歴史の世界

道家(24)荘子(逍遥遊篇 その1)

荘子』全33篇は逍遥遊篇から始まる。

この逍遥遊篇は次篇の斉物論篇と合わせて『荘子』の真髄とのこと。

この記事では、逍遥遊篇を扱う。

ただし一つの記事に書ききれなかったので、何回かに分けて書く。

テキストは池田知久『荘子 全現代語訳 上』 *1

荘子 全現代語訳(上) (講談社学術文庫)

荘子 全現代語訳(上) (講談社学術文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/05/12
  • メディア: 文庫

重要なキーワード「遊」

逍遥遊の「逍遥」は「気ままにあちこちを歩き回ること。散歩。」 *2 でいいとして、問題は「遊」。これは重要なキーワードらしく、国語辞典だけに頼るだけで済ますわけにはいかないようだ。

「遊」の基本的な意味は、世間的な知識と言葉の描く世界「万物」から出て、人間としての自由・独立を可能にするあの「道」に向かって進んでいくための根源的な飛翔である[以下略] (p7)

ここに、「遊」の代表的な意味を挙げてみると、以下の四点にまとめることができようか。すなわち、「遊」とは、

  1. あそぶこと、ひいては何らかの目的意識に導かれることのない行為である。
  2. 世間的な人間社会から外に出ていき、その狭小な視座を超越することである。
  3. 作為的人為的なものを捨て去って、自然に従って伸びやかに生きることである。
  4. 「万物」の一つである人間が、「万物」の世界から越え出て根源の「道」へと高まっていくことである。

以上は、やや軽少な意味から始めて重大な意味に至る代表的な意味を列挙したのであるが、どの場合にも思想家たちの自由・自立に対する強いあこがれが表現されていることに、我々は刮目すべきであろう。そして、本篇逍遥遊篇には、以上の四点が全て顔を現している。(p51-52)

「遊」の思想は、斉同なる万物への沈潜から転じ始めた斉物論篇第三章の齧欠・王倪問答(紀元前三世紀初めの成立)あたりに萌芽し、やがて「無用の用」・養生思想などととも結びついて道家の中心思想の一つとなっていった。(p65)

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/抜粋

以上、池田氏の本から「遊」の言及箇所の抜粋。その一方で「逍遥」については触れられていない。

ということで「遊」の概念がそのまま逍遥遊篇の概念に直結するということになる。

逍遥遊篇の哲学

さて、それでは逍遥遊篇はどのような事が書いてあるのか?

逍遥遊篇が最終的に求めている真の「大き」さと、斉物論篇にとっての最大の関心事とは、実はほぼ同じものであった。逍遥遊篇第一章は、その末尾に次のようなアフォリズム*、「故に曰わく、『至人は己(おのれ)無く、神人は功無く、聖人は名無し。』」を書きこんで終わっているが、我々読者もよく耳をすませてここに斉物論篇と同じような重厚な響きが鳴っているのを聞き取りたいものだ。

このように『荘子』の文章の「重厚」と「軽妙」は、上に引いた斉物論篇の「朝三莫(暮)四」の寓話をも含めて、同一の個所において相互に交錯しあって現れる。その原因・理由は、重厚の根源である自己の内に向かって沈潜していく下方向と、軽妙の源である自己の外に向かって飛翔いていく上方向が、結局のところ、全く同一のポイントに向かって進んでいる、言い換えれば、同じ窮極的根源的な「道」を目指している、ことから来るように思われる。

荘子』の魅力の秘密は、人間としての真の生を定立するという目標に到達するために、さまざまの方向から「道」を探求していることそれ自体の中にある、と言うことができるかもしれない。

*物事の真実を簡潔に鋭く表現した語句。警句。金言。箴言(しんげん)。──引用者 *3

出典:池田氏/p11-12

斉物論篇が理論的だとすると、逍遥遊篇は実践的だと言えるかもしれない。つまり、真の生を獲得(人間としての自由・独立、「道」の獲得)するための(または獲得した後の)心構えや態度が書かれているようだ。ただし直接書かれているのではなくて、寓話などを通して書かれている。

(つづく)



*1:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)

*2:小学館デジタル大辞泉逍遥(ショウヨウ)とは - コトバンク

*3:小学館デジタル大辞泉アフォリズムとは - コトバンク