなく、「統一国家への宗教・思想の転換」なのだが、やっぱりこれでは分かりにくいか。


(雑記3)

時代が大きく変わる時には思想の転換はあるものだ。戦国秦・贏政(えいせい・後の始皇帝)の時も、資本主義の手前でも それは為された。これらのことはいつか書こう。

*1:山川出版社/2003

*2:中公新書

*3:河出書房新社(ふくろうの本)/2011

*4:中央公論社/1998

*5:エン赤珠アンナより前のウルク王ルガルキギンネドゥドゥは「ウルクの王、ウルの王」と名乗っている

*6:メソポタミアの王・神・世界観/p19

メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)ラガシュの歴史 後編

前回の記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑥ 第ⅢB期(その2)ラガシュの歴史 前編」の続き。

ラガシュは前2500年頃からウル・ナンシェ王朝が治めていたが六代目のエンアンナトゥム2世で世襲が途切れて、七代目にあたるエンエンタルジは血縁でない人物のようだ。続く八代目ルガルアンダはエンエンタルジの息子のようだが、その次の九代目ウルイニムギナ(ウルカギナ)は先代父子と血縁がなく元は軍司令官だった*1

九代目:ウルイニムギナ

クーデタを起こし王位を簒奪した約1年後、「改革」を行ったことについての碑文を書いた。この碑文もかなり有名なものらしく、「改革碑文」と呼びならわされている。

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ウルイニムギナ王の改革碑文 2本の粘土製円錐に同一内容が記されている
ルーブル美術館蔵)

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p155

この「改革碑文」は前任者たちが、神々の財産を横領し、役人は人民に重税を課して強者が弱者の財産を掠め取っていたと批判する。このような状況で、
「[ラガシュの都市神の]ニンギルス神が36000人の(ラガシュ市民の)なかからウルイニムギナ(を選びだし、彼)にラガシュの王権を与えた」。
ウルイニムギナは、税を軽減し、弱者を救済し、ラガシュに自由をもたらした。さらに債務奴隷を解放し、重罪人を牢屋から解放した(恩赦を施した)(『世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント』(p180)*2

ただし、ウルイニムギナの后妃たちが以前よりも驕奢な生活をしていたという主張もある。「Urukagina<wikipedia英語版」によれば(ネタ元はKatherine I. Wright/Archaeology and Women/2007/p206とのこと)、后妃の所帯(宮殿とそれに所属する倉庫や、さらに広くは后妃が管理する所帯全体を指す)の総人員が以前の50人から1500人に増えている。さらに聖職者たちから押収した膨大な土地を王后ササ(Shasha)に与えた、としている*3

この「改革」は結局のところ、『シュメル』(p158)によれば、治世3年目で挫折した。そして5年目にはウンマ氏のルガルザゲシの攻撃が激化し、7年目にはラガシュ市は敗北し、滅亡する

年代

前川和也編著『図説メソポタミア文明』によれば、ウル・ナンシェ王朝は前2500年に建てられ、六代まで続く。

『世界の歴史1』(p179)によれば、ウル・ナンシェと血縁関係にない七~九代目は前24世紀前半の約20年間 治めた、とある。前24世紀半ばに滅亡。



*1:ウルイニムギナ<wikipedia

*2:中央公論社/1998/前川和也氏の筆

*3:wikipediaの"Household of Women"は「エミ」すなわち「后妃の家=所帯」を表す。シュメル/p132参照

メソポタミア文明:初期王朝時代⑥ 第ⅢB期(その2)ラガシュの歴史 前編

第ⅢB期の都市国家ラガシュの歴史を書く。この時代の文字史料が他の都市国家に比べて突出して多く、他の都市国家の情報が少ないからだ。

都市国家ラガシュ

シュメール南部の都市ラガシュの主地区ギルスは、1877年からフランス対によって発掘された。発掘が開始されてまもなく、前3000年紀後半の諸時代に作られた彫像、浮彫り、碑文、粘土書版などが多く出土して、シュメール文明が実在した確証がはじめて得られたのである。

出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p176/前川和也氏の筆

発掘は1930年代まで断続的に行われた。これらの遺物の幾つかはパリのルーブル博物館が所蔵している。シュメール文明研究の黎明期から研究され続けたこの都市国家は、よくまとめられた形で参考図書に紹介されている。

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初期王朝期Ⅲ期、おそらく前2500年頃、シュメール都市国家の一つラガシュでウル・ナンシェが王朝を立てた。ラガシュでは彼以後、彼の子孫たち5人、ついで彼らと直接的な血縁関係にはない3人がつぎつぎに即位して(上図)、たくさんの政治碑文をのこしている。他都市から出土した碑文の数は多くないから、ラガシュの支配者たちの記録はシュメールの有力都市国家が覇権をめぐって争った時期の歴史を知るうえで、もっとも大切な史料である。ラガシュとは、ウル・ナンシェ以前の時代にギルス、ラガシュ、ニナそしておそらくニンマルの4独立都市が連合して生まれた都市国家の名前である。ただし、連合の敬意はわかっていない。当時のシュメールのなかではもっとも巨大であったが、前二千紀〔ママ〕はじめに最終的に成立した「歴史」テキスト(シュメール王朝表)では、ラガシュはいっさい言及されていない。

出典:前川和也(編著)/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p25

  • 上にある「シュメール王朝表」は「シュメール王名表」のことを指す。
  • 王名表に載らなかったラガシュの王朝は後世の人間が別に王朝表を作った。

上の説明よりラガシュは第ⅢB期前期のもっとも巨大な都市国家だった。ラガシュは隣国ウンマと長い闘争を繰り広げるがウンマのほうも、史料は多くないが、強国に違いない。後世シュメール地方(南メソポタミアの南部)を統一したルゲルザゲシはウンマの王だ。

初代:ウル・ナンシェ

ウルナンシェ王朝(ラガシュ第1王朝とも呼ばれる)を立てたウル・ナンシェは多くの石製の奉納板を残しているが、その中で最も有名なのが下の奉納板。

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楔形文字解読例(ウルナンシェ王の「家族の肖像」) 神殿に奉納した石製の額で、真ん中の孔に神殿の壁面から突き出た棒状の突起をさし込んで掲げた

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p48

この奉納板は上下2つのシーンを描いたもので、両方とも大きな人物が王だが、上段が神殿の建設者としての王、下段が宴を楽しんでいる王を表す。

三代目:エアンナトゥム

エアンナトゥムはウル・ナンシェの孫で王朝の3代目。

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「エアンナトゥム王の戦勝碑」
(左)人間たちの戦い
(右)神々の戦い

出典:シュメル/p135

左側の右上には、敗れたウンマ兵の斬られた首をハゲワシがついばんでる様子が描かれている。この様子に因んで日本では長らく「禿鷹碑文」と言いならわされていた*1。ハゲワシの拡大図はwikipediaこちらのページで見ることができる。

上の戦勝碑の重要な点を挙げていこう。

  • 最古の戦争記録と言われている。「ウルのスタンダード」やウルナンシェ王の「家族の肖像」の戦闘のシーンは具体的な戦争にもとづいているかどうか分からないが、この戦勝碑はラガシュ・ウンマ戦争の様子を表している*2

  • この戦勝碑が作られた頃にシュメール語の正字法(正書法)が確立した*3 *4。これより後は意味を把握しがたい表現のテキストが少なくなった。

  • 右側の神々の戦いにある人物像はラガシュの都市神ニンギルスを表している。戦争は実際には人間が戦っているのだが、シュメルの人々は「都市神は先頭に立って戦っている」「この戦争は都市神どうしの戦いだ」と思っていた。

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出典:Stele of the Vultures<wikipedia英語版*5

  • 左側の人間たちの戦いでは、槍兵・盾兵の密集戦団(ファランクス)が描かれている。彼らの足元には敗兵たちの死骸だ。先頭に立っているのがラガシュ王エアンナトゥムだ。実際に盾も取らずに先頭に立って戦ったら真っ先に殺られるので、これは王が戦場で指揮をしたことを表現していることを伝える図像なのだろう。

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出典:Stele of the Vultures<wikipedia英語版*6

(以上、列挙おわり)

この戦勝碑以外の文字史料(碑文)によれば、「エアンナトゥムはエラム、ウルア、ウンマ、ウル、ウルク、ウルアズなどの都市と戦って勝利を収めたという。具体的な経過については凡そ知られていない」(エアンナトゥム<wikipedia)。

四代目/五代目:エンアンナトゥム1世/エンメテナ

ラガシュ・ウンマ戦争

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Map showing the extent of the Early Dynastic Period (Mesopotamia)

出典:Early Dynastic Period<wikipedia英語版*7

『図説メソポタミア文明』(p26)によれば、ラガシュとウンマはウル・ナンシェが即位するしばらく前から「グエディン(おそらく、ウンマ、ラガシュ西方に広がる巨大な平野の東端部)」をめぐって争っていた。この争いは百数十年に及ぶが、一部の様子がエンメテナが回顧した王碑文に残っている。小林氏はこれを以下のようにまとめた。

昔、キシュ市のメシリム王の調停によってラガシュ市とウンマ市の国境は画定し、境界石が立てられていた。ところが、ウンマ市の右手王が境界石を壊してラガシュのエディンに攻め込んで来た。これをラガシュはよく食い止め、ウンマ兵の死骸の山を築いた。その結果、エアンナトゥム王はウンマのエンアカルレ王との間に国境を定め、メシリム王の定めた境界石を元に戻した。

ウンマの人はラガシュの大麦を借りたが、利子が膨大な量となって返せなくなったために、ウンマウルルンマ王は運河から勝手に水を引き、境界石を壊し、境界を守る神々の聖堂を破壊した。しかも、いくつかの都市がウルルンマに加担し、国境の運河を越えて攻め込んで来た。エンアンナトゥム1世はこの侵攻を受けて立って戦ったが、どうやら戦士したらしい。

この非常時に跡を継いだエンメテナはよく奮戦し、父の仇(かたき)ウルルンマを敗走せしめた。ウルルンマ亡き後のウンマのイル王とエンメテナは再度協定を結んだ。

出典:シュメル/p140-141

  • 王たちの名の最初の二文字「エン」はシュメール語で「王、支配者」を意味する。
  • この時代のキシュは大国と見なされていた。ラガシュはキシュを宗主国とみなしていたそうだ*8ウンマもみなしていたのかもしれない。

ラガシュとウンマの戦いはウンマ王ルガルザゲシがラガシュを滅亡させるまで続く。

粘土釘/ウルクとの同盟

「エンメテナ<wikipedia」によれば、上述のウンマウルルンマとの戦いの前にウルク王ルガルキギンネドゥドゥと同盟を結んだ。下の粘土釘がその証拠の「文書」である。

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エンテメナの粘土釘(紀元前2,400年頃)。現在知られているものの中では世界最古の外交文書のひとつである。

出典:粘土釘<wikipedia*9

粘土釘というものがどういうものなのか、いちおう貼り付けておこう。

粘土釘は、紀元前三千年紀になって シュメールやメソポタミア文明で使われはじめた太い円錐状の釘である。粘土で作った釘の円錐面に楔形文字で銘文を刻み、神殿などの建物の壁面に打ち込んだ。銘文には、誰が、誰のためにその建物を建てるのかが刻まれており、たとえば、王が神に奉納することが記されている。

出典:粘土釘<wikipedia

『シュメル』(p131-132)によれば、この粘土釘はエムシュ神殿の壁面に多数打ち込まれていたようで、内容の同じものが30本以上も出土した。またエムシュ神殿は、ラガシュとウルクの中間あたりにあるバドティビラ(Bad-Tibira)(都市?)にある。バドティビラとラガシュの関係がどのようなものかは分からなかった(ラガシュの支配化にある?)。

奴隷解放

[エンメテナは、]内政においては徳政令を実施し、債務奴隷の解放を行った事が碑文に記録されている。これは知られている限り最も古い債務免除の記録であり、神殿の建設などの記念行事に伴って実施された。

出典:エンメテナ<wikipedia

政令というより、恩赦と言ったほうがしっくりくる。王だけに。

『シュメル』(p152-153)によれば、上述のバドティビラ市にエムシュ神殿を建設(または再建)して、その落慶(落成の慶事)に伴って開放を実施した。

(長くなってしまったので「ラガシュの歴史」は次回へ続く。)



メシリム王の頃のキシュ市はラガシュに宗主国と認めさせるほどの大国だったが、残念なことに、ラガシュのように詳細な文字史料は残っていないようだ。

*1:前川和也(編著)/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p22

*2:シュメル/p134-144

*3:世界の歴史1/p177/前川和也氏の筆

*4:シュメル/p135

*5:ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Stele_of_Vultures_2.jpg

*6:ダウンロード先:File:Stele of Vultures detail 01-transparent.png - Wikipedia

*7:著作者:Zunkir/ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Dynastic_Period_(Mesopotamia)#/media/File:Basse_Mesopotamie_DA.PNG

*8:シュメル/p133。ラガシュ市の他にアブダ市もみなしていた

*9:ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Foundation_nail_Entemena_Louvre_AO22934.jpg#/media/File:Foundation_nail_Entemena_Louvre_AO22934.jpg