歴史の世界

進化:進化にまつわる歴史⑤ もう一人の自然淘汰説論者、アルフレッド・ラッセル・ウォレス

前回からの続き。

自然淘汰説が初めて世に出たのは、1858年のチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ラッセル・ウォレスの共同論文だ。

共同論文と言ってもダーウィンとウォレスが共同研究をしたわけではなく、両者は独立して自然淘汰説を思いついた*1

今回はウォレスについて書く。

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ウォレスの生い立ち

ウォレスの生涯をたどるとき、まず注目すべきは、その生い立ちだ。「窮乏は発明の母」という言葉は、ダーウィンにはそぐわないが、ウォレスにはぴったりあてはまる。貧しい家に生まれた好奇心旺盛なウォレス少年は、1837年、14歳のときに家計を助けるために働きに出た。かたやダーウィンは、当時すでに28歳の若き紳士。裕福な父親の出資でビーグル号の航海に出て、英国に帰ってきたばかりだった。

ウォレスは、10年ほど土地の測量士や大工、小学校の教師などの職を転々とする。その間、町の図書館や組合の施設へ通っては、ほぼ独学で知識を身につけた。測量の仕事をしていた時期は、ウェールズの田舎の野山を歩き回り、安い普及版の図鑑を頼りに植物の種類を見分ける訓練を積んだ。

教職に就いて余暇がもてるようになると、ドイツの地理学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの旅行記や、経済学者マルサスの『人口論』など、手当たりしだいに本を読みあさった。

出典:ダーウィンになれなかった男/p3

ダーウィンとまさに好対照の生い立ち。前回で書いたが、ダーウィンは初期の進化論者エラズマス・ダーウィンを祖父に持つ裕福な家庭に生まれ、大学生活では生物学の基礎を学び、博物学者になる道筋を作ってくれた恩師にも出会えた。かたやウォレスは全くの独学で博物学者と認められるまでになった。これがドラマや小説だったらウォレスが主人公になるだろう。

ウォレスを自然淘汰説に導いた本

生涯を通じて本から多くを学んだウォレスだが、なかでもその後の方向性を決定づけた2冊の本がある。一つは、ダーウィンの『ビーグル号航海記』。まだ進化論につながるような考えはほとんど述べられていないが、生き生きとした筆致でつづられた壮大な旅行記だ。

もう1冊は、もっと大胆な内容で物議をかもした本。1844年刊行で、当時は著者不詳だったベストセラー『創造の自然史の痕跡』である。そこには、進化論に通ずる考え方が書かれていた。ヨーロッパでは長年、天地創造のときに神が万物を創造し、そのときから生物は基本的に変わっていないという「創造説」が主流を占めていた。当時、科学哲学者のウィリアム・ヒューウェルはこんな見解を発表したばかりだった。いわく、「種は自然界に厳然として存在するまとまりであり、ある種が別の種に変異するなどということはあり得ない」

『創造の自然史の痕跡』はこうした見方に反旗を掲げ、生物の「発展の法則」という仮説を論じていた。ある種は周囲の環境しだいで別の種へと変化し、単純な生物から複雑な生物へ、最終的には人間にいたるまで、地球上の生き物は段階的に変化してきたという考え方である。その結果が環境への適応だ。この本も神の働きを否定していないが、神は変化のプロセスを最終的に操るだけで、その役割はより間接的なものにとどまるとしていた。

ダーウィンは根拠が十分ではないとして、この本をあまり重視しなかったが、より若く、感化されやすかったウォレスは、この「独創的な仮説」に駆り立てられ、友人のベイツとともにアマゾンへ標本採集に行く計画を立てる。

出典:ダーウィンになれなかった男/p3

『創造の自然史の痕跡』はスコットランドの出版業者ロバート・チェンバースが匿名で書いたものだ。趣味で集め続けた天地創造説に反する博物学の論文を元にして一つの本にして出版した。地動説のコペルニクスの時代よりは科学に寛容になったヨーロッパだったが、それでも聖書に楯突く主張をした人々はあらゆる攻撃に耐えなければならなかった。チェンバースはそのような攻撃を恐れて匿名で出版した。

ダーウィンは既に自然淘汰説を思いついていたので根拠が十分でない素人の本に興味を示さなかったのだろう。しかしウォレスはおそらく進化論に初めて触れて探求する衝動に駆られた。

上のように探求の旅に出たウォレスはその後も研究活動を続けた。その活動費は膨大な量の標本を売りさばくことで賄った。収集は彼の趣味でもあった。

この収集癖のおかげで、ウォレスはある現象に気づく。同種でも個体によってかなり違いがあることだ。同じアゲハチョウでも、尾羽の長さや白さにばらつきがある。大型のフウチョウであっても、比較的小さな個体もいる。つまり、それぞれの個体には遺伝的な差異があり、その違いがときには見かけの美しさや体の大きさの違いとして、目に見える形で現れるのだ。

こうした現象に気づいたことは、自然選択による進化という理論に行き着くうえできわめて重要だった。ダーウィンは、家畜化された種に個体差があることに気づいていたが、自然界でも広くそのような現象が見られることを知ったのは、8年がかりでフジツボの分類にとりくんでいたときだった。このように遠回りをしていたことも、ダーウィンが自身の理論を発表するまでに長い年月がかかった一因である。

出典:ダーウィンになれなかった男/p5

種の変化の発見

個体の差異に注目したウォレスはフィールドワークとこれまで読んできた書物とを照らし合わせ種の変化の可能性について考えていた。

ウォレスはまた、英国の地質学者チャールズ・ライエルの地質と化石に関する著書についても思い起こした。ある時代に生息した種と、似たような種が次の時代にも続く現象を論じた本である。この二つの証拠、つまり似た種が地理的にも時間的にも近いところに分布するという事実から、ウォレスは種の起源に関する「法則」を導き出した。

「あらゆる種は、その前に存在した、それと密接に結びついた種と、同じ地域に、年代的に続いて出現する」というものだ。

ウォレスはこの考えを中心に論文をまとめ、ロンドンに送った。進化という言葉を使っていなくても、この論文の根底にあるテーマが進化であることは一読すれば明らかだ。「密接に結びついた」、つまりよく似た種同士が、同じ地理的な場所に、年代的に続いて出現するのは、それらの種が共通の祖先の血を引くからにほかならない。ただし、ウォレスがこの時点で確信をもてたのはここまでだ。進化が起きる仕組みについては、まだ解明できていなかった。

出典:ダーウィンになれなかった男/p6

1855年に「新種の導入を調節する法則について」という論文を発表した。この時ウォレスはボルネオ島のサラワクで調査をしていたため「サラワク論文」と呼ばれている。そして上の引用の法則をサワラクの法則として知られるようになった。

ライエルが「ある時代に生息した種と、似たような種が次の時代にも続く現象を論じ」ていることでも分かるように種が変化することが事実だということが「発見」されることは時間の問題だっただろう。ただひとつ宗教がこれを邪魔していたことは前にも触れた。

なにはともあれ、ウォレスは種の変化についての論文を発表した。そしてこのことがダーウィンを進化論の著作を書く方向へ進ませたことは前回書いた。

1854年までにはウォレスとダーウィンは文通をする間柄になっていた。

自然淘汰説にたどり着く

ウォレスは進化論の確立に向けて二つの手がかりを手にしていた。

一つは「種のなかで個体差が生じる」こと、二つ目は「類似した種が同じ場所に年代的に続いて出現する」こと。

種のなかでの個体差が気の遠くなるほどの年月をかけて種の分化につながることまで、ウォレスは到達していた。

ウォレスが第三の重要な手がかりに気がついたのは1858年。テルナテ島近くにいた彼は、それまでに得た二つの手がかりに、経済学者マルサスの『人口論』を突き合わせてみたのだ。繁殖率は変わらなくても食料と生息地には限りがある。そのため、生まれてくる子どもの大半は生き延びられないという考え方だ。

「つまり膨大な破壊が、絶え間なく続いているということ。ぼんやりとそう考えていたとき、ふと疑問がわき起こった。なぜ死ぬものがいる一方で、生き残るものがいるのだろう、と」

ウォレスが行き着いた答えはこうだ。「周りの状況に最もよく適応した個体が生き残る」。この仕組みが働けば、世代を重ねるうちに種全体が周囲の環境に適応する方向に変化していくはずだ。キリンの首はなぜ長いのか。首の短いキリンは環境に適応できずに死んでしまい、子孫を残せなかったからにほかならない。

出典:ダーウィンになれなかった男/p7

ついに自然淘汰説にたどり着いた。1858年6月、ウォレスは原稿を書きダーウィンに送った。これがいわゆるテルナテ論文で、同年7月にダーウィンの論文と合わせて共同論文として発表されてものだ。その後の経緯は前回書いた。

ウォレスはこのような形で発表されることを全く知らされていなかったが、後日この報告を聞くと彼は喜び公営に思ったという。翌年に出版された『種の起源』を読んだ時、ウォレスはダーウィンに尊敬の念を深くした。*2

功名心とは無縁な男

1859年『種の起源』が出版され大反響が巻き起こっていた頃、ウォレスはまだマレー諸島を探検していた。1862年帰国後にダーウィンとすぐに会い、ダーウィンの死まで友人であり続けた。

帰国後のウォレスは生活に困窮するなど多難な人生をおくったが、どこまでも好奇心を満たすことに明け暮れることが出来たのは幸せな人生だったかもしれない。

1889年に自然選択に関する論文をすべて集めて出版したとき、ウォレスは謙虚にも、そのタイトルを『ダーウィニズムダーウィン主義)』とした。自分の名前が残ることなど、彼にとってはどうでもよく、大事なのは理論そのものだった。生涯を通じて、功名心とは無縁な男だった。

大した教育も受けず、経済的にも恵まれなかったが、ウォレスは豊かな人生を送った。地理的にも、知的活動の場でも、まさに好奇心のおもむくままにどこにでも分け入り、迷うことなく自分の道を突き進んだ。科学史に異彩を放つ人物として、その名は後世に伝えられていい。

出典:ダーウィンになれなかった男/p9

*1:それ故に少なからぬ差異はある

*2:ダーウィンになれなかった男/p8