歴史の世界

前漢・王莽政権と前漢滅亡

前回の記事(成帝・哀帝の治世)の最後に書いたように、哀帝の死後、実権は再び王氏一族の元に転がり込んだ。まず、孝元皇太后(元帝の皇后・王政君)が皇帝璽綬を得て、王莽を呼び寄せて大司馬領尚書事に就けて政治を任せた。*1

王莽は哀帝の後継に中山王衎(えん)を選んだ(前1年。平帝。元帝の孫、哀帝の従弟、9歳)。王莽は自分の娘を皇后に立てたが、平帝は6年に急死してしまった(王莽による毒殺とされる)。平帝の後継には宣帝の玄孫嬰を選んだ(孺子嬰。2歳)。しかし嬰を皇帝とせず、皇太子にした。この時すでに王莽は自らが皇帝になることを決断していたらしい。

[王莽は]実権は掌握したものの、正当性を考えると、王氏が劉氏に代わって皇帝となることには無理があった。そこで王莽が採用したのは、天命の移り替わりが何らかの姿を借り表現されるという「符命」の思想であった。この時点で王莽は、井戸から出た白石に「告ぐ、安漢公莽、皇帝たれと」の朱色の文言が現れた――という地方官の報告を得たとして、群臣の要望(勧進)に渋々従うというかたちで「仮(か)皇帝」となり、長安の南郊で上帝を祭り、居摂元年と改元して「摂皇帝」と号した(後6年)。

翌々年には、周公の例にならって、「孺子嬰が成人となれば位を返す」ことを前提として、「摂」の字を除いて「皇帝」(真皇帝)となった。ついで、符命を通しての上帝の命なので辞退することができない、と理由づけて「真天子」になり、この旨を漢の開祖たる高祖廟に行って報告した。高祖の霊がこれを承認したかどうか、それは定かではないが、こういう手順を踏んで「皇帝」と「天子」の両号を獲得した王莽は、孺子嬰を臣下の位に落とし、「始建国」と改元して「新」朝の樹立を宣言した(後9年)。

尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p333-334/上記は尾形氏の筆

こうして悪夢のような皇位簒奪劇のうちに前漢は滅亡した。ちなみにこの皇位簒奪劇は「禅譲」と呼ばれ、後世の中国史における王朝交代劇の手本となった。言い換えれば「禅譲」の最初が王莽だった。

もちろんこのような三文芝居に反抗した勢力がいくつかあったがことごとく鎮圧された*2

符命、讖緯説

上に出てきた「符命」について書いておく。

「符命」による騒動は王莽以前にあった。

昭帝の元鳳3年(紀元前78年)、泰山の莱蕪山で数千人の人の声が聞こえ、人々が見に行くと、3つの石を足にして大きな石が自立しており、その傍らに白い烏が数千羽集まった。さらに昌邑国では社の枯れ木がまた息を吹き返し、上林苑でも枯れて倒れていた柳の木が自立し、葉には文字のような虫食いの穴があった。その穴は「公孫病已立」と読めた。

眭弘はそれを「廃されて民となっている公孫氏から新たな天子があらわれる予兆である」と解釈し、友人の内官長を通じて「漢の皇帝は賢人を探し出し、帝位を譲り渡して自分は殷王、周王の末裔のように諸侯となって天命に従うべきである」と上奏した。

当時、若い昭帝を補佐して実権を握っていた大将軍霍光はこれを問題視して廷尉に下し、眭弘と内官長は大逆不道の罪で処刑された。

その後、戻太子劉拠の孫の劉病已が民間から迎えられて皇帝に即位すると、眭弘の子を郎とした。

出典:スイ弘<wikipedia

これが本当に自然現象だったのかどうかは知らないが、当時はこのようなことが予言として信じられた空気があったらしい。

儒家はこのような神秘主義(オカルト)を取り入れていった。この流れが歴史に初めて現れるのが武帝代の董仲舒の災異説だが(儒教の隆盛参照)、前述の眭弘は董仲舒の孫弟子に当たる。このような流れの中で出来上がった思想が讖緯説だ。

讖緯説とは、当時の儒家思想と無関係に出現した迷信ではなくて、当時の社会に充満していた神秘主義儒家が採用し、これによって儒家思想の大系を、その尚古主義と矛盾することなく、再構築したものであった。そしてこのことによって儒家思想は、一面において古礼を説きながら、他面において時代の風潮に妥協し、その結果として、国家・社会から尊重されることとなったのである。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p364

「宣帝<wikipedia」のページには「儒家が往々にして讖緯説に基いて皇帝退位を持ち出し」たとあるから、宣帝代には神秘主義の風潮が蔓延していたのだろう。

讖緯説の詳しい解説は上の本に書いてあるが、ここでは辞書からもう一つ引用する。

中国で、前漢から後漢にかけて流行した未来予言説。讖は未来を占って予言した文、緯は経書の神秘的解釈の意で、自然現象を人間界の出来事と結びつけ、政治社会の未来動向を呪術的に説いたもの。日本にも奈良時代に伝わり、後世まで大きな影響を与えた。

出典:讖緯説<デジタル大辞泉<小学館<コトバンク

上の「讖(しん)」が符命に当たる言葉で、「自然現象を人間界の出来事と結びつけ」ると書いてあるが、自然現象の中から無理くり文字に見立てたのかもしれない。これを逆手に利用したのが王莽だった。この讖緯説は後漢の時代も隆盛してついには日本にも伝来したという。



これで前漢の歴史は終わり。

*1:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p493/引用部分は太田幸男氏の筆

*2:太田氏/同著/p494

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