歴史の世界

春秋時代⑧ 中華思想の形成

晋の文公が覇者となり、中原の諸侯国を支配したこと、そして晋国の君主が覇者を世襲したことは以前の記事で書いた(春秋時代④ 晋の文公/晋による覇者体制 )。

この支配体制の期間で、諸侯たちの間で文化が共有された。その文化が現代まで続く中国文化の起源になったようだ。

その一つに「中華思想」というものがある。今回はこれについて書いていこう。

中華思想

まずはwikipediaの簡潔な説明から。

中華思想は、中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くから持った自民族中心主義の思想。自らを夏、華夏、中国と美称し、王朝の庇護下とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い夷狄 (蛮族) であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す。

出典:中華思想 - Wikipedia

こういった自民族中心主義は洋を問わずある。特に古代は国家・勢力・文化の境界を示すものとして、このような区別が用いられた。

次に吉本道雅氏の説明。

晋を中心する持続的な外交関係は、それにともなう「礼」を規範化した。「礼」を共有する中原諸国は自らを「諸夏」と称した。中原を「禹跡」(禹の足跡)とし、禹を夏王朝の開祖とする観念がすでに共有されていたためである。これに対し、なお国家を形成していなかった戎狄は、同盟に安定的に参加し得ず、「礼」から排除された。諸夏と異族を対比することは秦景公(前576~前537)政策の青銅器銘文に「蛮夏」と見える。中原に雑居していた戎狄は、戦国時代までには国家を形成して「諸夏」に参加するか、辺境に駆逐されるかして消滅した。『詩経』の大雅には、「中国」「四方」の対比が見える。この「中国」は周王朝都城ないし王畿の意味だが、戦国時代には、これを援用して「中国」「四夷」の対比が出現した。こちらの「中国」は「諸夏」の住まう中原を指し、辺境化された四方の野蛮人たる「四夷」―東夷・南蛮・西戎北狄という呼称は五行思想に基づき四種類の野蛮人を四方に割り振ったものである―に対比するものとして再定義されたものである。ここに「中華」(「華」は「夏」に通づる)思想が完成することとなる。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p44(吉本道雅氏の筆)

  • 戦国時代までに邑制国家(都市連合国家)から領域国家に変わる過程で、中原に雑居していた戎狄が駆逐される。

晋の覇権を強化するために蛮夏の区別を強調したのかもしれない。

ヒトラーユダヤ人を敵にしてドイツ人の一致団結を果たしたが、まあ、どこの地域も探せば同じような歴史をもっているだろう。

次に、石平氏の説明。

中華思想とは要するに、中国の王朝と皇帝をこの世界の唯一の支配者とし、中国の文明はこの世界の唯一の文明だと自任する一方、周辺の民族は皆野蛮人であるから、中国の王朝と皇帝に服従中国文明の「教化」を受けなければならない、という考えである。

現代社会のわれわれの価値観からすれば、このような自己中的な考え方はあまりにも荒唐無稽であるが、中国人自身は昔から、真剣にそう思っているのである。そして、このような荒唐無稽の「中華思想」の源は、やはり儒教である。

たとえば『論語 八佾第三』には、孔子の次のような言葉が載せられている。

「子曰く、夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かず」

現代の日本語に訳せば、「野蛮人の国にいくら君主があったとしても、中国に君主が無い状態にも及ばない。」となるが、周辺の国々を徹底的に貶める一方、というよりも周辺の国々を徹底的に貶めることによって中国を持ち上げるという言い方である。孔子の発したこの言葉はまさに中華思想そのものであり、中華思想の発祥ともいうべきものであろう。

孔子は、ここで周辺の国々や民族のことを「夷狄」という差別的蔑称で呼んでいるが、実は中国では古来より周辺の諸民族を「夷蛮戎狄」と呼んでいて、獣同然の野蛮人だと見なしている。

出典:石平 「中華思想」の源は儒教 | Web Voice

中華思想を正当化・体系化していったのは、孔子の弟子筋が作った儒教だったのだろう。石平氏儒教を政治権力を正当化する「御用思想」と言っている*1

日本人は中華思想と言えば、朱熹あるいは朱子学を思い起こすかもしれないが、朱熹中華思想は体系化の完成形(の一つ)だ。



現代の中共政府あるいは中国人は中華思想を今も抱いているそうだ。困ったものだとも思うが、ヨーロッパ人もヨーロッパ中心主義を今も抱いている人もいるだろう。問題は中共政府が中華思想を掲げて他国を覇権国家になろうとしているところだ(石平氏がそのように主唱している)。

*1:なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか/PHP新書/2018/p15