秦が中華統一を達成してから6年目の前215年に対外戦争が始まった。中華統一した時は36の郡であったが、対外戦争の結果10増の48郡になった。
今回は北方の外征について書く。
結果
先に結果を書いておく。
前215年、始皇帝は蒙恬将軍に30万の兵を与えて北方の匈奴を討伐を命じ、オルドス地方(後述)を占拠した。その後、北方防衛のために、同じく蒙恬将軍に万里の長城と直道(後述)の建設を命じた。
目的
キーワードは2つ。
1つ目は、頭曼単于の存在。
始皇帝と同時代の匈奴では頭曼単于(?-前209)という強いリーダーが登場していた。頭曼(チュメン)とは匈奴のことばで万人の長の意味であり、単于とは広大な天を表す。
頭曼単于は、冒頓単于の父。冒頓単于は前漢の高祖(劉邦)を打ち負かして北アジアに大勢力を張った傑物。
頭曼単于の時代の北方地域では匈奴以外にも幾つかの勢力がいたようだが、その中でも匈奴は、秦が警戒しなければならないほどの大勢力になっていたようだ。そのことは将軍・蒙恬に30万の兵を持たせたことや長城を築いたことでも分かる *1。
頭曼単于のようなリーダーが誕生したのは、始皇帝による中華統一に呼応した事態だと考えられる。
遊牧民の生業は遊牧と交易と略奪だ。小さな邑・都市を襲うのなら大軍は必要ないが、統一体となった秦帝国に小規模な勢力で略奪を働いたら、絶滅を覚悟しなければならない。そういうわけで、遊牧民側も大軍を編成して挑まなくてはいけなくなった。ただし、匈奴が他の民族を従えて統一体になるのは冒頓単于の代になってからだ。
2つ目のキーワードはオルドス。
オルドス地方とは、中国・内モンゴル自治区南部の黄河屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた地方。[中略]
オルドスという地名は、明代以降この地に住み着いたモンゴル人の部族「オルドス部」に由来する。
内モンゴル自治区におけるオルドス地方の位置。
オルドスは今でこそモウス沙漠やフッチ沙漠が広がっているが、当時は豊かな草原地帯であり、匈奴と秦との争奪地であった。秦は軍馬を放牧する牧場の地として占拠したかったのだ。
ただし、やはりオルドス占拠の第一の目的は安全保障の為だと思われる。
そのように言える根拠は「直道」だ。
直道
出典:【6月12日配信】皇帝たちの中国 第2回「皇帝は中国最大の資本家」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
- ↑の地図の真ん中の志丹の上あたりに東西に長城が走る。
この直道は首都・咸陽の北の郊外・雲陽に発してオルドス高原の北限の九原まで延びる。その距離1800里(約700km)、軍馬で走れば数日の距離。道幅は平均約30m、最大で50m。オルドスに敵が現れたら咸陽に配置している部隊をすぐさま出動できる態勢を作った。 *2
上の地図を見れば分かるようにオルドスは咸陽とそう遠くない。この遊牧民の垂涎の「豊かな草原地帯」に匈奴の本拠地が置かれたら堪らない。それに長城があれば安全保障面は万事解決といかないことは、前漢の高祖が匈奴の冒頓単于に毎年貢ぎ物を贈っていたことからも分かるだろう。
直道と長城の建設の責任者は蒙恬将軍だった。建設に携わっていた人々は当然のことながら防衛隊も兼ねている。
万里の長城
蒙恬が建設にあたったと言われている万里の長城。始皇帝が作ったとも言われる。これには幾つもの注意書きが必要になる。
1つ目。現存の万里の長城は始皇帝の時代に作られたものではなく、明代に作られた。明代に建設(修復)された長城は秦代のものよりも南下している。
2つ目。蒙恬が建設したのはオルドス地方だけで、その西側は秦、趙、燕の長城につなげたものである。
3つ目。秦代の長城と現存の長城は見た目も違う。秦代のものは版築を用いた土の壁と、石を積み重ねたものがある。鶴間氏によれば、高さ4m、幅4m*3。現存する長城のイメージ(長城の上に通り道がある)とはかなり違う。
外征のきっかけ
話が前後するが、外征のきっかけについて。
始皇32(前215)年第四回の巡行で、始皇帝ははじめて北辺を回り、上郡から咸陽に戻った。匈奴の動きをみずから察知して、匈奴を攻撃するきっかけを得ようとしたと思われる。もちろん丞相李斯を置いてこのようなことを仕掛ける人間はいなかった。その意を受けたかのように、燕人廬生が『録図書』を奏上した。そこには「秦を滅ぼす者は胡なり」とあった。図書とは河図洛書のことで、河水と洛水から現れた予言書を意味する。のちの後漢の儒者の鄭玄(じょうげん)は、胡は二世皇帝胡亥のことであり、秦は人名であることをしらずに北方の胡に備えたと深読みをした。しかし胡とは単純に匈奴のことであり、李斯は匈奴を攻撃する正当な理由を予言書に求めたのである。すぐさま始皇帝は蒙恬将軍に30万の兵を発動させて胡(匈奴)を攻撃し、河南の地を奪うことになる。
出典:人間・始皇帝/p133-134
こういったインチキは中国史では よく見られるが、他の地域も探せばたくさん出てくるのだろう。