これから『孫子』に入る。まずは著者と著作について。
兵法書『孫子』は誰が書いたか
『孫子』の「子」は先生というくらいの意味で、『孫子』の著者は孫氏であることは間違いない。
司馬遷『史記』によれば、春秋戦国時代で有名な兵法家の孫氏は2人いる。呉の孫武と斉の孫臏だ。
班固『漢書』芸文志・兵権謀家類には、「呉孫子兵法」82巻・図9巻と「斉孫子兵法」89巻・図4巻を見ることができる。
このうちの「呉孫子兵法」の一部の13篇が現在に伝わる『孫子』である。
かつて著者について論争があった
しかし最近に至るまで『孫子』を書いたのが孫武か孫臏かで永い論争が続いていた。
漢代は、各々を『呉孫子』『斉孫子』と言って区別していたが、そのどちらか片方が早くに散逸し、後世に残ったほうが『孫子』の原本となった。そのため『孫子』の著者が、孫武・孫臏のいずれになるか不明となっていた。あるいは両方とも散逸し、現代まで伝わる『孫子』は後代の偽書であるという説もあった。
平凡な推測をすれば以下のような感じだろうか?
先に流通していた孫武の『孫子』が後に出てきた孫臏の『孫子』と区別する時にだけ『呉孫子』『斉孫子』という呼称が発生し、『斉孫子』が忘れ去られた時に昔通りに『孫子』と言えば孫武の著書を指したのだろう。そしてそれから数百年が経った時に『孫子』の著者がどっちかわからなくなってしまった。
これを解決したのが「出土文献」、即ち1972年に発掘された古代の墓の中から発見された竹簡だった。
現行本の『孫子』の著者は、春秋時代の孫武(そんぶ)ではなくて、その子孫である戦国期の孫(そんびん)とする説がこれまで有力であり、孫武は架空の人物であるとまでされてきた。しかし発見された竹簡本『孫子兵法』がいまの『孫子』に相当し、同時に『孫(そんびん)兵法』が現れたことにより、従来の定説は一気に覆された。
出典:日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館<銀雀山漢墓(ぎんしゃくさんかんぼ)とは - コトバンク
もとより、13篇が最終的に今の形に定着するまでには、孫臏をはじめとする孫氏学派の手が加わっているであろうが、『孫子』の内容が示す時代背景の面からも、その主要部分は、やはり春秋末の孫武の兵学を伝えていると考えるべきであろう。
現代に伝わる『孫子』までの変遷
現代の私達が読むことができる『孫子』は孫武が書いたものそのものではない。時代を経て あらゆる人々が手を加えてきた。研究者たちはこれらの変遷がどのようなものであったのかも研究しているが、その一例がwikipediaにあったので、ここにコピペしておく。
『孫子』研究者の考え方の一例を挙げると、その成立を河野収は以下のように5段階に分けられるとする。他の研究者も概ねこれに近い成立を想定している。
- 紀元前515年頃、孫武本人によって素朴な原形が著される。[3]
- 紀元前350年頃、子孫の孫臏により、現行の『孫子』に近い形に肉付けされる。そして戦国末期までに異本や解説篇が付加されていった。その一つがここで『竹簡孫子』と呼ぶものである。
- 秦漢の時代も引き続き本論に改訂が加えられていき、多くの解説篇が作られた。[4]
- 紀元200年頃、曹操により整理され、本論13篇だけが受け継がれていくようになる。[5]
- 曹操以降、写し違いや解釈の相違により数種類の異本が生まれ、それらは若干の異同を持ったものとなる。しかし基本的には、第4段階のものと大きくは違わず現代に伝わる。現在手にすることができるものは、ほとんどがこの段階の『孫子』である。
というわけで、私達が読んでいる『孫子』は曹操に整理された13篇である。
ちなみに、どうして曹操がこんなことをしたのかというと、幹部クラスの教科書にする目的で整理して注釈をつけたとのことだ。これは『魏武注孫子」と言われている。これについて詳しくは「【目からウロコ】魏武註孫子は○○○として編纂された | はじめての三国志」というブログ記事に書いてある。この記事の参考文献は 中島悟史 訳・解説『曹操注解 孫子の兵法』だそうなので、もっと詳しく知りたいのならこの本を読めばいいのだろう。
- 作者:鄭 飛石
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 1991/04
- メディア: 文庫
上の本は上巻は孫武、下巻は孫臏が書いてあった(と思う)。
物語のベースはもちろん『史記』孫子呉起列伝。時代小説好きなら楽しめるだろう。