歴史の世界

前漢・武帝⑦: 西域支配

西域とはおおまかに言って中央アジアのこと。「古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称」*1

前漢及びそれ以前の漢人は西域について詳細な知識を持っていなかった。張騫によって初めてもたらされた。張騫の「冒険譚」は『史記』の大宛列伝にかかれているが、それはマルコポーロの『東方見聞録』やコロンブス以降の新大陸「発見」と比較すべきものである。3600字。


前139年頃 張騫、長安から月氏に向かい出発。まもなく匈奴に捕まり、十数年も勾留される。
前120年代前半 張騫、匈奴から脱出して月氏の住む地に到達するが、目的は果たせず帰国に着く。再び匈奴に捕まり1年余抑留される。
前126年 張騫、長安に戻る。
前119年 張騫、再び西域に出発。目的は烏孫匈奴挟撃の協定を結ぶこと。 前115年 張騫、目的を果たせず帰国。しかし張騫は西域諸国に使者を派遣し、その後諸国との交流、通商が盛んとなった。
前114年 張騫死去。

前104年 武帝、大宛に使者を派遣し千金で汗血馬を求めるも、拒否されたうえに使者を殺される。
同年   武帝、李広利を弐師将軍に任じて大宛を攻めさせる。失敗する。
前102年 再び李広利が大宛を攻めた。今度は成功し、大宛は王を殺し、その首級と汗血馬を差し出した。


張騫と西域

張騫の壮大な物語は以下のきっかけにより始まる。

月氏族は、もともと現在の甘粛省方面に居住していた種族であったが、強度の冒頓単于に攻撃されて西方に追われ、しかも、老上単于のとき、月氏王は匈奴のために殺されて、その髑髏(しゃれこうべ)は酒器にされたという。だから、月氏族はたとえ西方に逃れていても、匈奴に対する怨みを忘れているはずがない、と考えられていたのである。しかもこの話は、当時二十歳に達していなかった青年武帝が、匈奴の降人から直接に聞いたところである。月氏族と手を握るという武帝の夢はふくらみ、その使者を郎官の中からつのることとなった。そして、張騫がこの使者に選ばれた。

出典:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p224

武帝が「二十歳に達していなかった」時期だから、まだ外征を始める前どころか実権掌握すらできていない時にすでにこの計画は実行されていた。張騫が月氏に向けて出発したのは前139年頃とされる。武帝が即位して3年くらいしか経っていない。

張騫の西域冒険譚

張騫は漢中郡の人で、武帝治世の初期に選ばれて郎になった。郎は今で言えば官僚のキャリアみないなものか。出世コース上にいる人だった。しかし『史記』大宛列伝によれば、このプロジェクトの公募に張騫が自ら応募したとのことだ。

前139年頃、100人ほどの使節団を伴って長安を出たが隴西(今の甘粛省)を出たところですぐに匈奴に発見されて捕まってしまった。張騫は殺されなかったものの十数年も抑留された。その間妻を娶って子を授かっていた。

十数年の抑留の後、脱走に成功した張騫は西へ月氏へと向かった。途中大宛(フェルガナ)に到達した時大宛国王に歓迎され、月氏の場所を教えてもらえたばかりか康居国(こうきょこく・ソグディアナ)まで送ってもらった。

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出典:木村精二他監修/詳説世界史図録/山川出版社/2014/p39

康居国に送られて張騫はついに目的地である月氏の地にたどりついた。しかし目的は果たせなかった。たどり着いた月氏は確かに匈奴に殺された月氏王の子が王をつとめる国だったが、安住の地を得た彼らはもはや匈奴と事を構える意志はなかった。

張騫はこれ以上の説得が無駄であることを悟ると帰路についた。匈奴に捕まらないようにタリム盆地の南側(シルクロードの西域南道)を使ったが、その甲斐虚しく匈奴に捕まってしまった。再び抑留されることになるが、残していった妻に再会したという。

抑留されてから1年余で張騫は再び脱走し、前126年、長安出発から13年後にようやく長安に戻ってきた。戻ってきたころは衛青による第三次遠征(前127年)と四次遠征(前124年)の間だ。*2 *3 rekishinosekai.hatenablog.com

張騫、インドへの道を探る

西南諸民族攻略の記事で引用したが、張騫はインドへの道を探るために西南の地を探検した(記事参照)。何時の頃かについては書かれていなかった。西域からの帰国から再び西域に出発するまでの間のことらしい。

張騫、再び西域へ出発

今度も対匈奴対策になるが、交渉相手は月氏ではなく烏孫になった。つまり烏孫と組んで匈奴を挟撃しようという話だ(前119年)。

張騫は匈奴に捕まることなく烏孫の住む地にたどり着けたが、今度も目的を果たすことができずに帰国した(前115年)。

しかしこの旅でも大きな利益を産んだ。張騫は西域諸国に使者を派遣して諸国から漢への使者をもたらした。この行為がその後の通商を盛んにして、西域を貫く道をシルクロードと呼ばれる重要な道に変えた(といっても西域の人びとはもっと大昔から利用していたわけだが)。

前114年、張騫死去。

「張騫」の重要性

張騫は漢帝国に西域の詳細な報告を提出した。『史記』の大宛列伝や『漢書』の西域列伝の記事は張騫のこの報告に基づくものである。

漢帝国およびそれ以前の中国歴代王朝は西域やインド、さらにその西方に関する詳細な知識を持たなかった。匈奴のような遊牧騎馬民族との交流によって断片的な知識を持つに過ぎなかった。例えばインド(身毒)の存在は知っていたらしいがその場所は知らなかった(西南諸民族攻略の記事参照)。

張騫の報告によって詳細を知り、また張騫によって為された諸国との交流が漢人の地理的視野を拡大させた。そしてそれは西域諸国他にも言えることだ。

「西域」の読み方

「西域」は、中国人が自分たちの西方の地域や諸国を総称したことばです。狭義には現在の中国西部の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面をさします。読み方には(1)[サイイキ](2)[セイイキ]の両方あり、辞書類の扱いをみても(1)を採るもの(2)を採るもの、両方を採るものとマチマチです。しかし、歴史・文化部門の用語としては、古くから[サイイキ]と読まれ、東洋史などの専門家の慣用的な読みは[サイイキ]です。また、同音語の「聖域」[セイイキ]との混同が避けられるということからも、「西域」を歴史的な用語として放送で使う場合には、[サイイキ]と読んでいます。ただし、現在の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面を主にさして言う場合は、[セイイキ]と読んでもよいことにしています。[中略]
(『ことばのハンドブック』P72、P73、P99 『日本語発音アクセント辞典』P331、P336、P469、P475参照)

出典:「西域」の読み方は? <放送現場の疑問・視聴者の疑問<NHK放送文化研究所

李広利と大宛

汗血馬をめぐる戦争

西域から漢へ珍しいものが多くもたらされたが、武帝が関心を寄せたのは汗血馬だった。汗血馬は血の(ような)汗をかき一日千里を走る名馬のことである。

使者によれば汗血馬は大宛の弐師城に隠し置かれているという。武帝は大宛に使者を派遣し千金で汗血馬を求めさせた(前104年)。しかしこれを断られた上に使者を殺されたために、武帝は同年李広利を弐師将軍として大宛を攻めさせた。

李広利は武帝の愛妾李夫人の長兄だ。第一回目の遠征は惨めな失敗に終わったが、二回目の遠征は準備万端にして大宛を攻め、勝利することができた。

大宛は漢の要求を拒否した王を殺し、その首級と汗血馬数十頭などを差し出した。*4

この李広利は次の第二期対匈奴攻戦の主役になる。



「西域」という語は『史記』では使用されておらず、『漢書』で現れたらしい。

*1:西域<wikipedia

*2:西嶋氏/同著/p224-225

*3:張騫<wikipedia

*4:李広利<wikipedia

前漢・武帝⑥ :衛氏朝鮮攻略

武帝治世の朝鮮半島北部に衛氏朝鮮という国があった。衛氏朝鮮の王は漢人で、現地諸民族の併呑と漢からの流入者で国は栄えた。三代目の朝鮮王が漢の言うことを聞かなくなったため武帝はこれを攻め滅ぼした。約1000字。


前108年 衛氏朝鮮、滅亡。「漢四郡」が置かれる。


衛氏朝鮮の興亡

衛満
生没年不詳。衛氏朝鮮の建国者。紀元前2世紀初めの中国、燕(えん)の人で、『史記』によれば前195年、燕王の盧綰(ろわん)が漢に背いて敗れるや、衛満は魋結(ついけつ)(さいづち髷(まげ))をし、蛮夷(ばんい)の服を着て、1000余人を率いて水(はいすい)(鴨緑江(おうりょくこう))を渡り、朝鮮の地に移った。そこで土着民や燕、斉(せい)の亡命者を治め、王険城(おうけんじょう)(現在の平壌(ピョンヤン))に都を定めて衛氏朝鮮を建てた。[後略][浜田耕策

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)<コトバンク

その後、衛満は呂后治世の時代に漢の外臣となり朝鮮王となった。つまり衛氏朝鮮は外藩(属国)となった。衛氏朝鮮は周辺の諸部族を併合して朝鮮半島の大半を領土とした。

衛満の孫、衛右渠(うきょ)治世の前後より漢の亡命の流入を認め、さらには入朝しなかったばかりではなく、辰国・真番国などの近隣の諸小国から漢に入朝しようとする使者の通行を妨害するようになった。

前109年、漢はこれを詰問するために使者を派遣したが右渠はこれにも従わず、ついに武帝は朝鮮討伐の出兵を命令した。

討伐軍のまずい攻めのために、戦争は長引いたが、前108年に衛氏朝鮮は滅んだ。

その後、漢は朝鮮に漢四郡を置いた。半島南部を除いて漢の直接統治の地となった。*1

その後の半島の変遷

出典:漢四郡<wikipedia

漢による朝鮮半島経営は成功しなかった。



古代朝鮮半島の歴史は古代日本列島の歴史と絡んでくるのでこの話はいつか別の記事でやる。

*1:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p218-219

前漢・武帝⑤:西南諸民族攻略

西南諸民族は西南夷と呼ばれていた。『史記』では「西南夷列伝」に書かれている。東南地域と同様にこの地域も漢人はほとんど住んでいなかった。そもそも中原とは全く気候の違う場所で、当時の漢人には住みづらい場所だっただろう。そして当然、中央政府の威光も及んでいない。約2100字。


前109年 西南夷を攻撃して滇国を服属させる。*1


西南地方には漢初から巴郡・蜀郡・広漢郡(以上は現在の四川省)、漢中郡(現在の陝西省南部)の四郡がおかれていたが、武帝は前135年に犍為(けんい)郡(郡治は現在の貴州省遵義じゅんぎ市付近、5年後に四川省南部に移動)をおいた。しかしそれらの域内およびその周辺には多数の民族が族長に率いられて割拠しており、なかでも貴州省南部にいた夜郎雲南省昆明市付近にいた滇(てん)、滇の北方にいた邛都(きょうと)は強大であり、滇は国を称し、族長は王を称していた。武帝は南越を攻めるにあたって、犍為郡に対して徴兵を命じたが、且蘭(しょらん)族が抵抗し、漢の使者と犍為太守を殺した。この事件を契機に漢は諸民族の弾圧に乗り出し、且蘭・邛都などの君長を処刑にし、新たに牂珂(そうか)郡など数郡をおいて漢の直接統治を強化した。

しかし、夜郎は漢の圧力を恐れて入朝したため、漢はその君長を夜郎王に封じ、牂珂郡内にいながら一定地域を漢の官吏を受け入れて統治した。滇国に対しては、漢は最初から外藩とすることを目論んでおり、武力による圧力と、滇と親交のあった二国を滅ぼすことによって入朝を強制し、その地を益州郡とするが、君長をあらためて滇王に封じ、漢からの官吏を受け入れて統治権を認めた。

このように夜郎・滇に対してだけは王印を授けて外藩国として残したのである。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p388-389/引用部分は太田幸男氏の筆

・郡治とは郡庁所在地のこと。

場所の確認。

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出典:中国人民共和国<wikipedia*2

巴郡・蜀郡・広漢郡(以上は現在の四川省)と書いているが、巴は重慶じゃないのか?

滇国への道

……大夏(たいか)の東南には身毒国(インド)があるとされている。張騫が身毒について知ったのは、かれが大夏にいたとき、そこの市場で邛(きょう)(四川省西昌県東南)の竹杖と蜀(四川省成都地方)の布とを発見し、その購入先を尋ねたところ、それは身毒から求めたものであると答えたことによる。

これによってかれは身毒と蜀との距離が近く、その間に交易が行われており、匈奴の地を避けて漢から大夏などの西域諸国に行くには、身毒経由が便利であろうと推定した。かれはこのことを武帝に上言して、みずから試みることを申し出て許され、蜀から南方の山地にはいり、身毒への道を求めた。しかし、張騫のこの努力はついに成功しなかった。とはいえ、これによってはじめて滇国に通ずることができてといわれている。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p226

大夏とはパミール高原西南のバクトリアにあった国のこと。

これによれば、漢帝国または漢人は滇国の場所さえ分からなかったことになる。

張騫については別の記事で書く。

夜郎自大

史記』では夜郎は当時の西南地区における最大の国家であり、武帝が時南越国討伐に唐蒙(中国語版)を派遣した際、その地で当時蜀(現在の四川省)で産出された枸醬(こうしょう)が夜郎よりもたらされたことを知り、南越国を牽制する目的で使節を派遣、現地に郡県を設置し、夜郎王族を県令に任じることとした。その漢の使者と面会した夜郎王が「漢孰與我大」(漢と我といずれが大なるか)と尋ねたことより、「世間知らずで、自信過剰」を表す「夜郎自大」(夜郎自らを大なりとす)の故事成語が誕生した。漢による郡県の設置は南越国滅亡後にようやく実施され、夜郎による漢への入朝も行われ、武帝夜郎王に封じている。

出典:夜郎wikipedia

実は『史記』の「西南夷列伝」には「漢孰與我大」と言ったのは滇王の方で、その直後に「及夜郎侯亦然(夜郎侯もまた同様だった)」と書いてある。本来なら「滇王自大」というはずだったが、何故か「夜郎自大」が普及した*3 *4。語呂が良かったから?



*1:夜郎がいつ服属したか分からないが、おそらくこの年か前後だと思われる

*2:ファイル名:Chuugoku gyousei kubun.png、ダウンロード元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chuugoku_gyousei_kubun.png著作者名が分からない(利用者ラン氏?) 

*3:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p240

*4:史記/卷116西南夷列傳 第五十六

前漢・武帝④ :東南勢力併合

この記事でいう東南勢力とは、南越国・閩越(びんえつ)国・東甌(とうおう)国の3つの国とする。長江下流より南に位置する。この3国がどのような国だったのかを調べた。調べたといっても、wikipedia調べでそのソースは『史記』などの短文のものだ。どこまで正確かは分からない。約5000字。


前138年頃 東甌国、滅亡。
前135年  閩越国、南越国に攻撃をしかける。南越王は漢に事件の処理を要請。閩越のクーデタにより漢の軍事行動は中止された。これに南越王趙眜(ばつ)はこれに感謝し、長安に太子を差出し、忠誠を示す。
前115年頃 四代目南越王趙興は即位後、南越国を「内藩国」にすること(純粋に漢帝国の一部になること)に同意したが、越人の官吏が反発しクーデタを起こす。
前112年  漢帝国南越国を滅ぼし、9つの郡を置く。
前110年  閩越国、漢帝国の圧力に屈し滅亡。南方併合完成。


南越国

南越国は、]紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部にかけての地方(嶺南地方)に自立した王国(帝国)である。南粤、趙朝とも記す。

首都は番禺(現/中国広州市)におかれ、最盛期には現在の広東省及び広西チワン族自治区の大部分と福建省湖南省貴州省雲南省の一部、ベトナム北部を領有していた。南越国は秦朝滅亡後、紀元前203年に南海郡の軍事長官である南海郡尉の趙佗が勢力下の南海郡に近隣の桂林郡と象郡を併せることによって建国された。紀元前196年と紀元前179年に、南越国は2度漢に朝貢し、漢の「外臣」となるが、紀元前112年、5代君主である趙建徳と漢の間で戦闘が勃発し、武帝により紀元前111年に滅ぼされた。

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南越国領域(紫)*1

出典:南越国wikipedia

上のように南越国は趙佗によって建てられた国。趙佗は漢人

この国の住人はほとんどが越人(ベトナム系)で、当初為政者層は漢人だったが、次第に越人も加わり増えていった。

その越人の中心にいたのが大族の出身である呂嘉(りょか)。呂嘉は南越王二代目趙眜(ばつ、趙胡とも)から三代にわたり丞相として仕えた。西嶋定生氏によれば、呂嘉の一族は「七十余人が高官となり、その男子はすべて王女を妻とし、その女子はすべて王族に嫁し、その実勢力は王をしのいでいた。」*2

漢帝国初期は外征を極力しない方針をとっていたので南越国を併呑しようとは考えなかった。

紀元前196年、南越王は高祖劉邦に対して朝貢する。ここで南越国は外藩国となった。つまり漢の属国となったということだ。属国になったといっても形式的なものだった。

趙佗の代の南越国の勢力は強く、一時漢帝国領内を侵略したこともあった。これに対しも当時の漢帝国は全面戦争になることを避けた。状況が変わったのは武帝が即位して領土拡大の方針を採ってからだが、これについては後述する。

閩越と東甌

閩越(びんえつ)は、現在の中国福建省に存在した政権。

戦国時代に楚によって滅ぼされた越人がこの地に逃れ、現地の百越族と共同して樹立した。存在期間は紀元前333年から紀元前110年頃とされる。特に紀元前202年前後の半世紀は国力が充実し、当時の中国東南部最大の国家勢力となった。閩越王無諸が城村(現在の福建省武夷山市興田鎮)に築いた王城はこの地域最大の都市となった。

出典:ビン越<wikipedia

上の地図で南越の北東、Minyueと書いてある地域が閩越。

東甌(とうおう、前472年 - 前138年)とは、越王勾践の後裔東甌王が封じられた国であり、現在の浙江省温州市付近に存在した。「甌越」とも表記される。

出典:東甌<wikipedia

東甌の場所は閩越の北東に位置する。

両国に共通する話として、

  • 前334年、勾践の7世の孫無彊が楚により殺害され翌年に越国が滅亡し、逃亡した越の王族が原住民の閩人・甌人と融合して閩越人・甌越人を形成した。

  • 前220年(始皇帝が中国を統一した翌年)、秦帝国は当時の東甌王安朱及び閩越王無諸の王号を除き君長と改め、その地域には閩中郡を設置した。郡を設置した後は、他の郡の政務とは異なり、君長に従来の政治を継続させたという。*3 *4

  • 秦末は閩越・東甌ともに反秦活動を行い、楚漢戦争では劉邦についた為、前202年に劉邦は無諸を閩越王に封じ、遅れて前191年に恵帝が雒搖に東甌王の称号を与えて、それぞれの王国が復興した。

以下は東甌のみの話だが、呉楚七国の乱(前154年)で、当初呉軍側で参戦したにも関わらず最後に裏切って呉王劉濞を殺した東越王とは東甌王(貞復?)のことらしい。*5

さて、上記三国のうち、最初に滅ぶのは東甌。武帝ではなく閩越王によって滅ぼされた。以下引用。

前154年、呉楚七国の乱が平定されると、呉の太子劉駒は閩越に逃れその保護を得る。そして劉駒の挑発により、建元3年(前138年)に閩越、東甌で內訌が派生し閩越王郢出(中国語版)(無諸(中国語版)の子)は東甌を攻撃、東甌王貞復(中国語版)(雒搖の次王)はこの混乱の中に死亡した。武帝は中大夫厳助を会稽より派兵し東甌国を支援、閩越軍はこの知らせを受け撤退する。新たに東甌王となった驺望(中国語版)(貞復の次王)は閩越の圧力に抗しきれず、族人を上げて廬江郡(現在の安徽省舒城)に北上して遷り、前漢朝より廣武侯に封じられた。これにより東甌国の名称は前漢朝の行政上から姿を消す。しかし甌越人は故地に留まり、また多くの国人は戦乱を避け周辺の東海各島へと散らばっていった。

出典:東甌<wikipedia

「呉の太子劉駒」とは呉王劉濞の子だ。見事に仇を討った、人のふんどしで。この戦いにより閩越は領土を拡大したが、南越にも戦争を仕掛けて南方で覇を唱える勢いだった。

これに対して南越は漢帝国に助けを求める。そしてこれが武帝の南方作戦へとつながっていく。*6

南越国滅亡の過程

太子の入朝

紀元前137年、趙佗が死去したが、百余歳という高齢であったため、実子はみな趙佗に先立って死亡しており、王位は孫の趙眜(趙胡)によって継承された。趙眜が即位した2年後の紀元前135年、閩越は王位継承により不安定な南越の辺境城鎮を攻撃した。趙眜は即位したばかりで国内の民心が定まらない状況の下、武帝へ上書を提出、閩越による南越攻撃を説明し、漢による事件の処理を求めた。武帝は趙眜の行動を冊封体制の体現であると賀し、韓安国両将軍を司令官とする閩越討伐軍を派遣した。漢軍が南嶺に至る前に、閩越王の弟余善が反乱を起こし閩越王を殺害し漢朝に帰順したため、討伐計画は中止された。

出典:南越国wikipedia

趙眜はこれに感謝し、太子の趙嬰斉を入朝させた(趙眜自身の朝見は大臣らの諫言により止めることにした)。太子嬰斉を入朝させただけでなく、武帝の宿衛として長安に留まらせた。つまり人質を差し出して忠誠を誓うということだ。こうでもしないと国家または趙王朝の存立が保証されなかったのだろう。

南越国の滅亡

三代目嬰斉(えいせい)は上記の通り長安で暮らした。嬰斉は入朝する前に越人の妻との間に子をもうけていたが、長安において漢人の妻(樛氏)を娶って子を作った。それが四代目趙興となる。

三代目嬰斉は即位後は、先代と同じように、入朝しなかった。だが四代目趙興は入朝しようとした。

[四代目趙興(哀王)は、]明王趙嬰斉の次男として生まれた。母は邯鄲樛氏。元鼎2年(紀元前115年)に父王が薨去すると、南越王として即位した。母の樛氏を太后に立てた。前漢は哀王の入朝を促すため、太后の元愛人の安国少季を使者として派遣した。太后は再び安国少季と通じるようになり、哀王に入朝を勧めた。相の呂嘉はたびたび哀王を諫めたが、聞き入れなかった。太后は呂嘉の反乱を恐れて、処刑の口実を作るため宴席を設けた。呂嘉は気配を察して虎口を逃れ、大臣たちと反乱を相談した。

韓千秋と樛楽は漢の武帝の命を受けて兵2000人を率いておもむき、呂嘉の殺害を謀った。呂嘉はついに兵を起こして哀王と太后・安国少季を殺し、哀王の庶兄の趙建徳を擁立した。

出典:趙興<wikipedia

「哀王の庶兄の趙建徳」とは三代目嬰斉が入朝する前に越人の妻との間にも受けた長男。呂嘉らは漢軍をけちらして、一時期は政権を確立した。

もうひとつ、別のところから引用。

武帝期になると、漢は南越国に圧力をかけ、南越国が外藩国から内藩国にかわること、すなわち官吏の漢による任命、漢律の適用などを要求した。第四代目の王およびその母后(いずれも漢族)はこれを受け入れたが、丞相で越族の呂嘉は反対し、両者の対立が南越国内で激化した。人口の大部分を占める越族は呂嘉を支持したため、呂嘉は新王を立てて一時南越国の実権を握った。しかし、前112年、武帝は10万の兵によって三方から番禺城[都の城]を攻め、南越国を滅ぼした。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p387/引用部分は太田幸男氏の筆

内藩国とは諸侯王のことで、このころの諸侯王は実権をほとんど持っていない。四代目南越王の趙興と太后樛氏は実権を捨ててでも諸侯王になろうとした。彼らは実権を失うが王という名誉と税収を受取る権利が残った。

だが丞相以下の南越国の官吏は違う。大部分が越人の彼らは漢の中央政府の命令により従来の権益を剥奪される可能性が高い。クーデタを起こす動機としては十分だろう。ただし武帝はこれを許すはずがなく、兵を派遣した。前回が二千だが今回は十万だ。南越国は五代、約百年で滅んだ。

この地は9つの郡が置かれたが最南端は現在のベトナムの北部まで及んだ。

閩越の滅亡、南方併合の完成

武帝時代に漢は[閩越王]無諸の孫の騶丑(すうちゅう)を繇(よう)王として立て、東越〔閩越〕国を継がそうとしたが、まもなく騶余善が東越王を自称したため、王が並立する状態となった。武帝が南越を攻めるにおよび、余善は漢に協力するとみせかけて南越と通じ、漢の圧迫を受けたためやがて漢に反旗を翻した。繇王は他の仲間とともに前110年、余善を殺して漢にくだった。漢は彼を他の地に侯として封じ、福建の地は地形的におさめにくいと判断して東越の民をすべて長江と淮河のあいだの地に移住させたため、東越の故地はしばらく空虚地と化したといわれる。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p388/引用部分は太田幸男氏の筆

これによって、南方の攻略は完成した。



*1: (製作者)Sea888/(作品名)Map of ancient Nam Việt (204 BCE - 111 BCE) - an ancient kingdom that consisted of parts of the modern southern Chinese provinces of Guangdong, Guangxi, Yunnan and northern Vietnam./(リンク元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%B6%8A%E5%9B%BD#/media/File:Nam-Viet_200bc.jpg 

*2:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p215

*3:東甌<wikipedia

*4:ビン越<wikipedia

*5:東甌<wikipedia

*6:wikipediaの閩越・東甌のページには参考文献が書いていないが、おそらく『史記』の「卷114 第54 東越列傳」を参考にしたのだと思われる

前漢・武帝③: 第一期対匈奴攻戦

前135年、文帝の皇后、竇太后、死去。竇太后は文帝の代から政治に口出しする人だったらしく、彼女が生きている間は武帝は頭が上がらなかった。その竇太后が死んだ。この頃はまだ景帝の皇后の弟の田蚡(でんふん)などがいて、武帝の専制体制はできていなかったが、とりあえず外征を始めたのは前134年である。「第一期対匈奴攻戦」では有名な衛青と霍去病が活躍する。約2400字。


前135年 竇太后死去
前134年 対匈奴作戦、朝議で可決
前133年 対匈奴作戦、失敗に終わる。全面戦争突入へ
前129年 大規模な遠征が始まる
前119年 第八回の遠征で霍去病ら大勝。この後20年近く匈奴は長城付近には現れなかった。


武帝の外征」以前の匈奴・漢の関係

簡単に言ってしまえば、高祖劉邦冒頓単于に大敗して和睦をしてからほとんど変わっていない。ここでいう和睦とは漢が金品を差出す代わりに略奪をやめてもらうという約束だが、匈奴側はしばしばこの約束を破り漢帝国内への侵入、略奪、殺略を繰り返した。これに対して漢側は防衛はするが、交渉した後、再び金品を差し出した。和睦の文面上は対等な関係だが、力関係は歴然としている。*1

漢側がこれほどの屈辱的な関係を維持し続けたのは、2つの理由がある。

一つは全面戦争をするよりコストが安かったから。全面戦争の消費は今も昔も底が無い。それに比べれば貢物+厳重な防衛のコスト+侵略の損害の総和は計算できる数字だった。実際武帝までの前漢の国庫は文字通り腐るほどの備蓄食料が溢れかえっていた。

2つ目は黄老思想。これについては以前に触れたが、簡単に言えば低コストで簡素な政治を行い、民の生活の安定を図るというもの。少数の犠牲者、比較的少量の略奪された金品よりも国家の安定を採った。

詐謀作戦の失敗、全面戦争の始まり

前134年、馬邑(ばゆう、山西省朔県)の一土豪で交易業者ある聶壱(じょういつ)が対匈奴主戦論者の王快(おうかい、大行-だいこう-帰順した異民族を司る役職)に詐謀を献策した。内容は、まず聶壱が軍臣単于冒頓単于の孫)を訪ねて、自分が馬邑の官吏を殺して匈奴に降伏するから馬邑を受け取って欲しいと持ちかけ、軍臣単于が馬邑に着たところをだまし討ちする計画だった。王快は朝議でこの案を披露して採用され、実行に移された。

聶壱は計画通り軍臣単于を騙すことに成功したが、漢側が攻撃する直前にばれて逃げられてしまった。王快は責任を取らされて獄死した。これより両国の関係は修復すること無く全面戦争に突入した。*2

全面戦争突入

匈奴に対する武力攻撃方策に転じたのは武帝時代になっていからである。武帝による対匈奴戦争は二期に分けてみることができ、第一期は前133年より前119年までのあいだに展開された。[中略]

第一期には計八回の漢側からの大規模な出撃があり、そのうち第六回までの主役は衛青であった。衛青は武帝の愛妾の衛子夫(のちの衛皇后)の弟で、母の衛温は平陽公主の家婢であって、姉弟ともに私生児であり、かつ奴婢の身分であった。第一回は前129年、四人の将軍の率いる軍が四方面から匈奴を攻めたが失敗し、車騎将軍衛青のみが軍功をあげた。第二回は翌前128年に衛青が雁門より出撃して匈奴軍を破り、さらにその翌年にはオルドス地方を制圧してそこに朔方郡と五原郡が設置されることになった。第四回は前124年に衛青ほか六人の将軍が十余万騎を率いてオルドスの北方まで進出し、匈奴の右賢王を敗走させた。この功績により衛青は大将軍となった。さらに第五回・第六回はいずれもその翌年の前123年に、同じく六人の将軍とともに匈奴を攻撃し、この時は将軍によって勝敗なかばに終わっている。

第七回出撃は霍去病が中心となった。霍去病は衛青の姉の衛小児(しょうじ)の子であり、衛小児は衛青と同じく衛温の私生児であった。騎射に長じ、第五・第六回の対匈奴戦にはまだ二十歳にいたらぬ年齢で衛青に従軍して軍功を挙げている。前121年、霍去病は驃騎将軍に任ぜられ、春・夏の二回にわたって隴西から出撃して匈奴の西方を攻め、多くの捕虜を得、渾邪(こんや)王を投降させるとともに、その大部隊を引きつれて長安に凱旋した。この結果漢の西方地域が確保され、以後渾邪王の故地に武威、酒泉、張掖(ちょうえき)、敦煌のいわゆる河西四郡が順次設置されていったのである。第八回は前119年に衛青・霍去病に各五万騎を率いさせて、匈奴の根拠地を攻撃させた。衛青率いる舞台が伊稚斜(いちしゃ)単于(在位126~前114)の舞台を大破し、その結果全右派北方にのがれて本営をゴビ砂漠の北に移すことになった。また霍去病率いる部隊も多くの首級と王・高官を含む多数の捕虜を獲得した。両者はともに大司馬の位を与えられた。この漢の勝利の結果、匈奴は長城付近には以後二十年近く姿を現さなくなり、漢の方も主要な軍事大正を朝鮮・南越などへと移したいったのである。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p385-386/引用部分は太田幸男氏の筆

オルドスとは黄河の「几」の形になっている内部の地域。車騎将軍、大将軍、驃騎将軍、大司馬についてはwikipediaの各ページ参照。



*1:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p187-192

*2:西嶋氏、同著/p203-204

前漢・武帝②: 中央集権化の完成

前漢はその初期から諸侯王の勢力を抑制する方針を採ってきた。当初の郡国制は時代が下るにつれ秦の郡県制に近づいていった。つまり諸侯王の勢力が段階的に削減されて中央集権化が進んだ。これが完成するのが武帝の代だった。これが完成するには以下のような幾つかの事件と幾つかの法律が必要だった。 約2200字。


前127年 推恩の令
前122年 淮南王劉安、衝山王劉賜の反乱計画発覚。両王自決。
前112年 「酎金律」事件


推恩の令

この王国分封の方針[呉楚七国の乱後に景帝が行った王国分割政策]を制度化したものが、景帝のつぎに即位した武帝の推恩の令である。これは元朔二年(前127)に郎中主父偃(しゅほえん)の献策によって実施されてもので、その内容は、皇帝の恩徳を諸侯王の子弟にひとしく推しおよぼすという名目のもとに、諸侯王はかならずその封地を子弟に分割し、それによって子弟を列侯にする、というものである。つまり、その名目は皇帝の恩徳の普及であるが、実質的な効果は、諸侯王の封地が一代ごとに分割縮小されることにほかならない。この推恩の令によって、賈誼や晁錯の主張した諸侯王抑制策は完成したといえよう。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p178

淮南王、衝山王の反乱計画発覚

景帝の即位後、紀元前154年に呉楚七国の乱が発生するとこれに同調しようとしたが、景帝が派遣した丞相の張釈之に「私が王の軍勢を率いて、指揮を執りとうございます」と述べて、自身が淮南王の軍勢を指揮して反乱軍に加担しないように手配をしたため、劉安は呉楚七国の乱に巻き込まれずに未遂に終わった。

しかし、劉安は以後も数千の兵を雇い、武備をかため、しばしば反乱を企図する。劉安は景帝を継いだ武帝匈奴討伐に反対で、武帝の徴兵策に消極的にしか応じていなかった[1]。これが武帝の政策に逆らうものとして2県の所領を削減されたことで、劉安は臣下の伍被らと計らい反乱の計画を練ったが、伍被の密告により露顕し、劉安は自害。一族はことごとく処刑された。

出典:劉安<wikipedia

この計画には衝山(当時は廬江・ろこう)王劉賜が加わっていた。劉賜も劉安と同じく自決した。淮南国、衝山国は郡になった。

この事件の鎮圧を契機に3つの法律が作られ、1つの事件が起きた。

左官の律 附益の律 阿党の律

[劉安の反乱計画が]鎮圧されたのを契機に、対諸侯王抑圧はさらにいちだんと強まった。すなわち、左官の律、附益(ふえき)の律、阿党の律が施行されたのである。左官の律とは、諸侯王の臣下として任官した者は中央政府の官吏になれないことを規定し、附益の律は中央の官吏が、諸侯王の増税や新たな農民への負担の設立を手助けすることを禁じたもの、阿党の律は中央政府から派遣された官吏が、諸侯王の不正を知りながら中央に報告しなかった時の処罰を規定したものである。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p405/引用部分は太田幸男氏の筆

諸侯王の抑圧は諸侯王自身のみならず、彼らに関係する官吏の行動を法で縛ることで諸侯王の行動を制限した。

「酎金律」事件

酎金律 ちゅうきんりつ

中国,前漢時代の法令で,諸侯の抑圧策の一つ。酎とは天子が宗廟の祭りに供える新酒で,その祭りのときに,諸侯は資格に応じて黄金を献上したので酎金という。その量が少く品質が悪い場合には,侯王は領地を削られ,列侯は国を免じられた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

これも諸侯王抑制策の一つ。ブログ『てぃーえすのワードパッド』によれば*1、この制度は文帝の治世に作られた制度らしい。

そして武帝はこれを使って事件を起こした。

前112年には、酎金の律が大規模に適用されて、爵位を奪われた者が109人となったという事件が発生した。酎金とは、漢の宗廟の祭祀に用いる酒の費用として、各諸侯王に封国の人口に応じて毎年醵出(きょしゅつ)[金品を出しあうこと]させる黄金のことである。酎金の律は文帝の時に定められ、各王侯ごとにその量や黄金の純度が定められている。この規定に違反したという理由で大量の処分者がでたことは、諸侯王に対する厳しい弾圧を意味するものであった。

出典:上記同著/p405/引用部分は太田幸男氏の筆

上記のように二重三重に諸侯王の謀反・反乱を防ぐ法律を施行した結果、中央集権化を完成させた。諸侯王は権力を奪われた挙句に厳重な監視の元で生きていくことになった。ただこの時代の諸侯王の一人中山王劉勝の墓を見るかぎり、彼らの生活は庶民には想像もつかないほど豪奢だったようだ(劉勝<]wikipedia)。



*1:丁孚の『漢官』によると

前漢・武帝①:武帝の即位/権力闘争/官吏登用制度

前漢で高祖劉邦の次に有名なのが武帝。その武威を四方に轟かせたために「武帝」と諡をつけられた*1。ただし最初から積極的に外征に出たわけではない。武帝が即位するのはまだ16歳の時であり、親政する力はなかった。約2000字。


前141年 景帝死去。武帝即位。
前135年 竇太后(文帝の皇后)死去。
前131年 灌夫(かんぷ)死去。
前131年 竇嬰(とうえい)死去。
前131年 田蚡(でんふん)死去。


武帝の即位

景帝の後を継ぐ皇太子は劉栄だったが後宮で一悶着あったため廃嫡され(劉栄はその後景帝の代の間に些細な罪で自殺させられた)、その後に劉徹が皇太子に選ばれた。後の武帝である*2

即位当時の武帝はまだ16歳だったが、歳をとっても彼の政治を制限する人がいた。それが年表に書いた竇太后(文帝の皇后。武帝の代では太皇太后)である。竇太后は文帝・景帝の治世でも政治や後継問題にしきりに口を出していた人だった。さらにはどうやら武帝立太子時に彼女の意向が強く働いたため、武帝は頭が上がらなかったようだ。

武帝は即位するとすぐに儒学的教養をもつ趙綰(ちょうわん)を御史大夫に登用しようとしたが、黄帝老子の言を好み儒学を嫌っていた竇太后は、趙綰が自分への政務報告を止めるよう上奏したことをきっかけに趙綰の不正を追求して自殺に追い込んだ。武帝が自身の政策を遂行できるようになるのは、即位7年目の竇太后死去以後である。

出典: 冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p80/上記は鷹取祐司の筆

権力闘争

前漢の官僚のトップは三公と呼ばれる。丞相が総理大臣、御史大夫が副総理格、太尉が軍事長官つまり武官を総括する職位だ。

武帝が即位したころ、三公の要職を占めていたのは、文帝の皇后の一族の竇嬰(とうえい)、景帝の皇后の弟の田蚡(でんふん)、そして竇嬰によって引き立てられた灌夫(かんぷ)らであり、国政を壟断していた。それだけに三者間の勢力争いは厳しく、生来、剛直無頼であった灌夫は、やがて田蚡の讒訴によって刑死し、灌夫を庇った竇嬰も、竇太后の死によって後ろ盾をうしなっており、同じく刑死となった。

この間、人事の一切を握って、「私が任命できる官吏は、何人のこっている?」と幼少の武帝を嘆かせたほどの田蚡も、晩年には、灌夫と竇嬰の亡霊に鞭打たれる幻想にさいなまれて死んだ。かつて淮南王劉安に向かって「皇太子がまだ決まっていないので、あなたにも可能性がありますよ」と反乱を炊きつけたのは、この田蚡である。

出典:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p295/上記は尾形氏の筆

上のように権力闘争に明け暮れた三者はすべて亡くなり、最終的に武帝が漁夫の利を得る形になった。これより武帝は誰憚ること無く政治ができるようになった。

官吏登用制度

この事情[上記の三つ巴]の中で成長した武帝が、行政改革、とりわけて丞相権力の排除に熱意を示したのは当然のことであった。武帝はまず、外戚でも<貴族>でもなく、しかも有徳・有能な人材を民間から抜擢することを考え、また教養に富む賢才を養成することを企図した。人材の登用については、養育する「任子(にんし)」の制度があり、また文帝の時代には、地方から品行方正な有能者(賢良・方正)の官吏登用が試みられていたが、武帝はこの方針を発展させた。

武帝は、長安城の南郊に「太学(たいがく)」を設置して組織的な学生の養成を開始した。いっぽう地方官に督促して、秀才(茂才・もさい)賢良・方正・文学・孝廉などの科目に従って、県・郷・里から人材を推挙させて、これを官吏予備軍として採用し、「郎」として育成する制度(郷挙里選)を拓いた。とくに、親孝行で行いが廉直であるとして抜擢された「孝廉」が当時のキャリアであり、これに受かると、郎から少府の部局である「尚書」へ、そして皇帝の近側の官である「侍中」、「侍御史」へと累進し、途中で地方官(県の令、郡の太守、州の刺史)に出向し、中央に帰って丞相府の官署に配属される……というのが出世コースであった。

出典:尾形勇・ひらせたかお氏、同著/p320/上記は尾形氏の筆

武帝は自分の頭脳、自分の手足になる官僚・官吏を登用する制度を整えた。この制度によって作り上げられた官僚機構は強力だったが、彼らが十分に機能したのは武帝という強大な専制君主が後ろ盾となっていたからだ。



官僚機構や内政(主に経済政策)については別の記事をつくる。

*1:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p200

*2:武帝wikipedia