歴史の世界

道家(25)荘子(逍遥遊篇 その2止 鵬の話)

前回からの続き。

今回は逍遥遊篇の冒頭の鵬(ほう・おおとり)の話。

大きな鳥、鵬

北の彼方、暗い海に魚がいる、その名を鯤(こん)と言う。鯤の大きさのほどは、何千里(一里は約400メートル)あるのか計り知ることができない。やがて変身して鳥となり、その名を鵬(ほう・おおとり)と言う。鵬の背平(せびら)は、何千里とも計り知ることができないほどだ。一度奮い立って飛び上がると、広げた翼は天空深く垂れこめた雲のよう。この鶏が、海のうねり初(そ)める頃、南の彼方、暗い海に渡っていこうとする。南の暗い海とは、天の果の池である。

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/p52-53

西野広祥氏によれば、この出だしは大変有名であるようで、「鵬図(ほうと・大きな計画)」「鵬程(遠い道筋)」「鵬鯤(英雄のたとえ)」などの成語もここから生まれ、相撲の大鵬もここから取ったとのこと。 *1 2019年現在の横綱白鵬という四股名大鵬にちなんでつけられたそうだ。

新釈 荘子 (PHP文庫)

新釈 荘子 (PHP文庫)

(私が参考にしたのは文庫本ではなく、単行本の方。)

鵬から「遊」の話へ移行

少し省略して次は、殷の湯王に棘(きょく)という臣下が話した話から再開する。

「荒遠な不毛地帯の北に、暗黒の海がありまして、それは天の果ての池であります。そこに魚がおり、横幅は数千里ありますが、身の丈については誰ひとり知る者がおりません。名を鯤と申します。鳥もおり、名を鵬と申します。鵬の背平は、あたかも泰山(斉の名山、高さ1524メートル)のよう、広げた翼は天空深く垂れこめた雲のよう。この鳥は、つむじ風を羽ばたき起こし、旋回しながら九万里の高みに舞い上がり、雲気の上に越え出て、青空を背にいたします。そうして始めて南を目指し、その彼方の暗い海に渡っていこうとするのであります。斥鴳(うずら)がこれを嘲笑(あざわら)って、『彼は一体、どこまで行くつもりなのだろう。俺などは踊り上がって飛び立っても、せいぜい数仞(じん)(約七、八メートル)の高さを限度に降りてきて、蓬(よもぎ)木立の間を飛び回る。これでもう飛翔としては十分なのだ。それなのに、彼は一体、どこまで行くつもりなのだろう。』と言ったのでありました。」これが小物と大物の違いである。

こういうわけで、あの方々 ── 一つの官職に任ぜられて功績を挙げるに足る知を持つ人たち、一つの郷村を治めるのに適(ふさ)わしい人たち、一国の君主の思し召しに適(かな)い、臣下として召し出されるだけの徳のある人たち ── が、満足しきって自己を視上げるありさまは、この斥鴳(うずら)と違わない。(p54-55)

上では官吏や臣下を「この斥鴳(うずら)と違わない」と言っているが、逍遥遊篇の中の藐姑射(はこや)の山に住む神人の話では傑物とされる堯・舜ですら「神人からすれば、堯、舜くらいの人間なら、ゴミを練って作り出してしまうだろう」(西野氏/p36) *2 と書いてあるくらいなので、『荘子』の観点からすれば、堯・舜もまた斥鴳つまり小物に過ぎないとの評価のようだ。

さて、このパートでは雄大な鵬の飛翔の話から「遊」の話へ移行している。

この後は、「遊」の話になる。

真の「遊」に向かう段階的な説明

上の引用では鵬(おおとり)の話から「官吏や臣下は小物だ」という話にシフトしていて、下の引用は「小物」からの話が続く。

ところが、宋栄子(戦国時代の思想家)はゆるりと構えてこれを笑う。また、彼は世間がこぞって誉めてくれようと、別に気負い立ちはしないし、こぞって貶(けな)してくれようと、別にやる気を失いはしない。内なる自己と外なる世間との区別を確立し、名誉と恥辱との境界を辨別(べんべつ)しているからに他ならない。世間の評価に対して、彼はさばさばとしたものだ。しかしながら、まだ自己確立していない欠陥がある。

あの列子春秋時代の鄭の思想家)は風を操って虚空(こくう)を飛行し、さわやかにも巧みなもの、15日経ってやっと戻ってくる。彼は世間の評価に対しては言わずもがな、幸せを掴むということに関しても、さばさばとしたものである。この人は、足で歩く煩わしさから開放されてはいるけれども、まだ何かに依存して生きている者である。

世界全体である天地の真正(まこと)の姿に乗り、その森羅万象を六種の気の変化において操って、時空を越えた無限の宇宙に遊ぶ、という者になると、彼は一体何に依存するであろうか。そこで「至人(道に到達した人)には自己が無く、神人(霊妙な能力の人)には功績が無く、聖人(最高の境地の人)には名誉が無い。」と言うのである。

出典:池田氏/p55-56

池田氏によれば、鵬の話は上の文章までで終わり第一章としている。

鵬の話で『荘子』は何が言いたかったのか?

池田氏の章分けが通説(?)であるのかどうかは分からないが、この章分けに従って話を進める。

この第一章についてはp10-11に解説がある。これを私なりに解釈してみる。

鵬は何を指すか?

社会という狭い空間・時間に束縛された人間に対して、途方もなく大きな鵬とその飛翔は空間・時間に束縛されない大きさ、つまり「遊」を表している。「遊」は束縛されない自由・自立のこと。

真の「遊」に向かう段階的な説明

ただし、『荘子』の求める真の「遊」(自由・自立)は、鵬では表しきれない。何故なら鵬は途方もなく大きいとは言え、その大きさは有限だからだ。

第一章の後半で、真の「遊」に向かう段階的な説明が為されている。

つまり、
(現在の地位に満足している)臣下・官僚
→(世俗を越えてはいるが、まだ自己確立していない)宋栄子
→(飛翔することができるが、まだ何かに依存している)列子
→(人を含むいかなる万物にも依存しない主体性を確立して、真の自由・自立を獲得している)至人・神人・聖人。

鵬の一段階上に真の自由・自立を獲得した至人・神人・聖人。つまりは鵬は列子と同じ位置にいる。

真の「遊」とは「道」と一体になるということ

至人・神人・聖人は何ものにも束縛されることがないばかりか「六気の辯」 *3 つまり万物の存在・変化をもコントロールする能力を有する。

これは道家の思想の中核にある「道」と一体になったことを意味する。

至人・神人・聖人

章末の「至人は己無く、神人は功無く、聖人は名無し。」は、本書編纂時の加筆であろうけれども、以下これに沿って、「名無き」聖人の許由を描いた第二章、「功無き」藐姑射(はこや)山の神人を描いた第三章を配し、終わりに最も優れた「己無き」至人の荘子を描いた第四・五章を置いて結びとする。

出典:池田氏/p65

池田氏の章分けによれば、逍遥遊篇は5章に分けられる。

この第四章と第五章は『荘子』を代表するキーワード「無用の用」に関する寓話で有名だそうだ。

池田氏は「無用の用」を語る荘子(荘周)は、「道」を極めた至人だと言っているわけだ。



*1:西野広祥/無為自然の哲学 新釈「荘子」/PHP研究所/1992/p25

*2:原文は《是其塵垢秕糠,將猶陶鑄堯舜者也》

*3:六気(りっき、りくき、ろっき) ── 「天地間に存在する六つの気。陰・陽・風・雨・晦(かい)・明。また、寒・暑・燥・湿・風・火。」小学館デジタル大辞泉/六気(リクキ)とは - コトバンク