西域とはおおまかに言って中央アジアのこと。「古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称」*1。
前漢及びそれ以前の漢人は西域について詳細な知識を持っていなかった。張騫によって初めてもたらされた。張騫の「冒険譚」は『史記』の大宛列伝にかかれているが、それはマルコポーロの『東方見聞録』やコロンブス以降の新大陸「発見」と比較すべきものである。3600字。
前139年頃 張騫、長安から月氏に向かい出発。まもなく匈奴に捕まり、十数年も勾留される。
前120年代前半 張騫、匈奴から脱出して月氏の住む地に到達するが、目的は果たせず帰国に着く。再び匈奴に捕まり1年余抑留される。
前126年 張騫、長安に戻る。
前119年 張騫、再び西域に出発。目的は烏孫と匈奴挟撃の協定を結ぶこと。
前115年 張騫、目的を果たせず帰国。しかし張騫は西域諸国に使者を派遣し、その後諸国との交流、通商が盛んとなった。
前114年 張騫死去。
前104年 武帝、大宛に使者を派遣し千金で汗血馬を求めるも、拒否されたうえに使者を殺される。
同年 武帝、李広利を弐師将軍に任じて大宛を攻めさせる。失敗する。
前102年 再び李広利が大宛を攻めた。今度は成功し、大宛は王を殺し、その首級と汗血馬を差し出した。
張騫と西域
張騫の壮大な物語は以下のきっかけにより始まる。
月氏族は、もともと現在の甘粛省方面に居住していた種族であったが、強度の冒頓単于に攻撃されて西方に追われ、しかも、老上単于のとき、月氏王は匈奴のために殺されて、その髑髏(しゃれこうべ)は酒器にされたという。だから、月氏族はたとえ西方に逃れていても、匈奴に対する怨みを忘れているはずがない、と考えられていたのである。しかもこの話は、当時二十歳に達していなかった青年武帝が、匈奴の降人から直接に聞いたところである。月氏族と手を握るという武帝の夢はふくらみ、その使者を郎官の中からつのることとなった。そして、張騫がこの使者に選ばれた。
出典:西嶋定生/秦漢帝国/講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国/講談社/1974年の文庫版)/p224
武帝が「二十歳に達していなかった」時期だから、まだ外征を始める前どころか実権掌握すらできていない時にすでにこの計画は実行されていた。張騫が月氏に向けて出発したのは前139年頃とされる。武帝が即位して3年くらいしか経っていない。
張騫の西域冒険譚
張騫は漢中郡の人で、武帝治世の初期に選ばれて郎になった。郎は今で言えば官僚のキャリアみないなものか。出世コース上にいる人だった。しかし『史記』大宛列伝によれば、このプロジェクトの公募に張騫が自ら応募したとのことだ。
前139年頃、100人ほどの使節団を伴って長安を出たが隴西(今の甘粛省)を出たところですぐに匈奴に発見されて捕まってしまった。張騫は殺されなかったものの十数年も抑留された。その間妻を娶って子を授かっていた。
十数年の抑留の後、脱走に成功した張騫は西へ月氏へと向かった。途中大宛(フェルガナ)に到達した時大宛国王に歓迎され、月氏の場所を教えてもらえたばかりか康居国(こうきょこく・ソグディアナ)まで送ってもらった。
出典:木村精二他監修/詳説世界史図録/山川出版社/2014/p39
康居国に送られて張騫はついに目的地である月氏の地にたどりついた。しかし目的は果たせなかった。たどり着いた月氏は確かに匈奴に殺された月氏王の子が王をつとめる国だったが、安住の地を得た彼らはもはや匈奴と事を構える意志はなかった。
張騫はこれ以上の説得が無駄であることを悟ると帰路についた。匈奴に捕まらないようにタリム盆地の南側(シルクロードの西域南道)を使ったが、その甲斐虚しく匈奴に捕まってしまった。再び抑留されることになるが、残していった妻に再会したという。
抑留されてから1年余で張騫は再び脱走し、前126年、長安出発から13年後にようやく長安に戻ってきた。戻ってきたころは衛青による第三次遠征(前127年)と四次遠征(前124年)の間だ。*2 *3 rekishinosekai.hatenablog.com
張騫、インドへの道を探る
西南諸民族攻略の記事で引用したが、張騫はインドへの道を探るために西南の地を探検した(記事参照)。何時の頃かについては書かれていなかった。西域からの帰国から再び西域に出発するまでの間のことらしい。
張騫、再び西域へ出発
今度も対匈奴対策になるが、交渉相手は月氏ではなく烏孫になった。つまり烏孫と組んで匈奴を挟撃しようという話だ(前119年)。
張騫は匈奴に捕まることなく烏孫の住む地にたどり着けたが、今度も目的を果たすことができずに帰国した(前115年)。
しかしこの旅でも大きな利益を産んだ。張騫は西域諸国に使者を派遣して諸国から漢への使者をもたらした。この行為がその後の通商を盛んにして、西域を貫く道をシルクロードと呼ばれる重要な道に変えた(といっても西域の人びとはもっと大昔から利用していたわけだが)。
前114年、張騫死去。
「張騫」の重要性
張騫は漢帝国に西域の詳細な報告を提出した。『史記』の大宛列伝や『漢書』の西域列伝の記事は張騫のこの報告に基づくものである。
漢帝国およびそれ以前の中国歴代王朝は西域やインド、さらにその西方に関する詳細な知識を持たなかった。匈奴のような遊牧騎馬民族との交流によって断片的な知識を持つに過ぎなかった。例えばインド(身毒)の存在は知っていたらしいがその場所は知らなかった(西南諸民族攻略の記事参照)。
張騫の報告によって詳細を知り、また張騫によって為された諸国との交流が漢人の地理的視野を拡大させた。そしてそれは西域諸国他にも言えることだ。
「西域」の読み方
「西域」は、中国人が自分たちの西方の地域や諸国を総称したことばです。狭義には現在の中国西部の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面をさします。読み方には(1)[サイイキ](2)[セイイキ]の両方あり、辞書類の扱いをみても(1)を採るもの(2)を採るもの、両方を採るものとマチマチです。しかし、歴史・文化部門の用語としては、古くから[サイイキ]と読まれ、東洋史などの専門家の慣用的な読みは[サイイキ]です。また、同音語の「聖域」[セイイキ]との混同が避けられるということからも、「西域」を歴史的な用語として放送で使う場合には、[サイイキ]と読んでいます。ただし、現在の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面を主にさして言う場合は、[セイイキ]と読んでもよいことにしています。[中略]
(『ことばのハンドブック』P72、P73、P99 『日本語発音アクセント辞典』P331、P336、P469、P475参照)
李広利と大宛
汗血馬をめぐる戦争
西域から漢へ珍しいものが多くもたらされたが、武帝が関心を寄せたのは汗血馬だった。汗血馬は血の(ような)汗をかき一日千里を走る名馬のことである。
使者によれば汗血馬は大宛の弐師城に隠し置かれているという。武帝は大宛に使者を派遣し千金で汗血馬を求めさせた(前104年)。しかしこれを断られた上に使者を殺されたために、武帝は同年李広利を弐師将軍として大宛を攻めさせた。
李広利は武帝の愛妾李夫人の長兄だ。第一回目の遠征は惨めな失敗に終わったが、二回目の遠征は準備万端にして大宛を攻め、勝利することができた。
大宛は漢の要求を拒否した王を殺し、その首級と汗血馬数十頭などを差し出した。*4
この李広利は次の第二期対匈奴攻戦の主役になる。