ようやく二里頭文化の中身について書いていく。
二里頭遺跡から発した文化を二里頭文化と呼ぶ。現代中国では二里頭文化を「夏王朝」だと断定している。日本では賛否があるがその比率はわたしには分からない。
この国家は謎だらけでどのような国家だったのか詳細は分かっていない。
時代区分
- 1期(前1800-1740年)
- 2期(前1740-1610年)
- 3期(前1610-1560年)
- 4期(前1560-1520年)
以上の時代区分は宮本一夫著『中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)』*2に載っている夏殷周三代断代工程*3の時代区分。
宮本氏によれば、1期は「新砦文化」に並行する。
新砦文化とは黄河と淮河のあいだにある新砦遺跡*4を中心とした文化。新砦文化の時期、この遺跡は周辺で最も大きく、周囲を支配していたと考えられている。
これに対して、二里頭遺跡1期は「小規模な集落が2、3散在する程度の洛陽平原のなかでもありふれた場所にすぎなかった」*5。
二里頭遺跡2期に入って、この遺跡が周囲の中心遺跡となる。二里頭遺跡が国家と呼べるほどになるのは2期に入ってからだということだ。
さらに、青銅器が本格的に使用されるのは3期に入ってから、という。後期新石器時代の終わりを前2000年としていたが、結構なズレが生じることになる。
大雑把な時代区分だと二里頭文化は「初期国家の始まり」で、且つ「青銅器時代の始まり」でもあるのだが、詳細を見るとズレがある。ココらへんはどの地域どの時代でも有る話だと思う。
1-2期/国家誕生
二里頭遺跡の1期については上記の通り。「Erlitou culture#Phases - Wikipedia英語版」によれば、1期の遺跡の範囲の面積は1km²*6。
2期の範囲は、東西の最長が2400m、南北の最長が1900m、面積は3km²*7、人口約11000人。
出典:江村治樹/河南竜山・二里頭・殷周都市の特質/2011(pdf )
- 長方形の宮城の城壁は3期に造られる。
上の地図の2号(宮殿址)の下に3号宮殿址がある。2号宮殿址は3期、3号宮殿址は2期のもの。
2号宮殿址は南北150m東西50mの大型建築で、回廊で囲まれた北院・中院・南院の中庭から成り、中院が主殿、その他は中型墓が5基配置され、銅器や玉器などの副葬品が遺っていた。
3号宮殿址と同時代には、他に5号宮殿址、祭祀区域、青銅工房区域が発見され、道路の区画を伴う都市計画があったことを確認できる。(宮本氏/p313-314)
宮本氏は、林巳奈夫氏の首長を参考にして、2期から宮廷儀礼が始まった可能性があった可能性があるとしている。(p316)
宮廷儀礼とは宗廟(始祖の廟)で行う祖先祭祀と自然神に対する儀礼を結びつけたもの、らしい。(同ページ)
この宮廷儀礼とは、まさしく為政者の権力を始祖の廟において行使し、その権限を正当と認めさせるものであったのであろう。こうした儀礼の存在は、まさに王権に近い状態であったと考えざるを得ないのである。
出典:宮本氏/p316
宮本氏はここを重要視して、新石器時代後期(末期)の強大な権力を持つ首長の「首長権」と二里頭文化以降の王権を分けようとしている。
3-4期
3期は内部だけではなく、外部へも発展していった時期だ。
3期で上の地図の宮城の城壁が築かれる。この時代に1号宮殿址と2号宮殿址の大型建築物が造られる。1号は9600m²、2号は4200m²。人口は約24000人(Erlitou culture#pheses - Wikipedia英語版 )。
3期に青銅器が本格的に採用される。青銅器は中期新石器時代には中国西北から導入されていたようだが、3期以前は(または同時代の中原以外の場所では)工具・武器・装飾品に使われる程度だった。
中原ではこれを身分階層を表すものとして採用された。製造技術も発達した。
二里頭遺跡に置いては王墓に相当するような大型墓が発見されていない(未発見なのか存在しないのかも分からない)らしい(p322)が、墓の副葬品を見ると最上位の階層にだけ青銅器(酒器や楽器、武器など)が用いられている。さらにこれらの青銅器は二里頭遺跡でしか発見されていない。つまり、青銅器の副葬品が身分標識の役割を持っていることになる。(p320-324)
さて、外側への発展を見てみよう。
出典:宮本氏/p344
この図の網掛け部分が直接支配していた範囲でその外側(王湾3期文化より一周り大きくした範囲)はおそらく服属した首長たちが支配していたのだろう。土器の型より3地域に分けられているようだが、これが政治的な区分と重なるかどうかは明確ではない。
宮本氏によれば、中条山脈は銅鉱山や岩塩が豊富な場所で二里頭遺跡の重要な物資の供給地であったと考えられる。また玉器の材料も文化圏内から「貢納」されたのかもしれない。
文化面での広がりは四川や遼河西部に及んでいた。これらの地域では土器など二里頭文化を模した遺物が発見されている。(p345-346)
また二里頭遺跡から遠く離れた場所から、交流の痕跡が政治的・文化的な広がりとは関係なく散見される。玉璋と呼ばれる玉器の一種の遺物が陝西省北部、四川省成都平原、長江中流域、東南沿海部、広東、香港、さらにベトナム北部の遺跡から見つかっている。(世界歴史体系 中国史1 先史~後漢/山川出版社/2003/p71-72(西江清高氏の筆))
上の地図では、二里頭文化圏の外に先商文化(下七垣かしちえん文化)と岳石文化*8が描かれている。これらの文化は二里頭文化に服属していない別の文化圏だ。
4期になると衰退して廃絶する。人口は約20000人*9。衰退の詳細は分からないが、二里頭文化は殷の勢力である二里岡文化に取って代わられた。王朝が交代した。
*1:後期新石器時代の大集落(囲壁集落)を国家とする研究者もいるようだ
*3:夏商周断代工程。夏商周年表を作成したプロジェクトを指し、具体的な年代が判明していなかった中国古代の三代について、具体的な年代を確定させた中華人民共和国の第九次五カ年計画のプロジェクトの1つ。夏商周年表プロジェクト - Wikipedia 参照
*4:前回の記事「二里頭文化② なぜ洛陽盆地は生き残れたのか#王湾3期文化から二里頭文化へ」で少し触れた。地図も参照。
*5:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/p163(西江清高氏の筆)
*6:キロ平方メートル
*7:キロ平方メートル