歴史の世界

兵家(13)呉子

呉子』の著者について

呉子
中国の兵法書武経(ぶけい)七書の一つ。呉起の著作といわれてきたが、門下の作か、後人の手になる偽書か、諸説あって定まらない。『韓非子(かんぴし)』や『史記』によれば、『孫子』と並んで、戦国・秦漢(しんかん)の世に普及し、広く人々に読まれていたとあるが、それが現行の『呉子』6編であるかどうかもはっきりしない。中国最古の図書目録『漢書(かんじょ)』の「芸文志(げいもんし)」には『呉起』48編とみえ、宋(そう)の晁公武(ちょうこうぶ)(1105―1180ころ)『郡斎(ぐんさい)読書志』には「説、料敵、治兵、論将、変化、励士、凡(およ)そ六篇(ぺん)三巻」とある。また同書に「この六篇は唐の陸希声(りくきせい)が整理編集した」とあることから、編名に若干の相違はあっても、現行本が唐代以後読み継がれてきたとみなしてよさそうである。「漢志」所載の48編との関係についても、一部残存説、省略説、別個説、圧縮説など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。

出典:呉子(ごし)とは - 日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館>コトバンク

呉子』は戦国初期の魏の武侯に対して、呉起が説いた言葉を記録した形になっているという*1

この記事では便宜的に著者は呉起とする。

呉起について

呉起については『史記孫子呉起列伝に詳しく、呉起 - Wikipedia に簡潔に書いてある。

ポイントだけ挙げる。

  • 戦国時代初期の人。
  • 孔子の弟子の曽子の下で学ぶ。
  • 最初に魯の将軍にまでなった後に、当時の覇者である魏の文侯に使えた。
  • 文侯の死後、後継の武侯にも仕えたが、政争に破れて楚に逃れる。上述のように『呉子』は呉起と武侯の問答の形式をとっているため、『呉子』の著者が呉起自身であったなら、成立時期は楚に逃れる前ということになるのではないか。
  • 楚では悼王の治世に令尹(宰相)となり、国政改革を行った。魏では文侯の時代より専制国家化(富国強兵、中央集権、専制君主)がされていたが、悼王は呉起を使って楚を専制国家化しようとした。
  • 悼王の死後、呉起はただちに改革反対勢力(貴族たち)に殺害される。

呉起の国政改革は魏の文侯治世の宰相・李克と同等のものだった。李克は法家に分類されるので、呉起の政治的側面は法家と言えるかもしれない。

孫子』との比較

孫子』は、兵士の戦意が乏しく、兵士は妻子や故郷を慕って、隙あらば逃亡しようとする状態を前提に兵学を組み立てた。そのため、兵士の勇戦奮闘には全く期待せず、将軍がめぐらす詭詐・権謀に勝利の鍵を求めた。これに対して『呉子』は、[中略] 充分に訓練を施した精鋭部隊を組織し、その勇戦力闘によって勝利を得ようとした。

出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p242

孫子』の兵法は「兵は詭道なり」「最上の勝利は戦わずして勝つこと」とあるように、戦闘自体よりも、政治やスパイ活動を含んだ戦略に重きを置いている。

これに対して『呉子』は兵隊の力のみに焦点を当て、「如何に勝てる兵隊をつくるか」が全体の課題となっている。

呉子』に応変篇がある。臨機応変の「応変」。村田孚によれば、「孫子の応変が老子の思想に基づくものであるのにたいし、呉子のそれは法家思想を根底としている」*2

応変篇の冒頭の一部を引用。

「戦いにあたっては、合図――命令伝達の方法が重要です。[中略]

従わない者は厳重に処罰します。かくて、全軍が威令に服し、命令通り動くならば、いざというときも混乱せず、この軍の前には強敵はなく、堅陣はないということになるでしょう。」

出典:村田孚(訳)/中国の思想[Ⅹ]孫子呉子/1996/徳間書店/p124

孫子・呉子 (中国の思想)

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  • 出版社/メーカー: 徳間書店
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このように『呉子』の用兵が自軍をより強化することを説くのに対し、『孫子』は敵の状況に応じての用兵を説く、すなわち相手を詐術で貶めて相対的に勝つことに重点を置いている。

内容

現在、私たちが読める『呉子』は序章と6篇のみ。

  • 序章 - 呉起と武侯との出会いを描いていて一番物語りに近い。篇に加えず
  • 図国 - 政治と戦争について記す
  • 料敵 - 敵情の分析の仕方を記す
  • 治兵 - 統率の原則を記す
  • 論将 - 指導者について記す
  • 応変 - 臨機応変(法家思想)について記す
  • 励士 - 士卒を励ますことについて記す

出典:呉子#内容 - Wikipedia

図国篇は政治と戦争について書かれているが、富国強兵政策を説いていると考えれば良いと思う。図国篇の冒頭は「古来、国家を治めようとする者は、必ず第一に臣下を教育し、人民との結びつきを強化した。団結がなければ戦うことはできない」。結局のところ、「如何に勝てる兵隊をつくるか」という話だ。

もう一つだけ。励士篇。

「励士」は文字どおり「士をはげます」。『史記』には、呉子が部下の膿を吸い、感激したその兵士が死地におもむくエピソードが記されているが、本篇はこれを裏書きする。

出典:村田氏/p178

励士篇の中身の引用ではなく、上の『史記』の有名なエピソードを引用。

呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。将軍がじきじきにあんな事をやってくだされているのに、何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う。この逸話(「吮疽の仁」と呼ばれている)の示すように兵士たちは呉起の行動に感激し、呉起に信服して命も惜しまなかったため、この軍は圧倒的な強さを見せた。

出典:呉起 - Wikipedia

この篇では兵士の待遇の仕方を説いている。正しく兵士を励ますことができれば、兵士は十倍の敵をも撃破できるとする。

日本における『孫子』と『呉子』の評価

孫子十三篇、懼字(くじ)を免れず」(大江家所伝『闘戦経』第十三章)と、『孫子』を臆病者の兵学だと非難した日本兵学も、『呉子』の側には高い評価を与えている。

全軍一眼となって円陣を組み、まっしぐらに敵陣に突入する戦術を特技とし、「後の負にもかまはず、さしかゝりたる合戦をまはすまじき」(『甲陽軍鑑』品第五十三)兵法だと評された上杉謙信の勇戦奮闘を説く『呉子』は、日本兵学の精神に近いとして、肯定的に評価されたのである。

出典:浅野氏/p242

浅野氏は別のページで《身分戦士たる武士を中心に軍隊が構成されてきた日本においては、少数精鋭主義の名の下に、「兵道とは、能く戦うのみ」と、直接的戦闘での精強さや勇敢さのみが尊重される傾向が強かったのである》*3と書いている。

ただし、現代日本においては『孫子』が有名なのに対して『呉子』はまずその存在を知っている人すら少ないと思われる。



*1:村田孚(訳)/中国の思想[Ⅹ]孫子呉子徳間書店/1996/p124

*2:村田氏/p166

*3:p210