歴史の世界

メソポタミア文明:アッカド王朝時代③ 二代目リムシュ/三代目マニシュトゥシュ

リムシュとマニシュトゥシュの外征

サルゴンを継いだリムシュも積極的にエラム遠征を行ない、勢力を維持していたバラフシの王を殺し、エラム全土の支配権を掌握した。リムシュはエラム征服の成功を祝って、支配化にある諸都市の都市神に戦利品を奉納した。現在知られるのは、シュメール都市のニップルアッカド地方のシッパル、ディヤラ川流域のトゥトゥブ(ハファジェ)、ハブル川上流域に位置するテル・ブラクである(RIME 2, 62-66)。そのほかに、アッシュルから「リムシュ、全土の王」という銘を刻んだ遺物が見つかっている(RIME 2,71)。リムシュ治世時にアッカド王朝が支配する領域の範囲は、ティグリス川をさかのぼってアッシュルに至り、さらに北上してハブル川の上流域に達する北メソポタミアに広がっていた。

アッカド王朝第3代の王になったマニシュトゥシュは、安定したエラム支配のもと、イラン高原深く、アンシャン、シェリフムに遠征し、下の海(=ペルシア湾)を渡って都市を破った(RIME 2,75-76)。ただし、それを誇る碑文に、ペルシア湾交易に重要な役割を果たすマガン、ディルムンなどの地名は挙がっていない。

ティグリス川上流部のアッシュル地方が、アッカドの支配領域になっていたことは、マニシュトゥシュに捧げられたアッシュルの支配者の碑文やニネヴェから出土した古バビロニア時代のアッシリア王シャムシアダド1世の碑文からも知られる。

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p90

シュメール地方の支配状況

反乱

リムシュが第2代の王になるとすぐにシュメール諸都市の反乱が起こった。反乱を鎮圧したリムシュの碑文には、反乱軍にはウルの王(lugal)カクと、アダブ、ウンマ、ラガシュ、キアン、ザバラムの支配者(ensi)がいた。リムシュはこれらの王と支配者の都市の全ての城壁を破壊して住民を都市から退去させキャンプに送った。(『初期メソポタミア史の研究』(p92-93) )

『初期メソポタミア史の研究』(p60)によれば、領邦都市国家期(ウルク王エンシャクシュアンナより前の時代)はlugalとensiは同等の王号だったが、領域国家期(ウルク王エンシャクシュアンナ以降)はlugalは「シュメール全土を支配する王の称号」となり、ensiはこれに従属する都市国家の支配者の号となった。

リムシュの碑文にはサルゴンのシュメール統一以前にはウルクに従属していたウルがlugalを名乗る一方でルガルザゲシの故郷のウンマがensiだという。

93ページの説明では納得できなかったので、勝手に解釈すれば、ウルのカクがlugal(シュメール全土を支配する王)となり、他の支配者層がensiとなり、反乱を起こした(または暫定のシュメール地方統一国家を建ててアッカドに戦争を仕掛けた)。

支配

サルゴンの碑文に以下のような文がある。

下の海から(アッカドまで)アッカド市の市民に(シュメル諸都市の)エンシ権(=王権)を選び与えた。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p175

これに対し『初期メソポタミア史の研究』(p97)では「同時代史料によれば、アッカド王朝支配下のシュメール諸都市の支配者(エンシ)は、ほとんどがシュメール語名であり、アッカド人による直接支配は実証されない」としている。

直接統治(中央集権体制)の証拠は上の碑文の一文だけだが、前田氏は「アッカド市の市民」の訳し方が違っていると主張する。「アッカド市の市民」は「dumu-dumu a-ga-de」(正しい表記は著書参照)の訳だが、前田氏はこれを「アッカドの権威に従って奉仕する者」と訳した。この意味するところは「アッカド王権の要職にある者の子弟と支配に服する諸都市の親アッカド派の子弟」(p98)。

アッカド市の市民」が正しければ、秦の始皇帝が行ったような中央集権体制を敷いたと言えるが、前田氏が正しければ「外様」が存在したわけだ。

中央集権化は四代目ナラムシンによって指向されるが、五代目シャルカリシャリ以降、国が乱れると都市国家の自立化傾向が顕著になった(p99)。



(雑記1)

リムシュは反乱を起こした都市の住民を退去させた、とあるが、これは強制移住の最古の記録かもしれない。しかし、都市の城壁を破壊したと書いてある碑文はこれ以前にあるので強制移住はその前から行われていたかもしれない。


(雑記2)

ウル王のカクの反乱は中国史における楚漢戦争や呉楚七国の乱を想起させる。また、シュメール支配の話で言えば、前漢武帝より前の時代の郡国制と比較できるだろう。