歴史の世界

先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化

ナトゥーフ文化の期間は、「Natufian culture<wikipedia英語版」によれば、前12500-9500年だが、後期の千数百年間はヤンガードリアス期という亜氷期と重なるため、全く違う文化だと思う。この記事では前期の話のみを書く。

気候

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

前12700年(14700年前)に温暖期(ベーリング/アレレード期、亜間氷期)が始まり、急激に気温が上昇する。この頃が西アジアにおけるナトゥーフ文化期の前期にあたる。

ブライアン・フェイガン著『古代文明と気候大変動』*3によれば、「前13000年以降、2000年にわたって降雨量が増加した」と書いてある。

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A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, and a long arm extending into Lebanon and Syria
出典:Natufian culture<wikipedia英語版*4

ナトゥーフ文化の誕生の原因についての仮説

一つにまとめられない。3つもあるので書いておく。

その1:「人口集中によるストレス」説

ナトゥーフ文化領域とドングリ

ナトゥーフ式の新たな生活様式が生まれたのは、幾何学ケバラン期末期頃に始まった気候の乾燥化に起因するのではないかといわれている(Henry1989)。それによって、内陸乾燥地を含む広域に展開していた集落が、ヨルダン渓谷に沿った比較的湿潤な疎林地域に集中するようになった。ナトゥーフィアン前期の遺跡分布域は、かなり小さい。そのために生じた人口の集中と資源に対するストレス増が、定住や集約的な穀物利用という新しい生業・集中システムの発生につながったと考えられるのである。ナトゥーフ期に開花する各種の芸術様式も、上部旧石器時代後期にヨーロッパで流行した芸術と同様、近接する集団間の社会関係を円滑にするための表象ではなかったかといわれている(Bar-Yosef and Belfer-Cohen 1989)。定住性や資源の集約的利用、社会関係の保証など、新石器時代文化の基礎となる諸要素のすべてがここに準備されたものと考えられよう。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p55-56

・この本は1997年出版のためデータが古い。

ナトゥーフ文化が起こった地域はヨルダン川と地中海沿岸に挟まれた「丘陵地帯」だ。このあたりは森林ステップ(forest steppe。森林とステップが入り交じる推移帯)になっていた。集落はこの森林ステップに隣接するオークの林地の内部に形成された。*5

その2:「前文化(幾何学ケバラ文化)からの継続的発展」説

私たちは、人々が人口の過剰によってそうした生活様式を強いられていたわけではなかったことをほぼ確信することができる。ナトゥフ文化期の遺跡は、それ以前の時代と同じようにけっしてその数は多くない。人口の過剰があったとしたら、それは、ケバーラ文化期に遺跡の数が劇的に増加し、細石器の形式の標準化に拍車が掛かった紀元前14500年の時点だった。その後2000年の歳月が流れて、最初のナトゥフ文化期の集落が出現したとき、人口の増加を示している痕跡は見つかっていない。そればかりか、ナトゥフ文化機の人々の骨は、彼らが適度に健康であり、食糧不足のせいで望ましくない生活様式を強いられていたような人々とはまるで異なっていたことを明らかにしている。[中略]

アイン・マッラーハを発掘したフランソア・ヴァラは、ナトゥフ文化期の集落がたんにケバーラ文化機の人々の特定の季節における集合から生まれたのだと考えている。ヴァラは、世紀の変わり目の頃、北極地方の狩猟採集民たちと生活をともにしたことがある文化人類学者マルセル・モースの著作を想起している。モースは、周期的な人々の集合が密度の濃い集団生活という特徴をもっており、そうした生活が、祝祭、宗教的な儀式、知的な議論、頻度の高い性行為をともなうことを認識していた。それとは対象的に、それぞれの人々が小さな集団を形づくって互いに遠く離れて暮らしている、一年のうちのそれ以外の期間は、いずれかといえば活気がない。

ヴァラは、ナトゥフ文化期以前の移動性の狩猟採集民たちの集合がそれと似通っていた可能性があり、ナトゥフ文化期の人々は、集合する期間を延長する機会を得たその結果として、一年を通してそうした状態を効果的に持続するようになったにすぎないと提唱している。事実、ナトゥフ文化期の集落のすべての基本的な要素、つまり、石組みの住居、石臼、ツノガイの数珠玉、遺体の埋葬、ガゼルの骨などは、ネヴェ・ダヴィッドにおいてすでに存在していた。気候がしだいに温暖で湿潤になるにつれて、植物と動物がより多様で豊かになっていたことから、人々は、冬期の集合場所により長時間滞在し、より速くそこに帰って来るようになり、一部の人々が年間を通してその地にとどまるようになっていったのである。

出典:スティーブン・ミズン/氷河期以後/p91-93

「その2」は「その1」とかなり違う。「その1」がストレスによる急な変化を主張するのに対し、「その2」はケバーラ文化からの連続性を示している。

さらに「その2」の「それ以前の時代と同じようにけっしてその数は多くない」に反する主張がある。

紀元前12500年までに、幾何学ケバランの細石器インダストリーはつづくナトゥーフ文化へと発展した。幾何学ケバラン文化とナトゥーフ文化のおおきなちがいとしては、遺跡の数と面積がナトゥーフ期に飛躍的に増加したことがあげられる。「近東考古遺跡地図帳」には、この時代の遺跡としてレヴァントに74地点、またアナトリアとザグロスでは同時期の非ナトゥーフ文化の遺跡として26地点の遺跡があげられている。しかし、数だけではなく遺跡の面積についてもナトゥーフ文化の全域をとおして、幾何学ケバランの平均的なおおきさよりも5倍もおおきくなったとみつもられている。このことはヤンガードリアス期(紀元前11000~9500年)の開始よりも前に、とくにナトゥーフ前期に人口が急速に増加していたことを示唆する。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p76-77

どちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか分からない。

その3:「どんぐり」説

以下の引用では、ケバラ人は植物性食物をほとんど食べなかったことを前提にして書いてある。

気温が上がるにつれ、ヨーロッパにいたクロマニョン人の子孫のように、ケバラ人も木の実と種子に関心を向けるようになった。水に恵まれたオークとピスタチオの森がある一帯では、そうした傾向はとくに顕著に見られた。そのころには森はユーフラテス川の流域のなかほどから、ダマスカス付近を抜け、ヨルダン川まで広がっていた。これらの高地にあるけばラジンの遺跡からは、収穫した種子や木の実を加工保存するための擦り石と擦り台が見つかった。降雨が季節的に偏り、周期的な干ばつに見舞われる地域では、食糧の保存は不可欠だ。前11000年になり、量が時代の大型動物のいなくなった世界にヨーロッパ人が適応していたころ、ケバラ人は植物性食物を重要な常食の一部にするようになっていた。

どんぐりがもたらした影響

オークとピスタチオのベルト地帯が、おそらく聖書にあるミルクと蜂蜜の流れる地の着想の源だろう。ここでは驚くほど多様な植物性食物が収穫できた。この地に住んだ人びとは、移行帯、つまり接し合う二つの生態学的領域の境界にある土地を好んでいた。ここなら、一年の別々の時期に、別々の食糧を採集しえたからだ。先人たちとは異なり、多くの集団はこのころには一年中、洞窟を利用するようになった。そこなら雨を防いで、植物性植物を乾いた場所に保管しうるだろう。このころには春と初夏には野草、秋にはどんぐりとピスタチオなど、植物性食物がきわめて豊富になったため、多くの集団は一時的な野営地ではなく、もっと大きな常設の共同体で暮らすようになった。そうした場所で、彼らはかなり広い草葦屋根の丸い住居を建てるようになった。[中略]

毎年、秋になると、ナトゥフ人は何百万個となく、どんぐりとピスタチオを収穫した。どちらの木の実も保存が容易で、昆虫やげっ歯類にやられないかぎり、二年以上はもつという利点があった。収穫方法は単純だった。枝をゆするか、木に登って熟した実を集めればいいのである。[中略]

収穫高に関するデータは、残念ながらなかなか手に入らないが、カリフォルニアのノースコースト一帯では、1ヘクタール当たり590キロから800キロという大収穫も珍しくない。かりにそれほどの生産量があれば、ヨーロッパと接している地域よりも、50倍は多くの人を養うことができただろう。どんぐりは栄養価に富み、炭水化物が70パーセントも含まれ、タンパク質は5パーセント、それに脂肪も4.5パーセントから18パーセント含有する。ただし、大きな難点が一つあった。加工に手間隙がかかったのだ。どんぐりの殻を割り、粉にするのは、野草の種を挽く以上に時間を要する。そうなってもまで、食べることはできない。どんぐりには苦いタンニン酸、つまり渋が含まれていて、時間をかけて水にさらしてからでなければ、調理できないのだ。

どんぐりとピスタチオが充分すぎるほどの余剰食糧を生み出したおかげで、ナトゥフ人の共同体は一箇所に長くとどまれるようになった。だが、その余剰分には犠牲がともなっていた。膨大な労働力が日々費やされたのだ。人類学者のウォルター・ゴールドシュミットがかつて観察したところによると、カリフォルニアでは一人の女性が3キロのどんぐりを砕いて粉にするのに、3時間かかったという。挽き割粉を流水に浸けてさらすのに、さらに4時間が必要だった。7時間の労働のあと残るのは2.6キロの食用の粉で、家族は数日間、それを食べて過ごせる。一方、狩人が鹿の皮をはいで肉をさばくのは、数分ですむ。狩りはどんぐり広いより時間がかかるかもしれないが、食事の用意をするのは簡単で、費用効率も高い。どんぐりが必需食品となると、共同体の生活は大きく変わった。

男も女も木の実を収穫したにちがいないが、それらを保存し加工する作業は全面的に女性の肩にかかってきた。それまでの何千年間も、男は狩りをし、女は野草などの植物性食物を採集して処理してきた。こうした処理も時間がかかったが、どんぐりに必要な作業とは比較にならない。毎日消費するためのどんぐりを挽き割り、さらすには、女性の仕事に大転換が必要であり、その結果、女たちは擦り台と擦り石だけでなく、貯蔵庫にも釘付けになった。何万年も自由に動きまわる生活をつづけてきたナトゥフ人は、この時代になるとどんぐりの収穫のせいで、長期のベースキャンプから離れられなくなった。しかし収穫はおおむね予測がついたし、適切な貯蔵庫があれば、こうしたほぼ恒久的な定住地も充分に存続可能だった。[中略]

貯蔵可能な食糧が豊富に得られるようになると、ナトゥフ人の共同体は急速に拡大した。イスラエルのフーラ川流域にあるマラハ遺跡は1000平方メートル以上にもおよび、初期の狩猟採集社会のどの野営地よりも広大だった。ここの住民は膨大な労力を費やして丘の斜面を壇上にならし、そこに家を建て、上等な漆喰を混ぜて壁を塗り、貯蔵用の穴蔵を掘った。マラハのような場所は、何世代にもわたって人びとが永住した村だった。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p121-126

ナトゥフ文化誕生の原因がすべてどんぐりが原因とまでは言わないが要素の一つくらいにはなっていると思う。ムギ類・マメ類などの穀物に話が集中して木の実が軽視されているように思われる。

道具/交易

道具類も多様化し、細石器が着柄された石鎌が登場し、骨角器は釣り針や編み棒、装飾具が発見され、その他 多彩な装飾具も見られるようになった。トルコ産の黒曜石が南レヴァントで発見されるなど、広範囲の交易は行われていることも示唆されている*6

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出典:sickle<wikipedia英語版*7

定住に適応した文化

ナトゥーフ文化は定住に適応するために開発された文化だ。人びとは有り余る過食植物と定期的に現れるガゼルの群れに囲まれてそれまでのどの文化よりも安定した生活を享受できた。

開発に成功した文化はその後2000年に渡って続き、世代交代は50回も繰り返した。*8



次回は定住の重要性について書く。

*1:氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p130

*4:著作者:Crates、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Natufian_culture#/media/File:NatufianSpread.svg

*5:ティーブン・ミズン/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版)/p65

*6:西アジアの考古学/p54

*7:著作者:Wolfgang Sauber、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Sickle#/media/File:Museum_Quintana-Neolithische_Sichel.jpg

*8:ティーブン・ミズン氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年に出版)/p96-97

新石器時代について

新石器時代の一番簡単な説明は「農耕・牧畜の始まりをもって新石器時代とする」というものだ。しかし縄文時代のように農耕・牧畜が始まっていないのに新石器時代とされているものもある(そうしない学者もいる)。

新石器時代はそれより前の時代より複雑なので、少し深く調べる必要がある。

そもそも石器時代とはなにか

関連記事「旧石器時代/中石器時代/Epipaleolithic - 歴史の世界

石器時代とは↓

  • 考古学の時代区分の一つ。
  • 先史・古代の歴史の区分の一つ。
  • 人類の文化の発展段階の一つ。

文字がまだ発明されていない先史・古代では証拠となるものは石器や土器、骨、遺跡などになるが、この中で数百万年前まで遡れて連続性や文化の違いが分かるものは石器だけなので、石器が時代区分の基準になった。

新石器時代の定義

主流の考え方

高校の歴史の授業では「獲得経済」とか「生産経済」という用語を使って新石器時代が説明されているらしい。

つまり、獲得経済(狩猟・採集で野生の食糧資源を獲得する方法)から生産経済(農耕・牧畜で生産して食糧を得る方法)に移行したのが新石器時代だ、という。

(こういう用語を使うと理解したような気になるのが不思議だ。)

こういう考え方が考古学の学界でも主流らしい。ただしこれは厳格な定義ではなく、農耕・牧畜が始まっていない文化でも新石器時代に区分できるとする学者もいれば、できないとする学者もいる。そういうわけで厳格な定義はない。

農耕・牧畜の始まりを絶対条件としない場合の新石器時代の説明

この場合、農耕・牧畜を指標(物事を判断したり評価したりするための目じるしとなるもの*1)の一つとする。指標は必須条件ではなく判断材料。ただし農耕・牧畜の有無は最も重要な指標である。

その他の指標としては↓

  • 磨製石器
  • 土器
  • 定住
  • 織物(亜麻の生産も含む)
  • 巨石建造物(ギョベクリ・テペが有名)

繰り返しになるが、これらは判断材料であって必須条件ではない。学者は指標の有無を手がかりに遺跡を研究してどの時代に割り当てるかを決める。全ての学者が一致するとは限らない。

農耕・牧畜をしていない場合の食料で重要なのは、ドングリなどの堅果類や野生の穀類、あとは魚介類だ。

採集や漁業が可能な場所に定住・半定住することがある。定住型文化では定置漁具を使う場合がある*2

堅果類や穀類を調理する石器の多くは磨製石器だ。

ネットには「磨製石器があるから縄文時代は新石器だ」と書いてあるサイトがあるが、他の指標を見ずにこのように判断するのは間違いだ。

旧石器時代との比較↓

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出典:いっきに学び直す日本史 【合本版】 - 安藤 達朗 - Google ブックス

上にあるように旧石器時代の文化に新石器時代は新しい要素が加わっている。新石器時代は新しい時代だが、旧石器時代の文化は色濃く残っている。連続しているのだから当然だ。

新石器文化

上の指標その他を含めて、新石器時代の文化を見ていこう。

農耕・牧畜

上述したように最重要の指標。

始めはおそらく、狩猟・採集の食糧獲得の不足分の補完的な役割であっただろうが、時を経て農耕・牧畜の需要のほうが強くなり、それらの技術も発展していった。

その結果、生産が急激に増加、それに対応して人口も増加した。

新石器時代より後のことになるが、生産・人口増加により階級ができ、人口を統治するシステムが必要になり、文明社会が形成されるようになる。

磨製石器

旧石器時代打製石器を使っていた。

磨製石器新石器時代より前に発明されたようだが、この時代に種類・用途が増えて新石器時代の指標となったようだ。

代表的な磨製石器は石斧で木の伐採に利用された。もうひとつ、石皿はドングリなどの堅果類を粉砕して、製粉にするための道具。また土器などに塗る顔料を作るため、それ用の石を粉砕するために使われた。

土器

天然の粘土で作った。煮込み、貯蔵、運搬などが用途。

西アジアで農耕が発明された時は土器は無かった。

定住

ホモ・サピエンスは誕生して約20万年ほどは狩猟採集民として移動しながら生活していた。

定住の最初の例は西アジアナトゥーフ文化だ。ナトゥーフ文化は狩猟採集文化で農耕・牧畜はやってなかった(やってたと主張する学者もいるが)。

ナトゥーフ文化と定住については、以下の記事で書いた。

先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化 - 歴史の世界

先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」 - 歴史の世界

農耕・牧畜でなく狩猟・採集で生活をする場合、普通なら定住すれば周囲の食料資源を食べ尽くしてしまう。しかしナトゥーフ人が住んでいた森林は温暖湿潤の環境にあり、一年で食料資源を再生させた。

人々は多種多様な食料資源を持っていた。ノウサギ、ガゼルなどの動物、穀物・マメ類・堅果類などの植物が絶えることなく、ナトゥーフ人の生活を守った。

注目すべきは、彼らが穀物を集約的に(選別・集中して)大量に採取して保管していたことだ。穀物は商品貨幣(貨幣の代わりになる商品)だった。

商品貨幣となる植物。栽培する動機としては十分だろう。

巨石建造物

ギョペクリ・テペの巨石建造物は何らかの宗教的な意味が込められているらしい。ナブタ・プラヤ(エジプト西部砂漠)の巨石建造物は墓という説もあるが、こちらも詳しく解明されていない。

いずれにしろ、これらの巨石建造物は多くの人々の協業なくしては建造できない。

旧石器時代までは人々は小集団でバラバラに生活していたが、新石器時代以降は多くの人々が一ヶ所に集まる、あるいは定住して大集落をつくるようになる。

このように協業ができるようになって初めてあらゆるインフラ事業が可能になる(インフラ事業は文明誕生に不可欠)。

組織・社会

「Neolithic#Social organization<wikipedia」によれば、複数の血縁関係にある人々でまとまって生活していた。つまりは氏族社会だ。

氏族の長がリーダー(首長)で、協業を指揮し、争いごとを仲裁した。

平等社会と言ってよく、階級ができるのはこの後の時代以降になる。

おまけ:縄文時代について

興味深い説明を二つ。小学館デジタル大辞泉三省堂大辞林

しんせっき‐じだい〔シンセキキ‐〕【新石器時代
石器時代のうち新しい時代。本来の定義では、完新世に属することと精巧な打製石器および磨製石器の存在を重視したが、現在では、西アジア・ヨーロッパ・中国などで農耕や牧畜など食料生産を開始した時代をいう。日本の縄文時代をこの名でよぶのはふさわしくない。
出典 小学館デジタル大辞泉

しんせっきじだい【新石器時代
石器時代のうちの最後の時代。磨製石器を用い、土器の製作や紡織などの技術が発達し、一部では農耕・牧畜が行われた。日本では縄文時代がこれにあたる。
出典 三省堂大辞林 第三版

出典:新石器時代(しんせっきじだい)とは - コトバンク

「農耕・牧畜の有無で新石器時代か否か」を決められるか否かが問題となっている。



先史:2万年前~(ケバラ文化/マドレーヌ文化)

2万年前は最終氷期の最中だが、ホモ・サピエンスはその寒さを克服しながら文化を創出した。

2万年前

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

2万年前(18000BC)は最終氷期最盛期だが、この頃ようやくヨーロッパ大陸の氷床が後退し始める*3

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

古代文明と気候大変動 -人類の運命を変えた二万年史

古代文明と気候大変動 -人類の運命を変えた二万年史

オハロII遺跡

レヴァントでは栽培化にいたるまでの考古学的変化は、最終氷期のピークである紀元前1万9000年前後からトレースできる。その頃ガリラヤ湖岸のオハローII遺跡(Ohalo II)に住んでいた人々は、野生のエンマーコムギ、オオムギ、ピスタチオ、ブドウ、オリーブを求めて周囲をさがしまわっていた。ガリラヤ湖はリサン湖という更新世のおおきな湖の北の一部である。リサン湖はヨルダン渓谷を常時220キロメートルにもわたって水を満たすほどのおおきな湖であった。オハローIIのキャンプは1500平方キロメートルという、この時期の遺跡としては驚異的におおきいものであった。オハローIIの住民は、柱に草ぶきをした楕円形の小屋をすくなくとも三つ建てて食料を穴に保存していた。死者をおおきな石で囲い込んだ浅い穴に屈曲姿勢で埋葬し、上部旧石器時代的な石刃と玄武岩の石臼と石杵のセットを使っていた。考古学データによると、このとき西南アジアの人口密度は非常に低く、多くの地域は多年生灌木植生の寒冷な気候であったと考えられる。オハローIIはおそらくかなり一過的な「シェルター」というべき環境のなかにあり、穀類はこのような暖かいシェルター地域をはなれては穀類は繁茂しなかったのであろう。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004年に出版)/p74-76

  • 上部旧石器時代は後期旧石器時代と言い換えることができる。西アジアの考古学では「上部」のほうが好まれているのかもしれない。英語ではEpipaleolithic。
  • 『氷河期以後』*4によれば、この年代は19400年前だという。
  • 『氷河期以後』*5によれば、細石器を使用していた。
  • 西アジアの考古学』によれば*6、この遺跡で繊維質のロープの断片が発掘された。網漁の可能性を示している。魚骨も大量に見つかっている。

オハロ遺跡は住居群が火災に見舞われて放棄された後にガリラヤ湖の水面上昇により水没したのだが、その結果 有機物が消失を免れて遺り考古学者が驚嘆するような発見が多く見られた*7

場所の確認↓

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Sea of Galilee in relation to the Dead Sea
出典:Sea of Galilee<wikipedia英語版*8

埋葬や石臼があることからこの遺跡は定住を証明するものだと思ったがどうもそうではないらしい。

彼らが狩猟採集民ではなく農民だったとしたら、火災によって焼失したのは、粗朶を編んだ小屋だけではなかったことだろう。木材を使って建てた住居、家畜の小屋と柵、貯蔵しておいた穀物を火災のせいで失ってしまう確率がきわめて高いばかりか、家畜の群れが逃げ出したり、焼け死んでしまう恐れもあるからだ。農民たちは、焼け跡を放置することなくその場にとどまり、再建を図らなければならない。周囲の土地に、林地を開梱したり、柵を設けたり、穀草を栽培するといった労力を投入しているからである。

出典:ミズン氏/上巻/p50

  • 住居は粗朶を使って建てられていた。

しかし住人は遊動(非定住)性の狩猟採集民なので彼らは修理できるもののみを持って、この場を立ち去った、とミズン氏は推測する。

ケバラ文化(ケバラン kebaran)とその後

ケバラ文化

およそ前18000年あたりから西アジアでケバラ文化が起こる。上記のオハロIIもケバラ文化だ(『氷河期以後』上巻p60)。西アジアはケバラ文化からepipaleolithic(亜旧石器時代、終末期旧石器時代、続旧石器時代。≒中石器時代)に入る。

細石器*9の多用を特徴とする文化。『西アジアの考古学』(p50)によれば、急角度の二次加工を施すことも特徴の一つだ。

「kebaran<wikipedia英語版」には、弓矢の使用とイヌの家畜化に触れている。イヌの家畜化についてはパット・シップマン著『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた」*10によれば、すでにイヌの家畜化は36000年前に始まっていた(p193)。弓矢に関しては、『氷河期以後』(上巻p60)によれば、オハロIIの時にすでに使用されていた。

『氷河期以後』(同ページ)には、「[細石器は]アシの矢柄に埋め込んで鏃(やじり)として、骨の柄に埋め込んで小刀として用いられる」と書いてある。

『氷河期以後』(p59)では細石器の制作過程で発生した石の破片の散乱した場面を描写している。これは人類が定住化した後の清潔さとの対比を意図しているのかもしれない。

石臼や網漁の道具など持ち運びにくい道具が使用されている。しかしこの文化は上で書いたように未だ遊動型の狩猟採集民の文化だ。定住するのはこの文化の後なので、ケバラ文化は定住までの移行期または前段階と言っていいのではないか。

「kebaran<wikipedia英語版」では季節によって移住する様子が書かれている。

The Kebaran people are believed to have practiced dispersal to upland environments in the summer, and aggregation in caves and rockshelters near lowland lakes in the winter.

出典:kebaran<wikipedia英語版

(拙訳:ケバラ文化の人々は夏には高地にバラバラに住み、冬には湖に近い洞窟や岩陰に集合体を作って住む習性を持っていたと信じられている。)

  • 上のような習性はおそらく遊牧民に受け継がれていると思う。

その後

その後[およそ二万年前(前18000年)から]4500年にわたって、この地域〔西アジア〕では植物がされに密生し、居住地の密度もしだいに高くなっていた。かつては不毛な沙漠だったアズラクの西の地域も、紀元前14000までには草本、灌木、花々によって被われていた。かつては一望の下に見渡すことができたステップにも樹木が広がっていた。

そうした環境の変化の直接的な証拠物件は、フラ盆地のコア(地層資料)であり、それは、紀元前15000年頃から林地がオーク、ピスタチオ、アーモンド、ナシなどの木々によって彩りを豊かにしていったことを示している。温暖と湿潤がその度合を増していったこの時期は、紀元前12500年、つまり、後期亜間氷期においてその頂点を迎えた。

出典:スティーブン・ミズン/氷河期以前 上/p62

  • アズラク(azraq)は死海ヨルダン川の西方、内陸に位置し、二万年前は寒冷乾燥の地だった。

紀元前15000年より後には、幾何学ケバラン(幾何学という名称は細石器の形態的な特徴からきている)という名でしられる文化が南レヴァントに発達した。幾何学ケバラン文化の人々は、最大で1000平方メートルくらい、多くは300平方メートル以下のちいさなキャンプサイトや洞窟に住んでいた。彼らは季節によって移動したと考えられており、おそらく冬には渓谷の低地に、夏には標高の高いところに住んでいた。彼もまた石臼と石杵をもちい、ガリラヤ湖にちかいエン・ゲヴIII遺跡(Ein Gev III)では礎石をもった円形小屋をもっていた。エン・ゲヴIIIの人々はその先駆であるオハローと同様に野生穀類を収穫していたと考えられているが、つづくナトゥーフの人々とはちがい、石刃による鎌刃をまだもっていなかった。

出典:ベルウッド氏/p76

  • ケバラン(ケバラ文化)と幾何学ケバランの違いはあまり大差ないようだが、形態的な特徴以外はよく分からない。
  • ナトゥーフ文化は幾何学ケバランの後継文化。

マドレーヌ文化

マドレーヌ文化は後期旧石器時代。ヨーロッパが中石器時代に入るのはまだ先のこと。

[マドレーヌ文化は]BC18000年~10000年にかけて、北スペインからマドレーヌ文化の名の元になった発見地ラ・マドレーヌがあるドルドーニュ地方と中央ヨーロッパを越え、ロシアに達した。この文化の有名な洞窟画の80%以上は15000~12000年前に描かれている。例えばラスコー、ペシュメルル(ドルドーニュ)、アルタミラ(スペイン北部)などの洞窟画である。マドレーヌの狩猟民は半遊牧の生活をしていたが、動物の家畜化も始めていたかもしれない。

フランスでは人口が最寒期の三倍の6000~9000人に増加したとはいえ、人口密度はまだ非常に低かった。彼らは現在の遊牧民のように20~70人程度の一族で暮らしていたと想像できる。そのほうが争いの程度も大きくなりすぎないからだ。このグループは組織化され、500~800人ほどのより大きなグループ、あるいは部族になっていたかもしれない。[中略]骨格には物理的な欠損と損傷の後がはっきり見て取れる。おそらくすでに社会的階級、つまり階層はあったのであろう。なぜなら、ロシアとイタリアにある墓からは、象牙や動物の歯から作られたおびただしい数の玉が発見されており、それは被葬者の衣服を装飾していたものに違いないからである。子供に豪華な装飾品が見られるケースでは、子ども自身の功労によるものではなく、単に相続順位によるとみて差し支えない。旧石器時代の間にすでに原始時代の平等社会は終わり、ステータスシンボルの役割はますます重要になっていた。

出典:ベーリンガー氏/p53-54

  • BC◯◯年と◯◯年前が混じっているので注意。
  • 「遊牧」「遊牧民」という言葉があるがこれは遊動(非定住)性狩猟採集(民)の訳し間違いだろう。



*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:Last Glacial Maximum<wikipedia英語版

*4:上巻p579

*5:上巻p60

*6:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p51

*7:ミズン氏/上巻/p49

*8:ダウンロード先はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Sea_of_Galilee#/media/File:JordanRiver_en.svg

*9:「細石器<wikipedia」参照

*10:原書房/2015(原著も2015年に出版)

先史:ネアンデルタール人の文化からホモ・サピエンスの文化へ

少し前にホモ・サピエンスの出アフリカの記事を書いた。「出アフリカ」の前後の西アジアとヨーロッパはネアンデルタール人が「支配」していた。彼らの文化はムスティエ文化(ムステリアン、Mousterian)と呼ばれ、中期旧石器時代に入る。

ホモ・サピエンスはアフリカから独自の文化を持って西アジアに進出し、ムスティエ文化と交わって新しい文化を作った。西アジアではアハマリアン、ヨーロッパではオーリニャック文化(オーリナシアン)がそれぞれ発展した。オーリニャック文化は後期旧石器時代になる。オーリニャック文化の初期、4万年前にネアンデルタール人は絶滅する(ホモ・サピエンスの「親戚」、絶滅する参照。

ルヴァロア技法と石刃技法

両方共打製石器をつくる技術。打製石器の変遷の簡単な説明は「打製石器<世界史の窓」でされている(スケッチ有り)。

ルヴァロア技法

ルヴァロア技法はムスティエ文化の石器をつくる代表的な方法。

「Levallois technique」でyoutube検索したらLevallois techniqueという動画が見つかった。一つの大きい石の端を別の石で砕いて鋭利な刃を作り、それでできた石器を割いた枝に差し込んで石斧を作るところまで「実演」している。おもしろい。

石斧に使われた石器を石核石器と言い、石核から剥ぎ落とされた石を石器として使う場合剥片石器と言う。「剥片石器<wikipedia」によれば、これらは「尖頭器・石槍、石鏃、石匙、石銛、石篦、石錐、石鋸など」として使われた。

石刃技法

石刃技法はブレード技法とも言う。

打製石器<世界史の窓」にある石刃技法に一番近い動画は「Blade Core Technique」だ。手を怪我しそうでこわい。それとこの動画には無いが石核を作るまでが大変そうだ。

ブログ『雑記帳』の紹介

雑記帳

先史関連の事項をネット検索する時、高確率で検索されるのがこのブログ。ブログタイトル通り雑記帳なのだが、Natureなどの最新の論文の情報を紹介して解説までしてくれる。私は先史関連の本を読み始めたのが数ヶ月前なのでこういうブログがあると本当に助かる。ただし私には理解できない部分も少なくない。

「出アフリカ」後の西アジア

西アジアの考古学 (世界の考古学)

西アジアの考古学 (世界の考古学)

上記の『雑記帳』で大津忠彦・常木晃・西秋良宏『世界の考古学5 西アジアの考古学』(同成社、1997年)が紹介されていた。記事タイトルは「旧石器時代の西アジア」。

詳細はリンク先参照。私には理解できない部分が多い。

同ブログの記事「現生人類の石器技術にネアンデルタール人が影響を与えた可能性 」も踏まえて、一番単純な流れを書こうとすると

ムステリアン+アフリカ由来の文化→エミラン→アハマリアン→ケバラン(ケバランはepipaleolithic続旧石器時代)。

ちなみに、wikipedia英語版だと

Mousterian(600,000–40,000BP)→Emireh culture(circa 30000BCE)→Antelian(c.30,000–c.18,000BCE)→ケバラン(c.18,000–c.12,500BC)

となっている。Antelianアンテリアンはアハマリアンの時期に相当するらしいがよく分からない。アンテリアンもしくはアハマリアンはヨーロッパにおけるオーリニャック文化(オーリナシアン)の時期の文化だが、西アジアにもオーリニャック文化が「外来種」として存在した。

現生人類の石器技術にネアンデルタール人が影響を与えた可能性 」のリンク先のナショナルジオグラフィックの記事から引用。

道具作りの観点では、古代から現代へ人類の行動が移り変わる過程は、約5万年前の「エミラン」と呼ばれる石器の様式にはっきりと現われている。だが、1951年にイスラエルガリラヤ湖付近の洞窟で、尖頭器や石刃、削器をはじめとするエミランが初めて発見されて以来、高度な道具作りがどこで始まったのか、考古学者らはずっと頭を悩ませてきた。 [中略]

ローズ氏とマークス氏のシナリオによると、7万5000年前、アラビア半島の気候が急激に変化し、干ばつに見舞われた結果、道具を作る人々が北部の中東地域へと押しやられた。

一方、中東は6万年前からより湿潤な気候へと変化し、動物や狩猟民は北部に集まっていった。そこで現生人類は大きなブレイクスルーを成し遂げる。祖先のヌビア人がしていたように石を上から下へ一方向に砕いて1つの石から1つの道具を作る代わりに、上下両方向に砕いて1つの石から複数の細長い石刃を続けて作る方法を編み出したのだ。それは、エミランとそれに続く上部旧石器時代における決定的な特徴である。

出典:ネアンデルタール人と人類の出会いに新説<ニュース2015.03.02<ナショナルジオグラフィック日本語版

上は数ある仮説の中の一つ。通説ではない。

アハマリアン(アンテリアン)の時期については詳しいことは分からない。関連資料が少ない。

ヨーロッパの文化の変遷

欧州におけるホモ・サピエンスの初期の文化といえばオーリニャック文化(オーリナシアン)が有名だが、ムステリアンとオーリナシアンの間に「移行期文化」というものがあり、これらのうち幾つかがホモ・サピエンスの最初期の(ヨーロッパ進出の最初の)文化とされる。

別のシナリオとしては西アジアの前期アハマリアン文化がヨーロッパに伝播してプロト・オーリナシアン文化になった*1

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出典:Aurignacian<wikipedia英語版*2

  • 「26」のレヴァントの辺りに飛び地のようにオーリナシアンがある。

ブログ『雑記帳』の記事「7000年前頃までのヨーロッパの現生人類の遺伝史(追記有)」に「47000~7000年前頃の51人のユーラシアの現生人類(Homo sapiens)のゲノムを解析したゲノムした研究」とその報道が紹介されていて、それによると、

オーリナシアン(~34000-26000年前)→グラヴェティアン(Gravettian、グラヴェット文化)(34000-26000~19000年前)→マグダレニアン(Magdalenian、マドレーヌ文化)(19000~14000年前)

14000年前になると、「現代の中東の人々と遺伝的により密接に関連した集団がヨーロッパに広範に進出する」とのこと。この研究結果はゲノムの解析によるものだということを注意しておこう。

気候変動と文化の変容

最終氷期というと長い間続いたと一般には思われているが、実際は短い周期(氷床コアの研究において発見され、ダンスガード・オシュガーサイクルと呼ばれる)で気候が激しく変動していたことがわかってきた。最寒冷期の状態が続いたのは実際は非常に短い間、おそらく2000年ほどであったと専門家の間では考えられている。最寒冷期の直前は多くの地域では砂漠も存在せず、現在よりも湿潤であったようである。特に南オーストラリアでは、4万年前から6万年前の間の湿潤な時期にアボリジニが移住したと思われる。

出典:最終氷期wikipedia

「Dansgaard–Oeschger event<wikipedia英語版」によれば、この現象は北半球において顕著だった。ネアンデルタール人はこの気候変動の激変に翻弄され、ホモ・サピエンスのヨーロッパ進出によりとどめを刺されて滅亡した(4万年前)。

ホモ・サピエンスももちろん影響を受けた。この激変の中で新しい文化を創出していった。

オーリナシアン期にはすでに石器の他に骨角器*3が使用されるようになった*4

グラヴェティアン期に入ると以前より小さくて鋭い石器が使われるようになった*5。さらにこのころは、季節で移動するアカシカが通る 峡谷にキャンプを張って大量の獲物を狩猟したり、小動物を狩るために網を利用した*6

さらにグラヴェティアン期の話だが、毛皮のためにホッキョクギツネやノウサギを狩り*7、大量の食料を得るためにマンモスを狩った。特にマンモスは非常に効率的で新しい狩猟法を編み出し大量に狩猟することができた*8。この頃にはすでに針があり裁縫技術があった。

こうして寒冷期でも人口を増やす傾向にあったようだ。

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出典:パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)/p101

もう一つ貼り付け。

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出典:シップマン氏/p183

中緯度まで広がるステップ・ツンドラ

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最終氷期の最寒冷期(LGM)における植生。灰色は氷床に覆われた地域

出典:最終氷期wikipedia*9

上のように北半分のヨーロッパは「ステップ・ツンドラ」だった。

steppe-tundra
A very cold dry-climate vegetation type consisting of mostly treeless open herbaceous vegetation, widespread during Pleistocene times at mid-latitudes of Eurasia and during some phases in North America.

出典:steppe-tundra<wikitionary

拙訳:ほとんどが木が育たず草原が開けた植生の地域。過半の更新世のユーラシアの中緯度、または北米の幾つかの時期に見られた。

  • 上述のシップマン氏の本には「ステップ・ツンドラ」ではなく「マンモス・ツンドラ」と書かれている。この地域はマンモスが生息する地域だからこう言われているらしい。そしてこの地域に住んでいたホモ・サピエンスは生活のかなりの部分をマンモスに負っていた。

ミズン氏の『氷河期以後 (上)』(p28)やフェイガン氏の『古代文明と気候大変動』(p42、p53-57)でもその地域の厳しさを叙述していたが、以下の引用だと少し異なる。

最終氷期の頂点だった約二万年前に、大河の水は涸れた。氷河は水分を凍らせ、地面は奥深くまで凍りついた。こうしたことは、恐ろしいように思える。しかし、最近の研究では驚くような好ましいイメージが示されている。ヨーロッパでは人類の生活条件は非常に快適ですらあったのである。気候はきわめて安定していた。天気は今日に比べ、はるかに変わりにくかった。夏には穏やかな好天が続いていた。冬は一貫して厳しい寒気が居座っていたが、最低気温でも極寒にはならず、乾燥した気候だった。氷期の冬は、冬のさなかでも日光浴ができる今日のアルプスの晴れ上がった冬にたとえられよう。平均気温は今日より4~6℃低かったが、乾燥していたため、不快ではなかった。春の訪れは遅かったが、夏には気温はおよそ20℃に達した。

気温が低かったため、植生は著しく制限されていたが、氷期の中部ヨーロッパのツンドラは、極圏のツンドラとは全く異なる。この緯度では日光の照射は常に変わることなく強く、夏は暖かく、雪解け水に育まれて植生は豊かで、それが動物に豊富な植物を提供していた。氷期ツンドラは、大型獣が豊富という点では東アフリカのサバンナに引けを取らなかった。そこでは大型動物相を形成することができたが、それには装飾のお大型哺乳類のマンモス、毛サイにとどまらず、オーロクス、ヘラジカ、シカ、ホラアナグマ、そして大型肉食獣のライオンやハイエナも含まれていた。肉食獣と同じように初期の人類も屍肉を食べて生きることができた。そのうえ「天然の冷蔵庫」の中で、それは簡単に冷凍保存されていたのだ。さらに初期の人類は新しい能力を発達させた。大型動物の狩猟である。

出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p50

上の記述が本当かどうか分からないが載せておく。

ちなみにミズン氏・フェイガン氏の記述だと、寒い時はマイナス30℃に達し、9ヶ月の寒気に耐えなければならない、とのこと。ちなみにミズン氏の記述は1985年の参考文献を用いている。

とにかく、ホモ・サピエンスは「奥深くまで凍りついた」地面つまり永久凍土層の上で暮らしていた。こんなに寒い場所で暮らせたのはホモ・サピエンスが「針」を使うことができたからだとフェイガン氏は主張していた。*10



*1:人類進化史を更新―石器に見る「技術革新」にヒント―/名古屋大学学術研究・産学官連携推進本部/2015/06/10

*2:著作者:Hughcharlesparker ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Aurignacian#/media/File:Aurignacian_culture_map-en.svg

*3:骨角器<wikipedia

*4:オーリニャック文化<wikipedia

*5:Gravettian<wikipedia英語版

*6:Use of animals during the Gravettian period<wikipedia英語版

*7:パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)/p170-171

*8:シップマン氏/p179/ただし狩猟法の中身には触れていない。p174では「マンモスの狩りが高い頻度で成功するようになったのは現生人類の出現による」と書いてある。

*9:ダウンロード先はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%B0%B7%E6%9C%9F#/media/File:Last_glacial_vegetation_map.pnghttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Last_glacial_vegetation_map.png#/media/File:Last_glacial_vegetation_map.png、改変

*10:フェイガン氏/p54

先史:ホモ・サピエンスの大拡散:アメリカ大陸編

新大陸、南北アメリカ大陸への進出は最終氷期に地続きになった「ベーリング陸橋(地峡)」を渡って達成したというのが通説だったが、沿岸を通って移住したという説もある。併せて紹介する。

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出典:ジャレド・ダイアモンド/銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎/草思社/2000/p51(原著はアメリカで1997年に出版)

旧来の通説

上述したジャレド・ダイアモンド氏の本には「人類が南北アメリカ大陸に住みはじめたのが35000年前から14000年前のあいだのどの時期かは、はっきりしているわけではない(p63)」と前置きをして上の図の通りの「北米に紀元前12000年頃、中米に前11000頃に到達」という説を展開している。

メキシコに接するアメリカ南西部のニューメキシコ州にある都市・クローヴィスにちなんだクローヴィス文化は南北アメリカ大陸の最初の文化とされている。

ダイアモンド氏はその文化の担い手の先祖はベーリング地峡(陸橋)を渡って中米まで南下し人々で、人類の南北アメリカ大陸の進出の始まりだと考えている。

ベーリング地峡(陸橋)とは現在のベーリング海峡氷期の海面下降により出現した地面のこと(ベーリング地峡<wikipedia参照)で、ホモ・サピエンスはこの陸橋を渡って初めてアメリカ大陸に進出した、というのが通説だ、または通説だった。

そしてクローヴィス文化より古い時代と主張される遺跡が100ヶ所もあることに言及した後、以下のように主張する。

私としては、クローヴィス以前に人類が定住していたとすれば、それを明確に示す遺跡がこれまでに各地で発見されているはずであり、したがってこの論争はすでに解決済みのはずだと思われる。しかしこの点について、考古学者の意見はいまだに分かれている。

クローヴィス以前に南北アメリカ大陸に人類が存在していたと解釈しようがしまいが、われわれがアメリカ先史について理解している内容は同じである。南北大陸には紀元前11000年頃に初めて人類が移り住み人口増加が短期間のあいだに起こった。あるいは、人類が最初に移り住んだのはそれよりもう少し前であったが、考古学的にはほとんど何も残さぬ存在であった(クローヴィス以前の定住説の支持者は、だいたい15000年前から2万年前、または3万年前までと推定していて、それ以上前とする説は少ない)。

出典:ダイアモンド氏/p70

ダイアモンド氏が前置きで ことわっているようにアメリカ大陸への最初の人類到達はクローヴィス文化の担い手より前に存在していた。ただし、ダイアモンド氏は「最初の人類」は絶滅して子孫を残せなかっただろうと主張している。

近年注目されている説

下のナショナルジオグラフィック日本版のウェブサイトの記事では「異説」を紹介している。ダイアモンド氏の主張を「通説」として「異説」は以下の通り。

この通説を覆したのが、1997年に南米チリのモンテベルデ遺跡で発掘調査を行った考古学者のチームだった。米国バンダービルト大学のトム・ディルヘイは、同地で1万4000年以上前に人類が居住していた証拠を発見したと発表。北米にクロービス文化が現れるより1000年も前ということになる。

だがそんな時期に、どうやってはるかチリまで到達できたのだろうか。一つの仮説は、海からのルートだ。

米国カリフォルニア州チャンネル諸島では、約1万2000年前、島の人々が海洋文化を発達させていたことを示す有力な証拠が見つかった。彼らの祖先はアジアを出発し、「ケルプ・ハイウェー」とでも言うべき海路を通って、おそらくベーリング陸橋での長い滞在を経て米大陸に来たのではないか。調査を進めるオレゴン大学のジョン・アーランドソンは、そう考えている。ケルプ・ハイウェーというのはコンブなどの海藻が密生し、魚や海生哺乳類が豊富な生態系が連なる海域のことだ。

「3万年前から2万5000年前の日本には、舟を操る海洋民がいたことがわかっています。そうした集団が環太平洋地域を北上し、米大陸に来たのかもしれないと考えるのは、理にかなった推論でしょう」

※この続きは、ナショナル ジオグラフィック2015年1月号でどうぞ。

出典:アメリカ大陸 最初の人類<ナショナルジオグラフィック日本版2015年1月号(文=グレン・ホッジズ)

チリ南部のモンテベルデ(Monte Verde)の遺跡については『銃・病原菌・鉄』でも紹介されている(p69)。ナショナルジオグラフィックの別のページによれば*1、「この遺跡は1万4500~1万4250年も以前のものと推定されている」。

さて問題は「ケルプ・ハイウェー」だ。「ケルプ」をgoogle検索すると「オオウキモ<wikipedia」が引っ掛かった。

オオウキモ(学名:Macrocystis pyrifera)は、不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科に属する海藻である。英名のジャイアントケルプ (Giant Kelp) が用いられることも多い。既知の藻類の中では最大種である。

根状部で海底の岩に付着し、上方に向かって茎状部や葉状部を成長させていく。その成長のスピードは著しく速く、1日に50cm近くも成長することもある。茎状部には空気をためた浮き袋が付いているため、これにより海中で直立して浮いていることができる。茎状部は海面に達するまで伸び続け、50m以上に達することもある。海面に達した後は、海面上に広がるような形で成長する。

オオウキモが密集した場所では、「ケルプの森」と言われる海底から海面に及ぶ長大な藻場が形成される。海中に林立し、さらに海面を覆い尽したオオウキモを側柱と天蓋に見立てて、「カテドラル(大伽藍)」などと呼ばれることもある。この藻場は生物多様性に富んでおり、カニなどの甲殻類、ウニやヒトデなどの棘皮動物、魚類、そしてアザラシやラッコなどの海獣類のコロニーとなっている。

出典:オオウキモ<wikipedia

このページより英語版のページ「Macrocystis pyrifera」に行くとギャラリーを見ることができる。そのひとつが下の写真。

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Giant Kelp floating just outside the Santa Cruz harbor.
出典:Macrocystis pyrifera<wikipedia英語版*2

上の写真は港のものなので「ケルプの森」の全体がこのようであるかは分からない。

「Kelp forest<wikipedia英語版」には以下の図が載っている。

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Global distribution of kelp.
出典:Kelp forest<wikipedia英語版*3

「ケルプの森」は北太平洋の海岸沿いに有り、アメリカ大陸の最初移住者はこれを伝って移動した、というのが「ケルプ・ハイウェー」の仮説だ。

上述のジョン・アーランドソンが所属するオレゴン大学のウェブサイトに"Kelp Highway Hypothesis"が載せられている。

またブログ『ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!』のページ「Who Discovered America? 最初のアメリカ人は誰?」で「ケルプ・ハイウェー」の仮説が紹介されている。何かのドキュメント番組のメモらしいがなんという番組かはわからなかった。

「通説ができるのには数十年かかる」

再び『銃・病原菌・鉄』より

これまで最古とされていたものが新しい学説によって否定され、じつはそれより以前であったと主張されることがある。そうした学説はこの本でも繰り返し出てくるが、それをどう受け止めるかはむずかしい問題である。ある学者によって「最古といわれたX」より古いXが孫際していたという学説が発表されると、それよりさらに古いXを見つけ、その学説を否定しようとするものがかならず現れる。[中略]これまで最古とされていたものより古いものではあるが、それが考古学上ほんとうに最古のものであると学問的に合意されるには、何十年もの研究成果の積み重ねが必要なのである。

ダイアモンド氏/p52

近年の情報

古人類学の最新情報を提供してくれるブログ『雑記帳』から。

もう一つ、別のブログ『現在位置を確認します。』から。

以上の記事を読めば、最近のこの件の動向が把握できると思う。

私の理解では、「アメリカ大陸への人類の拡散は複数あったかもしれない」(『雑記帳』の3番目の記事より)というのが一番妥当だと思う。

つまり最初の人類は北太平洋沿岸を海産物を頼りながら渡った、その後ベーリング地峡を渡った人類がいた、というもの。



先史:ホモ・サピエンスの大拡散:ヨーロッパ編

驚いたことに、ホモ・サピエンスのヨーロッパ進出はオーストラリア進出よりも後になる。ホモ・サピエンスは移住候補地に、近い寒冷な場所より遠くても温暖な場所を好んだようだ。

「45000年前」という数字

ヨーロッパに進出したホモ・サピエンスクロマニョン人と呼ばれている。「クロマニョン人wikipedia」によれば、彼らは4万年に進出したとのことだが、2014年8月のウォール・ストリート・ジャーナルの記事によると45000年前だという論文がネイチャーに提出されたという(人類、予想以上に早く欧州に到達-ネアンデルタール人と長期間重複)。

この論文はネアンデルタール人の絶滅のところで書いたハイアム氏の論文だ。

オール・アバウト・サイエンス・ジャパン(AASJ)の2014年8月22日の記事「8月22日:ネアンデルタール人の消滅(Nature誌8月21日号掲載論文)」によれば、論文ではネアンデルタール人ホモ・サピエンスのどちらの文化か論争中のウルッツァ文化(Uluzzian industry)をホモ・サピエンスの文化だと断定したという。

さらにシップマン氏の本にはこの文化圏のグロッタ・デル・カヴァロ(イタリア南部。位置は「Grotta del Cavallo<wikipedia英語版」参照)で発見された歯が45000年前のものだとされていたものが再年代測定により現生人類(ホモ・サピエンス)のものだと分かった、と書いてある。

まとめるとホモ・サピエンスは遅くとも45000年前にヨーロッパ(イタリア南部)で、ウルッツァ文化(Uluzzian industry)の中で居住していた。

新しい(?)問題

ウルッツァ文化はおそらくヨーロッパに進出したホモ・サピエンスの最初の(あるいは最初期の)文化の一つだが、彼らは投擲具などの武器・技術を持っていなかったかもしれないという主張がある。

名古屋大学博物館、及び大学院環境学研究科の門脇誠二助教の研究グループは、獲物を遠距離から射止める狩猟技術の起源論争に一石を投じた:

・・従来、投げ槍や弓矢などの投擲具は、アフリカや西アジア(中近東)にいたホモ・サピエンス集団が開発した技術と考えられていた。そして、この革新的技術を携えたホモ・サピエンス集団の一部が4万2千年ほど前にヨーロッパへ拡散したことが、後のネアンデルタール人絶滅の一因になったという説が提案されてきた・・

これは、投射狩猟具の先端に装着されたと考えられている小型尖頭器(石器)がヨーロッパよりも西アジアで先に出現した、という年代測定結果が得られていたためである。

この時代の遺跡の年代測定には、放射性炭素年代が広く用いられている。遺跡から発掘される植物や骨の有機物に含まれる放射性炭素の割合と、その一定の壊変速度(放射性同位体である炭素14が壊変する速度)に基づいて、生物が死亡した年代を決める。

しかしながら、より古い前処理法や測定方法によって決定された年代は、「コンタミ(異物混入)」の影響を受けていたり、測定年代の誤差が大きいという問題点がある。1950年代以降普及し始めた年代測定は、その測定方法や資料の前処理法などの技術が改善され続けており、つまりは、放射性炭素によって測定された年代を全て同等に比べることはできないのだ。

「年代測定技術が進歩するのに伴って、過去の考古記録をアップデートしていく必要がある。」

門脇助教は、最新の年代測定結果を重視しながら、小型尖頭器(石器)の形態や製作技術の時間的・地理的分布パターンを把握する研究を行い、その結果から人類進化史の新事実を提唱する。

出典:人類進化史を更新―石器に見る「技術革新」にヒント―/名古屋大学学術研究・産学官連携推進本部/2015/06/10

簡単に言うと、新しい測定技術で西アジアの投擲具の技術を含む石器群を調べてみたら、その始まりは約39000年だった。これに対してヨーロッパの投擲具の技術を含む石器群(文化)のプロト・オーリナシアン文化(ウルッツァ文化より後の文化)は約4万2千年前。つまり従来の通説と合致しない結果となった。

こうなると、45000以上前にホモ・サピエンスは舟を使って北アフリカからイタリアを含む南部ヨーロッパに渡航したことを考えに入れないといけないだろう。しかし舟の遺物は出てきていないそうだ。水中考古学なんてものもあるそうなので期待したい。

先史:ホモ・サピエンスの大拡散:オーストラリア・日本編

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Homo sapiens migration map, based upon DNA markers

出典:Prehistoric Asiawikipedia

上の図はどの程度有効なのかよく分からないがとりあえず載せておく。

オーストラリア編

これまでオーストラリア大陸に人類が定住したのは47,000年から50,000年前とされてきた。しかし、最近、研究者チームが北部準州(NT)のカカドゥ国立公園に近い土地の岩窟を調査した結果、実際にはそれより18,000年遡る65,000年以上前という推定が強まってきた。[中略]

この発掘現場からは磨製石斧、砥石、火打ち石、オーカーなど多様な遺物に加え、現場一帯に焚き火跡が残っている。この遺跡はマジェドベベと呼ばれており、ここがオーストラリア国内でこれまでに発見されたうちではもっとも古い人類の定住の痕跡であることを認める学者は多かったが、現場の堆積物を最新の年代決定機器にかけた結果、世界でも有数の文化遺跡、人類学的に重要な遺跡であることが確認された。

QLD大学[クィーンズランド大学]のクリス・クラークソン博士は、「この遺跡の年代測定で、人類がアフリカ北部を離れ、現在の東南アジアを通過した時期についてさらに詳しいことが分かるかも知れない。この遺跡はオーストラリアだけでなく、世界的にも重要な発見だ」と語っている。[中略]

発見された遺物の中には打製石器時代を過ぎて磨製石器が使われていたことを示す石斧もあり、これまでに知られている限り、磨製石器の石斧としては世界最古である。

出典:オーストラリア大陸の人類定住は65,000年前<2017年7月23日ニュース<日豪プレス

この研究はNatureで2017年7月20日に発表された。

現生人類のインドネシア到達について

現生人類のオーストラリア到達に関連して現生人類のインドネシア到達の研究発表も載せておこう。

現生人類がインドネシアスマトラ島に到達したのは、トバ山の壊滅的噴火より早い73,000~63,000年前だったことを示唆する新たな化石証拠について報告する論文が、今週のオンライン版に掲載される。[中略]

スマトラ島のパダン高地にある更新世の洞窟(Lida Ajer)には豊かな多雨林動物相があり、19世紀後半に初めて行われた発掘作業でヒトの歯が2点見つかった。今回、Kira Westawayたちの研究グループは、Lida Ajer洞窟を再び調査して、これらの歯が現生人類に特有なものであることを確実に同定した上で、3種類の年代測定法を用いてこれらの化石の年代を決定して確実な年表を作成した。[中略]

Lida Ajer洞窟は、現生人類が多雨林環境に居住していたことを示す最古の証拠だ。海洋環境がヒトの生命維持にとって好条件であったと考えられることから、アフリカを出た現生人類が海岸に沿って移動したとする仮説が長い間有力視されている。これに対して、多雨林では、各種資源が広く分散している上に季節性があり、食料の栄養価も低いため、ヒトの定住が非常に難しいと考えられていた。多雨林環境をうまく利用するには、複雑な計画立案と技術革新が必要とされるが、Westawayたちのデータは、そうしたことが70,000年前よりもかなり前から存在していたことを示している。

出典:【考古学】現生人類のインドネシア到達の歴史を書き換える化石の発見ブックマーク<注目のハイライト2017年8月10日<Nature Japan

以上の二つの研究発表のせいで、このブログの先史カテゴリーの現生人類の歴史についての記事はリライトしなければならなくなった。新しいネタが入手できたらリライトしよう。また、2016年に『サピエンス全史』という本がベストセラーとなったが、現生人類が複雑な計画立案や技術革新をできるようになるのは7年前としている(認知革命)。この認識はすでに過去のものとなった。原著は2011年に書かれている。

舟の存在について

海水の大部分が氷河であった最終氷河期には、世界各地の海水面は現在の水位より数百フィートも低かった。そのため、アジア大陸と、スマトラ、バリ、ジャワ、ボルネオなどのインドネシア諸島とのあいだの浅いところは陸続きであった(ベーリング海峡英仏海峡なども同じであった)。また、ユーラシア大陸の東南アジア部の海岸線は、現在の位置より700マイル(約1120キロ)も東にあった。しかし、バリ島とオーストラリア大陸のあいだは深い海峡で隔てられていて陸続きではなかった。その時代、アジア大陸からオーストラリアやニューギニアに到達するには、少なくとも八つの海峡を渡らなければならず、それらの海峡のいちばん広いところは少なくとも50マイル(約80キロ)はあった。多くの島からは近隣の島々が見えたが、オーストラリアだけは、もっとも近いティモール島やタニンバル諸島からでさえ視界におさめることのできない距離にあった。したがって、オーストラリア・ニューギニアに人類が行くには舟が必要であった。歴史上、初めて舟が使用されたことを証明するものとして、この地域への人類の進出がもつ意味は大きい。

出典:ジャレド・ダイアモンド/p57-58

最終氷期の頃の予想地図↓

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The map shows the probable extent of land and water at the time of the last glacial maximum and when the sea level was probably more than 150m lower than today; it illustrates the formidable sea obstacle that migrants would have faced.(拙訳:この地図は最終氷期のおおよそ陸と海域の位置を示している。この時は海水面は現在より150mよりも低かった。この90km弱の海峡は移住者が直面した恐るべき障害であった。)

出典:Prehistory of Australia<wikipedia英語版*1

ダイアモンド氏は舟の遺物については書いていないが、状況証拠について書いている。

最近になってわかったことは、ニューギニアに人類が住みはじめてまもない35000年前頃には、その東に位置する島々にも人類が住んでいたということである。この驚くべき発見がなされた島々とは、ビスマーク諸島のニューブリテン島とニューアイルランド島、それにソロモン諸島のブカ島である。なかでもブカ島は、その西側にあるもっとも近い島からでさえ見えない位置にあり、会場を100マイル(約160キロ)渡らないと到達できない。おそらく、初期のオーストラリア・ニューギニアの住民は、見えるところにある島には渡ろうという意思をもって渡っていたのだろうし、意図はせずとも、頻繁に船を使っていたために、見えないほど遠くにある島々にも移り住むことができたのだろう。

出典:ジャレド・ダイアモンド/p58

日本編

航海の歴史については日本にもある。

国立科学博物館「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」とは?

新たな発見:祖先たちは偉大な航海者だった!?

最初の日本列島人は、3万年以上前に、海を越えてやってきたことがわかってきました。その大航海の謎に迫るために始動したのが、このプロジェクトです。

3万5000~3万年前に、突如として現われる琉球列島の人類遺跡。これは人類が海を渡り、遠くの島へ進出できるようになったことを物語っています。

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琉球列島の主な旧石器時代遺跡と現在の黒潮流路
背景地図:九州大学 菅浩伸 based on Gebco 08 Grid

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想定される3万年前の地形と3つの渡来ルート
背景地図:GeoMapApp

偶然の漂流ではなかったはずです。多数の男女が集団で渡らなければ、島で人口を維持できません。さらに本州では、3万8000年前に伊豆の島から黒曜石を運び込んでいた証拠があり、当時から意図的な航海が行われていたことが明らかです。

沖縄の島への進出は、当時の人類が成し遂げた最も難しい航海だったに違いありません。数十から200 km以上に及ぶ島間距離に加え、世界最大の海流である黒潮が、当時も今のように行く手を阻んでいた可能性が高いからです。

出典:3万年前の航海 徹底再現プロジェクト/国立科学博物館/-2017



現生人類のオーストラリア到達が65000年前という研究発表が2017年7月に為され、現生人類のインドネシア到達の発表が8月に為されたのでリライトした。